狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

捏造された「残虐な日本兵」、我が子を殺した母の贖罪意識

2021-06-21 07:46:36 | ★改定版集団自決

 

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「慰霊の日」、集団発狂の沖縄メディア!2013-06-23 

毎年、6月23日の「慰霊の日」前後には、沖縄メディアが恒例行事として集団発狂する。

沖縄戦の記憶の継承と称する沖縄戦キャンペーンだ。

沖縄戦の記憶の継承という建前に異論はないが、沖縄メディアが戦争を語るとき、他県には見られない特徴がある。

あたかも沖縄戦は日本軍と沖縄住民の戦いだったかのような論調で「残虐非道な日本軍」を執拗に告発するのだ。

その一方で敵の米軍は、沖縄住民を解放するため沖縄戦に臨んだという印象報道だ。

きょうの沖縄タイムスは「沖縄戦関連」記事で一面トップと社会面トップを飾った。

 

ところが、執筆者の山中由睦記者は、証言者のコメントをうっかりそのまま掲載するという大ポカやらかしてしまった。

大笑いである。

本来なら戦火を避け潜んでいたガマで、泣きだした幼子を「(日本兵が)泣かすな、出ていけ」と命令した。このように歪曲して書くべきだった。

先輩記者の捏造報道を継承して。

最近、沖タイも心を入れ替えて、これまで歪曲してきた沖縄戦の大嘘を訂正する気になったのか。

読者「そんな筈はない。沖タイにそんな殊勝な気がある筈がない」

「単なるポカ記事です」

[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1) 弟の姿 シダに重ね 遺骨「諦められぬ」 上原美智子さん(85) 那覇市

沖縄タイムス紙面掲載記事

[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1) 弟の姿 シダに重ね 遺骨「諦められぬ」 上原美智子さん(85) 那覇市

2021年6月21日 05:00

 自宅の庭の鉢には、きれいな緑色のタマシダが生い茂っている。この家に住む上原美智子さん(85)=那覇市=が、恩納村の山中から小さな一株を持ち帰ったものだ。

 5~6年がたち、シダは10倍以上に成長した。「こんなに元気に育ってくれたね」。上原さんは葉先をなでるように触り、柔和な表情でシダに語り掛けた。

 シダが生えていたのは76年前、沖縄戦で本島南部から逃げる途中に息絶えた8カ月の末弟を埋めた場所。戦後、姉が遺骨の回収に来たが見つからず、仕方なく近くの石を拾い、家の墓に入れた。

 戦後70年がたち、上原さんは自らこの場所を訪れ、遺骨を探した。遺骨は見つからなかったが、何かを持って帰らずにはいられなかった。近くに生えていた、ほんの5センチほどのシダを抜いた。「遺骨の代わり。これで弟を感じられる」 

□   □

 1945年3月23日朝、米軍機から雨あられのように銃弾が降り注ぐ中、9歳の上原さんは、自宅から少し離れた糸満市のガマ「アマンソウ」に向かった。母と姉は家畜の世話があったため、上原さんは妹と弟を連れ、8カ月の末弟を背負い無我夢中で走った。

 ガマにはすでに約250人が避難し、暗闇に排せつ物の臭いが充満していた。末弟が泣き出すと、ガマの奥から「マーヌクヮガ、ナカサンケー(どこの子か、泣かすな)」、「ンジティイケー(出ていけ)」と高齢女性の罵声が聞こえた。

 弟の口を手のひらで覆うと、声が小さくなった。苦悶(くもん)の表情を見るのが耐え切れず、ガマを出て10メートル前の木の下で震えた。頭上に米軍機が見え、死と隣り合わせの状況が続いた。

 夕方、母姉と合流し北に避難。何日か歩き続け、恩納村の避難場所に着いた。食料は乏しく、5月中旬に米軍の捕虜になったが、弟はその少し前に栄養失調で亡くなった。「弟は今も独り寂しく山中にいる。早く遺骨を拾ってあげたい」

□   □

 遺骨への思いは末弟に対してだけではない。当時38歳だった父・玉城蒲吉さんも見つかっていない。

 色白で“イケメン”だった父。畑仕事がない日は一緒に遊んでくれた優しい人だった。「カマスケ」という毛並みの良い馬を飼い、新品の馬車も持っていた。そんな父が大好きだった。

