狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

慰霊の日に「デタラメ沖縄戦記」、平和の礎 41人追加刻銘 県出身38人 総数24万1632人

2021-06-18 07:46:33 | ★改定版集団自決

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毎年、慰霊の日(6月23日)前後になると沖縄2紙は、沖縄戦特集を組む。

それも、決まって「悪逆非道な日本軍」を印象付けるデタラメ記事だ。

今回は、事実上の沖縄戦は1945年6月23日に終わったはずなのに、平和の礎に刻銘される戦没者が現在でも続いている奇妙な記事だ。

平和の礎の発案者であるドキュメンタリー作家の上原正稔さんによると、戦没者数はデタラメだという。

そりゃーそうだろう。

ゾンビじゃあるまいし、毎年戦没者が現われたらたまったものではない。

 

沖縄タイムス紙面掲載記事

平和の礎 41人追加刻銘 県出身38人 総数24万1632人に

2021年6月18日 05:00有料

 糸満市摩文仁の平和祈念公園内の「平和の礎」で17日、新たに追加刻銘を終えた石版が設置された。作業員がクレーンでつり上げ、慎重に取り付け作業をした。本年度は県出身38人、県外出身3人の計41人が追加刻銘された。総数は24万1632人。

 戦後50年の1995年に建立された後、毎年追加刻銘が続いている。同公園を管理する県平和祈念財団常務理事兼事務局長の松川満さんは「長いこと待たされたという方もおられるだろう。26年、お待たせしましたという気持ちだ。亡くなった魂に哀悼をささげたい」と話した。

(写図説明)クレーンを使い、刻銘板を設置する作業員=17日、糸満市摩文仁の平和祈念公園

 

きょう慰霊の日 糸満市摩文仁で戦没者追悼式

2019年6月23日 05:00

慰霊の日を前に平和の礎に手を合わせる遺族=22日午後5半ごろ、糸満市摩文仁の平和の礎

 沖縄県は23日、「慰霊の日」を迎えた。おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦となり、多くの尊い命や文化遺産を奪った沖縄戦から74年。激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では、午前11時50分から県と県議会主催の沖縄全戦没者追悼式が開かれる。20万人以上の戦没者に思いを寄せ、恒久平和を願う。

 追悼式では玉城デニー知事が平和宣言をするほか、糸満市立兼城小6年山内玲奈さん(11)が自作の詩「本当の幸せ」を朗読する。安倍晋三首相や関係閣僚、衆参両院議長も出席する。

 犠牲者の名前を刻んだ「平和の礎」はことし新たに42人が追加され、総数は24万1566人となっている。22日も雨が降りしきる中、花を手向けたり、手を合わせたりする遺族の姿が見られた。

 幼い姉を亡くした会社員の酒屋常男さん(65)=浦添市=は孫と訪れ、姉・フサ子さんの名前の前で手を合わせた。「礎があるだけで姉の思いが残っている気がする。こうして前に立つと伝わってくるものがある」と感慨深そうな表情を見せた。

 子や孫とともに訪れた野原菊枝さん(82)=那覇市=は祖父・西銘宜保さん、父・宜盛さんの刻銘板に水を掛け、冥福を祈った。毎年訪れているという野原さんは、手を合わせながら戦時中の様子を孫に伝えた。

 

                  ★

先ず平和の礎の発案者の上原正稔さん自身にデタラメの戦没者数を」暴いてもらおう。

 

 

嘘にまみれた「平和の礎」刻銘戦没者は水増し、発案者の上原正稔氏が指摘 沖縄、2019-06-23

上記過去ブログの引用です。

 

「平和の礎」刻銘戦没者は水増し、発案者の上原正稔氏が指摘

 23日は組織的な沖縄戦が終結した日。沖縄県は、沖縄戦全戦没者追悼式典を正午、糸満市摩文仁の沖縄県平和祈念公園で開く。戦没者名を刻んだ糸満市摩文仁の「平和の礎」に、2019年度は新たに42人が追加刻銘され、刻銘者総数は24万1566人となった。そのうち、沖縄県出身者は約15万人に上る。

平和の礎

「平和の礎」に沖縄戦などの犠牲者名の刻銘板を取り付ける作業員=17日午前、沖縄県糸満市

 「平和の礎」発案者で戦争ノンフィクション作家の上原正稔氏はこのほど、県庁で記者会見を開き、「平和の礎に刻まれている刻銘者の過半数は沖縄戦と関係のない人々で、沖縄戦で亡くなった県出身者は5万5千人程度。意味もなく、県民の犠牲者を増やす嘘はやめてもらいたい」と訴えた。

