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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

執筆者が語る『鉄の暴風』裏話 『ウソの暴風』か?追記あり

2023-03-15 04:23:05 | ★集団自決

 

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読者の皆様へ

3月26日(8月15日)発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』(仮題)の編集作業が現在進行中です。資金難により最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。

そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。

★すでに御献金賜った方には、出版本を贈呈したいと思いますので、下記メルアドに贈呈本の送り先、住所氏名をご一報いただければ幸いです。

管理人への連絡⇒ezaki0222@ybb.ne.jp

※申し訳ありません。 諸般の事情により発売日が8月15日(終戦の日)と大幅に遅れる公算が大きくなりました。 しかし、内容には自信を持っていますのでご期待ください。

八月や六日九日十五日」詠み人多数。

米軍の民間人大量虐殺がなければ「沖縄・集団自決」も起きていない。

 

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文末に【追記】あり。

集団自決の歪曲報道は『鉄の暴風』に始まると言われる。 『鉄の暴風』が米軍のプロパガンダ本として米軍の厳しい検閲の結果だということを示す比較的最近の記事を紹介した。

それがこれ。↓

<沖縄タイムス 1998年1月6日 朝刊 6面>

<翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。

                   ◇

大阪地裁の深見裁判長は、被告側が隊長の自決命令の証拠として提出した『鉄の暴風』に対しては、「戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を有するものと認めるのが相当である」と評価した。

その瞬間、原告側が提出するいかなる証拠も、『鉄の暴風』という間違った基準で判断されることになる。

それは「戦後民主主義」の呪縛に絡め取られた裁判長が、その象徴とも言える大江健三郎と岩波書店を必死に護った瞬間でもあった。

『鉄の暴風』が米軍の強力な検閲の元に出版されたということは、ジャーナリストの鴨野守氏を始め多くの研究者によって明らかにされている。

原告側に立つ論者が、『鉄の暴風』の生い立ちのいかがわしさや数多くの捏造箇所を指摘しても、被告側としては、裁判長が一定の評価をした以上、なるべくこの問題には触れずに頬被りをするのが得策である。

ところが『鉄の暴風』の集団自決の章の執筆者の遺稿に、誤記の部分を単なるウワサで書いたと告白し、「ウワサだけど当時は仕方なかった」と正直に吐露している部分がある。

詳細については『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(PHP研究所 秦郁彦編)の《『鉄の暴風』と太田良博》(171頁~180頁)を参照されたい。↓

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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関連エントリー⇒星雅彦氏の疑義!『鉄の暴風』と地裁判決へ

『鉄の暴風』の取材背景 梅澤隊長“生死”の誤記 


今回これに加えて、張本人の沖縄タイムスが自社の出版物で、しかも『鉄の暴風』のもう一人の執筆者・牧港篤三氏の談話として米軍の圧力について語っている記述を発見した。

沖縄タイムス発行の『沖縄の証言』(上巻)(沖縄タイムス編 1971年)が、『鉄の暴風』発刊の裏話を7頁にわたって掲載し、「米軍の“重圧”の中で」「三カ月かけて全琉から資料を集める」「書けなかった、ある一面」などの小見出しの下に、

米軍の監視のもとに書かざるを得なかった執筆の内幕を書いている。

1971年といえば沖縄が返還される一年前。

まさかその30数年後に『鉄の暴風』が原因となる裁判沙汰が起きようなどとは夢想もせずに、二人の執筆者は気軽に本音を吐いていたのだろう。

関連部分を一部抜粋する。

原稿は、翁長俊郎(元琉大教授)に翻訳を依頼し、英文の原稿を米軍司令部へ提出した。 当時の軍政長官シーツ少将が、感嘆久しくした、といううわさも伝わった。 にもかかわらず、しばらく反応はなかった。 あとでわかったのだが、米軍司令部で関係者が目をとおしたのち、「オレにもよませろ」と、ほかにも希望者が続出して許可が遅れたのだという。 米側にも公表だったわけである。>『沖縄の証言』(上巻)(303頁)

脱稿後翻訳して米軍に出版の許可を仰いでいることはこの記述で明らか。

「鉄の暴風」(初版)の序文には、米軍のヒューマニズムが賞賛されている。 「この動乱を通し、われわれが、おそらく終生忘れ得ないのは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。 このことを特筆しておきたい」。 たしかに、戦場の各所で、多くの住民が米軍に救出され、米軍に暖かいイメージを抱いたとしても不思議ではない。 沖縄住民は日本に見離され、米国の被保護者に転落していたのだから。 
しかし、「鉄の暴風」が米軍のヒューマニズムを強調したのは、そこに出版の許可条件を満たすための配慮もなされていた、という時代的な制約を見落としてはならないだろう。
>(304頁)

太字強調部分は多くの研究者が言及していたが、沖縄タイムス自らがこれを認めた記事は珍しい。

1949年5月、具志川村栄野比で戦後のラジオ放送の第一声を放った琉球放送(AKAR)は、翌年10月1日の午後7時45分から、毎晩きまった時期に「鉄の暴風」-全文433ページを朗読放送した。 朗読担当者は川平朝清アナウンサー。 クラシックの音楽をバックに流して効果を出したという。>(305頁)

「鉄の暴風」のラジオ放送は、1945年(昭20)12月9日からNHKで放送された、ラジオ番組「真相はこうだ」を明らかにい意識していた。

「真相はこうだ」は、NHKの独自番組のように放送されたが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報教育局が担当した。

内容は満州事変以来の軍国主義の実態を暴露するドキュメンタリーで、アメリカの都合で故意に歪曲された部分も少なくなかった。

ちなみに沖縄版「真相はこうだ」ともいえる「鉄の暴風」のラジオ朗読をした川平朝清アナウンサーは、ディスク・ジョッキーのジョン・カビラ、元日本マクドナルドマーケティング本部長の川平謙慈、そして俳優の川平慈英という3人の父親である。

苦しかった執筆条件
牧港篤三談(執筆者の一人ー引用者注)

戦記執筆前に日本の戦記出版類をたいてい読み、太田君もトルストイの「戦争と平和」を精読したと言うことでした>(307頁)

「鉄の暴雨風」の問題の箇所「集団自決」を執筆した太田良博氏は、沖縄タイムス入社直前まで米民政府に勤務する文学愛好家であった。 

戦前からのベテラン記者であった牧港篤三氏が執筆の前に準備として目を通したのが日本の戦記物だったのに対し、文学青年の太田氏が精読したのは戦記の類ではなく、トルストイの「戦争と平和」であったという事実は「鉄の暴風」の性格を知る上で興味深いものがある。

米軍占領下の重ぐるしい時代でしたから、米軍関係のことをリアルに書けば、アメリカさんは歓迎すまい、といった、いま考えると、つまらぬ思惑があったのも事実です。 タイムリーな企画ではあったが、書く条件は苦しかった。>(307頁)

「戦後民主主義」の呪縛に取り込まれた深見裁判長が、必死になって大江健三郎と岩波書店を守るための根拠となる『鉄の暴風』に誤った評価を与えても、執筆者の太田良博氏や、牧港篤三氏がその遺稿や談話で「『鉄の暴風』はウワサで書いた」とか「米軍重圧の思惑のもとに書いた」と吐露している以上、『鉄の暴風』に資料的価値を求める深見裁判長の判断は、逆説的意味で正しいという皮肉な結果になる。

つまり、書かれた昭和24年当時の沖縄が、戦記を書くにはウワサで書くのもやむえなかった時代であり、米軍のいやがることは書けなかった時代であったという歴史を知るために、『鉄の暴風』の資料的価値は充分にあるということになる。

 

今でも『鉄の暴風』を沖縄戦記のバイブルと狂信する方々は、二人の執筆者の正直な告白には「三匹の猿」のマネをし続けるのだろうか。

見ザル

聞かザル

言わザル

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日光東照宮の左甚五郎作

 

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見ざる...

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いわざる...

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着飾る...  なんちゃって!(某ブログから頂きました)



【追記】

太田良博記者が『鉄の暴風』を書いたとき、米軍の顔色伺いながら書いたと、吐露する場面が『ある神話の背景』に描かれている。 以下は『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編)よりの引用です。

曽野綾子は『ある神話の背景』の取材で太田にあったときから、すでに太田の記者としての危うさを察知していた。 曽野は、逆説的に“玄人”という表現を使って、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。

《太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。「太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。 太田氏はそれを私情をまじえずに書き留める側にあった。 「述べて作らず」である。 とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。 
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂所あたりでは、又見方が違うという。 違うのは間違いなのか自然なのか。」(「ある神話の背景」)》

驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その当時の米軍の思惑を自著に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で書いたことを正直に吐露していたのである。
このとき太田は後年曽野と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風」を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。
(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実」(183頁、184頁)

 

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「参謀長」と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

2023-01-08 08:19:27 | ★集団自決

 

 

 

 

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戦時を知らない現在の視点で、沖縄の「集団自決」問題を見ると,

