狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄戦、沖縄県民をジェノサイドをした米軍

2022-06-20 07:26:35 | ●●沖縄の黒歴史

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沖縄タイムスの紙面を見ていると、すべての沖縄県民は約77年前の沖縄戦のトラウマを抱え、毎日「戦争反対!」と叫んでいる印象を受ける。

沖縄タイムスが沖縄戦の特集記事を掲載するのは3末の「集団自決」の起きた時期、そして「屈辱の日」と言われる講和発効の4月7日前後、そして6月23にの慰霊の日前後と、大体スケジュールは決まっている。

ところが昨日6月19日付沖縄タイムスは、一面トップを、この記事で飾った。

以前から日本軍と日本人を県民の敵と見なしている玉寄哲永氏は、最近メディアで顔をみなくなっていたが、一体何を血迷って一面トップに顔を晒しているのだろう。

沖縄タイムス紙面掲載記事

[記憶を重ねて 沖縄戦とウクライナ侵攻](1) 玉寄哲永さん(87) 戦禍の国民 かつての私 「人間の地獄」再来憤る 

2022年6月19日 05:00

 病身を押して、一歩ずつ、前へ出る。集まった人たちが息をつめて見守る。視線の先に、87歳になる玉寄哲永さんの姿があった。

 4月6日、ロシアのウクライナ侵攻に抗議して那覇市の県庁前で開かれた集会で、マイクを握った。10歳で戦場を逃げることを余儀なくされた沖縄戦を語り、呼びかけた。「侵攻に全国民が、全世界が一つになって反対するきっかけを大きくつくってまいりましょう」。侵攻に巻き込まれた住民に、かつての己が重なった。

◇    ◇

 両親と弟の4人で暮らしていた。1944年10月10日に那覇市を襲った10・10空襲で、父が営む仕出屋は全焼。米軍上陸で日本軍から南へ避難するよう言われた。逃げ惑う毎日が始まった。

 向かった先々で、嵐のような艦砲射撃と機銃掃射にさらされた。避難のために一緒に歩く人たちが米軍艦からの砲撃で一人、また一人と倒れていった。道に折り重なる遺体の腐臭が鼻にしみつき、離れない。

 住民を守るはずの日本軍は命をおびやかす存在になっていた。日中の攻撃を避けて徹夜で掘った壕は翌朝、兵士に銃剣を地面に突き立てて脅され、奪われた。

 食べ物がなく飢えに苦しむなか、母が頭の上半分がない日本兵の背嚢(はいのう)から、靴下に入った米を見つけた。衰弱した弟のために鍋で炊いたかゆは、軍刀を抜き放ち切りかかってきた将校に取り上げられた。軍服の上から浴衣を着て、住民を装っているように見えた。「貴様らこれ使え」。代わりに手りゅう弾を渡された

               ★

時期外れの戦争記事が一面トップを飾っている。

一体何にコジツケた記事だろう。

不審に思っていたらウクライナ戦争での住民虐殺と沖縄戦を強引に重ね合わせ記事と知り納得した。

しかし、戦後77年も経過してよくもこのような裏付けのない記事で一面記事を飾れる沖縄タイムスには呆れかえる。この記事のように日本兵の名前さえ特定しなければ、「極悪非道な日本兵」を表現するにはどんな作り話でも書き放題というわけだ。

15年前の記事を拾ってみよう。

 沖縄タイムス2007年7月7日の1面、社会面でこのような記事が掲載された。
見出しは、こうだ。

隊長「死になさい」

<軍命ない限り悲劇おこらぬ>

座間味体験者、切々

結局これが誤報だったというから驚きだ。

しかもこの誤報の訂正記事が小さなベタ記事で、よっぽどで無いと気がつかない。

こうなると、沖縄タイムスの確信的犯行と思わざるを得ない。

念のため上記見出しの該当記事を下記に引用する。

《「軍の命令がない限りは、日本兵が入ってこなければ、そんなこと(『集団自決』)はなかった」。6日、県議会文教厚生委員会(前島明夫委員長)の聞き取り調査に応じた座間味村の「集団自決(強制集団死)」体験者6人は、それぞれの体験を率直に証言した。聞き取るのがやっとの小さな声で話したり、じっとうつむいたり。語り、向き合うにはつら過ぎる62年前の記憶を口にしたのは、「教科書からの軍関与削除は絶対に許せない」との思いを伝えるためだった。》《吉田春子さん(81)は1945年3月25日、妹を連れて日本兵がいる壕に避難した。翌26日になり壕が米軍に攻撃され、夜になったら脱出しようと相談し、その夜に玉砕命令を聞いた。だが「母と会うまでは死ねない」と逃げだし、助かった。》
《当時25歳だった大城澄江さん(87)は座間味島への米軍の艦砲射撃が始まり、友人4人と避難中、壕内で「忠孝碑の前に集まれ」との声を聞いた。一度は忠孝碑の前に行ったが、その後、逃げ回っている途中で日本軍に遭遇、手りゅう弾を渡された。逃げ場を失い、自決しようとしたが爆発せず、生き延びた。》 《上洲幸子さん(84)は母ら4人と壕に避難。母は殺ソ剤での自死を主張したが、上洲さんが「逃げられるうちは逃げよう」と訴え、島内を歩き回った。ため池近くに村民や日本兵がおり、梅沢裕部隊長の姿もあった。梅沢部隊長は村民を集め「米軍は上陸して、どこにでも入り込んでくるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と話したという。》(
沖縄タイムス2007年7月7日)

沖縄タイムス編著『鉄の暴風』では、梅澤隊長は「不明死」させられたが、上記記事の時はご存命であり、デタラメな記事は抗議して訂正させている。

だが、沖縄タイムスの「梅沢部隊長は・・・もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」の記事は朝日新聞に引用され、訂正されずにそのまま放置されている。悪質な「情報ロンダリング」と言わざるを得ない。

 ■デタラメな新報コラム

日本兵の名前さえ特定しなければ、どんな捏造記事を書いても構わないという例は他にもある。

2013年6月12日付琉球新報の次のコラムもその類のいい加減な証言があたかも真実であるかのように語られている。


< 自然壕の暗闇の中、赤ん坊が次々に泣き出した。「黙らせろ」。敵に居場所を知られるのを恐れた日本兵が怒鳴った次の瞬間、銃声が響いた。7歳ほどの少女が前へ崩れ落ちた ▼糸満市の仲松庸全さんが沖縄戦で目撃した日本兵による少女銃殺の場面だ。「軍隊は住民を守らない。それどころか住民を殺害したり、死に追いやったりした」。体験から得た最大の教訓という 。 > (2013年6月12日付琉球新報)

上記コラムの事例が嘘である証拠は、米兵の目を恐れる日本兵が赤ん坊の泣き声は気にするが、射殺した銃声が米兵の耳に入るのを気にしていない。 これなどは戦争体験者の証言ではよくでてくる矛盾であり、誰もが気がつく嘘の証言である。

証言者の名前を記すと全てが真実のように受取られがちだが、よく読み返すと嘘は自ずと矛盾が露呈してくる。

壕に潜んでいた母親が、赤ん坊の泣き声が気になり、湿ったオムツを赤ん坊の口に当てて窒息させたと言う悲惨な話は今でも密かに語られている。

それが新聞などで証言となって公開されると、そこに「残虐非道な日本兵」が介在し、「日本兵によって殺された」という話に変化していく。

わが子を自分の手にかけた贖罪意識のある母親としては、せめて「残虐非道な日本兵に殺された」とでも証言しなければやりきれなかったのだろう。 だが、この場合日本兵の名前が特定されていないからまだ救える話だ。

だが、自決命令を下して住民を集団自決に追いやったのは、「赤松、梅澤両隊長だった」などと名前を特定されたのが慶良間島集団自決の悲劇である。 そして名前を特定した理由が、当時の厚生省役人の漏らした「軍命があったなら集団自決の遺族も援護法の適用が可能」というひと言だという。

以後「軍命による集団自決」が集団自決のあった座間味村役場の公式見解になる。座間味島村の援護係宮村広延は援護金の支給で何度も当時の厚生省と交渉し援護金支給に貢献したして村役場から表彰を受けている。

■「援護法」が作り上げた極悪人

本来なら軍人の遺族にしか適用できない「援護法」を、軍属でもない集団自決の遺族に適用するための「拡大解釈」という厚生省の善意。 それが、仇となって2人の軍人に「集団自決を命じた極悪人」という汚名を着せることになる。 歴史の皮肉である。 上原正稔さんの琉球新報を相手取った戦いの目的は、不当に汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長の汚名返上にある。

 

■戦争にもルールがある、

冒頭に引用した玉寄哲永氏のコメントは日本兵に対する憎悪を剥き出しにして『鉄の暴風』が主張する日本兵=残虐非道という構図を表している。

だが「戦争にもルールがある」という事実を沖縄タイムスは知らないようだ。

●戦時国際法ではどんなことが定められている?

国際法のひとつである戦時国際法は、戦争状態であってもあらゆる軍事組織が遵守すべき義務を明文化したものです。

戦時国際法と呼ばれるものとしてハーグ陸戦法規やジュネーヴ条約などがあり、代表的なルールとして以下の8つがあります(条約締結国だけに適用されるものもあります。)。

⑴ 軍事目標以外への攻撃禁止(降伏者、負傷者、民間人等の攻撃禁止)

⑵ 休戦旗を揚げながら戦闘する行為

⑶ 遭難信号を不正に発信する行為

⑶ 赤十字旗を揚げながらの軍事行動

⑷ 軍事的必要性を超える無差別な破壊・殺戮

⑸ 捕虜虐待の禁止

⑹ 対人地雷使用の制限

⑺ 化学生物兵器使用の制限

⑻ 開戦に先立つ宣戦布告義務

個々の法規違反の解説は省略するが、米軍が1944年10月10日に那覇市を空爆したことは、紛れもなく(1)の民間人への攻撃禁止に相当する。

さらにアメリカ軍は1945年3月10日の東京空襲や、8月6日に広島に原爆を投下した。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる民間人が亡くなった。9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8万人ほどの民間人が亡くなった。

これ等の例は、誤爆による民間人虐殺ではない。

確信犯的ジェノサイドだ。

これ等は全て、すべて戦時国際法違反の民間人の大量虐殺に相当する。

沖縄タイムス編著『鉄の暴風』は、那覇10・10空襲を含む沖縄県民の大量民間人虐殺の事実を知りながら、「人道的米兵」「残虐非道な日本兵」を現在でも主張し続けている。

県民は『鉄の暴風』の呪縛から一刻も早く目覚めるべきである。

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集団自決、「援護金支給」は政府主導の「善意の」公金詐取

2022-06-11 04:56:24 | ●●沖縄の黒歴史

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慶良間島の戦隊長だった梅澤氏らが大江健三郎氏と岩波書店を訴えた「集団自決訴訟」は最高裁判断で原告側が敗訴し、被告の大江健三郎側が勝訴した。 その結果大きな誤解が生じている。

つまり、集団自決の「軍命の有無」論争は「軍命説」が確定したと一般には思われているのだ。

だが、これは沖縄2紙による印象操作による大きな歪曲報道である。

たしかに最高裁で原告側の名誉毀損と損害賠償の請求は敗訴が確定した。

だが、最大の争点である「軍命」については挙証責任のある被告大江・岩波側は立証することが出来ず、事実上梅澤氏らの名誉回復は確定した。 

ただ名誉毀損が訴因である裁判で大江・岩波側が勝訴したため、あたかも「集団自決は軍命だった」ということが最高裁で確定したかのような印象操作記事を沖縄2紙が垂れ流し、それに誤誘導された読者が多い。

この沖縄2紙の印象操作については、しつこいが何度でも指摘しておく。

沖縄2紙を筆頭に反日左翼勢力は、「援護法」の」カラクリを必死になって隠蔽しようとしているが、これが結果的には「極悪非道の日本軍人」という歴史の捏造を生み出すことになり、その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤さんと赤松さんということになる。

読者の中には集団自決と「援護法」の関係を深く検証すればするほど、援護法申請書の偽造などに行き着き、詐欺行為の疑いを持つ人も多い。

より直裁的にいえば、援護法申請書の偽造は「公文書偽造による公金詐取」といわれても仕方ない行為である。 沖縄人の立場としては言い難い言葉だが、筆者はこれまでに何度も「公金詐取」と指摘している。

■石原教授のトンデモ発言

反日左翼の急先鋒であるOABテレビに、石原昌家沖国大教授が出演し、靖国合祀拒否訴訟の援護法関係でこんな意味の発言をしていた。

「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」という印象で放映された。 

だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、遺族が知らない間に合祀される筈はない。裁判で遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言している。

したがって遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無いだろう。

ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。

大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。

沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)

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■政府主導の「公金詐取」■

現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないという。

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈である。

違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

元々「援護法」は沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にした。  

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘しできるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも役所は給付したくないように見える。 お役所仕事といわれる所以である。

ところが、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦に限り拡大解釈し軍に協力した住民に適用したときの当時の厚生省は、何とかして給付させたいという善意が働いて、書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見される。

 申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場を指導したのもその一つだが、厚生省側でも沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。

沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って現在の厚労省も「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

■石原昌家氏の二枚舌■

集団自決の軍命論争ではいろんな場面で沖縄の識者たちがカメレオンのようにくるくると自説を変えていく例が多い。これを一々論じていたら一冊の本が出来るくらいなので立ち入らないが、援護法の研究者を自認する石原昌家氏の立場は微妙である。

石原氏は「集団自決訴訟」では被告・大江、岩波側を支援し、軍命はあったと主張する一方、「集団自決」という述語は「強制集団死」と呼ぶべきだと主張し、述語の中に軍命を意味する「強制」を使うなどの徹底した「軍命派」である。

その一方で、沖縄靖国訴訟では原告の遺族側の証人に立ち、「軍命は政府側が住民を靖国に祭るためのに指導した方便」という意味の証言をして、結局は軍命が「政府によって偽造されたもの」といった自己矛盾の発言をしている。

つまり政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆したというのだ。

もっと具体的に言えば、石原氏は自分の体験も含めて、援護法申請書に「実際はなかった軍命による自決」と書いて出せば、援護金をもらえたと証言しているのだ。

この人物、同じテーマの裁判に首を突っ込んでしまい原告と被告が逆の立場であることをうっかり失念して「オウン・ゴール」をかましたことになる。(爆)

参考: 茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

 

【おまけ】

石原教授は、沖縄靖国訴訟の原告側証人として法廷に立ち、原告側にとって致命的ともいえる発言をしているが、これについては稿を改めて述べてみたい。

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白旗フンドシの老人、沖縄分断を目論む沖縄タイムス・新川明が捏造した「白旗の少女」、捏造された卑劣な日本兵

2022-06-05 15:13:05 | ●●沖縄の黒歴史

 

 

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過去ブログで最近アクセスの多い記事を、再掲しています。

 

沖縄タイムス・新川明が捏造した「白旗の少女」、捏造された卑劣な日本兵

2021-06-29 

 

 

沖縄戦の再検証のため過去ブログ新川明と白旗の少女 捏造された一フィート運動2009-08-12 を編集・再掲します。

                ★

『うらそえ文藝』の集団自決特集の対談で、「一フィート運動」の創始者である上原正稔氏が「沖縄タイムス恐喝事件」を暴露したことが話題になった。

当時富村順一氏の恐喝に50万円を脅し取られた沖縄タイムス編集局長新川明氏(後に社長)は、定年退社後も極左評論家として健筆を振るっている。当日記には何度も登場した沖縄タイムスOBである。

新川明

新川明氏は、米軍が写したフィルムの中に、偶々写っていた白旗を持つ少女の映像を発見し、絵本という形で子供たちに「悪逆非道な日本兵」を教え込む平和教育教材を作った。

 

以下は白旗の少女の神話ー改定版を編集した再掲です。

                   ◇

「白旗の少女」は沖縄戦記で良く知られた話だが、「白旗フンドシの老人」は沖縄タイムスで初めて知った。

「白旗の少女」と同様に、沖縄タイムスの捏造臭いが、真実は不明である。

⇒文末に掲載。

 

「白旗の少女」や長寿の秘密 高校英語教科書に“沖縄” 

 

米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの姿は見るもの胸を打つ。

中でも特に有名な二枚の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。

その写真の一枚が白旗の少女として知られ、もう一枚は「うつろな目の少女」として後に有名になる写真である。

うつろな目の少女が、実は女装した男の子であったということを知る人は少ない。⇒「うつろな目の少女」の秘密!

  

白旗の少女とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女のことで、大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場。

「1一フィート運動」の成果である1986年公開の米軍撮影記録フィルムの中の少女の笑顔が県民の印象に残った。

少女は当時7歳の比嘉富子さんであった。

手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)

後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影した。

以後白旗の少女の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。

白旗の少女の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。

新川明が白旗の少女を捏造ー卑劣な日本兵を創作

白旗の少女が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。

 白旗の少女が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。

読者が衝撃を受けたのは、「平和教育」のため、歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿である。

米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは異存はない。

だが、事実を捻じ曲げ日本兵貶めるとなると話は別だ。

記録写真を見た「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される典型的例が「白旗の少女」だ。

新川明著『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)で、少女は日本兵と住民が雑居する壕にもぐりこむが、壕を取り囲む米軍に投降勧告をされ、誰が最初に壕をでるかで日本兵達が醜く言い争う。

そのクライマックス・シーンで次のようなくだりがある。

 兵隊たちがいいあらそいをはじめました。

「おとなしく出れば殺さないはずだよ」

「では、だれがさいしょに出るのか」

「こういうときは、兵隊さんがさきだよ」

ほかの人たちもいいあらそっています。

「あなたたちは、そんなに死ぬのがこわいのか!」

りゅう子をガマに入れまいとした女の人が叫び出すと

隊長はあわてて雑のう(ものをいれるもの)から白い布をとりだしていいました。

「ためしに子どもをさきに出してみよう!」

ゆっくりと目をあけると

すきとおるひかりのむこうに

アメリカ兵のすがたがみえました。

戦車のかげで鉄砲をかまえたまま

白い歯をみせてわらっています。

 

ふりかえると、日本兵たちが

両手をあげてついてきました。

おじいさんや女の人も

よろよろとつづいていました。

そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。

 

同書の「あとがき」には次のように書かれている。

 
  <さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
 本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。
 >
 
<私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
 はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、モンぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
 さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
 

日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は、元沖縄タイムス社長で、沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリスト。

また、版画絵を担当した儀間比呂志氏は、沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は読者に大きなインパクトを与えた。

絵本が糾弾するのは、白旗を持った少女を盾に米兵に命乞いする日本兵の卑劣な姿であった。

■実際はどうであったのかー比嘉富子さんの証言

記録映画版の映像で動画を見ると、虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振ったという印象である。

それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人(防衛隊という民間人の可能性も)のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する少女を盾にした卑劣な日本兵という雰囲気は画面からは読み取れない。

 


1985年、新川明氏が創作した『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。

比嘉さんは当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していたと記されている。

そして比嘉さんが、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。

・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません
。(204、205頁)>

比嘉富子さん、よくぞ無事で生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、どうなっていたか。

「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に沖縄戦の歴史に刻まれていた語であろう。

ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。

だが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が沖縄戦史に刻まれていたであろう。

記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。

だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。

では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

いや、そうではない。

相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、全県の図書館で読むことが出来る。 そして子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。

デタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

「りゅう子の白い旗」の書評

●沖縄タイムスの書評(1988年6月22日)=「琉子」は沖縄戦を描いた絵本「りゅう子の白い旗」を映画化したもの。主人公・琉子の体験を通して、日本軍の住民に対する残虐な行為など戦争の悲惨な実態を描いたもの。対照的に沖縄の自然や情景を織り交ぜた美しい映像で、命の尊さを訴えている

 

■白旗フンドシの老人

沖縄戦終結後77年を経過し、沖縄タイムスによる「残虐非道な日本軍」という歪曲報道はそろそろ色あせてきたと思ったが、実はそうではない。

2022年6月6日付沖縄タイムスオピニオン面のコラムに、宜野湾市にお住いのN(85)さんが「白旗フンドシ」の老人という記事を書いている。 Nさんが沖縄戦の体験調査をしているとき白いフンドシを掲げて投降する老人の次のような例を聞き取った。

≪摩文仁での証言者によると、棒の先にフンドシを掲げて米軍に向かって投稿すると米軍は捕虜にするが、背後のアダンの陰から銃を向けて狙い撃ちするのは日本軍だったようだ。敵の米軍より浅ましい日本軍の行動は、見た人は激しい憤りを感じたという。≫

執筆したNサンは、取材相手が語った通り記録したのだろが、それが事実か虚偽かを判別する術を知らなかった。しかし、『鉄の暴風』の影響を受けていることは容易に想像できる。

『鉄の暴風』が目論む「本土と沖縄の対立分断」という合言葉が上記コラムの「人道的な米軍に対する残虐非道な日本軍」と見事に重なっている。

事実をないがしろにした議論ほど無益で虚しいものはない。 それは混乱を生み出すだけだ。解釈はいろいろあってよい。 しかし、事実は一つなのだ。

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日本兵がお年寄りをおんぶする写真、出版社「直ちに発行停止し廃棄、責任者を処分した」―中国

2022-06-03 06:51:22 | ●●沖縄の黒歴史
 

 

 

 

日本兵がお年寄りをおんぶする写真、出版社「直ちに発行停止し廃棄、責任者を処分した」―中国

 

中国の小学校の補助教材に、旧日本軍の兵士とみられる男性が高齢女性を背負って運んでいる写真が掲載され物議を醸した問題で、出版社が経緯を説明した。

問題となっているのは小学2年生向けの国語の補助教材で、写真は中国で人助けと無私の奉仕を象徴する「雷鋒」の精神を学ぶページに掲載されていた。教材は陝西新華出版伝媒集団と陝西人民教育出版社が共同出版したものだった。

騒動を受け、陝西人民教育出版社は5月31日にSNSの公式アカウントを通じ、「同書は2016年12月に出版したものです。17年2月中旬に社内の自主調査によって写真の誤りを発見し、直ちに発行・販売を停止しました。販売済みの書籍のほとんどを回収して在庫とともに廃棄し、責任者に対して厳正な処分を行いました」と説明した。

同社はまた、「この事件は弊社に強い衝撃を与えました。教訓を真摯(しんし)にくみ取り、品質管理システムをさらに健全化し、社員全員の政治意識、責任意識を高め、検査メカニズムを持続的に整備してきました」「今回の騒動は改めて警鐘を鳴らすもので、弊社は規定をより厳格に実施し、類似の問題が発生することを断固として阻止します」などと徹底管理をアピールした。

背景には5月30日に教育部が学校教材の全面的な調査の実施を発表したことがある。中国では最近、教材のイラストや写真の問題が相次いで指摘されており、教育部は「(調査で)問題を発見した場合は直ちに改善し、違反があった責任者は厳正に処分する」と表明している。(翻訳・編集/北田)

               ★

現在でもこのようなことが罷り通っていることことが、信じられないが中国の事だと知れば納得できる。

中国にとって日本人、特に日本兵は残虐非道の象徴である。 したがって極悪人が善行をするなど、許せないのだろう。

ところが、日本でもわずか50数年前、同じようなことが行われていた。

『うらそえ文藝』の元編集長星雅彦氏が県の依頼で慶良間島を訪問し沖縄戦の聞き取り調査をしたとき体験したことだ。

結局、星氏は「日本兵が集団自決を命令した」という証言は得られなかったので、親切な日本兵に食料を分けて貰ったり傷薬の提供を受けた話も、調査布告に書き入れたら、当時県の資料室に勤務していた安仁屋沖国大教授に怒鳴られ削除させらという。 安仁屋教授に問って日本兵は残虐非道な極悪人という固定観念があったのだろう。

以下は関連ブログの再掲である。

続々・星氏が『鉄の暴風』を批判!県資料編纂所職員の正体

2009-11-05
 

■星氏に詰問した県資料編纂所職員の正体■

最後に星氏の文章の該当部分をしつこく再検証する。

《あれは確か1970年の暮れのことだった。 私は県資料編纂所の職員のAとBの訪問を受けた。 Aは私の書いた原稿について「なぜ日本兵の善行などを書き入れるのか」と詰問してきたのである。 取材は各区長の家に集まってもらい、これを記録するという形で行った。 取材は私一人ではなく資料編纂所の名嘉正八郎と一緒であった。 この取材で日本兵が住民を助ける話も幾つか出たので「そういうものも記録すべきだと思った」とだけ答えた。》(雑誌『正論』より)