 平和の礎は、「世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑『平和の礎』を太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建設する」という趣旨で1995年に建設された。

 県出身者の刻銘対象は、①満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡した者②45年9月7日以後、県内外で戦争が原因で1年以内に死亡した者――と規定されている。

 沖縄県生活福祉部は96年、沖縄戦犠牲者は20万656人と発表。総務省もこの数字を採用している。

 戦後、国は、軍人・軍属の遺族を支援するための「戦傷病者戦没者遺族等援護法」で、民間人までも「戦闘参加者」と位置付け、約5万6千人の沖縄県民が援護の対象となった。上原氏は、この数字をもとに、「嘘の申請をした人を差し引けば、県民の犠牲者は5万5千人を上回ることはない」と断言した

 また、戦前の昭和19年の人口と戦後の昭和21年の人口を勘案して、一般県民の約9万4000人が犠牲になったと推計されていることについて、上原氏は「戦前に本土や台湾に疎開してしばらく帰らなかった人が多いことが一切考慮されていない乱暴な数字だ」と批判。離島の粟国村を例に、「満州事変から戦後までの粟国村出身者を刻銘した結果、沖縄戦における20人弱の戦没者が601人に膨れ上がっている」と指摘した。

 上原氏は今年3月、県議会に正しい戦没者数を把握するよう意見書を提出。5月には、政府宛てにも同様の意見書を提出した。

 (沖縄支局 豊田 剛

               ★

 

■デタラメな「戦争マラリア」

戦争マラリアとは誤解を招く左翼の造語だ。

沖縄戦で石垣島が米軍の艦砲射撃の標的のなるのを恐れた日本軍は、少ない輸送船を動員、「血の一滴」と言われた石油燃料を使って石垣市民を西表島に疎開させた。

結果的に、米軍の艦砲射撃は免れたが当時沖縄本島にも生息していたマラリア蚊に刺され、マラリアを発症、治療薬の無い当時、死亡する者もいた。

これを称して沖縄2紙は「戦争マラリア」という造語を逸らせ、あたかもにHん軍がマラリア蚊を培養して石垣市民を罹患させたような印象記事を書く。

ちなみにマラリアは沖縄本島にも患者がいたし、日本全土でマラリアが絶滅するのは米軍が特効薬・キニーネを配給するようになった戦後のことである。

沖縄タイムス紙面掲載記事

戦争マラリア悲劇朗読 石垣出身高橋さん 長野で会企画 「平和の思い伝える」

2021年6月18日 05:00有料

 【八重山】戦時中に波照間島の住民が強制疎開した西表島の岩に刻まれた「忘勿石 ハテルマシキナ」を題材に戦争マラリアの悲劇を伝える少年長編叙事詩「ハテルマシキナ」の朗読会が19日、長野県松本市で開かれる。「忘勿石 ハテルマシキナ」は、60人超の児童の死を見守った波照間国民学校(当時)の識名信升校長が島を引き揚げる際に岩場に刻んだ。朗読会を企画した石垣市出身で同県安曇野市に住む高橋(旧姓・新庄)喜和さん(74)は「戦争マラリアと識名先生が岩場に刻んだ平和希求の思いを、多くの人に伝えたい」と話す。

 高橋さんは移住して20年が過ぎた頃、児童文学作家の故桜井信夫さんの少年長編叙事詩「ハテルマシキナ」で初めて知る史実に驚くとともに「識名校長」の名を確認し、強い衝撃を受けた。

 識名校長は戦後、高橋さんの出身校・石垣中の校長を務めた。卒業後に大阪の自動車整備場で働いていた高橋さんを前触れもなく訪ねてきて、励ましてくれたという。叙事詩には、識名校長が軍の前に立ちはだかる姿も描かれていた。高橋さんは「勇気ある行動と私を励ましてくれた先生と完全に重なった」と話した。

 語り継ぐことを決意した高橋さんは読み聞かせのボランティアをしている妻や知人らの協力を得て朗読会を企画し、開催にこぎ着けた。

 現地に建立された「忘勿石之碑」はおととしの台風で破損被害を受けて現在、修復期成会による募金活動が進む。周知活動を通して朗読会を知った期成会役員で、鑑賞を予定している島村賢正さん(71)は「長野や近隣県に住む友人らに鑑賞を呼び掛けてほしい」と話している。