 父は44年10月ごろ軍に招集された。冬に馬車を取りに一度だけ戻ってきた。出発前、上原さんの頭を優しくなでながら「お母さんの言う通り、お利口にしてね」。これが別れとなった。

 父がその後どこに行き、どこで亡くなったのかは分かっていない。戦争で自宅は燃え、父の写真や遺品は全て焼失。父のぬくもりや思い出を感じられる物は何一つ残っていない。

 万年筆や衣類、馬車の部品、何でもいいから見つけたい-。そんな思いで、20年ほど前から遺骨収集に携わった。同じように沖縄で遺骨を探す人のため、そして父の手掛かりを探すため。自らガマに入った。

 高齢になり、最近は自ら探すことは減ったが、まだ

希望は捨てていない。「戦後76年。難しいのはもちろん分かっているけれど、簡単には諦められないさ」(社会部・山中由睦)

 戦後76年がたった今も、県内では沖縄戦で亡くなった約3千人の遺骨が見つかっていない。大切な人の足跡や生きた証しを求め、いまだ多くの人が遺骨を探している。その思いと遺骨収集の現状や課題に迫った。(21面に関連)

 「証を求めて」では、遺骨を探す人々の思いや遺骨収集現場の動画を制作しています。こちらのQRコードから。

(写図説明)(上)庭のタマシダをなでるように触る上原美智子さん=那覇市

(写図説明)(下)上原さんらが逃げ込んだ糸満市のガマ「アマンソウ」(糸満市教育委員会提供)

■毒おにぎりの大ウソ⇒仲里県議会議長

壕に避難していた幼子に、途中から入ってきた日本兵が毒おにぎりを食わそうとしたので、家族共々壕を逃げ出し命拾いしたと言う証言が派手に掲載された。 

実際に琉球新報に掲載された記事だが、食糧不足に悩む当時はおにぎりは滅多に口にすることのないご馳走。 

その大事なおにぎりに毒を塗って少年の殺害を謀るより、銃剣で脅して壕から追い出したほうが容易であることは誰にでもわかること。

その幼子の兄が当時の仲里利信沖縄県議会議長であることが自身の証言で話題になった。

仲里氏が嘘をついたか、さもなければ当時の厳しい食料事情を知らない若い記者が、聞き取りの際歪曲・捏造したか。

いずれにせよこの記事が嘘であることくらい読者は容易に想像がつく。

 これに関して証言者の仲里氏は以後沈黙を押し通し何も語っていない。

(【おまけ】参照)仲里氏の「毒おにぎり」は「残酷な日本兵」の象徴として朝日新聞を通じてニューヨークタイムズにも掲載された。

 

【おまけ】

「毒おにぎり」が海を渡る  仲里証言をニューヨークタイムズが報道2007-10-18

「県民大会」の実行委員長になり、更には「東京要請団」の団長として、仲里県議会議長の名前と顔はすっかり全国区になった。

地元マスコミでで仲里議長の名が一躍注目されるよったのは琉球新報の衝撃的「毒おにぎり」記事以来である。

 

毒おにぎりで知名度を上げ、その後国会議員になった

仲里利信氏

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

 
戦時中の食料事情を知る人なら、折角のご馳走の「白いおにぎり」に毒を入れる状況が理解できないと、この体験談に疑念を抱く人も多い。
 
だが、これがそのまま海外の新聞、それもあのニューヨークタイムズの記事となったとなると、歯止めなく世界中を1人歩きする。
 
「戦地売春婦」が「性奴隷」の名の下に世界中を一人歩きしたように。
 
「11万人」集会がニューヨークタイムズの記事になったことを琉球新報が報じたが、Red Foxさんが元記事を全訳した結果、
 
琉球新報の訳文を原文に無いことを報じる「超訳」と呆れ返っていた。
 
詳しくは「またオーニシか! 沖縄抗議集会 琉球新報報道の怪 (Red Fox) 」でご覧下さい。
 
記事を書いたのは反日記事で有名なオーニシ記者ですが、翻訳者の岩谷文太さんは次のようにコメントしています。
 
≪このNYタイムズの大西記者の記事の情報源となってるのは多くが沖縄タイムズや琉球新報の記事なので、もともとがバイアスがかかってる訳ですが、結果として琉球新報が情報を提供して書かれたNYタイムズの記事を琉球新報が逆輸入して更に誇張して報じるという自作自演のマッチポンプ記事です。NYタイムズ自体はアメリカの朝日新聞みたいなものですから。

