狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

9・11沖縄県知事選、

2022-08-18 08:32:39 | 政治
 

 

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9月11日投開票の県知事選で、保守を自認する下地幹朗氏の立候補により、保守分裂で、デニ現知事に「トンビに油揚げ」で、追い風が吹いた感があった。

ところが下地氏の曖昧政策により、デニー知事の支持母体であるオール沖縄の辺野古反対を奪う可能性が浮上してきた。

沖縄タイムス紙面掲載記事

解説][知事選9.11]経済や子ども政策 重視 新基地反対と両立図る 玉城氏政策発表

2022年8月18日 05:00有料

 9月11日投開票の知事選に向け、「オール沖縄」勢力の支援を受けて再選を目指す玉城デニー氏は17日、政策を発表した。真っ先に訴えたのは、新型コロナウイルスで打撃を受けた県経済の再生と子どもや若年層を意識した政策だった。旗印である名護市辺野古の新基地建設反対よりも先に打ち出したのは、コロナ禍で落ち込んだ経済や暮らしの対策を重視したからだ。(知事選取材班・山城響)=1面参照

 経済再生、子ども政策、新基地建設反対を3本柱に据え、「全てが一丁目一番地の重要な課題」とし、バランスを取った政策だ。

 玉城氏が2018年に知事へ就任して以降、入域観光客が1千万人を超えるなど好調に推移していた県経済は新型コロナの影響で一変した。2期目の「推進施策」に掲げたのは110項目。分野ごとの内訳は経済49、生活41、平和20で構成される。県民が安全安心に暮らすための施策に力点を置くのは行政のトップとして当然の判断だろう。最新の県民意識調査で基地よりも経済を重視する結果を意識したことも背景にある。

 19年の県民投票や7月の参院選の結果からも「新基地反対」の民意はいまだに根強い。政策発表では「これから先、50年、100年もの間、子や孫の世代に基地被害を押し付けるわけにはいかない」として、新基地建設の阻止については「可能だと断言したい」と強調した。

 一方で、手法については「あらゆる手だてを講じる」との表現にとどまった。具体的な道筋は示し切れていないのが現状でもある。国との対話についても「辺野古や基地問題に関する対話のチャンスはなかなか得られていない」と歯がゆさも吐露する。新基地建設を巡って、県は12日に国を相手に新たな訴訟を提起した。敗訴が続く中、実効性のある政策提示は不可欠だ。

(写図説明)玉城デニー氏の主要政策(要旨)

                ★

>旗印である名護市辺野古の新基地建設反対よりも先に打ち出したのは、コロナ禍で落ち込んだ経済や暮らしの対策を重視したからだ。

辺野古移設で歯国の方針に反対で、経済落ち込みでは国に金をくれ。

これではもう通用しない。

デニー知事は、次の2点だけでも既に「オール沖縄」の支持層からもノーを突き付けられたいる。

①「新基地建設反対」という大嘘⇒正しくは普天間基地の辺野古への移設(既存基地内への縮小統合)

②辺野古移設反対は国の専権事項である安全保障問題であり、知事としては越権行為

7月の参院選の結果からも「新基地反対」の民意はいまだに根強い

むしろ、逆である。

前回の参院選では参政党の立候補で保守票を奪われたが、今回は立候補しないので、支持票の食い合いは「デニーvs下地」で、追い風を受けるの佐喜眞候補。

佐喜眞当選は明らか。

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狼魔人流・沖縄語講座  「グスメー」?2006-09-27

2022-08-18 00:29:56 | 沖縄語講座
 

 

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古い記事にアクセスが増えたとき、再掲して新しい読者にも紹介している。

今日の再掲はこれ。

狼魔人流・沖縄語講座  「グスメー」?2006-09-27

「コーラは25セントだね」

「ネコは5セント?」」

「ライムは10セントだよね」

「このカレー、グスメー」

沖縄が米軍占領下だった頃のオジー、オバーの会話である。

当時はアメリカドルが通貨だったので単位がセントなのは理解できる。

だが当時にしてもコーラが25セントと言うのは高すぎるし、ネコの五倍もするのもおかしい。

「ライムが10セント」にいたっては意味不明だろう。

それに「グスメー」とは何だ。


初めて英語に接する時、平均的日本人は学校の教科書で目を通して学ぶ。

だが米軍占領下の沖縄のオジー、オバーは目でなく、耳を通して英語を学んだ。

そして米人達は25セントのことを「コーラ」と呼ぶことも耳で学んだ。

目で英語に接した人は【quarter 】のことを「クウォーター」と発音するだろうがこれでは米人達には通じない。

目で覚えた悲しさだ。  やはり耳で覚えた「コーラ」が正しい。

それで「ネコ」は?

そう、これも目で覚えた人には理解不能だろう。

オジー、オバーは米人達が5セントのことを「ネコ」と呼ぶことも耳学問で知った。

【nickel】はどうしても「ニッケル」になってしまうが、やはり「ネコ」と発音しなけりゃ通用しない。

 「ニコ」と言わずに「ネコ」と言うところがいかにもそれらしい。

「ライム」は?  沖縄の年よりはダ行とラ行の発音をよく取り違える。

少なくとも「テン・セント」よりこの方がカッコいい。

で、グスメーとは❔

そうです、good  smell です。

沖縄語の構造・文法は日本語で古語が残っていると前にも書いたが、その言葉の幹に中国風の単語が加わり更に米語の発音が加わる。

「コーラ」や「ネコ」とは、チャンプルー文化の面目躍如と言ったとこ。

突然話題が変わるが、イカの胴に炊き込みご飯を詰めた「イカ飯」がデパートの物産展等によく出る。 函館の名物だと言う。

ところで「蛸飯」が沖縄の名物と言ったら首を傾げる人がいるだろう。

「イカ飯」は食べたことがあっても沖縄で「蛸飯」なんて食べたことない。

その秘密はアメリカ、メキシコを結ぶ沖縄のチャンプルー文化にある。

自国の料理に自信のないアメリカ人はメキシコ料理を好んで食べる。

その影響で沖縄でもメキシコ料理が普及した。

中でもタコスが好まれた。  そのタコスの皮の代わりにご飯にしたのが、沖縄名物の蛸飯、・・・じゃなく、タコライス。 沖縄のレストランはもちろんレトルトパック入りの沖縄土産にもなっている。

他にも奇妙な名前の異文化の食べ物がある。

今ではあまり見られなくなったが、米人の出入りするレストランで「チリコンカン」とカタカナで書かれたメニューをよく見た。

アメリカ人も、沖縄人もそのままの発音で通じていた。

アメリカ人が好むメキシコ風の料理で、豆と牛肉を独特の風味で煮込んだものをチリコンカンと言うらしかった。

この奇妙にして発音しやすい言葉は何語かと調べて見たがよく分からない。

当時琉球大学でスペイン語の教授をしていた知人に聞いてもそんなスペイン語は聞いたことがないと言う。

ある店で見たメニューですべての謎が一瞬にして氷解した。

メニューにはカタカナのチリコンカンの他に【chile con carne】と併記されていた。

チリはchile sauceのチリで、コンは英語のwithをスペイン語でconと言うからチリコンまではわかる。

だが、カンは?  そう、carne(牛肉)はスペイン語でカルネと発音するが、英語式ではカーンと発音する。

これを、聞いた沖縄のオジー、オバーは 「チリコンカン」と理解した。

珍にして妙なるネーミングだ。

タコライスもチリコンカンもチャンプルー文化の産物である。


【蛇足】
chili
  【植】チリトウガラシの一種; チリのさや(の粉末)香辛料

chili sauce
  チリソースチリ, 酢, 砂糖, タマネギをトマトソースで煮つめたもの.

chili con carne
《メキシコ料理》チリコンカルネ
 牛ひき肉, 豆をチリで味つけしたメキシコ風シチューの一種.
 スペイン語でチリコンカルネと発音する。

taco
  タコス:メキシコ料理でトウモロコシ粉のパンケーキに肉・野菜をはさんだもの.
  複数形でタコス

Taco-Rice→タコライス
 タコスの具である挽肉・チーズ・レタス・トマトを米飯の上に載せた料理。
 辛みをつけたタコスソースを乗せて食べる。
 米軍占領下の沖縄チャンプルー文化の産物。沖縄では学校給食に採用され、今では沖縄名物料理とさえ言われている。

quarter
25セント硬貨。

dime
10セント硬貨。

nickel
5セント硬貨。

 

※沖縄語に興味のある方は、カテゴリー沖縄語講座(29)

をご参照ください。

 

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★大田昌秀の正体、 「二人の『少女』の物語」の大嘘   

2022-08-17 04:36:29 | ★原稿
 

 

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橋下徹氏が甦らせた「白旗・赤旗論」

2022-08-16 07:40:00 | 政治

橋下徹氏が甦らせた「白旗・赤旗論」

長い江戸時代のおわり
朝日新聞の特集した豊永郁子氏の「白旗論」は目新しい話ではない。この元祖はは、40年以上前に森嶋通夫の主張した「白旗・赤旗」論である。われわれの新著『長い江戸時代のおわり』の第6章から、これに関する議論を紹介しておこう。

池田  平和ボケの戦後第一世代からはずっと下なのに、ウクライナ戦争でトンチンカンなことを言って炎上したのは橋下徹さんです。大阪で政治家をやって日本維新の会を作ったころは、むしろ護憲派を批判するリアリストとして振る舞っていたのに、今回は「戦争で民間人が犠牲になるのはよくないから、ウクライナは降伏した方がいい」とか「戦争しないで『政治的妥結』すべきだ」などとTVやツイッターで繰り返しました。

ところが多くの人に批判されたら主張を180度急変させて、「ウクライナに『戦え』と言うなら、NATOは自ら参戦しろ」とか「政治家を民間人の人質と交換しろ」とか言い出す。支離滅裂で、何がいいたいのかわからない。

與那覇 私は今回の言動のおかげで、逆に橋下さんに一貫性を見出せるようになりました(笑)。最初は無抵抗主義の超ハト派で、途中から核戦争も辞さない超タカ派になったわけですが、これは「俺に後ろめたい思いをさせんなよ!」というメッセージでは一貫していると思うんですよ。

毎日ニュースで戦場となったウクライナの映像が飛び込んできても、なにもできない私たちとしてはただ後ろめたさを感じるしかない。そうした罪責感を消す方法の一つが、ウクライナが降伏して戦争が終わってくれること。もう一つが自分たちも直接参戦して当事者になり、「他の人に不条理を押しつけてはいませんよ」というポジションを獲得すること。その点ではハト・タカの垣根を超えて、彼が提示した二つの選択肢は一致しているわけです。

橋下さんはかつて、政策の面でも日本には珍しい「新自由主義」の政治家でしたが、多くの日本人が「新自由主義的」と見なして嫌っているのは、むしろそうしたエートスの方だと思うんですよね。とにかく自分が後ろめたく感じるのが嫌で、だからあらゆる詭弁や罵詈雑言を駆使して「俺は完璧に正しく、なにひとつ悪くない!」と強弁する。困窮している人を見たら「どうせ自己責任だ」、自分を批判する意見に対しては「利権で言ってるだけだろ」みたいな。

池田  彼に一貫性があるかどうかは疑問だけど、伝統的な左翼の護憲派とは違うという一方で、自民党の右派とも違うという差別化を考えてるんじゃないですか。かつて仲のよかった百田尚樹さんとか有本香さんのようなネトウヨとも決別してしまった。今度の選挙で野党第一党になるかもしれない維新がどういう立ち位置で戦うかを、彼なりに考えていたと思うんです。

ところが悲しいかな、外交・防衛についてはまるで予備知識がないものだから、テレビで行き当たりばったりに「そこは違う」などとコメントしているうちに、右でも左でも真ん中でもない、訳のわからない話になってしまった。日本維新の会の党としての見解は常識的なものですが、多くの人が橋下さんの意見を維新の方針だと思って、コアなファンが離れてしまった。これは維新としては大きな損失だと思います。

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沖縄タイムス・新川明が捏造した「白旗の少女」、捏造された卑劣な日本兵

2022-08-16 06:23:03 | 政治

沖縄タイムス・新川明が捏造した「白旗の少女」、捏造された卑劣な日本兵

2021-06-29 10:30:57 | ★改定版集団自決

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沖縄戦の再検証のため過去ブログ新川明と白旗の少女 捏造された一フィート運動2009-08-12 を編集・再掲します。

                ★

『うらそえ文藝』の集団自決特集の対談で、「一フィート運動」の創始者である上原正稔氏が「沖縄タイムス恐喝事件」を暴露したことが話題になった。

当時富村順一氏の恐喝に50万円を脅し取られた沖縄タイムス編集局長新川明氏(後に社長)は、定年退社後も極左評論家として健筆を振るっている。当日記には何度も登場した沖縄タイムスOBである。

新川明

新川明氏は、一人の論者を集団で袋叩きにする「沖縄イニシアティブ方式」という言論封殺方式の主導者として当日記に登場している。

実は小林よしのり氏もこの言論封殺の犠牲者である。
 
ことの発端はこうだ。
 
沖縄の作家目取真氏が琉球新報で小林氏を批判というより、罵倒した。
 
それに反論した小林氏が犠牲になった。
 
体のいい言論封殺だ。
 
目取真氏が「沖縄版・言論封殺魔」といわれる所以である。
 
ことの詳細は雑誌『WILL』増刊号に「これが沖縄の言論封殺だ」というタイトルで、筆者(狼魔人)が寄稿してあるので読んで欲しい。 『WILL』の記事は、ここで読める。⇒罠にかかった小林よしのり 護送船団方式の沖縄論壇
 
そして、新川明氏の当日記へのもう一度の登場は「一フィート運動」の記録フィルムを歪曲する卑劣な絵本作家としてである。

新川明氏は、米軍が写したフィルムの中に、偶々写っていた白旗を持つ少女の映像を発見し、絵本という形で子供たちに「悪逆非道な日本兵」を教え込む平和教育教材を作った。

これに関しては当日記で過去に再三エントリーしたが、今でも一日に100件近くアクセスのある人気エントリーである。

ちなみに「1フィート運動」は左翼集団に乗っ取られイデオロギー化したため、創始者の上原正稔氏は現在これに関わってはいない。

以下は白旗の少女の神話ー改定版を編集した再掲です。

                   ◇

 

「白旗の少女」や長寿の秘密 高校英語教科書に“沖縄” 

 

米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの姿は見るもの胸を打つ。

中でも特に有名な二枚の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。

その写真の一枚が白旗の少女として知られ、もう一枚は「うつろな目の少女」として後に有名になる写真である。

うつろな目の少女が、実は女装した男の子であったということを知る人は少ない。⇒「うつろな目の少女」の秘密!