分かりにくいのは当時の肩書である。

防衛隊員は民間人でありながら軍に協力していたため最小限の武器弾薬を保持していた。

だが、そのため手榴弾の扱い等で後に誤解を生むことになる。

兵事主任や兵事係とは軍の地位ではなく村役場の職名であり、女性の兵事係もいた。

更に正規の軍人より軍人らしい言動をした民間人がいたり、軍人より「権力」を持った民間人がいた事実も判明してきた。

そうなると、従来の「残酷な軍人VS従順な住民」という構図を、もう一度考え直して見る必要があるだろう。

そして改めて問う。

艦砲射撃でパニック状態の座間味島で、

「軍命令」は誰が、誰に向かって下したのか。

                      ◇

座間味島では、確かに援護法以前から、《隊長命令神話》が風説としてあった。

住民の手記や宮村盛永氏の『自叙伝』などの資料をみると、多くが「忠魂碑前での玉砕」に向けた集合命令を受けたことを証言している。しかし、そこには命令の主体が書かれていない。ただ、多くの村民は、「忠魂碑前に集合し玉砕する」という命令を、軍命令と受け取り、それが後に風説のもととなったと考えられる。宮城晴美氏は『母の遺したもの』においてこう解説している。

「『命令は下った。忠魂碑前に集まれ』と恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤戦隊長からの命令と思った。というのも、これまで軍からの命令は防衛隊長である盛秀を通して、恵達が伝令を務めていたからある。」

宮城初枝氏が「真実の歴史を残す為には此れから私のやるべきことが残っております。」として原告梅澤氏に宛てた手紙の中で、「忠魂碑前の集合は、住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。」と述べ、住民の誤解と村の方針のために虚偽に加担したことを梅澤さんに謝罪し、こう結びんでいる。「お許し下さいませ。すべてが戦争のでき事ですもの」と。

 真実、玉砕命令を下したのは梅澤部隊長でも軍でもなかった。

 それを明らかにしたのが、まさに宮城初枝氏の勇気ある証言であった。その証言をもとにして娘の晴美氏が書いた『母の遺したもの』には、自決のための弾薬をもらいに行ったところ梅澤部隊長に「お帰り下さい」とはっきりと断られた助役の宮里盛秀氏らが、次にどういう決断をしたかが、こう語られている。

「その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛秀は初枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じた。

 盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」

 宮里盛秀助役が、その単独の判断か、宮平正次郎収入役及び玉城盛助国民学校長らとの協議の上での決断かは不明だが、自らの判断を「軍の命令」ととれるかのような形で、村内に指示したというのが実態だった。

 

                                                 ◇

■師範学校出は村の誇り■

座間味島の「集団自決」の場合、村の三役である村長、助役、収入役そして校長までが自決した。

最後に本部壕で梅沢隊長と自決を巡って言い争ったという村のリーダーの中で唯一の生き残りといわれた女子青年団の宮城初枝氏も戦後亡くなってしまった。

>「その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。・・・・・・盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」

村役場の三役が村のリーダーであったように当時の学校の先生も村のリーダーであった。

現在の感覚で学校の先生といえば、反戦平和を叫ぶ日教組の連想から、軍隊や軍人とは対極の軍国主義とは縁遠い存在に考えがちだ。

当時、沖縄の最高学府であった師範学校を出た者は村の誇りであり、現在の大学卒などとは比べ物にならないほどの尊敬の的だった。

■師範学校は軍国主義の巣窟だった■

だが戦後日本の民主化のため、GHQ が軍国教育の温床として解体の第一の目標にしたのが、教員養成の師範学校制度だったという。

現在では測り知れない師範学校の雰囲気をウィキペディアは次のように説明している。

全寮制の師範学校の寮生活は悪名高き大日本帝国陸軍の内務班そのままで、上級生への絶対服従を植えつけるため下級生へのいじめ、しごきは日常茶飯事であり、古事記の記述を盲目的に正史として教えるなど教育内容にも問題が多く、その卒業生たちが軍国主義教育の担い手となり、教え子を続々と戦地に送り続けてきたという批判が出たのである。かかる教育の結果として、いわゆる「師範タイプ」と称される、形式主義、権威主義、盲目的服従主義、など融通がきかず杓子定規で型にはまっている教師を大量に生み出しており、このような「師範タイプ」の存在は戦前においても問題視されていた。

戦前の沖縄の教師は代用教員も多かったが師範学校を卒業した正規の教師は訓導と称し、訓導を輩出した出身地では「師範学校出」と呼ばれ村中の尊敬の的であった。

■座間味村のリーダーたち■

座間味島に米軍が上陸する日の前夜3月25日の夜、本部壕で梅沢隊長と村の指導者達が議論したことが知られているが、今年になってその場にいた人物の「新証言」があった。

 この証言をしたのは、座間味島在住の宮平秀幸氏(78)。昭和二十年一月、防衛隊員となり、本部壕(ごう)にいた梅澤隊長の伝令役を務めた人物である。宮平氏によれば、米軍上陸の前夜、昭和二十年三月二十五日午後十時ごろ、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役と国民学校の玉城盛助校長、宮城初枝・女子青年団長、村役場の宮平恵達さんが本部壕を訪問。野村正次郎村長は遅れて到着したという。(世界日報 3月3日)

「集団自決」当時の座間味島には少なくとも二人の「師範学校出」がいた。

学校長や教頭は師範学校卒の訓導の肩書が必要であったので玉城盛助校長も師範学校卒。

だが、もう一人の「師範学校出」の人物・教頭の名が何故か座間味島の証言から欠落しているのが不思議だ。

玉城校長は「自決」して亡くなっているが、教頭は生き残り戦後も沖縄で著名人として活躍している。

勿論戦争体験者の全てが証言をするとは限らないので、戦後自分の体験を一切語らない人もいるだろう。

だが、この人物は『鉄の暴風』の取材も受け「伝聞証言」をしているくらいだから自分の体験を一切語らないというのも不可解である。

宮里盛秀助役が、その単独の判断か、宮平正次郎収入役及び玉城盛助国民学校長らとの協議の上での決断かは不明ですが、自らの判断を「軍の命令」ととれるかのような形で、村内に指示したというのが実態だったのです

梅澤隊長に「自決するな」と断られた野村村長、宮里助役、宮平収入役そして玉城校長たち村のリーダー四人は、

その後どこかで相談の上自分らの判断を「軍の命令」として村内に指示した・・・。

その四人は自らも「集団自決」を行って全員死亡した。

そして村のリーダーの1人教頭は戦禍を生き残り、沖縄タイムスの取材を受け“渡嘉敷島”の証言をした。

■「参謀長」と呼ばれた男■

ここで、「いわゆる「師範タイプ」と称される、形式主義、権威主義、盲目的服従主義、など融通がきかず杓子定規で型にはまった師範学校出身の人物像が浮かび上がってくる。

座間味島で「参謀長」と呼ばれた民間人がいた。

勿論沖縄守備軍で司令官の牛島中将を補佐する第三十二軍の参謀長は長勇中将であり、座間味島に参謀長がいるはずはない。

しかし、当時の座間味島には戦隊長の梅澤少佐より10歳ほど年上で彼に勝るとも劣らないほどの発言権を持ち「参謀長」と呼ばれる民間人がいたのだ。

昨日のエントリーで紹介した座間味島の語り部・宮城恒彦氏の著書『潮だまりの魚たち』の中に次のようなくだりがある。

教頭先生は参謀長

(略ー飲み水を求めて日本軍の参謀本部になっていた友人の家の水場に、証言者がそれとは知らず水を汲みに行ったときの様子を次のように記している。)

「誰だ!何しに来た」

突然、陰から怒鳴られました。 びっくりして、立ちすくんでいるトメの前に、1人の日本兵が銃剣を突きつけるようにして歩み寄って来ました。

「何の用で来たか」

「水を汲みに来ました」

「参謀長の許可がなければ駄目だ

「子供たちが飢えて、壕の中で水を待っているのです」

「駄目だ」

「この急須一杯分でいいのです。 近くの水は腐ってどうしても飲めないのです」

「駄目だといったら、駄目だ」

「どうかお願いします」

トメはとうとう泣き出しそうな声になりました。

二人のやり取りの声を聞いてか、家の奥の方から軍服で身を固めた男の人が出てきました。

「何事だ!」

兵隊に声をかけながら近寄ってきました

「先生!」

トメはその人に飛びついていきました。 村の学校の教頭先生だったのです。

「なんだ、トメか、どうした」

「水を汲みにきたのです」

「必要な分はいくらでも持って行きなさい」

恩師に会って、「ほっ」としたトメは水を飲むのも忘れて先生に話しかけました。

「元気ですか。 奥さんたちはどうしていますか」

「手榴弾を渡しているので、おそらくは今頃は『玉砕』して、死んでしまったでしょう」

「うちのタケ坊も空襲でなくなりました」

「そうか立派に戦死したか」

ひんやりした星月夜の下で、しばらく二人の会話が淡々と続いていきました。 急須に水を満たして、先生にお礼を言ってから帰ろうとしたら、先生はすでに家の中に姿を消していました。 

入り口に銃を右手に支えて立っていた日本兵は、さっきとはうって変わって、トメが門を出る時、声をかけてくれました。 

「最後まで頑張ってください。 必ず友軍が助けにきますから

その声は空しく夜空に消えていきました。
(『潮だまりの魚たち』宮城恒彦著 112-113頁)
  