沖縄の事は本来は沖縄の民意が決める事ではありますが、問題は本土から乗り込んだ活動家であり、米軍の問題があってもそこには中国の脅威がある訳です。≫
 
≪しかし琉球新報のこれは幾ら何でも酷過ぎますね。まずNYタイムズの記事を報じてると装いながら内容を改変してる点、それから引用表記のルールの基本が全く出来てない点ですが、これは英語読解力など記者の能力の問題なのか、それとも意図的に印象操作をしてるのかは、この記事を見る限りでは何とも言えませんが、ロサンゼルス通信員という方なので恐らく確信犯の後者でしょう。そもそもロス通信員なら宜野湾市の抗議集会で直接取材した訳でないでしょうから、NYタイムズに書かれてる以上の余計な情報が入るのが不自然というものです。

 そういうクリエイティビティ溢れる琉球新報には『創作芸術大賞』を進呈したいと思いますw。≫

 
そのニュークタイムズ記事の中で、多くの証言者が「日本軍の残虐性」を訴えている。
 
特に沖縄出張法廷で証言した金城重明氏は本人の写真つきで紹介されている。
 
だが、金城証言に続く仲里議長の「毒おにぎり」証言が、
 
日本軍の残虐性を示す逸話として、世界中に飛び火していくことを危惧する。
 
以下はニューヨークタイムズ掲載の「毒おにぎり」の仲里議長の証言部分の原文と訳文です。

Okinawans Protest Japan’s Plan to Revise Bitter Chapter of World War II
http://www.nytimes.com/2007/10/07/world/asia/07okinawa.html

 One of the visitors to Tokyo was Toshinobu Nakazato, chairman of Okinawa痴 assembly.

Angered by the revisions, Mr. Nakazato broke a 62-year silence and talked about his own wartime experiences.

Inside a shelter where his family had sought refuge, Japanese soldierhanded his family members two poisoned rice balls and told them to give them to Mr. Nakazato痴 younger sister and a cousin, he said. Instead, his family fled into the mountains, where his younger brother died.

的知 already 70,・he said in an interview, 殿nd the memories of those over 80 are already fading. So perhaps this time was the last opportunity for us to resist.・/p>

その一人である沖縄県議会の仲里利信議長は、教科書問題に不快感を示し、62年の沈黙を破って自らの戦争体験を語った。

仲里さんの家族が難を逃れたガマ (濠) では、彼の家族に日本兵が2個の毒入りおにぎりを手渡し、仲里さんの妹といとこに与えるように言った。彼の家族は山に逃れ、そこで弟が亡くなった。

 「私はもう70歳ですが、80歳以上の人達の記憶は薄らいでいます。だから今が私達が抵抗出来る最後のチャンスなのかもしれません」と仲里さんは語った。(Red Foxさん訳)

                     ◇

 

■琉球新報により伏せられた仲里証言の“ある部分”■

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

(略)

 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
 (琉球新報 6/21 9:50)
 
                    ◇
 
「11万人」集会の実行委員長として、又「上京要請団」の団長としてすっかりテレビ露出の多くなった仲里県議会議長だが、
 
その前に「毒入りおむすび」証言で既にネット上では全国区の有名人になっていた。
 
だが、仲里議長の証言場面を動画で検証すると、琉球新報記事は証言のある重要部分を敢て伏せている。
 
仲里議長は、動画では概ね次のように話しているが、
 
上記新報記事では「壕に退避していたら妹がワーワー泣き出したので、(壕の中にいた)皆さんが出て行きなさいといったが、出て行くわけにも行かない」の部分は省略されている。
 
