■究極の逆転向者ー富村順一■
日頃言論の自由を標榜する沖縄タイムスが、その歴史に致命的汚点を残した事件がある。
沖縄タイムスの御用作家だった富村順一氏から50万円を口止め料として脅し取られた事件だ。
沖縄タイムスが、極左作家富村順一氏の恐喝に屈した理由は、大阪で警備会社に勤務する梅澤元裕元大佐を『鉄の暴風』の記事で「不明死した」と間違って報道した件だ。何しろご存命の方を、「不明死」などとデタラメを書いたのだ。
富村順一氏の恐喝に屈した沖縄タイムスは人目を避けるように「不明死」の記述を削除し口止め料として50万円を脅し取られた。
ところが富村氏は、タイムスの願いを踏みにじって自著で「削除記事」を暴露し大儲けをした。
現在大阪西成区に在住の元極左活動家富村順一氏は、係争中の「大江岩波集団自決裁判」には不自由な車椅子の体を忍て大阪地裁まで来て、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。
⇒左翼に襲われ車椅子生活に!
それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。
富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。
富村氏は、左翼集団の暴力により、手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。
■富村氏が極左作家になった経緯■
富村順一氏は1930年5月3日、沖縄県国頭郡本部に生をうけるが、生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。
【追記】富村氏は2012.04.19に大阪で死亡したとされている。(享年82歳?【追記】2参照)
15歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。
以後全国を放浪するがその間も犯罪を繰り返し、各地の刑務所の出入獄をくり返す。
1970年7月8日、「70年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。
その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。
「日本人よ、君たちは沖縄のことは口をだすな」
「天皇は第二次世界大戦で300万人を犠牲にした責任をとれ」
「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」
結局、逮捕、起訴され、懲役3年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成され、獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄」(富村順一著 拓植書房 1972年)として出版されることになる。
出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそり、この手の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。
ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。
<○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁~35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。
○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。
○送りガナはあえて統一しませんでした。
○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。
○原文中、「 」の部分を傍点をつけ、「 」をはずしました。>
支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。
同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続け、沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。
富村氏の著作を拾ってみても沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。
『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書
『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。
『沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。
『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。
『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。
『皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。
『最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。
『十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。
『富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。
『もう一つのひめゆり部隊 -戦後沖縄の売春婦-』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。
『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。
『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。
◇
富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。
ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い(転載)
毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。
*
嘗て「東京タワ-事件」というのがあった。1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ-特別展望台(地上250メト-ル)のエレベ-タ-前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ-タ-で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル-テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。
私はこの資料を『青い海』大阪編集室で見た。編集長の津野さんから色々来と話を聞かされたが私には関心がなかった。あんなことで世の中が変わるのか、というのが正直な感想であった。大阪でも沖縄でも敬愛する先輩たちが富村裁判の応援に名前を連ねていた。
1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。
私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある。若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)
【おまけ】
沖縄タイムス・コラムに掲載された富村順一氏に関する記事。
1973年は沖縄返還の翌年である。
1973年6月22日http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tomimura.html
沖縄タイムス 唐獅子
意識した熱狂を
わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。
60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。
マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。
ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。
先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。
さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。
【追記】2
ブログ「富村順一死す | 無恥無情/『大阪府警の隠し事』の2012.04.19 に富村の死亡が載っている。
□いつまで経っても、彼の死亡情報がネット上に現れないので、本ブログで述べておく。平成13年秋の生活保護法による保護決定から十有余年に及ぶ生活・住宅・医療扶助を受けつつ、何不自由のない生活を大阪市西成区にて送っていた富村順一は、同区梅南2にある借家を終の棲家として、この冬に死亡した。晩年には車椅子生活となり、昨秋までは電動式のそれを駆って、早朝に自宅を出て勝間街道を北上、鶴見橋商店街を東進して国道26号線を越え、あいりん地区(通称・釜ケ崎)にある労働センター付近を徘徊して露店で買い求めた弁当類を付近の公園や南海電鉄の高架下あたりで食して朝食をすませるという生活を続けていた。
【追記】3
【おまけ】
沖縄集団自決の真実
「沖縄人の見た沖縄戦」①
――座間味戦の裏側にあるもの――
ルポライター(沖縄県国頭郡出身) 冨村順一(大阪市西成区77歳)
平成20年1月10日 昭和史研究所会報 第129号
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残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。
これは本来国家のなすべき事業なのです。
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〔解説〕
平成19年11月9日、大阪地裁。大江・岩波裁判の日。
傍聴券を求める人々の中に車椅子の人物がいた。
この人が配布したA4判3頁の文書は、梅沢・赤松両元隊長の無実を訴え、
大江健三郎に謝罪を求める切々率直な内容のものであった。
この人こそ誰あろう。
かつては左翼反戦平和運動に携わりながら、梅沢裕隊長の「自決命令」の
なかったことを知るや、翻然梅沢氏弁護の運動を開始し、それが宮崎初枝
女史の告白を決意させ、また神戸新聞に「梅沢隊長の命令なし」の記事
を掲載させるきっかけをつくった冨村順一氏(『隠された沖縄戦記』などの著者)だ。
いわば梅沢隊長の冤が晴れる大きな一歩を刻んだ富村氏の正直で義に
強い人柄に、かねて中村は敬服していたが、大江裁判の折に氏の配布した
文書を読んで感銘を新たにし、氏に二、三の質問を含んだ書簡を送った。
それに対して11月30日、氏からテープレコーダーに録音した
委曲を尽した返事を頂戴した。貴重な体験と証言を含む内容なので、
一部を割愛して掲載させて頂くことにした。(中村)
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〔註〕「中村」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B2%B2
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★以下、富村順一氏のテープおこしの本文です。★
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中村先生、今晩は。
先生からの御手紙を拝読し、直ぐに手紙を出そうと思いましたが、
何分にも手足が不自由で遅れたこと申し訳ありません。
話は違いますが、近所に梅南座という芝居小屋があります。
そこの主は沖縄出身の渡口さんというお婆ちゃんです。
このお婆さんは、娘さんやお孫さんも毎日のように私の家に来て
よく私の面倒を見てくれます。
そのような方ですから、私は先生から来た御手紙を劇場のママに見せました。
ママが「返事を書いたのか」と聞くので、ヘルパーに代筆を頼んで、
毎日四、五枚づつ書いていると話したところ、「このように大切なことは
ヘルパーの代筆では駄目だ。
貴方は手足は不自由でも口は利ける。
録音を取って生の声を包み隠さず、テープで差し上げなさい」と仰有った
ので、「テープレコーダーがありません」と話したところ、ママが
「じゃ、買えばいいんじゃないか」と仰有ったので、「そのようなお金は
ありません」と云ったところ、「じゃ、金は私が出すから録音テープで
自分の気持を先生に伝えた方がいい」と仰有って金を置いて行って下さった
ので早速テープレコーダーを買い、録音で先生に座間味戦記のことを
お伝えしようと思っています。
大城明さんの自殺
私はここ十四、五年間、大衆の前へ出たことがありません。
故に梅沢さんはじめ私の知ってる方には、
私が死んだという噂が飛んでいる現在です。
何故、そのような私が今頃、大江裁判傍聴に行こうと思ったのか、
訳があります。
一昨年(平成17年――中村)の10月1日、大阪西成区の津守公園で
大城明さんという沖縄出身の方が自殺いたしました。
彼は若い頃、ベトナム戦争反対、基地反対、部落開放運動なんかに
首を突っ込んでました。また非常に読書家でもありました。
彼が自殺一週間前、突然私の家に来たのです。私の家に来るなり跪いて
「富村さん、本当に申し訳ありませんでした。
富村さんが練馬区の元町公園で二匹の犬と野宿しているときに、
夜六人の仲間と一緒に襲い、二匹の犬を殺し、富村さんに怪我をさせ、
富村さんが車椅子の生活をするようになったのは私達です。
私がそのリーダーでした。
その理由は、富村さんが書いた「座間味戦記 / 梅沢隊長は生きている
――自決命令はなかった」という『隠された沖縄戦記』を読みました。
沖縄には沖縄の偉い大学の先生や文化人が書いた『鉄の暴風』、
沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』、『沖縄県史』がある。
それらは何れも自決命令で、梅沢隊長は従軍慰安婦と爆死したことになっている。
だが富村さんは「隊長は生きている」と云う。
富村さんは右翼から金を貰って嘘の本を書いたに違いない。
このような沖縄人はいない方がいい。
二度と本を書けないようにしてやろうと、富村さんを襲い、袋叩きにしたのは
私達で、そのリーダーが私でした。本当に申し訳ありませんでした」
と云いながら鞄から一冊の本を取り出しました。
宮城晴美さんが書いた『母の遺したもの』という本でした。
十年以上も本と縁がなく、新聞も余り読みませんでしたので、
この本が出ていることも全く知りませんでした。
その本をテーブルの上に置き、「梅沢さんは自決命令を出していない、
ましてや、死んだといわれた梅沢さんが健在であることを知りました
。自分たちは取り返しのつかないことをしてしまった。
富村さん、本当に申し訳ありませんでした」と跪いて詫びたのです。
余りに突然のことで、私も宮城晴美さんが本を出したことも知らず、
どのように大城君に返事をしていいやら、言葉を失い、黙っていると、
大城君が
「富村さん、近い中に私は本を読めない所へ行くんだ。
富村さん、この眼鏡はフランス製です。いい眼鏡です。
もしレンズが合わなければ、レンズだけ替えてお使い下さい」
と眼鏡をテーブルの上に置きました。
彼は読書家でもあったので、私は「じゃあ、お前は好きな本を読まないのか」
と云ったところ、「本を読めない所へ行くんだ」と――。
私はその意味をすぐには理解できませんでした。
それから一週間ほど経って、彼の友人が私の家に訪ねてきました。
「実は大城明さんが自殺しました。
彼の部屋に富村さん宛の手紙がありました」と云いました。
彼はその手紙で何度も何度も「申し訳ありませんでした」と詫びていました。
またお母さん達にも、富村さんに迷惑をかけたから、お詫びするようにと
遺言があったようです。
その後、大城君のお母さんやお姉さんからも電話がありました。
「申し訳ない。何か困ったことがあったら連絡下さい。
可能なことはして上げます」ということでしたが、
私は「何も困っていません」と申し上げてお断りいたしました。
私は大城さんの自殺を考へ(ママ)た場合、まだ沖縄戦は終わって
ないんだと思うと同時に『鐵の暴風』や沖教組が捏造した
座間味戦記を書かなければ、このような自殺は出なかった訳です。
故に私は仮(たと)え手足が不自由でも、車椅子で外へ出かけることが出来る、
今度の大江裁判でも傍聴して、加納であれば事実を訴えようと思い、
裁判所へ行きましたが、残念ながら、傍聴出来ず帰ってきました。
その後、大阪の関係者から二回ほど話を聞きに来ましたが、初対面であり、
どのような方かよく分からないので一部始終は話していません。
だが、先生のお手紙を読み、劇場のママからも、知ってること思ってる
ことを全部包み隠さず先生にお伝えするようにと云われておりますので、
私も知ってることを包み隠さず先生にお話しようと思います。
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