  

白旗の少女とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女のことで、大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場。

「1一フィート運動」の成果である1986年公開の米軍撮影記録フィルムの中の少女の笑顔が県民の印象に残った。

少女は当時7歳の比嘉富子さんであった。

手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)

後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影した。

以後白旗の少女の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。

白旗の少女の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。

新川明が白旗の少女を捏造ー卑劣な日本兵を創作

白旗の少女が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。

 白旗の少女が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。

読者が衝撃を受けたのは、「平和教育」のため、歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿である。

米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは異存はない。

だが、事実を捻じ曲げ日本兵貶めるとなると話は別だ。

記録写真を見た「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される典型的例が「白旗の少女」だ。

新川明著『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)で、少女は日本兵と住民が雑居する壕にもぐりこむが、壕を取り囲む米軍に投降勧告をされ、誰が最初に壕をでるかで日本兵達が醜く言い争う。

そのクライマックス・シーンで次のようなくだりがある。

 兵隊たちがいいあらそいをはじめました。

「おとなしく出れば殺さないはずだよ」

「では、だれがさいしょに出るのか」

「こういうときは、兵隊さんがさきだよ」

ほかの人たちもいいあらそっています。

「あなたたちは、そんなに死ぬのがこわいのか!」

りゅう子をガマに入れまいとした女の人が叫び出すと

隊長はあわてて雑のう(ものをいれるもの)から白い布をとりだしていいました。

「ためしに子どもをさきに出してみよう!」

ゆっくりと目をあけると

すきとおるひかりのむこうに

アメリカ兵のすがたがみえました。

戦車のかげで鉄砲をかまえたまま

白い歯をみせてわらっています。

 

ふりかえると、日本兵たちが

両手をあげてついてきました。

おじいさんや女の人も

よろよろとつづいていました。

そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。

 

同書の「あとがき」には次のように書かれている。

 
  <さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
 本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。
 >
 
<私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
 はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、モンぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
 さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
 

日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は、元沖縄タイムス社長で、沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリスト。

また、版画絵を担当した儀間比呂志氏は、沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は読者に大きなインパクトを与えた。

絵本が糾弾するのは、白旗を持った少女を盾に米兵に命乞いする日本兵の卑劣な姿であった。

■実際はどうであったのかー比嘉富子さんの証言

記録映画版の映像で動画を見ると、虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振ったという印象である。

それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人(防衛隊という民間人の可能性も)のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する少女を盾にした卑劣な日本兵という雰囲気は画面からは読み取れない。

 


1985年、新川明氏が創作した『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。

比嘉さんは当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していたと記されている。

そして比嘉さんが、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。

・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません
。(204、205頁)>

比嘉富子さん、よくぞ無事で生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、どうなっていたか。

「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に沖縄戦の歴史に刻まれていた語であろう。

ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。

だが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が沖縄戦史に刻まれていたであろう。

記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。

だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。

では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

否、そうではない。

相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、全県の図書館で読むことが出来る。 そして子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。

デタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

「りゅう子の白い旗」の書評

●沖縄タイムスの書評(1988年6月22日)=「琉子」は沖縄戦を描いた絵本「りゅう子の白い旗」を映画化したもの。主人公・琉子の体験を通して、日本軍の住民に対する残虐な行為など戦争の悲惨な実態を描いたもの。対照的に沖縄の自然や情景を織り交ぜた美しい映像で、命の尊さを訴えている

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「援護法の解釈」厚生省に引き継がれた「特別のご高配」

2022-08-15 08:40:46 | ●●沖縄の黒歴史
 
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大弦小弦

[大弦小弦]「島守の塔」を見る

2022年8月15日 07:21

 公人を評価する軸は、業績か人柄か。公開中の映画「島守の塔」は、そんな問いを生む。沖縄戦に協力した島田叡知事と荒井退造警察部長の苦渋を描く

 ▼北部疎開という棄民政策を進め、学徒を戦場に送った2人の内務官僚は人格者だった。同様に、日本軍の牛島満司令官も「温厚篤実」と評された。では、牛島を「いい人」とたたえる映画は成立するか。人柄は責任を洗い流さない

 ▼映画化は荒井の地元栃木県の下野新聞社と、島田の地元兵庫県の神戸新聞社が呼びかけた。2人は郷土で「偉人」とも呼ばれる

 ▼製作委員会には沖縄タイムス社と琉球新報社も参加した。作品は沖縄の人々が身をもって知った「軍隊は住民を守らない」事実も伝えるが、全体の基調は「戦場に咲いたヒューマニズム」。結果、日本の加害、沖縄の被害という構図はぼやけた

 ▼監督は「沖縄戦を知るきっかけに」と話す。学ぶ目的を、考えてみる。お年寄りが、身を削るように体験を語ってくれた理由を。それは次の戦争を止めるためではなかったか。止めるためには、惨劇が起きた原因の解明が欠かせない

 ▼劇中、うそだらけの新聞発行を終えた記者が言う。「次に新聞を作る時は、戦争の事を、何が起きたかを、本当の事を、報道したい」。負の系譜の末端に連なる者として、責任のありかを問い続ける。阿部岳

 

GHQの東京裁判史観にからめとられた沖縄タイムスは、『鉄の暴風』が説く「残虐非道なに日本軍」というイデオロギーを脱皮できず、現在でも日本軍極悪説を主張し続けている。

中国の工作員と噂の高い阿部岳記者は、『鉄の暴風』の初版の「まえがき」に記載された「人道的な米軍」を今でも信じているのだろうか。

以下過去ブログの再掲です。

改訂版・沖縄戦、厚生省に引き継がれた「特別のご高配」(援護法の解釈)2019-08-23

沖縄の学童疎開船・対馬丸が米軍の魚雷を受け撃沈。8月22日で75周年になる。

今日23日の沖タイは一面トップを含む合計三面を使って大発狂である。

■一面トップ

対馬丸 鎮魂の祈り

撃沈75周年 慰霊祭に550人

■第二社会面トップ

幼い兄に平和誓う

島袋さん、自ら遺影を掲示

■社会面トップ

75年 癒えぬ悲しみ

「戦いは絶対許せない」

対馬丸慰霊祭 生存者ら継承誓う

沖縄戦対馬丸撃沈の記憶の継承という建前に異論はない。

だが、沖縄メディアが沖縄戦を語るとき、他県には見られない特徴がある。

あたかも沖縄戦は日本軍と沖縄住民の戦いだったかのような論調で「残虐非道な日本軍」を執拗に告発するのだ。

対馬丸を撃沈したのは米軍の潜水艦であり、日本軍ではない。

明らかに米軍による民間人虐殺だ。 沖縄タイムス編著『鉄の暴風』が説く「人道的米軍」とは対極のジェノサイドだ。

しかし、沖縄2紙が「対馬丸」を報じるときは加害者はあたかも日本軍であるかのような印象報道をする。

曰く「食糧難の当時、口減らしのため学童を強制疎開させた、そのため多くの犠牲者が出た」という印象操作だ。

「石油の一滴は血の一滴」と言われた石油不足の戦時中、戦火を避けるための疎開を悪意に満ちた歪曲報道で県民を煽るのが沖縄2紙の常道だ。

その一方で敵の米軍は、沖縄住民を解放するため沖縄戦に臨んだという印象報道。

沖縄国際大学名誉教授 石原昌家氏t

 沖縄の地上戦突入前、学童疎開は老幼婦女子の避難というより、(1)戦闘の邪魔にならないようにする(2)食料確保のための口減らし(3)明確に示されていないが次の戦闘員確保-という軍事的な戦略として行われた。背景に1937年、日中戦争の本格化の中で改正された軍機保護法がある

 

■援護法と歴史捏造

沖縄戦の真実を追究するといつも行く手に立ちふさがる大きな壁に行き当たる。

「援護法」のことだ。

本来軍人・軍属にしか適用できない同法を当時の厚生省が「拡大解釈」で無理やり沖縄の民間人に適用した。

その善意が逆に「残虐非道な日本軍」と言う神話を捏造した。 軍の命令による民間人の戦争被害は準軍属扱いで同法の適用可としたのだ。 「壕を追い出した」のも日本軍の命令であり、「食糧強奪」も日本軍の命令と政府は「指導」した。

その結果沖縄だけは民間人も援護法の適用を受けるという恩恵に浴した。 

「沖縄県民かく戦えり」で知られる大田海軍司令官が、「県民に対し後世特別のご高配を」と結んだ長い電文は沖縄県民の奮闘をを知る故に、沖縄に対する深い敬愛や同情もあってのことと思われる。

沖縄戦史が歪曲・捏造された原因が「援護法」の「拡大解釈」にあることは、少しでも援護法と沖縄戦の関係を知るものにとってはよく知られた事実である。

「援護法と歴史捏造」について触れた過去記事から選んで引用する。

           ★

「援護法」と「特段の配慮」のカラクリ

2008-06-06

 63年前の昭和20年6月6日。

大田実海軍少将は、沖縄県南部の海軍濠から長文の電文を海軍省に送った。

そして、その最後を次のように結んだ。

「太田中将 電文」の画像検索結果

<沖縄県民斯く戦えり。

県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。>

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手の多田武雄海軍次官は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して打電後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 

これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍であることは間違いのない事実。

ところが何故か、戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の艦砲射撃で県民を爆撃した下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住民を日本人から分断する占領方針から、沖縄住民には「優しく」対応するように努めていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、年寄りや子供に手を差し伸べる優しい米兵の顔だけしか見ていない。

艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさせ、住民を無差別殺戮し、学童輸送船を撃沈させた米兵のもう一つの酷薄な顔を見ていないのだ。

一方、沖縄県民を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態を晒した敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵、と言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍。

「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

参考⇒県民かく戦えり! 大田実少将の遺言

                  *

「沖縄戦 援護法 集団自決」の画像検索結果

 

■厚生省に引き継がれた「特別のご高配」

大田少将の電文の遺言ともいえる「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」は、厚生省に引き継がれ、

「沖縄の特殊事情」或いは、「沖縄に特段の配慮を」

と形を変えて戦後の沖縄のいろんな場面に登場する。

意味は全く違うが、最近でもこんな例もある。

「沖縄に特段の配慮」 唯一県名挙げる 国民保護方針(2005.3.27)

                      ◇

■「特段の配慮」による「援護法」の民間適用■

大田少将の遺言は、厚生省の本来軍人対象の「援護法」を沖縄住民へ適用するという形で姿をあらわす。

日本政府は「1952年(昭和27年)6月、米軍占領下の沖縄に政府出先機関である南方連絡事務所を設置する。 今でいえば沖縄開発庁の先駆けのようのものである。

そして教職員組合と遺族会の強力な後押しによって、琉球政府でも翌53年4月に援護課を設け、援護法と恩給法に基づく復員処理事務に着手することになる。 

54年には琉球政府職員照屋昇雄さんが援護課に異動配属となっている。

慶良間島の「集団自決」に関しても、村役場の総務課が地元の窓口となり、総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走する。

「援護法」は講和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。

■「軍命」の持つ意味の変化■

「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。

「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、

それまでの「軍命」は、「援護法」のための口裏あわせというより、親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や贖罪意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。

つまり生き残った者が、死んだ相手や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。

少なくとも、当時の座間味村助役の山城安次郎氏が、「渡嘉敷島の赤松の暴状」を訴えて沖縄タイムス大田記者の取材を受けた昭和25年前後には、

「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。

ところが、琉球政府援護課や村役場の担当課が、厚生省援護課と交渉していく過程で「集団自決」の「軍命」は別の意味を持つようになる。

元来「援護法」は「復員処理」の目的があり、対象者は戦地での戦死者か外地からの引揚げ者で、しかも対象は軍人・軍属と限られていた。

そこで琉球政府援護課と村役場が、地上戦が行われ戦場となった沖縄に「特別の配慮」をするようにとの運動を展開する。

だがこれには問題が生じてきた。

たとえば、本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならず、沖縄の一般住民に「特別の配慮」をした場合の齟齬が問題になったのだ。