                    ◇

1970年の暮れに星氏を訪問して、星が提出した原稿に「なぜ日本兵の善行など書き入れるのか」と詰問したマルクス主義者の県資料編纂所のA職員のことである。

ご本人の星氏は「A氏はまだ元気で沖縄で活躍されている方なので・・・」と実名を語るのを憚っておられるが、沖縄は狭いところである。

1970年に県資料編纂所の職員であり、このような過激な発言で星氏に詰問する人物は自ずと限られてくる。

安仁屋政昭沖国大名誉教授は、沖国大の前は1967年から5年間、沖縄県資料編纂所の職員であり、そのマルクス主義的発言は現在も衰えてはいない。

なお、安仁屋教授は「集団自決」訴訟の被告側応援団の理論的中心人物であり、宮城晴美氏の恩師であることは夙に知られたことである。

その後、「沖縄県史」から星氏が聞き取りした「日本兵の善行」は削除されたと聞く。

県資料編纂所のA職員は県史編纂時の検閲の役割りを担っていたことになる。

再三述べたが、星雅彦氏は既に鬼籍に入った集団自決関連の重要人物、例えば『鉄の暴風』の著者である太田良博氏や牧港篤三氏などと親交があり、なおかつ議論を戦わした人物である。

さらに、彼ら『鉄の暴風』の著者が集団自決の現場である渡嘉敷島や座間味島に一度も取材することなく、短期間で同書を書き上げたのに対して、

星氏は県の委託を受けていち早く集団自決の現地聞き取り調査をした人物である。

その人物が述べる次の言葉の意味は大きい。

「沖縄戦の体験者は次々と鬼籍に入り、活字として残された記録が検証されることなく真実として流布されていく。 
その代表が『鉄の暴風』である。」 

「事実をないがしろにした議論ほど無益で虚しいものはない。 それは混乱を生み出すだけだ。解釈はいろいろあってよい。 しかし、事実は一つなのだ。」

星氏が推理小説風の読み物としか捉えていない『鉄の暴風』が、活字として残され、記録が検証されることなく真実として流布されていく。

そして大阪高裁の小田裁判長までも『鉄の暴風』には資料としての価値があると言い出す始末だ。

『鉄の暴風』が残した罪は大きい。

そして、それを真実として頑なに押し通してきた沖縄タイムスの罪はさらに大きい。

さらに付け加えると、それイデオロギーで塗して流布させていった沖縄の左翼知識人も同罪である。

沖縄に現在も居住する星氏が、沖縄の知識人の間では四面楚歌の状況でなおかつ、今回の『正論』の論文を敢えて寄稿したのは、

これまで集団自決に関しては長年沈黙を守り、時々書いたとしても故意に曖昧な表現で終始したこれまでの自分の態度への忸怩たる思いからだという。

論文の文末に「米軍の宣撫工作や同調圧力に洗脳され、米軍のヒューマニズムを過剰に賛美したことへの反省が働いたのかも知れない」と、沖縄タイムスに反省の気があるかのように書いているが、これは40年前の話であり、少なくとも現在の沖縄タイムスには反省の一欠けらもないことは星氏が誰よりもよくご存知だろう。

 

 
補聴器専門店 ブルーム 六甲店
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「眼前の敵」 座間味で何があったか

2022-05-31 13:29:17 | ●●沖縄の黒歴史

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「眼前の敵」 座間味で何があったか

2008-04-29

本エントリーは下記の続編です。

「証言集」に見る新たな謎★教科書執筆者と体験者が初対面

 

「参謀長」と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

続・参謀長と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

 

 

■「死に所の森」の恐怖■

貧しかった昔の日本にはいたるところに「うば捨て」の伝説があり,そこから生まれたのが鬼婆伝説だといわれる。

座間味島にもうば捨て伝説があるが、“その時”は鬼婆ならぬ鬼畜米軍の上陸に島全体が怯えていた。

座間味島のうば捨て伝説のある場所はシンジュの森という鬱蒼とした森の中にある。

シンジュという発音から鎮守の森や真珠の森を連想するが、

実際は「死に所」という方言で、老いて働けなくなった老人が死に場所を求めて彷徨い入るという悲惨な印象の森だ。

1945年3月26日の未明の座間味島。

米軍の艦砲射撃から逃げ惑う老人と子供の一行。

シンジュの森にある壕に向かう途中、軍刀を持つ男に遭遇した。

未明の朝もやの中に立ちはだかったのは「鬼畜米兵」ではなかった。

その男が怒鳴った。

「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」

と日本刀を抜こうとした。

                    *

“山城安次郎”でググルと321件出てくるが、そのほとんど全てが「渡嘉敷島の集団自決の証言者」としての記事であり、他の意味での記述はない。

一例を挙げると下記引用のようなものだが、本人は隣の座間味島での体験者ではあっても渡嘉敷島での体験者でないのが不可解だ。

渡嘉敷島に自身は行かなかった太田記者は、「辛うじて那覇で《捕えた》」二人の証言者から取材したことに実はなっている。
ところが、この二人の証言者というのが、不可解である。

一人は、「当時の座間味村の助役であり、現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏」、もう一人は、「南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏」だという。
一方は隣の座間味島で集団自決を目撃しているが、渡嘉敷島の直接経験者ではない。
しかも、『鉄の暴風』の座間味島の集団自決に関する記述が事実に反すること(前記)は、少なくともこの人の座間味島に関する「証言」そのものが偽りであったか、正しく伝わっていなかったか、のどちらかでしかないことを示している。まして自らは目撃してもいない渡嘉敷島の事件についてどんな「証言」をしたのだろうか。

もう一人の「証言者」も、事件の目撃者ではないし、しかも不可解なことに、この人は、「そのような取材を受けた記憶はない」と言っているという(『神話の背景』五一頁)
。>


山城氏が、戦後マスコミ業界を歩んで沖縄テレビの社長にまで上り詰めた著名人にしては、他に一切ネット上に名前が出てこないのは不可解である。

「集団自決」の体験者では、山城氏と対照的なのが渡嘉敷島の金城重明氏であり、同じくググルと何と13,800件も出てくる。

それだけ金城氏が自分の体験を語り続けたことを意味する。

金城氏は「集団自決」で自分の家族に留まらず他人の親子にまで手をかけたが、本人は幸か不幸か生き残り、戦後は自己の悲惨な体験を語り続けた。

地獄を見た二人  雉も鳴かずば・・・

金城氏は語り続けると同時に「軍の命令だった」と責任転嫁し続けなければ戦後生きていくことは出来なかったのだろう。

一方の山城安次郎氏はその後自分の体験について語ることは無かった。

言うまでもないが『潮だまりの魚たち』に登場する「参謀長」と呼ばれた元教頭先生は後の沖縄テレビ社長の山城安次郎氏である。

⇒②「参謀長」と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

大田記者が『鉄の暴風』の取材をしていた終戦直後は、米軍は沖縄を日本から永久分離するため「日本軍=悪玉、米軍=善玉」という世論作りを行っていた。

その尖兵となっていたのが沖縄タイムスを始めとする沖縄の新聞であった。

その空気は曽野氏の著書にも次のように書かれている。

>当時の社会事情は、アメリカ側をヒューマニスティックに扱い、日本軍側の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。

当日記でも過去にこの点について詳しく述べている

『鉄の暴風』のいかがわしさ

以下はその一部抜粋の引用です。

 

 、数千人動員して民間人救出
「米軍より日本軍怖い」感覚へ

  沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。(略)(世界日報 2007年10月30日) 
http://www.worldtimes.co.jp/index.html

                     ◇

太田元沖縄県知事の一連の著書にはこのような記述が見られる。

≪その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)http://www.kamiura.com/chuu18.htm

 

沖縄タイムスが極端な偏向を通り越し、

敵意剥き出しの反日報道をするのには理由があった。

 それは昭和25年に発行された『鉄の暴風』の初版の前文にはこう書かれていた。

「なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」 (『鉄の暴風』初版前文)

揉み手をしたような、この米軍へのおべんちゃら記事が『鉄の暴風』の記事だと知ると驚く人も多いだろう。

勿論、沖縄タイムス出生の秘密を暗示するこの前文はその後の重版では削除されている。

『鉄の暴風』は主として沖縄タイムス記者伊佐良博氏(後に太田に改姓)によって書かれたが、同書のもう一人の著者、牧港篤三氏によれば、

初版は2万部出版され「米軍に提出されるため英訳され、占領軍司令部でも話題になった」と記している。(沖縄タイムス平成14年6月12日付け)

そう、沖縄タイムスは戦後沖縄占領米軍のプロパガンダ紙として出発したのだ。

ここで言うプロパガンダ紙というのは比喩的な意味ではなく米軍情報部の下に作られた文字通りの広報紙という意味である。

勿論米軍情報部の目論む「沖縄住民を日本から永久分断する」情報作戦の一旦を担うのが沖縄タイムス紙創立の理由だった。

 

                      ◇

■老人と子供■

「集団自決」問題を難しくしている理由の一つは生き残りの殆どが老人と子供だということである。

島の成年男子の殆どが応召で外地へ派遣されており家を守るのは老人と子供だけ。

それだけに米軍の上陸を前にパニックになる要素も多かった。

従って生き残った証言者も老人と子供が殆どで、それを戦後半世紀以上も経ってから証言を求めることに「真実」解明の難しさがある。

 

「集団自決」当時子供だった証言者の証言が、周囲の大人達の噂話等によって本人の知らぬ間に間違って伝えられる例を専修大学の学生達が卒論のテーマとして座間味島を訪問し研究している。

彼らは2004年、当時の座間味村の宮里芳和教育課長へのインタビューから実例を引き出している。

8月2日に座間味村役場会議室で行われた学生のヒアリングに答えて宮里氏は次のような証言者の例を語っている。

手りゅう弾の操作を知らない家族が日本兵にその使い方を教わった。

日本兵は使い方を教えはしたが「できるだけ最後ま生きてください」と言って去った。

当時傍にいた子供には親と日本兵の会話を聞いたはいても、その真の意味は理解できない。

その後、親は手りゅう弾で自決した。

遺された子供は日本兵が家族を殺したと思い込んだ。

戦後61歳になった証人は「親は日本兵の命令で自決した」証言した。

宮里氏はこのように「集団自決」の生き残りが語る証言が誤解され、歴史記述となって残される危険性の例を学生達に語っている。

以下は宮里芳和教育課長(当時)の話。http://disasterjune.com/lecture/archives/%E9%AB%98%E7%94%B0%E3%82%AF%E3%83%B3%E5%8D%92%E6%A5%AD%E8%AB%96%E6%96%87%E5%85%A8%E6%96%87%EF%BC%B0%EF%BC%A4%EF%BC%A6.pdf

 

■本当の敵は誰だ■

憎むべき敵は「鬼畜米英」のはずだった。

だが、朝もやに霞むあの朝、死に切れない住民に軍刀を振るったのは日本語で怒鳴る軍服の男だった。

憎むべき敵は「日本兵」だと記憶に刻み込まれた。

だが、「眼前の敵」は日本兵ではなかった。

軍人より軍人らしい男、・・・「参謀長」と呼ばれる民間人だった。

                      *

 

「眼前の敵」~ 恐怖と緊張感が増幅

 
うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森
 
 
 「その明け方、僕は家族連れで整備中隊壕に行き、自決さすことを頼んで本部壕に帰ろうとしたら、内藤中隊長や幹部らにさんざん怒られた。「軍は住民と国土を守るためにある。住民を殺すことはできぬ。早く安全な所に避難して、必ず誰かが生き残り、亡くなった人々の霊を祭るんだ。それがお前の役目だろう」と言いながら、米、梅干、金平糖、カツオブシ等軍の糧食を袋に入れてくれた。「節約すれば一ヶ月は大丈夫。何としても生きろ」
 僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談)
 住民や兵たちの恐怖と緊張館をますます増幅するかのような艦砲射撃の猛威のなかで、座間味島は3月26日の朝を迎えていた。
                     写真~うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森
                  
                                                        
毎日新聞 2001.7.5

 

                     ◇

死者に鞭打つ気はない。

戦時中の異常な状況の出来事を、戦後に育ち、飽食・メタボが悩みの現代に住む人が批判することは出来ない。

山城氏は座間味島で起きた事件について何も語らず墓場まで持ち込んだ。

それを敢て取り上げた理由は次の二点にある。

①終戦直後、沖縄タイムスを訪問して、自らは経験もしていない渡嘉敷島での赤松隊長の暴状を訴えたのは何故か。

②タイムス訪問当時、山城氏は座間味村助役という公的立場にあり、その後も新聞編集、テレビ会社とマスコミ界を歩んでおり、体験者として沖縄戦史を遺す社会的責任があるのにも関わらず一切語らなかったのは何故か。

もし、山城氏が①の不可解な証言をしなかったら、山城安次郎氏の名前は一切ネット上に出なかった可能性もある。

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立証責任は被疑者にはない!痴漢疑われた男性(61)、駅事務室の窓から飛び降り死亡

2022-05-26 08:19:44 | ●●沖縄の黒歴史

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「〇〇した」「○○していない」で意見が対立する場合、「〇〇した」と主張する側に立証責任がある。 「〇〇していなと」と主張する側が立証するのは困難というより、悪魔の証明といわれるほどほとんど不可能という場合が多い。

満員電車の痴漢行為の場合、よっぽど明確な現行犯の目撃でない限り、痴漢の容疑で駅事務所に連行されたら「冤罪」の立証をするのはほとんど不可能だ。

戦後の沖縄論壇を二分した「集団自決を命令したか否か」の論争は、「軍が命令した」と主張する側に挙証責任がある。

したがって「軍命側」の火付け役となった『鉄の暴風』の著者やその支持者に立証責任はある。 だが、2022年5月現在「軍命」を証明する客観的証拠や証人は皆無である。

 

2022年05月25日

 

痴漢疑われた男性(61)、駅事務室の窓から飛び降り死亡

1 名前:powder snow ★:2022/05/25(水) 19:00:22.49 ID:wirtq0Pd9
WS00044725日午前7時45分ごろ、横浜市金沢区の京急線金沢文庫駅で、駅舎2階の事務室の窓から同市の男性(61)が転落したと110番通報があった。男性は約8・5メートル下のホームに落ち死亡。神奈川県警金沢署によると、痴漢行為を疑われて取り押さえられていたといい、署は逃げようとした可能性もあるとみて調べている。

男性は電車内で女性に痴漢行為をしたと疑われて別の乗客に取り押さえられ、駅員に引き渡された。警察官が到着するまで事務室で待機していたが、駅員が目を離した際、転落した。

男性はホームの屋根を突き破り落下。駅の利用者にけがはなかった。署は痴漢行為の有無など詳しい状況を捜査する。

https://www.sankei.com/article/20220525-ZQA72NF6AJNM3EEQY7UATQHF5Q/
5: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:01:32.60 ID:yxKfKdQs0
自殺だね

6: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:01:39.09 ID:VyaiwPGp0
消された?

34: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:05:45.14 ID:zt3hwC+N0
冤罪なら可哀想

2: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:01:07.27 ID:0ywzYyuR0
こんなの死んだら損じゃん
してないなら証拠を出させないと…

510: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:49:59.60 ID:6XMuBr6W0
>>2
無理やで
疑われたら逃げるしかない

7: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:01:40.69 ID:XX4pd9PH0
逃げるやつは100%やってる
これは人間の心理的に間違いない

481: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:47:07.10 ID:aGvbDrfT0
>>7
弁護士の見解

D7xk3fNUIAUqViQ

27: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:04:47.05 ID:OnYGcEss0
やってなくてもやったことにされるから逃げるしかないんだよな

29: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:05:19.31 ID:0srendmF0
まあ、生き残ってもいいことないし

39: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:06:06.89 ID:dL3Y+zzm0
目を離した駅員はお咎めなし?

41: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:06:17.06 ID:oIi6ReBe0
屋根に着地できると思ったんだな

45: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:06:56.13 ID:GdwLkTI10
死ぬくらいなら最初からするなよ

56: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:08:27.46 ID:AZGf202P0
冤罪だったらやばいなこれ・・・

63: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:08:50.75 ID:Ty+6NAnl0
まぁ通勤電車なんかに乗ってる時点で負け組だわ

71: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:10:01.41 ID:KqzjNKmI0
こんなことで61年の人生終えるとか虚しい

72: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:10:02.31 ID:gjzvfD+10
逃げなきゃならんような捜査体制ほんと改善しろよな

80: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:10:56.38 ID:3v28Ztl10
こんなの葬式の最中に笑っちゃうわ

84: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:11:13.77 ID:2cIadadZ0
こんなの親族どうやって葬式するんだよ…

87: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:11:27.20 ID:nZbLtfwW0
俺はやっていない!と堂々と戦う事を決意しても数週間の留置所生活で心折れちゃうんだってなぁ
やっぱ逃げなきゃダメなんだろうなぁ

89: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:11:42.86 ID:TGTI/xn10
アホやなあ、死ななきゃいつかはまた痴漢楽しめるのに

96: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:12:21.25 ID:dX3tTBZm0
JK「あ。ゴメン。人違いだわ。きゃは♪」

102: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:13:18.76 ID:hGnnm+bm0
今の女の心境を述べよ

117: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:15:06.11 ID:7vDZZfV20
疑われる方にも問題があるんですよ!

123: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:15:38.67 ID:kbRE/BRm0
この人チカンですって喚けば殺せるのかw

121: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:15:35.61 ID:cCTBcnrA0
これは冤罪どころか、冤罪だとバレるのを隠すための殺人って線もあり得る

127: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:16:08.94 ID:H9BVYh6Y0
男には有罪か死か
どちらかしか残されてないのかよ…

129: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:16:14.64 ID:kkBrIEpC0
家のPCからスマホから回線履歴漁られて結局痴漢ものが出てくるってオチだろ

131: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:16:24.59 ID:3ywCng5t0
どっちにしろ人生終了だろ
命の有無なんてどうでもいいこと

143: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:17:26.05 ID:nAn6tGyh0
まぁ、死にたくなるわな
二度と親族に会えないしなぁw
会社仲間にも

140: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:17:15.29 ID:gjzvfD+10
死亡させた時点で鉄道側の責任は逃れられないだろうなあ

144: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:17:31.90 ID:xlv0vdai0
これ駅側の監禁罪にならんの?

145: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:17:32.94 ID:f2wzLRRP0
これは抗議の自殺だな

147: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:17:51.01 ID:z5XYWqYy0
>>1
自殺に追い込ませるほどの罪なの?殺せて満足?

154: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:18:38.92 ID:TA7V/Jpg0
冤罪だったら自殺しないから

163: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:19:13.78 ID:h33obSXQ0
>>154
自白の強要されたら終わりじゃw

157: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:18:59.68 ID:0QYuMwcj0
事務所行ったら無罪でも罪になっちゃうやつだろ、冤罪だったら最悪ー

184: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:20:51.08 ID:EPn709Ju
駅事務所行ったら認めたのと同じ扱いになるからな
行ったら駄目

161: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:19:05.66 ID:hAJgVkSW0
遺族は駅を訴えるかな

194: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:21:56.66 ID:Zcf30fZx0
自らの命でケジメをつけるとか侍やな

196: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:22:00.36 ID:xs93hjQM0
命をかけて痴漢してるのか

204: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:22:58.97 ID:nAn6tGyh0
真の痴漢マニアだな
バレたら自決、そう決めていたw

210: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:23:29.48 ID:1iyxcwjU0
なんだかんだで満員電車なんて乗るもんやないな

219: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:23:55.29 ID:5LQcJBtx0
あの世に逃走成功

232: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:24:49.59 ID:IqoLJd9Y0
朝っぱらからゲンキですね

248: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:26:06.95 ID:9Z9G7omC0
鉄道会社全体が改善しないと
事務室には連れていかない

253: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:26:37.51 ID:AN8vpyyu0
今はさ、指から繊維かなんかを採取できるんでしよる
それをしないで女の証言だけで捕まえるのはアカンよな

257: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:26:57.24 ID:yTQrMPBa0
サッサと微物検査してもらって立ち去ればよかったのに
やっぱ痴漢してたんだろうな

261: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:27:39.40 ID:dzf1nVga0
だから男性専用車両を導入しろって
被害者が増え続けるぞ

264: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:28:02.46 ID:fzgwVrUU0
またたわわの犠牲者が

273: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:28:40.89 ID:cPyuA2Mj0
>>264
なんという破壊力

265: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:28:04.08 ID:yTQrMPBa0
死体の手から被害者の衣服の繊維片出たら目も当てられないなw

268: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:28:11.96 ID:lDhGhYhs0
電車と無縁の生活で本当によかった
たとえ冤罪でも疑われた時点で終わりな世界だからな

285: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:29:55.09 ID:hVQVQ11o0
まだ何の罪にもなってないのに死なせちゃったら駅員が悪だろ

288: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:30:06.71 ID:dkdzhIFI0
冤罪であろうがなかろうが取り押さえたやつらは人殺し

304: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:30:46.81 ID:kOI0a1FR0
繊維とかその場でとれたらまだいいんだけどな。
なら冤罪も分かる可能性があがる。
疑われた時点で犯人扱いするアホの割合が多すぎるんだよ。

310: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:31:37.10 ID:n4xn4jnH0
やってない人が二階の窓から逃げようとするかね。
そもそも疑われて確保されてる時点でお察しだろ。

315: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:32:29.79 ID:BpXhQL4g0
疑われたら冤罪でも逃げるしかないんでしょ。

338: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:34:44.48 ID:Ip0nfEcn0
>>315
別に捕まってもいいけど、2週間くらい仕事を休み、会社全員に痴漢だと思われ
妻子にも会えず、近所には痴漢男だと陰口を叩かれ、親戚からは絶縁のお手紙が届く
たったそれだけのこと

336: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:34:28.64 ID:y+A41kGH0
家族いるのかな
自分の夫や父親が痴漢して逃亡して死ぬとか誰にも言えんね

314: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:32:14.72 ID:OSw8NSYi0
電車とか乗らんけどいまだにカメラついてないの?
ずっと言われてるけどカメラだけで痴漢も冤罪もかなり減るだろ

350: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:35:28.67 ID:0l7x6enk0
ちょっとケツ触ったぐらいで社会的制裁強すぎるだろ 満員電車放置してる鉄道会社にも非はあるんじゃ無いか

354: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:36:02.36 ID:vW2Vi5W/0
そもそも疑われるようなやつはやってるからな
お前らも気をつけろよ

358: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:36:27.64 ID:Gw1D+kYQ0
これ冤罪だったら本当に可哀想。
男が圧倒的に不利なこの状況なんとかした方がいいよね。

370: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:37:36.35 ID:8yLpZXs70
あーあ、被害者は人殺しになっちゃったか

379: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:38:00.97 ID:QzzkR3Ts0
これもし冤罪だったらやりきれないな
軽々しく人の人生を終わらせることに加担するもんじゃないな

395: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:39:16.31 ID:Dyo4rREU0
これはやってたんだろうな

付き出した被害者も死なれると目覚めが悪いな

415: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:41:02.85 ID:EjHXF4cV0
ちかんでしんでしまうとはなさけない

353: ニューノーマルの名無しさん 2022/05/25(水) 19:36:01.16 ID:SX+FhuuO0
こんな一生の終わり嫌だ

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元スレ:https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1653472822/
コメント (1)

ドル切り替え、泡銭550万円!歴史は勝者によって書かれる

2022-05-19 13:57:04 | ●●沖縄の黒歴史

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歴史とはなにか。

「歴史は勝者によって書かれる」と言われる。

幕末維新史も例外ではない。

幕末維新の動乱期に、幕府高官として卓越した政治手腕を発揮した小栗上野介という人物は、敗軍幕府側の責任者だったばかりに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」式の明治政府史観に基づき、敗者への公正さに欠ける歴史的扱いを受けている。

小栗上野介忠順(1827-68)は万延元年の使節団員として渡米し、勘定奉行や外国奉行を歴任、崩壊しつつある幕政を中枢で支えた人物だが、後世の評価は二分した。一方に、横須賀造船所を建設し、最初の株式会社「兵庫商社」を構想した合理主義者で、近代化の立役者という評価があり、もう一方に、薩長との主戦論を唱え無用な戦争に固執したという見方がある。その主戦論が原因で罷免され現在の群馬県に隠棲したが、謀反の容疑をかけられ新政府軍により斬首。以来、逆賊の謗りを受けてきた。