■軍人より軍人らしい民間人■

軍服で身を固め、「参謀長」と日本兵にも呼ばれる民間人。

それまで村人に強圧的だった日本兵もこの人物の鶴の一声で人が変わったように態度を軟化させる。

そして、軍人以上に軍人らしく軍服で身をかためた民間人は、次のような発言をしている。

「手榴弾を渡しているので、おそらくは今頃は『玉砕』して、死んでしまったでしょう」

「そうか立派に戦死したか」

彼を教頭先生と知る者でなければ軍人と見まごう言動だ。

これまで考えられていた「軍国主義的・軍人VSそれに怯える民間人」といった構図が崩れ去るような場面である。

「参謀長」と呼ばれた軍服姿の教頭先生は銃剣を構えた日本兵より「権力」を持っていたのだ。

ここで、先ほど述べた、戦後GHQが軍国主義の温床だとして解体の目標にした師範学校卒のいわゆる「師範タイプ」と称される教員の姿が脳裏に浮かんでくる。

謎はさらに続く。

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沈黙の謎 証言を阻む南の島の呪縛

2022-12-28 14:18:06 | ★集団自決

 

 

 

 

 

最も大きな障害は体験者の沈黙である■

沖縄戦、それも、特に「集団自決」の体験者の証言の聞き取り調査では、ある程度の話はしても肝心のポイントになると「多くを語らない」とか、場合によっては始めから沈黙を守る、とはよく聞く話である。

大城将保(嶋 津余志)元県立沖縄史料編集所主任編集員は、

その豊富な聞き取り調査の経験から、(真相解明の)「最も大きな障害は体験者の沈黙である」と断言する。

そして体験者のかたくな沈黙の理由をその著書『沖縄戦を考える』(ひるぎ社)の中で次のように分類している。

①あまりに残酷な目にあったために思い出すだに精神の苦痛に耐えられないという場合。 

②自分が真相を語れば関係者の誰かにめいわくが及ぶだろうと配慮している場合。 この場合共同体のタブーになっている場合が多い。

③遺族年金などとの関係で、すでに公式化された記録とくいちがう真相を語ると自分に不都合になる場合。

特定の思想信条の立場から、戦争の悲惨な側面を強調するのは好ましくないと考えている場合。

 

沖縄の新聞に登場する沖縄戦体験者の、

「多くを語りたがらなかった」といったフレーズは、

上記①の理由の「想いだすのも残酷だから」といった印象があるが、

真相に触れる重要なポイントでは、むしろ②と③が複雑に絡んで真相解明の障壁になっている。

これは、「軍命あり派」の大城氏も認めていることである。

「多くを語らなかった」どころか、事件当時村のリーダーであり、また島のリーダーの中の唯一の生存者でありながら、

自分の体験談を一切か語らなかった山城安次郎氏の言動は今でも謎に満ちて不可解だ。

山城氏の記録はネット上には、渡嘉敷島の「鬼の赤松」に関する伝聞証言のみで他には一切無い。

沖縄では普通のオジーオバーが長寿の記念等で「自伝」を出すひとも多く、「集団自決」関係者にも自決を指導したとされる座間味村助役宮里盛秀氏の父も自伝を出している。

ちなみに筆者の友人の母親も普通のオバーだが長寿のお祝いに自伝を出して親族一同に配ったという。(執筆・編集は長男があたった)

そんな沖縄の風潮の中で戦後沖縄のマスコミ業界を歩み、沖縄テレビの社長を務めたほどの著名人が「自伝」はおろか一冊の著書・共著も無く沈黙を守ったままなくなったのは不自然な話だ。

山城氏が沖縄テレビ社長に在任中に同社で勤務経験のある友人に同氏の印象を聞いてみた。

だが社長と一平社員では会話する機会もほとんど無く、唯一回だけ入社試験で社長自ら面接を行ったときの会話だけしか記憶に無いという。

その時は、「ロマンスグレーの温厚な紳士」といった印象だけで、勿論「参謀長」と呼ばれた男の面影は微塵も無かったという。

 

自由主義史観研究会機関紙『歴史と教育』(5月号)に掲載の拙文を下記に引用するが時間のある方は下記エントリーに目を通してから読んでいただくと幸いです。

「証言集」に見る新たな謎★教科書執筆者と体験者が初対面

「参謀長」と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

続・参謀長と呼ばれた民間人★座間味で何があったのか

「眼前の敵」 座間味で何があったか

悲劇を呼ぶ濃密な人間関係

                     ◆

証言を阻む南の島の呪縛(『歴史と教育』6月号掲載記事)

狼魔人(沖縄在住ブロガー)
「狼魔人日記」

◆取材記者と取材対象者

ある事件の取材に奔走する新聞記者を、その事件の体験者が記事にしてくれと訪問してきた。記者にとってタナボタ式のこんなオイシイ話は滅多にないはずだ。しかも社を挙げてこの事件を単行本にするという。場合によっては、その体験者を中心にした特集を企画しても良いはずだ。ところがその体験者は、自分の体験は語らず類似の別の事件の伝聞情報のみ語った。結局出版された本には、この体験者の体験記は一行も記されることはなかった。

『鉄の暴風』取材中の沖縄タイムス大田記者と彼を訪問した当時の座間味村助役山城安次郎氏のことである。座間味島の集団自決が起きた当時、山城氏は座間味村の国民学校教頭をしており、校長や村の三役と並んで島のリーダーだった。当時の島のリーダーは山城氏を除いて全て集団自決で亡くなっていたので、その時山城氏は、集団自決前後の村の状況を最も知る人間だった。だが実際は『鉄の暴風』には山城氏の証言や彼に関する記述は一行も掲載されていない。折角の実体験者の訪問を受けて大田記者は「座間味の出来事」を何も取材しなかったのだろうか。獲物には貪欲なはずの新聞記者が、ネギを背負った鴨を前に、座間味での集団自決を取材しなかったというのはいかにも不自然だ。  

山城氏が取材を避けているのならともかく、自ら事件告発のため新聞社を訪問した山城氏が、自分の体験を一言も話さなかったのも、同じく不自然な話だ。とすると大田氏は記者魂を発揮して取材し、山城氏は体験談を詳しく話したと考えるのが自然だろう。

では何故大田記者は、山城氏の体験談を記事にしなかったのか。二人が既に亡くなった今となっては、推測に頼る以外に術はない。  


◆「軍の命令」という思惑  

沖縄を占領していた米軍は、沖縄を日本から分断して、永久占領を目論んでいた。そのため沖縄人宣撫のために発刊されたのが『鉄の暴風』であり、同書は米軍のプロパガンダの役目を担っていた。『鉄の暴風』に山城氏の体験談が記載されなかったのは、太田氏と山城氏の夫々の思惑が合致したからではないか。その思惑は、更に次の三つの思惑に分けられる。    

〈米軍の思惑〉  
米軍にとって、山城氏の体験談を記載することは、「残虐な日本軍」の印象を県民に植え付けるのが目的の『鉄の暴風』の主旨にそぐわなかった。  

〈島の思惑〉  
戦後、村の助役として戦後補償に奔走したとされる山城氏は、「援護法」を集団自決の犠牲者全てに適用させたかったが、実際は軍命令ではなく村のリーダーのパニックによる誘導が原因だった。
 
〈加害者と被害者の思惑〉
集団自決といっても、座間味島の場合、手榴弾による自決者は暴発による犠牲者が数名だけで、他は農具等による殺し合いが主であり、自決を「手伝った人」も多くいた。そして生存者の中には、自らが被害者であり、また、加害者の立場に立たされた人が多くいた。  

この三つの思惑を見事に一致させる唯一のキーワードが「軍の命令」である。「軍の命令」さえあれば、自決の「手伝い」をした生存者は、贖罪意識のいくらかは救われる。そして現実的な問題として、「援護法」を自決した住民へ適用させるという思惑と、米軍の『鉄の暴風』発刊への強力な思惑が一致して、山城氏の体験証言は、以後、永久に闇に葬られることになる。  

山城氏はその後、島を出て、新聞社編集長を経て、テレビ会社に入社し、マスコミ業界を歩みつづけ、沖縄テレビの社長にまで上り詰めるが、大田記者とどのような約束があったのか、彼は一切自分の体験を語ることはなかった。  

ここに「残虐非道な日本軍の命令による集団自決」という神話が誕生する。「軍の命令」さえあれば、八方丸く納まったのだ。  


◆死亡広告は血縁社会の象徴

沖縄では沖縄タイムス、琉球新報の両紙が読者を二分している。地元紙の極端な偏向記事をブログネタにさせてもらっているが、地元の読者から次のようなコメントを何度か頂いた。

「死亡広告さえなければ、偏向した地元紙の購読は即刻やめるのだが…」

新聞の死亡広告は、沖縄県民の人間付き合いには、不可欠のもので、これだけは毎朝欠かさず目を通すという人もいる。沖縄の地元新聞を初めて見る他県人は、一面または、日によっては、二面にまたがる死亡広告欄に度肝を抜かれる。

常識に従うなら、死亡広告とは、故人がその地方で社会的に知名度が高く、特に交際範囲が広い場合に、新聞に掲載するもの。ところが沖縄の死亡広告は、本土のそれとは趣を異にする。

沖縄では、ごく一般の県民の死亡広告が、連日紙面を大きく占拠する。しかも本土紙の「訃報」記事とは異なり、故人の生前の業績等には一切触れず、故人の親戚縁者の名前を孫から曾孫、従弟、従妹そして義兄弟に至るまで詳細に記載する。親戚縁者は沖縄に留まらず千葉在、ハワイ在と世界中に在住する縁者の名前にも及ぶ。死亡広告に記される親類縁者の名前が、百人に及んでも、沖縄ではけっして珍しいことではない。死亡広告は、沖縄の濃密な血縁社会と人間の絆を示す象徴である。