日本政府は「政令」を連発するという非常手段でこれを乗り切った。

政令とは、行政府の命令のひとつで内閣が制定する成文法のことで、行政機関が制定する成文法である命令の中では優劣関係で最も高い位置づけになる。

日本政府は復員事務を処理する必要から、沖縄本島を中心とする南西諸島は政令で「戦地」と認定した。

元々軍人・軍属を対象にした「援護法」を沖縄の民間人に適用させるために政令を連発したが、それでも足りない場合は「援護法」の拡大解釈を行った。

一例を挙げると、地理に不案内な軍に道案内をした場合でも、結果的にその住民が戦死しておれば、「軍命」とされ「準軍属」扱いで遺族は年金の対象になった。

軍の命令というお墨付きが付けば「集団自決」は勿論のこと、他にも「食料供出」や「漁労勤務」という名目でも「準軍属」扱いとなった。

かくして、1983年には軍の命令が理解されるとは思われない0歳児から6歳までの幼児も「準軍属」扱いとされるようになる。

 ■宮村幸延総務課長の奔走■

座間味島の助役で、事実上「集団自決」を命令したとされる宮里盛秀氏の弟で、戦後村の総務課長として「援護法」の適用に奔走した宮村幸延氏は、この0歳児以下の適用に功績があったとして村で表彰されている。

ちなみに宮村氏は梅澤元隊長に「侘び状」を書いていながら「酔わされて書いた」として前言を翻した人物である。

また、昨年の法廷尋問のわずか一ヶ月前に証言して、宮城晴美氏の考えを変えた宮平春子氏は宮里盛秀、宮村幸延両氏の妹である。

「集団自決」に「軍命があった」ということは「事実の如何」を問わず、戦後の村にとっては、どうしても押し通せねばならぬ真実を超越した、必要欠くべからざる「証言」であった。

宮平春子氏の証言「動画」
⇒ 『日本軍の強制による集団自決 はあった!』証言2.3.4

 

■本土と沖縄の齟齬■

本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならなかった。

一方、沖縄の一般住民は「特別の配慮」で援護法の対象になった。

静岡県浜松市在住の上原宏日本戦災遺族会理事長は、本土における一般戦災者に補償がない点を、

沖縄タイムスの取材に答えて次のように語っている。

[戦闘参加者とは誰か](18) 
日本戦災遺族会 
一般戦災者に補償なし 
被害の規模が実現阻む

太平洋戦争で、日本の各都市が空襲に襲われ、一般被災者約五十万人が犠牲になったとされる。その補償を求めて、一九六六年に「全国戦災死没者遺族会連合会」が結成された。七七年には「日本戦災遺族会」と名称を変更、事務局を東京都千代田区に置き、現在全国二十地域に約二千人の会員がいる。 
 理事長の上原宏さん(84)=静岡県浜松市=は、浜松市戦災遺族会の会長を務める。 
 浜松市は、多数の軍需工場や軍施設が集中していたため、米軍の空襲が反復して行われ、約三千五百人もの死者が出た。上原さんは、この空襲で女学校二年生だった妹を自宅の防空壕で亡くしている。「空襲は、非戦闘員を狙った消滅作戦だった」と憤る。 
 一般被災者の場合、戦時中は「戦時災害保護法」で、住宅焼失は三百五十円、負傷は治療全額補償がなされていた。ところが、戦後、一般被災者への補償はなされていない。日本の戦災補償は、軍人軍属を補償した援護法が軸になってきたからだ。 
 援護法は、国との雇用関係が前提。しかし、法運用の中で、対象の「軍人軍属」の枠は次第に拡大されてきた。五八年に沖縄戦の「戦闘参加者」、全国でも五九年「学徒動員」、六三年「内地勤務軍属」、六九年「防空監視隊員」など。 
 そうした流れから、上原さんは「最後に残ったのが一般戦災者だ」と強調する。「現状は、けがの状態から、障害福祉年金などを受けている。しかし、それはけが人としての補償である。戦争による同じ『死』でも、差があるのは納得いかない」 
 また、上原さんは「私は一般被災者は約八十万人とみている。空襲時の戦死だけでなく、その後に戦病死、戦傷死が続いたからだ」と指摘する。この一般被災者の被害の多さが、補償が実現しない要因でもある。 
 連合会の前身「全国戦災死没者遺族会連合会」の時代、戦災各都市での慰霊行事への国費支出、弔慰金支給を国会と自民党に要望した。しかし一般被災者への弔慰金支給は実現していない。 
 連合会が七七年に社団法人化した時に、一般戦災者の戦災実態の調査研究、慰霊行事や慰霊碑の管理などを主に掲げ、補償要求は掲げることはなかった。 
 届かない補償要求。上原さんらが、力を入れているのは、戦争体験の継承だ。自らも、満州(中国東北部)、フィリピンの従軍、マニラへ向かう途中撃沈され、仲間を失った体験を「語り部」として小学生に話してきた。「遺族は高齢化し、消えていく。私たちの体験を伝えるために、会員それぞれが語り部活動をやっている」 
 一方で、「浜松空襲で亡くなった妹のことはつらくて話せない」という。遺族が向かい合う悲しみは戦後六十年たっても、何も変わらない。「遺族は本当は、補償をしてほしい。戦後六十年の節目に、扶助と慰霊を同時にしてほしいんです」と訴える。(社会部・謝花直美)(2005年3月26日 沖縄タイムス)

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新版・続沖縄タイムスを恐喝した男!究極の「転向者」富村順一

2022-08-14 12:21:22 | ★改定版集団自決

 

過去ブログで最近アクセスが急上昇の記事を、一部編集の上再掲します。

今回はこれ。

続沖縄タイムスを恐喝した男!究極の「転向者」富村順一2009-08-11 06

なお、本稿の前編は追って再掲の予定です。

 

■究極の逆転向者ー富村順一■

沖縄タイムスは、極左作家富村順一氏の恐喝に屈して『鉄の暴風』に記載の「不都合な」記事を人目を避けるように削除し、その歴史に致命的汚点を残した。

口止め料として沖縄タイムスから50万円を脅し取った上、タイムスの願いを踏みにじって自著で「削除記事」を暴露し大儲けをした富村順一氏について今回も触れる。ちなみに沖縄タイムスの御用作家として、沖縄タイムスから複数のサヨク書籍を出版している富村氏が沖縄タイムスを恐喝した理由は『鉄の暴風』で「不明死した」と記述された座間味村の元戦隊長梅澤裕氏が生存しているという事実の口止め料だ。

現在大阪西成区に在住の元極左活動家、富村順一氏は、係争中の「集団自決裁判」には不自由な車椅子で大阪地裁まで来て、沖縄タイムスの「軍命説」を180度変更し、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。

左翼に襲われ車椅子生活に!

それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。 

富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。

富村氏は、左翼集団の暴力により、足のみならず手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。

■富村氏が極左作家になった経緯■

富村順一氏は1930年5月3日、沖縄県国頭郡本部に生をうけるが、生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。

15歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。

以後全国を放浪するがその間も犯罪を重ね、各地の刑務所の出入獄をくり返す。

1970年7月8日、「70年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。 

その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。

「日本人よ、君たちは沖縄のことに口をだすな」

「天皇は第二次世界大戦で300万人を犠牲にした責任をとれ」

「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」

結局富村は、逮捕、起訴され、懲役3年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成されり。

獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄』(富村順一著 拓植書房 1972年)として出版されることになる。

『わんがうまりあ沖縄』は、この手の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。

理由は、出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそったのだろう。

ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。

○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁~35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。

○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。

○送りガナはあえて統一しませんでした。

○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。

○原文中、「   」の部分を傍点をつけ、「    」をはずしました。

支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。

富村は、同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続けた。

沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。

富村氏の著作を拾ってみると、沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。

『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書 

沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。 

『沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。 

『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。 

『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。 

『皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。 

『最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。 

十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。

『富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。 

『もう一つのひめゆり部隊 -戦後沖縄の売春婦-』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。  

 『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。  

 『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。 

                    ◇

富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。

ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い(転載)

毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。

                   *

 
嘗て「東京タワ-事件」というのがあった。1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ-特別展望台(地上250メト-ル)のエレベ-タ-前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ-タ-で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル-テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。
 
私はこの資料を『青い海』大阪編集室で見た。編集長の津野さんから色々来と話を聞かされたが私には関心がなかった。あんなことで世の中が変わるのか、というのが正直な感想であった。大阪でも沖縄でも敬愛する先輩たちが富村裁判の応援に名前を連ねていた。
1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、
また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。

私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)
 
【おまけ】
沖縄タイムス・コラムに掲載された富村順一氏に関する記事。
1973年は沖縄返還の翌年である。
 

1973年6月22日http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tomimura.html

  沖縄タイムス  唐獅子

  意識した熱狂を

 

わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。

60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。

マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。

ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。

先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。

さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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座間味村援護係が「詫び状」/「隊長命令」申請を謝罪

2022-08-14 00:43:09 | 政治

 

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「私は辺野古移設容認だ」佐喜真氏が表明 沖縄知事選、対立軸が明確に

2022-08-13 07:29:48 | 政治

 

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辺野古移設は安全保障事案であり、国の専権事項。
 
いくらデニー氏が反対しても工事は粛々と進行しており、知事の権限で阻止することは不可能。
 
下地氏の立候補は自民党に復帰できないのを逆恨みした嫌がらせ。
今更馬毛島を持ち出しても誰も相手にしない。
 
沖縄タイムス+プラス ニュース

「私は辺野古移設容認だ」佐喜真氏が表明 沖縄知事選、対立軸が明確に

2022年8月6日 13:13

[知事選9・11]

 25日告示、9月11日投開票の沖縄県知事選で、自民党県連が擁立する前宜野湾市長の佐喜真淳氏(57)が5日、那覇市内のホテルで記者会見し、米軍普天間飛行場の早期返還を実現するために名護市辺野古移設を容認すると表明した。

 佐喜真氏は4年前の知事選に立候補した際、普天間飛行場返還を公約に掲げていたが、新基地建設の賛否には言及していなかった。選挙戦が有力3氏の争いとなる見込みの中、辺野古を巡る対立軸が明確になった。

 同日の会見で佐喜真氏は「返還合意から26年たったがいまだ実現していない。私の力で終止符を打つ」と強調。政府の移設計画については「早期返還を実現するため現在の移設計画は現実的だ。その意味で私は辺野古移設容認だ」とした。

 再選を目指す現職の玉城デニー知事(62)は6月に開いた出馬会見で、政府が進める辺野古新基地建設について「断固として認められない」と強調。普天間の県外・国外移設や返還を政府に求める姿勢を示した。玉城氏は公約でも「新たな基地は造らせない」と辺野古阻止を打ち出している。

 知事選には下地幹郎前衆院議員(60)も出馬を表明。7月の政策発表では、辺野古移設について「軟弱地盤は埋め立てない」とし、埋め立てが既に終わった区域は格納庫用地にする考えを示すなどの独自案を表明。普天間の危険性除去に向けた具体策として、鹿児島県西之表市の馬毛島への訓練移転を訴えている。(知事選取材班・又吉俊充)

                                                      ★


sas*****1時間前
非表示・報告
辺野古での新基地建設に反対するのだったらどこであったらいいのだろうか。先日、台湾海域で中国の軍事演習が大規模で行われ、ミサイルがEEZ内に5発も落下したという事実がある。実際に、台湾有事となった際に日本を守れるのは沖縄にある軍事基地である。尖閣や沖縄を守りたいのであれば、基地の建設は不可欠であって、国を相手取り訴訟を起こすというのは本末転倒なのではないかと思う。沖縄は台湾とも非常に近い位置にあり、万が一台湾有事になった場合、沖縄は一番に巻き込まれる恐れがある。その際の防衛力を持っているというのは非常に大事だと思うのだが、それでも沖縄知事さんは基地建設に反対なのだろうか。国を守るということがどういうことなのかということをもう一度冷静になって考えてほしい。


you*****13時間前
非表示・報告
最近の地方自治体の長の独裁ぶりが目立つよね。国政では野党が弱者の声を聞けとか言うが同じ党の人間が地方の首長選に勝った途端に政府に地方の事に口出しするなとばかりの強権を発動しだすのには呆れるしかない。静岡県のリニアモーターカーのトンネル掘削を認めない川勝知事もそうだが全国的な国防やリニアのような日本の国威発揚を誇るインフラ整備を一地方が邪魔できるような地方分権を全国の民意が認めれば独裁がまかり通ることになり日本の弱体化が進む悲劇でしかない。日本全体の発展や防衛に関することは国の専権事項で地方の口出しを認めない法整備をやらなければ日本は終わるよ。


くろ2時間前
非表示・報告
日本の安全保障に関して何度反対しても,沖縄県知事の権限ではどうにもならない事が明白なのに,何度も繰り返して,普天間基地の返還を遅らせるだけだ。台湾や香港の現状からすれば,尖閣だけでなく沖縄そのものが危うい状況にある。沖縄の基地配備は,決して日本本土の犠牲になっているだけではないのだ。基地の根絶を主張して知事に当選しているので,不都合な事として直視しないようにしているのだろうか。沖縄から基地が無くなれば平和が維持できるというのは,中国に対して考えが甘すぎる。もし本気で米軍基地を無くしたいなら,沖縄独立くらいの気概を持って政治活動をしてもらいたい。沖縄が独立すれば米軍基地も自衛隊基地も無くせる。ただし沖縄の独立を維持するには,中国の脅威から沖縄を守るための軍隊を,莫大な費用を掛けて独自に維持する必要になり,現在のような日本政府からの補償や優遇は受けられなくなるが。


