狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

新・226事件雑感

2020-10-17 07:31:29 | 歴史

 

 

 

時々、古い記事にアクセスが増える場合がある。

それがこれ。⇒2・26事件雑感2011-02-26 

上記のコメント欄が興味深い。

              ★

以下、再掲です。

 

75年前の今日、2月26日、午前5時。

青年将校が率いる決起部隊1400余人は、東京都内のそれぞれの攻撃目標に殺到した。

そう、本日は「2・26事件」の起きた日である。

「昭和維新」を唱える青年将校の決起で殺された政府要人は、内大臣斉藤実、大蔵大臣高橋是清・・・、いや、2・26事件の詳細を論じるのは本稿の主旨ではないのでここでは省略。

2・26事件と聞いて筆者が連想する言葉が二つ、「愛国無罪」と「忖度」がある。

正確に言えば、連想は逆であqる。

「愛国無罪」と「忖度」という言葉で2・26事件を連想したというほうが正しい。

愛国無罪とは、反日デモが行き過ぎて器物破損等の犯罪を犯しても動機が愛国心なら許される、という中国人の勝手な理屈を言う。 愛国無罪と2・26事件との関連については後に述べるとして、先ず「忖度」と2・26事件との関連について、2009年の小沢一郎氏の天皇陛下に関する発言を回顧してみる。

小沢氏は 「1か月ルール」を無視した形で、中国の習近平国家副主席の天皇陛下への拝謁を実現させた。 これに対する批判に反論し、とんでもない発言をしている。 小沢氏は中国の次期主席を天皇陛下に拝謁させるという自己目的を達成するため陛下の心の内を勝手に「忖度」したのだ。

何とも傲慢不遜な発言だが、その会見での小沢発言は……こうなっている。


記者:「会見は「30日ルールにのっとらずに行われるが?」

小沢:「『30日ルール』って誰がつくったの? 知らないだろう? 君は。法律で決まっているわけでもなんでもない。そんなもの。君は日本国憲法を読んでいるかね? 天皇の行為はなんて書いてあるの?」

記者:「国事行為と……」

小沢:「国事行為は内閣の助言と承認で行われるんだよ。だから、ナントかという宮内庁の役人がどうだ、こうだと言ったそうだけれども、全く日本国憲法、民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない。ちょっと私には信じられない。しかも、内閣の一部局、一役人が内閣の方針、決定したことについてどうだ、こうだというのは日本国憲法の精神、理念を理解していない、内閣にどうしても反対なら辞表を提出した後に言うべきだ。当たり前でしょう、役人なんだから」

 記者:「ルールはなくてもいいと?」

小沢:「なくていいもんじゃない。私はルール無視していいとか何とか言っているんじゃない。宮内庁の役人がつくったから金科玉条で絶対だなんて、そんなバカな話あるかって言うんですよ、ね。天皇陛下ご自身に聞いてみたら『それは手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思いますよ。分かった?天皇陛下のお体が優れないというならば、それより優先性の低い行事はお休みになればいいことじゃないですか、そうでしょう、分かった?

                        ☆

■小沢一郎の畏れ多い「忖度」

本人の品性の無さをそのまま体現したような傲慢な発言の連続だが、一番のキモは次の小沢氏の次の言葉だ。

「天皇陛下ご自身に聞いてみたら『それは手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思いますよ。分かった?」

畏れ多くも天皇陛下の意志を直接確かめていないにもかかわらず、一方的に「~と必ずおっしゃる」と忖度している。 しかも“自分の忖度は絶対正しい”とする思い上がりが見られる発言である。

これは、政府要人を殺害した2・26事件の青年将校達と同じ思考である。 彼らは「陛下も(自分たちと)同じ思いである」と勝手に「忖度」し政府要人を「君側の奸」と看做して殺害したのだ。

百歩譲って、このような絶対的な思い上がりの「忖度」が偶然天皇陛下の意思と一致したとしても、そのことを当たり前として「忖度」を既成事実化した場合、“自分の忖度は絶対正しい”として忖度の絶対性を一般化してしまう。 

かくて小沢氏の陛下に関するべての忖度自体が絶対となり、小沢一郎自身の考えがを絶対化することになる。

小沢氏が天皇陛下の心の内を勝手に忖度することが、如何に危険な忖度であり、独裁的な政治利用の意志であるかが分かる。

■青年将校達の「忖度」

青年将校達はこう考えた。

農村が、娘を売りに出すほど極貧に呻吟しているのは、天皇陛下を取り巻く「君側の奸」が私腹を肥やす政道を行ったためであり、これら「君側の奸」を成敗することこそ、「大御心(おおみこころ)」である、と忖度したのである。  その意味では永田軍務局長の惨殺した相沢中佐も自身の凶行を大御心である、と陛下の心中を忖度して疑わなかった。

では2・26事件に対する陛下の心の内はどのようなものであったか。

昭和天皇は在任中、立憲君主制の下の天皇という立場をを厳しく守ったいわれるが、二つだけ立憲君主の立場を踏みははずしたことがある・(・・と何かの本で読んだ)

一つ目は終戦の聖断であり、もうひとつが2・26事件の際の決起将校達への聖断である。

軍の上層部が青年将校たちに同情的かつ優柔不断な態度を示したのに対し、陛下は彼ら決起将校達の想定外の行動を示した。

陸軍大臣川島義之大将が参内し、当事者の軍として、単に状況報告を天皇にしたのは、午前九時をすぎていた。 天皇は陸相にぴしりといった。 

「今回のことは精神の如何を問わず不本意である。 速やかに事件を鎮定するように」と。(『ドキュメント 太平洋戦争への道』(半藤一利著・PHP文庫)

この瞬間、憂国の志に燃え「昭和維新」を夢見た青年将校達は、勤皇の志士から賊徒になった。

同時に決起将校の「愛国無罪」の期待も粉砕されてしまうことになる。

2・26事件は陸軍の統制派と皇動派の人事抗争の結果内輪もめだといわれている。

革新将校の精神的支柱であった真崎甚三郎が教育総監の要職を辞めさせられたのは「君側の奸」の画策だと考えていた。

果たせるかな決起将校の攻撃目標は、総理大臣、内務大臣、大蔵大臣、侍従長の他に真崎大将(皇道派)の後釜の教育総監におさまっていた渡辺錠太郎陸軍大将(統制派)も含まれていた。

2・26事件以降、陸軍は統制派が実権をもつようになり、軍部は、絶えず“二・二六”の再発をちらつかせて政・財・言論界を脅迫した。 優柔不断の近衛内閣は日米開戦の道へ追い詰められ、無責任にも首相の座を放り出した。

■東条英機は日米開戦を阻止する目的で首相になった

日米開戦のわずか50日前に首相の座に着いたのが陸軍統制派の東条英機大将であった。

戦後の後付けで東条英機はヒットラー、ムッソリーニと並ぶ三大独裁者だと罵倒する向きもある。

当日記で案内している東条英機のお孫さん東條由紀子氏の講演会に対しても、「何でヒトラーやムッソリーニの様な残虐な政治家である東條英機の遺族の講演会を案内するのか」といった趣旨の声が耳に入ったりもする。

だが、果たして東條英機は戦争するために首相になったのか。

否である。

日米開戦が抜き差しならない状況になると、近衛首相は政権を放り出し、開戦を主張する軍部を抑えるため首相になったのが東条英機であった。

偶然にも東條由紀子氏の講演会の演題「開戦前夜」と同じタイトルが、『文芸春秋』3月号に連載中の「昭和天皇」の副題になっている。⇒(69)開戦前夜」。

第一次近衛内閣の蔵相となり、大蔵省顧問のあと北支那開発株式会社の総裁になっていた賀屋興宣は東條に組閣のため官邸に呼ばれることになる。

日米開戦を避けるため東條が首相になった経緯が述べられているので、その部分を抜粋引用する。

 

福田和也著 「昭和天皇ー(69)開戦前夜」

陸軍を統制できるのは、東條ぐらいだからな・・・。  
戦争をしないためには、陸軍の主戦派を抑えるしかない。
文民で陸軍を抑えられる、それだけの力があるのは、平沼麒麟一郎と近衛しかない。
しかし、近衛は、政権を放りだしたばかりだし、平沼は歳が歳だ。
となれば開戦を避けるには、東條しかいない・・・。
とにかく、陛下の云う事には、必ず従う奴だから。
後になって彼(か)の人(人)が、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と木戸の処置を賛美したと知った。
木戸はさすがに巧妙で、これまでの御前会議で決定された開戦計画をすべて白紙に戻し、
平和を最優先で追求するように、との御定をつけて大命降下をしたのだった。
官邸に着くと、玄関で秘書官の赤松貞雄大佐が待っていた。
賀屋は、大きい顔には不釣合いに小さい目をパチパチさせながら、東條に質した。
「世間は陸軍が、戦争をはじめると考えている。本当にするのか。するならば理由は何なのか」
大蔵省はじまって以来の秀才と云われた男にたたみかけられて、東條はやや狼狽(うろた)えた。
いや、自分は平和でやるつもりだ。陛下からも御定をいただいているし、一生懸命交渉して、戦争をしないようにしたい」
対米交渉するといっても、満州事変や支那事変ははどうするのだ。統帥権の濫用で、どんどん
戦線を拡大してしまったじゃないか。いくら政府が和平交渉をやっても、軍が独断専行してしまえば、
交渉なんて何の意味もないじゃないか・・・。
賀屋は、東條の、そして陸軍の一番痛いところを突いてやった。
東條は云った。
参謀本部が何を云おうと、陸軍大臣が判をつかないと軍は動かせない。だから、自分は、総理と
陸軍大臣を兼ねることにしたのだ(結局は内務大臣も兼ねることになった)・・・。
賀屋は電話で近衛と相談した。
「閣内に入って、戦争にならないように努力した方がいいのか、到底、見込みがないから
やらない方がいいか」
身も蓋もなく問いかけた。
受話器の向こう側の貴公子は、しばらく沈思した後、云った。
「できるだけやってみたらいかがでしょう」
それで賀屋は決心がついた。(『文芸春秋』3月号、
512頁、513頁)

 東條英機 は、日米開戦の直前の1941年10月18日に内閣総理大臣に就任し、敗戦直前の1944年07月22日 に辞任している。

東條は少なくともヒットラーやムッソリーニのような、独裁者でもなければ、沖縄紙が喧伝するような「残虐非道の軍人」ではなかった。

そして日米開戦を阻止するため首相に就任した。 だが実際は軍部を抑えきれず、結果的に開戦の総責任者として東京裁判で断罪され絞首刑に服した。

歴史的人物に直に接した人たちが次々と物故する中、祖父東條元首相に可愛がられた東條由紀子氏の「開戦前夜」と題する講演会は、東條への賛否はともかく、「開戦前夜」に興味のある方なら是非聴講して頂きたい講演会である。

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日米戦争のフライングタイガース、騙し撃ちはアメリカだった!

2019-12-09 16:26:14 | 歴史

 

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過去ブログフライングタイガースは米国正規軍だった 2011-03-02 の再掲です。

 

本稿はフライング・タイガース アメリカの「卑劣なだまし討ち」に一部加筆したものです。

 

だいぶ前のことだが、「パール・ハーバー」と言うハリウッド映画を見た。

所詮はアメリカの視点のハリウッド映画なので、ある程度の予測はしていたが、余りにもアメリカのご都合主義で貫かれた映画だったのには驚かされた。

歴史は自分たちの都合の良いよう歪曲されていた。

細部をここで取り上げる余裕は無いが、こんな映画でも全米で記録的ヒットをしたと言うから、たかが映画だと軽く見るわけに行かないと一人憤慨した。

映画の、キーワードは「リメンバー・パールハーバー」と「スニーク・アタック(卑劣なだまし討ち)」だった。

映画の中では再三この言葉が繰り返され日本憎悪のキーワードに使われていた。

                 ◇

1991(平成3)年7月6日付ロサンゼルス・タイムズ紙の一面に、

米国民間人パイロットにより結成された対中国義勇団、通称フライングタイガースが、実は米国の正規兵であったことが米国当局によって公式に確認された、との記事が掲載された。

このフライングタイガースは、中国国民党(蒋介石率いる台湾政府)に協力して日本軍機を撃墜した部隊だが、これまで民間義勇軍であり米国陸軍省や米国大統領とは無関係であると米国防総省は主張してきた。

ところが同記事は、今までの主張を覆して米国務省がフライング・タイガース(AVG)の生存者100人を退役軍人と認定した、と伝えたのだ。

「日米開戦五十年」の記念日のこの年、フライング・タイガース結成から50年にして、

アメリカ政府は公式にフライング・タイガースを「義勇軍」ではなくて「正規軍」であったことを認めたのだ。

これは、日本の真珠湾攻撃以前に「中立国」であったはずのアメリカが、自国の「中立法」を侵して日中戦争に介入し、

宣戦布告なしの「SNEAK ATTACK」を日本にした、と政府が公的に認めたことを意味する。

フライング・タイガースと言っても日本では知る人は少ない。

だがフライング・タイガースの存在は、アメリカでは第二次大戦の英雄として知らぬ者がいないといわれる。
 
中国やビルマ戦線での「活躍」は世界中に知れ渡り、いまなお出版物があとを断たないという。

フライング・タイガースのロゴ入りジャンパーその他のグッズは今でも人気で販売されている。

そういえば沖縄では虎のマークを刺繍したジャンパーが米人のお土産グッズ店で今でも人気だと聞いた。

フライング・タイガースの創立には中華民国の蒋介石夫人・宋美齢が深く関わっている。
 
幼少の頃からアメリカに留学をして完璧な上流英語を話す蒋介石夫人・宋美齢は、アメリカの支援獲得に乗り出し、特にルーズベルト夫人メアリーの後援を受けた。

宋美齢はホワイトハウスで演説をした初めての東洋女性と言われている。
 
又タイム・ライフ社の社長の知己を得てタイムの表紙をも飾り、完璧な英語でラジオ等で中国の危機を訴える宋美麗の姿に、アメリカ人は「東洋に嫁に行った娘が里帰りして苦境を訴えている」と言ったイメージを抱き、蒋介石のアメリカの支援取り付け作戦は大成功した。

こうしたアメリカ上流階級との豊富な人脈からルーズベルト大統領の支援を取り付け、フライング・タイガースの創立者、退役軍人シェンノートとの遭遇に至るのである。
 
こうして「中立法」の壁を密かに踏みにじり、蒋介石は「人、物、金」を米国が提供し、中国空軍の識別マークで戦う異例の航空部隊を創設させる事に成功した。
 
まともに事を運べば明確な「中立法」違反であるから、シェンノートは身分を偽って「中国銀行員」を装い、軍事作戦は商行為の仮面をかぶって行われた。
 
1941年初頭から隊員の募集が始まった。
 
給料は月600ドルで、日本軍機一機を撃墜するごとに500ドルのボーナスが支給されるという破格の厚遇。
 
現役軍人から人員を募集する大統領特別令も出された。
 
ルーズベルトは500機からなる部隊を準備し、中国派遣を命じた。
 
これが「義勇軍」フライング・タイガース(AVG)の実態であった。
 
陸軍航空部隊長の1941年8月のメモによれば、米国正規軍としてのフライング・タイガース(AVG)の創設はすでに「大統領と陸軍省が承認していた」という。
 
フライングタイガースが米国を出発してビルマに到着したのは昭和16(1941)年春のことであった。

この事実は日本が開戦回避を必死で模索してワシントンで日米交渉を行っていた時、既に米国側は対日参戦にひそかに踏み切っていたことを示しているのである。

アメリカが「リメンバー・パールハーバー」と対で使う「SNEAK ATTACK」(卑劣なだまし討ち)は、実は真珠湾以前に既にアメリカによって行われていたのである。

【おまけ】

中国の飛行場で「フライングタイガース」のエンブレムのサメが描かれた米軍P-40戦闘機の隊列を護衛する中国人兵士、1942年撮影。


A Chinese soldier guards a line of American P-40 fighter planes, painted with the shark-face emblem of the "Flying Tigers,"
at a flying field somewhere in China, cira 1942. Photo courtesy of National Archives.