この部分は「壕から日本兵に追い出された」という巷間流布している定説とはそぐわない。 
 
つまり琉球新報は、壕から出て行けと言ったのは日本兵でなければ今まで造り上げて来た残忍な日本兵のイメージが崩れると困るのである。
 
「壕から追い出した人物」と「毒おにぎりの人物」は同じ日本兵でなければ整合性が無いのだ。
 
そこで、新報は証言のある部分を伏せて報じた。
 
「壕から出て行けといったのは同じ県民だった
 
 
 仲里証言を【動画】で検証してみよう
 
 
文字おこしすると概ね次のようになる。
 
≪壕に退避していたら妹がワーワー泣き出したので、(壕の中にいた)皆さんが出て行きなさいといったが、出て行くわけにも行かない。

ある人突然着剣した銃を持った日本兵が3人壕に入ってきて三才になる従妹に白いおにぎりに毒を入れて食べなさいといった。

家族一緒に死のうと壕を飛び出した。≫

 

「毒おにぎり」の仲里議長の証言もそうだが、それを報じる琉球新報が更に事実を隠蔽するようでは、沖縄の新聞は・・・、

何としてでも「沖縄県平和祈念資料館」に展示されている「銃剣で親子を壕から追い出す日本兵像」のイメージを造りたいのだろう。

 

 

 

 

 

参考エントリー毒入りおにぎりを渡された県議会議長

◆関連ブログ:沖縄集団自決問題 NYタイムズ記事検証

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コメント (4)

戦争マラリヤ 疎開秘話3 大本営の密使

2021-06-21 04:49:54 | ★改定版集団自決

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疎開秘話3 大本営の密 使2012-01-18

沖縄タイムス+プラス プレミアム

日本軍の命令でマラリア蔓延地に強制避難 八重山で3600人病死の悲劇 住民が36人の証言集発刊 

2020年8月28日 14:00有料

 【八重山】八重山戦争マラリアを語り継ぐ会(潮平正道会長)は15日、証言集「命の輝きを求めて-マラリアを生き抜いた人々の証言」を発刊した。ことしは結成10周年で、証言をまとめたのは初めて。戦時中、石垣島を中心にマラリアに侵されて家族を失うなどつらい体験をした36人から聞き取り、手記を含めて38編をつづっている。

 自らも体験者で手記を寄せている潮平会長らが市内で記者会見。軍命でマラリア有病地に避難を強いられ、八重山全体で3600人余が犠牲になったことを挙げて、「証言を集めて残さないと、歴史の中の重要な部分が消えてしまうという危機感がある。後世に残すことを決意し、努力した」と意義を語った。

 当初は2015年の戦後70周年に刊行を目指した記念事業。証言の掘り起こしという課題と向き合って13年に着手したが、思うように計画が進まず7年越しの発刊になった。証言者のうち9人が完成を待たずに他界したという。

 編集長を担った西村幸吉さんは「当事者が戦争体験を語るのはとてもつらかったと思う。しかし後世のためにと頼み込んで話してもらった。再び戦火が起きることがないようにしたい」と引き締めた。

 江川義久副会長は「沖縄本島や県外の人に読んでもらい、戦争マラリアの理解を深めてほしい」と強調。玉城功一前会長は「戦中、戦後を生き抜いた証言者の命の輝きに触れることができる」と活用を呼び掛けた。

 県や市立図書館、市内小中高校に配布するほか、市内書店で1冊千円(税込み)で販売している。

第32軍が沖縄に着任する以前から、大本営は、沖縄住民が戦禍にさらされるのを防ぐため閣議決定により県外疎開を決めていた。 だが県外疎開、実際は思うようにはかどらず、県内のより安全と思われる場所への県内疎開を余儀なくされた。

ただ当時の法体系でも軍が直接住民に疎開命令を出すことは出来ず、第32軍は「南西諸島警備要領」を作成し県知事に協力を要請し、知事は警察の組織力でこれに協力した。

沖縄本島では、島田知事と荒井県警部長が住民疎開に尽力したが、共に殉職し県民の恩人として今でも慕われている。

だが県知事や警察の疎開指導が届かなかった離島地域ではやむなく直接軍が疎開の指導をせざるを得なかった。

同じ疎開でも県が指導した場合は命の恩人と感謝され、軍が直接指導した疎開は「強制疎開」などと、住民を殺戮させるために疎開させたような書き方をするのが沖縄紙の特徴である。