猫編集室13時間前
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現在の周辺国の状況を考えているのだろうか?ww2の記憶で戦争アレルギーが強いのは理解出来るが何十年と言う時の流れで国際情勢は驚く程変化している。
まだ市民活動家が反対するの分かるが知事は現実的に問題に対応しなくてはならない。
結局は支持基盤の為何だろうが本当に国民、県民の為になることを考えるべき。
やっている事が韓国に似ていて場当たり的で声を大にしてれば正義みたいな姿勢に感じられる。


yo1*****2時間前
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知事選近いから、有権者にわかりやすい政策に振り切ってるのだと思う。今回の知事選も辺野古が争点になりそうだけど、いまの国際情勢、特に中国を見ると、沖縄県の総意は前回とは変わっていると思う。ただし、多くの有権者は国防についてはアレルギーがありそうだし、国と対峙する政策の方が分かりやすいかも知れないから、このスタンスを続けてるだけだと思う


res*****2時間前
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辺野古は無人地帯ではないが、普天間に比べれば遥かに安全性は高い。海に面しているわけだし。
なので、普天間よりは辺野古の方が良いだろう。本島の防衛に関しても、最近はあの国の艦船が太平洋側に抜ける事があるので、西側だけではなく東側に基地があるのもバランスは良くなる。西側は嘉手納基地からカバーし、東側は辺野古で。
しかし個人的には、あの海域のサンゴを潰すのは惜しいと思っている。
ベストな選択は、普天間を尖閣に移転する事だと思うけどね〜


veg*****11時間前
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国から出る予算は黙って受け取るが、国の決定には従わない・・・・健全な地方自治体の在り方だろうか。
仮に台湾有事が始まったら、デニー知事と基地反対派はどうやって県民を守るのか。
具体的な案を提示できるのか?
基地が無ければ攻撃されないという保障などどこにもない。
最悪の場合、県民を守るのは国であり、自衛隊である。
知事や反対派は県民を守れない。
しかも、移設反対ということは危険度の高い普天間継続ということになる。
それで良いのか。


あくあ2時間前
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米軍基地があって大変だとは思いますが、露の戦争を見る限り万が一中との争いになっても基地が無ければ攻撃されないってのは無いと思う。もちろん現地の方の言い分も間違ってはいないから難しい問題だと思う。でもやっぱり最前線が沖縄近くである以上基地が無いと守れないと思います。


audo******13時間前
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玉城知事の独裁ぶりは一県民としても目に余るもの。

いまや多くの県民がコロナ禍で仕事も収入も減り、暮らしていくのもやっとの中、莫大な予算を私権限で次から次へと反基地活動に費やしているが、任期中に玉城知事が直接県民のために費やす政策は無かったと言えよう。
県民の暮らしを見ていないのか。
働き盛りの若者達が苦しんでいる声が聞こえないのか。
沖縄県知事としてあるまじき行為だ、全く納得いかない。


wwh*****3時間前
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普天間基地周辺の住民も知事が守るべき県民ではないのか?
辺野古移転以外に住民の安全を守る方法が現実的にないのに移転に反対するなら、知事は移転とは分けて、普天間基地周辺の住民の安全対策を実現するべきだが、知事も沖縄のマスコミも全く具体策も提案もなく、反対運動には熱心だが、今ある普天間基地周辺の住民の安全には関心がないようだ。

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106億円を“溶かした男「人間って遊園地の1日券を持って生まれてくるようなものだと思うんです」 カジノで106億円失った大王製紙元会長が“絶望しなかった”ワケ

2022-08-12 11:30:04 | 経済

 

 

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「人間って遊園地の1日券を持って生まれてくるようなものだと思うんです」 カジノで106億円失った大王製紙元会長が“絶望しなかった”ワケ

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文春オンライン
 

「人間って遊園地の1日券を持って生まれてくるようなものだと思うんです」 カジノで106億円失った大王製紙元会長が“絶望しなかった”ワケ

大金を運用して増やしても欲しいものがない

仕事は楽しいというよりも義務感が強かった

刑務所に服役したのはいい経験だった

今までの人脈や経験を活かして、できる範囲で人助けができたら

rrr*****

優秀な血脈には、時々こうした浮世離れした人というか、天性の詩人のような人が生まれることがある。彼に迷惑を被った人には申し訳ないが、個人的にはこういう変な人は嫌いではない。 たまたま興味の対象が博打だったので、こういう残念な結果になってはいるが、その対象が芸術だったら、ちょっと面白い芸術家か、あるいは芸術家のパトロンやコレクターとして、ペギー・グッケンハイムのように名を成したかもしれない、と思うとちょっと残念。 たぶん、彼は他の何よりも自分自身に一番興味があって、「自分自身が作品」という価値観の人なんじゃないかな。
 
                 ★
 
大会社は、時々変わったの御曹司を輩出する。
 
考古学の研究から始まり、研究費を稼ぐためアメリカで会社経営に乗り出し、「株主主本主義の弱点」に気がつき「公共資本主義」を日本から世界に発信しようと奮闘する原丈人という変人もいる。
 
 
「公益資本主義」は、近江商人の「三方よし」の精神だという。
 
近江(現在の滋賀県)に本店を置き
江戸から明治にかけて
日本各地で活躍した近江商人。
彼らが信用を得るために
大切にしていたのが、
買い手よし
売り手よし
世間よし
という「三方よし」の精神でした。
 
 
 
原丈人がいう「株主資本主義」先進国アメリカの現状が格差の拡大。
 
「アメリカの主要企業のCEOの年間報酬は、1936年から80年代初頭まで、ほぼ100万㌦(約1億1000万円)で推移していました。ところが80年代半ばから急激に増え始め、2008年のリーマンショック直前には、1400万㌦約15億4000万円)にまで達していました。

その一方で、あまり知られていないのは、アメリカの30代男性の年中の中央値が、74年から04年までの間に12%も下がっていることです。平均値は上がっているのに、中央値が下がっている。その意味するところは、格差の拡大です。

GDPが増えて国の経済が成長し、富裕層への富の集中が加速する陰で、中間層から下に位置する人たちの収入は減り続けているのです。

CEOの報酬はうなぎ上りなのに、一般従業員の給料は下がり、雇用も失われていく。これが、英米発のグローバル化と金融の自由化がもたらした現実です。

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■沖縄タイムスのセカンドレイプ記事、1970年3月27日。…金城重明がメディアに初登場

2022-08-12 06:05:30 | ●●沖縄の黒歴史

 

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■1970年3月27日。…金城重明がメディアに初登場

その日は、渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、沖縄タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

 
I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果
 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」(実際は陸軍大尉)と大見出しで事実誤認する沖縄タイムスの無知は笑止だが、それはさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

紙面に躍る「県民の声」を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名前後のサヨク団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民の猛抗議であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

赤松元大尉に罵声を浴びせた実際の抗議団は那覇市職労を中心にしたサヨク団体であった。赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく、那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎していた。 そのため、村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空に居合わせ、その「騒動」の一部始終を目撃していた。

一連の騒動で赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊する。翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加した。

星氏は、前日空港で目撃したの左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの報道を見て、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。「定説」とは、「赤松元大尉の命令で集団自決が起きた」という『鉄の暴風』の伝聞による記述だ。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かう。船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続けていた。そして渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていた。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと左翼団体が現場に飛んで行ったが、赤松氏は個人で別の舟をチャーターして島に接岸し、島民に弔文と花束を託すに止め、結局上陸することなく島を去ったという。

赤松氏は、慰霊祭で徒に騒ぎを起こすこと避け、別行動をした。

この赤松元大尉の配慮も、琉球新報の報道は「赤松元大尉、ついに雲がくれ」と悪意に満ちた大見出しで紙面トップを飾っている。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

赤松元大尉の那覇空港での騒動を報じた1970年3月27日の沖縄タイムスの記事は、沖縄戦後史を歪な方向へ書き換え、県民を「沖縄分断」という「タイムス史観」へ扇動していくマイルストーンの役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、「住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民」といった印象を強烈に刷り込まれる。

■大江健三郎が『沖縄ノート』を書く切っ掛けとなる記事

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、沖縄タイムスの新川明氏記者らの即席ブリーフィングから「軍命論」を「真実である」と信じるようになる。 そして、そのにわか仕込みの知識で、現地取材をすることなく、作家としての想像力を逞しくして『沖縄ノート」を『岩波書店』から出版することになる。 

後に梅澤隊長らに提訴される「大江岩波訴訟」の原点は『鉄の暴風』だが、直接の引き金になったのは、この1970年の沖縄タイムスの記事ということが出来る。

ちなみに「大江岩波訴訟」は、大江が『鉄の暴風』の内容を真実と信じたのは止むを得ないとする「真実相当性」という法律概念を適用し、大江の名誉棄損を免責している。

沖縄集団自決のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年のタイムス記事」によって決定的になる。

■「軍命派」の重要証人、金城重明氏がマスコミに初登場

この記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場し記者の質問に答えている。金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版したり全国各地で講演するなどで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

後に詳述する重要証言者の宮城晴美氏は過去に発刊した自著によって論破されるという世にも奇妙な論文を書いて大方の失笑をかった。

過去の新聞記事の発言で自分が論破されるという点では、金城重明氏も負けてはいない。

 

■殺人者の陶酔--39年前の金城重明氏の証言■

金城重明氏は、沖縄タイムスのインタビューで、記者の「集団自決は軍の命令だ」との執拗な誘導質問を拒否し、心の内を正直に語っている。

米軍の無差別な艦砲射撃を受け、肉親殺害に至る心理を、「一種の陶酔感」に満ちていたと証言している。

「ランナーズ・ハイ」とは聞いたことがある。まさか「キラーズ・ハイ」(殺人者の陶酔)が世の中に存在するとは氏の証言で初めて知った。

その状況を「異常心理」だと正直に認めながらも、一転して「あの光景は軍部を抜きにしては考えられないことだ」などと強弁する。 その矛盾に、贖罪意識と責任転嫁の狭間で揺れる心理が垣間見れる。

沖縄タイムスに初めて登場する金城重明氏は、正直に心の内を吐露してはいる。 だが、当時から金城氏にとって「軍命」とは、自分が犯した「殺人」に対し一生叫び続けねばならぬ一種の免罪符であったのであろう。

金城氏は、後に沖縄キリスト教短大の教授、そして学長になるが、当時は一牧師として証言している。

≪1970年3月27日付沖縄タイムス

集団自決の生き残りとして

ー牧師となった金城重明さんの場合ー

記者:当時の状況はどうでしたか。

牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。

記者赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。

牧師直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。

記者自決命令についてはどう思うか。

牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。

記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。

牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。

記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。

牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった肉親を殺し、自分もしぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(1970年3月27日付沖縄タイムス)》

                   ◇

1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。

ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に集結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。

沖縄人は概して時間にルーズであり、集合時間にもなかなか集まらないとは良く聞く話だ。

沖縄人の習性を熟知する村役人が、何事かを村民に指示するとき「軍命」を借用して村民に敏速な行動を促したことは容易に想像できる。

同じ「軍命」でも「○○に集合」程度なら、軍から直接聞かなくとも(現場に軍人がいなくとも)村役人よりの伝聞のみで容易に「軍命」に従うだろう。

だが、「自決せよ」という生命に関わる重大な「軍命」に対して、伝聞やウワサだけで、発令者の臨場もなく自主的に実行できるものだろうか。 学校の先生の臨席しない「自習」は「遊び」と昔から相場は決まっている。

■死者の命令で肉親を殺害する不可解■

軍命による村民の自決とは、どのような状況が考えられるか。

自決とは通常自分で自分の命を奪う自殺を意味するが、金城兄弟の場合、「自殺」を試みたのではなく「他殺」で家族を含む多くの他人を殺している。

金城重明兄弟の「自決」については、同じ渡嘉敷島の出身で当時14歳の山城守治安が『渡嘉敷村史 資料編』で次のように証言している。山城盛治は、「金城重明」その兄「金城重栄」と共に「集団自決」の体験者である。

金城重明兄弟と同じ年頃の山城盛治が三人一組になって村民たちを殺戮している状況が、生々しく描かれている。 

≪「翌日の朝九時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がボロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で始末しよう、といった。
 女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。
僕らは、叔父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとおかしくなっていた。
    そうこうしているうちに、米軍からも弾がボンボン射ちこまれてね。 
 私は一四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前に、アメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。
行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。
それで(ゴボウ剣で)子どもは、背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです。
  そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです。
私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。
私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話係りですよ。
 年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊すのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのです」(『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(p399~406))》

上記「大学の先生」とは「金城重明」、「区長」とは金城重明の実兄「金城重栄」のことである。「集団自決」は多様な態様を含むものであるが、『鉄の暴風』による「赤松命令説」は、この多様な態様を全て説明できるものではない。

しかも赤松隊長は、この自決現場に臨場しておらず、「玉砕で既に死亡している」と思われていた。

銃剣で威嚇する軍人に囲まれた村民が、自決拒否や逃亡をすれば直ちに銃殺あるいは惨殺されるされる状況なら、やむなく自分で自分の命を断つことも考えられよう。ところがその時赤松隊長はすでに死亡したと思われていたのだ。