 朗読会は松本市音楽文化ホールで19日午後1時から。入場料は千円。

(写図説明)岩場に刻まれた「忘勿石」(右)と識名信升校長の慰霊碑の写真パネルを紹介する島村賢正さん=14日、石垣市内

 

沖縄タイムス紙面掲載記事

潮平正道さん死去 88歳 戦争マラリア伝える

2021年4月19日 05:00有料

 八重山戦争マラリアを語り継ぐ会会長で九条の会やえやま共同代表を務めた潮平正道(しおひら・まさみち)さんが18日午後4時5分、病気療養中のところ石垣市内の病院で死去した。88歳。石垣市石垣出身。自宅は石垣市石垣87の3。告別式は21日午前11時~正午、石垣市真栄里570の8、サンレー石垣紫雲閣で。喪主は妻俊(とし)さん。

 1945年4月、旧制県立八重山中学校入学と同時に鉄血勤皇隊に動員され軍作業に従事。小学校などで戦争体験の講話を続けた。

 2010年6月、八重山戦争マラリアを語り継ぐ会の結成に関わり、20年3月に会長に就いた。証言集「命の輝きを求めて-マラリアを生き抜いた人々の証言」のほか、八重山の戦争を記録した自身の絵本「絵が語る八重山の戦争-郷土の眼と記憶」を発刊した

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腐臭を放つ大江健三郎、大江・岩波は裁判には勝ったが真実の法廷では敗れた。

2021-06-18 00:06:59 | ★改定版集団自決

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来週の水曜日(23日)は慰霊の日である。

毎年、この時期になると沖縄2紙が、「悪逆非道な日本軍」をテーマにした沖縄戦特集を掲載する。

過去ブログをサルベージして「大江・岩波集団自決訴訟」について引用する。

腐臭を放つ大江健三郎 2015-06-23

 
本日は「慰霊の日」。
 
今年は終戦70年の節目の年とあって、本日の沖縄タイムスは合計10面を使って沖縄戦の大発狂。
 
沖縄タイムスの発狂見出しにに逐一対応するのはバカバカしいので、一面の見出しのみを紹介する。
 
■一面トップ
 
戦後70年きょう慰霊の日
 
「戦争は人間性奪う」
 
戦争体験者70人のメッセージ
 
(以下省略) ふー、やれやれ。
 
              ☆
 
昨日のエントリーで琉球新報のデタラメな社説を紹介した。

大江・岩波集団自決訴訟の最高裁判決を捻じ曲げて、あたかも最高裁が「集団自決は軍の命令による」と認定したかのように報じるデタラメな社説のことだ。
 
最高裁で被告・大江側の勝訴が確定したのだから、軍命も確定したものと事実誤認していた多くの読者から問い合わせがあった。
 
そして、改めて新聞の影響力の大きさに慨嘆した。
 
たかが新聞、されど新聞である。
 
 
最高裁判決が出た当時の当日記から、サルベージしてみよう。
 

腐臭を放つ大江健三郎氏の自己保身 2011-04-24

 
最高裁判決文を紹介します。
 
判決はたったこれだけです。
上告より2年4ヶ月も待たせて、これだけかとも思うのだが、独自の判断を避けて大阪高裁判決を丸呑みしたのなら、所詮こんなものだろうか。
 
高裁判決が約半年の短期間で判決を下したのに対し、最高裁が2年余も時間をかけたのは、最高裁といえども、いや、むしろ最高裁だからこそ「戦後民主主義」の呪縛からは逃れきれず、いろいろ逡巡した結果だろう。 
 
 今我が国は、国民が選んだ民主党政権の下で未曾有の国難にあえいでいる。 最高裁判が「戦後民主主義」的判断を下すということが、現在の政治状況を見事に象徴している。
 白木勇裁判長以下前裁判官の名前も記しておいたので、次の選挙では不適格裁判官として全員辞職させよう。

 ■最高裁判決文

 

  決定

当事者の表示    別紙当事者目録のとおり。

 

上記当事者間の大阪高等裁判所平成20年(ネ)1226号出版差し止め等請求事件について、同裁判所平成20年10月31日に言い渡した判決に対し、上告人兼申立人らから上告及び上告心理の申し立てがあった。 よって、当裁判所は次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

本件を上告審理として受理しない。

上告費用及び申し立て費用は上告人兼申立人の負担とする。

理由

1上告について

民事事件について、最高裁判所に上告できることが許されるのは、民訴法312条1項又は2項所定の場合に限られるところ、本件上告理由は、違憲及び理由の不備をいうが、その実質は事実誤認又は単なる法令違反を主張しているものであって、明らかに上記各項に規定する自由に該当しない。

