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過去ブログから、一編紹介しよう。
一部重複はご容赦。
米、数千人動員して民間人救出
「米軍より日本軍怖い」感覚へ
沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。(略)(世界日報 2007年10月30日) http://www.worldtimes.co.jp/index.html
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■米軍は解放軍■
「鉄の暴風」という言葉から受ける印象は、
「沖縄対日本軍」の戦いである。
そして米軍は日本の沖縄を解放に来た解放軍だという印象だ。
太田元沖縄県知事の一連の著書にはこのような記述が見られる。
≪その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)http://www.kamiura.com/chuu18.htm
沖縄タイムスが極端な偏向を通り越し、敵意剥き出しの反日報道をするのには理由があった。
■沖縄タイムス出生の秘密■
その訳を深く掘り下げると沖縄タイムスの出生の秘密にたどり着く。
それは昭和25年に発行された『鉄の暴風』の初版の前文にすべてが凝縮されている。
前文にはこう書かれていた。
「なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」 (『鉄の暴風』初版前文)
揉み手をしたような、この米軍へのおべんちゃら記事が『鉄の暴風』の記事だと知ると驚く人も多いだろう。
勿論、沖縄タイムス出生の秘密を暗示するこの前文はその後の重版では削除されている。
『鉄の暴風』は主として沖縄タイムス記者伊佐良博氏(後に太田に改姓)によって書かれたが、同書のもう一人の著者、牧港篤三氏によれば、
初版は2万部出版され「米軍に提出されるため英訳され、占領軍司令部でも話題になった」と記している。(沖縄タイムス平成14年6月12日付け)
■米軍広報紙としての出発■
さらに沖縄タイムスの創立者の1人座安盛徳氏(故人)は昭和25年5月2日、東京のGHQを訪問し、当時の沖縄人としては珍しくマッカーサー元帥と面談もしている。
当時は日本政府の要人でさえ面会の難しかったマッカーサー元帥に沖縄タイムスが容易に面会できた事実に驚かされる。
これによって沖縄タイムスが米軍の沖縄占領政策の重要な一部門に組み込まれていたことが分かる。
マッカーサーとの面談の三ヵ月後に『鉄の暴風』は初版が出版されることになる。
座安氏はマッカーサー元帥との面談を「雑感記事」として昭和25年5月6日の沖縄タイムス記事で次のように書いている。
「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度に一行はすっかり気をよくして・・・いよいよ思い切り甘えて見たくなった」
今で見ると驚きだが、これが『鉄の暴風』の出版のため東京を訪れた沖縄タイムス幹部の米軍総大将への雑感である。
そう、沖縄タイムスは戦後沖縄占領米軍のプロパガンダ紙として出発したのだ。
ここで言うプロパガンダ紙というのは比喩的な意味ではなく米軍情報部の下に作られた広報紙という意味である。
勿論米軍情報部の目論む「沖縄住民を日本から永久分断する」情報作戦の一旦を担うのが沖縄タイムス紙創立の理由だった。
■「鉄の暴風」に続く「紙の爆弾」■
当時、不足気味の新聞用紙の提供など報道に必要な備品は全て米軍によって提供された。
米軍は「鉄の暴風」を吹き荒れさせた後は、
「紙の爆弾」といわれた膨大な量の宣伝ビラを島中にばら撒いて住民と日本軍の分断を図った。
この心理作戦遂行のため、情報部は沖縄での空中散布用に五百七十万枚のリーフレットを印刷。米軍上陸後にまかれたあるビラの文面を紹介しよう。
「皆さん達の家はこわされたり、畑や作物は踏み潰され又元気盛りの青年は殺され、沖縄の人は皆口に言えぬ苦労をしています。内地人は皆さん達に余計な苦労をさせます。……日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしたりしている事は皆さん達に明らかでしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯貴方達は、内地人の手先に使われているのです」(世界日報より)
全島に降り注いだ紙の爆弾の効果はてき面だった。
■沖縄と日本との分断工作■
ニューヨーク・タイムズはアレクサンダー・ロバーツ伍長の談話を次のように掲載している。
<生き残った人々は、アメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げた。「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。そして七十人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている処に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねばならぬほどだった>
≪かくして、沖縄県民の心には徐々に、米軍ではなく日本軍が敵であるという認識が植え付けられていくのである。
「沖縄人」と「内地人」を離間させ、対立を煽(あお)る「宣伝ビラ」の配布、方言による声の投降勧告の上で、米軍が行ったのが、戦場下で逃げ惑う民間人の救出だった。保坂廣志氏は、この民間人救出に、数千人もの軍政要員と、沖縄系二世が動員されたと指摘している。≫(「世界日報」10月30日記事)
『鉄の暴風』が書かれた戦後5年目の沖縄は通信手段や交通手段さえ現在とは比較にはならない。
バスやタクシーが未だ無いので、交通手段は勿論電話や取材用の紙さえ米軍に頼らざるを得なかった。