既に死んでしまった人の命令を厳守して「親兄弟を殺害する」のはいかにも不自然ではないか。

このことからも《赤松命令説》の虚構性は明らかである。

ここで描かれているには「集団自決」の現場ではなく「集団殺戮」の現場であるという点に、留意しておくべきだ。

では、大江岩波訴訟の被告側証人として出廷した金城重明は、証人尋問でどのように対応したか。

渡嘉敷島出身で集団自決を体験した山城盛治の証言、つまり「金城重明の殺害記録」が原告側の証拠としてが提出され、反対尋問で原告側弁護士が金城重明に「これは事実ですか」と聞いた。 原告側は金城重明が「殺害記録」を否認すると予測していた。

ところが想定外の事が起きた。

金城が「事実です」と認めてしまったのだ。まさにこの場面は裁判のクライマックスである。

これまで集団自決の語り部として有名になっていた金城牧師は、家族を殺したのは「愛」からだと、告白していた。 そこで原告側弁護士が「貴方は、親兄弟だけではなく第三者の人たちも殺害しましたね」と問い詰めたら、意外にも「はい」と呆気なく認めてしまったのだ。 

この機を逃すまいと原告側弁護士が、こう畳み掛けた。

「合計何人殺しましたか」

しかし、金城は沈黙して、答えない。

そこで弁護士が「もう一回聞きます」と繰り返した。

今度は裁判長が介入してきた。 あたかも言葉に詰まる金城に救いの手を差し出すように。

「証人がいいたくないことを、それ以上問い詰めるな」と。

この裁判長が介入した場面について、秦郁彦は曽野綾子との対談で、こう述べている。

「これは、全裁判を通じての決め手かと思った。 要するに金城牧師は、一種の「殺し屋」だったということ、しかも彼は他の人も殺したのを今までかくしていたんですよ。 それを認めちゃった。 ですから、彼の証言は、すべて当てにならないということにもなります。彼はその後も集団自決は軍の命令と声高に叫び続けているのです。偽善者の典型ですね。」(『「沖縄集団自決」の謎と真相』)

歴史の専門家の秦郁彦が「勝負あった」と感じたこの場面で、秦は金城重明が偽善者の典型と見抜いたのだ。秦は慰安婦問題で詐欺師・吉田政治の嘘を現地調査で嘘と証明した実証的歴史家として知られている。

一方、作家の曽野綾子は金城重明の印象をどう見ていたか。

曽野は、「自分は勘だけはが良い方だ」と断りながら金城牧師の初めて会った時の印象は「なんて変なひとだろう」と思ったという。

曽野が金城牧師に面談し時、金城が「一人の人間は地球より重いとイエスが言われた通り」と述べたので、同じクリスチャンの曽野は「イエスはそんなことおっしゃっていません」と反論した。曽野は、金城が牧師でありながら聖書もよく読まずに聖書を平然と間違って引用する態度を見て、信用できない人という印象を受けたという。 曽野は金城に面接取材した時も「この方は後で『そんなことは言ってなかった』と言われそうだと思った」ので、金城重明の証言だけ特別に録音していた。

金城重明に関しては歴史の専門家の秦郁彦も作家の曽野綾子も期せずして慰安婦問題の詐欺師・吉田政治と重ねて偽善者の印象を持っていたようだ。

自分がパニック状態による「まったくの異常心理」などと弁明しながら肉親や他人を殺害し、その一方で「とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ」と自己弁するのは責任転嫁の典型であり、吉田政治と同様の詐欺師と言われても仕方がない。

 さらに金城重明は「軍の命令」を証言するには不適格な人物と言える発言をしている。

2007年9月10日那覇の出張法廷で証人として証言台に立った金城氏は、憤りと不信感を表したはずの日本軍に、傷の手当てを受けていたのだ。

証人の金城氏は、集団自決後、米軍の迫撃砲で負傷した。その傷は軽いものではなく、傷跡に指が四本も入るほどのケガだったという。その後、赤松嘉次隊長と遭遇。 直接、隊長と言葉を交わしているのである。 法廷で金城氏はそのときの様子をこう証言している。 「軍の医療班のところへちょいちょい通って消毒、絆創膏(ばんそうこう)だけです。 薬は無かった。 それでたまたま赤松さんに会ったら、渡嘉志久に行けば薬はあるはずだよと。 そして、確認の意味で言ったけれども、ああ渡嘉志久に行けば薬はありますかと。 隊長から、権威ある者の発言はもう一回で十分だといわんばかりに叱られた」 この発言は重要だ。つまり、金城氏の傷は軽症ではなかったので、日本軍の医療班を訪ねた。 ちょいちょい通ったが、医療班からは消毒や絆創膏を張ってもらっただけだという金城氏。 こうした傷の手当ての場合、一日に何度も行くわけではない。 毎日、日本軍の医療班のある所に通って消毒してもらい、絆創膏を張ってもらったのだろう。 負傷して何日かの或る日、赤松隊長は金城少年を見て、「渡嘉志久に行けば薬はあるはずだ」と助言している。 この証言は結局、明らかに赤松氏が住民に自決命令なるものを発していないというものだ。(略)

金城重明氏は法廷証言を通じて、「赤松氏の自決命令はなかった」という証人であることを浮き彫りにした。 被告の大江健三郎氏・岩波書店に勝訴判決を出した深み敏正裁判長が、判決文の中で金城証言に言及しなかったのは、そのためでないかと思えて仕方がない。(「Viewpoint  August 2008」よりー太字強調は引用者) 

 仮に「自決命令」が事実だったらどうなるか。

自決命令を出した相手が生きてウロウロしている姿を発見したら、命令した日本軍は、「命令違反」として即座に射殺するか斬殺するだろう。

ところが『鉄の暴風』が「鬼の赤松」と決めつけた赤松大尉は、実際は傷の手当ばかりか、薬の世話までしてくれたのだ。

玉砕で死んだと思われていた赤松隊長に会った時の状況を金城は後にこう語っている。

「一緒に死ぬはずが、どうして生きているのか。裏切られた思いが出てくるわけです。実は私は赤松隊長に山の中で偶然二度あっているのです。一回目会った時は硬い表情で、一言も話さなかったのですが、二回目に会った時は『われわれは、大本営に報告しなければいけないから、生き残らなければならないんだ』と、言っていました」(『僕の島は戦場だった』佐野眞一著)

結局、赤松隊長は生き残った金城重明を見ても、追加の命令は出していない。軍命による集団自決はウワサであり、伝聞であったことを自白したに等しい。

 

■軍命令はすべて推論■

軍命令をにおわす証言については、金城氏はこれまでいろんな場面で証言しており、それが62年も経った今頃になって新しい証言が出たらかえって信憑性を疑われるだろう。

結局、金城証言のどこを見ても「体験者」としての証言ではあっても「軍命を聞いた」証人ではない。

琉球新報によると「軍命あり」と断定する部分は次の点だ。

①村長が音頭を取った「天皇陛下万歳」とは玉砕の掛け声。 村長が独断で自決命令を出すのはありえず、軍から命令が出たということ。

②村長が「天皇陛下万歳」唱える前、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令が伝えられ、村長が号令を書けたことが分かった。

③軍から手りゅう弾が配られた。 

琉球新報の論理に従えば、村長が独断で自決命令を出すのはありえないので、軍から命令が出たに違いないということ。

「Aが○○をすることはあり得ないから、Bがやったに違いない」。

これは原告弁護団がいみじくも言うように金城氏の「推論」であり、彼の証言は「悲惨な体験」の証言者としては価値があっても、金城氏が集団自決隊長命令を語る証人として資格が無いことがはっきりした。

■耳打ち「それが軍命だった」ー伝聞の又伝聞■

ところが元々論拠があやふやな金城の軍命説を補強するために、被告側は渡嘉敷出身の吉川勇助氏の証言を法廷で金城の推論の補強に使った。

少し長いが、伝聞による金城重明の証言を補強する証言が、更なる伝聞であるというデタラメな「軍命」証言を知る意味で、以下に全文引用する。

≪吉川勇助さん -上- (2007年6月14日沖縄タイムス朝刊総合3面)
村長の「陛下万歳」合図に
(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

 渡嘉敷島。西の御嶽と日本軍の北山(にしやま)陣地の谷間。一九四五年三月二十七日、米軍上陸後、各地に避難していた住民が、軍命でフィジガー、後に第一玉砕場と呼ばれる場所に集められた。

 

 住民は家族や親族、集団ごとにまとまっていた。当時六歳で、母親と妹と来た新崎直恒(69)。グループには手榴弾がなく、知り合いの集団に加わった。その輪には直恒らが「皆から、とても信頼をされている人」と話す、当時十五歳で役場職員の吉川勇助(78)がいた。

 

 勇助の家族で七、八人、直恒らも合わせると、輪は合計二十人になっていた。輪には勇助が二発、兄が二発、計四発の手榴弾があった。「役場に集められてもらった。一つはあまりに旧式だと、村長に九七式という新しい型に換えてもらった」と説明する。

 

 米軍上陸直前、日本軍は、役場を通して十七歳未満の少年を対象に、厳重に保管していた手榴弾を二発ずつ配った。米軍上陸後、一発は攻撃用、もう一発は自決用と言い渡された。

 

 役場職員の勇助は、フィジガーに来ても、村長の傍らにいた。不意に軍の陣地方向から現れた防衛隊員が、村長に何かを耳打ちしているのに気付いた。迫撃砲や艦砲射撃のすさまじい音と爆発の音、防衛隊員が村長に何を伝えたか、勇助の所までは聞こえない。
 しかし、村長は、防衛隊員の言葉に「うん、うん」と何度もうなずいた。おもむろに立ち上がり「天皇陛下万歳」と叫んだ。
 それが号令となった。フィジガーのあちこちで、手榴弾がさく裂した。バン、バン、バン。勇助の輪でも手榴弾を爆発させようとしたが、すべて不発だった。
 しかし、周りでは血だらけの遺体、手や足が吹き飛ばされた人、悲鳴、泣き声、地獄図だった。
 そのうちに、生き残った者たちが生き地獄を逃れようと、群れを成し北山陣地を目指し始めた。
 勇助たちも陣地になだれ込んだ。「それを見た、隊長はものすごい勢いで怒った」。村長に伝令した防衛隊員も、本部に来ていた。住民が殺到する混乱の中で、腰に下げた、銃剣用の剣が手榴弾に当たり、「しまった」という言葉と同時に爆死した。
 村長の傍らで一部始終を目撃した勇助は「住民が勝手に死ぬことはあり得ない。村長に伝えられたのは軍命だった」と語気を強めた。=敬称略(編集委員・謝花直美)》

 

吉川氏によると村長の耳元で何かを伝えたとの事だが、軍の命令(らしきもの)が伝えられ、村長が号令をかけた事実だけは判明する。

しかし金城氏は軍の命令を直接聞いていない。 しかも、他人の伝聞、それも「耳打ちしたのを見た」であり、耳内の内容を聞いたわけでも無い。

金城氏は伝聞のその又伝聞を自分の「推論」の補強にしているに過ぎない。

推論が推論を呼ぶともはや法廷の証言者としては欠格である。文学の世界では興味深い逸話でも、これが法廷での証言のもなると法廷を混乱させるだけである。

おまけにその耳内を目撃した吉川勇助氏の証言によると、耳打ちの最中にすさまじい迫撃砲や艦砲射撃の爆発音で、その伝聞の伝聞さえ爆音で聞き取れなかったのだ。

このような状況での「耳打ちを目撃」した吉川証言に頼らざるを得ないほど金城氏は「隊長軍命令」を語るには不適格な証言者なのである。

■究極の「軍命」-縦の構造

元々曖昧だった金城重明の「軍命」を、補強する意味の吉川勇助の「耳打ち軍命説」が登場するに及び、軍命説が総崩れの様相を呈してきた。曽野綾子や星雅彦が現地で聞き取り調査した結果「軍命があった」というコメントは一度も聞いていないという。のだから当然の結果である。

しかし、ここで登場するのが裁判の被告人が語る究極の「軍命」だ。2007年11月9日午後には大江健三郎氏本人が初めて出廷した。

大江は、「軍命令はあったと考えている」「(『沖縄ノート』の)記述は訂正する必要はないと考える」と述べ、「集団自決命令は隊長個人の資質や選択ではなく、日本軍の縦の構造の力が島民に強制した」とし、隊長命令があったか否かという裁判の争点を「広義の強制」にすり換えた。

日本軍の縦の構造とは、命令系統が縦割り社会という日本軍組織の特徴を意味し、軍隊の最高司令官が下した訓示などに「決死」とか「玉砕」などの文言があれば、それは「自決命令」を意味することであり、現場の隊長の個々の「軍命」など必要ない、という極めて乱暴な主張である。

 

■真実の吐露■

「沖縄戦『集団自決』の真実を探る」と題するフォーラムで集団自決の現地取材に深く関わったジャーナリストの鴨野守氏が「集団自決の生き残りという人がいろんな証言をしているが、出来ることならジャーナリストとして集団自決で死んだ人たちの胸の内を聞いてみたいとを語った。

なるほど、いろんな沖縄戦の体験者が連日新聞の特集欄を賑わしているが実際の集団自決の生き残りの証言は少ないし、ましてや生き残ることもかなわず死んでいった人々の胸の内を聞く事は誰も出来ない。生き残りの証言者たちは集団自決の生き残りではあっても実際には自決しなかった。