冒頭からいきなり「歴史とは何ぞや」と大上段に振り被ったが、「歴史は勝者によって書かれる」というどなたかの名言を引用したかったからだ。

引用文の意味は「歴史は勝者によって作られる」と言いたいのだろうが、筆者は「(歴史は)…書かれる」という点に注目したい。

つまり歴史とは紙や木簡などに文字で書かれて(記録されて)初めて歴史となる。 文字による記録が無ければ、過去に重要な出来事が起きても想像の世界であり、歴史とは認められない。

 

■新聞が歴史を作る

フェイクニュース報道で悪名高い新聞が連日、数多くの記事を乱発している。

新聞のフェイクニュースでも、是正する記事が無いまま時代を経ると、新聞の報道が歴史になる場合がある。

 

ドル切り替えで550万円の濡れ手に泡、「通貨確認」力業で突破 2021-10-09

上記ブログでドル切り替えを巡り、新聞が報道しなかった「通貨確認」の盲点をついて「550万円を濡れ手に泡」で入した手口を紹介しよう。「通貨確認の盲点」を敢て記録するのは、このままでは歴史から消え去るからだ。

つまり「新聞が書かなかった」事実でも、誰も記録しなかったら(書かなかったら)ドル切り替えの歴史から消えてしまう。

筆者は㌦切り替え当時会社を経営しており、ドル切り替えの慌ただしさを身を持って体験した。

その結果、「通貨確認」の盲点を体験し、「濡れ手に泡の550万円」を手に入れた。

ことの発端は、「預担」と呼ばれる定期預金担保の借り入れで、友人の顔を立てたことに始まる。

■慌しかったドル切り替え実施

沖縄の国会に相当する立法院で通貨確認の根拠となる「通貨及び通貨性資産の確認に関する緊急臨時措置法」が成立したのは、通貨切り替え実施日の前日だった。
 
通貨確認の流れはこうだ。10月9日、金融機関に人々の手持ちのドルを持参してもらい額を確認して検印。預貯金は債務を差し引いた純資産額をチェックし、日本復帰後の通貨交換の際、日本政府が1ドル360円の交換率を保証した。
 
関連法案の成立がドル切り替え日の前日という慌ただしさのため、上記の「預貯金は債務を差し引いた純資産額をチェック」の作業が、個人の場合は殆ど見逃された
 
その結果、個人で預金担保で借入した人の担保相当の負債額は無視された。
 
従って預金担保による借り入れを、連鎖的に続けて預金を増やしていけば預金のみを対象に政府が差損を補償した。(1ドルにつき55円)
 
仮に1万ドルの定期預金を担保に1万ドルを借り入れた人は、1万ドルにつき55万円の政府を保証を受取った。負債額はまったく無視された。
 
筆者の場合、当時友人が銀行の支店長をしており、支店長への協力の意味で他行から引き下ろした1万ドルを定期預金して、それを担保の1万ドルを元の銀行に返済することを友達付き合いの通常業務と見做していた。
 
その結果筆者は中身の無い1万ドルの為替差損補償金を55万円を労せず入手したことになる。まさに濡れ手に泡である
 
だが、この濡れ手に泡の保証金は55万円に止まらず、最終的に550万円のあぶく銭を手に入れた。 
 
そう、1万ドルを元金に預担による借り入れを連鎖的に続け、最終的に11万ドルの定期預金をした。(負債10万ドルを差し引きと実際は1万ドルの元金だけ)
 
結果的にではあったが、「通貨確認」の盲点を突いて労せずして「550万円」を手にしたのである。
 
勿論、一連の預担による「預金」「借入」の過程に法令違反はなく、「通貨確認」の盲点にも法令違反はない。
 
では、その「550万円」はその後どうなったか。
 
悪銭身に付かずとはよく言ったものである。
 
【おまけ】

72年当時の沖縄では、どれぐらいのドルが流通していたかというと、日銀は1億ドル程度と試算した。

当時のレートは固定相場で1ドル=360円だったので約360億円と推計された。これに前年の日銀那覇支店の設置費用や保険金、そして万一の際の予備分を含めて必要金額は542億円と算出され、その金額が自衛隊艦船により隠密裏に東京から沖縄に輸送された。542億円は現在の価値でおよそ1540億円になる。(総務省統計局「消費者物価指数」を基に算出)。

 
 
コメント (5)

❸『鉄の暴風』もう一人の執筆者、牧港篤三の告白

2022-05-19 08:39:51 | ●●沖縄の黒歴史

 

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ブラックアウト アメリカ黒人による、“民主党の新たな奴隷農場"からの独立宣言  単行本¥2,530

キャンディス・オーウェンズ (著)

これは、米国政治のキャスティング・ヴォートを握る黒人たちに突きつけられた「保守」からの革命の書だ!
間違いなく今後の米国史を動かし、やがて21世紀の革命家と称されるであろう
黒人女性の記念碑的処女作
日本の若き女性国士にして、最も勇気あるジャーナリスト・我那覇真子(がなはまさこ)を翻訳者に迎え、ついに運命の邂逅(かいこう)。
本書を読まずして、今後の日米関係は一切語れない。

敗戦直後の昭和24年。

交通手段も通信設備もすべて潰滅した沖縄で出版された『鉄の暴風』には数々の謎をはらんでいる。


 先ず、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責を委ねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
  当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。

 昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。

 住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。

 太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。

 その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。

 太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。

 「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
  三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も米軍の協力を考えれば、納得できる話である。

 余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国際通りに面した映画館「国映館」の近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。 
 その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。

 
 このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
  『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。

 ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。

 『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。

なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

 実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。

 彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。

 ところが、当時GHQに勤務していたアメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。

 その一方、米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。

沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。

≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)

『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。

著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。

沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。

これは歴史の皮肉である。

【ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」の内容】

日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。

以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合や満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。

実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。

 

アメリカ人が書いた「残虐な米兵」の本、続・『鉄の暴風』と米軍の呪縛

2021-05-31 14:45:49 | ★改定版集団自決

 

『鉄の暴風』と米軍の呪縛2008-08-26 

 

昭和24年、沖縄タイムスの太田良博記者は『鉄の暴風』の取材のため、山城安次郎氏(当時の座間味村助役)に取材している。

 太田記者の執筆手法には証言や史料の収集を基本とする新聞記者の姿勢はない。

 渡嘉敷島や座間味島での現地取材をしていないことは勿論、取材といえば専ら「米軍」が集めた人々の話が主で、それも発言者の名前を記したメモの類もないという。

 新聞記者の太田良博氏が、ドキュメンタリー作品の基本ともいえる当事者への取材もないずさんな記述で『鉄の暴風』を書き上げたのに対して、それを批判する立場で『ある神話の背景』を書いた作家・曽野綾子氏のルポルタージュ的記述手法は極めて対照的であった。 

曽野氏は伝聞に頼る太田氏のずさんさんな取材手法を同書の中で次のように指摘している。

  <太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった>

  この部分に関して太田氏は、後に沖縄タイムス紙上の曽野氏との論争で宮平、山城の両氏は辛うじて那覇で《捕えた》証言者ではなく、「(両氏が)沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は『赤松事件』を知った」と反論し、「(両氏は)証言者ではなく情報提供者」とも述べている。

  太田氏が宮平、山城の両氏とどのように接触したかはともかく、そのとき山城氏は渡嘉敷島の伝聞情報である「赤松大尉の暴状」について語り、「そのことを戦記に載せてくれ」と頼んでおきながら、何ゆえ自分が体験した座間味島のことを語らなかったのか。それが大きな問題なのである。

  戦時中、南方に居たという宮平栄治氏のことは論外としても、山城安次郎氏は太田記者が言う情報提供者の枠を超えた実体験者であり、座間味島の集団自決を証言できる証言者のはずである。      

 事件を追う事件記者が、飛び込んできた事件の当事者を目前にして、他の事件の情報提供だけを受けて、実体験の事件に関しては何の取材もしなかった。 

 これは記者としてはいかにも不自然である。 

 太田氏の言うように、その時、何のメモも取らなかったということも、にわかには信じがたいことである。

■大田良博と沖縄タイムスの関係

  このように新聞記者としては不適格にも思える太田氏が何ゆえ沖縄タイムスが社を上げて企画をした『鉄の暴風』の執筆を委ねられたのか。

 その謎を解く鍵は太田氏の沖縄タイムス入社直前の職にあった。

  太田良博記者の略歴を見ると、『鉄の暴風』の監修者の豊平良顕氏や共著者の牧港篤三氏のような戦前からの新聞記者ではない。 

 そもそも太田記者と沖縄タイムスとの関係は、沖縄タイムスの月刊誌にエッセイ、詩などを寄稿していたが、昭和24年に発表した『黒ダイヤ』という短編小説で注目を引いた、いわば投稿者と新聞社という関係だったという。 

 太田氏が戦後米民政府に勤務しているとき、沖縄タイムスの豊平良顕氏に呼ばれ、企画中の『鉄の暴風』の執筆を始めたことになっている。

 米軍政府が沖縄の統治権を米民政府に移管するのは太田氏が沖縄タイムスに職を変えた後の昭和24年の12月15日以降になっている。

 『鉄の暴風』の執筆時に米軍側と沖縄タイムスそして太田氏の間に「共通の思惑」があったと考えても不思議ではないだろう。

  曽野氏は『ある神話の背景』の取材で太田氏に会ったとき、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。

 ≪太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。 太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。

「時代が違うと見方が違う」

と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂をしている資料編纂所あたりでは、又見方がちがうという。 違うのはまちがいなのか自然なのか。≫

 驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その頃の米軍の思惑を執筆に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で同書を書いたと正直に吐露していたのである。

  このとき太田氏は後年曽野氏と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風』を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう

 この時点で曽野氏は太田氏が記者としては素人であることを先刻見抜いていながら、「玄人らしい分析」と「褒め殺し」をして『鉄の暴風』の本質を語らしめたのであろうか。

曽野氏は、後年の太田氏との論争で,「新聞社が伝聞証拠を採用するはずがない」と反論する太田氏のことを「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」と「玄人」から一変して、今度は、「素人」だと一刀両断している。

                    ◇

以下引用の太田記者の「伝聞取材」という批判に対する反論は、「はずがない」の連発と、「でたらめではない」とか「不まじめではない」とまるで記者とも思えない弁解の羅列。

これでは曽野氏に「素人のたわごと」と一刀両断されるのも仕方のないことである。

 

「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目

<体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。

直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。 >

 

 

「「沖縄戦」から未来へ向ってー太田良博氏へのお答え(3)」
曽野綾子氏の太田良博氏への反論、沖縄タイムス 昭和60年5月2日から五回掲載)

<ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。

太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。

もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 


 太田 良博
本名、伊佐良博。1918年、沖縄県那覇市に生まれる。早大中退。沖縄民政府、沖縄タイムス、琉球放送局、琉球大学図書館、琉球新報などに勤務。その間詩、小説、随筆、評論など発表。2002年死去

集団自決の歪曲報道は『鉄の暴風』に始まり『鉄の暴風』で終わると言われる。 『鉄の暴風』が米軍のプロパガンダ本として米軍の厳しい検閲の結果だということを示す比較的最近の記事を紹介した。

それがこれ。↓

<沖縄タイムス 1998年1月6日 朝刊 6面>

翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。

                   ◇

大阪地裁の深見裁判長は、被告側が隊長の自決命令の証拠として提出した『鉄の暴風』に対しては、「戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を有するものと認めるのが相当である」と評価した。

その瞬間、原告側が提出するいかなる証拠も、『鉄の暴風』という間違った基準で判断されることになる。

それは「戦後民主主義」の呪縛に絡め取られた裁判長が、その象徴とも言える大江健三郎と岩波書店を必死に護った瞬間でもあった。

『鉄の暴風』が米軍の強力な検閲の元に出版されたということは、ジャーナリストの鴨野守氏を始め多くの研究者によって明らかにされている。

原告側に立つ論者が、『鉄の暴風』の生い立ちのいかがわしさや数多くの捏造箇所を指摘しても、被告側としては、裁判長が一定の評価をした以上、なるべくこの問題には触れずに頬被りをするのが得策である。

ところが『鉄の暴風』の集団自決の章の執筆者の遺稿に、誤記の部分を単なるウワサで書いたと告白し、「ウワサだけど当時は仕方なかった」と正直に吐露している部分がある。

詳細については『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(PHP研究所 秦郁彦編)の《『鉄の暴風』と太田良博》(171頁~180頁)を参照されたい。↓

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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関連エントリー⇒星雅彦氏の疑義!『鉄の暴風』と地裁判決へ

『鉄の暴風』の取材背景 梅澤隊長“生死”の誤記 


今回これに加えて、張本人の沖縄タイムスが自社の出版物で、しかも『鉄の暴風』のもう一人の執筆者・牧港篤三氏の談話として米軍の圧力について語っている記述を発見した。

沖縄タイムス発行の『沖縄の証言』(上巻)(沖縄タイムス編 1971年)が、『鉄の暴風』発刊の裏話を7頁にわたって掲載し、「米軍の“重圧”の中で」「三カ月かけて全琉から資料を集める」「書けなかった、ある一面」などの小見出しの下に、米軍の監視のもとに書かざるを得なかった執筆の内幕を書いている。

1971年といえば沖縄が返還される一年前。

まさかその30数年後に『鉄の暴風』が原因となる裁判沙汰が起きようなどとは夢想もせずに、二人の執筆者は気軽に本音を吐いていたのだろう

関連部分を一部抜粋する。

原稿は、翁長俊郎(元琉大教授)に翻訳を依頼し、英文の原稿を米軍司令部へ提出した。 当時の軍政長官シーツ少将が、感嘆久しくした、といううわさも伝わった。 にもかかわらず、しばらく反応はなかった。 あとでわかったのだが、米軍司令部で関係者が目をとおしたのち、「オレにも読ませろ」と、ほかにも希望者が続出して許可が遅れたのだという。 米側にも好評だったわけである。>『沖縄の証言』(上巻)(303頁)

脱稿後翻訳して米軍に出版の許可を仰いでいることはこの記述で明らか。

「鉄の暴風」(初版)の序文には、米軍のヒューマニズムが賞賛されている。 「この動乱を通し、われわれが、おそらく終生忘れ得ないのは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。 このことを特筆しておきたい」。 たしかに、戦場の各所で、多くの住民が米軍に救出され、米軍に暖かいイメージを抱いたとしても不思議ではない。 沖縄住民は日本に見離され、米国の被保護者に転落していたのだから。 
しかし、「鉄の暴風」が米軍のヒューマニズムを強調したのは、そこに出版の許可条件を満たすための配慮もなされていた、という時代的な制約を見落としてはならないだろう。>(304頁)

太字強調部分は多くの研究者が言及していたが、沖縄タイムス自らがこれを認めた記事は珍しい。

1949年5月、具志川村栄野比で戦後のラジオ放送の第一声を放った琉球放送(AKAR)は、翌年10月1日の午後7時45分から、毎晩きまった時期に「鉄の暴風」-全文433ページを朗読放送した。 朗読担当者は川平朝清アナウンサー。 クラシックの音楽をバックに流して効果を出したという。>(305頁)

「鉄の暴風」のラジオ放送は、1945年(昭20)12月9日からNHKで放送された、ラジオ番組「真相はこうだ」を明らかにい意識していた。

「真相はこうだ」は、NHKの独自番組のように放送されたが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報教育局が担当した。

内容は満州事変以来の軍国主義の実態を暴露するドキュメンタリーで、アメリカの都合で故意に歪曲された部分も少なくなかった。

ちなみに沖縄版「真相はこうだ」ともいえる「鉄の暴風」のラジオ朗読をした川平朝清アナウンサーは、ディスク・ジョッキーのジョン・カビラ、元日本マクドナルドマーケティング本部長の川平謙慈、そして俳優の川平慈英という3人の父親である。

苦しかった執筆条件
牧港篤三談(執筆者の一人ー引用者注)

戦記執筆前に日本の戦記出版類をたいてい読み、太田君もトルストイの「戦争と平和」を精読したと言うことでした>(307頁)

「鉄の暴雨風」の問題の箇所「集団自決」を執筆した太田良博氏は、沖縄タイムス入社直前まで米民政府に勤務する文学愛好家であったが新聞記者としては素人だった。 

戦前からのベテラン記者であった牧港篤三氏が執筆の前に準備として目を通したのが日本の戦記物だったのに対し、文学青年の太田氏が精読したのは戦記の類ではなく、トルストイの「戦争と平和」であったという事実は「鉄の暴風」の性格を知る上で興味深いものがある。

米軍占領下の重ぐるしい時代でしたから、米軍関係のことをリアルに書けば、アメリカさんは歓迎すまい、といった、いま考えると、つまらぬ思惑があったのも事実です。 タイムリーな企画ではあったが、書く条件は苦しかった。>(307頁)

「戦後民主主義」の呪縛に取り込まれた深見裁判長が、必死になって大江健三郎と岩波書店を守るための根拠となる『鉄の暴風』に誤った評価を与えても、執筆者の太田良博氏や、牧港篤三氏がその遺稿や談話で「『鉄の暴風』はウワサで書いた」とか「米軍重圧の思惑のもとに書いた」と吐露している以上、『鉄の暴風』に資料的価値を求める深見裁判長の判断は、逆説的意味で正しいという皮肉な結果になる。

つまり、書かれた昭和24年当時の沖縄が、戦記を書くにはウワサで書くのもやむえなかった時代であり、米軍のいやがることは書けなかった時代であったという歴史を知るために、『鉄の暴風』の資料的価値は充分にあるということになる

 

太田良博記者が『鉄の暴風』を書いたとき、米軍の顔色伺いながら書いたと、吐露する場面が『ある神話の背景』に描かれている。 以下は『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編)よりの引用です。

曽野綾子は『ある神話の背景』の取材で太田にあったときから、すでに太田の記者としての危うさを察知していた。 曽野は、逆説的に“玄人”という表現を使って、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。

太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。「太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。 太田氏はそれを私情をまじえずに書き留める側にあった。 「述べて作らず」である。 とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。 
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂所あたりでは、又見方が違うという。 違うのは間違いなのか自然なのか。」(「ある神話の背景」)

驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その当時の米軍の思惑を自著に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で書いたことを正直に吐露していたのである。
このとき太田は後年曽野と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風」を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実」(183頁、184頁)

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コメント (1)

戒厳令が施行されなかった沖縄戦、日本軍は、民間人に命令する権限はなかった!

2022-05-14 04:45:40 | ●●沖縄の黒歴史

 

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本書を読まずして、今後の日米関係は一切語れない。

■日本軍は住民を守らなかったのか■

 ウソも繰り返せば真実となり、根拠の無いスローガンも繰り返せば出版物となり、結果的には歴史として刻まれる。

 連日沖縄の紙面で躍る「日本軍は住民を守らない」という左翼の主張は、「反日運動のために捏造されたスローガン」にすぎない。

では、沖縄戦の真実はどうだったか。

昭和19年の夏から大本営と沖縄配備の第32軍が、沖縄県民の安全を守るため、県や警察と協力し、県外疎開に必死の努力をしていたという歴史的事実に、沖縄メディアは全く目を閉ざしている。


  戦時中といえども法律の下に行動する軍は、当時の日本の法の不備に悩まされていた。日本は過去の戦争において常に戦場は国外であり、そのために昭和19年の第32軍沖縄配備の時点で、国民を強制的に疎開させる法律を備えていなかった。

 ドイツやフランスのように国境が陸続きの大陸国では、戦争といえば国境を越えて侵入する敵軍を想定する。

だが、四面を海に囲まれた海洋国家の日本では、敵の自国内侵入は海上での撃滅を想定しており、地上戦を考えた疎開に関する法律は整備されていなかった。

 第32軍が沖縄に着任した昭和19年当時、戦時中であるにも関わらず当時の日本には、何と現在の平和な時代でも具備している「国民保護法」(平成16年6月18日 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に相当する法整備がなされていなかったのである。
  そのような状況で沖縄防衛を任される第32軍が沖縄着任に決まった。

沖縄着任に先立って日本軍が最も憂慮したのは、米軍の上陸により沖縄住民が戦火に巻き込まれることであった。

■県民疎開は大本営の発想■

 昭和19年7月1日、大本営の後宮参謀次長は、関東軍司令部から参謀本部付きとなっていた長勇少将を特命により沖縄に派遣した。 その特命の目的は食糧不足のための兵糧の研究が表向きであったが、その他にもう一つの重要な任務を命じられていた。

同じ年の8月10日に第32軍司令官、牛島満中将が沖縄に着任するが、長少将はその一月前の7月1日に沖縄に着任し、真っ先に行ったのが住民の県外疎開調査のための県内視察であった。 
  既に第32軍の参謀長を拝命していた長少将は、調査結果を第32軍司令官渡辺正夫中将(牛島司令官の前任)に報告し、司令官は陸軍省に県民の県外疎開について具申し、それを受けて7月7日に県民の県外疎開の閣議が決定される。沖縄配備の第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった「県民の県外疎開」を着任前に閣議決定させるという素早い動きをしていたのだ。
  大本営は米軍の沖縄上陸は必至と予測し、牛島満司令官着任の一ヶ月以上も前の昭和19年7月1日に長参謀長を沖縄に派遣したが、これと連動した内務省防空総本部も救護課の川嶋三郎事務官を沖縄に派遣し、県民疎開の閣議決定の下準備をさせていたのだ。(「消えた沖縄」浦崎純著・1969年)

  緊急閣議決定で法的根拠は得たが、第32軍の県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。今の時代で安易に想像し、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。
  県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であった。当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。当時の沖縄の状況は新聞の勇ましい扇動報道に乗せられた各民間団体の「軍人より軍人らしい民間人」の狂気が巷にあふれ、県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。
  県外疎開を民間人に直接命令する権限の無い第32軍は、民間人の安全を管轄する県に協力を求め、県は警察の持つ組織力と機動力によることが最適と考え県外疎開の担当部署を警察部と定めた。
  現在のような平和な時代の後知恵で、「軍の命令は自分の親兄弟を殺害する」(軍命による「集団自決」)ほど圧倒的で不可避であったと「沖縄タイムス史観」は主張する。

だが、実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全を確保するための県外疎開すら県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。

■県外疎開は軍の発議■

  沖縄タイムス、琉球新報の沖縄二紙は、「軍は住民を守らなかった」というスローガンを掲げ、沖縄戦はまるで日本軍が沖縄住民を虐殺する戦いであったかのような報道で県民を扇動するが、県民が地上戦に巻き込まれるのを最も憂慮していたのは軍であり、牛島第32軍司令官が沖縄に着任する一ヶ月前に、県民の県外疎開の閣議決定を発議し、県民の安全を真っ先に考えたのは他ならぬ、軍当局であった。少なくとも、「軍は住民の安全を守ろうとしていた」。 
  沖縄防衛のため戦った第32軍を代表する軍人といえば、司令官の牛島中将と参謀長の長勇少将が上げられるが、この二人は、軍人というだけで、沖縄での評価は極端に低い。長参謀長に至っては、大陸戦線で南京攻略に参加していたという理由だけで、「南京大虐殺」の実績を引っさげて「沖縄人虐殺」のために沖縄にやってきた、といわんばかりの悪評を受けている。牛島司令官も長参謀長ほどではないにしても、左翼勢力にとっては「悪逆非道な日本軍」のシンボルとして、牛島司令官の孫まで引っ張り出して日本軍を貶め、自分の祖父を罵倒するという醜いシーンまで披露している。日教組に毒された戦後教育の悪い面を、祖父を面罵する孫の姿に見出すのは残念なことである。
  残された記録を検証すると、大本営は第32軍の牛島司令官が沖縄に着任する一ヶ月前には、次期参謀長予定の長参謀長を沖縄に派遣し、県民が戦火に巻き込まれないための県外疎開の研究を命じていたことがわかる。 だが、「悪逆非道の日本軍」をスローガンに掲げる沖縄紙が沖縄県民の県外疎開を真っ先に考えていた事実を報じることはない。