八重山で疎開を指導した山下軍曹は戦後67年経っても、八重山マラリアで住民を虐殺した悪鬼として罵倒され続けている。 

だが山下軍曹も島田県知事も、故郷に家族を残し使命を帯び決死の覚悟で沖縄に赴任した善良な父であり、夫であり兄だった。 彼らは住民を安全地帯に疎開させるという思いは同じで、唯一の違いといえば、軍服を着ていたかどうかの違いに過ぎない。

八重山住民を「日本刀で脅し、マラリアの汚染地域に強制的に疎開させた」と喧伝されている山下軍曹が、1981年にひっそりと島を訪れた時、八重山住民は「・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」と抗議書を突きつけたという

その後山下軍曹は2度八重山を訪れ、その度に罵倒され追い返されたという。 

なぜ山下虎雄軍曹は何度も島を訪れたのか。

山下軍曹が罵倒されるのを覚悟で3度も八重山地区を訪れたのは、自分が指導した疎開で不幸なことに多くのマラリアの犠牲者が出たことに対する贖罪の気持ちの表れではなかったのか。

山下軍曹にとって不幸だったのは、それこそ幸か不幸か、八重山地区は本島のような米軍による「鉄の暴風」に曝されることがなかったことである。

山下軍曹が八重山住民の虐殺を企む「悪鬼」ではなかった。

たまたま不幸にも八重山地区に着任したばかりに、疎開を自ら指導せざるを得なかった善良な日本人だった。

これは戦後3度も八重山地区を訪問した事実から窺い知ることができる。

その一方で同じ疎開でも、島田県知事、荒井県警部長に対する沖縄紙の記述は、彼らが軍人でないという違いだけで比較的まともである。

以下は大本営の密使  沖縄戦秘話3に加筆したものである。

         ☆

沖縄は地元出版の盛んな地域である。

沖縄戦に関する軍側から見た記録や住民側の記録が多数出版されて、地元の本屋の店頭を飾っているが、軍と住民の間に立って県民の安全確保のため奔走した県行政側から見た記録は極めて少ない。

県民の安全確保のため県内外の疎開を実行するため島田知事とコンビを組んで命懸けで尽力した荒井退造警察部長は「県民の恩人」として、島田知事と共に遺骨も無いまま、摩文仁の「島守の塔」に合祀されている。

万年筆県に寄贈へ 那覇市真地の「県庁壕」で発見(2008.7.27)

「万年筆を多くの人に見てもらうことが義務」と語る荒井紀雄さん=東京都日野市
「県庁壕」で発見された万年筆

 【東京】沖縄戦中、県民の県外、北部疎開に尽くした荒井退造・県警察部長の遺品とみられる万年筆が、近く遺族から県に寄贈されることになった。万年筆は昨年12月、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で見つかり、6月に東京の遺族に届けられた。
 長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「この万年筆が父の物だと断定できるわけではないが、大変な犠牲を生んだ沖縄の惨禍の『証言者』だ。多くの人々に見てもらえることが、私の義務だと思う」と話している。
 万年筆を見つけたのは「県庁壕」の発掘・調査を続けている知念賢亀さんと繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。壕内の荒井部長室前の地中から掘り出した。
 戦時中の県職員や遺族らでつくる「島守の会」を通じて送られてきた万年筆を調べたところ「並木製作所」(現・パイロットコーポレーション)が1932年発売の製品と類似。当時の標準品が3円から5円だったのに対し、見つかった万年筆は16円程度で売られていた。元県職員の板良敷朝基さん(「島守の会」顧問)は「部長以上の高官しか持っていない代物」と説明しているという。
 昨年手術を受け、通院を続けている紀雄さんは「父は生前、『家族が私の骨を拾ってくれる』と語っていたという。骨は戻らなかったが、万年筆が息子の元へ戻ってきたと父は思っているかもしれない。私も生きていて良かった」と語っている。
 「県庁壕」は、米軍が沖縄本島に上陸する直前の45年3月末から5月末までに県警察部が避難していた壕。4月から島田叡(あきら)知事も合流した。荒井部長は島田知事とともに5月末に本島南部へ移動。6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出た後、消息を絶った。(小那覇安剛