 

日本の戦闘機と交戦するフライングタイガー米戦闘機

 

フライングタイガーの創始者シェノート大将

General Claire Lee Chennault

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司馬遼太郎と『鉄の暴風』と「琉球処分」

2019-11-19 07:16:44 | 歴史

狼魔人日記

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過去ブログ司馬遼太郎も読んだ『鉄の暴風』  「琉球処分Ⅲ」の引用です。

2008-01-30 06:44:59 | 歴史

 

■ 「琉球処分Ⅲ」■

「琉球処分」も廃藩置県も日本各県が経験したという視点で見れば日本史の流れの中の共同体験だと言うことが出来る。

廃藩置県は全国諸藩の意志に関係なく、反対する藩があれば容赦なく武力で討つという明治政府の威圧の元に断行された。

その意味で言えば、確かに「琉球処分」は廃藩置県の一種だといえなくもない。

明治維新の原動力となった薩長土肥の下級武士は出身藩の兵と資金でもって幕府を倒した。

それにも拘らず、倒幕から成立した明治政府によって倒幕を支援した藩そのものも潰され、更には武士の誇りも特権も経済基盤である禄高制さえ取り上げられ四民平等の「国民」に組み込まれた。

自分の資金と人材により幕府を倒し新政府を作ったら、その新政府が今度は自分の全ての権益を取り上げ更には解体を迫る。

■明治維新は武士階級の集団自殺?■

倒幕派の藩主から見れば、歴史上これほどバカバカしい話はない。

現在の例えで言えば投げたブーメランに己が身を打ち砕かれたようなものだろう。

島津藩主久光が家来の西郷隆盛や大久保利通が突きつけた「廃藩置県」の断行に怒り狂った気持ちは一世紀以上の時を隔てても理解できる。

討幕運動から明治維新に繋がる一連の動きを武士階級の集団自殺と指摘する人もいるくらいだ。

 

明治の群像を『飛ぶが如く』や『坂の上の雲』でみずみずしく描いた司馬遼太郎氏は、

「琉球処分」という言葉が多くの琉球史では一見琉球のみに加えられた明治政府の非道な暴力的措置のように書かれていることに疑念を投げかけている。

「(琉球処分と)同時代に、同原理でおこなわれた本土における廃藩置県の実情については普通触れられてはいない。 つまり、本土との共同体験としては書かれていない。」(「街道をゆく 6」)

琉球が特殊な歴史・文化を持っていることは認めても、「琉球処分」はウチナーンビケン(沖縄独特)ではない。

日本史の明治国家成立の過程で見られる普遍的な歴史的現象だというのである。

琉球の場合は、歴史的にも経済的にも、本土の諸藩とはちがっている。 更には日清両属という外交上の特殊関係もあって、琉球処分はより深刻であったかも知れないが、しかし事態を廃藩置県とという行政措置にかぎっていえば、その深刻のどあいは本土の諸藩にくらべ、途方もない差があったとはいえないように思える。」(「街道をゆく」⑥27頁)

しかし、このように「琉球処分」を琉球独自の歴史ではなく日本史の中の明治維新の一過程と捉える司馬氏の歴史観には沖縄の左翼歴史家は猛然と反発するだろう。

その例が先日取り上げた某大学講師の、

琉球は日本ではないのだから、琉球処分は明治維新の国造りの過程ではなく、海外侵略である」という論である。

その論に従うと「琉球処分」は無効だという。

煩雑を承知で、その無効論を再引用する。

<「人道に対する罪を構成」

戦争法規の適用

では、日本による琉球統治は正当だったのか。 日本が琉球の領土支配正当化するためには、日本が琉球を実行支配してきたか、もしくは琉球人に日本人としての帰属意識があることを証明する必要がある。

紙幅の関係上結論を先に述べると、日本による琉球の日本の領土編入は、国際法上の主体である琉球の意志を無視した、明治政府による暴力的で一方的な併合であり、国際法上大きな疑義があるということである。(上村英明『先住民族の「近代史」』>(琉球新報 1月15日)

このような論が当時から沖縄に存在するのを司馬氏は先刻ご承知のようで、自分で表立って反論せずに沖縄民俗学の大家・比嘉春潮氏の著書からの引用でやんわりと対処している。

<何にしても、私は10年ばかり前では、沖縄と本土とが歴史を共有しはじめた最初は廃藩置県からだ、とばかり思っていた。 しかし、そのことはすこしのんきすぎたようでもある。 ホテルの部屋にもどって~ベッドの上に寝転がっていたが、このことを考えはじめると、眠れそうにない。 
雑誌「太陽」の1970年9月号に、比嘉春潮氏が「沖縄のこころ」という、いい文章を寄せておられる。

≪沖縄諸島に日本民族が姿をあらわしたのは、とおく縄文式文化の昔であった。 このころ、来た九州を中心に東と南に向かって、かなり大きな民族移住の波が起こった。 その波は南九州の沿岸に住む、主として漁労民族を刺激して、南の島々に移動せしめたと考えられる。 この移動は長い年月の間に、幾度となくくりかえされた。 そしてここに、言語、習俗を日本本土のそれと共通する日本民族の1支族ー沖縄民族が誕生する。≫

沖縄人の由来について、これほど簡潔に性格に述べられた文章はまれといっていい。 さらに「沖縄民族」という言葉については、氏はその著『新稿沖縄の歴史(三一書房)の自序において、「フォルクとしての沖縄民族は嘗て存在したが、今日沖縄人はナチオンとしての日本民族の1部であり、これとは別に沖縄民族というものがあるわけではない」と、書いておられる。

日本民族の中における沖縄人の巨視的関係位置はこの優れた民族学者のみじかい文章で尽くされているわけで、いまさら私が、那覇の町で思いわずらうこともなさそうである。
しかし、という以下のことを書く前に、1氏族が1社会を構成する前に歴史の共有ということが大きい、ということを、つい思わざるをえない。 日本の本島のなかでも、歴史をすみずみまで共有したのは、さほどの過去ではない。 例えば奥州の青森・岩手の両県が九州の五島列島とおなじ歴史の共同体験をするという時代は、秀吉の天下統一からである。(略) 豊臣政権下で大名になった五島氏は、明治4年の廃藩置県で島を去り、東京に移された。 旧藩主を太政官のおひざもとの東京に定住させるというのは、このとうじの方針で、薩摩の島津氏の当主忠義も、長州の毛利氏の当主も東京にいわば体よく長期禁足されていて、丘陵地に帰ることを許されていない。 このことは最後の琉球王尚泰においても同じである。>(「街道をゆく 6」)


司馬遼太郎氏は、大きな流れで言えば沖縄民族は日本民族の支流である、の一言で某大学講師の「琉球処分=違法な植民地侵略」論を粉砕している。

それでも司馬遼太郎氏は「共同体験をしたから結構だといっているのではない」と断り書きを入れて、

琉球藩が廃藩置県以前、250年にわったて薩摩藩から受けた「痛烈な非搾取の歴史」を述べて日本史上他の藩と異なる特殊性を完全に無視はしていない。

司馬氏は「司馬史観」と呼ばれるリアリズムを歴史小説のバックボーンにしており、

封建制国家を一夜にして合理的な近代国家に作り替えた明治維新を高く評価する。

その歴史観によれば「琉球処分」も日本が近代国家建設のため中央集権国家を作っていく合理主義つまりリアリズムの産物であり、肯定的な見方をしている。

■「鉄の暴風」に毒された「司馬史観」■

一方で、「司馬史観」は昭和期の敗戦までの日本を暗黒時代として否定して自虐史観に陥っていく。

沖縄史に関しても明治期の「琉球処分」では日本の発展していく過程の歴史共有(廃藩置県)として前向きに捉えていたのが

「沖縄戦」となると突如大江健三郎氏と同じ軸足で歴史を見るようになるから不思議だ。

「街道をゆく 6」でも「琉球処分」を述べた後に次のようなくだりがある。

<太平洋戦争における沖縄戦は、歴史の共有などという大まかな感覚のなかに、とても入りきれるものではない。
同国人の居住する地域で地上戦をやるなど、思うだけでも精神が変になりそうだが沖縄では現実におこなわれ、その戦場で15万の県民と9万の兵隊が死んだ。
この戦場における事実群の収録ともいうべき『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)という本を読んだとき、一晩ねむれなかった記憶がある。>(「街道をゆく」6-1978年刊)

なるほど、『デマの暴風』とも言われる『鉄の暴風』を、沖縄戦の「戦場における事実群の収録」として読んだら流石の司馬遼太郎先生も精神が変になりそうで、大江健三郎を彷彿させる逸話を書く羽目に陥っている。

ところで大江健三郎氏の「自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、」という有名な文を書いたのは昭和33年だが、

司馬遼太郎氏が『鉄の暴風』を読む以前にこの文を読んでいた可能性はある。

司馬氏はRさんという在日朝鮮人らしき人の口を借りて、沖縄人にも「帰るべき祖国がない」といったことを言わしている。

■大江健三郎にも毒された「司馬史観」■

<ごく最近、古美術好きの私の友人が、沖縄へ行った。彼は在日朝鮮人で、歳は50すぎの、どういうときでも分別のよさをかんじさせる人物である。

彼は帰ってきて、那覇で出会った老紳士の話をした。 私の友人はRという。
ーーRさんはいいですね。
とその老紳士は、しみじみとした口調で、「祖国があるから」と言った。相手が日本人ならば、このひとは決してこうわ言わなかったにちがいない。 
この話をきいたときの衝撃は、いまなおつづいている。 自分の沖縄観がこの一言で砕かれる思いがした。>(「街道をゆく 6」)

沖縄人の立場から言わせてもらうと、司馬氏が「街道をゆく 6」を出版した1978年の時点で、この沖縄の老紳士のように「祖国がない」と考える沖縄人は特殊な思想の人々はともかく普通の県民ではとても考えられないことである。

それにしてもあれほどリアリズムで歴史を見てきた司馬氏が、

沖縄の地上戦のことを考えて精神が変になりそうになり

『鉄の暴風』を読んだら一晩眠れなくなってしまう

あげくの果てには司馬氏は、沖縄の老紳士の話を伝え聞いて、

衝撃が続き、自分の沖縄観がこの一言で砕かれる思いをしたと述べている。

■帰るべき祖国とは■

文中の沖縄の老紳士の特殊な思想に影響を与えたと思われる大江健三郎氏の文を下記に引用する。

<結婚式をあげて深夜に戻つてきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。
それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る……。 このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった> (わがテレビ体験、大江健三郎、「群像」(昭36年3月号)>

このお方、日本人であることを放棄しているのだろうか。

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曲学阿世の憲法バカ

2016-05-09 07:19:49 | 歴史

 

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 沖縄お悔やみ情報局

 「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」

これは映画『踊る大走査線』の中で、織田裕二扮する青島刑事が、会議室で指令を発する頭でっかちのエリート捜査官に対して投げかけた有名な台詞だ。

 
■七博士事件、曲学阿世の輩、そして安保法制の憲法バカ

 国際環境の変化を知らない学者が、現場を知る政治家の現実的行動に抗議し、それが日比谷焼き討ち事件などの暴動に繋がったのが、日露戦争時の「7博士意見書事件」だ。

1903年6月,日露戦争の直前に東大などの教授7人が日露開戦の強硬論を主張。

七博士に扇動された国民が、日露戦争後のポーツマス条約に反対、集会が行われた日比谷公園を焼き討ちした。

世間知らずの学者バカの話は、まだまだ続く。

終戦後、連合国と日本が講和を結ぶ際に、国連中心の全面講和とするか、ソ連不参加の単独講和とするか国論が分かれた。

東大の南原繁総長が全面講和論を説いたのに対し、吉田茂首相は自由党両院議員総会で、「南原総長らが主張する全面講和は曲学阿世の徒の空論で、永世中立は意味がない」と非難した。

「曲学阿世」は「学を曲げて世に阿(おもね)る」の意。南原総長は強く反発したが、「曲学阿世」はこの年の流行語になった。

結局、吉田首相は曲学阿世の輩の意見を無視して、ソ連抜きの単独講和を決行した。

そして、昨年、安倍政権が安保関連法案を成立させたとき、またぞろ安全保障環境の変化に無知な、憲法馬鹿が騒ぎ出した。

「集団自衛権の行使は憲法違反」だと。

 こうして見ると、いつの時代にも会議室の中から意見を述べる学者バカは存在するものである。

 

石川健治氏の「クーデター」論は笑い話だが、問題はこんな精神的幼児が東大法学部で憲法学を教えていることだ。一つの原因は文系学部(特に法学部)がガラパゴス化して国際競争がないことだが、もう一つはこういう妙に「純粋」な学生しか大学に残らないことだ。

経済学でも、東大のマル経は宇野経済学だったので、少しでも宇野派と違うマルクス解釈を書くと大学院で落とされた。佐伯啓思氏や間宮陽介氏や野口旭氏は、先生の学説を丸写ししてマル経の大学院に行き、途中で「近経」に転向した裏口入学だ。京大では、民青の幹部は論文を1本も書かなくても助教授になれた。今の法学部は、当時のマル経に近い状況だろう。

こういう「純粋人間」の忠誠心の対象は自分の学派なので、それ以外の学説に対しては強い敵愾心をもって闘う。その学説が宇野経済学や憲法第9条のような「空体語」であっても、というより中身がないほど信仰は強くなる。それは空体語だからこそ、永遠の理想として尊いのだ、と山本七平は論じた。

日本人はこういう忠誠心のために自分を犠牲にする純粋人間を好むので、彼らが世の中を変えることがたまに起る。それが尊王攘夷や青年将校で、日本で本当のクーデター(非合法的な政権奪取)が起ったのは、明治維新と五・一五事件や二・二六事件だけだった。石川氏のような「純粋」な思い込みこそクーデターの原因なのだ。

続きは5月9日(月)朝7時に配信する池田信夫ブログマガジンでどうぞ

 

 【おまけ】

BSフジ「プライムニュース」を見たという宜野湾よりさんのコメントと、関連記事を引用する。

           ☆

宜野湾よりさんのコメント

 地震対策では千年を見ろ、あらゆる事を想定しろという人々が、こと安全保障については中朝露の脅威は想定しなくていいというのは、誠に可笑しなもの。

4日のプライムニュースで、憲法原理主義者の誉れ高い石川健治 東京大学法学部教授が、伊吹文明議員に
(改正の発議も難しい現実の間に有事になった場合)「どうすんだという責任は政治にあるんです、研究室にはないんです」
と言われて返す言葉が無かった、当然の様子を観ちゃった。

そういうと、「責任が無い者は黙っていろというのか!」と吹き上がる人々もあるだろうけれど、常識で考えてそんなワケはない。
全体の責任を負う者に責任の無い者が「ああしろ、こうしろ」と云う時、出口を想定した話ができないのとできるのと、どちらが自分らを含む国民全体にとっていいかしら?という話。
国民より憲法が上位であると思っている人には解らないかもだけれど。

沖縄2紙や界隈やオールなんチャラからも、日本人として意味ある出口を何処に求めているのかは全く伝わってこないし、出口から見える景色を自分たち以外の人々と共に見ようという意識すら感じられないなぁ。
それだと、彼らはどこか外国のために動いているのではという一般ピープルの疑念をアシストするばかりだと思うの。

 

憲法9条で議員の激論自体に改正が必要と見えたプライムニュース  窪田 伸雄  2016/5/08(日)  新聞 TV 週刊誌 経済誌 ,

◆反改憲基調の民進党

 憲法記念日、3日夜のBSフジ「プライムニュース」は、護憲派、改憲派各集会の報道後、ゲスト出演した下村博文自民党副幹事長、辻元清美民進党役員室長、國重徹公明党憲法調査会事務局次長、宮本徹共産党政策委員会副責任者ら4人の衆院議員が憲法をテーマに議論した。

 タイトルは「与野党論客と憲法の軸 選挙で問われるのは何」で、4夜連続の特集「今こそ憲法を考える」の2日目。各氏は自民の「改憲」、民進の(改憲は)「今は必要なし」、公明の「加憲」、共産の「現状維持」という立場をそれぞれ説明し、丁々発止の論戦となった。

 だが、護憲派集会(5・3憲法集会)で民進、共産、社民、生活の各党首が憲法改正に反対を訴え、改憲派集会(公開憲法フォーラム)で安倍晋三首相が「憲法に指一本触れてはならないといった思考停止に陥ってはならない」など改正の必要を説くビデオメッセージのニュースが示した与野党対立の通り、スタジオの議論も主張のぶつかり合いだった。

 変化は、やはり民進党が民主党時代の「創憲」から「今は必要なし」と事実上の反改憲基調になったことだ。論客として出て来たのも故土井たか子氏(元社会党委員長)に師事した元社民党の辻元氏である。司会の反町理氏が改憲派集会に民進党の松原仁氏が出席したことを問うと、辻元氏は「民進党の中の松原仁さんの立場は自民党で言えば村上誠一郎さんに似ている」と自民党で安保法制に反対した村上氏に例えた。党の方針と違う改憲派は異端分子扱いということか。

 さすがに下村氏が、「それは松原さん個人の話ではない。民進党で憲法改正に同調している人は1人2人のレベルではない」と突っ込んだ。

◆筋の通った改憲理由

 

 「創憲」を掲げた経緯から民進党には改憲派の勢力が存在する。政権獲得以前の民主党時代の代表に改憲派の鳩山由紀夫氏、前原誠司氏がおり、「創憲」を掲げたのは菅直人氏だ。また、同じ頃の小沢一郎氏の自由党は当時の自民党より改憲に積極的で、手始めとして改憲手続きの国民投票法制定を提唱、自民党内の改憲論議を刺激した。

 そのような民主党と自由党の合併によって集票ウィングを広げたが、今や共産党と一緒に憲法改正反対を叫ぶのは、政権時代の分裂以上のお粗末さだ。民進党の左傾化は著しく、保守系の居場所は狭くなったと見え、大型連休中も4月末に樽床伸二元総務相が離党した。

 議論は9条と自衛隊、安保法制、緊急事態条項が主だったが、下村氏による自民党改憲案の説明、辻元氏による同案批判の応酬で進み、國重氏、宮本氏が補足的に党の立場を主張する格好となった。

 このうち下村氏は同日午前に訪れた高校生の集会のエピソードを紹介。政府の9条解釈を説明して自衛隊は違憲か合憲かを問うたら、「60人ぐらいいた高校生の3割ぐらいが違憲、7割は合憲。政府の解釈について国民的コンセンサスが得られている」と述べた。さらに、続けて下村氏は「憲法は基本法だから誰が読んでもそのように読める憲法改正を目指す必要があると思う」と改正の意義を訴えた。筋の通った話である。

 一方、「国民の側から憲法のここを変えてくれと出たら皆で話をすればいい」「法律で対応すればいい。法律で対応できなければ憲法を変える」との考えを述べる辻元氏の立場からは、自衛隊の定着で国民の改憲要求はなく「今は必要なし」と見えるようだ。

 この点は、長期政権下で自衛隊を野党の違憲・撤廃論から擁護し抜いた自民党にとってもジレンマとなる。集団的自衛権を一部容認した政府解釈による安保法に、野党は自民党政権下で編み出された以前の解釈で批判した。同番組でも安保法制をめぐっては昨年来の激論を繰り返すものとなり、司会・反町氏は「こういう議論を解決するための(自民党)改正案ではないのか」と問い掛けた。

◆違憲論拠の解消必要

 

 下村氏は解釈しないで済む条文に改める必要を述べたが、辻元氏は改正した条文にさらに自民党は解釈を加え「徴兵制」や「イラク戦争」のような戦争をすると批判。下村氏は歯止めの改憲代案を促したが、「必要ない」の立場から出るはずもない。安保法反対と同様で「暴走」を印象付け、それを「選挙で問われるもの」にしたいのだ。

 共産党の「現状維持」にしても一時的であり、自衛隊違憲・撤廃を諦めたわけではない。この点を等閑視してはならないだろう。学術界では違憲論が有力だ。共産党が民進党と共闘する選挙では「自衛隊違憲・撤廃」の論拠解消の必要を問うべきだ。

(窪田伸雄)

 

 

沖縄県祖国復帰44周年大会について
「世界に輝く日本と沖縄の未来」

《目的》
沖縄県の戦後の道のりを偲び、誇りある祖国復帰をお祝いする。
幅広い世代が集まり、沖縄県の更なる発展への決意を新たにする。
国内外に広く祖国復帰の意義を広め、「屈辱」とされてきた祖国復帰観を是正する。


と き:平成28年5月15日(日)
ところ:JAおきなわ総合結婚式場ジュビランス 4階ホール
    〒901-2203 沖縄県宜野湾市野嵩736番地
    Tel:892-0005
入場料:500円
 

14;00開演(13:00開場)
・オープニング かぎやで風(兼次エリカさん)
・国会議員・首長のご挨拶など
・各界からの提言
休憩 約10分
《第二部》記念講演(60分)
〇講 師:池間哲郎先生
(一般社団法人アジア支援機構代表理事・JAN (日本アジアネットワーク)代表)
テーマ:「アジアに愛される日本の心」
    ~私たち日本人が知るべきこと~

16:15分ごろ 閉会予定

主 催:沖縄県祖国復帰記念大会実行委員会
     那覇市若狭1-25-1
TEL FAX 098-867-4018
担当 090-6711-5411(上野)

        ☆

《奉祝パレード》11:00出発(10:30集合)
普天間宮~ジュビランス前
沖縄県祖国復帰44周年記念式典(60分)

 