濃密な人間の絆は、祖先を大事にする沖縄独特の風習であり、それに基づく相互扶助の精神は、「結いまーる」といった形で現在も残っている。

だが濃密な血縁社会の絆も、大事件に遭遇すると人々の判断を大きく狂わす場合がある。周辺を海で囲まれた沖縄の県民性は、現在では一見陽気な印象を受けるが、古い世代の県民性は、逆に内向的とされており、特に外部の人には閉鎖的になることが多かった。沖縄の離島の村落では更にその傾向が強く、血縁・地縁・職縁が渾然一体となり、島全体に閉塞的な空気を作り出す。  

沖縄人は、他県人に比べて、年寄りを大事にするといわれるが、戦前の沖縄では、年寄りは、地域社会の長老として大きな発言権を持ち、重要な決定事項には長老の意見が大きく反映された。  

リーダーの意思決定に異を唱えるものや遵守しない者に対しては、本人や肉親、更に関わった者まで異端視される。集団自決は、そんな沖縄の、渡嘉敷と座間味の両島で起きた悲劇である。そして村長を筆頭に村のリーダーが、集団自決の意思決定に大きく関わった。  

野生動物でも人間でも、大事件に遭遇しパニックになった集団のリーダーは、往々にして判断を誤る。座間味、渡嘉敷島の集団自決では、周囲を敵艦船に包囲され袋のネズミ状態に直面した村のリーダーの意思決定がとんでもない方向に向かった。そして誰もこれに逆らうことが出来なかった。


◆宮城初枝氏の口を塞ぐ島の呪縛

座間味島の集団自決の生き残りである宮城初枝氏は、証人として「援護法」の調査に来た厚生省の役人の調査に臨む前に、村の長老から脅迫的圧力を受け、「軍の命令」を証言する。  

その証言と自分の書いた「軍の命令」の手記が、梅澤隊長の運命を狂わしたことを知り、血縁社会の呪縛と真実の狭間で初枝氏は悩み葛藤する。『家の光』に虚偽の手記を書いてから数十年後の昭和55年、初枝氏は梅澤氏への贖罪意識から梅澤氏に面会し、「あなたが命令したのではありません」と真実を告白した。


◆更なる悲劇の登場

初枝氏は梅澤氏への真実の告白に留まらず、改めて事実を記した手記を出版することで、流布する「梅澤命令説」を覆そうとした。村の長老の脅迫的とも言える地域社会の呪縛を直に経験した初枝氏は、戦後生まれで村のしがらみにはとらわれないと思われた娘晴美に、真実を書き綴った一冊のノートを託す。  

晴美氏は、母の死後『母の遺したもの』を出版することになるが、それにより新たな悲劇が晴美氏を襲うことになる。戦後も〈当事者〉の親族に絡みついてくる悲劇の島の呪縛である。  

「軍の命令による自決」という虚構が、軍への協力という名目で戦後の村を潤していた。軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満から零歳児の戦没者まで、「軍の命令」による死亡として「準軍属」とみなされ、年金の対象とされていたのだ。  

当然のごとく晴美氏は、島の関係者から猛烈なバッシングを受けた。血縁社会の島では、〈当事者〉遺族が年金の恩恵を受けており、そのしがらみは、「偽証言」に関わった初枝氏や村の長老に留まらず、村の年金担当課長にまで及んでいた。  

島ぐるみで守ってきた「島の秘密」を、『母の遺したもの』で暴露され、晴美氏へのバッシングは激しさを増し、「年金が差し止められたら晴美氏が補償してくれるか」との声もあったと聞く。


◆左翼勢力の呪縛

晴美氏の悲劇は、母から引き継いだ呪縛だけではなかった。日本復帰後、急速に台頭してきた沖縄左翼勢力の呪縛である。戦後生まれの晴美氏は、地元の大学に進み左翼学者安仁屋政昭教授の薫陶を受け、地元の「プロ市民」になっていた。  
自著が大阪地裁の原告側証拠として提出されるや、被告側証人となった恩師との板ばさみという苦境に立たされることになる。晴美氏は母の遺言に反して被告側の証言台に立つことになるが、証言直後に『母の遺したもの』を書き変えるという恥ずべき行為に及ぶ。  

母は戦中戦後と島の呪縛に悩んだが、これを引き継いだ娘は新たな左翼勢力の呪縛に巻き込まれることになる。集団自決が親子二代に渡って引き起こした悲劇である。


◆二人の体験者の戦後

渡嘉敷島の生存者金城重明氏は、親兄弟のみならず、他人の自決にも「手を貸した」。島を出た金城氏は「軍の命令」と現在も叫び続けているが、そうしなければ戦後生きてはいけなかった。一方、座間味島の生存者山城安次郎氏は、自分の体験を黙して語らないまま、真実を墓場まで持ち込んだ。
 
集団自決の生存者は、単に死にきれなかった人たちだけではなく、金城氏や山城氏のように、他人の自決を「手助け」したり、自決に誘導した人が大勢いる。  

集団自決の真相は、これら生存者の証言に絡みつく濃密な共同体の呪縛と、死んだ人への贖罪意識を抜きにしては解明できない。

特集・沖縄集団自決:虚構の軍命令 不当判決篇の目次へ   

特集の目次へ

                       ◆

大江健三郎著『沖縄ノート』は、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』が主張する「軍命令による集団自決」を大前提として書かれ、1970年の初版以来、今日まで59版(合計30数万部が発行) を重ねてきた。
 大江氏は慶良間列島の座間味及び渡嘉敷両島で集団自決を命令したとされた梅澤裕少佐と赤松嘉次大尉らを、〝屠殺者〟と呼び、その行為を〝人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊〟と断罪した。

人は「軍命」で死ねと言われて容易に死ねるものではない。ましてや自決命令をした軍人は現場に臨場しておらず、米軍との応戦で大童の状況にあった。

 少なくとも2023年1月の時点で「日本軍が集団自決を命じた」という客観的証人も証言は一件も存在しない。

これらは1973年の曽野綾子氏の『ある神話の背景』(ワックBUNKO「『集団自決』の真実」と改題)に詳述されている。

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★集団自決、変節漢の専門家吉浜忍沖国大教授

2022-07-23 14:50:54 | ★集団自決

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<金口木舌>歩み振り返る1年に

 
 

 沖縄戦研究者の吉浜忍さん(72)が先月、これまでに書き記した沖縄戦に関するコラムや高校教師時代の思い出を一冊の冊子にまとめた。タイトルは「教えることは学ぶこと」

▼第1部の沖縄戦を読めば、沖縄戦研究と平和学習の実践の足跡をたどることができる。第2部は高校編。吉浜さんが気に入っているのは、こちらだという
▼コーラの空き缶で作り上げた守礼門、女子生徒とその彼氏を巻き込んだ久高島祭祀(さいし)の模型作り、黒船の模型を作り泊港を走らせたことなど、生き生きとした学園生活の様子が描写されている
▼初めて赴任したのは久米島高校。1972年、日本復帰の年だった。「復帰を考える」全校討論集会で、島への自衛隊駐屯を巡り生徒と激論を交わした。沖縄戦での日本軍による住民虐殺を想起させる問題となっていた
▼今年は復帰50年。当時の高校生も、もう60代後半。今の沖縄をどう見つめているだろうか。復帰前の沖縄、復帰後の沖縄。忘却のかなたにする前に、自らの歩みを振り返る、そんな一年にするのも良いだろう

今回は県史「沖縄戦」の編集責任者吉浜忍沖国大教授の変節理論を俎上に上げよう。

沖縄タイムスが子ども向けに発行する「わらびー」5月13日付は16ページに及ぶ「沖縄戦」特集を組んでいる。

その中で吉浜教授が子どもたちを相手に「反日沖縄戦」を説いている。

一々取り上げるのは面倒なので、過去ブログ「沖縄戦を歪めるNHK! 変節漢の専門家を登用2015-01-09を引用して吉浜教授の「変節沖縄戦」を批判する。

                ☆

NHK沖縄が、戦後70周年を迎えこのような特集番組を組むという。

70年の節目に沖縄戦を検証するのは結構だが、沖縄2紙に加えてNHKまでもが「反日サヨク史観」にどっぷりの番組で県民を誤誘導するのは勘弁してほしい。

 

 