                                           ◇

 

■「狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である」■ (ニーチェ )

この言葉は昨年、沖縄タイムスと琉球新報の沖縄二紙が「11万人集会」で県民を扇動していた頃、何度も当日記で引用させてもらった。

沖縄二紙は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、「県民大会」に反対するものは県民にあらず、といった狂気に県民を追い込んでいた。

職場等でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。

個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。

そしてその背後に新聞の扇動がある。

そんな例は歴史を紐解けば枚挙に暇がないほどだ。

軍情報局から日本敗戦間近の情報を得ていたにも関わらず、朝日新聞は、終戦の前日の8月14日の社説で、従来の「国民扇動」の論調を変えることが出来ずに、「敵の非道を撃つ」といった勇ましい記事を垂れ流し続けていた。

 

■昭和19年12月の「県民大会」■

昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。

その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。

大詔奉戴日といわれたその日の「沖縄新報」には次のような見出しが踊っていた。

けふ大詔奉戴日 軍民一如  叡慮に応え奉らん

一人十殺の闘魂  布かう滅敵待機の陣

終戦の8ヶ月も前の記事なので、「沖縄新報」が、朝日新聞のように、敗戦間近の情報は得ていた筈はないが、見出しと記事がやたらと県民を煽っていることが見て取れる。 

昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前の「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。

ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。

そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、次のような大見出しを使っている。

米獣を衝く  暴戻と物量の敵を撃て

お題目で獣性偽装   野望達成で手段選ばぬ

泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。

<挺身活動へ  翼壮団長会議

県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)

当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であったという。 

例えば座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来たいう。

では、その頃、沖縄配備の第23軍は一体何をしていたのか。

 

■第32軍は県民疎開をどのように考えたか■

ウソも繰り返せば真実となり、根拠の無いスローガンも繰り返せば歴史となる。

連日沖縄の紙面で踊る、「日本軍は住民を守らない」

という左翼の主張は、昭和19年の夏から大本営と沖縄配備の第32軍が沖縄県民の安全を守るため、県や警察と協力し、県外疎開に必死の努力をしていたという歴史的事実には全く目をつぶった、「反日運動のために捏造されたスローガン」にすぎない。

戦時中といえども法律の下に行動する軍は、当時の日本の法の不備に悩まされていた。

日本は過去の戦争において常に戦場は国外であり、そのために昭和19年の第32軍沖縄配備の時点で、国民を強制的に疎開させる法律を備えていなかった。

ドイツやフランスのように国境が陸続きの大陸国では、戦争といえば国境を越えて侵入する敵軍を想定するが、四面を海に囲まれた海洋国家の日本では、敵の自国内侵入は海上での撃滅を想定しており、地上戦を考えた疎開に関する法律は整備されていなかった。

第32軍が沖縄に着任した昭和19年当時、

何と、戦時中であるにも関わらず当時の日本には、現在の平和な時代でも具備している「国民保護法」(平成16年6月18日 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に相当する法整備がなされていなかったのである。

そのような状況で沖縄防衛を任される第32軍が沖縄着任に先立って最も憂慮したのは、米軍の上陸により沖縄住民が戦火に巻き込まれることであった。

■県民疎開は大本営の発想■

昭和19年7月1日、大本営の後宮参謀次長は、関東軍司令部から参謀本部付きとなっていた長勇少将を特命により沖縄に派遣した。 その特命の目的は食糧不足のための兵糧の研究が表向きであったが、その他にもう一つの重要な任務を命じられていた。

同じ年の8月10日に第32軍司令官、牛島満中将が沖縄に着任するが、その一月前の7月1日に沖縄に着任し、長少将が真っ先に行ったのが住民の県外疎開調査のための県内視察であった。 

既に第32軍の参謀長を拝命していた長少将は、調査結果を第32軍司令官渡辺正夫中将(牛島司令官の前任)に報告し、司令官は陸軍省に県民の県外疎開について具申し、それを受けて7月7日に県民の県外疎開の閣議が決定される。