■県外疎開が進まなかった理由■

  軍の命令が絶対であり、軍命であれば愛する親兄弟も殺すと主張するが正しいならば、住民の県外疎開など軍の命令一下で、容易に実行できそうなものである。ところが容易なはずの県外疎開には、いろんな阻害要件が次々発生して、軍と県による県外疎開の実施は思うようにうまくはいかなかった。
  その第一は、沖縄の地理的要因であった。 今と違って当時の沖縄では、本土他県に行くと言うことは大変なことで、特に疎開の対象が老幼婦女子に限られていた関係上、家族と別れるくらいだったら一緒に死んだ方がマシだという風潮も県外疎開の阻害要因であった。東京から長野に汽車で疎開する学童に比べれば、沖縄の学童が船路で九州各県に疎開することは大変な決心を要する一大事であった。
  次に当時の泉県知事がどういうわけか軍の指示にことごとく反抗し、県外疎開に消極的な態度を示した。「公的な立場では言えないが、個人の意見では引き揚げの必要はないと思う・・・」と発言し、県外疎開などせずに済めばこれに越したことは無いといった県内の風潮に拍車をかけていた。(浦崎純著「消えた沖縄県」)
  第32軍は牛島司令官が着任の一ヶ月前から、県民の県外疎開を実施を計画していたが、軍の意思に反して疎開が無くても良いといった風潮は、泉知事や県民の大多数だけではなく、疎開を促進しようとする軍司令部の末端にもその風潮はあった。軍の指令のうまく行きわたらない地方の部隊では、第32軍が沖縄でがんばっているのにわざわざ疎開などする必要は無い、と疎開実施をぶち壊すような放言するものもいた。
  遅々としてはかどらなかった疎開が一挙に盛り上がったのは昭和19年10月10日、那覇市が米軍の大空襲で壊滅的打撃を受けてからである。
  何事も切羽詰まってからでないと行動を起こさない県民性は昔も今も同じことであった。

■サイパンの惨劇■

  軍が沖縄県民の疎開を考え始めたのは、米軍がサイパン島に上陸し、「絶対国防圏」の一角が崩れ始めた昭和十九年六月下旬の頃である。アメリカ軍の投降勧告によって集められた日本人住民の老人及び子供の周りにガソリンがまかれ火が付けられたり、米軍の呼びかけに応じて洞窟から出てきた女性全員が裸にされトラックに積み込まれ運び去られたということは戦後いろんな証言が記録されている。
  当時の沖縄県民がどの程度「サイパンの悲劇」に関する正確な情報を持っていたかはともかく、当時の沖縄には南方帰りの県人が多かったり、大本営がサイパン陥落の直前に沖縄住民の県外疎開を急遽準備し始めた事実から、沖縄県民が「サイパンの悲劇」を知っていた事は容易に想像できる。
  昭和19年6月28日の陸軍省局長会報で富永恭次陸軍次官は、「小笠原ト硫黄島・沖縄・大東島・先島ノ石垣島土民ヲ引キアゲル様ニシテ居ル。問題ガアルカラ外ヘ漏レヌ様ニ」と述べ、真田第一部長は、間もなく沖縄の第32軍参謀長に着任する長勇少将に「球ノ非戦闘員ノ引揚」の研究を指示している。             
  またサイパンが陥落直前の七月七日の陸軍省課長会報で軍務課長は「沖縄軍司令官ヨリ国民引揚ゲノ意見具申アリ、本日ノ閣議デ認可スルナラン」と報告、翌八日の陸軍省局長会報では、軍務局長が「球兵団地区ノ住民ハ、希望ニ依リ地区毎ニ、引揚ヲ世話スル事ニナル」と述べている。
  沖縄県、陸軍省、内務省などの間で疎開計画を協議した結果、疎開人数は県内の60歳以上と15歳未満の人口(約29万人)の三分の一にあたる十万人、疎開先は宮崎、大分、熊本、佐賀の九州四県と台湾に決まった。
  サイパン陥落の後、米潜水艦による疎開船「対馬丸」の撃沈(8月22日)もあったが、同年10月10日の那覇大空襲によって疎開機運は一気に高まり、昭和20年3月上旬までに、延べ187隻の疎開船で、沖縄本島の約6万人が九州、宮古・八重山の約2万人が台湾に疎開した。
  米軍の沖縄上陸の可能性が高くなった19年12月以降は、第32軍と県、警察、学校の間で、残った住民の県内疎が計画され、3月中旬までに、沖縄本島中南部の住民約3万人が北部の国頭郡に疎開した。3月24日、米軍の艦砲射撃が始まった後も、上陸した米軍が沖縄本島を南北に分断、疎開の道が閉ざされた4月3日までの間、県北部へ向けて殺到した中南部の住民約5万人が県北部へ疎開した。
  本格的な地上戦が始まる前、県外外の疎開をした沖縄県民は16万人に至った。当初は軍中央部の要請で政府が県外疎開を決定し、19年末からは、主として現地の32軍と沖縄県の間で県内疎開が実施された。
  現在、昭和19年7月7日の閣議決定の記録は確認できないが、同じ日付の陸軍省課長が、「7月7日 課長会報 軍務(課長二宮義清大佐)沖縄軍司令官より国民引揚げの具申あり。本日の閣議で認可するならん」と述べていることから、沖縄県民の県外疎開が7月7日に閣議決定されたことと、それが軍の発議で行われたことは歴史的事実である。(大塚文郎大佐ー陸軍省医事課長ー「備忘録」、「戦さ世の県庁」孫引き)

■沖縄戦の本質■

  沖縄戦といえば軍の側から見た戦略的な「戦史もの」、そして住民の側から見た「証言もの」と、多数の出版物があるが、軍と住民の間に立って「軍への協力と住民の安全確保」という二律背反の命題に努力した地方行政側の「戦記」は極めて少ない。

<戦争を遂行するために、「戦争」から国民ー非戦闘員を護るために、どのように準備をなし、どのような行動をとるべきか。 平時を前提として制定されている地方制度に何らかの特例を設けるべきか、非常の措置を行うためにどのような組織・権限ーそして特別規定が必要であるか。 すべてこのような問題に直面し、実際に回答を出さざるを得ないもの、それが沖縄県であり、沖縄県で遂行された「戦争」であった。>

  これは沖縄復帰当時の公使・日本政府沖縄事務所長・岸昌氏が荒井紀雄著「戦さ世の県庁」の序文で沖縄戦の本質を語った文の抜粋である。沖縄戦当時、警察部長(現在の県警本部長)として、島田叡県知事とコンビを組んで、県民の安全確保に努力した荒井退造氏の長男の紀雄氏が、父退造氏が軍と住民の間に立つ文官として如何に沖縄戦を生き、そして死んだかを、多くの資料・証言を基に記録したのが「戦さ世の県庁」である。 戦火により多くの県政関係の資料が消失・散逸した中で同書は現在望みうる最高の記録である。

■軍司令官vs県知事■

  現在の偏向した沖縄紙の論調でいえば、沖縄戦とは米軍との戦いというより、「悪逆非道な日本軍」が一方的に沖縄住民を殺戮していくといった「日本軍対沖縄」という構図になる。 そのイメージでいえば、戦時中、軍と対立し、何かといえば軍の言うことに反対していた県知事がいたといえば、きっと英雄的な勇気ある県知事が連想され、今でも県民の尊敬を受けていると思う人も多いだろう。
  だが、実際はこの県知事、沖縄県知事の中でも最も評判の悪い知事であった。東京帝国大学出の内務官僚泉守紀氏が第22代官選沖縄県知事の辞令を受けたのは、昭和18年7月1日のことであった。 丁度同じ日付で荒井退造氏も沖縄県警察部長の辞令を受けている。
  このように昭和18年の沖縄の夏は、のどかな町の風景とは裏腹に、県庁幹部が一新され、来るべき沖縄戦を予知してか県庁内外に何時にない緊張が走っていた。そんな空気の中、泉親知事は辞令より約一月送れて7月26日に赴任するが、沖縄防衛の第32軍(初代司令官は渡辺正夫中将)が昭和19年3月に沖縄に着任すると、泉知事は軍との対立を深め、修復不可能なものとなっていく。(野里洋著「汚名」)
  そして政府は昭和19年7月7日の閣議決定で「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄県から60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることを決定、沖縄県に通達した。 
  疎開目標は「本土へ8万、台湾へ2万の計10万」と決定されたが、泉知事は公然とこれに反対したと言われているが、その理由は解明されていない。
  もともと明治以来の官僚国家のわが国では、軍官僚と警察官僚は犬猿の仲であった。 東大出の優秀な内務官僚を自認する泉知事は警察畑を主として歩いてきており、軍の指示は受けないという内務官僚としてのプライドがあったのだろうか。

  日本の官僚機構は縦割り構造だといわれる。 最近の官僚の不祥事を見てもその悪い面が前面に出て、「省益あって国益なし」という言葉が官僚を批判するマスコミの常套句として紙面を賑わす。
  戦前の、武器を装備する官僚の代表の軍官僚と警察官僚(内務官僚)の意地の張り合いで有名な事件に、昭和11年に交通信号をめぐって起きたゴーストップ事件がある。泉知事の軍に対する反抗的姿勢が軍官僚と内務官僚の対立が原因かどうかはともかく、当初は県民の疎開機運は知事の軍への非協力的態度により一向に盛り上がらなかった。

  当時の沖縄県の状況を、戒厳令に近い「合囲地境」の状態であったので軍の命令は圧倒的で、従って県や市町村の命令も軍の命令であるという意見は、泉知事の第32軍へ徹底した反抗で軍が県民疎開の実施に苦慮している状況をみても、それが机上で作り上げた空論であることが明らかである。
  県民の疎開については、第32軍は法的には直接住民に命令を出せないので県の、特に警察機構の協力が必須であったが、泉県知事のかたくなな反抗に困り果てた結果、昭和19年年1月31日には軍司令官統裁の参謀会議で「沖縄県に戒厳令を布告、行政権を軍司令官が掌握し、知事を指揮下に入れる」検討を行ったが、実際には戒厳令も合意地境も発令されなかった。

■県外疎開に水をかける「街の情報屋」■

  第32軍は沖縄県民の県外疎開を真剣に考えていたが、その一方その頃の沖縄県民の県外疎開に対する無関心振りを、当時の那覇警察署僚警部で戦後琉球政府立法議員議長を務めた山川泰邦氏は自著『秘録沖縄戦史』(沖縄グラフ社)で次のように述べている。

<だが県民は、襲いかかってくる戦波をひしひしと感じながらも、誰も必勝を疑わず、その上無責任な街の情報屋は、「まさか、沖縄に上陸するようなことはあるまい」と勝手な気炎を吐いたため、これが疎開の実施に水をぶっかけるような結果になった。それに、当時海上は潜水艦が出没して、既に2回にわたり集団疎開船が撃沈され、多数の犠牲者を出したために、「どうせ死ぬなら、海の上で死ぬより、郷里で死んだ方がよい」と疎開の声に耳をかたむけようとしないばかりか、はては疎開を命令で強制された場合のことを心配する始末だった。>

  勇ましい情報を垂れ流し、県民疎開の実施に水をかけていた「街の情報屋」が誰であったかを山川氏は特定していないが、当時の新聞報道やその他の史料から推測すると、県民疎開を発案した軍やそれの実施に軍から協力依頼されていた行政側ではないことは間違いなく、決起大会等でも、中には演壇の上で抜刀し檄を飛ばしていた「軍人より軍人らしい民間人」の姿がここでも思い浮かぶ。 戦後、琉球政府時代になって活躍した著名人の中にも平良辰雄氏、や当間重剛氏のように、当時は民間団体の責任者として県民を扇動していたという。そのような雰囲気では県外疎開などは県外逃亡と看做され軍の思惑とは裏腹に県民の県外疎開に水をかけていたのだろう。

  昭和19年12月に第32軍が「南西諸島警備要項」を作成し「敵の上陸に備えて60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と国民学校以下の児童を昭和20年2月までに本島北部に疎開させる」と言う計画を作成したが、泉知事は「山岳地帯で、耕地もない北部へ県民を追いやれば、戦争が始まる前に飢餓状態が起きる」と反対した。 
  確かに当時の食糧事情は厳しいものがあったが、軍民混在を避けたい軍の意向と泉知事の意見のどちらが正しかったかは、北部に疎開した県民が比較的戦火の被害が少なかった事実を見ても明らかであろう。 
  軍が県民疎開にこだわった理由は、7月に起きたサイパンの悲劇を教訓に、主目的は軍の作戦を円滑にする為であるが、何とか住民を避難させて、結果的に住民の犠牲を最小限にとどめようと考えた結果であったが、泉知事にことごとく妨害された訳である。 泉知事は一ヵ月後の翌年1月には出張と称して本土に渡り、二度と沖縄に戻ることはなかった。
  その後任として島田叡氏が次期知事に着任するのである。

  泉知事の後任の島田知事が泉知事とは対照的に軍と緊密に協力し県外や県内北部への疎開など県民の安全確保に全力をそそいだ。                  後の沖縄県の調べでは県外疎開は1944年7月から翌年3月まで延べ187隻の疎開船が学童疎開5586名を含む6万2千名(疎開者数を8万とする史料もある)を疎開させ、これに合わせて沖縄本島北部への県内疎開は約15万と推定されている。 

  翌年3月の米軍上陸前という重要な時期に県内外の疎開が円滑に行かなかったのが、後の沖縄戦での「軍民混在」という住民巻き添えの悲劇に至った伏線になっている。 軍を悪と看做す現代の感覚でいえば、軍と県の対立といえば聞こえがよいが、島田県知事の前任の泉知事はむしろその年に沖縄に駐屯した32軍は思ったより冷静で、次のような判断をしていたとの記録が残っている。
<かの物量を誇る米軍に対しては精神面だけでは到底勝算を得られないのであり、離島である沖縄は敵の本格的攻撃にあっては孤立し、・・・>(馬淵新治著「住民処理の状況」)

  県外疎開に関する閣議決定の一ヶ月後、牛島満中将が32軍の新任司令官として沖縄に着任することになる。「軍は住民を守らなかった」という左翼勢力のスローガンからは想像も出来ないが、昭和19年の夏に沖縄に着任した第32軍の司令官と参謀長は、沖縄が戦地になることを予見し、且つ「県外疎開」の法律の不備を憂慮して、大本営の発議によっり着任前に「閣議決定」に持ち込むという早業を行った上で、後顧の憂いを極力小さくして沖縄に着任したのである。

 

【おまけ】

疎開秘話3 大本営の密 使2012-01-18

 

日本軍の命令でマラリア蔓延地に強制避難 八重山で3600人病死の悲劇 住民が36人の証言集発刊 

2020年8月28日 14:00有料

 【八重山】八重山戦争マラリアを語り継ぐ会(潮平正道会長)は15日、証言集「命の輝きを求めて-マラリアを生き抜いた人々の証言」を発刊した。ことしは結成10周年で、証言をまとめたのは初めて。戦時中、石垣島を中心にマラリアに侵されて家族を失うなどつらい体験をした36人から聞き取り、手記を含めて38編をつづっている。

第32軍が沖縄に着任する以前から、大本営は、沖縄住民が戦禍にさらされるのを防ぐため閣議決定により県外疎開を決めていた。 だが県外疎開、実際は思うようにはかどらず、県内のより安全と思われる場所への県内疎開を余儀なくされた。

ただ当時の法体系でも軍が直接住民に疎開命令を出すことは出来ず、第32軍は「南西諸島警備要領」を作成し県知事に協力を要請し、知事は警察の組織力でこれに協力した。

沖縄本島では、島田知事と荒井県警部長が住民疎開に尽力したが、共に殉職し県民の恩人として今でも慕われている。

だが県知事や警察の疎開指導が届かなかった離島地域ではやむなく直接軍が疎開の指導をせざるを得なかった。

同じ疎開でも県が指導した場合は命の恩人と感謝され、軍が直接指導した疎開は「強制疎開」などと、住民を殺戮させるために疎開させたような書き方をするのが沖縄紙の特徴である。

八重山で疎開を指導した山下軍曹は戦後67年経っても、八重山マラリアで住民を虐殺した悪鬼として罵倒され続けている。 

だが山下軍曹も島田県知事も、故郷に家族を残し使命を帯び決死の覚悟で沖縄に赴任した善良な父であり、夫であり兄だった。 彼らは住民を安全地帯に疎開させるという思いは同じで、唯一の違いといえば、軍服を着ていたかどうかの違いに過ぎない。

八重山住民を「日本刀で脅し、マラリアの汚染地域に強制的に疎開させた」と喧伝されている山下軍曹が、1981年にひっそりと島を訪れた時、八重山住民は「・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」と抗議書を突きつけたという

その後山下軍曹は2度八重山を訪れ、その度に罵倒され追い返されたという。 

なぜ山下虎雄軍曹は何度も島を訪れたのか。

山下軍曹が罵倒されるのを覚悟で3度も八重山地区を訪れたのは、自分が指導した疎開で不幸なことに多くのマラリアの犠牲者が出たことに対する贖罪の気持ちの表れではなかったのか。

山下軍曹にとって不幸だったのは、それこそ幸か不幸か、八重山地区は本島のような米軍による「鉄の暴風」に曝されることがなかったことである。

山下軍曹が八重山住民の虐殺を企む「悪鬼」ではなかった。

たまたま不幸にも八重山地区に着任したばかりに、疎開を自ら指導せざるを得なかった善良な日本人だった。

これは戦後3度も八重山地区を訪問した事実から窺い知ることができる。

その一方で同じ疎開でも、島田県知事、荒井県警部長に対する沖縄紙の記述は、彼らが軍人でないという違いだけで比較的まともである。

以下は大本営の密使  沖縄戦秘話3に加筆したものである。

         ☆

沖縄は地元出版の盛んな地域である。

沖縄戦に関する軍側から見た記録や住民側の記録が多数出版されて、地元の本屋の店頭を飾っているが、軍と住民の間に立って県民の安全確保のため奔走した県行政側から見た記録は極めて少ない。

県民の安全確保のため県内外の疎開を実行するため島田知事とコンビを組んで命懸けで尽力した荒井退造警察部長は「県民の恩人」として、島田知事と共に遺骨も無いまま、摩文仁の「島守の塔」に合祀されている。

万年筆県に寄贈へ 那覇市真地の「県庁壕」で発見(2008.7.27)

「万年筆を多くの人に見てもらうことが義務」と語る荒井紀雄さん=東京都日野市
「県庁壕」で発見された万年筆

 【東京】沖縄戦中、県民の県外、北部疎開に尽くした荒井退造・県警察部長の遺品とみられる万年筆が、近く遺族から県に寄贈されることになった。万年筆は昨年12月、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で見つかり、6月に東京の遺族に届けられた。
 長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「この万年筆が父の物だと断定できるわけではないが、大変な犠牲を生んだ沖縄の惨禍の『証言者』だ。多くの人々に見てもらえることが、私の義務だと思う」と話している。
 万年筆を見つけたのは「県庁壕」の発掘・調査を続けている知念賢亀さんと繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。壕内の荒井部長室前の地中から掘り出した。
 戦時中の県職員や遺族らでつくる「島守の会」を通じて送られてきた万年筆を調べたところ「並木製作所」(現・パイロットコーポレーション)が1932年発売の製品と類似。当時の標準品が3円から5円だったのに対し、見つかった万年筆は16円程度で売られていた。元県職員の板良敷朝基さん(「島守の会」顧問)は「部長以上の高官しか持っていない代物」と説明しているという。
 昨年手術を受け、通院を続けている紀雄さんは「父は生前、『家族が私の骨を拾ってくれる』と語っていたという。骨は戻らなかったが、万年筆が息子の元へ戻ってきたと父は思っているかもしれない。私も生きていて良かった」と語っている。
 「県庁壕」は、米軍が沖縄本島に上陸する直前の45年3月末から5月末までに県警察部が避難していた壕。4月から島田叡(あきら)知事も合流した。荒井部長は島田知事とともに5月末に本島南部へ移動。6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出た後、消息を絶った。(小那覇安剛


                                           ◇

 

■「狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である」■ (ニーチェ )

この言葉は昨年、沖縄タイムスと琉球新報の沖縄二紙が「11万人集会」で県民を扇動していた頃、何度も当日記で引用させてもらった。

沖縄二紙は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、「県民大会」に反対するものは県民にあらず、といった狂気に県民を追い込んでいた。

職場等でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。

個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。

そしてその背後に新聞の扇動がある。

そんな例は歴史を紐解けば枚挙に暇がないほどだ。

軍情報局から日本敗戦間近の情報を得ていたにも関わらず、朝日新聞は、終戦の前日の8月14日の社説で、従来の「国民扇動」の論調を変えることが出来ずに、「敵の非道を撃つ」といった勇ましい記事を垂れ流し続けていた。

 

■昭和19年12月の「県民大会」■

昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。

その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。

大詔奉戴日といわれたその日の「沖縄新報」には次のような見出しが踊っていた。

けふ大詔奉戴日 軍民一如  叡慮に応え奉らん

一人十殺の闘魂  布かう滅敵待機の陣

終戦の8ヶ月も前の記事なので、「沖縄新報」が、朝日新聞のように、敗戦間近の情報は得ていた筈はないが、見出しと記事がやたらと県民を煽っていることが見て取れる。 

昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前の「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。

ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。

そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、次のような大見出しを使っている。

米獣を衝く  暴戻と物量の敵を撃て

お題目で獣性偽装   野望達成で手段選ばぬ

泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。

<挺身活動へ  翼壮団長会議

県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)

当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であったという。 

例えば座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来たいう。

では、その頃、沖縄配備の第23軍は一体何をしていたのか。

 

■第32軍は県民疎開をどのように考えたか■

ウソも繰り返せば真実となり、根拠の無いスローガンも繰り返せば歴史となる。

連日沖縄の紙面で踊る、「日本軍は住民を守らない」

という左翼の主張は、昭和19年の夏から大本営と沖縄配備の第32軍が沖縄県民の安全を守るため、県や警察と協力し、県外疎開に必死の努力をしていたという歴史的事実には全く目をつぶった、「反日運動のために捏造されたスローガン」にすぎない。

戦時中といえども法律の下に行動する軍は、当時の日本の法の不備に悩まされていた。

日本は過去の戦争において常に戦場は国外であり、そのために昭和19年の第32軍沖縄配備の時点で、国民を強制的に疎開させる法律を備えていなかった。

ドイツやフランスのように国境が陸続きの大陸国では、戦争といえば国境を越えて侵入する敵軍を想定するが、四面を海に囲まれた海洋国家の日本では、敵の自国内侵入は海上での撃滅を想定しており、地上戦を考えた疎開に関する法律は整備されていなかった。

第32軍が沖縄に着任した昭和19年当時、

何と、戦時中であるにも関わらず当時の日本には、現在の平和な時代でも具備している「国民保護法」(平成16年6月18日 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に相当する法整備がなされていなかったのである。

そのような状況で沖縄防衛を任される第32軍が沖縄着任に先立って最も憂慮したのは、米軍の上陸により沖縄住民が戦火に巻き込まれることであった。

■県民疎開は大本営の発想■

昭和19年7月1日、大本営の後宮参謀次長は、関東軍司令部から参謀本部付きとなっていた長勇少将を特命により沖縄に派遣した。 その特命の目的は食糧不足のための兵糧の研究が表向きであったが、その他にもう一つの重要な任務を命じられていた。

同じ年の8月10日に第32軍司令官、牛島満中将が沖縄に着任するが、その一月前の7月1日に沖縄に着任し、長少将が真っ先に行ったのが住民の県外疎開調査のための県内視察であった。 

既に第32軍の参謀長を拝命していた長少将は、調査結果を第32軍司令官渡辺正夫中将(牛島司令官の前任)に報告し、司令官は陸軍省に県民の県外疎開について具申し、それを受けて7月7日に県民の県外疎開の閣議が決定される。

沖縄配備の第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった「県民の県外疎開」を着任前に閣議決定させるという素早い動きをしていたのだ。

大本営は米軍の沖縄上陸は必至と予測し、牛島満司令官着任の一ヶ月以上も前の昭和19年7月1日に長参謀長を沖縄に派遣したが、

これと連動した内務省防空総本部も救護課の川嶋三郎事務官を沖縄に派遣し、県民疎開の閣議決定の下準備をさせていたのだ。(「消えた沖縄」浦崎純著・1969年)