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天皇メッセージと沖縄

2016-04-30 07:11:39 | 歴史

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昨日、読者の方から電話が入り、3年前に雑誌『正論』に寄稿し天皇メッセージについて書た小論を読んで共感したとのこと。面会したいとのことだったが、残念ながら予定が詰まっており面会はできなかった。

毎年4月29日前後になると日本が独立した講和条約発効の日を、沖縄2紙は「屈辱の日」として「天皇メッセージ」を持ち出して、「沖縄が屈辱を浴びるのは昭和天皇の責任」などとバカげた記事で紙面を飾る。

そこで、3年前の『正論』の記事を要約して紹介しようと思ったら、既にネットで紹介してくださっているブログがあった。

要訳文は文末の【おまけ】で紹介するとして、過去ブログより、天皇メッセージ関連の記事を拾って、加筆・編集した記事を紹介する。

                ☆ 

■「天皇メッセージ」とは何か。

 「天皇メッセージ」とは、1979年、進藤栄一・筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館から「マッカーサー元帥のための覚書」を発掘し、雑誌『世界』で発表したもの。 

同覚書には、宮内府御用掛かり寺崎英成がGHQ政府顧問ウイリアム・シーボルトを訪れ、天皇からのメッセージを伝えたと記されている。

これがいわゆる「天皇メッセージ」とされるもので、概略こう述べられている。

「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略)さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本が主権を残したままの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている」

 沖縄に流布する大きな誤解の一つだが、沖縄保守系の論者にも「天皇メッセージ」とは昭和天皇が自身の延命のため「沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。 だが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての陛下の「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。

 「天皇メッセージ」の重要ポイントは昭和天皇が、沖縄の「潜在主権」を強く望んだこと。つまり日本の主権を残したまま米国に統治を委任すること希望したことだが、これを親子の場合で言えば、次のように例えることができる。

 破産状態で子(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が金持ち(米国)に、戸籍はそのまま残して一時里子に出したようなものであり、戸籍を移籍する養子縁組(米国領にすること)とは根本的に異なる。

 当時戦勝国のリーダーであり世界一の軍事力・経済力を誇る米国の統治下にあった沖縄では、食糧不足で喘ぐ祖国日本では食すること出来ない米国産の豊富な食料供給の恩恵に浴した。 その名残の一つがランチョンミート文化であり、戦前の沖縄にはなかったビーフステーキやハンバーガーなど現在も続く牛肉文化の繁栄である。

 ■「日本国への帰国を証明する」・・・パスポートに押されたゴムスタンプの意味

 米軍統治下の沖縄で1952年の講和発効の日を経験した者は、「潜在主権」という言葉を一度は耳にした経験があるだろう。だがその意味を身を以って体験した者は少ない。 沖縄出身の筆者がまだ10代の頃体験したエピソードを披露する。

 少年(筆者)が進学のため米軍統治下の沖縄を後にし祖国日本の「出入国・通関」に足を踏み入れたときのことだ。携行していた「パスポート(日本旅行証明書)」を通関に差し出したとき、審査官は学生服姿の筆者を見て微笑みながら声をかけてくれた。 

 「進学のため?」

 「はい、そうです」

 審査官は高校の制服制帽姿の少年に終始優しく対応した。審査官はパスポートにゴムスタンプを押し、署名しながらこう言った。

 「しっかり勉強しなさいよ」

 「はい」

 口下手な少年は審査官の優しい対応と励ましの声に、心の中で「ありがとう」とつぶやいたが、それを口に出して言うことができなかった。後で、パスポート(日本旅行証明書)に押されたスタンプを見て、感動がこみ上げてきた。

 「そうだったのだ」。 「これが潜在主権の意味だったのだ」。

 スタンプには「日本国への帰国を証明する」と記され審査官の署名がされていた。

 「日本国への入国」ではなく「帰国」という文字に感動したのだ。 まだ復帰していない祖国は「帰国を証明する」という形で少年を迎えてくれたのだ。

 

「日本国への帰国を証明する」とスタンプが押されている。

 

「渡航証明書 沖縄」の画像検索結果
 

 日本旅行証明書の表紙 

 

 それまでの認識では米国の統治下にあるので、沖縄人は日本国民ではないという疑念さえ持っていた。ところが学校では「沖縄の潜在主権は日本にある」と聞かされていた。そのせいなのか、沖縄で戦後教育を受けた少年は、小学、中学、高校と文部省教科書で教育を受けていたが、そのことには何の矛盾も感じていなかった。少年は、「潜在主権」の意味がよく理解できないまま祖国日本に上陸し、通関手続きで「日本国への帰国を証明する」という審査官の署名つきスタンプを見て初めて「潜在主権」の意味を身を以って実感したのであった。 亡き父から常々「天皇陛下とは同じ歳だ」との自慢話を聞かされていた少年は、祖国日本が「潜在主権」の証として「帰国を証明する」というスタンプで迎えてくれたことを、昭和天皇と父の姿をダブらせ、懐かしい父祖の住む故郷へ里帰りしたような感慨に耽った。

だが、少年はその時、「潜在主権」という文言が、昭和天皇の沖縄に対する大御心から生まれた「天皇メッセージ」の成果であることを知る由もなかった。半世紀以上前の日本の税関での記憶である。

 ■大田少将の遺言

大田少将の「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。」という沖縄県民に対する配慮は、昭和天皇の「天皇メッセージ」として当時の厚生省に直接伝わっていたのか。

 68年前の昭和20年6月6日。

大田實海軍少将は、沖縄県南部の海軍壕から長文の電文を海軍省に送った。

そして、その最後を次のように結んだ。

<沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。>

 大田実少将は、沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して打電した後自決した。

戦後、日本軍批判の発端となった「鉄の暴風」と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に窺い見ることができる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない、無差別に住民を殺戮したのは米軍である。ところが何故か、戦後この言葉は1972年の沖縄の祖国復帰の前後から日本軍人を糾弾するキーワードと変化していく。

米軍は沖縄の永久領有を目論んで、沖縄住民を日本人から分断する占領方針を取った。 民意を得るため米軍は、沖縄住民には「優しく」対応するようにしていた。沖縄住民は、やっと命が助かり安堵した時に、年寄りや子供に手を差し伸べる優しい米兵の顔だけしか見ていない。

艦砲射撃という「鉄の暴風」で、住民を無差別殺戮した米兵のもう一つの顔を見ていないのだ。

一方、劣悪な軍事装備のため自分達を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に敗退した敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。 米軍は「紙爆弾」といわれる大量の謀略ビラを投下し、「日本軍は大量の食糧を隠匿している」など事実無根のデマで沖縄住民の日本軍に対する信頼感に楔を打ち込んだ。

そして、いつしか「鉄の暴風」を実行したのは米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵だ、と言う印象に沖縄住民を駆り立てた。

だが、戦後になると大田少将の「遺言」は、厚生省に引き継がれ、「沖縄の特殊事情」或いは、「沖縄に特段の配慮を」と形を変えて戦後の沖縄のいろんな場面に登場する。

 

昭和天皇と沖縄

昭和天皇が皇太子時時代、沖縄を訪問され、県民でさえ好き嫌いの激しい沖縄特産の「エラブ海蛇」に興味を示され、沖縄出身の漢那艦長に食べてみたいと所望された。

 

艦長は、「エラブ海蛇」を取り寄せて食卓に供した。

 

裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている。

 


県人でさえ好き嫌いの激しい
「エラブ海蛇料理」


「4・28屈辱の日」と関連し「天皇メッセージ」という文言がしばしば新聞に登場する。

4月15日付の沖縄タイムスが社説で「天皇メッセージ」を取り上げ「昭和天皇糾弾」の第一歩を踏み込んできた。

彼らの究極の目的が、「32年テーゼ」による「天皇制の廃止」であることは言うまでもない。

沖縄タイムスの「検証4・28 政府式典と天皇 政治利用の疑いが強い」と題する社説の該当部分をこうだ。

昭和天皇は戦後、全国各地を巡幸し、戦後巡幸が一段落した後も、国体や全国植樹祭などの行事に出席するため各県を訪問した。 だが激しい地上戦の舞台となり米軍政下に置かれた沖縄には、戦後一度も足を運んでいない。(略) 戦争責任の問題も、米国による沖縄の長期占領のを進言した「天皇メッセージ」の問題も、ついに本人の口から語られることはなかった。 昭和天皇の晩年の歌が残っている。
「思わざる病となりぬ 沖縄を訪ねて果たさむ つとめありきを」>

>戦争責任の問題も、米国による沖縄の長期占領のを進言した「天皇メッセージ」の問題も、

この文言に沖縄タイムスの昭和天皇糾弾の本音が垣間見えるが、同紙の昭和天皇糾弾の意図は2012年11月の記事にも既に表れていた。

屋良朝笛知事(故人)の日記が発掘されたことをを報道しているが、得体の知れぬ「識者」の意見として昭和天皇が「沖縄に犠牲を強いたという負い目」などと、強引に決め付けているのが目を引く。

「訪米前に沖縄行けぬか」 昭和天皇、側近に問う  

 

 屋良朝苗氏の日記=沖縄県公文書館

 昭和天皇が1975年の初訪米を前に「米国より先に沖縄県に行くことはできないか」との意向を側近に示していたことが13日、分かった。沖縄県公文書館が今年9月に公開した当時の屋良朝苗知事(故人)の日記に、宇佐美毅宮内庁長官(当時)の話として記されていた。

 昭和天皇は47年9月、連合国軍総司令部(GHQ)に米軍の沖縄占領継続を求めた「天皇メッセージ」を伝え、その後の米軍の沖縄駐留に影響を与えたとされる。識者は「沖縄に犠牲を強いたという負い目が、訪問に強い意欲を持った背景にある」と分析。当時の昭和天皇の沖縄に対する思いを伝える貴重な記録として注目されそうだ。 2012/11/13 19:55 【共同通信】

            ☆

昭和天皇の沖縄に対する思いが深く、皇太子時代を除き、生前一度も訪問できなかった沖縄に、米国訪問前に沖縄ご訪問のお気持ちがあったことは理解できるとしても、「天皇メッセージ」のため「沖縄に犠牲を強いた負い目が訪問に強い背景にある」などのコメントは、サヨク識者の勝手な妄想に過ぎない。

昭和天皇が皇太子時代、ヨーロッパ旅行の折、沖縄を訪問したことを想い出し、多感な青春時代の想い出の詰まった沖縄に天皇在位中一度もご訪問できなかったことを心残りに思ったのが真実だろう。

 ■援護法と天皇メッセージ

1946年、戦前からの「軍人恩給法」がGHQの覚書により廃止される。 

そしてサンフランシスコ講和条約が成立した1951年、「援護法」が成立する。 

これは講和条約締結が見込まれていたため、講和発効と同時に、援護法の施行を考えたからだ。

日本政府は、当時既に米軍統治下にあった沖縄を、講和条約締結時に、なんとか日本から「切り離さない」ように努力をしたのだが・・・。 

沖縄の反日サヨク勢力は、講和発効の日を、日本が沖縄を米国に売り渡した屈辱の日と呼ぶ。

今年の4月、政府が講和条約発効の日を記念する式典を挙行すると発表するや、沖縄メディアが一斉に反発し、「4・28屈辱の日」と叫んで講和条約を批判した。

同時に昭和天皇が「国体護持のため沖縄を米国に売り渡した」などと喧伝し、「天皇メッセージ」を批判する識者の主張が紙面に躍った。 

沖縄紙が「屈辱の日」として批判する講和条約発効の1952年は、実は沖縄中が祖国復帰の気運が近づいた喜びで沸きあがった年であった。

政府は主権が日本にあることを根拠に、着々と援護法の沖縄住民への適用の布石を開始する。

講和発効の1952年6月、政府は総理府内に南方連絡事務所を設置し、同時に沖縄には那覇日本政府南方連絡事務所(南連)が設置された。 

「天皇メッセージ」に示された通り、日本の主権が残ったまま米国の統治下にあった沖縄。 

沖縄に潜在主権がなければ援護法の沖縄への適用は困難を極め、現在適用されているように「拡大解釈」してまでの大甘な適用は不可能だったであろう

政府(厚生省)は、日本の主権の及ぶ沖縄に「援護法」を適用させるのは当然と考え、南連の協力の下、米国民政府(米軍政府)と「援護法」適用の交渉を開始する。 

つまり当時の沖縄に日本の主権が及んでいたからこそ、援護法の沖縄住民への適用交渉が、講和発効と前後していち早く援護法関連の業務が開始されたのだ。

講和発効で日本が独立国となり沖縄の祖国復帰が間近だとの機運があった1953年から、当時の琉球遺族連合会の日本政府に対する援護法適用の折衝も活発になる。

 ■「潜在主権」と「天皇メッセージ」

なぜ援護法の沖縄への適用が大甘になったのか

「援護法」を「裏手引書」まで作成し、沖縄住民にだけ大甘な適用をした理由は、「県民に対し後世特別のご高配を」と結んだ大田実少将電文を知る世論の同情もあってのことと考えられる。

勿論「援護法」の成立・適用に関わった多くの官民関係者の努力を見落とすわけには行かない。

厚生省の担当官・比嘉新英や琉球政府社会局長として援護業務に携わった山川泰邦氏、そして座間味村役場の援護係・宮村幸延らが「お役所仕事」の枠を乗り越えて努力したことや、遺族会幹部の方々の努力も見逃すことは出来ない。 

同時に「沖縄病」に取り付かれた茅誠司東大総長ら当時の知識人たちの沖縄への同情心も彼らの行動を後押した。

大田少将の電文を国(厚生省)が受けついで、「後世特別の配慮」をしたことは理解できるが、厚生省の独断でこれほどの事が可能なはずはない。 

大田少将と厚生省の間にその「善意のリレー」をした人物が介在した。

これに関連し援護法適用の根拠となる「潜在主権」について努力した2人の人物がいると書いた。

昭和天皇と吉田茂首相のことだ。

尊王主義者で「臣茂」と自称した吉田茂氏については後述するとして、昭和天皇と沖縄の関係について述べてみる。

■大田実中将の「電文」と昭和天皇

繰り返すが「援護法」の沖縄への適用について、忘れてはならないのが沖縄の「潜在主権」にこだわった「天皇メッセージ」の存在である。

もとより1979年に公表された「天皇メッセージ」の存在を、1950年当時の関係者が知るはずもなかった。 

ただ昭和天皇が大田少将の電文を読んだ可能性は充分考えられる。

理由は昭和天皇が20歳の皇太子時代、ヨーロッパ旅行時の船旅の第一歩を印されたのが沖縄であり、その沖縄が米軍の銃弾に蹂躙されたことを大田少将の電文で知り心を痛めたことも想像に難くないからだ。

人間誰しも多感な青春時代に訪れた土地は想い出が深く心に刻まれるもの。

ましてや長い船旅のお召し艦の艦長が沖縄出身の漢那憲和少将とあれば、皇太子時代の昭和天皇が沖縄のことを特に身近な土地と考えてもおかしくはない。

裕仁親王は沖縄訪問を大変喜ばれ、外遊の日を記念して、毎年三月三日、当時の漢那少将を始め関係者を宮中に招いて午餐会を催したという。

お召し艦「香取」が宮古列島沖を航行中、艦の甲板上に飛び魚が躍り込んできた。

それから46年後の1967(昭和42)年、宮中新年歌会始で、昭和天皇は皇太子時代沖縄で見た飛び魚を回想し和歌を詠まれただ。

「わが船にとびあがりこし飛魚をさきはひとしき海を航きつつ」(「さきはひ」は幸いの意味)

昭和天皇は青春時代に訪問された沖縄のことをしっかり心に刻んでおられたのだ。御製碑は宮古神社に建立されている。

 ここまで縷々と青春時代の昭和天皇と沖縄の関係について書いたのは、終戦直後の1947年の時点で、昭和天皇が当時既に米軍統治下にあった沖縄の将来について心を痛めていた事実を明らかにしたいからだ。 

米軍は沖縄を「信託統治」により、将来は米国の自治領にしようと目論んでいた。

 

【おまけ】

熟女の繰言より引用。

「天皇メッセージ」は「天皇の大御心(おおみごころ)」


天皇メッセージ」は、「天皇自らが延命のため沖縄をアメリカに売り渡すと書いた文書」だと誤解している人が沖縄人には多いのだそうです。

これは、全くの誤解であるということを、江崎孝氏は《「天皇メッセージ」の悪用に反駁せよ》という文章で述べています。(『正論』2013.7)

上下二段、8ページにわたる長文ですが、その中からポイントになる部分を紹介したいと思います。

まず、メッセージと言っても、「天皇の密書」が存在するわけではないのです。前回のブログでも書いたとおり、天皇の顧問寺崎英成氏が、昭和天皇の会話の中から、沖縄についての天皇の思いを斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられた、というものなのです。ですから、表現はシーボルトの主観に基づくものとなっていて、天皇のご真意を反映したものとはいえないと述べられています。

では、天皇のご真意とはどのようなものだったのでしょうか。

それには、当時の日本が置かれていた危機的状況を、まず知る必要があります。
・敗戦で丸腰状態になり、経済的にも軍事的にもアメリカの支援無くしては、独立を果たすことも、国内外の共産主義勢力の脅威を防ぐこともできなかった。
・日本国民は、新憲法の謳う平和主義へのバラ色の夢にひたっていた。
・国民も、政治家たちも、食うや食わずの経済的国内事情に関心が集中しており、国際情勢にまで真剣に気を配る余裕がなかった。
江崎氏はこのように説明しています。

その上で、もう少し詳しい形で、「天皇メッセージ」の内容を確認したいと思います。

ーーーーーーー

寺崎氏は、米国が沖縄とその他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると述べた。天皇の意見では、そのような占領は、アメリカの利益にも日本を守ることにもなる。天皇はロシア(ソビエト)の脅威や、占領終了後に右翼や左翼が台頭し、ロシア(ソビエト)に日本の内政に干渉する口実を与えるような”事件”を起こすことを恐れる日本国民の広範囲な承認を得ることができると考えている。

さらに天皇は、沖縄(および要求される他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残した形で長期間の租借ーー25年か50年、あるいはそれ以上ーーという擬制(フィクション)の上で行われるべきだと考えている。

天皇によれば、この占領方式は、アメリカには琉球列島に恒久的意図がないことを日本国民に納得させるだけではなく、他の国々、特にロシア(ソビエト)と、中国が同様(占領)の権利を要求すること阻むことになるだろう」(原文は英語、訳責・江崎)

ーーーーーーー

これを、前回のブログで取り上げた、孫崎享氏の引用と比較してみると、何とも明らかに、孫崎氏の意図が透けて見えてきます。すなわち、当時の世界情勢や、「日本に主権を残した上で」「アメリカには琉球列島に恒久的意図がないことを日本国民に納得させる」という部分の持つ重要性が、全く押さえられていないのです。