2 上告受理申し立てについて

本件申し立ての理由によれば、民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。よって、裁判所官全員一致の意見で、主文の通り決定する。

 

 平成23年4月21日

最高裁判所第一小法廷

裁判長裁判官   白木  勇

     裁判官   宮川  光治

     裁判官   櫻井  龍子

     裁判官   金築  誠志

     裁判官   横田  尤孝

                              ★


喜ぶ大江さん「強い励ましに」
 沖縄タイムス2011年4月23日


   【東京】沖縄戦をテーマにした「沖縄ノート」で「集団自決(強制集団死)」の日本軍強制の記述をめぐり、訴訟を闘い続けたノーベル賞作家の大江健三郎さん(76)は22日、東京地裁の司法記者クラブで会見し、軍の関与を記述した同作は名誉毀損(きそん)にあたらないなどとする一、二審判決の確定を受け、「(沖縄戦の評論は)一生の仕事と考えていたので(裁判は)苦しかった。最高裁の決定は力強い励ましになる」と喜びを語った。

 原告の上告を退ける最高裁の決定は、22日午前に関係者へ郵送で知らされた。同11時半ごろ電話で弁護士から知らせを受けたという大江さんは「ぼんやりして、(係争中の)5年間を考えていた」と突然の知らせを振り返った。

 会見で、大江さんは50年余りの作家活動の中で、沖縄ノートは「広島ノートと併せ、一番大切な本」と表現。沖縄戦や米軍基地などを負担してきた沖縄を、日本人が認識し直すために著作を続けてきたと説明し、「この本のことを覚えていてもらいたい、高校生にも読んでもらいたい。今あるのは、そういう気持ちだけ」と静かに語った。(略)

                ☆

昨日の沖縄2紙の狂乱振りを見ていると、「軍命」「強制」「教科書」と書いた大見出しが躍り、まるで最高裁判決で「軍命」「や「軍の強制」が確定し教科書にもおおっぴらに「軍の命令により集団自決が起きた」とかけるかのような印象を受ける。

歪曲と捏造の記事で溢れた紙面で連日叩かれたケビン・メア氏の心境が理解できるような気がする。

ところが一夜明けた本日の沖縄タイムスにはメア発言はともかく、昨日の狂乱が嘘のように集団自決関連の記事は一行もない。

筆者も複数の知人友人から電話をもらい「残念」の言葉を聞いたが、確かに出版差し止めと被告の謝罪が適わなかったのは残念であるが、両隊長が命令したり強制して集団自決が起きたのではないということは、既に大阪高裁で確定済みだったのでそれほど落胆したわけではないと答えておいた。

事実、負け惜しみではなく、両隊長の名誉回復は既に大阪高裁で確定した、と何度もエントリーしているので古くからの読者ならご存知のことと思う。

(省略)

それで、当日記では沖縄タイムス記事の次の「歪曲」部分を取り上げてみる。

会見で、大江さんは50年余りの作家活動の中で、沖縄ノートは「広島ノートと併せ、一番大切な本」と表現。沖縄戦や米軍基地などを負担してきた沖縄を、日本人が認識し直すために著作を続けてきたと説明し、「この本のことを覚えていてもらいたい、高校生にも読んでもらいたい。今あるのは、そういう気持ちだけ」と静かに語った。

このくだりを見た高校生は、最高裁が大江氏の問題の著書である『沖縄ノート』の内容の真実性を最高裁が認めたと判断し、そのデタラメな本の内容を鵜呑みにしてしまう恐れがある。

最高裁は、むしろ『沖縄ノート』には誤りがあるが、執筆当時の40年前には「軍命があった」という噂が流布し、それが検証も無いまま「定説」となっていたので、大江氏が「軍命」を「真実と思っても仕方が無かった」と、判断しているのである。(「真実実相当性」)

大江氏は最高裁がいかがわしいと判断した「沖縄ノート」を高校生にも読んでほしいと言っているのだ。

この発言を見て、高校生がデタラメを信じることに何ら心の痛痒を感じない保身に汲々とし老作家の腐臭を感じ取る。

 

4年前の「11万人集会」のとき、沖縄2紙に踊らされて参加した県民の大多数は集団自決問題が何であるかを知っていなかった。

「集団自決があった事実を教科書から削除するのはけしからん」といった基本的な事実誤認をしている県民は多く、事実、当日記にもそのような罵声を浴びせるコメントも多数あった。