もし、軍の命令を主張するのなら彼らは「軍命違反」して生き残ったことになる。

軍命令違反は軍法会議か即処刑だろうが、それはさて置いても生き残った者に複雑な心理的葛藤が起きても不思議ではない。

本人の意識、無意識に関わらず証言には自分が手にかけた家族への贖罪の気持ち、音頭を取った村長としての自責の念など、これらが渾然一体となって微妙にその証言に影を落しても不思議ではない。

宮平さんの「論壇」の次のくだりを思い起こしてほしい。

≪彼らの死は、生き残ることにより死よりつらい生き地獄が愛する肉親に降りかかることを恐れての行動であり、家族以外の何物でもなかったのだろうと考える。≫県民大会開催に反対する 

金城氏は被告側証人として「軍命があった」を証言する筈だったのが自分が手をかけた家族のくだりになると「本心」を吐露して上記引用の宮平さんの意見を裏付ける証言をしている。

≪金城さんは家族を手にかけたときの気持ちについて、「米軍が上陸し,(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常に恐怖で、愛するが故に殺した」と語った。≫(琉球新報一面)

この部分は新報記事の「金城氏の証言骨子」には何故か記載されていないが、計らずも金城氏は、「集団自決は軍の命令や強制ではなく、家族への愛だった」と、真実の証言をしてしまったのだ。

 

参考までに沖縄タイムスで金城氏の「家族に手をかけた」くだりを見ると、

「手をかけなければ、非人情という思いがあった」と簡単に記するに留めている。戦隊長下の軍命証言/「集団自決」沖縄法廷

タイムスがあまり触れたくない金城氏のコメントは被告側にとっては致命的な「本音告白」だったのだろう。

金城氏の証言は被告側にとって思わぬ自殺点(オウンゴール)になってしまった。

■金城兄弟は父親殺害を隠していた■

もう一つ疑問がある。

金城重明氏は早い時期から母親と兄弟を殺したことは告白していながら父親を殺害していたことを長期間隠していた。

多くの証言によると、自分で自分の命を断つことのできない女子供は父親や祖父などの年長者が手を下した。

だが、注目すべきは、金城兄弟の場合未成年の重明、重栄兄弟が壮年の父親を殺害している点である。

これは集団自決の場合でも他に類を見ない例である。

やはりこれは、本人が吐露するように「キラーズ・ハイ」ともいえる「異常心理」が働いたのであり、これを軍命だと強弁しても誰も信じるものはいない。

 

沖縄紙が報じない金城重氏の闇の部分

2008-07-11

2008年の雑誌『WILL』増刊号で、集団自決問題の真相解明に精力的に調査活動を続けているジャーナリスト鴨野守氏の渾身のレポート「村民多数を手にかけた『悲劇の証人』金城牧師」が掲載された。

3月28日の大阪地裁の判決文には、渡嘉敷島での集団自決の体験者で、裁判長がわざわざ沖縄まで出張して尋問(非公開)した金城重明への言及が全くなかった。

裁判前後から集団自決体験者の生き残りとして、県内二紙が絶えず金城の一挙一動を大きく報じ、県内各地は勿論本土各県にも講演に出かける、いわば集団自決証言者のシンボルともいえる金城氏の、わざわざ出張までして行った法廷証言が何ゆえ判決文では無視されたのか。

これに着目した鴨野氏は、彼のこれまでの証言などを掘り起こしながら、なぜ金城証言は無視されたかを検証し、金城氏がすでに語ったものとは違う「集団自決の真相」に迫った。

雑誌『WILL』増刊号に寄稿した鴨野氏の渾身のレポートはこのような動機で書かれた。

重要ポイントになる一箇所のみを引用する。(強調は筆者)

< 昨年九月十日午後、福岡高裁那覇支部で行われた所在尋問(出張法廷)で、金城氏は証人として証言した。この尋問は非公開であるが、そこでのやりとりは反訳されて文書にまとめられている。自決の場面を、氏は次のように語っている。
  「多くの家族がそれぞれ身内の者を殺していく。その主役を演じたのは父親です。しかし島では父親は軍隊に行ったり、県外、海外に出稼ぎに行ったりして数は少ない。したがって、そのかわり祖父がその役割を演じる。自分では死ねない幼い子供、女性、老人、そして最終はみずからも死んでいく。そういう手法でした。私たち家族に関しては六名家族ですけれども、父親は離れて、おりません。
ですから手をくだす人はいないわけです。二つ上の兄と私は男性ですので、これは当然自分たちがやるべきことだと、・・・

金城氏は出張法廷で、他の家族は力のある父親や祖父が身内を手にかけていったが、自分の家族は父親は離れていたので、仕方なく自分と兄が家族に手をかけたのです、と“釈明”している。

ところが鴨野氏の調査によると、金城兄弟は父親も殺しており、その後沖縄紙の発言や講演などでも父親殺しは隠して発言している。

金城氏は何ゆえ一家の大黒柱の父親を殺害していながらそれを隠し続けてきたのか。 鴨野氏は告発する。

渡嘉敷島の住民たちのほとんどは、金城兄弟の父親殺しを知っていたが、一家の大黒柱をその子供が殺害することは隠し置くべきタブーとして口を噤んでいたという。

沖縄のマスコミが決して報じることのない、鴨野氏のレポートを読んで、一番胸のつかえの下りた人たちは、渡嘉敷島の集団自決被害者の遺族の方々ではなかっただろうか。

彼らが言いたくてもいえない「真相」を、鴨野記者が代弁してくれた形になったのだから。

 
 
                      ◇
■『沖縄ノート出版差し止め訴訟

 大江健三郎と岩波書店は厚顔無恥にも、『沖縄ノート』の誤った記述を変えないまま発行し続けており、梅澤・赤松両氏への「報道被害」はその後も続いている。
 そこで、2005年8月、梅澤氏と故・赤松氏の実弟が、大江健三郎と岩波書店に名誉毀損と賠償・出版差し止めを求める裁判を起こした。

『母の遺したもの』は本来なら隊長命令がなかったという証拠になりえたはずだが、2007年7月27日の公判で宮城晴美氏は、軍命令はあったと見解を変えて出廷した。原告側の徳永弁護士による尋問により、宮城晴美氏は見解を変えたのはわずか1か月前であることを証言した。そして、梅澤氏が命令を出したという証拠があるわけではなく、軍に責任があり、そうなら部隊長の梅澤氏に責任があると考えるようになったに過ぎないことを認めた。1か月前に考えを改めたことに対して、深見裁判長は「本当にその証言でよいのですか」と聞き返すほどの180度の証言変更だった。

 梅澤氏は2007年11月9日午前に大阪地裁で行われた口頭弁論で、「(自決用の弾薬などを求める村民に対し)死んではいけないと言った」と改めて証言、軍命令説を強く否定した。また、梅澤氏は「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」とも語っている。産経11/9産経iza11/9本人尋問詳報はこちら)。
 
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新・沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2022-08-11 10:38:06 | ★改定版集団自決

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沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2012-05-12 07:10:03 | ★集団自決

 

                 ☆

■沖縄タイムスの典型的な「歪曲報道」である。 1983年6月8日付記事。

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

             ☆

上記記事の次の結語に、沖縄タイムスの歴史捏造の大嘘が表れている。

日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である

歴史が新聞記事で決まるわけではないし、県民大会や県議会決議で決まるわけではない。

勿論、歴史が裁判で決るわけではないが、大江岩波集団自決訴訟で、挙証責任のある被告大江側は一審、二審を通じて「軍命」を立証できず、その後も軍命を立証する証拠・証人は一件もない。

沖縄タイムスが言う「歴史の事実」は同紙の願望に過ぎない。

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。(※【おまけ】に詳述

だが、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのをむしろ歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だった。

赤松氏はこのような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていた。

翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には、歓迎のため赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

(つづく)

 

【おまけ】

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

■梅澤・赤松両隊長が怒った沖タイ記事

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉が来島>

空港に“怒りの声”

”非難したくない”

出迎えの玉井村長語る

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで事実誤認で報じる沖縄タイムスの無知(実際は陸軍大尉)はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

先ず記事の見出しに躍る”怒りの声”と”非難したくない”と言う玉井村長の矛盾を沖タイはどう説明するのか。

 

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行った。

だが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸し、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく、島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、こう印象つけられた。

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

赤松元隊長は「鬼の赤松」といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言しているが、

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

■渡嘉敷村民の真意は?

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ  

渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしたが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内で読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

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沖縄タイムスが黙殺する、渡嘉敷島玉井村長の手記、

2022-08-11 08:51:35 | ★改定版集団自決

 

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玉井村長の手記、沖縄タイムスが報じない2008-09-14

 

渡嘉敷島・死線を越えた人たちの再会ー「集団自決」問題で騒いでいるのは関係ない人たち。

 大東亜戦争沖縄戦の集団自決問題でクローズアップされた渡嘉敷島。

昭和45年(1970年)、日本軍の責任者であった赤松元大尉は渡嘉敷村から慰霊祭のスケジュールを受け取り、招待の打診を受けた。そして赤松元大尉は出席の意向を伝え、3月26日に那覇に到着した。そこで赤松元大尉は大ブーイングを浴る。

「赤松帰れ!」

「人殺し帰れ!」

 そして赤松元大尉は村の人々とともにその場を後にした。つまり、赤松元大尉を非難しているのは当時の軍人、島民ではなく、全く別の人たち、つまり反日サヨクの組合員たちだった

赤松元大尉は残念ながら那覇で足止めを食い、渡嘉敷島にわたることができなかった。赤松隊に所属していた生き残り将兵十三人と遺族が渡嘉敷島に渡り、慰霊祭に出席する。

 同行した皆本元少尉の話。「島の方がたは大変残念がっていましたね。『赤松さんにぜひ来てほしかった』という声を何度も聞いております。のちに関西で行われた会合では、当時の玉井村長さんがわざわざ来てくれました」

慰霊祭の様子を琉球新報と沖縄タイムスが次のように書いている。

琉球新報(三月二十九日付)
「この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、報道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。赤松元大尉が本島まで来ていることを知らされても『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない』と言った言葉が返ってくるだけ。本島で繰り広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二十五回忌の慰霊祭-」

沖縄タイムス(三月三十日付)
「五十年配の人たちは男女の別なく、生き残り将兵等と手を取り合った。炊事班に借り出され、赤松隊で働いていたという夫人などは、顔を覚えていた何人かをつかまえ、当時はお世話になりました、と涙を流さんばかりだった」

 慰霊祭のあとの「第三戦隊戦友会村民懇親会」では村のご夫人や娘さんが島の踊りを披露して歓迎し、出席した皆本元少尉は一緒に踊った。

手元の本にそのときの写真が一枚載っている。「集団自決は強制だった」という人たちは、この写真を見て何というのだろう。「死ね」と言った人たちを歓迎するわけないだろう

島に渡れなかった赤松元大尉はモーターボートをチャージし、渡嘉敷島沖まできて、島へ向けて手旗信号で何かを合図している。おそらく元部下が島にいて元隊長の意を汲むことになっていたのだろう。あの日あの時あの場所にいた死線を越えた人たち同士にしかわからない感情が手旗信号で伝わったと想像する。

平成19年(2007年)、沖縄で集団自決軍命令の教科書記述削除に抗議する、いわゆる11万人集会(実際は2万人弱)に参加した渡嘉敷村の人はゼロである。

                  ◆

「沖縄タイムス史観」でいえば、渡嘉敷島の戦隊長は「鬼の赤松」であり、当時駐屯していた軍人は「住民を死に追いやった島の仇である」ということになるだろうが、実際は報道とは異なり、島の遺族会と旧軍人との交流は戦後ずっと続いている。

大江健三郎氏が創り上げた「島の慰霊祭に参加の為那覇空港に降りた赤松元隊長を“島の人々”が追い返した」といった神話が、島の人々にとっては、不本意な出来事であり、「故赤松隊長には気の毒なことだった」という気持ちが本音であった。

沖縄タイムスが決して報じることない、赤松氏が追い返された当時の玉井渡嘉敷村長の手記を入手したので全文引用する。

地元在住の重要証言者であるにも関わらず沖縄タイムスが一度も取材もしなかった知念元少尉と遺族会との交流も記されている。(取材もされずに知念少尉の「発言」は『鉄の暴風』には捏造されて記載されている)

沖縄タイムス史観に従えば赤松隊長の副官であった知念元少尉は遺族会の憎むべき仇のはずだが・・・。

取材されない重要証人 副官知念少尉の証言

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

 

沖縄に住んでいてもタイムス等の新聞報道に汚染されると、渡嘉敷村民が赤松隊長にどのような心情を抱いていたかについては、ミスリードされ結果として誤解されてしまう。

玉井村長が抱いていた赤松隊長に抱いていた心情を、沖縄タイムスは決して記事にすることはないだろうし、下記の玉井村長の手記を記事として報道することも決してない。

                    ◇

終戦50周年祈念「いそとせ」沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行 に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想

遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八


 戦後50年の節目を迎えることになった。想えば半世紀の長い年月であるが何故かそんなに時が流れた感がしない。戦災で焼失破壊された自然や物的なものは年と共に逐次その姿を取り戻し復元されつつあるが、ただ一つ取り戻すことのできない尊い人の命がある。私達は常に心の奥に犠牲になった肉親や同胞を弔い慰める気持ちがあるため時の流れを感じないかも知れない。
 昭和22年復員して帰って見ると島は過去の姿はなく、生き残った村民は自失呆然で自給自足もままならぬ状況であった。
 焼け残った住宅の補修や仮設住宅の設置に追われ乍らも何かしら足が地につかずの感がしてならない、村を復興するには先ず何より、村民に心の安らぎを与える途を講ずる必要を痛感し戦没者の慰霊供養を最優先すべきであることを決し、慰霊碑の建立をすることになった。
 建立場所を西山の集団自決現場近くに設定したが、現地はその当時、機動力が使用できる場所でなく、すべて人力で搬送しなければならない状況にあり、いろいろ検討の結果これを実現するには肉親を失った方々が組織をつくり、率先して村当局と協力し、全村民への奉仕を呼びかけるため、はじめて遺族会が結成された。
 学童をはじめ全村民の協力を得ていよいよ建立を始めたが、現場に辿り着く道らしい道がなく、天に昇るような険しいけもの道を海岸から砂や砂利を擔ぎ頭に乗せ、各自体力に応じて搬送したことは孤立した島で共に死線を越えた人々の固い絆があってこそ実現できたと思ふのである。
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。
 西山の山頂に建てられた慰霊塔(白玉之塔)には軍人、軍属、防衛隊、一般住民を含め430余柱が合祀され、毎年3月28日、集団自決の日を村の慰霊の日として行事が行われてきたが、昭和34年予期しないことにこの地一帯がホークミサイル基地として接収された為に塔への出入りが自由にできない状況となり移設を余儀なくされた。
 移設場所を港の北側、部落を一眺する丘に選定し、移設費用全額米軍負担として、昭和35年に移設を完了し現在に至っている。
 
渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるみみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。
 昨年(平成6年3月28日)数え年による50回忌の慰霊行事を実施した。村民や遺族の他本土から戦友会員100余名参加して盛大に行われたその状況が、NHKのニュースで全国に放映されたことは最も印象に残ることである。
 50年の歳月は、戦争の傷跡を埋め尽くし、島の何処を眺めても戦争と直接つながるものは見ることができない。部落を見下ろす丘に戦没者の芳名を刻した白玉之塔が建っているのみである。
 戦時中谷間の避難小屋で生まれた戦争を知らない子が、現在村の指導者として活躍している姿を見るとき、時の流れと世代が変わった実感が湧いてくる。
遺族会も高齢化と共に会員が減少し運営もきびしい状況にあるが、何としても維持存続し戦争の悲惨を後世に語り継がねばならない。慰霊の塔の維持管理、慰霊事業はすべて村主導で行われているので、遺族会としても村の平和行政の推進に積極的に協力して行きたい。
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。村遺族会としてもその厚意を有り難く受け、戦争の犠牲を無にしないよう、またこれを契機に会の再建をして行く決意を新たにしている。
 かっては玉砕場(集団自決跡地)又は基地(ホークミサイル基地)と呼ばれた西山の頂上は、沖縄の本土復帰を記念して設立された「国立沖縄生年の家」があり、戦争を知らない全国から集ふ青少年が自然を満喫しながら研修に励んでいる姿を見るとき、平和の尊さをしみじみ感ずるのである。

注 1.西山は北山のこと。
  2.玉井喜八…1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没
  3.「国立沖縄生年の家」…現在の「国立沖縄青少年交流の家」
  4.句点、読点は適宜補った。

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首里城指定管理者は「違法」 住民訴訟の原告が指摘

2022-08-11 07:14:27 | 政治

 

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首里城指定管理者は「違法」 住民訴訟の原告が指摘

 
首里城火災当日、多くの人々が現場を見に来ていた=2019年10月31日、沖縄市那覇市の首里城公園

2019年10月31日未明に発生した首里城火災から間もなく3年になる。火災の責任所在が明確にならないまま再建が進められていることが住民訴訟に発展しているが、首里城指定管理者の一般社団法人沖縄美(ちゅ)ら島財団が必要な防災要件を満たしていなかったことが原告の調べで明らかになっている。(沖縄支局・豊田 剛、写真も)

防災要件を満たさず

被告の県、管理マニュアル未提示

沖縄県は、具体的な再発防止策を検討する首里城公園管理体制構築検討委員会を設置し、1日に初会合が開かれた。

蓑茂壽太郎東京農業大学名誉教授を委員長に、関澤愛東京理科大教授ら防災を専門とする学者や弁護士ら委員7人、内閣府沖縄総合事務局、沖縄県、那覇市の幹部クラス9人が協力委員に名を連ねている。

会合では再発防止策の具体的な取り組みを検討するため現状の課題について確認。首里城公園の管理運営の仕組みについては、予定されている26年の正殿完成時に現在の指定管理者制度を見直すことを検討中。具体的には、防災・防火対策の実効性を担保できるように、現行の指定管理業務から防災関連の業務を分離することを検討している。

たこの日、首里城公園には国と県が管理するエリアがあり、防災対策の体制のばらつきが課題とされていることが報告され、横のつながりを構築し公園全体での仕組みや役割分担を明確化できるかどうかが議論された

首里城公園管理体制構築検討委員会の設置要項

里城火災の管理責任をめぐって、「沖縄県が、発災責任を負う指定管理者・美ら島財団に約2億円の損害賠償を請求しないのは違法」として、8人の沖縄県民が、玉城デニー沖縄県知事を相手取った住民訴訟を起こし、昨年11月に口頭弁論が始まった。これまで4度の口頭弁論が行われている。原告は、初動対応の不手際を立証するため管理マニュアルの提出を求めているが、被告はこれまで応じていないため、裁判は膠着(こうちゃく)状態にある。

那覇市消防局の調査報告書にはどう書かれているのか。電気異常や放火など火の気のない建物に火災が発生した原因を列挙した上で、一つ一つ否定している。最後に残された疑わしい火元は、出火場所と特定された正殿1階北東の一角にあるLED照明の電源コードまわり一つしかないことを明らかにした。これは美ら島財団が設置したもの。

ところが、消防局はそれを原因と断定しなかった。あまりの火災の強さに着火物などの物証が焼失あるいは損傷してしまっているという理由からだ。

原告が訴訟を進めていく中で、決定的な問題が見つかった。原告団の共同代表、石岡裕氏によると、美ら島財団は電気の保安規定に違反し、指定管理者の要件を満たしていないというのだ。

指定管理者の要件として、電気を日常的に管理し、非常時に対応する有資格者の主任技術者が必要で、火災時には直ちにブレーカーを遮断し、本人不在の場合は現場の担当者が対応できるよう訓練することを義務付けている。火災当時、これらが実施されていないことが、「保安規定違反に該当する」と石岡氏は指摘する。

首里城の場合、非常時の対応責任は電力会社ではなく首里城そのものにあり、①保安規定の制定②経済産業省への届け出③順守義務――が課されているという。石岡氏は「首里城が電気設備の『みなし設置者』としての必要な義務を果たしていなかった」とし、管理者の美ら島財団、管理委託した沖縄県、所有権を持つ国のすべてに責任が問われることになると指摘した。

被告の沖縄県は答弁書で、火災責任について、煙が正殿内に拡散して警備員が火元に近づけなかったことをもって、「警備員らによる活動に問題はない」と述べている。

首里城公園管理体制構築検討委員会の設置要項

1.警備員・監視員は異常を感知しながら、初期消火等の適切な対応をとらなかった。

2.通報を受けて駆けつけた那覇市消防局を警備員・監視員は適切に誘導できず、消火活動に移るまでに時間を要した。

3.正殿周囲に設置されていた放水銃が、翌日のイベントのために組まれた足場などに遮られ、活用できなかった。

4.首里城公園にある消火用貯水槽がすぐに枯渇し、放水活動が一時中断した。

5.首里城城郭内には、重要文化財を含む歴史的価値の高い美術品が展示または収蔵されていたが、それに見合うだけの防火設備が設置されていなかった。

6.火災の2年前(2017年12月22日)に、那覇市消防局から首里城正殿等の防災上の欠陥を指摘されていたにもかかわらず、適切な是正措置を怠った。

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デニー知事も個人支払いの責任!12億円求償権!県が翁長知事に

2022-08-11 04:59:13 | 政治

 

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 以下は過去ブログの再掲である。

12億円求償権!県が翁長知事に 2015-10-24

 
宜野湾住民訴訟は、翁長知事にとって悪夢である!

翁長知事が県民に対して12億円の支払い義務が発生するのだ。

 翁長知事と県を被告として提訴された宜野湾住民訴訟について論考する。

被告側は国と全面対決の状況にあり、法廷闘争に突入するのは時間の問題とされている。

当然、翁長知事にとって国との法廷闘争は想定内であり、今回の住民訴訟が提訴されても、国に比べて小さな同種の訴訟が増えた程度で特に驚くことではない、という声もある。

確かに大型弁護団が予測される国との法廷闘争にくらべ、弁護団が三人の住民訴訟は形式上は「小さな訴訟」かもしれない。

ただ、宜野湾住民訴訟が、被告側にとって致命的訴訟になる可能性が極めて大きいと指摘する向きもある。

それは12億円の損害賠償金を誰が払うかに掛かっている。

宜野湾住民訴訟のポイントはこうだ。

(1)被告を翁長知事と沖縄県の二件にしている。

(2)原告は現在12名だが12月に予想される口頭弁論の時には120人程度の集団訴訟の予定。

(3)損害賠償の請求原因が「普天間問題の原点である危険性の除去が、翁長知事の取り消しで頓挫する」としている。⇒「生存権の侵害」

■沖縄2紙の応援記事

国との法廷闘争では勝ち目がないと判断した沖縄2紙は「世論に期待」などと、法律論では敗訴しても感情論で「権力者の国が県知事を苛めた」などの世論作りの作戦を吐露している。

だが、注目すべきは、今回の宜野湾住民訴訟では、国との法廷闘争のように一方的な「原告悪玉」の世論操作が出来ないことだ。

理由は、上記(3)に記載した請求原因にある。

常日頃、沖縄2紙が「住宅密集地に隣接した世界一危険な米軍基地」と報じている記事そのものだからだ。 

つまり沖縄2紙が原告の主張を批判する記事を書けば、それがそっくりブーメランとなって沖縄2紙や左翼集団を直撃することなる。

かくして、沖縄2紙は宜野湾住民訴訟を罵倒することは出来ず、切歯扼腕しながら裁判の成り行きを見守ることになる。

これしかなす術がないのだ。

■賠償金支払いの義務は誰?

先ず120人の原告が勝訴した場合(この可能性が大)、単純計算だと総額12億円の損害賠償金を被告が支払うことになる。

その場合被告の翁長知事と県とがどの割合で分担するかは、判決を見なければわからない面もある。

だが、本訴訟は仲井真前知事当時、当時の県職員が防衛局の埋め立て申請を何度も検証した結果、「法的瑕疵はない」として承認した案件を、翁長知事の「ごり押し」で、独断的に取り消しされたもの。

訴訟で被告側が敗訴した場合、責任の重さは県というよりすべて翁長知事にある、といえるだろう。

百パーセント責任は知事にある、ということも可能だが、百歩譲って7対3の割合で知事の責任を検証してみよう。

判決に従がえば12億の賠償金を知事が8億4千万円、県が3億6千万円を支払うことになる。

常識では知事個人が8億4千万円もの現金を持っているとは考えにくいので、一旦県が総額の12億円を支払ったとしよう。

ただ、ここで注目すべきは12億円のすべては国民・県民の血税であるということ。

翁長知事の違法な取り消しで提訴された裁判の損害賠償は、県の分担支払金も含む12億円の支払い義務は翁長知事1人に掛かってくる、ということになる。

そこで、県は、翁長知事個人に対し総額12億円の求償権をもつことになる。

一方、翁長知事は県に対し支払い義務を持つ。

理由は翁長知事が違法行為により、県に12億円の損害を被らせたからだ。

宜野湾住民訴訟は翁長知事の長い悪夢の始に過ぎない。

 【追記】

宜野湾住民訴訟の素因の上記(3)の「普天間問題に原点」に関し、仲井真前知事は産経新聞のインタビューに答えてこう答えている。

--これから沖縄と日本をどうすべきか

 「普天間の危険性を1日も早く回避することに尽きる。これが原点だ。1日も早くだから、現実的な解でないといけない。『こうであってほしいな』とか夢みたいな話ではなく。一番早くできるのは、どう見ても辺野古だ。日米両政府が20年前に決め、いろんなプロセスも分かってきている。早く普天間を街の中から移し、子々孫々まで安心して枕高くして眠れるようにする。行政の責任を預かるものは、第一に命と暮らしを守るは当たり前のことだ」

 ⇒【仲井真・沖縄前知事が「そこまで言うか!」(2)】
翁長知事の国連演説「いちいちしゃくに障った。差別、先住民論」

 

仲井真弘多・前沖縄県知事=那覇市(半澤尚久撮影)