昨日のNHK沖縄のおきなわHOTeyeの「沖縄戦の研究者に聞く」で、沖縄2紙の御用学者・吉浜忍沖国大教授が登場し沖縄戦の授業のことを述べていた。

関連記事はこれ。

沖縄戦を体系的に講義 沖縄国際大、定員超える希望者

琉球新報 2014年6月8日 

沖縄戦について体系的に学ぶことを目的に開講した沖縄国際大学の『沖縄戦』の授業=3日、宜野湾市の同大

 怖い、暗い、かわいそう―沖縄戦の悲惨な事実を前に「感想」だけで終わらせない平和教育の在り方として学生の注目を集めている講義がある。沖縄国際大学(宜野湾市、大城保学長)が4月から共通科目として開講している「沖縄戦」の講義だ。定員の150人に対し230人が受講を希望するなど関心も高い。週1回の講義は毎回ほぼ満席だ。
 同大では、これまで歴史の講義の一部で沖縄戦を扱うことはあったが、沖縄戦だけに焦点を絞ったのは初めて。当時の日本軍の記録など1次資料を活用し沖縄戦を体系的に学ぶ。担当する吉浜忍・総合文化学部社会文化学科教授は「『沖縄戦』という科目は全国的にも珍しいのではないか」と話す。
 3日のテーマは離島の沖縄戦だ。「宮古空港があった場所はもともと何があったか分かりますか」。吉浜教授の問い掛けに、首をかしげる学生の姿も多く見られた。吉浜教授は、日本軍が山の少ない宮古島を飛行場の適地として着目し、旧海軍飛行場を造ったことを指摘。今の宮古空港は同飛行場跡だと説明した。
 全学科全学年が選択できる共通科目。定員150人に対し230人が受講を希望。抽選の結果、定員を超える170人の登録を認めた。
 吉浜教授は同講義の開設理由について「ある意識調査で『沖縄戦を学びたい』と回答した県内の若者が8割もいた。今のままでは不十分だと感じているということだ。ニーズはある」と語る。県内と県外の学生が平和や基地問題を討論する際、課題も感じていた。「県出身の学生は県外の学生に議論で圧倒的にかなわない。戦争や平和への豊かな感性は持っているが感性だけでは議論はできない」と吉浜教授は指摘する。具体的、客観的な情報に基づき、体系的に沖縄戦を学ぶことで、感性を生かしながら沖縄戦への理解をより深めることができるはずだと考え、開設を決めた。
 受講している同大2年の照屋愛実さん(19)は「小中高では体験者の講話が中心で、軍の組織や国の狙いなど戦争の仕組みについては知らなかった。イメージ中心だったこれまでの学習と、大学での講義が結び付き、沖縄戦の実態が見え始めてきた」と話す。3年の嘉数大将さん(21)も「先生自身が掘り起こした資料なども使い、なぜ戦争が起きたのかをひも解いていける感じがする」と話した。(仲井間郁江)

                 ☆

吉浜忍沖国大教授は「集団自決論争」では過去に沖縄戦の専門家として頻繁に沖縄紙に登場したが、「軍命あり派」⇒「軍命なし派」⇒「軍命あり派」と、沖縄2紙のの論調が変わる度にそれに追随する節操のない「沖縄戦研究者」である。

吉浜氏については、当日記で過去に何度も批判しているが、とりあえずその一例をサルベージして紹介する。

 

八重山教科書問題について書いた「突然の発狂は教科書問題の目くらまし!2012-02-24の【おまけ】で吉浜教授を批判の俎上に乗せてある。

             ☆

 

※ 左翼の巣窟沖国大で、新聞に迎合し「変節」を繰り返す吉浜忍教授について・・・。

集団自決に関する「転向学者」は枚挙に暇がないほどだが、1人だけ例を挙げる。

■二転三転の集団自決の「定説」■

座間味島の集団自決は「隊長命令による」という「定説」は、集団自決の生き残り宮城初江氏によってもたらされた。

初江氏は、その後それが「援護金」のために強制されたウソの証言であったことを娘晴美氏に書残した。

娘晴美氏が母の遺言である『母の遺したもの』(2000年12月)を出版することにより「定説」は逆転し、「隊長命令はなかった」が新たな「定説」となった。

「集団自決訴訟」提訴の5年前のことである。

沖縄戦研究者の吉浜忍沖国大助教授(当時)は、『母の遺した』に関し琉球新報に次のように書評をかいた。

「〔書評〕『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』宮城晴美著」 「定説」とは違う真相語る (隊長命令はなかった)吉浜忍(2000年12月24日・琉球新報)

そして吉浜共重は、研究者の立場から新しい「定説」を次のように補強している。

「書評」で吉浜教授が、争点の「隊長命令」では「命令は無かった」と、従来の「定説」とは違う真相を解説している。

琉球新報 2000年12月24日

『読書』 『母の遺したもの』 宮城晴美著

「定説」とは違う真相語る

座間味島は、沖縄戦の前哨戦であり、悲劇の始まりでもあった。 悲劇の象徴が「集団自決」であり、今日まで「悲劇の物語」として語られてきた。 そして、物語の核心部分の「隊長命令による集団自決」には著者の母親の証言が有力な根拠となった。
当事者によるものであっただけにこの証言は大きな影響を与え、様々な出版物に引用されたり、粉飾されたりして。やがて「定説」化していった。 「隊長命令による集団自決」を一つの争点にした家永教科書沖縄出張裁判も記憶に新しい。
「定説」は時には善意によってつくられることもある。 座間味島「集団自決」の「定説」には、沖縄戦で戦死や負傷した一般住民に対する「援護法」適用問題が絡んでいた。 「集団自決」においては「軍との雇用関係」、すなわち隊長命令があったとすれば「援護法」が適用され、遺族は救済される。
この根拠として母親の言質がとられた。 母親の戦後苦悩はここから始まる。 さらに関係者との板ばさみで苦悩は助長する。
そして母親は死を前に、娘への遺言として、「定説」とは違う真相を語った。 隊長命令はなかったと。
本書は、戦後世代の娘が母親と真剣に向かい合い。 苦悩を共有しつつある、かつ執念をもって真相を究明し、「定説」を覆した。 戦後世代の沖縄戦継承が問われている今日、戦後世代が沖縄戦を二次体験として、体験証言を検証し次世代へ継承するという著書の姿勢は今後の指針になるであろう。(略)(吉浜忍・沖縄県文化振興会史料編集室主幹)

更に新しい「定説」に、沖縄タイムスがお墨付きを与えることになる。

『母の遺したもの』が沖縄タイムス出版文化賞を受賞するという栄誉と共に学術的にも社会的にも「隊長命令はなかった」が確固たる新「定説」となった。

〔沖縄タイムス 12月12日〕
第22回沖縄タイムス出版文化賞受賞作品が決まる

2001年12月12日・沖縄タイムス・朝刊
 正賞:『アンヤタサー』山里将人著
、『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』宮城晴美著

■提訴後の変節■

座間味島の集団自決の「定説」がタイムス、新報によって認知されたわけだが、この「定説」は2005年の「集団自決訴訟」によって、再び揺らぎ「隊長命令はあった」と元の「定説」に逆戻りする。

それに従って研究者達の「定説」も次々と姿を変えてくる。

例えば沖縄タイムスの「書評」で『母の遺したもの』は「『定説』とは違う真相を語るー隊長命令はなかった」と書いた吉浜氏の変節ぶりはこの通り

沖縄タイムス2008年年11月18日

[魚眼レンズ]吉浜忍さん
沖縄戦の事実しっかりと

 「集団自決」訴訟の控訴審で原告の訴えを退ける判決が出たことについて「一審判決を踏襲したもの。おそらく原告勝訴にはならないと考えていた」と話す沖縄国際大学教授の吉浜忍さん。「当然の判決」と強調する

 「カリキュラム上の問題で突っ込んで話はできなかった」と断りながら、自ら講義でも学生に対して同判決について触れ、説明したという。

 「沖縄戦の歴史的な事実関係をしっかり丹念に教えることが大事。学生は逆にスローガン的、感情的なものではなく、事実を踏まえた沖縄戦を学びたいという気持ちが強い」と指摘。

 「今後もこれまでの沖縄戦の証言を継続的に教えていきたい」と気を引き締めている。

沖縄では、新聞が作る「定説」には、たとえ研究者といえども逆らえないということが、吉浜氏の変節ぶりから垣間見える。

吉浜氏は以前書いた「書評」のことはすっかりお忘れになったようで、沖縄タイムス紙上で再度豹変した「定説」を激しく主張している。

2007年3月31日『沖縄タイムス』朝刊27面を転載。

沖縄戦 ゆがむ実相

 高校教科書に掲載された沖縄戦の「集団自決」の実態が国によって隠された。文部科学省は、今回の教科書検定で「軍命の有無は断定的ではない」との見解を示し、過去の検定で認めてきた「集団自決」に対する日本軍の関与を否定。関与を記述した部分の修正を教科書会社に求めた。同省が変更理由に挙げたのは「集団自決」をめぐる訴訟での日本軍の元戦隊長の軍命否定証言と近年の「学説状況の変化」。文科省の姿勢に、県内の関係者からは「沖縄戦の実相の歪曲」「殉国美談に仕立て上げている」と批判が出ている。
 沖縄戦研究者の吉浜忍沖国大助教は「検定意見で日本軍の『集団自決』への関与がぼかされたが、軍隊が誘導したのが実態だ」と沖縄戦の実相を指摘する。その上で「国によって沖縄戦が書き換えられた。これまでの研究や調査を逆転させようという政治的意図を感じる」。(略)

                    ◇

現在沖縄タイムスと琉球新報が捏造した「定説」に真っ向から異論を唱えている星雅彦氏と上原正稔氏が、事実上沖縄論壇から干された状態にある。

これを考えれば、沖縄の識者たちが、次々と沖縄二紙に追随し、変節していくのもむべなるかなで、同情の念を禁じえない。

沖縄の学者さんたちは変節しなきゃ生きていけない。

お気の毒。(涙)

 

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特別の御高配を!県民かく戦えり! 大田実少将の遺言

2022-06-15 07:38:22 | ★集団自決

 