ところが昨日の琉球新報の「識者評論 岩波・大江勝訴」と題する記事を」見て仰天した。

沖縄平和ネット代表世話人の村上有慶氏が、こんなことを言っているのだ。

裁判は原告の梅澤氏本人が命令を出したかというより、、沖縄戦の「集団自決」の有無を問う訴訟を起こすこと自体が目的で、「集団自決」はなかったとする教科書を書き人たちをバックアップするという政治的な動きの中にあった。」(琉球新報 4月23日)

4年前の沖縄2紙の歪曲報道に踊らされた気の毒な県民ならともかく、顔写真つきで新聞の「識者評論」をお書きになるエラ~イ先生が「『集団自決』の「有無を起こす裁判」があったと信じているのが驚きである。

いや、いや識者の先生がこんな基本的な間違いをするはずはない。

きっと、琉球新報が読者を「原告側は明らかな事実を教科書から消し去ろうと目論む卑劣な集団」という深謀で印象操作したものと考えるが、どうだろうか。

 

以下は池田信夫氏のブログの引用です。

大江健三郎の犯罪

 沖縄の集団自決をめぐって争われた名誉毀損訴訟の最高裁判決で、被告の大江健三郎氏と岩波書店が勝訴した。これまでの経緯を知らない人が、大江氏が正しかったと誤解するのもよくないので、少しコメントしておく。
問題の訴訟は、2007年の記事でも書いたように、赤松嘉次大尉らを集団自決を命じた屠殺者だと罵倒した大江氏の『沖縄ノート』の記述が事実かどうかをめぐって赤松大尉の遺族などが起こしたものだ。これについては曾野綾子氏が現地調査をした上で「事実ではない」と指摘し、大江氏側も問題の記述が伝聞で確認できないことは認めた。

一審の大阪地裁は「軍の命令があったと証拠上は断定できないが、関与はあった」という理由で原告の申し立てを退けた。これは「ノーベル賞作家」に配慮した問題のすり替えである。原告は赤松大尉が集団自決を命令したかどうかを問うているのであって、軍の関与の有無を争ってはいない。軍の関与なしに手榴弾を入手することは不可能である。

二審判決も事実関係を曖昧にし、命令があったかどうかはわからないが大江氏が命令を「真実と信じる相当の理由があった」という理由で、出版を差し止めるほどの事由はないとして控訴を棄却した。たしかに出版差し止めというのは、民主主義国では軽々に認めてはならないが、原告が差し止め訴訟を起こしたのは、大江氏側が記述の修正をしなかったからだ。

裁判を通じて明らかになったのは、赤松大尉は住民を「屠殺」するどころか、集団自決を思いとどまるよう伝えていたということだった。裁判では思わぬ事実も出てきた。大江氏を支援する先頭に立っていた金城重明牧師(元沖縄キリスト教短大学長)が、渡嘉敷島でゴボウ剣で数十人を刺殺したことを法廷で認めたのだ。こうした集団的な狂気が、どうして生まれたのかを追究するのが作家の仕事だろう。

戦争は軍部が暴走して起こしたもので、国民は無垢な被害者だという大江氏の幼稚な歴史観は、軍はすべて悪だという「平和憲法」的な思い込みでしかない。集団自決をもたらしたのは軍ではなく、人々を駆り立てる空気だったのだ。旗を振って戦勝を祝ったのは国民であり、それを積極的に煽動したのは新聞だった。彼らは戦後も解散させられることなく、責任を軍に押しつけてみずからの戦争犯罪に口をぬぐってきた。

大江氏を5年間の訴訟でサポートし、『沖縄ノート』を重版してきた岩波書店も共犯者である。彼らが戦後60年あまり振りまいてきた「非武装中立」の幻想は、きわめて有害なものだった。国民の短絡的な正義感に迎合して結果に責任を負わない万年野党と、既得権を無条件に擁護する与党との不毛な対決の中で政策の対立軸ができず、優先順位をつけて政策を取捨選択しなかった結果が、莫大な政府債務と迷走する危機管理である。

大江氏も岩波書店もわかっているように、

彼らは裁判には勝ったが真実の法廷では敗れた

『沖縄ノート』の大部分は、現地紙の切り抜きを文学的に加工したでっち上げだ。

それは彼の願望とは逆に、事実を直視できない「進歩的知識人」の知的不誠実の証拠として歴史に残るだろう

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