この点に注目するなら、昭和天皇が、いかに我が国の安全保障に深い配慮をされていたかが、よくわかります

近代史の専門家である秦郁彦氏が、著書『昭和天皇の五つの決断』(文藝春秋)で述べた次の箇所も紹介されています。

「(昭和)23年早々という早い時点で、アメリカのアジア戦略の動向を正確に察知して、適切な情勢判断を示した天皇の洞察力には、脱帽のほかない・・・」

さらに、対アメリカの情勢は、次のように書かれています。

「当時の日米両国の力関係を言えば、米国は世界一の経済力と軍事力を誇る戦勝国であり、一方の日本は、首都東京をはじめ地方の各都市も空爆により焦土と化した軍備も持たない米軍占領下の敗戦国である。両者の力の差は歴然としており、日本側がアメリカの要求を拒むことは極めて困難であった。」

では、吉田政権は、孫崎氏が言うように、ただの属米路線だったのでしょうか。いえ、そのような情勢下でも、吉田政権は、発言権の強い米国との条約締結交渉に際し、微力ながら必死に抵抗したというのです。

このことは、『日本外交文書ー平和条約の締結に関する文書』に記されています。これは平成13年(2001年)に公開され、翌年刊行されたものです。

この本によれば、吉田首相は、沖縄を「租借地」にしてもよいから、信託統治にすることは思いとどまるよう、米国側に要請したようです。しかしながら、ダレス(大統領でも国務長官でもない、公的役職のない人物が交渉相手であったことからも、日本に対する扱いの軽さが伺えるとのこと)は、すげなく受け流します。

そこで日本側は、次善の策を講じて「沖縄の完全分離」に抵抗を示し、次の条件などを米側に求めたのです。
①沖縄住民の日本国籍確保(潜在主権)
②バーミューダー方式(分離ではなく期限付き租借)
③本土と同様な教育方針の継続(文科省教科書の使用=日本語教育、無償措置法の適用)
④本土と沖縄との経済関係の維持(援護法の優先的適用など)

つまり、吉田政権には、現在の沖縄メディアが喧伝するような、沖縄を犠牲にして本土だけで主権を回復しようという意図はなかったのです。

補記すると、政府は沖縄の学生だけに限る選抜試験を行い、全国の国立大学に国負担で受け入れているのだそうです。ちなみにいろいろと物議を醸している仲井真弘多県知事は、この国費留学制度の恩恵で東京大学を卒業しているとのことです。

〈参考〉http://nippon-end.jugem.jp/?eid=3172


危ない!!
仲井真知事は 中国の帰化人で
沖縄をシナに売りに行ってる



最後に、江崎氏の文章から、もう一節、紹介します。

ーーーーーーー
山本七平著『昭和天皇の研究』によると、昭和天皇は、マッカーサーに「(戦争の)全責任は私にある、という意味のことをいわれた」とされる。「『戦争はすべて私に責任があるから、戦犯の追及をやめ、処刑するなら私一人にして他は免訴して欲しい。そして、国民に責任はないから飢えさせないで欲しい』の意味であろう。」

ーーーーーーー


天皇は、「自身の延命」を望まれたのではなく、戦犯や国民の利益を考えた、まさに「大御心(おおみごころ)」で臨まれたという江崎氏の考えに、私も共感します。


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本日は「屈辱の日」だそうだ(笑)

2016-04-28 06:23:43 | 歴史
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沖縄お悔やみ情報局

 
 今朝の沖縄タイムスの発狂見出しの紹介。

■一面トップ

沖縄先住民見直し探る

外務副大臣 国連認定に見解

きょう 4・28県民大会

「屈辱の日」国との認識いまだ乖離

■社会面トップ

屈辱の歴史 今なお

「4・28」 3氏に聞く

沖縄の視点で学び直す時

琉球大学大学院博士後期過程 親川志奈子さん(35)

差別の構図 解消目指す

県ロック協会会長 宮永永一さん(64)

誇り失われ奄美も「痛恨」

辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会 大津幸夫共同代表(83)

 


 

 

沖縄2紙のことを捏造新聞と呼ぶのは「黒を白と報じ犯罪者を英雄に仕立て上げる嘘つき新聞」であるからだ。

最近ではオスプレイの被災地支援に反対する主婦の声と称して、サヨク活動家の声を針小棒大に報道しているが、このような例は日常茶飯事である。

 

オスプレイ反対の男性 米軍関係車通行阻む

沖縄タイムス 2012年9月21日 10:21

 

普天間飛行場に入ろうとする米軍関係車両の前に立ちはだかる玉城さん=20日午前7時17分、宜野湾市大山
 

普天間飛行場に入ろうとする米軍関係車両の前に立ちはだかる玉城さん=20日午前7時17分、宜野湾市大山

 

 米軍普天間飛行場大山ゲートに近い宜野湾市の国道58号で20日朝、オスプレイ配備に反対するうるま市の自営業玉城毅さん(62)が横断幕を掲げ、約45分にわたって米軍関係車両の前に立ちふさがり、計3台の車が入るのを止めた。玉城さんは「オスプレイが来れば必ず死者が出る。シュプレヒコールで止まらない以上、誰かが体を張らなければいけない。個人が立ち上がれば基地は使用不能になる。またやりたい」と直接行動の理由を語った。

» 基地と原発のニュースをフクナワでも

 「強奪基地 撤去」と書いた横断幕を持った玉城さんは午前7時すぎから、58号沿いの横断歩道で「Yナンバー」車の前に立った。制服姿の海兵隊員らは特に抵抗せずに停車し、最大で約20分足止めに遭った。

 MP(軍警察)の車が来て、足止めされた運転手と何事か話したが、玉城さんには話し掛けず、結局3台ともあきらめて引き返した。通勤時間帯の58号は南向けに一時数百メートル渋滞した。

 阻止行動が始まって約40分後、宜野湾署の警察官が到着。「迷惑だから」と説得する警察官に、玉城さんは「殺人、強盗と、迷惑しているのはウチナーンチュ。追い詰められているんだ」と反論した。

 玉城さんは最終的に12人ほどの警察官に囲まれ、行動をあきらめた。

 飛行場から出る車列から様子を見ていた海兵隊員の男性は「オスプレイに来てほしくないことは分かった」と話した。

 近くの街頭で交通安全指導をしていた男性(71)は「私も市民大会、県民大会に参加したから気持ちはよく分かる。ただ、安全には気をつけてほしい」と語った

                     ☆

>オスプレイ配備に反対するうるま市の自営業玉城毅さん(62)

沖縄タイムスが「さん」付けで英雄のように報じるこの人物、この時点でも明らかな法令違反であるが、過去に刑特法違反などで何度も逮捕歴のある常習犯である。

まさに「犯罪者を英雄に仕立て上げる捏造新聞」の本領発揮の記事である。

          

天間飛行場に侵入した玉城毅容疑者逮捕 照屋寛徳も賞賛!?

Nihon | 26 9月, 2013 | Leave your comment


法を守らないのは左翼活動家の常識のようですが、
今回 玉城毅氏が違法行為を行ったもよう

時事通信の報道

沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場に侵入したとして、県警宜野湾署は25日、日米地位協定の実施に伴う刑事特別法違反(施設または区域を侵す罪)の疑いで、同県うるま市の自称無職玉城毅容疑者(63)を逮捕した。同署によると、玉城容疑者は新型輸送機オスプレイ配備撤回を求める抗議集会の参加者とみられる。

逮捕容疑は25日午前9時ごろ、普天間飛行場北東部の野嵩ゲートの中に許可なく立ち入った疑い。米軍の憲兵隊が拘束し、同日午後2時15分ごろ、引き渡しを受けた宜野湾署員が逮捕した。(2013/09/25-23:40)

引用元: 時事ドットコム:普天間飛行場に侵入容疑=オスプレイ抗議の男逮捕-沖縄県警

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013092501034

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この 玉城毅容疑者ですが 過去にもこんな事件を起している!

2012年9月21日 10時21分

米軍普天間飛行場大山ゲートに近い宜野湾市の国道58号で20日朝、オスプレイ配備に反対するうるま市の自営業玉城毅さん(62)が横断幕を掲げ、約45分にわたって米軍関係車両の前に立ちふさがり、計3台の車が入るのを止めた。(中略)

「強奪基地 撤去」と書いた横断幕を持った玉城さんは午前7時すぎから、58号沿いの横断歩道で「Yナンバー」車の前に立った。制服姿の海兵隊員らは特に抵抗せずに停車し、最大で約20分足止めに遭った。

(中略)通勤時間帯の58号は南向けに一時数百メートル渋滞した。 (以下略)

引用元: 沖縄タイムス | オスプレイ反対の男性 米軍関係車通行阻む.

http://article.okinawatimes.co.jp/article/2012-09-21_39266

去年は自営業で今年は無職?定年したのかな? 玉城さん?
道路に立ちふさがり車を止め 通勤時間に大渋滞を起す 
デモの許可も取ってないのでしょうね、、
自己満足な行動は大迷惑!

              ☆

【おまけ】

本日はオスプレイの被災地支援について、一歩踏み込んで考えてみる予定だったが、見出し紹介でも承知の通り、どうやら今日は「屈辱の日」らしい。

例年、この日は発狂するのが沖縄2紙の年中行事だったことをつい失念していた。(笑)

「屈辱の日」お意味が分からない読者のために、急遽予定を変更して、「屈辱の日」にお付き合いする。

「屈辱の日」のバカバカしさは、過去に何度も書いているので、それをサルベージして紹介しておく。

 

以下は「屈辱の日」?、いつまで続く泥濘ぞ!2015-04-29 の引用である。

           ☆

 

 

1952年4月28日わが国が独立を果たした講和発効の日、当時の沖縄タイムスと琉球新報は紙面を祖国の独立を祝う慶賀の記事で埋め尽くした。

 

祖国日本が独立することにより沖縄の祖国復帰の日が一歩近づいたと実感したからだ。 このときの両紙の論調はまぎれもなく沖縄の民意を反映していた。 

 

これは米軍政府から日の丸の掲揚を認められたときの喜びと同じ種類の喜びだった。

 

昨今の両紙が示す「沖縄の民意は我々が作る」といった傲慢不遜な態度は微塵もない。

 

1昨年、安倍内閣が講和発効の日の主権回復を祝賀する式典を開くと言い出したとき、沖縄2紙が「突発性発狂」の症状を示した。

 

「沖縄を米軍政府統治下に置いたまま独立したの日は『屈辱の日』」というのだ。

 

沖縄2紙の突発性発狂に対して、当日記は複数回反論のエントリーをした。

 

その一部かこれだ。

 

自爆した琉球新報!「屈辱の日」で  2013-04-21

 

 4・28主権回復の日」に賛否両論 2013-04-27

 

本日決行!「屈辱の日」抗議の狂態! 2013-04-28

 

笛に踊らぬ沖縄県民!「屈辱の日」抗議大会 013-04-29

 

 

 

昨日の沖縄タイムスは「屈辱の日」についての発狂はそれほど激しい症状を示さなかったので、スルーしようかと思った。

 

だが、琉球新報の発狂症状は相変わらず激しいものだったらしい。コメント欄にもその余波を感じものがあるので紹介する。

 

 

 

Unknownさん

 

「屈辱の日」とか難癖にも程があるだろ。
当時、そんな事を考えてた人が県民に本当にいたのかね(笑)
いつか、日本にってのが当時の沖縄県民の願いだったと思うんだが、沖縄マスゴミや左巻きの基地外どもときたら、数年前の造語を、さも当時の真実みたいに歴史を捏造するんだから(笑)
マジで死んでくれないかな。

 

 

 

凛さん

 

いつまでウダウダ恨み節垂れ流してるんだ、って話で、自分達が差別されてる、虐げられてるって言うなら、なおさら「負けるか、見てろよ」って相手を見返すぐらいの気概を見せて欲しいのですが、その気配すら見せず、唯々恨み節を垂れ流すだけ。前に進む気も、そもそも前を向く気すらも無い、そんな事で「未来志向」なんて夢のまた夢ですね。 

 

沖縄2紙のダブルスタンダードは翁長知事の報道で実証済みだが、「屈辱の日」についての二枚舌を検証する意味で当時の両紙の紙面を再現してみよう。

 

当時の両紙の紙面はこの通りだ。

 

1952年4月28日・29日の沖縄タイムスと琉球新報の新聞記事である。

画像をクリックすると拡大。


 

 

 



1952年4月28日の沖縄タイムス。








 




 

 

 


1952年4月28日の琉球新報の記事。




念のため両紙の翌29日の社説を検証しても「屈辱の日」どころか祝福の気持ちのあふれた内容である。 

 

 

 

 

 

 

 

                 ☆

 

今朝の沖縄タイムスに4・28「屈辱の日」県民大会に参加、演壇に立った四人の「識者」の写真と見出しが掲載されている。

 

 

 

その中の1人高良鉄美琉大法科大学院教授の「沖縄の主権回復まだ」の意味が不可解だ。

 

 

 

沖縄は現在独立国と主張し、安慶田副知事や、デニー玉城衆院議員が外務大臣のように外交交渉し、安全保障事案の「辺野古移設」を『廃止に持ち込むことが可能とでも考えているのだろうか。

 

  
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昭和天皇の発言録発掘

2011-05-08 07:35:51 | 歴史

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5日の沖縄タイムスに軍服姿の昭和天皇の写真が掲載されてのを見て「おや?」と思った。

 沖縄2紙に昭和天皇の記事が出ることはめったにない.

出るときは決まって残虐非道な日本軍の頂点に立って沖縄人を虐殺し、挙句の果てに沖縄を米国に売り渡したた張本人のような印象の記事が多い。

琉球新報を例にとると、こんな風に。

従軍慰安婦問題など戦時中に起きた性暴力の責任を問い昭和天皇や当時の政府・旧日本軍責任者らを裁いた民間法廷「女性国際戦犯法廷」の開催から10周年を記念した国際シンポジウム「『法廷』は何を裁き、何が変わった」(女性国際戦犯法廷10周年実行委員会主催)が5日、東京都府中市の東京外国語大学で開かれた。元慰安婦らの被害体験を共有し、今後も政府に明確な謝罪と補償を訴え、二度と慰安婦制度が繰り返されないために行動することを確認した。>(米兵性犯罪の実態訴える 女性国際戦犯法廷から 琉球新報)    

5日の沖縄タイムスの記事は共同配信を丸写しなのでとりあえず共同記事をリンクする。

 復興「日本の驚くべき力」と称賛 昭和天皇に米大使称賛


 昭和天皇

 「極秘」と書かれた「外国人拝謁記」の表紙(右)と目録
 
 
 昭和天皇が戦前に外国要人と交わした会話を、通訳の外交官が詳細に記録していたことが分かった。関東大震災の約7年後、復興支援に天皇が感謝し、駐日米大使が「復興は日本固有の力と驚くべき想像力によるもの」と応じている。

 天皇が1930(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約締結を「此上もなく悦ばし」と評価する場面もあり、発見した奈良岡聰智京都大准教授(日本政治外交史)が近く論文を発表する。

 記録は、宮内省(当時)御用掛を兼務した外交官沢田廉三の「外国人拝謁記」。29年9月から30年7月まで各国の大使や高級軍人ら延べ31組と面会した際の会話が外務省の用紙約150枚にタイプ打ちされ、表紙に「極秘」と書かれている。

 30年4月18日、天皇は駐日米国大使のウィリアム・キャッスル夫妻と皇居・宮殿で会食。約7年前の関東大震災の復興について「米国の援助によるところ多く、比較的早く完成せられたるは悦ばしく存じ居れり」と謝意を述べた。大使は「米国は当初にいささか援助したのみ。その後は日本固有の力と日本人の驚くべき想像力によって完成された」と応えている。

 同月13日には、軍縮条約が締結されることを喜び、天皇が英大使に「益々日英米の協力により世界平和の増進せられんことを希望す」と語っている。同年3月にはデンマーク皇太子に人口増加による食料不足がないか質問。29年の世界恐慌以来の世界情勢を憂慮していたことが推察される。

 拝謁記は廉三の関係者が神奈川県大磯町で保管。奈良岡准教授が2007年に発見し、外務省外交史料館に複写があるのも確認した。10年に鳥取県公文書館が発行した廉三の資料集に表紙や一部の写真が掲載されている。

2011/05/04 16:25   【共同通信】

               ☆

記事は、関東大震災のとき、米国が支援したことに対し昭和天皇が感謝の念をあらわした文書が発見されたことに重点を置いている。 見出しも上記引用のようになっている。

だが同じ記事でも沖縄タイムスの見出しはニュアンスがちょっと違う。

軍縮条約締結「悦ばし」

昭和天皇の会話記録発見

昭和天皇が軍縮に対して喜んでおられることに重点を置いた見出しである。

沖縄2紙が流布させる昭和天皇のイメージは決してよいものではない。

第二次大戦中の三大独裁者としてヒトラー、ムソリーニに並んで昭和天皇を持ってくる人もいるくらいだ。

前述したように、沖縄人を虐殺した「残虐非道の日本軍」の頂点に立つ人物が昭和天皇であるという認識だ。

沖縄戦記で頻繁に登場する皇軍とは単なる日本軍を意味するのではなく、昭和天皇の軍隊であり「残虐非道な日本軍」のイメージである。

したがって沖縄で昭和天皇が「独裁者ではなかった」はともかく、「平和主義者であった」と言おうものなら、相当の反撃を食らうことは覚悟せねばならぬ。

言論界で生きようと思うものが昭和天皇は平和主義者だったと述べようものなら村八分を覚悟せねばならないだろう。

だが、昭和天皇が平和主義者であったことは戦後の昭和天皇の研究から明らかになってきた歴史的事実である。

山本七平著の『昭和天皇の研究』によると、昭和天皇は立憲君主たるご自分の立場を頑なに守ったため逆にそれが、足かせとなって統帥権の頂点に立ちながら軍の暴走を許す結果となった。

 

昭和天皇が頑なまでに憲法を尊重する立憲君主として振舞ったことを『昭和天皇の研究』はこう述べている。

<立憲君主・天皇
 世界史において、制限君主制の下で、この制限を破ろうとするのが君主で、破らせまいとするのが議会であるのが普通であった。すなわち「国王と議会との闘争」である。ところが日本では「憲法停止・御親政」、すなわち天皇独裁を主張する強力な勢力があるのに、君主自身が頑としてこれを拒否し、一心に「制限の枠」をその自己規定で守っている。これは世界史に類例がない不思議な現象……。>

つまり君主というものは自分の権力にはめられた多くの制限を可能な限り破って出来る限り専制権力を振るおうとするのが世界史に見る君主の数多くの例であるが、昭和天皇の場合は、憲法を超越して王政復古を唱える勢力を天皇自身が頑として拒否し、「専制の枠」を自己規定で守っている、というのである。

天皇が憲法を超越し、王政復古を唱えた2・26事件の顛末をみれば、昭和天皇が立憲君主としての法を超えることがなかったことが理解できる。

著者の山本七平氏は昭和維新を叫んだ青年将校たちは、当然昭和天皇が自分たちの決起を理解してくれると高をくくっていたことは、結局内心では昭和天皇を愚鈍だと無意識に馬鹿にしていたといった意味のことを書いている。