緊急閣議決定で法的根拠は得たが、第32軍の県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。

今の時代で安易に想像し、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。

県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であった。

当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、

沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。

当時の沖縄の状況は新聞の勇ましい扇動報道に乗せられた各民間団体の「軍人より軍人らしい民間人」の狂気が巷にあふれ、

県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。

県外疎開を民間人に直接命令する権限の無い第32軍は、民間人の安全を管轄する県に協力を求め、

県は警察の持つ組織力と機動力によることが最適と考え県外疎開の担当部署を警察部と定めた。

現在のような平和な時代の後知恵で、

「軍の命令は自分の親兄弟を殺害する」ほど圧倒的で不可避であったと「沖縄タイムス史観」は主張するが、

実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全を確保するための県外疎開にせも県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。

 

警察部長として県民の県内外の疎開に尽力し、最後は南部で戦死を遂げた荒井退造氏が、冒頭記事の荒井紀雄さん(写真)の父君である

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フィンランド首相が反論!沖縄タイムス牧港篤三記者の「沖縄宿命論」「捨石か要石か、沖縄宿命論に

2022-05-13 10:43:01 | ●●沖縄の黒歴史

 

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キャンディス・オーウェンズ (著)

これは、米国政治のキャスティング・ヴォートを握る黒人たちに突きつけられた「保守」からの革命の書だ!
間違いなく今後の米国史を動かし、やがて21世紀の革命家と称されるであろう
黒人女性の記念碑的処女作
日本の若き女性国士にして、最も勇気あるジャーナリスト・我那覇真子(がなはまさこ)を翻訳者に迎え、ついに運命の邂逅(かいこう)。
本書を読まずして、今後の日米関係は一切語れない。

 

来日したフィンランドのマリン首相は、ロシアとの国境を1300㎞も接している事実を問われ、こう答えている。

「地理や国の位置を変えることはできません」

「しかし、外交・防衛・安全保障政策は自ら決めることが出来ます」

さすが、である。

沖縄の左翼メディアのように、「沖縄は本土の捨て石」などと、嘆き節に逃げ込んだりしていない。

 
「捨て石」とは、もともとは囲碁にに由来する言葉で、囲碁の戦術として意図的に相手に取らせ、後に自分の利益となるように打つ石のこと。
 
 
「捨て石」の画像検索結果
 

捨石か要石か、沖縄宿命論2012-05-07 07:04:28 

米軍基地撤廃派のこんな意見を良く聞く。

「米軍基地が日本の国防になるのなら、日本の全県に均等に分散させよ」「沖縄だけに集中させるのは差別だ」などなど。

その瞬間、これらの文言は自己破綻に陥る。

 

2010年の「4・25県民大会」が開かれた日の沖縄タイムス社説はその勢力に呼応するように「[歴史の節目に]宿命論と決別するときだ(2010年4月25日 )という仰々しいタイトルだった。

[歴史の節目に]宿命論と決別するときだ
  2010年4月25日 09時55分  

 圧倒的な基地負担が沖縄の宿命であるはずがない。国による不合理な押し付けを拒否し、きょう、県内各地から多くの住民が県民大会に集う。

米兵暴行事件に抗議して開かれた1995年の10・21県民大会以来の島ぐるみ運動だ。仲井真弘多知事をはじめ41市町村の全首長(2人代理)、政党、各種団体、市民が一丸となって米軍普天間飛行場の県内移設に反対の意思を表明する。

 「県外・国外移設」の可能性を十分に追求しない政府の不誠実な対応に抗議し、党派を超え世代を超えて「県内移設ノー」の意思を示すのは初めてである。その波紋は大きく広がるだろう。基地沖縄の宿命論に終止符を打つときだ。

 米兵暴行事件への対応策として、橋本龍太郎首相は「米軍の兵力構成について継続的に米側と協議する」との総理談話を発表したが、実現しなかった。小泉純一郎首相は2004年10月、普天間について「県外、国外の両方を考えていい」と発言したが、その8カ月後、「自分の所にはきてくれるなという地域ばかりだ」とあっさり撤回した。鳩山由紀夫首相が「最低でも県外」と公言したことで県民の期待はかつてなく高まった。

 普天間問題を考える上で最も重要な要素は、政権交代によって生じた住民意識の変化である。急浮上した辺野古修正案であれ勝連沖埋め立て案であれ、県内移設はもはや不可能だ。歴史の歯車を後戻りさせるようなことがあってはならない。

 政府はこれまで沖縄の「地理的優位性」を強調し、米軍基地の必要性を主張してきた。台湾海峡に近く、北朝鮮から適度な距離にある、と政府関係者はいう。

  しかしその論に具体性は乏しい。沖縄駐留の海兵隊は約2000人の遠征隊を動かす編成で、任務は紛争地での自国民救出など限定的だ。

 海兵隊を運ぶ艦船は長崎県佐世保に配備されている。朝鮮半島情勢が悪化したとき、船は佐世保からいったん南下して沖縄で隊員や物資を載せ、再び北上する。北朝鮮を警戒するのなら九州中北部に海兵隊を集約させたほうがよっぽど合理的だ。

 海兵隊はアジア太平洋で広範に活動しており、絶えず日本をガードしてくれていると考えるのは都合のいい思いこみだ。「日米同盟=基地提供=沖縄」という固定観念は事実を直視しないために起きる幻想にすぎない。

  戦後日本は経済復興を優先した。安全保障については米国に多くを委ね、米軍駐留をすべての前提としてきた。それが外交・防衛の原則となり、「同盟管理」さえ間違えなければ日本は安心だと信じ込んできた。

  米軍がらみの事件事故で地位協定の問題が浮上し、それが主権にかかわる内容をはらんでいても、同盟が傷つかないよう沖縄だけの出来事として切り捨てられる。成熟した民主主義社会で、このような負担の不公平を放置し続けることは許されない。

  「アメとムチ」によって基地移設を押し付けられる地域は、住民同士の対立感情が深まり、崩壊の危機にさらされる。環境汚染が指摘されても地元自治体に基地内立ち入り調査の権限はない。

 基地問題は沖縄問題という地域限定の問題なのではない。この国のあり方が問われているのだ

沖縄が地政学的に重要な位置に存在することを嘆いて、沖縄を浮島にして日本国中好きなところに移動させたい。

かつてこんな白昼夢を見た沖縄タイムスの記者がいた。

牧港篤三氏のことだ。

所詮それは叶わぬ夢だが。

ここに『鉄の暴風』の執筆者で沖縄タイムスの先輩記者でもある牧港徳三氏が書いた「沖縄宿命論」がある。

『うらそえ文藝』(第10号 2005年刊)に寄稿の「ある種の記憶」という随想の中で牧港氏は次のように書いている。

私は、以前こんな風に書いた。「沖縄・地理の宿命論。この地理的宿命論は他にもある。陸の孤島と化したことのある東・西ベルリン、或いは現在の南北朝鮮。南・北ベトナム。その地域によって分かれている地理的宿命論である。沖縄の落ち込んでいる不条理は、純粋に地理の生んだ陥穽とはいえないが、アメリカによって生まれた基地の重圧を一身に背負う沖縄は、偶然とは言え、一種の『地理の宿命』であることは間違いあるまい。
仮りに、沖縄が、四国か、九州の海岸か、或いはオホーツク海の氷島の傍であっても、いっこうにかまわない。白昼のミステリーと笑いとばせばよい変幻夢を、沖縄の今日の歴史は刻んでいる。」・・・と、かつて私は書いたことがある。(「無償の時代」)

続けて牧港氏は、自身の沖縄戦の悲惨な体験を回想記風に綴った後、この随想を次のように締めくくっている。

私はいつか書いた。沖縄が洋上に浮かぶ島なら、・・・その地理的宿命論という奴を放り出したい思いの一途な思いが時々頭をもたげるのである。」と

回りくどい表現ながら、沖縄が洋上に浮かぶ島なら、沖縄を宿命論の及ばない他の地域へ移動させたいと願望しているのである。

勿論はこれは牧港氏の夢想であり、現実には沖縄を他地域に移動させることは出来ない。 だが、沖縄が、マスコミが喧伝するような基地公害で住みづらい地域であり、それを我慢できない県民なら、他県へ移住することは自由である。現在の日本では基地のない地域へ移住するのを妨げる法律はない。 

ところが逆に近年他県から沖縄へ移住する人が増加している。

沖縄県の人口は毎年増え続けているし、「世界一危険な基地」を抱える宜野湾市野人口増加は県内でも特に著しい

モノレール設置の立ち退き料をたんまり貰った那覇市のプロ市民が「世界一危険な基地」のある宜野湾市に移住した例もあるくらいだ。

米軍基地の公害を嘆くのなら、基地のないところへ移住すればよい。

雪の降らない暑い沖縄に生まれた宿命を嘆くなら、雪見酒を楽しめる雪国へ移住すればよい。 

花見の宴を羨むなら、桜の名所に移住すればよい。

わが国は憲法により移動・移住の自由も認められたいる。

                ★

■フィンランド首相、国境を接する地理は代えられない

ウクライナ戦争を受け、ロシアと1300㎞の長い国境を接するフィンランドのマリン首相が来日した。

長年の中立政策で従来NATОに加盟していなかった。

だが、今回のロシアの暴挙に安全保障を見直して、NATОに加盟の予定だという。

日本もロシアと国境を接する日本とフィンランドの共通点を問われ、マリン首相はこう答えている。

「地理や国の位置を変えることはできません」

「しかし、外交・防衛・安全保障政策は自ら決めることが出来ます」

 

さすが、長年ロシアの侵攻に応戦し、独立を勝ち取ってきた国の指導者は言うことが違う。

沖縄タイムスの牧港篤三氏は、沖縄の地理的条件を「捨て石」と諦め、「沖縄が”(移動可能な)”浮島”」などという「ひょっこりひょうたん島」の妄想にかられることはないようだ。

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「1972年の5月15日、沖縄は、基地負担の本土並みを求めて日本に復帰しましたが、依然として、日本国内にあるアメリカ軍専用施設面積の7割以上が沖縄に集中しています」

毎年祖国復帰に絡んで沖縄2紙がキャンペーンを張る時の嘆き節であり、決まり文句でもある。
 
米軍基地の本土並みとは沖縄の米軍基地を本土に移設することであるがしかし、本土には各県に洩れなく自衛隊基地がある。自衛隊基地の方が米軍基地の何倍も大きい。
一方、本土の自衛隊基地に比べると沖縄の米軍基地はとても小さい。自衛隊基地を含めると沖縄の米軍基地の面積の割合とても小さくなる。
 
               ★
 
【おまけ】

沖縄2紙の売り文句が「在日米軍施設の70%が沖縄に集中」。

なるほど、これでは大多数の国民が、多すぎると同情するだろう。

だが、ちょっと待ってほしい。

自衛隊は全国にもれなく配備されている。

必ずしも多いとは限らない。

全国の「自衛隊と米軍の共同施設」を増やせばいい。

だが、一番手っ取り早い問題解決は、沖縄の米軍基地を、日本とアメリカ共用にすれば、一件落着だ。

在日米軍施設の約70%が沖縄、8割がおかしいと回答 まあ北海道にももっと居てもらわなきゃな

: シューティングスタープレス(愛知県) [US] 2022/05/10(火) 07:40:34.93 ID:KLCIlAF20● BE:156193805-PLT(16500)


NHKの世論調査で、在日アメリカ軍の専用施設のうち、およそ70%が沖縄にあることについてどう思うか聞いたところ「おかしいと思う」と回答した割合が、沖縄では8割を超え、全国でもおよそ8割に上りました。



https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220510/k10013618171000.html
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1652136034/

10: ランサルセ(大阪府) [NL] 2022/05/10(火) 07:44:39.08 ID:ZPVBr0jZ0
基地を日本アメリカ共用にすれば解決だね

 
18: バーニングハンマー(東京都) [US] 2022/05/10(火) 07:48:31.03 ID:40ktY8ZA0
今ならロシアも反撃する力がないから
対ロシアで北海道においてもいいかもね

19: 超竜ボム(茸) [CN] 2022/05/10(火) 07:48:39.87 ID:QcDAwP770
竹島も米軍の射爆場にしちゃえばいいんだよ。

20: タイガードライバー(石川県) [RU] 2022/05/10(火) 07:48:44.58 ID:SPN79Li00
「米軍専用施設」は70%
「自衛隊との共同施設」を含めると22%

23: ニールキック(栃木県) [GB] 2022/05/10(火) 07:49:08.47 ID:DKrOfzwP0
それ中国が危険だからでは?

25: ショルダーアームブリーカー(茸) [US] 2022/05/10(火) 07:50:21.81 ID:E81IgC8+0
北海道に米軍もっと居てもらわないとってのは全面同意だわ
土地アホみたいにあるし

36: 閃光妖術(茸) [DE] 2022/05/10(火) 07:52:16.57 ID:8HbtZSx00
沖縄は米軍頼りの経済だから
さよくは正直迷惑なんじゃね

37: パロスペシャル(東京都) [VN] 2022/05/10(火) 07:52:59.57 ID:mdLrplZA0
地政学的リスク考えれば当たり前だろ
平均的に置いたりリスク低いとこに置くのはアホだ
 

53: ハイキック(茸) [US] 2022/05/10(火) 08:03:34.92 ID:tY3ofgLQ0
自衛隊の施設なら問題ないのだな?

57: アトミックドロップ(大阪府) [US] 2022/05/10(火) 08:05:40.74 ID:EqGN7Vpu0
割合だけが問題なら、今の広さ自体は問題無いって事だろ。

北海道にもっと配置すれば、自然に割合は下がるよ。

 

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雑誌『正論』2013年7月号に掲載文

2022-05-09 09:38:15 | ●●沖縄の黒歴史

 

              ★

雑誌『正論』2013年7月号に掲載文の引用

「天皇メッセージ」の悪用に反駁せよ 江崎 孝

「屈辱の日」を生んだのは昭和天皇!?

 

 サンフランシスコ講和条約で、日本は米国の占領から解放され独立を果たした。 ところが、沖縄側から見ると「沖縄を米軍統治下に置いたままの独立」は屈辱的であり、講和条約が発効した1952年4月28日を、沖縄メディアやサヨク団体は「屈辱の日」と呼称する。

沖縄の祖国復帰50周年目の5月8日付沖縄タイムス・こども版(わらびー)には、次のような記事が掲載された。

沖縄タイムスは毎週日曜日に、「タイムス わらびー」と題する子供向け週刊新聞を発行している。(「わらび」とは子供(童ーわらべ)の沖縄方言)

5月8日付沖縄タイムス・「わらびー」の一面トップはこうなっている。

「4・28」 どんな日 なぜ特別?

【豊見城伊良波中学校で 平和学習】

敗戦日本「主権回復の日」

沖縄 米国支配「屈辱の日」

記事の内容は、左翼思想に被れた教員が「平和学習」と称する反日教育をしている様子を報じている。

一部抜粋してみよう。

「4・28は日本にとって国際社会へ復帰した『主権回復の日』です。しかし沖縄は日本から切り離され、米国の統治下に置かれて、アジアの戦略基地としての役割が強化されたことから『屈辱の日』ともよばれています。」

総合学習の時間。教頭の内山直美さん(51)はそう説明しました。社会科教師の内山さんは2012年から、4・28の特設授業を行ってきました。日本に在る米軍専用施設の約70%が集中する沖縄。 いまも続く問題を理解するためには、歴史的背景を知る必要があると考えたからです。≫

なるほど、自分の苔むしたイデオロギーを無垢な子供たちに押し付けるのが「平和教育」なら、子供たちこそいい迷惑であろう。

沖縄の左翼勢力が「主権回復の日」を「屈辱の日」を呼称するのは言論・思想の自由を認めた憲法の精神からいえば、特にことを荒立てる必要もない。

仲井真元沖縄県知事は、次のように述べている。

≪「屈辱の日」というのは一般県民の感覚から懸け離れたおかしな表現だ。これは一種の恨み節でしかない。当時の沖縄の新聞は、一斉に返還というわけにはいかないから、それで良しとしようと理解を示す論調だった。≫

仲井真氏は、「屈辱の日」どころか、沖縄が日本の一員になったことを実感した良い思い出はいくらかある、として平成5年の全国植樹大会の事を回想している。 そして「大田昌秀革新県政のもと副知事を務めていた当時のことだが、県民がこぞって日の丸の小旗を振って天皇・皇后両陛下を迎えた姿は感慨深い」と語っている。(2022年5月7日付「世界日報」)

仲井真氏が回想するように、主権回復の日は、当時の沖縄の新聞でさえ「一斉に返還というわけにはいかないから、それで良しとしよう」と理解を示す論調だった。

ところが、「屈辱の日」に絡めて「昭和天皇が保身のため沖縄を米国に売り渡した」と言う説に対しては看過するわけにはいかない。

ご自身が反論できない立場の昭和天皇を呪詛する「天皇メッセージ」がキーワードになっている点で、国民として反駁する必要に駆られるのだ。

雑誌『正論』2013年7月号に寄稿した拙論「『天皇メッセージ』の悪用に反駁せよ」に一部加筆の上、「天皇メッセージ」について解説してみよう。

天皇メッセージとは、昭和22年9月、宮内庁御用掛かりだった寺崎英成を通じて、GHQ政府顧問ウィリアム・シーボルトに伝えられたとされる琉球諸島の琉球諸島の帰属問題についての昭和天皇の”メッセージ”である。 「マッカーサー元帥の覚書」と題された文書として残され、沖縄の祖国復帰7年後の昭和54(1979)年、進藤栄一筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館で発掘し、雑誌『世界』で発表した。

覚書には、こう書かれている。

「天皇のアドバイザーである寺崎英成氏が、沖縄の将来にに関する天皇の考えを伝える目的で、約束を取った上で訪ねてきた。/寺崎氏は、米国が沖縄とその他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると述べた。天皇の意見ではそのような占領は、アメリカの利益にも日本を守ることにもなる。天皇は、ロシアの脅威や、占領終了後に右翼や左翼が台頭し、ロシアに日本の内政に干渉する口実を与える”事件”を起こすことを恐れる日本国民の広範囲な承認を得ることが出来ると考えている。/さらに天皇は、沖縄(および要求される他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残した形で長期の租借=25年か50年、あるいはそれ以上の擬制(フィクション)の上で行われるべきだと考えている。 天皇に拠れば、この占領方式は、アメリカには琉球列島に恒久的企図がないことを日本国民に納得させるだけでなく、他の国々、特にソビエト・ロシアと中国が同様(占領)の権利を要求すること拒むことになるだろう」(原文は英語、訳責・江崎)

沖縄の左翼やメディアは、この「天皇メッセージ」のために、沖縄は講和条約発効後もアメリカの施政権下に置かれ続けたと主張している。

たとえば、4月28日付琉球新報は社説で「4・28が(沖縄)県民にとって「銃剣とブルドーザー」によって強権的な土地接収、過酷な米軍支配の源流であることを軽く見て、日本の独立を祝う無神経さ憂う」と主権回復記念日を設けた政府を批判したうえで、「沖縄分離の背景として、昭和天皇が米軍による沖縄の長期占領を望むと米側に伝えた『天皇メッセージ』が影響したとされる」と指摘。

石原昌家沖縄国際大学名誉教授は3月20日付同紙で「『主権回復の日』で祝うという安倍首相と、その首相を支持する約7割の日本国民。人間の尊厳を奪っておきながら、安倍首相に取って沖縄の人の感情は全く念頭にない。ただ沖縄というものを日米軍事同盟の安全保障の軍事基地としか認識していない。対日講和条約第3条は昭和『天皇メッセージ』と全く同質同根だ。昭和天皇が沖縄を『軍事占領し続けることを希望』した通りに、米軍の実質的な占領が続いた」と「天皇メッセージ」を糾弾している。

5月15日に発足した「琉球民族独立学会」中心メンバーの友知政樹・沖縄国際大学准教授もQABテレビに出演し、講和条約と「天皇メッセージ」の関係を問われこう述べた。「この言葉(天皇メッセージ)によって(沖縄は)斬り捨てられた、それによって「屈辱の日」だというふうに捉えられがちですけども、切り捨てられた、置いて行かれたとの屈辱ではなくて、日本に強制的な施策をかぶせられてしまったという意味合いで非常に屈辱と考えています」。

学者やメディアだけではない。沖縄県高等学校障害児学校教職員組合(沖教組)は、講和条約が発効した「4月28日」を高校生に周知徹底させるためと称し、資料「『4・8』について考える」と題する文書を県立高校に配布した。資料では、1952年4月28日を「沖縄の米軍統治が合法化された『屈辱の日』と位置づけ、祖国復帰運動のきっかけとなった日と紹介。政府が4月28日に「独立を記念する日」とした式典を開くことについて新たな『屈辱の日』。沖縄が切り捨てられた日に式典を開くねらいは何なのか考えてみましょう」呼び掛けた。

まるで政治ビラを彷彿させる資料は「4・28について考える」「主権回復の日? 主権喪失の日?」というタイトルが付され、祖国日本への呪詛が綴られている。

≪1949年5月、米国政府は沖縄を日本本土から切り離し、長期的に保有して基地の拡大を図る政策を決定した。これによって沖縄を「太平洋の要石」に変貌させられることになる。/だが、この政策は、米国が一方的に日本に押し付けたものではなかった。/琉球諸島の長期保有をアメリカ側に求めた「天皇メッセージでも明らかなように、日本側の意図が強く働いていたのである。/日米両政府は、日本の独立によって平和憲法に基づく非軍事化と民主化を実現するため、沖縄に軍事基地を押し付けたのである。》

新城俊明昭・沖縄大学客員教授が作成した同資料には「天皇メッセージ」の意図について、「沖縄を米兵に提供することで、天皇制の護持をはかろうとした」と解説されている。

■当時の日本が置かれていた危機的状況

では、日本の講和条約締結や「天皇メッセージ」は、沖縄メディや地元識者などが喧伝するように、沖縄を犠牲にしたりする意図でなされたのか。日本は沖縄を切り捨てることにより主権を回復したのか。

結論から先に言えば、否である。彼らの主張は、悪意に満ちた曲解と言わざるを得ない。

まず、「天皇メッセージ」は、天皇自ら「延命のため沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書だと誤解している人が沖縄には多い。 筆者の周囲にも終戦当時既に米軍占領下にあった沖縄が米軍の米国統治になったのはやむを得ないとしても、「天皇自ら延命のため沖縄を売り渡す」と書いたのは許せないと息巻く人もいるが、「天皇の密書」が存在するわけではない。 寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての陛下の「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙と言う形でワシントンに伝えられたのだ。

「天皇メッセージ」が伝えられたとされる昭和22年前後の情勢を振り返ってみよう。

国際的には、昭和21年(1946年)には元英国首相チャーチルが「鉄のカーテン」演説を行い、東西冷戦が幕を開けていた。冷戦はアジアでも激化し、中国では国共内戦で毛沢東率いる中国共産党が次第に優位になり、24年に中華人民共和国が成立。朝鮮半島では23年9月に金日成の北朝鮮が成立し、25年には朝鮮戦争が勃発した。

国内では進駐当初のGHQの「民主化」方針や戦争への反動で共産党や社民党、その傘下の労組が勢力を伸ばし、22年2月1日には空前の規模のゼネラル・ストライキ(「2・1ゼネスト」)は計画された。GHQの命令で中止されたものの、強行されていたら政権は倒れ、共産革命が起きたと言われていた。5月には社会党の片山内閣も成立した。まさに「革命前夜」であった。国内には、アジア共産化への野心をむき出しにして軍事力を用いることも厭わなかったソ連や中国共産党に呼応する勢力がいた。

このような状況下、敗戦で丸腰状態になったわが国は、経済的にも軍事的にもアメリカの支援なくして独立を果たすことも、東側陣営や国内勢力による共産主義の脅威を防ぐこともできなかった。戦前との価値観が180度変わったと言われる日本国民は新憲法の謳う戦争放棄や平和主義、「平和の府・国連」へのバラ色の夢に浸っていた。国民も政治家たちの関心も、食うや食わずの経済的国内事情に集中し、国際情勢にまで真剣に気を配る余裕はなかった。そんな中、わが国の安全保障に一番気を配ったのが昭和天皇であった。

 先に引用した「天皇メッセージ」でのロシア(ソ連)中国への言及が、その証左である。

近代史の専門家である秦郁彦氏は「天皇メッセージ」などに見られる昭和天皇の情勢分析について、その著書『昭和天皇五つの決断』(文芸春秋)で、次のように述べている。

「23年早々という早い時点で、アメリカのアジア戦略の動向を正確に探知して、適切な情勢判断をした天皇の洞察力には脱帽のほかはない」

■外交文書が語る日本側の外交努力

アジアの冷戦が激化する中、アメリカが共産主義陣営の軍事的膨張の防波堤として重視したのが沖縄だった。

昭和26年(1951)年1月末から2月にかけ、アメリカが特使として派遣した国務省政治顧問のダレスと吉田首相との間で講和をめぐって話し合いがもたれたが、領土問題に関する米側の態度は、極めてシビアであった。アメリカは沖縄、奄美、小笠原について信託統治領にすると主張し続けた。