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県民かく戦えり! 大田実少将の遺言

2006-06-22 07:41:28 | ★改定版集団自決

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「事件は会議室で起こっているんじゃない!」。

「現場で起こってるんだ!」。

これは、映画「踊る大捜査線」の織田祐二扮する青島刑事の名セリフ。

本庁の幹部達が会議に明け暮れる中、事件の現場に乗り込み凶器に倒れる青島刑事の後姿と共この言葉が観客の胸を打った。

映画では特捜本部に本庁からやり手の女性本部長が送り込まれる。

彼女は青島刑事の現場主義を批判する。

そして有能な幹部が会議室から出す的確な指示・命令こそが最重要と言い放つ。

現場は余計なことを考えずその指示・命令に従えば事件は解決すると云うのだ。

言わば、現代日本のあらゆる組織が持つ、現場派と会議室派の葛藤がこの映画のテーマである。

                     *

この現場と会議室の葛藤は現代だけの問題ではない。

組織が持つ現場派と会議室派の葛藤は遠く明治の時代から、先の戦争の軍隊組織においても見られた。

62年前の沖縄戦で、現場の指揮官をしていた大田実海軍少将は、東京の会議室で現場に指令を出す海軍次官に遺言ともいえる長文の電文を送った。

レインボーブリッジの現場に立つ青島刑事と同じく満腔の怒りを込めて。

戦争は作戦室で起こっているんじゃない!」。

「現場の惨状を作戦室は知れ!」と。

今月の14日の沖縄タイムスは、戦地現場である海軍壕で自決した大田実司令官と戦没将兵4000人の慰霊式典を報じた。

太田実少将が豊見城の海軍壕で自決したのは1945年(昭和20年)6月13日。

毎年この日には遺族が集まって何故か密やかに慰霊祭が行われる。

現場の司令官や将兵の慰霊祭と言う理由で地元新聞の取り扱いは他の戦没者慰霊祭に比べて扱いが小さい。

沖縄戦で戦没した朝鮮人の慰霊碑でさえ建立して大々的に報じるのに。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/6344846c2b9598aab
7c7271321c54283

しかも大田司令官が命を賭して東京の「会議室」に現場・沖縄の惨状、住民の命がけの協力を打電し、「県民斯く戦えり。 今後のご高配を」と結んだ事には新聞は一言も触れていない。

県民が戦争に協力したのは平和運動にはそぐわない」というのが地元メディアの大田司令官への冷遇の原因らしい。

平和学習として沖縄の戦跡を修学旅行に取り上げる学校が増えているが、沖縄戦の現場の報告を血を吐く思いで東京の会議室に報告して自決した大田司令官の終焉の地「海軍壕跡」は平和学習コースからは何故か外されている。

沖縄の戦後復興についても気にしながら自決した大田実司令官について沖縄のメディアは冷めたい。

沖縄タイムス 2006年6月14日(水) 
 
旧海軍司令部壕慰霊祭

 沖縄戦で、旧海軍司令部壕やその周辺壕などで亡くなった旧日本海軍関係者や現地招集された住民など四千余のみ霊を慰める「旧海軍司令部壕慰霊祭」(主催・沖縄観光コンベンションビューロー)が十三日、豊見城市の旧海軍司令部壕公園で開かれ、県内外から参列した約九十人の遺族らは献花や焼香をし、冥福を祈った。
 同ビューローの仲吉朝信会長は「尊い命や文化遺産が失われた悲しみは癒えない。戦争体験を風化させず、平和な沖縄を次世代へ引き継ぎたい」と述べた。

 夫が大田實司令官の四男だという大田昌子さん(59)は「国のためといえ、家族を残して先立たなければならなかった義父の気持ちを考えるとやりきれない」と話した。
 


                   ◇

太田実海軍少将が万感の思いで東京の海軍次官宛てに打電した、遺言ともとれる長文の電文を下記に紹介する。

注:読みやすさを考え,原文漢字カタカナ混じり文を平仮名に直し,句読点を付加した。 これを筆者が更に読みやすく書き直した。

◆海軍沖縄特別根拠地隊司令官
大田実少将(自決後中将に昇進)海軍次官宛電文

昭和20年6月6日付け

「沖縄県民かく戦えり!」

「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを!」

沖縄県民の実情に関して、報告は本来県知事より報告すべき事だが、県には既に通信力はなく、第三十二軍指令部(牛島中将の最高司令部)も通信余力がない。

県知事の依頼を受けたわけではないが、沖縄の現状を見過ごすに忍びないので、私大田司令官が知事に代わってご緊急に報告する。

敵が沖縄に攻撃開始以来、陸海軍とも防衛戦闘に精一杯で、県民を顧みる余裕は殆どなかった。

しかし、私の知る限り県民は青壮年の全てを防衛召集に捧げた。

残りの老幼婦女子は、相次ぐ砲爆撃で家屋と全財産を焼き出され、軍の作戦の邪魔にならない小防空壕に避難、しかも爆撃、風雨に晒される窮乏生活にあまんじた。

しかも若い婦人は率先して軍に協力し、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、斬り込み隊をを申し出る者すらあった。

所詮、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致され毒牙にかかってしまうと、親子生き別れになり娘を軍営門に捨てる親もいる。

看護婦に至っては、軍移動に際し、衛生兵は既に出発した後なのに、身寄りのない重傷者を助けて、その行動は真面目で一時の感情で動いているとは思われない。

更に軍の作戦大転換があり遠隔の住民地区が指定されると、輸送力がないのにもかかわらず、夜間、雨の中を自給自足しながら移動するものもいた。

要するに、陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は終始一貫して物資節約を強要され、ご奉公の心を抱き、遂に勝利する事無く、戦闘末期には沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した。

食料は六月一杯を支えるだけしかないという。

沖縄県民はこのように戦った。

沖縄県民に対して後世になっても特別の配慮をお願いする。

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手、「会議室」の海軍次官・多田武雄(将官議員)は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して「会議室」に報告後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ「鉄の暴風」と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍なのに、何故か戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住を日本人から分断する占領方針から沖縄住民には「優しく」対応するようにしていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、「優しく」年寄りや子供に手を差し伸べる米兵の顔だけを見ている。

自分達は安全な戦艦の中にいて、そこから艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさして住民を無差別殺戮した米兵のもう一つの顔を見ていない。

一方、自分達を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態も晒しただろう敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵だったと言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍、「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

                   ◇

大田実少将の魂の叫び「県民かく戦えり。 」の電報・原文を煩雑を承知で下記に記録する。。(不明な箇所は□で表わしている。)

沖縄戦関係資料室http://www.okinawa-sen.or.jp/050707/index.html

 沖縄県民斯く戦えり

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

 左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。

 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。

 然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わず)かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。

 しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊(ほうすい)婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。

 所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。

 看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。

 さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

 これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部はとかくの悪評なきにしもあらざるも)ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に□□□□与え□ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□□□□□

 一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。

                  *

★付録①;大田実少将自決前日、最後の電報

発 沖根 昭和20年6月12日 1335

一、朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外に蝟集(いしゅう)し、煙弾を打ち込みあり
二、我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり
三、74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む

発 沖根 昭和20年6月12日 1619
これにて通信連絡を絶つ

 

★付録②大田司令官の三女、愛子さんの歌

身はたとへ沖縄の野辺に朽ちるとも祖国守ると父は逝きにし

参考文献
『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』、田村洋三、講談社文庫 

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「最高裁は私人の闘争」、高木文科相

2022-05-22 09:39:34 | ★集団自決

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文科相、意見撤回せず 教科書検定

沖縄タイムス 2011年4月27日

 【東京】高木義明文部科学相は26日の閣議後会見で、沖縄戦での「集団自決(強制集団死)」をめぐる大江・岩波訴訟で軍の関与を認めた判決確定を受け、教科書検定について「(検定は)教科用図書検定調査審議会(検定審)で専門的、学術的に審議されている。これからもそうだ」と述べ、高校歴史教科書検定で「集団自決」の記述から日本軍の強制を削除する根拠となった検定意見を撤回する考えがないことを表明した。  判決確定については「私人の論争なので司法が下した判断についてコメントする立場にはない」とし、沖縄戦については「住民を巻き込み、多くの人が犠牲になった。歴史を風化させてはならず、しっかり子どもたちに教えていくことが重要だ」と語った。
  今後の教科書検定に訴訟の結果が反映されるかとの問いには「検定審で客観的、学問的な成果に照らして審議されると思う」と述べるにとどめた。  歴史教科書での「集団自決」の表記をめぐっては、2007年の高校教科書検定で、同訴訟が係争中であることを主な理由として、検定審が軍の強制があったとする記述を削除するよう求める検定意見を出していた。
 軍の強制を盛り込んだ「沖縄ノート」を出版し、訴訟を闘った作家の大江健三郎さんは判決確定後、「もう係争中ではない」として教科書での強制記述の復活を期待。県内でも市民団体を中心に復活を要望する声が高まっている。 誤り認めたも同然 高嶋琉大名誉教授  高木文科相の発言に、教科書問題に詳しい琉球大の高嶋伸欣名誉教授は「今さら『私人の論争』と言うなら、その裁判を根拠に強制記述を削除させた検定意見は間違っていたということを認めたも同然だ」と強調。
 検定審については「事実上、文科省の原案を踏襲するだけの機関」と指摘し、「政権交代しても官僚支配の教科書行政は変わらない。検定制度から文科省を切り離さないとダメだ、という議論になる」と断じた。