結局、エリートを自認する青年将校たちも昭和天皇の器を測り知ることが出来ず、「平和主義者」であることも想定外であったのだろう。

 

沖縄タイムスが共同記事をそのまま掲載することは特に珍しいことではないが、見出しを復興「日本の驚くべき力」と称賛 昭和天皇に米大使称賛と震災復興に対する米側の賛辞に重点を置かず、軍縮条約締結「悦ばし」として、昭和天皇の平和主義者的一面を協商したことは珍しいことである。

沖縄タイムスの整理部にも真面目に昭和天皇の研究をし、流布する「昭和天皇=残虐非道の日本軍の親玉」といったいい加減な歴史観から脱皮するきしゃが出てきたのか・・・と思った。

が、やはりいつものアリバイ作りの共同配信ということが本音のようである。

                 ★

 来る五月十六日は「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の第一回口頭弁論が、那覇地裁で行われます。

上原さんの支援団体である三善会では、その報告会を同日正午より午後二時まで奥武山護国神社社務所大会議室にて行いますので、ご多忙の中とは存じますが、参加下さいます様にご案内申し上げます。 

参加費は、昼食の弁当代を含め千円となります。準備の都合上、参加頂ける皆様には、下記の事務局に一報下さいます様にお願い申し上げます。

「パンドラの箱掲載拒否訴訟」那覇地裁第1回口頭弁論報告会

 日時:5月16日(月)正午~午後2時まで

 会場:奥武山護国神社社務所大会議室(2F)

 会費:1000円(昼食弁当代込み)

 報告者:上原正稔・徳永信一弁護士

 参加頂ける方は、準備の関係上、下記の事務局まで一報下さい

 事務局:090-9780-7272 ニシコリまで

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 ★「パンドラの箱訴訟」の支援カンパの協力
お願いします。 
ゆうちょ銀行 総合口座(普通) 
記号 17010   番号 10347971
三善会(サンゼンカイ)
沖縄県宜野湾市真栄原1-11-1-702 

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大統領の承認を得ていたフライングタイガース

2011-03-03 06:41:11 | 歴史

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 続・フライングタイガース アメリカの「卑劣なだまし討ち」を一部加筆したものです。

 
何年か前、スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」を見た。
このタイトルを「私的なライアン」と思い込み、首をかしげた記憶がある。
 
だがこの場合の「プライベート」は「兵卒」「二等兵」の意味である事を後で知って納得した。
 
戦場で行方不明になった「一兵卒」に過ぎない「ライアン」の捜索に捜索隊が派遣されるとiうアメリカ得意のヒューマニズムを訴える戦争映画と知ってtタイトルの意味が腑に落ちた。
 
アメリカの兵役についても「ドラフト」とか「ボランティア」と日本語化された用語なので、つい誤解の迷路に迷い込む。

◆アメリカの兵役
ドラフトと聞くと飲兵衛なら生ビールを想像して生唾を飲むだろうし、野球ファンなら最近ではハンカチ王子の祐ちゃんや八重山商工の大嶺を思い浮かべるだろう。

英単語「draft」を新グローバル英和辞典でも検索すると、
 
先ず「描くこと, 線描」と有るし、勿論「生ビール」もあるが、

5番目に「糧食・軍勢・資金の)調達, 徴発;((the ~))徴兵[徴募]制度;((集合的))徴募兵;《スポーツ》ドラフト制 」とある。

つまりアメリカでは徴兵のことをドラフトと言う。

だが、現在のアメリカに徴兵制(ドラフト)は無い。

イラクでの戦死者が3000人に達したアメリカの兵役は徴兵制ではなく志願兵でまかなっていると聞くと驚く。

泥沼に入り込んでいる「イラク戦争」に更に二万人余の派兵をするというが、アメリカではこれを志願兵で対処していることになる。

志願兵はアメリカでは、ボランティア(volunteer)と言い、しばしば日本語の「義勇軍」と言う言葉に置き換えられる。

だが「義勇軍」という日本語の定義を誤ると歴史を見誤る。

スペイン戦争の折、ヘミングウェイ等の知識人が参加したことで知られるように、「義勇軍」とは 「戦争・事変の際に、人民が自発的に編成する戦闘部隊」のことを指す。

日本では1873年に国民皆兵を目指す徴兵令が出され、幾多の戦争を専ら徴兵で乗りきって来たので、志願兵とか傭兵、或いは義勇兵という言葉はあまり馴染みがない。

                 ◇

◆ファシズム対民主主義の戦い

戦後民主主義で育った者は次のように歴史を習った。

第2次世界大戦はファシズム対民主主義の戦いである。

例として高校用世界史の教科書である山川出版の『新世界史』(昭和61年3月5日発行)の記述を覗いて見る。
 
    「1920年代から30年代にかけて,とくに世界恐慌が先進工業諸
    国をおそってから,イタリア・ドイツ・日本にあいついでファ
    シズムやそれに似た政治体制がうまれ,民主主義をとる国々と
    の対立が激しくなり,世界はふたたび,さらに大規模な世界戦
    争に突入した」(313頁).「独ソ戦が始まるとソ連と米・英関
    係が好転し,イギリスはソ連と軍事協定を結び,アメリカは大
    量の戦略物資をソ連に送った.…こうして全体主義に対する民
    主主義の戦いという戦争の政治的性格が強まり,交戦諸国の戦
    意も高まった」(342頁).

驚くべきことに,殆どの教科書にはソ連の参戦を戦争の民主主義防衛の共同戦線だとして平気で記述している。

数々の新資料の公開で、ソ連が多くの自国民を平気で虐殺し,ナチス顔負けの全体主義国家であったことが今では歴史的事実として認識されている。

◆真珠湾の7ヶ月前に日本爆撃計画

日本の真珠湾攻撃の7ヶ月も前に、米軍が 蒋介石軍に荷担して、日本爆撃を計画し、陸軍長官、海軍長官、 そしてルーズベルト大統領自身が承認のサインを与えていた書類 が明るみに出た。

この作戦には350機のカーチス戦闘機、150機のロッキー ド・ハドソン爆撃機を使用するとし、また大阪、神戸、京都、東 京、横浜の爆撃には木造住宅の多い日本民家に効果のある焼夷 弾を使用すべきとする内容もあった。

後の本土空襲の原形がすでに考えられていたのである。

だが実際には、欧州戦線への爆撃機投入を優先したため、この計画 は実施が遅れて、その前に真珠湾攻撃となった。

この計画が突飛なアイデアでない証拠として、すでに米軍の最新鋭戦闘機とパイロット約100名、地上要員約200名 のフライング・タイガースと呼ばれる一隊が、義勇兵を装って、蒋介石軍に参加していた事実は前に書いた。

上記の爆撃計画は、この戦闘機部隊に爆撃機を加えて、日本本土を直接攻撃しようという拡張案なのである。

これに対してフライング・タイガースはあくまでも中国軍に自主的に参加した義勇軍であり、アメリカの正規軍ではないので何の問題も無いと主張する論もある。

■フライングタイガースは「大統領承認書」を得た正規軍

フライング・タイガースは正式名をアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)と言うが、その実体は志願兵(Volunteer)によるアメリカ軍であった。

ボランティアと聞くと無償の善意の集団を想像しがちだが、フライング・タイガースは高額の条件で政府の募集に応じた志願兵集団であった。

フライング・タイガース生みの親クレア・リー・シェンノートは、蒋介石に乞われ重慶に着任後、

「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行い、

この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国にも承認されている。

派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コルコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由して行うといった形をとった。

また中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、中国国民党軍が資金を使い部隊を集める形式を取った。

1940年の夏にシェンノートは中国空軍増強の目的で優れたパイロットを集めるためにアメリカ合衆国に一時帰国した。(ウィキペデリア)

アメリカ本土に到着したシェンノートは早速、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、アメリカ軍隊内で早速パイロットの募集を募った。

シェンノートの理想は当然、メンバーは戦闘機乗りであること、飛行錬度は高いことが条件であった。

またアメリカの中立という立場から「義勇兵」という形で集められたアメリカのパイロットは計100名。

しかし形こそは義勇兵としていたが、実質はアメリカ空軍のパイロットが殆どであり彼等は元の階級への復帰を保証されていた。

世界の目を誤魔化すためにパイロット達全員は義勇の目的からアメリカ軍を一旦退役する必要があった。

さらにAVGとしての活動中、パイロット達には下記の条件が与えられた。

軍退役後は全メンバーに一時金500ドルを支給
中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束
毎月600ドルを全てのパイロットに支給
月支給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給

またAVGパイロット全員のフライトジャケットの背中には中華民国軍を援助する米国人飛行士であることを示す認証が縫い付けられた(ウィキペディア)。

正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって義勇軍の意味はなく、1942年7月3日、軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。

だが、これは完全な中立義務違反で、これがが国際法上許されるなら、たとえば台湾が中国に攻撃された場合、自衛隊を一旦除隊させて「義勇兵」として台湾に送れば、日本は中国と台湾に対し「中立」と「平和憲法」を維持したまま、実質的に参戦できることになる。

何よりもフライング・タイガースが所謂「義勇軍」ではなかったという証拠は、日本の真珠湾攻撃の7ヶ月も前に、米軍が 蒋介石軍に荷担して、日本爆撃を計画し、陸軍長官、海軍長官、そしてルーズベルト大統領自身が承認のサインを与えていた書類が明るみに出たことである。

シェノートが最初に中国入りした時期がルーズベルトの大統領就任時期より前だった、ということを根拠にフライング・タイガースはアメリカ正規軍ではなく、義勇軍だという説がある。

だが、少なくとも1941年初頭から始まった大統領命付きの「義勇軍募集」に応募した軍人達は、如何に「義勇軍」の名に隠れても米国正規軍の世を忍ぶ仮の姿であった。

the American Volunteer Groupがサンフランシスコ港をオランダ船で出発した1941年7月10日の直前には、二回目のAVGの派遣時の「100人のパイロット」「181人の射撃手」を1941年11月までには中国に到着するよう派遣すると言う大統領の承認を得ている。(★)

それだけではない。

さらに驚く事には、フライング・タイガースによる日本爆撃計画推進者の推進者だったロークリン・カリー大統領補佐官(当時)は、実はソ連と極秘情報のやりとりをしていたことが、当時の米暗号解読機関によって確認されていた。 

≪この文書はVENONA資料と呼ばれ、1940年代後半、ニューヨークとワシントンにあるソ連代表部とモスクワ間の交信記録を米特殊機関(戦後の国家安全保障局=NSA)が暗号解読したものだ。

カリー補佐官はカナダ生まれの経済学者で、39年から45年まで 大統領補佐官(経済担当)をつとめた。

41年初頭には対日戦略を調整するため米国の中国支援担当特使に任命され、ルーズベルト大統領と中国国民党の蒋介石主席(当時)の橋渡し役をしていた。

48年にソ連スパイだったことを告白した政府職員、エリザベス・ベントレーによる「カリー氏もスパイだ」という訴えをきっかけに、カリーは米下院・非アメリカ委員会の追及を受けた。
 
しかし最後まで容疑を否定し、50年に米国市民権を放棄し、南米コロンビアに移住、93年に死亡している。

ソ連がスパイを送り込んで、日本と蒋介石軍との戦いをアメリカに支援させていた動機は容易に理解できる。

両者が戦えば、毛沢東軍が漁夫の利を占めることになり、中国共産革命が近づく。

さらに日米戦争ともなれば、ソ連にとっても日本からの軍事的脅威はなくなり、ドイツと日本から挟撃されるという最悪の事態を避けられる。まさに一石二鳥の見事な謀略なのである。≫(「国際派日本人講座」http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog116.htmlよりの引用)

 

光あるところに影がある。

表面に見える歴史の奥底には人知れぬドラマが潜んでいる。

フライング・タイガースは今まで歴史の闇に埋もれ、民間人の冒険野郎の単なる「冒険物語」としての伝説から、アメリカ正規軍としての歴史の表舞台に登場したのである。

The first contingent (of pilots) of the American Volunteer Group left San Francisco on July 10, 1941, aboard the Dutch ship Jaegersfontaine.  Just before leaving, Chennault received confirmation of Presidential approval for the second American Volunteer Group of bombers with a schedule of 100 pilots and 181 gunners and radio men to arrive in China by November, 1941, and an equal number to follow in January, 1942. (HISTORY: American Volunteer Group (Flying Tigers) http://www.flyingtigersavg.com/tiger1.htm

拙訳(アメリカ義勇軍(AFG)のパイロットの第一次派遣団は、オランダ船「ジャガースフォンティン」に乗船し1941年7月10日サンフランシスコを出航した。 その出発の直前、シェノートはAGFの第二陣派遣団のために次のような内容の「大統領承認書」を受理していた。

「大統領承認書」にはこう記載されている。「第二次派遣団には1941年11月までには中国に到着するパイロット100人、射撃手181人が含まれ、そして1942年の1月には同じ人数の派遣団が派遣される」)。

◆フライング・タイガースの公式ウエブサイト(http://www.flyingtigersavg.com/

◆参考: Air Force A BRIEF HISTORY WITH RECOLLECTIONS ANDCOMMENTS BY GENERAL CLAIRE LEE CHENNAULT 

 

【おまけ】

真珠湾攻撃の二年前に日本軍と戦闘していたヒーローとして、1942年製作のアメリカ映画でフライングタイガー兵士を演じる若き日のジョンウェイン。

The Flying Tigers are a band of American Mercenaries called upon by China to help fight the Japanese two years before Pearl Harbourimdb.com :: Flying Tigers

Curtiss P-40E at the National Museum of the United States Air Force.

 

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フライングタイガースは米国正規軍だった

2011-03-02 12:43:26 | 歴史

 

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本稿はフライング・タイガース アメリカの「卑劣なだまし討ち」に一部加筆したものです。

 

だいぶ前のことだが、「パール・ハーバー」と言うハリウッド映画を見た。

所詮はアメリカの視点のハリウッド映画なので、ある程度の予測はしていたが、余りにもアメリカのご都合主義で貫かれた映画だったのには驚かされた。

歴史は自分たちの都合の良いよう歪曲されていた。

細部をここで取り上げる余裕は無いが、こんな映画でも全米で記録的ヒットをしたと言うから、たかが映画だと軽く見るわけに行かないと一人憤慨した。

映画の、キーワードは「リメンバー・パールハーバー」と「スニーク・アタック(卑劣なだまし討ち)」だった。

映画の中では再三この言葉が繰り返され日本憎悪のキーワードに使われていた。

                 ◇

1991(平成3)年7月6日付ロサンゼルス・タイムズ紙の一面に、

米国民間人パイロットにより結成された対中国義勇団、通称フライングタイガースが、実は米国の正規兵であったことが米国当局によって公式に確認された、との記事が掲載された。

このフライングタイガースは、中国国民党(蒋介石率いる台湾政府)に協力して日本軍機を撃墜した部隊だが、これまで民間義勇軍であり米国陸軍省や米国大統領とは無関係であると米国防総省は主張してきた。

ところが同記事は、今までの主張を覆して米国務省がフライング・タイガース(AVG)の生存者100人を退役軍人と認定した、と伝えたのだ。

「日米開戦五十年」の記念日のこの年、フライング・タイガース結成から50年にして、

アメリカ政府は公式にフライング・タイガースを「義勇軍」ではなくて「正規軍」であったことを認めたのだ。

これは、日本の真珠湾攻撃以前に「中立国」であったはずのアメリカが、自国の「中立法」を侵して日中戦争に介入し、

宣戦布告なしの「SNEAK ATTACK」を日本にした、と政府が公的に認めたことを意味する。

フライング・タイガースと言っても日本では知る人は少ない。

だがフライング・タイガースの存在は、アメリカでは第二次大戦の英雄として知らぬ者がいないといわれる。
 
中国やビルマ戦線での「活躍」は世界中に知れ渡り、いまなお出版物があとを断たないという。

フライング・タイガースのロゴ入りジャンパーその他のグッズは今でも人気で販売されている。

そういえば沖縄では虎のマークを刺繍したジャンパーが米人のお土産グッズ店で今でも人気だと聞いた。

フライング・タイガースの創立には中華民国の蒋介石夫人・宋美齢が深く関わっている。
 
幼少の頃からアメリカに留学をして完璧な上流英語を話す蒋介石夫人・宋美齢は、アメリカの支援獲得に乗り出し、特にルーズベルト夫人メアリーの後援を受けた。

宋美齢はホワイトハウスで演説をした初めての東洋女性と言われている。
 
又タイム・ライフ社の社長の知己を得てタイムの表紙をも飾り、完璧な英語でラジオ等で中国の危機を訴える宋美麗の姿に、アメリカ人は「東洋に嫁に行った娘が里帰りして苦境を訴えている」と言ったイメージを抱き、蒋介石のアメリカの支援取り付け作戦は大成功した。

こうしたアメリカ上流階級との豊富な人脈からルーズベルト大統領の支援を取り付け、フライング・タイガースの創立者、退役軍人シェンノートとの遭遇に至るのである。
 
こうして「中立法」の壁を密かに踏みにじり、蒋介石は「人、物、金」を米国が提供し、中国空軍の識別マークで戦う異例の航空部隊を創設させる事に成功した。
 
まともに事を運べば明確な「中立法」違反であるから、シェンノートは身分を偽って「中国銀行員」を装い、軍事作戦は商行為の仮面をかぶって行われた。
 
1941年初頭から隊員の募集が始まった。
 
給料は月600ドルで、日本軍機一機を撃墜するごとに500ドルのボーナスが支給されるという破格の厚遇。
 
現役軍人から人員を募集する大統領特別令も出された。
 
ルーズベルトは500機からなる部隊を準備し、中国派遣を命じた。
 
これが「義勇軍」フライング・タイガース(AVG)の実態であった。
 
陸軍航空部隊長の1941年8月のメモによれば、米国正規軍としてのフライング・タイガース(AVG)の創設はすでに「大統領と陸軍省が承認していた」という。
 
フライングタイガースが米国を出発してビルマに到着したのは昭和16(1941)年春のことであった。

この事実は日本が開戦回避を必死で模索してワシントンで日米交渉を行っていた時、既に米国側は対日参戦にひそかに踏み切っていたことを示しているのである。

アメリカが「リメンバー・パールハーバー」と対で使う「SNEAK ATTACK」(卑劣なだまし討ち)は、実は真珠湾以前に既にアメリカによって行われていたのである。

【おまけ】

中国の飛行場で「フライングタイガース」のエンブレムのサメが描かれた米軍P-40戦闘機の隊列を護衛する中国人兵士、1942年撮影。


A Chinese soldier guards a line of American P-40 fighter planes, painted with the shark-face emblem of the "Flying Tigers,"
at a flying field somewhere in China, cira 1942. Photo courtesy of National Archives.