当時の日米両国の力関係を言えば、一方の日本は、首都東京をはじめ地方の各都市も空爆により焦土と化した軍備も持たない米軍占領下の敗戦国である。両者の力の差は歴然としており、日本側が、アメリカの要求を拒むことは極めて困難だった。現在の日米関係では、首相には大統領が対応するのが外交慣例だが、当時吉田首相と講和条約について話し合ったのはトルーマン大統領でもなければ国務長官でもなく、公的役職の無いダレスだったこと一つとっても、そのことがよく表れている。

それでも、吉田政権には沖縄を犠牲にして本土だけで主権を回復しようという意図はなかった。

発言権の強い米国との条約締結交渉に際し、微力ながら必死に抵抗した外務省の苦労話が、平成13(2001)年、に公開され、翌年刊行の『日本外交文書-平和条約の締結に関する文書』に記されている。

それまでの交渉で沖縄の統治を譲らない米側に対し、外務省は沖縄に対する案を一部変更した。外交官出身の吉田が、自ら指示して「バーミューだー方式による租借も辞さない」という一文を、アメリカ側に伝える外交文書「わが見解」に付け加えさせたのだ。

「バーミューダー方式」とは、1940年にイギリスの植民地バーミューダーに米軍基地を置くため、イギリスから99年間租借した協定を指す。 当時事務方だった西村熊雄条約局長は、この吉田の態度について、のちにこう回想している。「(沖縄を)『租借地』にして提供してもいいから信託統治にするのは思いとどまってほしいと言われる総理の勇断にいたく感激した」

だが、吉田に対してダレスは率直にこう述べている。

「国民感情はよく解るが、(この問題は)降伏条項で決定済みであって…セットル(解決)したとして考えて貰いたい」

このダレスのすげない態度に接した日本側は、次善の策を講じて「沖縄の完全分離」に抵抗を示すことになる。 「肉を切らせて骨を断つ」にも似た捨て身の策である。

米側の信託統治構想を拒否するには困難と判断した𠮷田は「信託統治を提案されても辞さず」との覚悟を固め、それに異論を挟まないと断ったう上で、次の条件などを米側に求めていくのである。

(1)沖縄住民の日本国籍確保(潜在主権)

(2)バーミューダー方式(分離ではなく期限付き租借)

(3)本土と同様な教育方針の継続(文部省教科書の使用=日本語教育、無償措置法の適用)

(4)本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用)

先の石原昌家・沖縄国際大学名誉教授の言葉を借りれば、この吉田首相の条件提案こそ「天皇メッセージ」と「同質同根」という。 

「天皇メッセージ」のポイントは、「潜在主権」、つまり日本の主権を残したまま米国に統治を委ねることである。

親子に例えると、子(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が、金持ち(米国)に、戸籍はそのまま一時里子に出すようなものであり、戸籍も移す養子縁組(米国領にすること)とは根本的に異なる。

昭和26(1951)年9月8日に署名された講和条約では、領土問題はつぎのように第3条に記された。「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」

歴史にIFはないというが、仮に米国が、日本の潜在主権を認めず沖縄を「米国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におく」と国連に提案していたら、どうなっていたか。

沖縄はいずれ、現在のグアムやプエルトリコのような米国の自治領に移行することは必至であった。

ところが不思議なことに米国は、喉から手が出るほど領有権を望んだ沖縄の信託統治を提案しなかった。日本の主権を残したまま、統治権のみを継続したのだ。まさに昭和天皇の「メッセージ」の通りになったのだ。

■「天皇メッセージ」と独立論、そして中国の野望

昭和27(1952)年、4月28日、講和条約発効の日、当時の沖縄住民は日の丸を掲げて祖国日本の独立を祝賀した。祖国日本が主権を回復してこそ、沖縄の祖国復帰が始まることを承知していたからだ。日本が主権を回復したからこそ、20年後の「5・15 復帰の日」は実現したのだ。

約60年前の講和条約発効の日の沖縄の状況を、今年(2013年)4月20日付琉球新報がこう伝えている。

対日講和条約が発効した1952年4月28日、県内の新聞は「祖国の独立を祝う」と日本が国際社会に復帰することを歓迎する一方、沖縄の「日本復帰を確信する」との比嘉秀平主席のメッセージを掲載した。当時は日本に沖縄の潜在主権があるから、いつか日本に帰れるという安心感があったから、祖国の独立を喜ぶことの方が大きかった。元琉球新報の記者下地寛信さん(87)は振り返る。(略)52年当時、大学生で、琉球新報東京支社でアルバイトの記者をしていた親泊一郎さん(81)は「当時沖縄は里子だという言葉がよく使われた。親に帰るときは立派に成長して帰り、親に喜ばなければいかん、それまでじっと我慢して頑張っていこう。そんな雰囲気が有った」と話した。

当時筆者は10歳だったが、おぼろげな記憶をたどると、学校では先生が「祖国日本が独立したので、沖縄の祖国復帰も近い」といった喜びの言葉で説明した。 

「現代の感覚で過去を判断すると史家は歴史を過つ」といわれる。

「天皇メッセージ」や講和条約の功罪を問うものは、終戦直後の日本を取り巻く国際情勢、即ち「米ソ冷戦の幕開け」と日米両国の圧倒的な国力及び交渉力の格差を思慮にお入れなければ、その解釈を誤ってしまう。

秦郁彦氏も驚嘆するように、終戦直後の社会党政権(片山内閣)下で、当時の社会情勢では政府の誰もが思いも及ばなかった「『潜在主権のまま』で、いつかは祖国に帰る日のために米国に統治を委任する」という方法を思いつかれた昭和天皇の判断力の確かさは「天皇メッセージ」というより、「昭和天皇の大御心(おおみごころ)と表現したほうが的を射ている。

講和条約締結の結果、沖縄は米軍の統治下になったものの、「潜在主権」による期限付き租借(リース)という奇手で、米国の「信託統治の国連提案」に牽制を掛けたことは、まぎれもない歴史の事実である。

「日本の主権を残した(潜在主権の)まゝリースする」という天皇メッセージの意をサンフランシスコ講和条約に反映させ、アメリカに認めさせたことが、国際的に弱い立場の当時の日本が出来た精一杯、かつ最善の方策だったのだ。

なお、沖縄では「天皇メッセージ」の意図について、沖縄高教組の資料のように「天皇制の護持をはかろうとした」とか「天皇自身の延命のため」など不遜極まりない見方をする者もいる。これらの大半は、シーボルトが「覚書」を国務省宛てに送る際にそえられた手紙の次のくだりを根拠にしている。

《a hope which  undoubtedely is largely based upon self-interest》

だが、そもそも、前述したとおり「天皇メッセージ」とは昭和天皇直筆のメッセージが存在するわけではなく、寺崎とシーボルトの間に交わされた伝聞をシーボルトがまとめた過ぎない。 とくにこの個所はシーボルトの主観に基づく表現になっていて、昭和天皇の御真意を反映しているものとは言えないのである。

山本七平著『昭和天皇の研究』によると、昭和天皇はマッカーサーに「(戦争の)全責任は私にある。という意味のことを言われた」とされる。 「『戦争はすべて私に責任があるから、戦犯の追及をやめ、処刑するなら私一人にして他は免訴して欲しい。そして国民に責任はないから飢えさせないで欲しい』の意味であろう」(同書)。

”self-interest”の意味を敢て考えれば、反日サヨクの批判する「自身の延命」などではなく、戦犯や国民の利益を考えたまさに「大御心」と訳した方が的を射ていているだろう。

沖縄では5月15日、「琉球民族独立総合研究会」が設立され、一部の左翼学者が日本からの独立を煽っているが、これに呼応したように、中国も沖縄に対する野望を露わにし始めた。 8月8日の中国共産党機関紙「人民日報」が「歴史上(帰属が)未解決の琉球問題について再び議論できる時が来た」との論文を掲載し、同紙系列の「環球時報」は11日の社説で、沖縄の独立勢力を「育成すべきだ」とまで言い出している。

沖縄が独立して日米同盟力という対中抑止力がなくなれば、東シナ海のみならず西太平洋の軍事支配を狙う中国の絶好の餌食になる。 その意味で「天皇メッセージ」を悪用して日本への反感を煽る者たちは、まさに中国と連携する「独立勢力」ではないか。 知識も判断力もない高校生たちに「天皇メッセージ」を曲解して教え、「日本憎し」の感情を刷りこむ「反日洗脳教育」も「独立勢力の育成」そのもののように思えてならないのである。

【補記】米軍統治下の沖縄の教育に関しては、文部省(当時)は教科書で祖国日本と同じ教育を施した他に、政府は沖縄の学生だけに限る選抜試験を行い、全国の国立大学に国の負担で受け入れている(国費留学制)。ちなみに仲井真弘多県知事はこの国費留学制度の恩恵で東京大学を卒業している。

【おまけ】

天皇メッセージ”

沖縄公文書館は、米国国立公文書館から収集した“天皇メッセージ”を公開しました。(平成20年3月25日)

同文書は、1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】

内容は概ね以下の通りです。
(1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
メモによると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。
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1979年5月、全国植樹祭に出席のため愛知県を訪れた昭和天皇=朝日新聞社

 

琉球新報 2015年4月28日

 
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琉球新報の大嘘!社説で県民を騙す、集団自決訴訟で

2022-05-07 07:33:49 | ●●沖縄の黒歴史

 

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「集団自決」をめぐる沖縄の教育、副読本は依然「軍令」明記2015-06-02

 
 
 
 ■ 「集団自決」をめぐる沖縄の教育

副読本は依然「軍令」明記 「集団自決」をめぐる沖縄の教育

 文部科学省は4月、2016年度から中学校で使用する教科書の検定結果を公表した。社会科では沖縄戦における集団自決における強制や軍命を記述した出版社がなくなった。これには検定意見が出ておらず、歴史的な事実が反映される結果となった。一方、現在使われている副読本には「軍の命令」を明記するなど、偏向記述が続いている。(那覇支局・豊田 剛)

教科書是正も偏向続く、中高生は基地問題で現実直視

800

沖縄戦についての教科書検定意見撤回を求める県民大会についてのコラムを掲載した副読本

 1996年の中学歴史教科書検定では8社のうち6社が集団自決の強要性を明記したが、2001年と06年には2社に減少していた。また、今回の検定結果、地理ではすべての教科書に尖閣諸島の記述があり、領土問題のテーマの分量はほぼ倍増した。

 一方、高校歴史教科書検定では06年、「沖縄戦の実態について誤解する恐れのある表現」「軍命の有無は断定的な記述を避けるのが妥当」として5社に検定意見が付いた。これを受け、集団自決の軍命の記述が削除された。その結果、県内の教育界などから反発が起こり、翌年9月に宜野湾市で「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開催された。

 元沖縄戦守備隊長と遺族が、作家の大江健三郎氏と岩波書店を名誉毀損で訴えた裁判(大江・岩波訴訟)では、軍命令について「隊長命令は証明されていない」「証拠上断定できない」との判断が示された。

 文科省は昨年1月、「未確定な時事的事象について断定的に記述していたり、特定の事柄を強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと」と教科書記述の基準を示した。

 しかし、教育現場でこの基準を遵守(じゅんしゅ)した教育が行われているとは限らない。

 沖縄県教育委員会が出版した副読本「高校生のための沖縄の歴史」は記述に正確性を期すために集団自決の軍命の記述を削除した。2000年代前半ごろまで高校の選択科目で使われていたが、2007年の教科書検定で軍命がクローズアップされると、この副読本が使われなくなった。

 だが、それに代わって現在、使われているのは沖縄歴史教育研究会顧問で歴史教育家の新城俊昭氏が著した「琉球・沖縄史」だ。

 同書には「日本軍による直接・間接の命令・誘導によって『強制集団死』がおこりました」と書かれている。さらに、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」についてのコラムを2㌻にわたって紹介。

 「強制集団死が日本軍の命令・誘導などでおこったことは、多くの証言によって裏付けられており、近年の研究でも軍の強制を否定する学説はみあたりません」と論じている。この副読本について、元校長の男性は「現在でも選択科目で使われているが、沖縄戦の記述は偏っていて正確性に欠ける」と指摘する。

 沖縄歴史教育研究会と県高教組はこのほど、県内の高校生を対象に実施した平和教育に関するアンケートの結果を公表した。このアンケートは5年ごとに実施している。

 沖縄戦を学ぶことについて「とても大切」「大切」と回答した生徒は計94・1%に上り、1995年からの調査で過去最高となった。

 一方で、基地問題では県内で高まっているかのようにみえる反基地感情とは違う結果となった。普天間飛行場(宜野湾市)の移設先については、「分からない」が36・0%と最も多い。県外・国外が34・6%続いたが前回比で12ポイントも減少。「普天間にそのまま」は5年前から約6ポイント増え20・7%に達した。

 同会顧問の新城氏は、「若者はインターネットの影響を受けている」と原因を分析したが、視点を変えれば、高校生は情報の取捨選択をしながら現実を直視していると言える。

 「身近に沖縄戦について話してくれる人はいるか」との設問では、「いない」(43・1%)が「いる」(39・7%)を逆転した。戦後70年を迎え、沖縄戦の体験者が減り続ける中、沖縄戦をいかに事実に即して教育するかが問われている。

 今年夏には各採択地区委員会が採用する教科書を決める。2011年には、八重山地区(石垣市、竹富町、与那国町)が公民教科書で保守系の育鵬社を採択したことで地元メディアや革新系団体が猛反発した。

 竹富町が採択地区から離脱した今回、公民で引き続き育鵬社が選ばれるか、歴史でも保守系の教科書が採択されるかどうかが注目される

 

大嘘の社説!琉球新報、集団自決訴訟で2015-06-22

 大嘘報道で、内外に悪名を轟かしている沖縄2紙。

慰霊の日(23日)を前に、集団自決に関し琉球新報が大嘘の社説を書いた。

ちなみに琉球新報はドキュメンタリー作家上原正稔さんによる「パンドラ訴訟」で二審で敗訴し、上告断念で敗訴が確定した事実を一行の報道もせず、読者を愚弄したままである。

琉球新報の大嘘社説に対し、前衆議院議員の山田宏氏が八重山日報で反論している。(【おまけ】参照)

琉球新報が、報道機関としての良心の欠片でも有するなら、山田氏の反論に再反論すべきだが・・・。

琉球新報に反論を求めるのは、大嘘つきに対し、正直になれと説得するに等しい。

<社説>軍命削除 教科書検定意見を撤回せよ

琉球新報 2015年6月21日 6:01 

 沖縄戦から70年が経過する中で、安倍政権は沖縄戦の実相をゆがめようとしている。
 政府は2006年度の高校日本史の教科書検定で沖縄戦の「日本軍による集団自決の強制」という記述を削除したことについて、検定意見を撤回しないとする答弁書を閣議決定した。
 閣議決定は確定した司法判断を無視している。最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は11年4月22日、座間味と渡嘉敷両島で発生した住民らの集団死は軍が関与していたことを認定した。戦争を引き起こし、住民に多大な犠牲を強いた国家が過去に目を閉ざすことは許されない。検定意見の撤回を強く求める。
 沖縄戦で日本軍が住民らに死を命じたとする作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」などの記述をめぐり、日本軍の座間味島元戦隊長や渡嘉敷島戦隊長の弟が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めて提訴した。最高裁は一審・二審を支持し「上告理由にあたらない」として上告を棄却した。これにより軍の関与を認めた一、二審判決が確定した。
 今回の閣議決定は仲里利信衆院議員(無所属)の質問主意書に答えたものだ。政府は答弁書で「集団自決が住民に対する直接的な軍の命令により行われたことを示す根拠は現時点では確認できていない」としている。当時、軍命が口頭で行われ、命令書の類いが廃棄されたとみられる中で「根拠は確認できていない」と主張するのは、詭弁(きべん)にすぎない。
 最高裁判決は沖縄戦研究の蓄積、米軍資料、証言などに基づき「日本軍の深い関わりを否定できず、日本軍の強制、命令と評価する見識もあり得る」と判断した。座間味と渡嘉敷両島で発生した悲惨な出来事について「軍官民共生共死の一体化」の方針の下、日本軍の深い関与は否定できないとしている。
 大江さんらが提訴された時、当時を語れる証言者はほとんど存命していなかった。そこで裁判所はオーラル・ヒストリー(口述証言)を証拠として採用した。
 「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓をゆがめ、消し去ろうとする行為は犠牲者と歴史に対する冒涜(ぼうとく)である。沖縄戦の実相の書き換えを許さず、住民の犠牲から導かれた教訓を後生に継承していくことを誓いたい。

                   ☆

 最高裁判決以来4年経過した。 琉球新報が、読者が忘れた頃を見計らって大嘘記事を書いた。 それが上記社説だ。

集団自決論争の争点は「軍命の有無」の一点。 不幸な集団自決が行われたのは事実だが、それが軍の命令によるものであると一方的に読者に信じ込ます卑劣な社説がこの社説だ。

>最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は11年4月22日、座間味と渡嘉敷両島で発生した住民らの集団死は軍が関与していたことを認定した。

「軍命の有無」は、慰安婦問題の強制連行の有無が争点であることに酷似している。

慰安婦問題で、軍が慰安所を利用したため「関与」したと、あたかも「広義の関与」で強制連行があったと印象操作する手口と同じだ。

集団自決は戦時中のことであり、住民の一部に手榴弾で死んだ住民がいた。 この例外的事実をもって「軍の関与」としたのが最高裁判決だが、決して「軍が命令した」とは判断したわけではない。

軍命は、あったと主張する被告側に挙証責任がある。

だが、法廷で「軍命による集団自決」は立証できなかった。 

したがって最高裁判決では、原告・梅澤さんらが下したとされる軍命説は否定されたことになる。

つまり軍命の有無に関して言えば、琉球新報の大嘘ということになる。

琉球新報は、「関与」という文言であきらかに最高裁の判決を歪めている。

念のため、4年前の最高裁判決当時の琉球新報の記事を引用してみよう。

軍関与認めた判決確定 「集団自決」めぐる岩波・大江訴訟

琉球新報 2011年4月23日 9:51 

「曖昧にされてきた沖縄戦の真実が認められた」と語る大江健三郎さん=22日、東京・霞が関の司法記者クラブ

 沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」などの記述をめぐって、座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めた上告審で、最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は22日、一審・二審に続き、上告を棄却した。これにより軍関与を認めた一、二審判決が確定した。同小法廷は、原告の申し立てを「上告理由にあたらない」とした。21日付。
 棄却を受けて。大江氏は「自分たちの主張が正しいと認められた。訴訟で強制された集団死を多くの人が新たに証言し、勝利を得る結果になった」と述べた 同裁判では、2008年3月の一審・大阪地裁判決で、両隊長による自決命令は推認できるが、「断定できない」と判断。大江氏が隊長による集団自決命令を事実と信じるには相当な理由があったとして名誉棄損を退けた。
 同年10月の二審・大阪高裁判決は一審判決を支持した上で、「総体として日本軍の強制ないし命令と評価する見識もあり得る」とした。さらに、「表現の自由」に考慮し、公益目的で真実性のある書籍が新たな資料により真実性が揺らいだ場合、記述を改編せずに出版を継続しただけでは不法行為とはいえないとした。
 裁判原告の「隊長の自決命令は聞いてない」などとする陳述書が契機となり、06年度の教科書検定意見によって、高校日本史教科書の「集団自決」における軍強制の記述が削除された。記述削除に対し、「沖縄戦の実相をゆがめるもの」という反発が県内で起こり、07年9月に県民大会が開かれるなど、沖縄戦体験の正しい継承を求める世論が高まった。


「県民の思い受け止めた」/大城県教育長
 最高裁の上告棄却を受け、大城浩県教育長は「教科書検定問題については2007年の県民大会の結果、広い意味での『日本軍の関与』の記述が回復され、高校生がこれまで同様に学習できると考える。最高裁の判決は、県民の思いを受け止めた判決」とコメントを発表した。

沖縄でも大きな力に/大江健三郎氏の話
 自分たちの主張は高裁で正しいとされ、最高裁では憲法上の問題はないと認められた。沖縄戦の真実が曖昧になり、教科書からも取り除かれたが、沖縄からの反論で、沖縄戦(についての記述)が少しずつ真実に近づいている。強制された集団死を多くの人が新しく証言し、勝利を得る結果になった。(最高裁の判断は)力強い励ましだ。沖縄でも大きな力になる。

裁判の意義はあった/原告代理人・徳永信一弁護士の話
 名誉棄損が認められなかったのは残念。しかし、隊長の自決命令について高裁判決は「関与」とし、一審より控えめな事実認定この問題は、集団自決に梅澤さんらの隊長命令がなかったという認識が重要だった。裁判を通して自決命令の根拠がないとの認識が国民に定着したので、意義はあったと総括している

             ☆

>沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」(強制集団死)を命じたとする作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」などの記述をめぐって、座間味島元戦隊長の梅澤裕氏や渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次氏の弟、秀一氏が名誉を傷つけられたとして、大江さんや版元の岩波書店を相手に出版差し止めなどを求めた上告審で、最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は22日、一審・二審に続き、上告を棄却した。これにより軍関与を認めた一、二審判決が確定した。

>大江氏は「自分たちの主張が正しいと認められた。訴訟で強制された集団死を多くの人が新たに証言し、勝利を得る結果になった」と述べた。

確かに原告側は名誉毀損、出版差し止め等では敗訴した。

だが、軍命による集団自決は立証されていない。 大江氏のコメントに「強制された集団死」とあるのは「軍命による集団自決」と言えないための詭弁である。

>「表現の自由」に考慮し、公益目的で真実性のある書籍が新たな資料により真実性が揺らいだ場合、記述を改編せずに出版を継続しただけでは不法行為とはいえないとした。

判決では「鉄の暴風」やこれを根拠に著した「沖縄ノート」に事実誤認があることは認めたが、当時の状況で大江氏がそれらの間違いを「真実であると信じてもやむ得なかった」とする「真実相当性」を適用して、大江氏による名誉毀損を却下している。

名誉毀損で敗訴したが、原稿苦代理人の徳永弁護士の「自決命令の根拠がないとの認識が国民に定着した」というのが軍命に関する最高裁判決のすべてである。

>裁判の意義はあった/原告代理人・徳永信一弁護士の話
>名誉棄損が認められなかったのは残念。しかし、隊長の自決命令について高裁判決は「関与」とし、>一審より控えめな事実認定。この問題は、集団自決に梅澤さんらの隊長命令がなかったという認識>が重要だった。裁判を通して自決命令の根拠がないとの認識が国民に定着したので、意義はあった>と総括している。

 

では当時の産経新聞はどのように報じていたか。

産経記事 2011.4.22
 太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍が「集団自決」を命じたとするノーベル賞作家、大江健三郎さんの「沖縄ノート」などの記述をめぐり、旧日本軍の元戦隊長らが名誉を傷つけられたとして、岩波書店と大江さんに出版差し止めなどを求めた訴訟の上告審で、最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は元戦隊長らの上告を退ける決定をした。集団自決についての軍の関与を認め、名誉毀損を否定した大江さん側勝訴の1、2審判決が確定した。決定は21日付。

 原告は元座間味島戦隊長で元少佐の梅沢裕さんと、元渡嘉敷島戦隊長の故赤松嘉次元大尉の弟の秀一さん。「沖縄ノート」と、歴史学者の故家永三郎さんの「太平洋戦争」の集団自決に関する記述をめぐり、「誤った記述で非道な人物と認識される」として提訴していた。

 争点は軍や元戦隊長らによる住民への命令の有無だったが、同小法廷は「原告側の上告理由は事実誤認や単なる法令違反の主張。民事訴訟で上告が許される場合に当たらない」として、判断を示さなかった。

 1審大阪地裁は「集団自決に軍が深く関与したのは認められる」と指摘して請求を棄却。2審もこれを支持し、控訴を棄却していた。(産経新聞)

 