                                      ☆

政権交代の度に教科書の歴史記述が変わる方がおかしい。

高木文科大臣はのコメントは真っ当である。

集団自決訴訟の核心は「軍命(強制)の有無」であり、軍の関与の有無ではない。 

手りゅう弾は軍の関与なしには住民の手に渡らない。

だが実際の集団自決で、大多数の人は棍棒や鍬などの農具を用いており、手りゅう弾を使用した例は稀である。 

一発の手りゅう弾も使わずに家族を含む大量殺戮をおこなった金城重明氏等が好例である。

2年前、大阪高裁で敗訴した原告が上告した。 

が、最高裁では事実認定はしないので、軍命(強制)の有無については大阪高裁で既に決着していた。

最高裁で確定したことは原告の名誉毀損請求の却下である。

個人の名誉毀損を裁定した最高裁は、高木文科相のいう「私人の闘争」といえなくも無い。

従って最高裁の判断を根拠に教科書に「軍命(強制)」を記述を要求するのは筋の通らない話である。

「歴史歪曲を許さない」というのが左翼の合言葉だが、数を頼んで政府に圧力をかけ、教科書記述の改竄をも目論んでいるのは他でもない彼ら左翼集団であり、2007年の「11万人集会」がその絶好の例ではないか。

検定意見撤回へ動き加速 教科書検定運動関係者 琉球新報 2011年4月23日       
 

「沖縄戦の真実」教科書に 平和教育すすめる会が声明 琉球新報2011年4月26日      
 

 

メア 発言では多くの「識者」達と同じように、徒党を組んで虚に吠えた犬、いや、目取真俊氏が、昨日の琉球新報で「終わらぬ歴史歪曲運動」などと、ピンと外れのご高説を展開しているが、今回の裁判と東日本大震災や小林よしのり氏との関連を妄想するあたり、さすがは作家先生、その創作能力には感心させられる。

文末の次のくだりには、この作家の焦りが垣間見れて思わず笑ってしまった。

「・・・今回の最高裁の決定で裁判そのものは終わったとしても、裁判と同時に焦点化した問題は終わっていないことを、私達は認識する必要がある。 教科書検定意見撤回はいまだに実現されていない。」(琉球新報 4月27日)

そう、焦点化した問題、つまり「集団自決は軍の命令(強制)であると公的に認知させ、教科書に記述させる」という目論み、はいまだに実現されていない厳然たる事実に焦りを感じているらしい。

目取真氏が指摘するとおり、教科書検定意見撤回はいまだに実現されていない。

これも厳然たる事実である。
 

では長期にわたった、この裁判の意義は何であったのか。

原告側代理人の徳永弁護士のコメントが裁判の意義をよくあらわしている。


原告代理人・徳永信一弁護士の話

 名誉棄損が認められなかったのは残念。
しかし、隊長の自決命令について高裁判決は「関与」とし、一審より控えめな事実認定。
この問題は、集団自決に梅澤さんらの隊長命令がなかったという認識が重要だった。
裁判を通して自決命令の根拠がないとの認識が国民に定着したので、意義はあったと総括している。
 

この裁判が始まった当初、「集団自決があったという事実そのものを教科書から削除する目的で、元軍人が起こした裁判」といった誤った認識を持つ県民も多かった。

事実「11万人集会」に参加した人にもこのような誤った認識で怒りをあらわにする県民もいた。

だが、裁判の過程で沖縄2紙の異常な歪曲・捏造報道による印象操作にも関わらず、集団自決の本質を見据える県民が増えてきたということは、徳永弁護士の指摘の通り、この裁判を起こした大きな成果だということができる。

 

 

【おまけ】

最高裁は2年前の大阪高裁判決を確定させたに過ぎない。

復習のため大阪高裁判決を解説した次の動画を御覧ください。

沖縄集団自決訴訟」不当判決 6-1

「沖縄集団自決訴訟」不当判決 6-2

「沖縄集団自決訴訟」不当判決 6-3

「沖縄集団自決訴訟」不当判決 6-4

「沖縄集団自決訴訟」不当判決 6-5

「沖縄集団自決訴訟」不当判決 6-6

 

 ★講演会のご案内★

沖縄県祖国復帰39周年記念大会

 

■日時:平成23年5月15日(日) 開演13:30~16:00

■参加費: 500円 学生無料

■会場:  かでな文化センター 嘉手納町嘉手納588

(町役所隣・かでなロータリー内)

■主催: 沖縄県祖国復帰39周年記念大会実行委員会

     実行委員長:中地昌平

■共催、連絡先:日本会議沖縄県本部 那覇市若狭町1-25-1(波の上宮)

      090-1942-1675(仲村)    

 

プログラム

●第一部: 「今明かされる祖国復帰の真実」

    ※全国の各界代表、県民代表、先島代表ほかより挨拶

 

●第二部: 「記念講演」

   ★「尖閣諸島・沖縄を守れ」

   講師:青山繁晴 独立総合研究所主席研究員

 

   ★「日本経済の復興と成長と虚構の中国経済」

   講師:三橋貴明 作家、経済評論家

 

●第三部: 沖縄祖国復帰記念パレード

       ※希望者のみ   

 

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新(3)貶められた旧日本兵、「軍命自決」記述を手引き

2021-06-22 07:47:37 | ★集団自決

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連載3、「軍命自決」記述を手引き2013-07-10

■7月10日付世界日報記事

【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(3


戦闘参加者概況表/「軍命自決」記述を手引き

 当時、援護法の申請に関わった関係者の証言によると、当初は厳しかった申請書の受理条件が、関係者の熱心な折衝の結果徐々に緩和され、ついには「裏の手引書」とも言える冊子「戦闘参加者概況表」によって、一般住民に対する援護法の適用が容易になった。

 この冊子は、昭和32年7月頃、琉球政府が作成したとみられる門外不出の援護法適用申請の記載マニュアル。20項目を示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」の発表に合わせて発行された。取材陣が入手したものは、昭和55年に沖縄県が再版したもの。沖縄県公文書館に保管され、表紙にはカク秘の印が押されている。

 「概況表」は、「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」に該当する20項目について、地域と場所、そしてサンプル文が書かれており、援護法適用を申請する際に実際にマニュアルとして使用されたものだ。

⑥「食糧供出」 概況 戦闘開始後においても軍は食糧、馬糧の供出を要請していたため、各市町村長は区長に割当て、区長は壕長(の避難壕毎に指名された区長の分身者)に命じ砲爆撃、機銃掃射の危険を冒して食糧を収集(芋掘り、野菜取り、豚、牛、山羊の集荷等)して軍の戦力維持に協力した。>

対象期間は昭和20年4月上旬と指定、対象地域(協力市町村)は、「西原、浦添以南の地域各市町村、北部は本部、今帰仁、羽地、国頭、大宜味」となっている。

 <⑧「壕の提供」 部隊の配備変更による壕の不足或は前線から後退した部隊のため、或は患者収容所等を新設又は拡張するため、或は作戦上の必要から部隊の壕を交換するため艦砲砲爆撃又は機銃掃射、火焔放射、ガソリンによる焼払いに晒されて死亡した者が相当多かった。>。

この項目の期間と地域について、北部は昭和20年中旬から終戦まで、中部は同年4月初旬から終戦まで、南部は同年5月下旬から終戦と指定している。

 そして、日本軍のイメージを決定的に悪いものに仕立てたのが集団自決をめぐる記述だ。なお、この部分は、渡嘉敷村がホームページ「慶良間諸島の沖縄戦」で引用している。

 <⑮「集団自決」 狭小なる沖縄周辺において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と行動を共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗出来る処までは対抗し癒々と言うときにはいさぎよく死花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。尚沖縄本島内においては個々に米軍に抵抗した後、手榴弾で自決したものもある。>。

「集団自決の地域」は座間味村、渡嘉敷村、伊江村に限定し、日付はそれぞれ昭和20年3月26日、同年3月28日、同年4月21日と定めている。

 この記述により「集団自決」した者は乳幼児までも「戦闘協力者」と認定する根拠となった。当時の厚生省が琉球政府による戦闘協力者の拡大解釈を黙認したため、後世の大きな悲劇を生んでいく。

集団自決」「壕の提供」「食糧提供」の事実は後に、左翼学者やマスコミによって「軍の自決命令」「食糧強奪」「壕からの追い出し」という言葉に変わり、極悪な日本軍のイメージを作り上げていったのである。

(「沖縄戦の真実」取材班)


                                    ☆

 

■富村順一氏の独白(2)

座間味との出会い

 私が座間味島に行ったのは
座間味戦記を書くことが目的ではありませんでした。

1960, 70年頃、私は東京の練馬区にいました。
当時私は、愛犬を連れて毎日、朝早く練馬の駅の前を散歩してましたが、
駅の前に『世界日報』という新聞が箱に入れられ、
「三十円を入れて、自由にお取り下さい」と張り紙がありました。
幼い時から余り良い人生を送ってないので、三十円の金を入れずに毎
日のようにその新聞を読んでいました。

ある日のこと、沖縄出身の宮平という牧師のことが記事になりました。
その牧師がインドネシアに於いてインドネシア解放、独立のために
日本軍から武器を譲り受け解放戦線に渡し、
その先頭に立ってインドネシア軍と共に戦ったという記事でした。

 私はそのような素晴らしい沖縄人がいたかと思い、連載されたその記事を
読み、いつかそのことを本に書いてみたいと思い、座間味島に行きました。

 役場に行き宮平牧師を捜したところ、親戚の宮平さんという方で島一番の
お年寄りの家を訪ねて行きました。
私が宮平牧師のことを話すと、そのお爺さんは「あゝ、あの中野無線〔注〕か。
あいつがインドネシアで日本軍から武器を引き取り、
解放軍と共に戦ったことはよく知ってる。
中野無線のことだからオランダ軍のこともよく知ってる。
だから彼は解放軍の一指揮官として戦った。