沖縄配備の第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった「県民の県外疎開」を着任前に閣議決定させるという素早い動きをしていたのだ。

大本営は米軍の沖縄上陸は必至と予測し、牛島満司令官着任の一ヶ月以上も前の昭和19年7月1日に長参謀長を沖縄に派遣したが、

これと連動した内務省防空総本部も救護課の川嶋三郎事務官を沖縄に派遣し、県民疎開の閣議決定の下準備をさせていたのだ。(「消えた沖縄」浦崎純著・1969年)

緊急閣議決定で法的根拠は得たが、第32軍の県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。

今の時代で安易に想像し、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。

県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であった。

当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、

沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。

当時の沖縄の状況は新聞の勇ましい扇動報道に乗せられた各民間団体の「軍人より軍人らしい民間人」の狂気が巷にあふれ、

県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。

県外疎開を民間人に直接命令する権限の無い第32軍は、民間人の安全を管轄する県に協力を求め、

県は警察の持つ組織力と機動力によることが最適と考え県外疎開の担当部署を警察部と定めた。

現在のような平和な時代の後知恵で、

「軍の命令は自分の親兄弟を殺害する」ほど圧倒的で不可避であったと「沖縄タイムス史観」は主張するが、

実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全を確保するための県外疎開にせも県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。

 

警察部長として県民の県内外の疎開に尽力し、最後は南部で戦死を遂げた荒井退造氏が、冒頭記事の荒井紀雄さん(写真)の父君である

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新・(2)貶められた旧日本兵、壕の提供/「軍の命令」で援護対象に

2021-06-21 00:58:46 | ★改定版集団自決

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「援護法」に隠された沖縄戦の真実(2)2013-07-09

 ■世界日報 7月9日(火)掲載

【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(2)


壕の提供/「軍の命令」記入で援護対象に

 昭和31年(1956年)、戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省援護課の職員らが沖縄に派遣され、沖縄戦の実態調査を行った。琉球政府社会局が昭和33年に発行した援護法関係出版物「援護のあゆみ」によると、沖縄県遺族連合会が職員と協議会を重ね、集団自決や壕(ごう)の提供などの事例についても援護法が適用されるよう強く求め、厚生省に陳情した。
 戦争の実態調査や要望を踏まえて厚生省援護課は、昭和32年7月、援護法の適用例を20種の分類で示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」を発表した。これまであいまいだった「戦闘参加者」の定義がこれによって明確になった。「戦闘参加者」の分類は以下の通りだ。

 ①義勇隊②直接戦闘③弾薬・食糧・患者等の輸送④陣地構築、⑤炊事・救護等雑役⑥食糧提供⑦四散部隊への協力⑧壕の提供⑨職域(県庁職員報道)関係⑩区(村)長としての協力⑪海上脱出者の刳船(くりぶね)輸送⑫特殊技術者(鍛冶屋)⑬馬糧蒐集(しゅうしゅう)⑭飛行場破壊⑮集団自決⑯道案内⑰遊撃戦協力⑱スパイ嫌疑による斬殺⑲漁撈(ぎょろう)勤務⑳勤労奉仕作業。

 20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。

 しかし、当時の厚生省、琉球政府、市町村、そして、遺族という四者の共同作業により、6歳未満にも援護法が適用されるようになった。

 金城和信遺族連合会会長(当時)は「援護のあゆみ」の中で、「遺族は勿論全住民が一体となってこれら戦没者の報国の精神に充二文(ママ)に応えるべく全機能を上げて一人でも時効失効なき様処理に万全を期さなければならないと強く日本政府及び琉球政府に訴えるものであります」と述べている。

 実際に「戦闘参加者」として援護法の申請をした事例を示す、沖縄県公文書館に保管されている「現認証明書」(請求時の障害が公務上の傷病であることを認めることができる書類)の文面を引用する。

 <右は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村字摩文仁付近の戦闘間に於て球部隊司令部の下士官兵数名に避難壕を立ち退くよう要請され止むなく同壕を戦闘員のため提供して立ち退き、他の壕を求めて移動する際、至近に砲弾炸裂し、全身に砲弾破片創を負い、即死したことを同一行動中に確認致しましたのでその事実を証明します。
一九六〇年二月二十日