 

日本の戦闘機と交戦するフライングタイガー米戦闘機

 

フライングタイガーの創始者シェノート大将

General Claire Lee Chennault

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「真珠湾」の前の日米戦争

2011-03-02 05:27:29 | 歴史

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わが国にA級戦犯はいない!」の続きです。

 ■二人の「軍人の孫」

東條由布子氏はおそらくは祖父の汚名をそそぐのが目的の講演をしたかったと思われたが、ご本人の控え目な性格のせいなのか、実際の講演は、祖父の弁明は物足りないほど少なく、沖縄戦での戦没者に対する懺悔の言葉が大半を占め、冒頭も「申し訳ない」の言葉で始まった。

そして多くの県民が戦争の犠牲になった沖縄で、自分のような立場の者が講演するとは考えても見なかったと続け、石を投げられる覚悟で講演依頼を受けたとも。 

続く話題も東條大将の話にはあまり触れず、自身が体験したパラオでの遺骨収集の際、洞窟の天井に彫られた「島袋」の文字を見て、沖縄の人がこんな遠い南の南洋ででも戦っていたと実感し胸が一杯になったといった話が講演の大半を占めた。 途中で祖父東条英機の弁明のような話をしたが、いずれも軽く触れただけで、もっと強く祖父の弁明をしても良かったのに、と感じた。

同じ軍人の孫でも、沖縄守備の第32軍の司令官・牛島中将のお孫さんでありながら、沖縄で祖父を貶める講演をして回っている教員がいるのとは好対照であった。

毎年慰霊の日の6月23日前後になると、わざわざ沖縄にやってきて、祖父の悪口を言ってまわって自己満足している牛島貞満先生のことである。

牛島先生の講演は、日教組のイデオロギー洗脳の恐ろしさを示す。


軍抗戦「住民に犠牲」 牛島司令官の孫・貞満さんが沖縄戦語る

2005年6月20日      

沖縄戦について授業する牛島貞満さん(右)=豊見城市立長嶺小学校
 沖縄戦で日本軍を指揮した牛島満司令官(中将)の孫に当たる牛島貞満さん(51)が20日、豊見城市立長嶺小学校(大城早智子校長)で「牛島満と沖縄戦」のテーマで平和学習の授業を行った。「沖縄戦ってどんな戦争だった?」と児童たちに質問すると、「住民が多く死んだ」「持久戦だった」などと回答。牛島さんは「人が人でなくなるのが戦争。沖縄は本土の時間かせぎの戦争だった」などと説明した。

 牛島さんは東京都の小学校の現職教師。長嶺小学校では昨年10月にも授業した。今回は6年生の3クラスを対象に学級ごとに2回ずつ、2日間に分けて授業する。
 最初に自分の名前が祖父の「満」一文字をもらって付けられたことを紹介。実家には写真を元に描いた祖父の絵が額に入れられて飾ってあったことも話し「小さいころからいろいろな人に牛島司令官のお孫さんですかと聞かれ、大人になってから調べないとと思うようになった」と話した。
 米軍に大敗し、追いつめられた日本軍が首里決戦か南部撤退かを迫られ、南部撤退を選んだことで、さらに住民の犠牲を増やしたことを説明。司令官の役割について「作戦を決定することと、戦争を始め、終わらせること」と述べ、牛島司令官が「最後まで敢闘」するように伝え、自殺したことが、住民の被害を増やしたと指摘した。
 授業後、牛島さんは牛島司令官について「家では穏やかで、子煩悩な人だったようだ。沖縄でも当時、長勇参謀長らと比べて穏やかで軍人らしい軍人といわれているようだ。評価は難しいが、やったことから考えてもらいたい」と話した。
 名嘉竜治君は「どんな作戦があって、なぜ多くの住民が死んだか分かった。戦争は悲惨で、多くの悲しみと苦しみを生む」と感想を話した。

                       ☆

東條由布子氏の講演は祖父である東條大将の弁明というより、日本が真珠湾を奇襲攻撃をしたという理由で、アメリカが喧伝する「卑劣な日本」に対する反論に力点を置いていた。

日米が開戦する前から、「アメリカ軍が後に正規軍と認めざるを得なかった軍隊を、どんどん中国戦線に投入したという話があった。

偶然だが当日記は5年ほど前、これに関連する「フライングタイガー」についてエントリしている。

日米開戦前から卑劣な日本攻撃をしかけていたのは、実はアメリカの方であった。

それがこれ。

「真珠湾」の4年前から日本と戦っていたアメリカ人少将

 「幻のAmerica’s Sneak Attack on Tokyo」

 1941年12月8日。

日本の「真珠湾攻撃」によって日米戦争が始まった。

だが、その四年前アメリカは既に日本と戦っていた。

卑怯にも(sneak)日本攻撃(attack)の準備をしていたのだ。

そのときアメリカ製戦闘機を駆って日本軍と戦っていたアメリカ人士官とアメリカ人戦闘機集団がいた。

                    *

アメリカでは軍戦没者は一兵卒でも英雄として扱われる。

最近のテレビ映像等でもイラクで戦死した兵士の棺を星条旗で包んで国に殉じた英雄として丁重に扱うシーンが記憶に新しい。

昨年の2005年5月28日、アーリントン墓地に約四百人の老いた退役軍人が終結した。
彼らはフライングタイガースの元隊員であった。 

フライングタイガースの元隊員といっても、大阪の道頓堀川に飛び込む熱狂的な阪神ファンのことではない。

日米開戦の四年前、既に日本と交戦状態にあった中国に航空部隊として参戦した「アメリカ合衆国義勇軍」の事をフライングタイガースと称していた。

この軍戦没者慰霊祭に参列している一人の年老いた東洋系婦人がいた。

元軍人集団の中心にいるこの老婦人はフライングタイガースの創設者シェンノート元少将の未亡人、陳香梅であった。

時は遡り今から16年前の1989年。

あるアメリカの航空貨物会社が消滅した。

航空貨物会社「フライングタイガース」が世界最大のアメリカ航空貨物社「フェデックス」に吸収されたのだ。

この会社は大戦終了の年1945年に設立の44年の歴史を誇っていた。
しかしその社名の由来は終戦の年から更に八年時代をさかのぼり故シェンノート少将に行き当たる。

この航空貨物会社「フライングタイガース」の名前は1937年誕生のアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)に由来していた。

日本では天空を駆ける想像上の生き物として「天馬」がある。

だが中国には飛竜が一般的だが、空を飛ぶ虎は無敵であるという故事から「飛虎」という想像上の無敵の動物を敬う。

中国を愛したシェンノートはこの中国の故事に因んでフライングタイガースという名の航空義勇軍を創設した。

因みに写真で見るフライングタイガース戦闘機は頭部に歯をむき出して大口を開けているサメの絵が描かれている。

戦闘機の体形上虎よりサメの方が描きやすかったのだろうが、フライングシャークス、「飛鮫」では大陸国家中国の空を雄飛するには格好がつかない。

その代わり乗務員は翼の生えた虎のマークの入ったエンブレムを背中に貼り付けていたようだ。

フライングタイガースを創設した故シェンノート少将。

アーリントン墓地ではその夫人が約400名の退役軍人にエスコートされ、
「中国人の誰もが知っているアメリカ軍将軍」として今でも中国人に愛されている故シェンノート少将といったいどんな人物なのか。

シェンノートは1893年9月6日テキサス州に生まれた。
1937年7月、中日戦争が全面戦争に突入すると、シェンノート大佐は昆明に航空学校を設立して、積極的に中国空軍の対日作戦を支援した。

大佐はパイロットの養成だけでなく、自ら戦闘機に操縦し戦闘にも参加している。

日米戦争が勃発すると、アメリカ政府は積極的に中国を支援する方針を採った。

1942年7月、航空志願部隊は第10航空隊中国特別派遣部隊に編入され、准将に昇進したシェンノート氏がそのまま指揮に当った。

1943年3月、部隊はアメリカ陸軍航空隊第14航空隊に再編入され、シェンノート氏は少将に昇進する。

1941年7月に組織されたアメリカ志願部隊は23戦闘機大隊から第14航空隊に編入されるまで、シェンノート氏は一貫して志願部隊の指揮を執り、自身も退役将校から少将にまで昇進した。

シェンノートン少将の中国に対する思いは深く、中国人を夫人にし、昆明に家を建てて、生涯を中国で過ごすことを希望していた。

1945年7月、日中戦争勝利を目前に、シェンノート少将は8年間暮らした中国を離れ、アメリカに帰国した。

このとき、中国人の群集がシェンノート少将を見送りに集まっている。
人々は彼の乗用車を取り囲み、まるで駕篭を担ぐように乗用車を担ぎ上げ、数時間かけて中心広場まで運んだという。
広場のひな壇はフライングタイガースのエンブレムで飾られ、花束でアーチが築かれていた。
別れを惜しんで握手を求める人々の長蛇の列にシェンノート少将は、感激の涙を流した。

この情景はマッカーサーがに離日した時の日本人のマッカーサーに対する惜別の表現を髣髴とさせるものがある。

・・・・・で、そのフライングタイガースが一体どうしたのかって?

今までの話は単なる前書きであって本題は今から始まる。

日本人には馴染みの薄いシェンノートというアメリカ軍人がアメリカ人による「義勇航空隊フライングタイガース」を中国に創設した1937年という年度に注目して欲しい。

その年シェノートが義勇軍を創設して数ヵ月後に事実上の日中戦争の開始とも言うべき盧溝橋事件が起きている。

そのころの中国大陸は蒋介石率いる国民政府、毛沢東率いる共産政府が分裂し各地で内戦が行われていた。その間を掻い潜るように日本軍が右往左往していた。

シェンノートは中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。

当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。

着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察してまわった。

そしてそれまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。

この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。

アメリカは当時中立政策をとっていたため表面だって中国を支援する事は国民の支持を得にくかった。

「リメンバーパールハーバー」より遡ること四年前の事である。

つまりアメリカは「真珠湾の卑劣な攻撃(sneak attack)」の実に4年も前から日本と交戦していたのである。

歴史に「もし」は許されない。

だが密かに計画されていた「1941年9月下旬の
ロッキード・ハドソン長距離爆撃機による東京、大阪の空爆計画」が実行されていたら

「東京空爆を忘れるな!」(リメンバー;・東京)

が日本の合言葉になっていただろう。

これ嘘のような本当の話。

1958年7月27日、シェンノート少将はアメリカで死去したが、中国系アメリカ人の陳香梅夫人は今も健在である。

                        ◇

「フライングタイガーズ」のパイロットは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によって、当時の新米パイロットの5倍相当に当たる月給600ドルと日本軍機1機撃墜ごとに500ドルという破格の報酬で、全米各基地から集められた。全員は農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビルマに集結。蒋介石政権が米国に借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた」
(読売新聞1991年7月8日)

 

驚くべきことに、フライングタイガーズが東京や大阪の奇襲攻撃を計画していた

作戦には350機のカーチス戦闘機と150機のロッキード・ハドソン長距離爆撃機が参加の予定で、うまくいけば(1941年)9月下旬には東京や大阪に大量の焼夷弾をばらまいて木と紙の日本の家屋を焼き尽くすはずだった。だが、「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地には10月下旬になっても肝心の爆撃機は到着しなかったのである。(中略)需要の多い爆撃機はその年の暮れになっても届かず、41年12月7日の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、中国大陸を経由した日本爆撃そのものがほごにされ、計画はやみに葬られた
(産経新聞2000年7月15日

                          ☆

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わが国にA級戦犯はいない!

2011-02-28 08:49:22 | 歴史

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昨夜、東条英機元首相のお孫さんにあたる東條由布子氏の講演会に参加した。 

主催者側の話によると、当初、軍人アレルギーの強い沖縄で「A級戦犯」の代表格といわれる東條大将の身内の講演会を聞きに来る人は少ないのでは、といった心配はがあったという。

東條英機というとすぐ連想するのがA級戦犯というアメリカが作った概念である。 さらに東條には戦争を始めた独裁者であるというイメージが付きまとう。 

とくに地元二紙が「残虐非道の日本軍」というキャンペーンを行っている沖縄では、現役軍人で首相になった東條大将には極悪人のイメージさえある。

主催者が参加者の動員を心配するのも当然だが、、これは杞憂に終わった。

開演前から小雨がぱらつく空模様に聴講者の出足が鈍るのではないかと懸念したが、開演の6時半には、満席で、予備の椅子を出すすほど多くの老若男女が参加した。 

この手の講演会に老若男女とは相応しくない表現だが・・・そう、参加者の年齢層は、ご高齢のおじー、おばーから二十歳代の若者まで多岐にわたっており、見方によっては「お祖父さんの隣に孫が座っている」とも思える光景が多く見られた。 

■首相の靖国参拝に何の問題もない 

東條英機ときいて、「A級戦犯」に続いて連想するのが靖国参拝問題である。

政治家、特に首相や閣僚が靖国参拝をすると、左翼マスコミがここぞとばかりに叩きまくる。 それに呼応して中国が猛抗議してくる。

お定まりのパターンである。

菅首相は靖国参拝についてこう述べている。

「A級戦犯合祀の問題から首相や閣僚の公式参拝には問題がある。
首相在任中に参拝するつもりはない」

この発言しておきさえすれば左翼マスコミの批判に晒されずにすむというから日本とは不思議な国である。

日本人である日本の首相や閣僚が靖国神社を参拝して何の問題があるというのだ。

■外国人指導者の靖国参拝

いや、日本の首相・閣僚のみならず、外国の要人・外交官・駐在武官・軍人等が参拝しても何の問題もないし、事実参拝しているのだが、マスコミが報じないので知らないだけの話である。

各国指導者の参拝は⇒スリランカ・タイ・インド・ドイツ・スイス・フィンランド・ポーランド・ルーマニア・スロベニア・ロシア・エジプト・イスラエル・トルコ・アメリカ・チリ・ブラジル・オーストラリア・パラオ・ソロモン諸島・・・・。

靖国参拝に問題があるのなら、外国の指導者が参拝してもマスコミは批判するはずだが、マスコミが外国指導者の靖国参拝を批判する話は寡聞にして知らない。

■東條英樹は戦争回避のため首相になった

連合国の復讐劇とも言われる「東京裁判」で、事後法で捌かれたのが、「A級戦犯」であり、「犯罪」の種別を示した便宜上の分類である。

誤解する人が多いが、「A級」が「B,C級」より重罪の戦犯という意味ではない。

さて、東條元首相はヒットラー、ムッソリーニと並ぶ独裁者で、戦争主義者であるといったイメージは間違いであり、首相に就任した最大の理由は昭和天皇の意向を受けて戦争を回避する最後の切り札として、東條大将が首相に推薦されたと書いた。

だが、結果的には軍部を抑えることができず、昭和天皇の意向を裏切る形で日米開戦に突入することになる。

昨夜の講演会で、東条由紀子氏が母親から聞いた話によると、日米開戦の前の晩の12月7日の深夜、祖父英樹の部屋からすすり泣きの声が聞こえたという。 不審に思った母親がそっと見にいくと、祖父英樹が布団の上に正座してすすり泣いており、やがてすすり泣きは慟哭に変わったという。 そのとき東條大将が振り絞るように漏らした言葉は「陛下があれほど望まれていた戦争回避が失敗に終わって、申し訳ない」(要旨)ということだったという。

■わが国にはA級戦犯は存在しない

「A級戦犯」の代表格と看做されている東條英樹だが、そもそも現在日本には「A級戦犯」はいない。

昭和27年から28年にかけて国会議決により、A級戦犯により死刑になった方々は公務死とされ、その名誉は回復されている。

したがって「A級戦犯」を合祀してある靖国神社を参拝することは法的、道義的に一かけらのの問題もない。 問題だと騒ぐのは半日マスコミと特亜三国だけであることは周知のことである。

昨夜の講演会では時間の都合で深く触れなかったが「A級戦犯」は現在の日本には存在しないという事実について昭和27年、28年の国会議員の発言を調べてみると、「A級戦犯」の名誉回復に一番熱心だったのは、あの福島瑞穂の先輩である社会党議員だったというから、昔の社会党にはまともな議員も多くいた、と今昔の感に打たれる。

■名誉回復

昭和27年12月9日の衆議院本会議。

社会党、自由党、改進党、無所属倶楽部の共同提案で「戦争犯罪受刑者の釈放等に関する決議」が圧倒的多数で可決された。

発議にあたって社会党の古屋貞雄議員は次のような発言をしている。

「敗戦国のみ戦争犯罪の責任を追及するということは、正義の立場から考えてみても、基本的人権の立場から考えてみても、公平な立場から考えてみても、私は断じて承服できないところであります。・・・・世界人類の中で、最も残虐であった広島、長崎の残虐行為をよそにして、これに比較するならば、問題にならぬような理由をもって戦犯を処分することは、断じてわが日本国民の承服しないところであります。 ことに、私ども、現に拘束中のこれら戦犯者の実情をちょうさいたしますならば、これらの人に対して、与えられた弁明ならびに権利の主張をないがしろにして下された判定ででありますことは、ここに、多言を要しないのでございます」。(『日本を蝕(むしば)む人々 平成の国賊を名指しで糺す 』 渡部 昇一著より引用)

さらに翌年の昭和28年「戦犯」として処刑された人々を「公務死」と認め、遺族の生活を援助するための遺族援護法改正が国会の場で議論された。

社会党の堤ツルヨは次のような正論を述べている。

「処刑されないで判決をうけて服役中の者の家族は留守番家族の対象になって保護されておるのに、早く殺されたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。 しかも、その英霊は靖国神社の中に入れてもらえないということを今日の遺族は非常に嘆いておられます」。(引用:同上書)

念のために断っておくが、これは保守系愛国議員の発言ではない。

福島瑞穂の先輩である社会党議員の切々たる訴えである。

戦後まだ7,8年しか経過していないわが国においては、国を愛し、国のために戦った先人を敬愛する真摯な心根を革新政党である社会党の議員でさえ持っていた。

それがいつの日にか国を売るような政党に成り果てたのか。

実に興味深い堤ツルヨ社会党議員の訴えである。

つづく

 

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併合条約は無効?菅政権、対韓配慮で

2010-08-23 07:45:07 | 歴史

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NHKが去る8月14日に放送した『日本のこれから』と題する討論番組で、在日韓国人映画監督の崔洋一氏の暴言を聞いた。

朝鮮学校で反日歴史観を叩き込まれた在日韓国人の本音が垣間見えて興味深かった。

番組は日本人の若者グループと在日を含む韓国人若者の討論会の生放送であったが、

外交評論家の岡本行夫氏、映画監督の崔洋一氏、NHKの韓国に詳しい小倉紀蔵京都大学准教授、そしてタレントのユンソナの四人が、番組の行司役の「有識者」として、二つのグループの間に鎮座していた。

