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「集団自決訴訟」では、思想的に反対の位置に立つグループがお互いに「歴史を捻じ曲げてはいけない」と批判しあっている。
沖縄では事実とは異なる作り話が、
あたかも真実のように語られる。
「平和を愛する琉球王国時代には殺人を意味する言葉は存在せず、戦争を好まない琉球には武器はなかった」
「命どぅ宝のように平和を象徴することわざが多い」
とりあえず、ざっと思いつくだけでもこの通りだが、いずれも真っ赤ななウソである。
「むかーし、むかーしの物語」として「日本昔話」のように語られるのなら罪もないが、
これが歴史事実としてイデオロギー塗れの太田昌秀元知事のような「識者」の口を通して、反日活動に利用されるとあっては、
「沖縄昔話」として看過するわけにいかない。
⇒反戦平和ではメシは食えぬ 「命どぅ宝」では生きてはいけぬ!
何事にも例外はあるので、特殊な一部の人は除くが、世に平和を望まない人はいない。
言葉を変えれば、誰も自分の息子を戦場に送りたくないし、
誰も「教え子を戦場に送りたくない」。(日教組のスローガン)
ところが自分の都合のいいモノに「平和」の文字を冠して議論する勢力がいる。
あたかも対立するグループは「好戦勢力」であるかのように。
いわく「平和団体」「平和運動」「平和憲法」・・・・。
⇒沖縄・修学旅行における「平和教育」
最近では「平和」は、むしろそれを冠する団体や集会はうさんくさいと思うようになっている。
今朝の沖縄タイムスにも「沖縄の格言には平和を象徴するものが多い」といった記事があったようだが・・・。
一面の写真入見出しは次の通り。
平和の格言 脈々
市民劇「白銀堂」熱演
一年前のメイル・マガジン「頂門の一針」が平和運動「家」に必殺一針の批判をしています。
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平和運動「家」がいる
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渡部亮次郎
まさかあるまいと思いながら引いたたら、あった、「平和運動」(広辞苑=岩波書店)。「戦争に反対し平和を擁護することを目標とした組織的大衆運動」とある。
子供の頃から、これを不思議に思っていた。戦争になることに反対しない人がいるだろうか、擁護すれば平和は守られるのだろうか。
武器や軍需物資を製造・販売しているごく一部の人は別にして、なんとか戦争にならないように願う事は人類共通だろう。
1954年に大学みたいなものに入って驚いた。教授の中に「平運動家」と呼ばれて嬉々としている人物がいた事である。平和は運動れば求められて、しかも「家」とつく職業になるのか。
戦争が無ければ平和、とは限るまい。現在、日中間に戦争は無いが、中国の日本に対する内政干渉の甚々だしさはとても平和状態とはいえないだろう。核を所持していればとっくに戦争になっていること間違いない。
核のない自衛隊では、まず軍ではないし、無能力男性に等しいから頭から馬鹿にされていても切歯扼腕するだけ。こういう状態を広辞苑ですら「舐められる」「みくびられる」状態と教えている。
それでも怒るな、我慢せよ、戦争を考えるなと運動する事が平和運動と言うなら、それは平和運動ではなく、我慢比べ修養団に過ぎない。
1945年8月15日に「大東亜戦争」が日本の無条件降伏に終わって停電や「灯火管制」が無くなり、戦争放棄の新しい憲法が制定された。日本のイン・ポテンツ化が図られた。戦争をしようにもできない国民と国を作ろうとする米国の陰謀だった。
このことは西 鋭夫著『国破れてマッカーサー』(中公文庫)に詳しい。本当はアメリカに2度と歯向かわない日本を作っただけだが、その後60年も経済的に繁栄したので、マッカーサー憲法さえあれば繁栄すると勘違いしてしまった日本人。
日本共産党や社民党は「憲法を守れば平和が守れる」と倒錯した主張をするようになった。憲法を守れば平和になるのではなく、平和だから憲法を守れるのだと言う事に気が付いてない。