繰り返すがこの裁判の最大の争点は、軍命令は有ったか無かったか、である。

軍による命令や強制の有無については、法廷で立証することができず、事実上の原告勝訴であり、最高裁においても軍命の有無は争われていない。

つまり最高裁で軍命令は無かったということが確定したわけである。

では、事実はどうだったか。

軍からは「自決するな」の要請であったが、結果的に集団自決が起きてしまったのは、米軍艦船に島を包囲され、極限状態でパニックに陥った集団リーダーの勧誘によるものであるが、手榴弾の配布などもあり、軍関係者による万が一のための支援は無かったとはいえない、という理由で「関与」としたもの。

【おまけ】

問題提起していただいた東子さんのコメントと山田宏前週議員議員の琉球新報社説への反論を引用する。

             ☆

東子さんのコメント

 「<社説>軍命削除 教科書検定意見を撤回せよ 2015年6月21日」
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-244570-storytopic-11.html

>最高裁判所第一小法廷(白木勇裁判長)は11年4月22日、座間味と渡嘉敷両島で発生した住民らの集団死は軍が関与していたことを認定した。
>戦争を引き起こし、住民に多大な犠牲を強いた国家が過去に目を閉ざすことは許されない。
>検定意見の撤回を強く求める。

新報が根拠としている最高裁の判決とは、どのようなものだったのか。


狼魔人日記「集団自決訴訟に最高裁判断 2011-04-22」
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/2bc55bda226e6ce35938afdc80fc1708

>確定した大阪高裁の判決はどのようなものだったか。
>裁判の核心である「軍による命令や強制の有無」については、立証することができず、事実上の原告勝訴が確定していた。

「軍による命令や強制」が「あった」とする証拠はないということ。
「軍による命令や強制」が「あった」とする証拠はないが、それだけでは、梅沢氏と赤松氏の両隊長の名誉棄損があっても、「軍による命令や強制」が「なかった」まで言わないと駄目と、最高裁は言った。

つまり、最高裁は、
 「軍による命令や強制」が「あった」とする証拠はない
と言っているのであって、新報が言う
 集団死は軍が関与していたことを認定した
では、ない。


【参考】
山田宏「八重山日報 4/23掲載コラム 『拝啓「琉球新報」社説どの』 2015.05.12」
https://www.yamadahiroshi.com/news/798/

>『琉球新報』が四月八日、『歴史教科書検定 事実を教えてこそ教育』という社説を掲げました。
>「事実を教えてこそ教育」――まったくその通りです。
>ついに『琉球新報』も慰安婦強制連行や南京事件などをあたかも疑うことのできない事実であるかのように教えてきた教育への批判を始めたのかと思って読み進めましたが、その期待は裏切られました。
>この『琉球新報』の社説は、来年の中学校の歴史教科書のすべてから沖縄戦の「集団自決」についての記述がなくなることへの異議でした。
>「これで沖縄戦の実相、軍の非人間性、ひいては戦争の愚かさ、平和の尊さを教えられるはずがない。1996年度検定では8社中6社の教科書が『日本軍は集団自決を強要したり』などの表現で、軍が住民に死を強制したことを明記した。しかしその後、軍の強制性を明記する教科書が次第に減り、ついに一冊もなくなるのである。教育の危機と言わざるを得ない」というのです。
>しかし、これは逆ではないでしょうか。
>事実を書いていないといいますが、では、「集団自決が軍による強要だった」とする根拠は、どこにあるのでしょうか。


宜野湾市議:呉屋ヒトシ「玉津博克氏前石垣市教育長の講演会 2015年06月17日」
http://goyahitoshi714.ti-da.net/e7679214.html

>去る 6月14日(日)那覇市内にて 石垣市教育委員会前教育長の玉津博克氏の講演会に出席しました。
>講演会では、「私と集団自決軍名説との関わり」では、当時、県教育委員会に席を置き、高校生の為の「沖縄の歴史副読本」を編成されたそうです。
>平成6年~平成19年まで高校で使用されましたが、その中には「集団自決の軍命については、軍命の記載はなかったそうです。」
>ところが、平成19年からこの副読本は使用されなくなったそうです。
>それから、軍命説第一弾 増悪のパフォーマンスとして、当時米軍の統治下としての「鉄の暴風雨」の出版
>軍名説第二弾 温情パフォーマンスとして「援護法」との関係と証言について、説明をされました。

(八重山日報(H27.4.23)より転載)

 ■2015.05.12 

八重山日報 4/23掲載コラム 『拝啓「琉球新報」社説どの』

前衆議院議員 山田宏

 

『琉球新報』が四月八日、『歴史教科書検定 事実を教えてこそ教育』という社説を掲げました。

「事実を教えてこそ教育」――まったくその通りです。ついに『琉球新報』も慰安婦強制連行や南京事件などをあたかも疑うことのできない事実であるかのように教えてきた教育への批判を始めたのかと思って読み進めましたが、その期待は裏切られました。

 この『琉球新報』の社説は、来年の中学校の歴史教科書のすべてから沖縄戦の「集団自決」についての記述がなくなることへの異議でした。「これで沖縄戦の実相、軍の非人間性、ひいては戦争の愚かさ、平和の尊さを教えられるはずがない。1996年度検定では8社中6社の教科書が『日本軍は集団自決を強要したり』などの表現で、軍が住民に死を強制したことを明記した。しかしその後、軍の強制性を明記する教科書が次第に減り、ついに一冊もなくなるのである。教育の危機と言わざるを得ない」というのです。

 しかし、これは逆ではないでしょうか。事実を書いていないといいますが、では、「集団自決が軍による強要だった」とする根拠は、どこにあるのでしょうか。

『琉球新報』の社説は、「『集団自決』での軍命の有無が争われた大江・岩波裁判判決は『集団自決には日本軍が深く関わっていた』と軍の関与を認定した。この間の検定結果はその判決を反映しておらず、看過できない」と決めつけます。

 しかし、その最高裁による上告棄却によって確定した大阪高裁判決自体が、こう書いているのです。

「このような歴史的事実の認定については、多くの文献、史料の検討評価が重要な要素とならざるを得ず、また、その当時の社会組織や国民教育、時代の風潮、庶民一般の思考や価値観、日本軍の組織や行動規範など多くの社会的な背景事情を基礎として、多様な史料を多角的に比較、分析、評価して事実を解明してゆくことが必要となる。それらは、本来、歴史研究の課題であって、多くの専門家によるそれぞれの歴史認識に基づく様々な見解が学問の場において論議され、研究され蓄積されて言論の場に提供されていくべきものである。司法にこれを求め、仮にも『有権的』な判断を期待するとすれば、いささか、場違いなことであるといわざるを得ない」

 判決がこう書いているのに、「判決を反映していない」と鬼の首を取ったように書くのは、「報道」機関としてはいささか見識に深みがないといわざるをえません。

 先の大戦では、沖縄や南洋諸島の島々など各地で、米軍の侵攻を受けて日本の民間人の自決が行なわれました。戦争中のことです。手榴弾で自決した例もあります。「軍の関与」といえば、そういえることも多いでしょう。しかし、それが「軍の強要」であったのかどうか。そこは慎重に精査せねばならぬ問題です。

 たとえば、貧しさゆえ身売りせざるをえず、慰安婦になった方々を気の毒に思う心情は、現代を生きる多くの日本人が共有するものでしょう。慰安所の管理に「軍が関与」していたことも諸史料から明らかです。しかし、だからといって「軍が強制し、性奴隷にした」という議論にはならないのです。

 また、『琉球新報』はこの社説で、「何より、軍の強制については数々の証言がある。事実を書かないことを『妥当』とすることはできない。文科省が歴史教育の大切さを考えるならば、06年検定意見を撤回すべきである」と書きます。

 私はこの文章を読んで、つくづく「待ってくれ」といいたくなりました。日本の新聞メディアが、吉田清治なる人物による「私が済州島で慰安婦狩りをした」という「証言」を元に慰安婦強制連行という虚報をあたかも事実であるように何十年間も書き続けたために、その結果として今日、日本と韓国が不幸な関係に陥ってしまったことへの反省がまったく見られないからです。「証言」がそのまま「事実」でないことは、慰安婦強制連行という虚報の例ひとつをとっても明白なことではありませんか。

 子供たちに戦争の悲惨さや平和の尊さを教えることは当然のことであり、大賛成です。戦争のない社会を築かねばならないことも、言うまでもありません。しかし、だからといって、事実かどうかに疑義が唱えられ、歴史的な検証が十分ではないことを子供たちに教えていいのでしょうか。

 沖縄がその地政学上、そして戦略上重要な場所にあったために、多大の犠牲を強いる結果になってしまった事実を、私たちすべての日本人は永遠に忘れてはならないし、教科書に沖縄戦の悲惨さについて記すことは必要なことだと思います。

 しかし戦争の悲惨さは、「米軍の侵攻によって、自ら命を絶った人たちがいる」という事実だけで、十分に伝わるのではないでしょうか。なぜ、わざわざ「日本軍が強制した」といわなければならないのでしょうか。日本を、そして沖縄を守るために命を落としていった日本軍の将兵を、なぜ、そこまで貶めなければならないのでしょうか。

 仮に自分の政治的な意図のために歴史を貶めるというのであれば、中国や韓国の一部政治勢力がやっていることと同じになってしまいます。私はそのような行為は、多くの良識ある沖縄の方々のプライドが許さないだろうと思います。まさに「琉球新報」社説のタイトルのように、「事実」にしっかり根ざした主張を貫くことこそ、報道機関のプライドであるべきでしょう。

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元外交官、孫崎享氏の尖閣棚上げ論を斬る

2022-05-05 14:13:48 | ●●沖縄の黒歴史

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■暗雲立ち込める尖閣近海

この原稿を書いている2022年5月の初旬、石垣市が行政管理する尖閣諸島周辺で、日本と中国の間に領有権をめぐって暗雲が立ち込めている。

中国の監視船が連日領海侵犯を繰り返し、海保巡視船の退去命令に対し「ここは中国の領海」と応答するなど緊張事態が続いている。

 一時は中国軍艦が自衛隊艦船に射撃ロックオンをするほど事態は緊迫化した。 まさに尖閣の領有権をめぐって、尖閣近海で日中戦争、一触即発といっても過言ではない。


中国が東シナ海周辺で、自国の領土と主張しているのは尖閣だけではない。 
2010年9月の尖閣沖中国漁船衝突事件に際して行われた中国の反日デモでは、「収回琉球、解放沖縄」などの横断幕が掲げられた。

 同年9月19日付中国紙「環球時報」は、「琉球は明治政府が中国から強奪したものだ。今でも日本政府は琉球独立を弾圧している。琉球人は中国の福建と浙江、台湾の人間だ」とする論文を掲載している。

 中国紙の報道を裏付けるように、2月17日付八重山日報は、尖閣諸島問題を取材するため石垣入りした香港駐在のチェコTVアジア支局長、トーマス・エツラー氏(米国)にインタビューをし、尖閣をめぐる中国の国内状況について次のように報じた。


香港は、主要新聞の1面はほぼ毎日尖閣問題だ。
 昨年の人民日報(中国共産党の機関紙)傘下の英字紙、グローバルタイムスでは『(尖閣だけでなく)沖縄も中国の領土だ。中国は、沖縄のためにも戦わなくてはならない』『一つや二つの軍事衝突など小さなこと』と論じていた。

■「戦争は外交の延長である」
人類の歴史は戦争の歴史だとも言われる。 古今東西、領土紛争は戦争の主な要因であり続けた。 クラウゼヴィッツの『戦争論』によると「戦争は外交の延長」であるという。

 外交といっても外交官がテーブルを挟んでの外交交渉だけが外交ではない。 政府当局が相手国に発するメッセージも外交の一手段であり、地域住民の発するメッセージも相手国にとっては外交の手段(口実)になり得る。現在尖閣近海でわが国の海保巡視船と中国公船の間で飛び交っているメッセージの応酬は外交の一種であり、その延長線上に戦争を置くなら日中戦争は既に始まっていると考えることも出来る。

■沖縄からのメッセージ
中国側が発信する「琉球も歴史的に中国の領土である」というメッセージに対し、一番の当事者である沖縄側から、どのようなカウンター・メッセージを発しているのか。

 不思議なことに沖縄側のメッセージは、中国に利するような誤ったメッセージだけに限られる。

2011年の夏、「尖閣は中国の領土」と誤解されるメッセージが国境の島石垣から中国に向かって発信された。いわゆる八重山教科書問題である。この問題は国会でも取り上げられ全国的な問題に発展した。何故八重山地区という一地域の教科書問題が中国へのメッセージとなるのか。 その答は県内世論を二分した公民教科書の記述内容にあった。

八重山教科書問題の概略は、八重山日報によるとこう説明されている。
<2011年の八重山地区の教科書採択で、石垣市、与那国町は「八重山採択地区協議会」が選定した育鵬社版、竹富町は東京書籍版の公民教科書を採択。3市町で公民教科書の採択が割れる事態となった。このため同年9月8日、3市町の全教育委員13人が協議を行い、多数決で東京書籍版を採択。これに対し、国は協議を無効と判断し、育鵬社版のみ無償給付の対象とした。 >


これが中国に利するメッセージとなる理由は、県教育庁が八重山地区の教科書採択に強引に介入し、「尖閣奪還」を狙う中国にとって有利な記述の東京書籍版教科書の採択を迫り、沖縄の全マスコミがこれを支持する大キャンペーンを張ったからである。 

特に沖縄2紙は大学教授など地元の識者を総動員して、中国の尖閣領有権の主張を明確に否定した育鵬社版教科書を「戦争賛美の教科書」などと糾弾し、あたかもこれが県民の総意でもあるかのように喧伝した。 これでは沖縄が、沖縄県教育庁の主導で尖閣の領有に関し中国へラブコールを送ったと受取られても仕方がない。

■尖閣問題、二つの教科書の記述

問題の育鵬社の公民教科書には尖閣諸島について次のように記述されている。
沖縄県八重山諸島北方の尖閣諸島は、日本の領土です。しかし、中国は1970年後半東シナ海大陸棚の石油開発の動きが表面化するに及びはじめて尖閣諸島の領有権を問題とするようになりました。ただし、中国が挙げている根拠はいずれも領有権の主張を裏付けるに足る国際法上有効な論拠とはいえません

では、わが国の尖閣に対する見解はどうなっているか。 日本政府は「尖閣諸島はわが国固有の領土であり、中国との間に領土問題は存在しない」と一貫した態度をとっている。育鵬社版には、尖閣諸島を行政管理する八重山地域の公民教科書として相応しく、特に尖閣諸島については政府見解に基づいて正確に記載されている。 
一方、県教育庁や沖教組、マスコミなどが支持する東京書籍版には、尖閣について次のように記述されている。
<沖縄県先島諸島の北方に位置する尖閣諸島は日本の領土ですが、中国がその領有を主張しています。
中国が「尖閣は自国の領土だ」と主張する記述の教科書の採択を、県教育庁や竹富町教育長が強く主張し、それを沖縄のマスコミが全面的にバックアップする。 これを中国が沖縄が中国に発信したラブコールだと捉えても仕方がないだろう。

■孫崎亨氏の「棚上げ論」

沖縄紙に登場する内外の識者のほとんどは、沖縄2紙の顔色を窺いながら論考する。 逆に沖縄紙の論調に追随しない識者には執筆依頼しない。

 地元の大学教授ですら沖縄2紙の報道を鵜呑みにして「(八重山の漁師たちは)石原都知事など行き過ぎた愛国者の言動が騒動を引き起こし、近海の漁がし難くなっている」などのコメントを引用する。

だが、尖閣近海で問題を起こしたのは2010年の「中国漁船追突事件やそれ以前に遡ることも出来る。いずれの場合も先に尖閣近海で主権侵害を犯したのは中国側である。 したがって地元大学教授が述べる「尖閣問題」は常に沖縄紙の報道を正しいという前提の机上の空論がほとんどである。

尖閣問題に関しては「棚上げ論」を主張する識者がほとんどだが、その代表的な人物として、元外交官の孫崎亨氏の棚上げ論を検証する。

 孫先氏は、2012年10月9日付沖縄タイムスに寄稿し、政府の基本方針を真っ向から否定し、「尖閣は係争地」と断じている。 さらに政府がの基本姿勢である「日本の固有の領土」という主張が国際的に見て適切でないと結論付けている。 そして翌2013年2月7日付の沖縄タイムスでは、持論である1972年の周恩来首相の「棚上げ論」を持ち出し、問題解決のためには、今回も棚上げすべきと主張している。
 

■ポツダム宣言受諾とカイロ宣言
孫先氏によると、尖閣問題は1945年8月14日のポツダム宣言受諾に深く関与していると言う。 このポツダム宣言は第8条で「『カイロ』宣言の条項は履行せられるべく又日本国の主権は本州、北海道、九州及四国並に吾らの決定する諸小島に極限せらるべし」(原文カタカナ表記)となっている。カイロ宣言では「満州、台湾及澎湖島の如日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」となっている。 孫先氏はこれを根拠に次のように主張する。日本政府が尖閣諸島を自国した根拠を外務省のHPから引用して、1885年から再三に渡り尖閣諸島に清国の支配が及んでいないのを確認の上、「1895年1月14日の閣議決定で日本の領土に編入した」と紹介し、これに対する中国の正当性を15世紀の中国の歴史的文献に求め、中国の主権をクドクドと擁護しているがここでは省略する。 

■サンフランシスコ条約
さらに孫先氏は中国の立場を、サンフランシスコ条約に求めている。サンフランシスコ条約には、尖閣問題に関し「日本国は、台湾及び澎湖島諸島に対する全ての権利、権限及び請求権を放棄する」とあるが、サンフランシスコ条約には中国は参加していない。 ここで孫崎氏は、「尖閣諸島が台湾に属するのか、沖縄に属するのか」と問題提起しているが、明治期に日本人・古賀辰四郎氏が尖閣諸島の魚釣島で鰹節工場を経営し、多くの日本人が在住した事実には一言も触れていない。

 国際法上、国家が領土権を主張するには、単に「無主の地」の発見による領有意思の表明だけでは不十分で、実効支配が必要とされているが、中国人が尖閣諸島を実効支配したことは歴史上一度もない。

 それどころか石垣漁民が、魚釣島付近で遭難した31人の中国漁民を救助したこともあり、1920年には,当時の中国の外交機関である中華民国駐長崎領事から感謝状が贈られ、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と明記し、尖閣諸島を日本領土として認めている。

元外交官の孫先氏は、尖閣領有権の根拠として「ポツダム宣言」や「カイロ宣言」、「サンフランシスコ条約」などの外交条約の条文を引用して中国の正当性を主張する。だが、よく検証すると孫先氏の論考には綻びが目立つ。

 そもそも孫先氏が例示する「カイロ宣言」なるものが参加者の署名のないメモ書き程度のものであることはよく知られた事実であり、その外交的効力の有無については議論が分かれている。 外交がメッセージの応酬であり、一方が領有権を主張した場合、カウンター・メッセージがない場合は黙認と取られるても仕方がない。では、1895年日本政府がを中国に確認の上、尖閣諸島を閣議決定で日本の領土に編入したとき、中国は異議を唱えるメッセージを発したか。

何のコメントも出さず、沈黙したままである。 1895年の日本に編入以来沈黙したままだ。それどころか中国はサンフランシスコ講和会議には参加していない。

■約80年後の領有権主張

中国が初めて尖閣の領有権に関するメッセージ発したのは、1885年日本が尖閣に清国の領有権がないことを確認してから76年後、そして1895年に閣議決定で日本に編入した後86年も経過した1971年になってからである。 

1969年、5月、国連が、尖閣諸島周辺海域に膨大な石油資源が埋蔵されているとの調査結果を公表、それを機に翌70年に台湾、そして71年に中国が正式に自国領だと主張し始めた。中国、台湾ともそれ以前には領有権を主張したことなどなく、日本政府は72年、沖縄返還直後の国連の場で「尖閣列島に対しては日本以外のいかなる国も主権を持っていない。中国の主張はまったく根拠がない」と毅然とした態度で反論している。 これまでの検証で孫先氏の主張する「尖閣は係争地」「『固有の領土』は国際的に不適」という論が、歴史的にも国際法上も全く根拠のないものであることがわかる。 
仮に尖閣での紛争を恐れるあまりに一旦「棚上げ論」を受け入れたらどうなるのか。
その瞬間、中国側のカウンターメッセージが発信されてことになり、折角1895年以来日本が主張していた「尖閣の領有権」が揺らいでしまい、「尖閣は係争地」という中国の思う壺に嵌ってしまうことになる。
したがって「尖閣での紛争を回避するために棚上げすべき」などという孫先氏の甘言など毅然として葬り去る。 それが日本のとるべき道である。

「棚上げ論」のおかしさを、中国出身の評論家石平氏はこう表現している。
「他人の持ち物である腕時計を自分の物と主張し、それに反論されたら、『所有権については棚上げして、子孫の知恵で議論してもらう』と強弁するようなもの」という。

 現在議論したら明らかに所有権は他人の物だが、孫子の代に棚上げされたら所有権も曖昧にされてしまう。 そこが中国側の思う壺と石平氏は指摘する。

■「オスプレイ反対」が発するメッセージ

昨年の夏以来、沖縄2紙が激「島ぐるみオスプレイ阻止」の激しいキャンペーンを張り、現在も続いている。 この運動が中国に対する誤ったメッセージ、つまり中国へのラブコールになることに県民は気がつくべきである。 オスプレイは、回転翼の角度が変更できるティルトローター方式の垂直離着陸機であるため離島など滑走路のない地域防衛に適しており、「尖閣防衛の切り札」と言われている。 従来の輸送ヘリコプターに比べ、高速で航続距離や搭載能力にアドバンテージがあるため、これを沖縄に配備することに反対すると、一番喜ぶのは中国だからである。

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県民を騙した「モンスター」、翁長知事「辺野古阻止は振興費を貰うため」振興費を食うモンスター

2022-05-03 07:10:18 | ●●沖縄の黒歴史

 

 

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本書を読まずして、今後の日米関係は一切語れない

翁長前知事からデニー現知事へと引き継がれた「あらゆる手段で辺野古阻止」という公約は、今でも実現していない。

それもそのはず。

デニー知事自身が、決して実現できないイデオロギーとして認識しているからだ。

当初、沖縄メディの辺野古移設のことを「新基地建設」など読者を誤誘導し、現在ではこれを事実誤認と指摘する人も少なくなった。

ちなみに辺野古移設とは、住宅密集地に隣接する普天間基地を住宅の疎らな辺野古(既設の米軍基地・キャンプシューワブ内)に統合移設すること。面積も普天間基地の約3分の一に過ぎない。したがって「新基地建設」は明らかに間違い。

そして、「新基地建設反対」の次には「ジュゴンを救え」とか「サンゴを救え」などと「辺野古阻止」の口実にしていた。

だが最近では「マヨネーズ状の軟弱地盤」を辺野古阻止の口実にしている。

おっと、忘れるとこだったが「アオウミガメ」も辺野古阻止の口実になるようだ。

沖縄タイムス紙面掲載記事

アオウミガメ 死骸また発見 辺野古の海上

2022年5月1日 05:00

 【名護】名護市の辺野古漁港付近の海上で28日、絶滅危惧種のアオウミガメの死骸が見つかった。美ら島財団の職員が回収して解剖したが、消化器官に異物はなく、死因は特定できなかったという。辺野古の米軍キャンプ・シュワブ横の海岸でも23日にアオウミガメの死骸が見つかっている。

 ウミガメは甲羅の長さが約40センチの個体で、同日午前10時半ごろに辺野古漁港付近の航路で死んで浮いた状態で見つかった。外傷はなかった。

 発見した島しづ子さん(74)は「新基地建設現場近くで相次いでいるので、死因が気になる」と不安そうに話した。

(写図説明)見つかったアオウミガメの死骸=28日、名護市辺野古(島しづ子さん提供)

 

>発見した島しづ子さん(74)は「新基地建設現場近くで相次いでいるので、死因が気になる」と不安そうに話した。

生きとし生ける者、何時かは寿命が来たら死ぬんですよ、島さん!