 沖縄県遺族連合会のある幹部は「軍に積極的に協力して戦死したという表現でも厚生省から突っ返されました。『軍の命令によって』と書き込んで再送して受理されました」と振り返る。そこで、現認証明書に「軍の命令・要請による」という虚偽事実の記入をしたが、そのうち大半が「壕の提供」に関する内容だったという。

(「沖縄戦の真実」取材班

                                       ☆

> 20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。

当時の厚生省は、本来なら民間人には適用されないはずの援護法を、可能な限り、というより「拡大解釈」をしてまで沖縄住民に適用しようとした。

 そこに「軍命捏造」という意図せぬ結果が生じ、後に反日左翼勢力の付け込む隙を与えることになる。

政府(厚生省)は、軍命と明記されていない申請書には「軍命」という不実(嘘)を書くように暗示する「書き換え」の指導をした。

例を挙げると、厚生省の1960年「戦闘参加者に関する書類」に、次のような記載がある。

昭和34年(‘59年)10月12日付け 厚生省引揚援護局未帰還調査部第四調査室長から⇒琉球政府社会局援護課長へ 「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」

別紙記載の戦斗協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦斗協力内容が消極的に失すると審査課より返却されたので、死亡者は要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項欄記載の如きこともあったものと推定されるのでその旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような、積極的な戦斗協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認証明欄の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います

厚生省から琉球政府側への「指導」も1959年ごろまでは、「積極的な戦闘協力」などと曖昧な指導をしているが、沖縄住民の援護金申請は全て受理してあげたい、という善意が働き、厚生省の「指導文書」も1962年になると、以前に比べてあからさまな「軍命捏造」の指導が目立ってくる。

その例がこの文書だ。

 ■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)

「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から⇒琉球政府へ

≪「要調査事項」昭和20年5月10日食糧を求めるため部隊に行ったのは、軍命令か 申請書の記述ではその点が不明であるから解明されたい

と軍命の有無を重視するよう明確というよりアカラサマに指導している。

さらに具体的に個々の「戦闘協力者」を、「軍命による」と記入するように、その時の状況に至るまで「指導」した例が、次の例である。

これは現在のお役所の常識から考えれば、「越権行為」といわれても仕方がない「指導」である。

 

「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧 

当時50歳の県庁職員についての「指導」

≪壕生活の指導並びに避難誘導のため摩文仁村に派遣されたが、摩文仁村摩文仁で避難誘導任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認め難いとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか。 例えば軍命により弾薬運搬又は食糧の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉職というが、公務の内容はなにか軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか・・
などと具体的に書き換えの仕方を指導している。

 
当時9歳の学童についての「指導」

≪艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他の避難場所を探している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した
という表現パターンで、書き換えが行われている。

 ■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」

認定保留者=座間味村 明治9年生まれ、昭和20年3月28日「隊長命令による自決」という内容で戦闘参加者として認定されている。   

>「隊長命令による自決」

ここで座間味村の隊長は梅澤裕氏と指名されたことになり、後に反日左翼勢力が「残虐な日本軍」と主張する根拠となる。

 

■1966年「援護関係表彰綴」

宮村幸延座間味村総務課長の功績調書

宮村幸延座間味村総務課長は、1957年8月、慶良間戦に於ける集団自決補償のため上京 1963年10月集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定と記されている。

宮村幸延氏は、連載の第6回目に登場するが、沖縄側は琉球政府社会局援護課のみならず、援護金申請書の直接の窓口である座間味村の援護係の宮村氏が直接上京し、厚生省と掛け合って援護金受給に大きな功績を成し遂げている。座間味村役所には宮村氏の「功績を讃える表彰状があるという。 幸延氏は梅沢氏に「侘び状」を書いた事で、とんだ騒動に巻き込まれることになる。その顛末は連載第6回をご期待下さい。

 国(厚生省)、琉球政府援護課、各市町村の援護係そして遺族会のメンバーの4者が一致協力し、祖国防衛の戦ため、軍人・軍属に負けずとも劣らない戦いをした沖縄の民間人に対する援護金支給の努力をしたのである。

その結果、1981年には6歳未満への援護法の適応が認められることになる。

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