 --(基地問題の)総合的な対策に「オール沖縄」で取り組む必要があるという考えは

 「『オール沖縄』という言葉は(翁長氏の)選挙のプロパガンダに使われたから、僕は絶対その言葉を使う気はない。オールでもないのに」

 --仲井真県政でレールを敷いた鉄道建設などに翁長知事も目を向ける時期が来る。仲井真氏の遺産が動くときが来る。「これはこういう意味だ」と発信し続けてもらいたい

 「私の役目があるかどうかは自分では分からない。ただ、今の翁長知事のやり方、どんな風に収まっていくのかのイメージがわかない」

 --翁長知事は9月、国連人権理事会で行った演説で、県民を先住民だと位置付けた

 「もういちいちね、しゃくに障りましたよ。端的には『基地問題は人権問題だ』という話だと思うが、国連へ行って、自分たちだけの考えのストーリーを、しかも『先住民だ。ずーっと差別されてる。被差別民族だ』とかね。2分間でやっていい話じゃない。県民はおそらく、そんなことをいちいち知事に頼んだ覚えもない。一体、いつからわれわれは先住民に(なったのか)。いろんな人が何百年にわたって内地や中国から沖縄に来てミックスしている。『即、ウチナンチューになってしまう』とわれわれは言っている。いろんな考え方がある中で、ああいう差別、先住民論は、とてもとても受け入れられない」

--これから沖縄と日本をどうすべきか

 「普天間の危険性を1日も早く回避することに尽きる。これが原点だ。1日も早くだから、現実的な解でないといけない。『こうであってほしいな』とか夢みたいな話ではなく。一番早くできるのは、どう見ても辺野古だ。日米両政府が20年前に決め、いろんなプロセスも分かってきている。早く普天間を街の中から移し、子々孫々まで安心して枕高くして眠れるようにする。行政の責任を預かるものは、第一に命と暮らしを守るは当たり前のことだ」

 「第2に、沖縄に米軍基地が非常に集中している。米軍専用施設が74%。自衛隊との共用は22%だが、それでも非常に大きい。徐々に徐々に負担を軽減してもらいたい。さらに基地問題といっても事件事故など、いろいろなトラブルがある。これも可能な限りゼロにする。日米地位協定も、日本国が独立国として、もう少しきちっと処理すべきだ。特に(米軍が)何か事件・事故を起こしたときの裁判権の話だ。このあたりはぜひ政府にも取り組んでいただきたい。いろんな問題がある。辺野古だけじゃない。翁長知事が辺野古だけやっていても、基地問題全体はまだまだたくさんある。本土の皆さんにも、ここはじっくり我慢して、必要だということを理解いただければと思う」

「もう1つどうしても申し上げたい。『本土対沖縄』という構図は現実的でないし、おかしいと思う。沖縄県は非常に貧乏県でもあったし、(県民は)北海道から鹿児島に至るまで、いろいろなところに働きにいった。非常に優しくヘルプしていただいた。非常にみんな感謝している。沖縄県ももう少し頑張って一人前になり、ご恩をお返しできるような時期がすぐくると思っている。ぜひ沖縄に、観光も含めて、歌も泡盛もいいですから、ぜひおいでください。もう1つ言わせていただくと、やはり沖縄は経済力を付けないといけない。力を貸していただきたい」

【追記】

 【おまけ】

ますます、不利になる翁長知事!

辺野古移設承認取り消しに疑問の声 「辺野古住民の8割は容認」「法廷闘争で県の勝ち目薄い」

沖縄県名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消し、記者会見する翁長雄志知事=13日、沖縄県庁

 沖縄県の翁長雄志知事が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先である名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消したことで、政府と沖縄県は法廷闘争に突入する公算が大きくなった。だが、政府との対決色を強める翁長氏の姿勢には地元の移設容認派や有識者から疑問の声が上がる。

 「国防は国の専権事項で地方が口を出す問題ではない。承認取り消しは理解できず非常に残念だ」。辺野古移設推進派の島袋吉和前名護市長は翁長氏の対応をこう批判した。島袋氏は「県民すべてが反対のように報道されているが、地元の辺野古の住民は8割以上が条件付きで移設を容認している」と強調。「沖縄は基地問題だけではない。国と協力しなければ振興は進まない」と説明し、政府との関係悪化による沖縄振興の遅れに懸念を示した。

一方、安全保障に詳しい神保謙慶応大准教授は「埋め立て承認プロセスは法的に非常に固い。法廷闘争で県が勝つ可能性は限りなく低く、それは翁長氏も理解しているはずだ」と指摘。「工事をさせない期間を引き延ばし、公約実行をアピールすることが翁長氏の目的になっている」との見方を示した。

 そのうえで「翁長氏に勝算があるとすれば、県民の支持の盛り上がりだ。『世論戦』が最大のポイントになる」と分析。「政府は沖縄に『上から目線』の失礼な態度を取ってはいけない。感情的な反発を招けば本当に沖縄が反政府で一致してしまう」と述べた。

 

「無責任に辺野古反対とは言えない」 民主・岡田代表

朝日新聞 2015年10月20日19時34分

 

12 コメント

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じつに意義深く画期的な訴訟です (山路 敬介)
2015-10-24 09:09:40
宜野湾市民わけても基地周辺住民にとって、騒音や危険性が喧しくいわれて久しい。
しかし、これまでこれが憲法の「生存権」の侵害にあたるものであるのかどうか、司法の判断ははっきり明示していない。(騒音訴訟の下級審において判決文中、生存権の問題であると暗に認めたに等しい下りもあったと記憶しますが。)

もし、本訴訟で住民側が完敗という事になれば「生存権」までは言えないことになり、移転そのものの意義に疑問符がつくが、経緯やこれまでの判決から見れば、そうはならないことは明らか。

一方、この訴訟のキモは被告を国としないで、翁長知事と沖縄県にしたことである。
当然、被告側としては被告の当事者的確性を争ってくるだろう。
しかし、それはむしろ住民側(原告)の思うつぼに嵌る危険性もはらむ。
なぜなら、翁長登場前までの国や県の努力により、「普天間の危険性の除去」は目と鼻の先のところに来ている事が明らかであり、裁判所は明らかな証拠をもってそれを認めるだろうからである。
こうしたこれまでの努力や経緯を無視し、被告己が一人の判断によってちゃぶ台返しをする事は、当該原告である宜野湾市民らの権利の侵害を行なうものである。
そのことの責任はもはや国ではなく、「知事であり県である」という理論には、論理的整合性も十分でありましょう。
つまり、時間もかかり、(政権によっては)そのやり方に稚拙な面もあったが、事ここに至って国のやるべき事は被告救済の観点から必要十分であり、それをなお阻害するものが宜野湾市民のさらなる被害を助長する者である、という事が明らかとなるでしょう。

また、被告は県民ではなく実際の被害者である宜野湾市民である、というところも肝要ですね。
公正と公平を旨とする司法は、県民全体の多数意思(仮にですが)よりも、宜野湾市民の実際の被害救済を尊重せざるをえません。

誠にうまく考えられていて、翁長氏にとっては実に深刻な訴訟をかかえた、と言えそうです。
また、実に訴訟ウォッチャー延髄の妙味ある訴訟ですね。

 
Unknown (東子)
2015-10-24 09:12:58
宜野湾住民訴訟は民事訴訟なので、賠償金額の決定までは裁判所はするが、実際の回収は原告が自力でしなければならない。
例え、翁長知事に8億4千万円の支払い命令が出ても、翁長知事がもっている資産が限度で翁長知事が破産するだけ。
翁長知事が図々しければ、1円も支払わず、そのままもできる。

県は、流石にそんな図々しいことはしないだろうから、県に出された賠償額を支払うだろう。
だとしても、血税には違いないが。
血税はけしからんと言って県職員個人の資産で賄うことはなく、あくまで組織として払う。

もし、知事の分を県が肩代わりしても、知事の財産の範囲内でしか県に返済はない。
それは、知事の負債(払いきれなかった分)まで県が背負うことになり、更に血税を多く使うことになる。
だから、県が肩代わりすることは、ほとんどないと思う。



宜野湾住民訴訟の賠償金を誰が負担するかに関係無く、翁長知事にとって大ダメージであることは、確かだ。
宜野湾市民、GJ。
 
Unknown (東子)
2015-10-24 09:13:25
>「政府は沖縄に『上から目線』の失礼な態度を取ってはいけない。感情的な反発を招けば本当に沖縄が反政府で一致してしまう」

ふ~~~ん、上から目線ね……。
沖縄県民って、何様?
という世論も喚起してしまうことにも注意よ。

「沖縄県民は被害者」である→国(政府)批判への盛り上がりに欠けると、米国の世論に期待し、それも不発に終わると、今度は独立論者と結託して「民族的な迫害」を受けていると世界に向かって国連で宣伝した。
が、同じ県民から否定された。
翁長知事に投票した人の中からも「独立まで任せた覚えはない」という声がある。
 
訂正 (山路 敬介)
2015-10-24 09:29:21
× 延髄
○ 垂涎

 
Unknown (東子)
2015-10-24 09:33:37
県職員は「自分の懐が痛まない」&「県職員の怠惰で辺野古移設が進まないのでない」ので、勝訴にあまり熱心にならない可能性がある。
他方、翁長知事は、知事という地位を訴えられているのではなく、翁長知事個人が訴えられている。
直接自分の財産、名誉に関係するので、勝訴を目指したいだろう。

県と翁長知事に温度差が出るか。
興味のあるところである。
 
Unknown (東子)
2015-10-24 09:33:59
組合=辺野古反対→職員=辺野古反対の図式が成り立つ。
が、職員は無罪であると、県職員が辺野古移設を反対しているのではなく、翁長知事の指示で反対の色を出しているだけで、職員は本来無色であると主張したら、面白いなぁ。
もし、「職員は本来無色であると主張したら」、組合は辺野古反対運動ができなくなる。
 
本日の沖縄タイムス投稿欄 (カウンター58)
2015-10-24 10:48:59

オピニオン面に一般投稿6本(児童生徒限定の「ぼくも私も」除く)。

「防衛費の増大 平和とは真逆」の豊見城市・佐藤悦晴さん(68)は4月5日、5月17日、6月14、26日、7月13日、8月2、16日、9月14日、10月5日に続き今年10回目の掲載。
「万人を尊重し 紛争なくそう」の那覇市・松原須奈子さん(67)は2月5、17日、5月6日、7月30日、9月13、22日に続き今年7回目の掲載。
「ゲート前抗議 子にも見せて」の沖縄市・西原聖一さん(58)は今年初掲載。
「新基地建設で 日米安保強化」の那覇市・大城良司さん(48)は1月5、19日、3月22日、4月1、18、26、28日、5月15、24日、6月9、24日、7月2、15日、8月5、18日、9月1、26日に続き今年18回目の掲載。
「王府時の境界 疑問多い」の宜保安孝さん(38)は今年初掲載。
「感性の多様性」の大宜味村・米須邦雄さん(63)は1月20日に続いて今年2回目の掲載。
 
カギカッコは投稿欄における見出し。

沖縄市の過激派・西原さんの主張は、ゲート前の暴力行動を児童生徒にも扇動するもので、こういう投稿を新聞に載せてはいけない。


 
12億円は程良い金額 (清島清)
2015-10-24 11:33:57
.
賠償額12億円は程良い金額だと思う。
これが1億2千万円だと安すぎて翁長のダメージは無いし、120億円だと額が大きすぎて支払うという感覚が無くなるだろうし、私個人的に翁長の泥拭いの為の血税を使わせたくない。

賠償額を12億円に設定するとして、勝訴したとしても減額されると思うので、原告の人数をもっともっと増やした方が良いと思います。

狼魔人様、原告団の募集先が分かれば教えて頂けますでしょうか。チラシを作って宜野湾市内にポスティングを行って告知いたします。


宜野湾市の現在の人口は9万4400人。
私は法律に疎いのですが、この裁判に勝った後、更に他の宜野湾市民が同じ訴訟を起こせるのでしょうか? どなたか法律に詳しい方、教えて頂きたいです。
もし、起こせるとしたら、市民の1割くらいの1万人は訴訟するかもしれませんね。 巨大な原告団の行動は、沖縄の世論をも変えられることでしょう。

沖縄県民の敵、売 国 奴 の翁長雄志を1日も早く駆除したいものです。
 
1万人訴訟 (狢)
2015-10-24 13:38:52
清島様

>もし、起こせるとしたら、市民の1割くらいの1万人は訴訟するかもしれませんね。 巨大な原告団の行動は、沖縄の世論をも変えられることでしょう。

普天間爆音訴訟に見習って1万人訴訟が実現したら「オール沖縄」も粉砕ですね。
 
今回の訴訟が辺野古にも飛び火して欲しい (清島清)
2015-10-24 14:58:00
狢様
>オール沖縄の粉砕、最高です!
沖縄マスゴミも相当な打撃を与えるでしょうね!


賠償について
別の見方をすると、普天間基地の恩恵を受けず不満を持っている市民が大勢いると思います。
近所の豪邸は基地地主で、うちはボロアパートの住人など。

1万人訴訟だと、一人当り訴訟費用が500円として、賠償額が300万円としたら、不満に思っている人や、貧乏の人たちは皆んな飛び付くでしょう。良くも悪くも。
家族5人だと1500万円の儲け(訴訟費用500円は勝訴で戻って来る)
賠償で儲けるという考え方は悪いかもしれませんが、反日左翼やマスゴミを叩く結果となるから沖縄県民や国民にとっては良いと思います。


辺野古住民の皆様もこの訴訟を見習って、名護市と稲嶺市長を訴えましょう!
漁業に何年も居座り続ける反対派テント。
辺野古の方々がテントの撤去を名護市に陳情しても無視し、事もあろうに稲嶺はこの反対派テントに激励に来るぐらいですから。

また、相手が国(国土交通省)になってしまいますが、キャンプシュワーブ前の反対派テントも訴えて欲しい。

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