鶴は千年,カメは万年という。

このカメ、一万年を過ぎていたかも・・・。

一体、デニー知事や反基地活動家たちは何故このように頑なまでに辺野古移設に反対するのか。

沖縄の反基地運動に詳しいエルドリッジ博士によると沖縄に跋扈する「モンスター」の指導によるという。

モンスターとはいっても「もっと騒げば振興費がもらえる」というモンスターがいるというのだ。

一般の反基地活動家が「もっと騒げば振興費がもらえる」と扇動するのならさもありなん。

だが、この「もっと騒げば振興費がもらえる」を公言し、県内の政治家を騙した「モンスター」こそが、故翁長知事だったこと知る県民は少ない。

■翁長氏の宗旨替え、「辺野古推進」から「辺野古阻止」へ

翁長雄志氏は1985年から2014年まで自民党に所属し那覇市議、沖縄県議、那覇市長を歴任し、当初より辺野古移設に賛成していた。自民党県連幹事長も務め、22年前には、辺野古移設推進決議案を可決させた旗振り役だった。

2014年6月、県知事選出馬の可能性が取りざたされる頃から、一転、辺野古移設反対に回る。

市町村長会において「我々が反対しても国の方針は変えられない基地に反対することでより多くの振興策が多く取れると発言し、埋め立て反対は基地問題の解決ではなく振興策を得るための手段であることを表明したと報道された。

■「確認書」を隠蔽した沖縄2紙

県知事出馬にあたり、翁長氏は「建白書で大同団結し、普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念、オスプレイ配備撤回を強く求める」と説明していた。

だが、2013年1月25日に石垣市の中山市長らとともに署名した確認書では、「(建白書は)米軍普天間基地の移設について原則、県外への移設を理想とするものの、普天間基地の早期移設と周辺住民への危険性の除去を最優先と考えており、県内移設の選択肢を否定するものではない」と明記されている。

八重山毎日新聞の取材に対し、中山市長は「オスプレイの強行配備に反対する内容の要請活動のはずだったが、要請書が建白書に変わり、なおかつ普天間の県内移設断念の文言が入っていたので署名できないと伝えた。41市町村長の署名押印をそろえたいと言われ、確認書をつくった。県内移設断念についてはオール沖縄ではなかった」と回答した。

翁長は那覇市長時代、「オスプレイ配備反対」を掲げる「建白書」を安倍首相の手渡すべく、「東京行動」を実行した。

沖縄全41市町村長・議長・県議 勢ぞろい 2013年9月にオスプレイ配備に反対する沖縄県民大会を10万人の参加で成功させた。

同大会実行委員会が主催して“オール沖縄”の思いを安倍首相に直訴する「NO OSPREY(ノー オスプレイ) 東京集会」が27日、東京都内で開かれ、沖縄と本土の連帯して戦う決意が述べられた。

喜納昌春県議会議長は主催者あいさつのなかで、「飛行訓練が計画されている全国140近くの自治体が同じ危険にさらされる。平和と生活の安心・安全を全国の皆さんと連帯して守り抜きたい」と話すと、参加者は「がんばるぞ」や「そうだ」の声で応えた。   

  参加者は集会終了後、「オスプレイ いらないよ」「飛ぶな欠陥機」など思い思いのプラカードを持って銀座をパレードした。

  沖縄の代表団は28日に、この集会で読み上げられたオスプレイ撤回などを求める「建白書」を安倍首相に手渡した。

 

               ★

      

翁長「裏契約書」、八重山日報が報道!2014-11-04

虚飾に塗れた翁長氏の「オール沖縄」が終(つい)に終焉の日を迎えることになった。

3日の八重山日報が建白書の翁長氏が署名・捺印した確認書(裏契約書)の存在を、一面を使って暴露したのだ。

記事には翁長雄志、玉城義和、中山義隆の3氏による署名と捺印が記された「確認書」(裏契約書)の写真が添えられている。

 

■八重山日報 2014年11月3日

県内移設否定せず 建白書提出前に確認書作成 中山市長

 
建白書に署名押印する条件として、中山市長が翁長氏らと作成した「確認書」のコピー
 
 
 
 
建白書に署名押印する条件として、中山市長が翁長氏らと作成した「確認書」のコピー

       確認書

平成25年1月28日付、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会(以下、実行委員会)より、安倍晋三内閣総理大臣に提出される「建白書」について以下のことを確認する

1. 今後、同実行委員会より提出される要望書などについて、市町村長の同意。署名等を求める場合は事前に文言等の調整を十分に行うこと。

2. 石垣市長中山義隆は米軍普天間基地の移設について、原則、県外への移設を理想とするものの、普天間基地の早期移設と周辺住民への危険性の除去を最優先と考えており、県内移設の選択肢を否定するものではない。

3. 上記のことを確認したうえで、石垣市長中山義隆は、この度の「建白書」においては、細部については異論があるものの、沖縄県における米軍基地の過重負担の軽減を求める沖縄県民の想いをひとつの行動にするため「建白書」へ署名、捺印する。

                         以上確認する。

                     平成25年1月25日

オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会   石垣市長

代表(事務局長) 

玉城義和  印                  中山 義隆   印

 

           立会人

           沖縄市長会会長 那覇市長

           翁長 雄志   印

 米軍普天間飛行場の県内移設断念などを求め、オスプレイ配備に反対する県民大会実行委員会が昨年1月、首相に提出した「建白書」の作成時、石垣市の中山義隆市長が「県内移設の選択肢を否定しない」とする確認書を作成していたことが分かった。2日、中山市長が明らかにした。

 確認書には中山市長、実行委員会事務局長の玉城義和氏のほか当時那覇市長だった翁長雄志氏が立会人として署名押印した。翁長氏は現在、県知事選に立候補しており、中山市長は「翁長氏は選挙戦で、あたかも41市町村長全員が建白書に同意したかのように『オール沖縄』や『建白書の精神』と言っているが、それは最初から崩れている」と批判している。 

▼全文は「新聞オンライン.com」で
http://www.shimbun-online.com/latest/yaeyamanippo.html

 2014/11/03 八重山日報 一面の記事です。

 昨日のエントリーで次のように書いた。

<さて、オール沖縄の結束が崩壊した現在、沖縄2紙が「裏契約書の存在」を報道するか、それとも徹頭徹尾黙殺で通して翁長氏の支援を続けるか。

新聞の使命、そして良心を試す絶好のリトマス試験紙として興味津々である。>

リトマス試験紙の判別によると、「裏契約書の存在」を報道した八重山日報は新聞の使命を十分心得ており、しかもジャーナリストとしての良心も持ち合わせているということになる。

では沖縄タイムスと琉球新報には、新聞としての良心と使命感が一欠けらでもあったか。

否である。

それどころか、今朝の琉球新報の一面トップはこの大見出しだ。

翁長氏先行、仲井真氏追う

琉球新報・OTV世論調査

2割超 態度未定

県内移設反対73%

この時期に一定以上の年齢層に限定される固定電話による世論調査の結果を一面トップで発表する必要は有るのか。

有権者にとっては、もっと重要な事実の開示が不可欠ではなかったか。

翁長氏にとって立候補の大義は「建白書」にあったはず。

琉球新報ら沖縄2紙があからさまに翁長氏を支援する理由も、「建白書」の理念の実現という点で翁長氏と意見が一致したからではなかったか。

その証拠に、今年の1月。琉球新報は「建白書」による沖縄の結集(オール沖縄)を高らかに謳いあげる社説を書いている。

あまりにも仰々しい文なので、建白書の理念を述べた部分を抜粋引用してみよう。

建白書から1年 沖縄の結集軸に立ち返ろう

琉球新報・社説 2014年1月27日 

  私たちがつかみ取るべき沖縄の未来像とそれに向けた判断基準を明確に打ち出したのが、米軍普天間飛行場の県内移設の断念と閉鎖・撤去、垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの配備撤回を求める「建白書」だ。>
 

 <「建白書」は、党派を超えた「オール沖縄」の結集軸である。その普遍的価値を見つめ直したい。
 「建白書」には、県議会議長、県内の41全市町村長と議会議長、各種団体の長の署名・押印がなされている。総勢約150人が上京した総行動によって閣僚らに沖縄の不退転の決意を直接伝え、国内外に発信したのは記憶に新しい。

 < 名護市長選を受けて、本紙が実施した市町村長アンケートでは、約6割に当たる24人が名護市の民意を反映した移設断念を求めている。民意尊重を求める首長の声は「建白書」の延長線上にある。
移設推進と答えた2人や回答しなかった首長は、自ら署名した「建白書」の意義をどうとらえているのか、説明責任を果たしてもらいたい。

 <安倍政権による差別的な基地押し付けに負けず、子や孫の世代に平和な島を残すためにも、「自己決定権」を取り戻す決意を打ち固めたい。「建白書」の理念に立ち返り、沖縄の尊厳を守ろう。それが歴史を変える原動力になる。>

                  ☆ 

八重山日報は、琉球新報が、「建白書」の理念に立ち返り、沖縄の尊厳を守ろう、と高らかに謳いあげた「建白書」に正面から「疑義あり」と証拠を突きつけたのだ。

つまり翁長氏が立候補する大義を表し、沖縄2紙が翁長氏を支援する根拠となる「建白書」に疑義があるとして報じたのだ。

これに対しては、当事者の翁長氏は言うまでもなく、「建白書」の大義を理由に翁長氏を熱烈支援してきた沖縄2紙は、すべての県民に対して納得できる説明をする責任がある。

仮に沖縄2紙が「確認書(裏契約書)」に対し沈黙を守ったまま投票日を迎えたとしたらどうなるのか。

沖縄2紙は有権者の判断の決め手となる重要な事実を故意に隠蔽し、有権者の判断を誤らせた(不作為の罪)として住民訴訟が起きることも十分考えられる。

すでに筆者のもとには、住民訴訟に賛同するという有志が複数名乗り出ている。

八重山日報と沖縄2紙の報道姿勢で思い出すのが「八重山教科書問題」だ。

沖縄2紙が「発狂新聞」という渾名が付いたほど常軌を逸した報道で、「ルール破りの竹富町教委」を擁護したのに対し、八重山日報が首尾一貫して「ルールに従がった玉津石垣市教育長」を支援したことが記憶に新しい。

有権者に正しい判断で投票して頂くため、

以下は拡散依頼です。

 

翁長氏が建白書の同意を取るために「県内移設の選択肢を否定しない」という文言の確認書に署名捺印していた。 添付ファイル参照

「石垣市長中山義隆は米軍普天間基地野移設について、原則、県外への移設を理想とするものの、普天間基地の早期移設と周辺住民の危険性の除去を最優先と考えており、県内移設の選択肢を否定するものではない。」

「県内移設の選択肢を否定しない」という文言の確認書に署名捺印をしたということは、現在翁長氏が「辺野古に新基地は作らせない」と叫んでいること自体が大嘘ということになる。

その一方、仲井真氏の埋め立て承認を受け入れることを意味し、支援団体の共産党・社民党らを裏切っていることになる。

つまり現在翁長氏が主張する「普天間飛行場は国外・県外に移設、県内移設反対。辺野古新基地はありとあらゆる手段を尽くして造らせない。」という主張とは真っ向から対立することになる。

翁長氏は有権者を騙して上で「オール沖縄」を主張していることになる。

翁長氏よ、「建白書」に裏契約書が存在したことを、知事選候補者として有権者に説明する責任が有るのではないか。納得できる説明が出来ない場合は、潔く立候補を辞退すべきではないのか。  

 

【保守系9市長、翁長氏に普天間で質問10月29日沖縄タイムス

 http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=88463

翁長氏は「反対することで振興策が多く取れる」といって建白書の同意を取った

11月投開票の沖縄県知事選に出馬を予定している現職の仲井真弘多知事(75)を支援する県内の5市長は28日、那覇市内で会見を開き、同じく出馬予定の前那覇市長の翁長雄志氏(64)に対し、普天間飛行場の危険性除去の方法などについて問う公開質問状を発表した。

 

 質問状では、翁長氏が普天間飛行場移設の移設先や時期などを提示せず、日本政府に責任を丸投げしていると指摘。「普天間基地周辺住民の安全、生命、財産を具体的にどのように守るのか」と説明を求めている。

 

 南城市の古謝景春市長は、翁長氏が41市町村の代表が政府に提出した建白書をまとめる際に「反対することで振興策が多く取れる」と発言したと主張し、「さまざまな疑念がある」とした。質問状は、仲井真氏を支援する保守系市長9人の連名

 

沖縄・「翁長氏と建白書」めぐる2つの問題

2014年11月13日 | 沖縄と差別

      

 今回の県知事選挙で重要なキーワードになっているのが、「建白書」(2013・1・28、写真左)。

沖縄の41市町村長と議長が共同で、安倍首相に対し「オスプレイの配備撤回」などを求めた文書である。
 

これを「沖縄の総意」(「オール沖縄」)としその実現を最大の「公約」に掲げている翁長雄志氏に、基地撤去・平和を願う人々から大きな支持が寄せられていた。

ところが「翁長氏と建白書」をめぐる、重大な問題が2つ浮上してきた。

 1つは、「建白書」発表の3日前、1月25日に翁長氏と中山義隆石垣市長の間で交わされた「確認書」(写真右)。

今月12日付の沖縄タイムス(写真中央)の「知事選候補者4氏紙上クロス討論」で、仲井真弘多候補から翁長候補に対し、次の質問をした。

 「『建白書』作成時、中山石垣市長と普天間飛行場の県内移設を否定しないという確認書にあなたは署名、押印した。辺野古反対と県内移設容認の矛盾について説明をしてほしい

 これに対する翁長候補の「回答」はこうだ。

 「確認書は、中山氏の立場を理解し、中山氏にも署名、押印をしていただいたもの。そのことによって、翁長雄志本人の考え方や建白書の県内移設断念の考え方が、変わるものではない」

 中山氏との「確認書」の存在を認めた上で、その性格について釈明したものだが、釈明の体をなしていない。

【おまけ】

 
沖縄タイムス+プラス ニュース

「沖縄の人をなめてはいけない」 翁長知事が問い続けた不条理 語録で振り返る

2018年8月9日 

 「ハイサイ、グスーヨー」。しまくとぅばを使い沖縄県民に呼び掛けた翁長雄志知事。基地負担に悩む県民に優しく語り掛ける一方、相次ぐ米軍関係の事件事故や基地問題の根本的な解決に後ろ向きな政府の姿勢には容赦なく怒りをぶつけた。自身の政治指針を示す「イデオロギーよりアイデンティティー」の言葉は、保守政治家であり、同時に県民代表であろうとする翁長知事の姿勢を表現している。

イデオロギーよりアイデンティティー

 「私は保守の人間だが、沖縄に在日米軍専用施設面積の74%が集中するのは大変理不尽で、許されるものではないと考える。基地問題を解決しなければ21世紀に羽ばたくことはできない」(2014年12月10日、就任直後のあいさつで)

 「辺野古の新基地は絶対に建設できない。移設を粛々と進めるという発言は問答無用という姿勢が感じられ、上から目線の言葉を使えば使うほど県民の心は離れ、怒りは増幅する。官房長官の言葉は、キャラウェー高等弁務官の姿を思い出させる」(15年4月5日、菅義偉官房長官との初会談で)

 「今本土で飛んでいるオスプレイは一定程度が過ぎたら、みんな沖縄に戻ってくるんです。これを日本の政治の堕落ということを申し上げているんです。どうか日本の国が独立は神話だと言われないように、安倍首相、頑張ってください。ウチナーンチュ、ウシェーティナイビランドー(沖縄の人をなめてはいけない)」(同5月17日、辺野古新基地建設に反対する県民大会で)

 

■マスコミが隠蔽した翁長知事の末期症状

翁長氏は地位就任後の2018年(平成30年)5月15日 - 4月に行った膵臓の腫瘍の病理検査でステージ2の膵がんであることを公表し、治療と体力の回復を進めながら公務復帰を目指すことを明らかにした(後に公務復帰)。


8月8日 - 沖縄県が翁長知事の意識混濁状態で、容態が急変していることを受けて、午後に緊急記者会見を行い、

同8月12日まで謝花喜一郎副知事、同8月13日から富川盛武副知事が職務代理を務めることを発表した。


同8日18時43分、膵がんのため、浦添市の浦添総合病院で死去(67歳)。

実に不可解な翁長知事の病状発表である。

8月8日に謝花副知事が「翁長知事の意識混濁状態」を発表し、その日の18時43分、県知事は死去している。

これはマスコミや県ぐるみで翁長知事の症状を隠蔽していたことになる。


死去から2か月後の10月9日に那覇市の沖縄県立武道館で県民葬が営まれ、内閣官房長官の菅義偉はじめ3000人が参列し、新知事に就任した玉城デニーが弔辞を読んだ。

 

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★真珠湾攻撃より先に日本攻撃をしたアメリカ、フライングタイガースの秘密

2022-05-02 08:24:35 | ●●沖縄の黒歴史

 

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2021-04-29 

 

 

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アメリカが真珠湾攻撃で第二次大戦に巻き込まれる数カ月前

 

ルーズベルト米大統領は、米陸軍選抜パイロットグループを(特殊任務から)”退役”する極秘大統領令を発行していた。

 

選抜パイロットグループの殺傷能力は、マラヤ、フィリピンその他太平洋地域のどの同盟戦闘機より優れていた。

 

1945年12月、アメリカ上下院合同調査委員会で、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将は、共和党H・ファーガソン上院議員に次のことを認めた。

アメリカ軍人は、日米開戦前、すでにフライングタイガー社の社員に偽装して中国へ行き、戦闘行為に従事していた」(『パール判事の無罪論』田中正明著)

「フライングタイガースは米国正規軍だった」

この事実は日本が開戦回避を必死で模索してワシントンで日米交渉を行っていた時、既に米国側は対日参戦にひそかに踏み切っていたことを示しているのである。

ルーズベルトは500機からなる部隊を準備し、中国派遣を命じた。これが「義勇軍」フライング・タイガース(AVG)の実態であった。

陸軍航空部隊長の1941年8月のメモによれば、米国正規軍としてのフライング・タイガース(AVG)の創設はすでに「大統領と陸軍省が承認していた」という。フライングタイガースが米国を出発してビルマに到着したのは昭和16(1941)年春のことであった。

日本への先行爆撃計画「JBー355」を承認したルーズベルト大統領のサイン入り文書

1941年7月23日。 了解-但し、軍事使節団方式を採るか、アタッシェ方式を採るかについては検討されたし FDR」『「幻」の日本爆撃計画』(アラン・アームストロング著、塩谷紘訳(日本経済新聞社)

アメリカが「リメンバー・パールハーバー」と対で使う「SNEAK ATTACK」(卑劣なだまし討ち)は、真珠湾以前に既にアメリカによって行われていたのである。


フライング・タイガース アメリカの「卑劣なだまし討ち」【狼魔人日記】
【真珠湾攻撃、その真実の歴史  ~その3~】
【正しい日本の歴史】より

 

2005年5月28日、アーリントン墓地に約四百人の老いた退役軍人が終結した。


彼らはフライングタイガースの元隊員であった。 

日米開戦の四年前、既に日本と交戦状態にあった中国に航空部隊として参戦した「アメリカ合衆国義勇軍」の事をフライングタイガースと称していた。

この軍戦没者慰霊祭に参列している一人の年老いた東洋系婦人がいた。


元軍人集団の中心にいるこの老婦人はフライングタイガースの創設者シェンノート元少将の未亡人、陳香梅であった。

シェンノート元少将

時は遡る1989年、あるアメリカの航空貨物会社が消滅した。

航空貨物会社「フライングタイガース」が世界最大のアメリカ航空貨物社「フェデックス」に吸収されたのだ。

この会社は大戦終了の年1945年に設立の44年の歴史を誇っていた。
しかしその社名の由来は終戦の年から更に時代をさかのぼり故シェンノートに辿りつく。

この航空貨物会社「フライングタイガース」の名前は1937年誕生のアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)に由来していた。

日本では天駆ける想像上の生き物として「天馬」があるが中国には飛竜と共に空を飛ぶ虎は無敵であるという故事から「飛虎」という想像上の無敵の動物がいるという。



中国を愛したシェンノートはこの中国の故事に因んでフライングタイガースという名の航空義勇軍を創設した。


因みに写真で見るフライングタイガース戦闘機は頭部に歯をむき出して大口を開けているサメの絵が描かれている。

戦闘機の体形上虎よりサメの方が描きやすかったのだろうが、フライングシャークス、飛鮫では大陸国家中国の空を雄飛するには格好がつかない。その代わり乗務員は翼の生えた虎のマークの入ったエンブレムを背中に貼り付けていたようだ。

フライングタイガースを創設した故シェンノート少将。

アーリントン墓地ではその夫人が約400名の退役軍人にエスコートされ、「中国人の誰もが知っているアメリカ軍将軍」として今でも中国人に愛されている故シェンノート少将といったいどんな人物なのか。

シェンノートは1893年9月6日テキサス州に生まれた。
1937年7月、中日戦争が全面戦争に突入すると、シェンノート大佐は昆明に航空学校を設立して、積極的に中国空軍の対日作戦を支援した。
大佐はパイロットの養成だけでなく、自ら戦闘機に操縦し戦闘にも参加している。

日米戦争が勃発すると、アメリカ政府は積極的に中国を支援する方針を採った。
1942年7月、航空志願部隊は第10航空隊中国特別派遣部隊に編入され、准将に昇進したシェンノート氏がそのまま指揮に当った。
1943年3月、部隊はアメリカ陸軍航空隊第14航空隊に再編入され、シェンノート氏は少将に昇進する。
1941年7月に組織されたアメリカ志願部隊は23戦闘機大隊から第14航空隊に編入されるまで、シェンノート氏は一貫して志願部隊の指揮を執り、自身も退役将校から少将にまで昇進した。
シェンノートン少将の中国に対する思いは深く、中国人を夫人にし、昆明に家を建てて、生涯を中国で過ごすことを希望していた。

1945年7月、日中戦争勝利を目前に、シェンノート少将は8年間暮らした中国を離れ、アメリカに帰国した。

このとき、中国人の群集がシェンノート少将を見送りに集まっている。
人々は彼の乗用車を取り囲み、まるで駕篭を担ぐように乗用車を担ぎ上げ、数時間かけて中心広場まで運んだという。
広場のひな壇はフライングタイガースのエンブレムで飾られ、花束でアーチが築かれていた。
別れを惜しんで握手を求める人々の長蛇の列にシェンノート少将は、感激の涙を流した。

この情景はマッカーサーがに離日した時の日本人のマッカーサーに対する惜別の表現を髣髴とさせるものがある。

日本人には馴染みの薄いシェンノートというアメリカ軍人がアメリカ人による「義勇航空隊フライングタイガース」を中国に創設した1937年という年度に注目して欲しい。

その年シェノートが義勇軍を創設して数ヵ月後に事実上の日中戦争の開始とも言うべき盧溝橋事件が起きている。

そのころの中国大陸は蒋介石率いる国民政府、毛沢東率いる共産政府が分裂し各地で内戦が行われていた。その間を掻い潜るように日本軍が侵略をはじめていた。

シェンノートは中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。

当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。

着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察してまわった。

そしてそれまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。

この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。

アメリカは当時中立政策をとっていたため表面だって中国を支援する事は国民の支持を得にくかった。 「リメンバーパールハーバー」より遡ること四年前の事である。

つまりアメリカは「真珠湾の卑劣な攻撃」の実に4年も前から日本と交戦していたのである。
これ嘘のような本当の話。

フライングタイガーを英雄的に描いた映画

若き日のジョン・ウェインが演じている



1958年7月27日、シェンノート少将はアメリカで死去したが、中国系アメリカ人の陳香梅夫人は今も健在である。


「フライングタイガーズ」のパイロットは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によって、当時の新米パイロットの5倍相当に当たる月給600ドルと日本軍機1機撃墜ごとに500ドルという破格の報酬で、全米各基地から集められた。全員は農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビルマに集結。蒋介石政権が米国に借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた」(読売新聞1991年7月8日)

 さらに驚くべきは、フライングタイガーズが東京や大阪の奇襲攻撃を計画していた。

「作戦には350機のカーチス戦闘機と150機のロッキード・ハドソン長距離爆撃機が参加の予定で、うまくいけば(1941年)9月下旬には東京や大阪に大量の焼夷弾をばらまいて木と紙の日本の家屋を焼き尽くすはずだった。だが、「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地には10月下旬になっても肝心の爆撃機は到着しなかったのである。(中略)需要の多い爆撃機はその年の暮れになっても届かず、41年12月7日の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、中国大陸を経由した日本爆撃そのものがほごにされ、計画はやみに葬られた」(産経新聞2000年7月15日)

日米開戦 アメリカ最大のタブー -Japan-US open war America's largest taboo

 

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