テーマが「歴史問題」に変ったとたん、韓国側の若者の表情が一変した。

一斉にというよりまるで申し合わせたように「日帝支配36年」の悪逆非道を声高に罵倒し始めた。 

韓国側が揃って「日韓併合」の非道な仕打ちを糾弾するのに対し、日本側は「歴史は勉強してない」とか「学校の歴史で近現代史は習わなかった」を理由に韓国側の糾弾を一方的に聞く状況だった。

そんななか1人の日本人の若者が果敢に反論した。

その要旨を三点挙げるとこうだ。

(1)韓国側は先の大戦で、日本と韓国が戦ったような意見を述べているが、それは間違い。 当時の韓国人も日本人も大日本帝国の同じ国民であった。 戦争を謝罪するなら日本人も韓国人も一緒に謝るべきだ」

(2)日韓併合は、当時の世界の常識でいえば植民地支配は合法的であり、合法的手続きで行われた。

(3)ソ連の南下など当時の流れの中では、日本が韓国を併合したことはやむをえなかった。

それを聞いた崔氏が突然ぶち切れた。

「36年間にわたる植民地支配を肯定するという考え方の人は、基本的に歴史を語る資格がない」と強い口調で若者を恫喝した。

大学で歴史を専攻したというこの若者が反論を試みたが、怒りを満面に表した崔氏の「君には歴史を語る資格がない」の怒声に黙ってしまった。

崔監督の隣にいた小倉紀蔵京都大学准教授から権力者が一般参加者の表現の自由を奪ってはいけないと諌められたが、それに対しても崔監督は「オレは権力者ではない。 一般市民だ」などと強弁していた。

が、あの場合の崔監督はあの番組の中ではまぎれもなく権力者の地位にいた。

崔洋一氏という朝鮮学校で「反日教育」を叩き込まれた在日朝鮮人が、日韓関係の歴史問題の識者として国営放送の番組に登場し一般参加者の言論を封殺したのだ。

韓国側の歴史観は全て正しいといったNHKの番組構成も異常だが、

反日歴史観を一方的に教え込む朝鮮学校を国民の血税で補助するという民主党政権も更に異常である。

併合条約「当時は有効」を封印 菅政権、対韓配慮で
 菅政権は、韓国の統治権を日本に譲与するとした1910年の日韓併合条約締結に関し「当時の国際法に照らし、有効だった」とする従来の政府見解に言及せず封印する方針を固めた。政府関係者が21日、明らかにした。「強制的に結ばされた条約で無効だ」と主張する韓国への配慮が必要と判断したため。

 政府見解見直しについては「(65年の)国交正常化以来の日本の主張を覆すことになる」(外務省幹部)として応じない。条約調印から22日で100年。菅政権は未来志向の関係を強化する方針だが、見解をあいまいにする姿勢は議論を呼びそうだ。

 政府関係者によると、菅直人首相と岡田克也外相は先の併合100年首相談話を検討する過程で、95年10月に村山富市首相(当時)が「当時の国際関係等の歴史的事情の中で法的に有効に締結され、実施されたと認識している」とした国会答弁を基本的立場として維持する方針を確認。ただ、韓国がこの答弁直後に猛反発した経緯を踏まえ、公言しないことにした。

 小泉、安倍内閣は条約の有効性を認めた政府答弁書を閣議決定しており、自民、民主両党の保守系議員が反発する可能性もある。

                        ◇

外国との合意だろうが条約だろうが一国の責任者が過去に行った約束を簡単に破棄できるなら、外交なんて猿でも出来る。

普天間移設に関わる日米合意をいとも簡単に破棄し、日米同盟に亀裂をいれた鳩山内閣。

負けじとばかりに菅内閣は、1910年の日韓条約の有効性を曖昧にし、結局は破棄の道へと進むらしい。

「有効性を封印する」とは、その延長線上には「日韓併合条約は無効であった」とする意図がミエミエである。

「封印する」と「無効である」とは別問題だという向きもあろうが、

外交の責任者である岡田外相は既にこんな暴言を吐いている。

「(1965年締結の)日韓基本条約の際に両国間で議論になり、今や無効だとの考え方で落ち着いた」と。


日韓併合条約締結 岡田外相「有効」明言せず(8/20産経)
 岡田克也外相は20日の記者会見で、100年前に締結された日韓併合条約の有効性に関し、「(1965年締結の)日韓基本条約の際に両国間で議論になり、今や無効だとの考え方で落ち着いた。それに何か付け加えるべきものがあるとは考えていない」と述べた。
 政府は、日韓併合条約は「国際法上有効に締結された」(平成18年6月の政府答弁書)との立場をとってきた。岡田氏は韓国に配慮し、「有効」と明言することを避けたとみられる。


                      ◇

売国奴内閣の論理から言えば、自国の国益より先ず相手国の国益が優先する。

相手国に配慮し「有効」と明言することを避けていると、その行き着く先は「無効」であり、その無効な条約で「強制併合」されたのなら、膨大な賠償要求が発生してくる。

ちなみに「強制併合」は、前述のNHKの討論番組で韓国側若者の発言の中に頻発していた。

賠償金については日韓基本条約で全て決着済みというのがこれまでの政府の基本方針であった。

だが国家間の「合意」だろうが「条約」だろうがいとも簡単に反故にする民主党政権のことだ。 日韓基本条約には慰安婦への個人補償が無かったので、無効であると言い出さないとも限らない。

明治期の先人達が当時の欧米列強と結んだ不平等条約を改正するためどれだけ苦労したかを民主党内閣が知らないはずは無い。

ことほど左様に一旦締結された条約は破棄どころか、改正するのさえ多大の困難を伴う。

民主党政権のように、条約を簡単に反故にできるのなら、外交なんて猿にも出来ると書いたが、

猿ではなかった我が国の明治期の先人達が、不平等条約の改正に大変な苦労をしたのは高校の歴史で習っただろうに。

今日のまとめ。

(1)朝鮮学校で反日歴史観」を叩き込まれた崔洋一氏のような反日在日を行司役の「知識人」として出演させるNHKに抗議する。

(2)その朝鮮学校に血税で補助金を出す菅内閣に抗議する。

(3)日韓併合条約の有効性を明言しない菅内閣に抗議する。

(4)余計なお世話の「菅談話」に抗議する。

そもそもそんなに簡単に条約を反故にするのなら、先ず「村山談話」「河野談話」そして今回の「菅談話」を反故にせよ。

【おまけ】

菅売国奴内閣は、条約反故の三国同盟でも結ぶつもりか。(怒)

「併合条約は無効」で一致 韓国と北朝2010年8月22日       

 <【ソウル、平壌共同】「韓国併合に関する条約」調印から22日で100年。29日は条約が発効、日本による朝鮮半島の植民地支配が始まって100年となるが、韓国、北朝鮮ともに「併合条約は無効」との立場で一致している。>(共同通信)

 

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朝日の捏造だった皇居前の号泣写真、終戦の日

2010-08-14 07:20:39 | 歴史

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朝日新聞が捏造したウソの記事が、後にそれがウソであることが論証されても「歴史」として一人歩きした例は「南京大虐殺」「従軍慰安婦強制連行」等など枚挙に暇が無いほどである。

捏造記事の帝王とも言える朝日新聞の子会社テレビ朝日が「8月15日の捏造写真を暴く」と大上段に構えてはみたが、それが親会社のブーメランとなるオソマツ劇だったとは・・・。

コメンテーターの 山口一臣さん、あなた朝日のOBでしょうが。

昨日(13日)のテレ朝「スーパーモーニング」は、「終戦は本当に8月15日だったのか、その真相に迫った」と題する終戦特集番組を組んだ。

6月15日の玉音放送に聞き入りながら号泣する国民の写真。 終戦の象徴ともいえる心に迫る光景である。

ところが、「スーパーモーニング」によると、それがねつ造だった可能性があるというのだ。

番組は昭和20年8月15日付「北海道新聞」に掲載された「玉音放送に、頭を垂れて聴き入る坊主頭の子供の写真」から本人を付きとめ、カメラマンに頼まれ意味も分からないまま写真のようなポーズを取ったいう証言を引き出している。

8月15日の「捏造写真」の後、番組は終戦の日以降も戦争が行われていたという占守島で、ソ連と戦った元日本兵の武蔵哲さんの証言を放映している。

占守島の戦争は、ソ連が「日ソ不可侵条約」を破って、一方的に仕掛けてきた理不尽な戦いであることはいうまでも無い。

コメンテーターの 山口一臣氏や大谷昭宏氏が、戦後行われたソ連の理不尽な攻撃に怒って見せ、もっと国民に知らせるべきだと主張していたが、

何を今頃寝ゴトを云っているのだ。

ソ連の理不尽さを意識的に報道しなかったのは彼らサヨクマスコミではなかったのか。

終戦後、粛々と武装解除した日本兵をシベリヤ抑留し、多くの犠牲者をだしたのは理不尽なソ連軍ではなかったのか。 

同じ外地でも台湾には残留孤児が出なかったのに、満州には多くの残留孤児が出たのは戦後のソ連の理不尽な攻撃のせいではなかったのか。

そして、そのソ連の狼藉を口をつぐんで批判しなかったのはサヨクマスコミではなかったのか。

ソ連軍の対日宣戦布告の理不尽さは、ここでの主題ではないので、これくらいにしておく。

捏造写真に戻る。

「8月15日の捏造写真」で、テレ朝「スーパーモーニング」は鬼の首を取ったように北海道新聞の「写真」を画面に見せていた。

終戦の日の象徴といえば朝日新聞が掲載した「皇居前の号泣写真」こそ、最も全国に知られた写真であり、これは教科書にも掲載されている。

だがこの朝日新聞が報道した終戦の日、6月15日の皇居前の「号泣写真」が捏造であったことを朝日新聞の子会社のテレビ朝日が知らなかったとなると、とんだ大笑いである。

手元に2005年発行の「文藝春秋」「戦後60周年総力特集」(2月号)があるが、その特集の中で、外交評論家の加瀬英明氏が、「捏造された『宮城前号泣記事』」と題する記事を書いている。 その年2005年から31年前の1974年には、既に朝日新聞の「終戦の日の皇居前の捏造記事」に気が付いていたと記している。

加瀬氏は今から36年前の昭和49年5月から翌年4月にかけて「週刊新潮」に、終戦の日から始まるノンフィクションを連載したが、資料として見た敗戦の日、8月15日の朝日新聞縮小版で、奇妙なことに気がついたという。

同誌から引用する。

<昭和20年8月15日の朝日新聞の1面は、「戦争終結の大詔渙発さる」という見出しが横切っている。 2面には二重橋の写真の下に「玉砂利握りしめつつ宮城を拝しただ涙 嗚呼(ああ)・胸底抉(えぐ)る6年の戦ひ」と見出しが、組まれている。
記事は「溢(あふ)れる涙、とめどなく流れ落ちる熱い涙、ああけふ昭和20年8月15日」と始まっている。 記者は「歩を宮城前にとどめたそのとき、最早私は立ってはおられなかった、抑へ抑へて来た涙が、いまは堰(せき)もなく頬を伝った、崩れ折て玉砂利に伏し、私は泣いた、声をあげて泣いた、しゃくり上げ、突き上げて来る悲しみに唇をかみ得ず、激しく泣いた」・・・>

加瀬氏が引用する朝日の、思い入れたっぷりな文章はこの後も情緒連綿と続くが、煩雑なので省略する。

朝日新聞は、終戦の日の一日前まではこのような感情に訴える文言で国民を扇動していたわけだから、終戦の日に一夜にして記者の文体が変るはずも無いが、

加瀬氏が奇妙に思ったのは朝日の誇張した文体ではなく、その描く皇居前の風景が朝日の捏造ではないかということである。

「文藝春秋」の引用を続ける。

<当時の新聞は物資が欠乏していたから、裏表2ページだった。 当時、朝日新聞社で働いていたOBを取材したところ、この日の新聞は正午前にすでに刷り上って、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された。 この日だけは前日の閣議で、終戦の詔勅が放送されてから配達されることに、決まっていた。
この記事は玉音放送の前に書かれていた捏造であったのである。(略)

私の連載誌が発行されて、すぐに青森市の花田省三から、この件について経緯を説明した手紙をいただいた。 花田氏は学校教員だったということだが、当時は学生で、工場動員によって福島市にある航空無線機工場で働いていた。 そして上司からいわれて、東京に外注部品を促進するため上京した。
花田氏の手紙から、引用しよう。
「14日、何時ものように栄養失調の足を引き摺(ず)りながら、宮城前の明治生命館6階にあった日立製作所の事務所へ、ネオン管の催促に行った。 (略)
そこを出て、『宮城を前に来たから拝んでいこう』という気持ちで二重橋の方へ歩いていったところ、丁度『写真』の位置で、腕章を巻いたカメラマンに呼びとめられ、『写真を撮りたいので、そこに」土下座して欲しい』と言われた。 他に写真のように多くの人が座らされ、『撮しますからお辞儀して下さい』といわれて撮られたのです。
後で振り向くと、件(くだん)のカメラマンが腕で涙を拭っていたので、『何か様子がおかしい』と思い、又、『何かの記念になるかも知れない』と思って、『写真が出来たら譲って欲しい』と頼んでみた。 すると、『この写真は特別のものだから呉れるわけにはいかない。 しかし、明日正午過ぎたら社に来てみれば、或いはあげられるかもしれぬ』と云って、又涙を拭った。
妙な気分で、その場を去ったが、それでも、まだ敗戦ということは思い浮かばなかった。(略)

それにしても、私が取材したところでは、玉音放送の数時間後に都内でこの日の朝日新聞を手にした読者のなかで、不思議に思った者がなかった。 当時も今も、従順な読者が多いのだ。 
ルビは世界で日本語にしかないが、新聞には「やらせ」とルビを振るべきだと思う。>

                       ◇

蛇足ながら加瀬氏の結語の皮肉は、新聞と書いて「やらせ」と読ますべきということ。

テレ朝の親会社の朝日新聞の終戦後第一回の発行紙が「捏造新聞」だったということは、その後の同紙の捏造体質を考えれば、さもありなんと言うべきだが、それを子会社のテレ朝がブーメラン報道したとはとんだ大笑いである。

テレ朝「スーパーモーニング」がブーメラン報道した同じ日(13日)の読売新聞が「捏造」を証明する記事を掲載しているのも皮肉である。

(上) 土下座写真は作られた?
8月15日 玉音放送 
 
 1945年8月15日、終戦の玉音放送を聞き、悲しみに肩を落とす人々を撮影した数々の写真は、終戦の瞬間として長く認識されてきた。しかし、この写真は前日に撮影された「ポーズ写真」との説もある――。

 青森市に住む花田省三さん(79)は、終戦前日の14日、仕事帰りに皇居前で腕章をつけた青年に声をかけられた。「写真を撮りたいので、土下座してください」。突然で訳が分からなったが、そのまま砂利の上で土下座した。19歳の時だった。

 花田さんは、旧制弘前中を卒業し通信技術などを勉強した後、福島市の工場に派遣された。東京大空襲があった45年3月ごろから、東京の工場にいた。

 周りでは、同様に10人ほどが土下座をさせられている。「何に使いますか」。思い切って聞いたが、教えてくれなかった。「写真、くれませんか」と尋ねると、「これは大事な写真。明日の正午を過ぎたらあげられるかもしれない」と意味ありげな言葉が返ってきた。写真を撮り終えて脚立を降りる時、青年は手で涙をぬぐっていた。

 翌15日。玉音放送は、工場のラジオで聞いた。「ニューギニアに連行される」と工場ではデマが飛び交い、逃げるように乗り込んだ路面電車で、乗客が持つ新聞を見て驚いた。午後に発刊されたばかりの新聞が敗戦を報じ、前日に写されたのと同じ「土下座写真」が掲載されていた。脇には、「宮城前にひれ伏す赤子(せきし)」とのキャプションが書かれていた。一瞬、「あの写真がなぜ…」と思ったが、逃げたい一心ですぐに忘れた。帰りの電車では、陸軍と海軍の兵士が「お前が弱いから負けた」と言い合っていた。「戦争はくだらないな」と思った。

 60年がたった今年、花田さんはある新聞記事で、8月15日に皇居前で土下座する人々を撮影した写真が、「前日14日に撮影された『ポーズ写真』の可能性がある」と指摘した記事を読んだ。「やはりあの時、カメラマンの青年は玉音放送が流されることを知っていたのでしょう。敗戦ムードが漂っていましたから」

 終戦の約1か月前、郷土は青森空襲でひどい戦禍を受けていた。その傷跡を目にしたのは戦後3年ほどしてからだ。奇しくも妻哲子さん(74)は青森空襲を経験していた。現在は、空襲を後世に語り継ぐ活動をしている。「彼女は火の下をかいくぐって助かった。その額には焼夷(しょうい)弾の傷跡があるんです」。終戦の日の前日の奇妙な出来事と、戦禍にあえいでいた市民の姿の隔たりが今も心に引っかかったままだ。

                      ◇

読売は「この写真は前日に撮影された『ポーズ写真』との説もある」と慎重な表現にしているが、

加瀬氏が朝日ОBに取材したところ、「その日の新聞は正午前にすでに刷り上って、玉音放送が終わったころには、都内の販売店や、地方へ積み出しが始められていた。地方によっては、朝刊が夕方から夜になって配達された」という。

朝日の捏造であることは間違いない。

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国を売る「菅談話」

2010-08-13 08:32:39 | 歴史

 

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民主党は、自民党政権が決めた政策は、その内容のいかんに関わらず、「踏襲しない」というより「否定する」という姿勢でやってきた。 インド洋の給油タンカー派遣は言うに及ばず、普天間移設民では「踏襲しない」にこだわるあまり、14年にわたる模索の結果である「辺野古移設」を踏襲しなかったため、寝た子を起す羽目に陥り、墓穴を掘った鳩山首相のルーピーぶりはまだ記憶に新しい。

麻生政権が行って思わぬ経済効果を生み始めたエコカー減税も9月で打ち切るというから、やはり「踏襲しない」にこだわるつもりなのか。 これでは折角増えた自動車メーカーの「エコ減税利益」も迫り来る円高で消し飛んでしまうどころか、更なる円高不況が懸念される。

そんな経済オンチの菅首相はノンビリ中夏休みとしゃれ込んでいるが、「注意深く見守る」でけでは済む問題ではないだろう。

この緊急時に休暇とは、「菅談話」で歴史に名を刻んだとでも錯覚しているのであろう。

そう、売国奴としてわが国の歴史に名を刻んだことだけは間違いない。

閣議決定に署名した各閣僚も間違いなく一蓮托生で「売国奴」の汚名を歴史に刻むことになる。

菅首相は談話発表前に、内容は「村山談話」を踏襲すると発言していたが、ならばわざわざ「菅談話」などと寝た子を起すような大愚を行わず、

歴代自民党政権が行っていたように「村山談話を踏襲する」の一言で済まさなかったのか。

「併合100年」だからだから、首相談話が必要だという向きもあるが、一体日本の首相は何度謝罪を続ければ済むのか。

桜井よし子氏によると陛下を含む日本の歴代首脳が実に36回も謝罪しているというではないか。

櫻井よしこ 菅首相に申す】36回…なぜ謝罪続ける

「歴代内閣を踏襲する」の一言で済むことを、閣議決定による首相談話として新たに謝罪文を公表すれば、それが「個人賠償」という新たな火種になることくらい小学生でもわかること。