■不可思議な取材活動■
『鉄の暴風』著者太田氏の取材の様子を世界日報は次のように報じている。
≪さて、太田氏はこの反論連載(沖縄タイムス掲載の曽野綾子氏への反論)の中で『鉄の暴風』の取材期間が「三ヶ月、まったく突貫工事である」と書いている。≫
現役記者のK氏は、取材活動でケータイは勿論PC、カセットテープを駆使し、移動手段も飛行機、電車、車、場合によってはミニバイクに乗って取材活動している。
『鉄の暴風』の取材方法については、同業者として次のように疑念を呈している。
≪記者二人で、三ヶ月の取材で書き上げた分量は四百字詰め原稿用紙で750枚前後に及ぶ膨大なものだ。 しかも離島だけではなく、本島の北から南にまでの兵隊や住民の動向を取材の視野に入れている。・・・・果たして証言内容を精査、吟味する時間をどれほど持てたのだろうか。≫
だが、読者の疑念は次の事実で氷解する。
『鉄の暴風』は証言内容の精査、吟味は不要であり、
米軍がその機動力で一か所に集めた都合の良い「証言」者から聞き取るだけで済んだからである。
何故なら『鉄の暴風』発刊の主旨は著者がいう「歴史の記録」というより、「住民と日本との分断」という米軍の意図の下で発刊を許可されていたからである。
ちなみに当時の沖縄で全ての出版物は米軍の発した「二ミッツ布告」による事前の検閲が必要であった。
ニミッツ布告
1945(昭和20)年3月26日公布
正式名称、アメリカ海軍軍政府布告第1号
アメリカ軍の慶良間諸島上陸の時、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥によって公布される
北緯30度以南の南西諸島及びその周辺海域における日本政府の行政権と司法権を停止し、アメリカ軍の占領下におくことを宣言
アメリカの沖縄占領の実質的根拠となる
1966(昭和41)年まで存続
■米軍協力で集められた「証言者」■
昭和25年、那覇市の今で言う国際通りの国映館界隈は未だ道路も舗装されておらず米軍トラックが通ると埃が朦々と立ち込める悪路であった。
埃っぽいその道路から奥まった一角に在った某旅館に「集団自決」の証言者と称する人たちが集められた。
米軍の協力の下、実際に動いて証言者を集めたのは、沖縄タイムス創立の1人座安盛徳氏であった。
『鉄の暴風』の著者が不備な交通手段や通信手段を使わなくとも済むように、座安氏は先ずその旅館に「証言者たち」を集め、取材の準備を万端整えた。
そして『鉄の暴風』の連載を企画し、その後、単行本実現に米軍情報部との強力なコネを通じて影の力を発した。
その結果、太田氏は現地取材することも無く、一か所に集められた「関係者」からの聞き取りだけで「裏付け」をとることもなく、『鉄の暴風』を著したのである。
太田氏の取材は当時としてはある意味で、比較的容易に行われ、それが後日「伝聞取材」であると批判される原因になる。
一方影の著者とも言える座安氏のやったことは、「関係者」を集めるとは言っても、電話も交通手段も不備だった昭和25年当時の沖縄で、全島から「関係者」を一か所に集めることは至難の業で米軍の機動力の支援なくしては出来ない仕事であった。
■「伝聞記事」に対する太田氏の反論■
著者の太田氏は沖縄タイムス昭和六十年四月十日付で「座安氏の活躍」について明言している。
後にこれをまとめて出版した『戦争への反省』の中で、この「関係者」の取材が伝聞取材だったと問われたことに対して、次のように弁解している。
≪直接体験者でもないものが、あんなにくわしく事実を知っているはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないもの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。 永久に残る戦史として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私は、そんな不真面目な態度でのぞんではいなかった。≫((戦争への反省」225頁)
いやぁ、本職の記者でもない素人の筆者が読んでも、「~はずがない」とか、
「記録者(記者)は・・・でたらめではない」とか、
「新聞社が真剣に・・・」とかは子供の言い訳にしか取れないのだが・・・。
取材の基本は「裏づけ」だということは素人でも思いつくことだが、『鉄の暴風』の取材方針は「性善説」に徹しているようで、
「詳しく知っていれば体験者のはずだ」、
「新聞社や記者はでたらめでもなければ、不真面目でもない」と主張することで伝聞取材説への反論としているのは驚きだ。
『ある神話の背景』(『集団自決の真相』と題して再版)の著者曽野綾子氏は、太田氏の上記の反論を、「子供の弁解」とは言わないまでも「素人のたわごと」と斬り捨てている。
「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」。
太田氏の弁明は素人からは「子供の言い訳」と取られ、曽野氏からは、「素人のたわごと」と一蹴された。
至言である。
「関係者」を旅館に集め取材のお膳立てをした座安盛徳氏は、後に沖縄タイムス専務、琉球放送社長などを歴任した人物で、米軍占領後沖縄を襲った巨大台風「グロリア」の被害処理を通じて米軍情報将校と個人的に強力なコネクションを持つようになっていた。
このように『鉄の暴風』は影の執筆者とも言える座安氏の米軍との個人的つながりの下に、
全ての資料は事前に準備されていたのである。
取材は現地に居なかった「関係者」の証言だけで充分だったのだ。
沖縄タイムス設立の目的は米軍のプロパガンダであり、
「日本軍を悪し様に罵って沖縄住民と日本との永久分断を計る」
という米軍の意図が広く沖縄中に浸透すれば、
『鉄の暴風』出版の目的は達せられたことになる。
初版から62年経った現在、『鉄の暴風』は今でも沖縄県民の日本への憎悪を煽り続けている。
恐ろしきはマッカーサーの62年殺しである。