日本では核兵器の廃絶を訴える平和運動である反核運動がある。初めは安井郁(かおる)法政大学教授の指導で統一されていたが、運動を支援していた複数の政党・団体(主体は日本社会党(当時)と日本共産党)の政治的対立から、運動そのものが分裂してしまって、現在に至っている。
苦い経験だと指摘する向きがあるが、これこそ平和がイデオロギーによって目標も手段も異なる事を物語る。とすれば平和追求とは実に多面的なものであり、或る時は無意味に見えるときがあっても致し方ない。
「ウィキペディア」の「平和運動」についての筆者はそこのところをちゃんと書いている。
<平和運動は反共産主義運動の一部でもあり得るし、階級闘争の一環でもあり得る。ただ、現実には後者であるケースが歴史的に多い。
このように平和運動の概念自体が曖昧である為、完全に公正中立な平和運動はなかなか存在しにくいものである。
平和運動への批判あるいは懐疑
戦争とはさまざまな政治的、経済的、民族的な要因などが複雑に関係するので、軍事力の行使に反対するだけの現状維持的な主張の平和運動では本質的な紛争の原因(政治的対立、軍閥の台頭、飢餓、社会的差別、領土問題、民族的対立など)の解決にはならないという考えもある。
また戦争はその目的、内容は極めて多様であるので、その全てを単純に非難することは政治的な戦略や安全保障という面から考えても一方的であると言える。
また後述のように政治的に利用される可能性も心理戦という側面において多大にあり、軍事戦略の一環としても行われうることがあるため、平和運動には博愛主義的な精神論だけではなく、その運動の本質的な効果を考えた社会学的な見地が求められる。
平和運動に対する典型的な批判として、「平和運動の従事者は、軍事・戦争に疎い者が多い」という指摘がある。
これに対する典型的な反論として、「軍事(軍隊)とは我々平和主義者の敵であり、従って我々が軍事に精通する必要はない。従って、われわれ平和運動家には軍事知識など不要であり、平和運動に従事するものは軍事に疎くて構わない。」との主張がみられる。
この主張は一見もっとものように聞こえるが、これはすなわち、中途半端な知識に基づいた批判しか行わないということであり、そのような批判は説得力が無いのは明らかである。
譬えて言うならば受験において、自分の受験校の過去問演習や問題傾向の分析などをせずに入試本番に挑むようなものである。
平和運動の従事者、特に左翼過激派には理論的な話が通じない(平和主義はもちろん大事な考え方だが、平和運動従事者たちは盲目的に平和を主張していることが多いため)・主張に矛盾があることが多い。
自衛隊が起こす行動に過敏に反応し、すぐに「戦争につながる」とデモ行進・運動を起こす。
批判の槍玉に上がるのは大抵、自衛隊とアメリカ軍、空対空ミサイルなどを製造する三菱重工で、中国軍や韓国軍、およびそれらによる日本の領土の侵犯はほとんど批判しない。
平和という思想は前述のように非常に幅広い考えを包括する表現なので、さまざまな宣伝スローガンや商業活動にも利用されているが、戦後以降の反戦運動は特定団体・政党の勢力拡大のための隠れ蓑に成り下がっているという批判がある。
けだし市民を対象にした反戦の拡大が国の正当な外交手段としての安全保障活動を制約するために、ともすれば政権を窮地に追い込み利敵行為をもたらす口実に利用されているという懸念である。
とりわけ冷戦崩壊後の旧ソビエト共産党公文書公開で国際的なベトナム反戦運動にソ連の資金援助及び人的援助が投入されていた内実が判明したため、かつての共産主義思想の人脈を受け継いだ反米・反日的な政党・団体の反戦活動を注視すべきだとしている。
1950~60年代のアメリカ中央情報局も同様に世界各地で日本の自由民主党をはじめとする親米政権や反共組織の活動を支援してはいるが、平和運動という概念上いわゆる「工作」と同列に論じるべきものではない。
また、「平和運動」を統率する団体の多くは左翼過激派に関っている場合が少なくない。また沖縄県において米軍基地の使用阻止のために呼びかけられた反戦一坪地主に本土から参加した活動家が多くいることも指摘されたことがある。>(メイル・マガジン「頂門の一針」 2007・11・29)
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