何を今さら屋上屋を築き新たな火種を作る必要があろう。

早速、韓国側に不満が続出でこの有様だ。

 韓国市民団体、日本首相「謝罪談話」に失望表明(聯合ニュース 8月10日)

植民地支配の被害者の補償問題に対する言及もない、言語的修辞にとどまったことが残念だとし、全体的な流れから見ると、韓国と日本間の不信と障壁を乗り越えるには不十分だったとした。

 太平洋戦争犠牲者遺族会も、「本当に期待に及ばない内容だ。日本が本当に反省しているのか疑わしい。談話にある『痛切な反省』も信じられない」と述べた


 文化財返還と関連しては、国際法改正で日本が保有したくてもできなくなっていると指摘し、日本は韓国から持ち出した文化財をすべて返還すべきだと強調した。

 
韓国挺身隊問題対策協議会もまた、植民地支配で苦痛を受けた被害者問題
に対する明確な見解を明らかにせず、謝罪だけするのはまったく意味がないと強調。歴史問題を真実で解決しようとするなら、被害者への補償と立法措置を行うべきだと提案した。

                      ◇


日韓併合100年:首相談話 「条約の強制性に言及せず遺憾」--民団コメント(毎日新聞 8月10日)

首相談話について、在日本大韓民国民団中央本部は、村山首相談話を踏襲した内容を評価する一方で「(日韓併合)条約の強制性に言及していないことは遺憾。
謝罪や反省より、条約自体が無効であることを認めることが、今後の日韓関係にはプラスだ。
併合の結果として日本に在住している在日韓国人の参政権の早期付与を望む」などとコメントを発表した。
在日本朝鮮人総連合会中央本部は「コメントなどを出す予定はない」としている。


                       ◇

火種はさらに中国にまで飛び火し、今度は中国にも謝り続けるとう構図が「菅談話」で出来上がりつつある。

【首相談話】中国紙も高い関心「日本のおわびは韓国だけでない」(産経 2010/8/11)>

中国の次は何処に謝ればいいのだ、菅首相。(怒)

                       ◇

ただ「菅談話」を発表したからといって直ちに「戦時売春婦」に対する個人賠償の動きがあるとは思わないが、「菅談話」によってわが国が韓国に対して弱みを持ったことを外交上認めたことはまぎれもない事実だ。

韓国側は謝罪に対する賠償として、金銭による賠償(日韓基本条約で決着済み)といった目に付く手段でなくともいくらでもある。

が、特に気になるのがこれだ。

在日本大韓民国民団中央本部は・・・・「併合の結果として日本に在住している在日韓国人の参政権の早期付与を望む」などとコメントを発表した

謝罪による日本側の弱味に付け込んで韓国が次々と要求してくると予想できる外交案件は、ざっと思いつくだけでも、このとおりだ。

1)竹島は韓国領土と認めよ。

2)日本海は東海と呼称変更せよ。

3)歴史教科書に従軍慰安婦の強制連行を記述せよ。

4)靖国参拝は止めよ。

効果てきめん、(4)に対しては売国閣僚が先回りして早速恭順の意を表している。⇒
全閣僚が靖国参拝見送りへ=菅内閣、終戦記念日に(時事通信 8月10日)

考えるだけで頭が痛くなってくるが、売国奴閣僚の靖国参拝見送りのコメントが振るっている。

国家観がスッカラカンの菅首相が靖国参拝をしない理由に「A級戦犯云々」を挙げているのはA級戦犯の意味が分からない無知のせいだと一応の納得はしても、

閣僚の中でも少しは骨があるかと思っていた前原国交相がスッカラ菅の言葉を踏襲するとは。

やはりこの男もただのクズであることが分かっただけでもよしとしよう。


閣僚の靖国参拝見送りに関するコメント>(時事通信 8月10日)

菅首相        A級戦犯が合祀(ごうし)。首相・閣僚の公式参拝は問題
原口総務相      内閣の方針に従う
千葉法相       公式参拝は控えるのが基本的な内閣の考え方
岡田外相       A級戦犯が合祀されており、閣僚の参拝は不適切
野田財務相      まだ判断していないが、多分行かない
川端文科相      静かな環境でその日を迎えたい
長妻厚労相      A級戦犯の合祀にかんがみて
山田農水相      カトリック信者のため
直嶋経産相      予定はない
前原国交相      A級戦犯が合祀されているため
小沢環境相      閣僚としては行かない
北沢防衛相      終戦関連の本を読んで思いをいたす
仙谷官房長官     閣僚は参拝を自粛するのが従来の政府の考え方
中井公安委員長    帰省中
荒井国家戦略相    参拝予定がない
玄葉公務員改革相   閣僚として参拝することはない
蓮舫行政刷新相    理由は特段ない
自見郵政改革・金融相 近隣の国が不愉快に思うことは閣僚として避けるべきだ

                         ◇

売国奴として日本の政治史に汚点を印した閣僚の「言い訳」を聞いて笑ってやって欲しい。

山田農水相のトンチンカンな勘違い弁明はおいても、あの蓮舫行政刷新相の言い草は一体なんだ。

一国の大臣という要職にありながら、何の信念も無く、ただなんとなく見送る、というわけか。

 

ここで今流行の謎かけを一つ。

◆蓮舫とかけて,

ジェームスディーンと解く。

その心は・・・・。

どちらも「理由無き反抗」をしています。

お後がよろしいようで。

 

【追記】

先ほどテレ朝「スパーモーニング」のインタビューで「貯蓄税というのがあることは寡聞にしてしらない」と発言し、全国に恥を晒した野田財務大臣。

一般の人ならともかく経済通のエリート官僚を「政治主導する」という財務大臣が、貯蓄税の実行の当否はさておいても、貯蓄税の存在そのものを知らないとは、経済オンチの菅首相をはじめ飛んだ学級委員内閣に国の運営を任したことを、悔やむべきだ。(民主党支持者へ)

その野田大臣、売国奴閣僚の中では比較的まともな国家観を持つ言動をしていたが、靖国参拝に関して「まだ判断していないが、多分行かない」とは一体どういうことか。

その時々で国家観が揺れ動くとでも言うのか。

野田大臣は過去には、こんなまともなことも言っていた。

小泉純一郎内閣総理大臣に宛てた質問主意書で「A級戦犯と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない。戦争犯罪人が合祀されていることを理由に首相の靖国神社参拝に反対する論理は不可思議」、「南京大虐殺肯定派の論理は破綻している」と政府の戦後史観の対応の甘さを批判した。>(ウィキペディア)

「A級戦犯合祀」を理由に参拝拒否をした、菅首相、岡田外相、長妻厚労相、前原国交相に対して、そんな論理で参拝拒否は不思議」だと批判できるのか。

どうせ何もいえないクズだということが分かっただけでも収穫だが、いずれにせよクズの集団でよく内閣を作ったものだ。

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「琉球処分」が沖縄タイムスの今年のテーマ?

2009-01-08 07:55:33 | 歴史

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現在でいう国という概念が日本に定着するのは明治期になってからである。

国という言葉は古くは「大国主の尊」にみられるが、戦国時代の国や司馬遼太郎の『国盗り物語』で盗リあいをした国々は、現在で言えば県と県が侵略しあっていたことになる。

ちなみに「国」のつく言葉は思いつくだけでも、「国訛り」「お国言葉」「(殿様の)お国入り」などがある。

ちなみついでにもう一つ挙げると、川端康成の名作『雪国』に出てくる有名な冒頭の一節「国境のトンネルを抜けるとそこは雪国であった」に出てくる「国境」は「くにざかい」と読むのが正しい。(・・と思うが、確証はないので詳しい方教えて)

それが明治期になって、それまで国といわれた各藩が中央政府によってすべてを没収されることになる。 

侵略史観に立てば明治政府による地方国家の侵略であり、琉球王国が琉球藩、そして沖縄県と明治政府に組み込まれていくのも侵略だということになる。

さて、今年の沖縄タイムスは「沖縄が日本の一部に組み込まれていく状況」がテーマのようで、今朝の朝刊文化面も連載企画の第四回で「琉球処分」と大見出しである。

「琉球処分」とは琉球から沖縄に代わる際の行政手続の様子をいうが、「恨み史観」で見ると遠く慶長の「薩摩の琉球入り」を称して「第一次琉球処分」、明治期のそれを「第二次琉球処分」そして大戦後の米軍統治下の沖縄を「第三次琉球処分」と呼ぶらしい。

三つの「処分」に共通するのは「恨み史観」である。

以下は「琉球処分」に関する1年前のエントリーの再掲です。

                   ◇

 

■ 「琉球処分Ⅲ」■

「琉球処分」も廃藩置県も日本各県が経験したという視点で見れば日本史流れのの中の共同体験だと言うことが出来る。

廃藩置県は全国諸藩の意志に関係なく、反対する藩があれば容赦なく武力で討つという明治政府の威圧の元に断行された。

その意味で言えば、確かに「琉球処分」は廃藩置県の一種だといえなくもない。

明治維新の原動力となった薩長土肥の下級武士は出身藩の兵と資金でもって幕府を倒した。

それにも拘らず、倒幕から成立した明治政府によって倒幕を支援した藩そのものも潰され、更には武士の誇りも特権も経済基盤である禄高制さえ取り上げられ四民平等の「国民」に組み込まれた。

自分の資金と人材により幕府を倒し新政府を作ったら、その新政府が今度は自分の全ての権益を取り上げ更には解体を迫る。

倒幕派の藩主から見れば、歴史上これほどバカバカしい話はない。

現在の例えで言えば投げたブーメランに己が身を打ち砕かれたようなものだろう。

島津藩主久光が家来の西郷隆盛や大久保利通が突きつけた「廃藩置県」の断行に怒り狂った気持ちは一世紀以上の時を隔てても理解できる。

明治の群像を『飛ぶが如く』や『坂の上の雲』でみずみずしく描いた司馬遼太郎氏は、

「琉球処分」という言葉が多くの琉球史では一見琉球のみに加えられた明治政府の非道な暴力的措置のように書かれていることに疑念を投げかけている。

「(琉球処分と)同時代に、同原理でおこなわれた本土における廃藩置県の実情については普通触れられてはいない。 つまり、本土との共同体験としては書かれていない。」(「街道をゆく 6」)

琉球が特殊な歴史・文化を持っていることは認めても、「琉球処分」はウチナーンビケン(沖縄独特)ではない。

日本史の明治国家成立の過程で見られる普遍的な歴史的現象だというのである。

琉球の場合は、歴史的にも経済的にも、本土の諸藩とはちがっている。 更には日清両属という外交上の特殊関係もあって、琉球処分はより深刻であったかも知れないが、しかし事態を廃藩置県とという行政措置にかぎっていえば、その深刻のどあいは本土の諸藩にくらべ、途方もない差があったとはいえないように思える。」(「街道をゆく」⑥27頁)

しかし、このように「琉球処分」を琉球独自の歴史ではなく日本史の中の明治維新の一過程と捉える司馬氏の歴史観には沖縄の左翼歴史家は猛然と反発するだろう。

その例が先日取り上げた某大学講師の、

琉球は日本ではないのだから、琉球処分は明治維新の国造りの過程ではなく、海外侵略である」という論である。

その論に従うと「琉球処分」は無効だという。

煩雑を承知で、その無効論を再引用する。

<「人道に対する罪を構成」

戦争法規の適用

では、日本による琉球統治は正当だったのか。 日本が琉球の領土支配正当化するためには、日本が琉球を実行支配してきたか、もしくは琉球人に日本人としての帰属意識があることを証明する必要がある。

紙幅の関係上結論を先に述べると、日本による琉球の日本の領土編入は、国際法上の主体である琉球の意志を無視した、明治政府による暴力的で一方的な併合であり、国際法上大きな疑義があるということである。(上村英明『先住民族の「近代史」』>(琉球新報 1月15日)

このような論が当時から沖縄に存在するのを司馬氏は先刻ご承知のようで、自分で表立って反論せずに沖縄民俗学の大家・比嘉春潮氏の著書からの引用でやんわりと対処している。

<何にしても、私は10年ばかり前では、沖縄と本土とが歴史を共有しはじめた最初は廃藩置県からだ、とばかり思っていた。 しかし、そのことはすこしのんきすぎたようでもある。 ホテルの部屋にもどって~ベッドの上に寝転がっていたが、このことを考えはじめると、眠れそうにない。 
雑誌「太陽」の1970年9月号に、比嘉春潮氏が「沖縄のこころ」という、いい文章を寄せておられる。

≪沖縄諸島に日本民族が姿をあらわしたのは、とおく縄文式文化の昔であった。 このころ、来た九州を中心に東と南に向かって、かなり大きな民族移住の波が起こった。 その波は南九州の沿岸に住む、主として漁労民族を刺激して、南の島々に移動せしめたと考えられる。 この移動は長い年月の間に、幾度となくくりかえされた。 そしてここに、言語、習俗を日本本土のそれと共通する日本民族の1支族ー沖縄民族が誕生する。≫

沖縄人の由来について、これほど簡潔に性格に述べられた文章はまれといっていい。 さらに「沖縄民族」という言葉については、氏はその著『新稿沖縄の歴史(三一書房)の自序において、「フォルクとしての沖縄民族は嘗て存在したが、今日沖縄人はナチオンとしての日本民族の1部であり、これとは別に沖縄民族というものがあるわけではない」と、書いておられる。

日本民族の中における沖縄人の巨視的関係位置はこの優れた民族学者のみじかい文章で尽くされているわけで、いまさら私が、那覇の町で思いわずらうこともなさそうである。
しかし、という以下のことを書く前に、1氏族が1社会を構成する前に歴史の共有ということが大きい、ということを、つい思わざるをえない。 日本の本島のなかでも、歴史をすみずみまで共有したのは、さほどの過去ではない。 例えば奥州の青森・岩手の両県が九州の五島列島とおなじ歴史の共同体験をするという時代は、秀吉の天下統一からである。(略) 豊臣政権下で大名になった五島氏は、明治4年の廃藩置県で島を去り、東京に移された。 旧藩主を太政官のおひざもとの東京に定住させるというのは、このとうじの方針で、薩摩の島津氏の当主忠義も、長州の毛利氏の当主も東京にいわば体よく長期禁足されていて、丘陵地に帰ることを許されていない。 このことは最後の琉球王尚泰においても同じである。>(「街道をゆく 6」)

大きな流れで言えば沖縄民族は日本民族の支流である、の一言で某大学講師の「琉球処分=違法な植民地侵略」論を粉砕している。

それでも司馬遼太郎氏は「共同体験をしたから結構だといっているのではない」と断り書きを入れて、

琉球藩が廃藩置県以前、250年にわったて薩摩藩から受けた「痛烈な非搾取の歴史」を述べて日本史上他の藩と異なる特殊性を完全に無視はしていない。

司馬氏は「司馬史観」と呼ばれるリアリズムを歴史小説のバックボーンにしており、

封建制国家を一夜にして合理的な近代国家に作り替えた明治維新を高く評価する。

その歴史観によれば「琉球処分」も日本が近代国家建設のため中央集権国家を作っていく合理主義つまりリアリズムの産物であり、肯定的な見方をしている。

■「鉄の暴風」に毒された「司馬史観」■

一方で、「司馬史観」は昭和期の敗戦までの日本を暗黒時代として否定して自虐史観に陥っていく。

沖縄史に関しても明治期の「琉球処分」では日本の発展していく過程の歴史共有(廃藩置県)として前向きに捉えていたのが

「沖縄戦」となると突如大江健三郎氏と同じ軸足で歴史を見るようになるから不思議だ。

「街道をゆく 6」でも「琉球処分」を述べた後に次のようなくだりがある。

<太平洋戦争における沖縄戦は、歴史の共有などという大まかな感覚のなかに、とても入りきれるものではない。
同国人の居住する地域で地上戦をやるなど、思うだけでも精神が変になりそうだが沖縄では現実におこなわれ、その戦場で15万の県民と9万の兵隊が死んだ。
この戦場における事実群の収録ともいうべき『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)という本を読んだとき、一晩ねむれなかった記憶がある。>(「街道をゆく」6-1978年刊)

なるほど、『デマの暴風』とも言われる『鉄の暴風』を、沖縄戦の「戦場における事実群の収録」として読んだら流石の司馬遼太郎先生も精神が変になりそうで、大江健三郎を彷彿させる逸話を書く羽目に陥っている。

ところで大江健三郎氏の「自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、」という有名な文を書いたのは昭和33年だが、

司馬遼太郎氏が『鉄の暴風』を読む以前にこの文を読んでいた可能性はある。

司馬氏はRさんという在日朝鮮人らしき人の口を借りて、沖縄人にも「帰るべき祖国がない」といったことを言わしている。

■大江健三郎にも毒された「司馬史観」■

<ごく最近、古美術好きの私の友人が、沖縄へ行った。彼は在日朝鮮人で、歳は50すぎの、どういうときでも分別のよさをかんじさせる人物である。

彼は帰ってきて、那覇で出会った老紳士の話をした。 私の友人はRという。
ーーRさんはいいですね。
とその老紳士は、しみじみとした口調で、「祖国があるから」と言った。相手が日本人ならば、このひとは決してこうわ言わなかったにちがいない。 
この話をきいたときの衝撃は、いまなおつづいている。 自分の沖縄観がこの一言で砕かれる思いがした。>(「街道をゆく 6」)

沖縄人の立場から言わせてもらうと、司馬氏が「街道をゆく 6」を出版した1978年の時点で、この沖縄の老紳士のように「祖国がない」と考える沖縄人は特殊な思想の人々はともかく普通の県民ではとても考えられないことである。

それにしてもあれほどリアリズムで歴史を見てきた司馬氏が、

沖縄の地上戦のことを考えて精神が変になりそうになり

『鉄の暴風』を読んだら一晩眠れなくなってしまう

あげくの果てには司馬氏は、沖縄の老紳士の話を伝え聞いて、

衝撃が続き、自分の沖縄観がこの一言で砕かれる思いをしたと述べている。

■帰るべき祖国とは■

文中の沖縄の老紳士の特殊な思想に影響を与えたと思われる大江健三郎氏の文を下記に引用する。

<結婚式をあげて深夜に戻つてきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。
それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る……。 このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった> (わがテレビ体験、大江健三郎、「群像」(昭36年3月号)>

このお方、日本人であることを放棄しているのだろうか。


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