そのインドネシアのことよりは、この座間味戦記を書いてくれ」
と話しながら、お爺ちゃんは押入れから四冊の本を取り出してきました。

『鉄の暴風』『家の光』『沖縄県史』、沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』。
この四冊の本をテーブルの上に置き、手拳を振り上げて本を叩き、
「この四冊の本は嘘なんだ。
梅沢隊長が自決命令を出したというのはまるっきり嘘、
自決は我々村の有志が決めたものなんだ。
このようなことを書かれたのでは、お国のために日本の勝利を願い自決して
いった校長や村長郵便局長の魂が浮かばれない。

何とか真実を公表できないものか。
座間味戦記が小中高校の副読本になって嘘の教育をさせられてきた。
それが大きな問題だ。
君に頼みたいことがある。
賢い人が出来なくても、余り賢くない人が出来るものがある。
君は学校へも行ってない。が、失うものもない。
何でも云うことを云ってきた。書いてきた。
是非真実の座間味戦記を書いて欲しい。
そうでなければ死んだ人は浮かばれない。

梅沢隊長は慰安婦と爆死したとどの本にも載っているが、爆死した
梅沢隊長を見た人はいない。場合によっては生きているかも分からない。
ここに復員名簿がある。これをお前にやるから、これをもって暇のあるときには
訪ねて行き、島の戦記を聞いて欲しい」と頼まれました。
そうして封筒に足代として十万円ほどの金を入れて私に下さいました。

 あの宮平のお爺さんの、怒っているのか悲しんでいるのか判断のつかぬ
顔を見た時に、もしかしたら自決命令はなく、捏造された戦記ではないかと
考え、東京に帰ってから、暇な時には、復員軍人の名簿を頼りに
約30人の復員軍人の家を訪ね歩きました。

〔註〕中野無線・・・中野学校のこと。同校は「陸軍通信研究所」の
門札を掲げていた。宮平牧師が中野学校出身なのでこう呼んだ。(中村)



『梅沢隊長は健在だ』

 その中の一人、埼玉県大宮の関根清さんという衛生兵に出会うことが
出来ました。
関根さんは「家には妻や子もいるし、ここではそんな悲しい話は出来ない。
外で話そうじゃないか」と仰有ったので大宮の駅の前のお寿司屋さんに
入りました。お寿司が出ても席ねさんは二、三分、うつむいた儘
何も話そうとはしませんでした。溜め息をつきながら、

「実は富村さん、自決命令はなかったのだ。
梅沢隊長は自決命令を出して朝鮮人慰安婦と爆死したと沖縄戦記には
書いてあるが、梅沢さんはお元気である。自決命令は出てない」
と云ってまた溜息をつきながら、

「実は自決に関係しているのはこの私なんだ。
村の村長や校長先生、郵便局長、女を交じえた四、五人で梅沢隊長に
自決する手榴弾を下さいとお願いに行ったのだが、梅沢隊長に断られ、
そのため、よく部隊に出入りしていた女性がある衛生兵に顔なじみがいて、
その衛生兵に頼んだところ、当時島にいた従軍慰安婦が米軍上陸前に
梅沢隊長の命令によって、野戦看護婦になったようです。
その野戦看護婦が自決用として持っていたと思われる手榴弾を衛生兵が
取り上げて、宮城初枝さんに渡したということです。
その衛生兵が私です。
もしそのことが世間様に知られると、私の妻や子がどのような悲しい思いを
するかと思えば公表も出来ない」と云って涙を浮かべてました。

〔註〕宮城初枝や梅沢裕元隊長の手記によれば、隊長を訪ねた村の代表は
村役場助役兼兵事主任兼防衛隊長・宮里盛秀、同収入役・宮平正次郎、
国民学校校長・玉城政助、村役場吏員・宮平忠達、女子青年団長・
宮平(のち宮城)初枝の五人。
盛秀が隊長に要求したのは宮城初枝によれば弾薬。
梅沢元隊長によれば爆雷で殺して欲しい。
それが駄目なら手榴弾か小銃弾を頂きたいということであった。(中村)


宮城初枝さんの驚き

 梅沢隊長は生きていると聞かされた私は、
「では手榴弾を関根さんが渡したことは公表しないから、
梅沢さんの家を教えてくれ」
とお願いしても、
「すぐには出来ない。梅沢さんに断ってから教える」
と約束しました。

何日か後に電話で梅沢さんの住所を教えてくれました。
私は梅沢隊長に連絡し、関根さんと共に大阪に行き、食事をしながら
様々なことを話し合いました。

 死んだ筈の梅沢さんが生きていることを先ず最初に伝えるべき人は、
座間味島で是非正しい戦記を伝えて欲しいと私に頼んだ宮平のお爺ちゃん
であると思い、座間味島にお爺ちゃんを訪ね、梅沢隊長のお元気なことを
話したところ、お爺さんは「その話を一番知りたがってる人がいる。
一寸待ってくれ」と立って行かれ、宮城初枝さんを連れて来ました。

 宮城初枝さんは入って来るなり
「富村さん、梅沢隊長は本当にお元気ですか。それは本当ですか」
と云うので「間違いありません」と話したところ、
しゃがみ込んで泣いてました。

 「富村さん。私一人で勝手に文章を書いて『家の光』に投稿した訳では
ありません。
村の有志の方々に頼まれて仕方なく私は(隊長が自決を命じたと)書いたのです。
本当に梅沢隊長には申し訳ない。済みませんです。
今度会ったら、私がお詫びしていたとお伝えして下さい。そして島に来て下さい」
と話してました。

 このように謝る女性に話す言葉もなく、翌日、母の住む宜野湾市に
帰ったところ、宮城初枝さんの娘さんの晴美さんが、沖縄でたった一つの
月刊誌『青い海』の編集長をしていました。
お母さんから電話があったそうで、「梅沢さん、本当に生きていますか」
と私に訊くので「生きています」といったところ、確かめたいから
住所を教えてくれというので、私は晴美さんに梅沢さんの住所を教えました。

 この話がどのように伝ったのか、三日後に『沖縄県史』の編集長島力
(しまつよし)さんがまた私の家に来て、
「富村、梅沢さんは本当に生きているのか」と訊くので
「生きてます」と答えた。

 「もし梅沢さんが健在であれば確認したいし、自決命令も出てないとなれば、
『沖縄県史』も直さなければいけない。是非梅沢さんの住所を教えて欲しい」
という風に話がありましたので、私は『沖縄県史』の編集長である島力さんに
梅沢さんの住所を教えたので、梅沢さんと連絡が取れ、『沖縄県史』に
梅沢さんの手記が載るようになりました。


嘘の平和運動と訣別

 その何ヶ月か後、沖縄でアジアの平和集会という集会があり、
それを新聞で知って参加いたしました。
主催者は、中村先生も御存知の渡嘉敷島出身の方です。
大江訴訟の沖縄出張裁判で証人に立たれた金城重明さんです。
沖縄キリスト教短大の学長をなさって、現在は那覇の聖教会の牧師を
なさっている方です。
その方々が平和集会を主催したのです。
私も参加して、手を挙げて座間味戦記の話をいたしました。
そこには教職員組合、社会党、共産党といった錚々たるメンバーがいて、
多くの新聞記者もいました。

 私が沖縄タイムスの『鉄の暴風』や他の沖縄戦記の捏造した部分を
声張り上げて訴えたところ、ある知人に呼ばれました。
「お前みたいに本当のことを云っていたら平和運動は出来ない。
平和のためには多少の嘘は云ってもいいんじゃないか」
と云ったので私は「嘘を云って平和運動するなら、あんたなんかと共に
行動する必要はない。あんた達と平和運動するより犬をパートナーに一
人でいいから全国行脚をして沖縄の真実を訴える」と大衆の面前で叫び、
二匹のシェパードを連れてフェリーで沖縄を出発し、
鹿児島に着き、そこから歩いて全国を一周いたしました。

 私が沖縄戦記を訴える以前は、殆どの知人友人は左翼関係でした。
座間味戦記を捏造だと訴えはじめてからは、今までの仲間であった
運動家達は全部私の前から遠ざかり、私は一人孤立することになりました。

つづく

 

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フジTV「報道2001」 「慰安婦」と「集団自決」で大バトル!

2020-09-14 12:03:34 | ★集団自決

 

 
集団自決の報道といえば、沖縄2紙や沖縄のローカルテレビの専売特許であり、在京の大手テレビが報道することはめったにない。
 
ところが200年、フジTV「報道2001」が全国放送で、集団自決と慰安婦問題を取り上げた。
 
フジTVが集団自決を放映した2007年といえば、その年の高校歴史教科書の
「軍の命令による集団自決」との文言を「削除せよ」、との文科省検定意見で沖縄中が大騒ぎした年である。
 
その年2007年の9月25日には、全国的に悪名高い大幅水増し大会「11万人集会」が、開かれた。 ちなみに「11万人集会」の正式名は「高校歴史教科書の検定意見撤回を要請する県民大会」。実際の参加者数は、会場の面積から積算して、多くても2万人前後である。この時の文科省検定意見は撤回されず現在でも有効である。
 
沖縄戦再検証のため過去ブログ「報道2001」 「慰安婦」と「集団自決」で大バトル!2007-04-08

を編集・再掲します。

               ★

「報道2001」がホットな歴史テーマ「慰安婦問題」と「集団自決」を取り上げた。

出演者 

秦郁彦・元千葉大教授、

中西輝政・京都大学教授、

古森義久・産経新聞ワシントン駐在編集特別委員

姜尚中・東大教授、

藍谷邦夫・弁護士、 

高嶋伸欣・琉球大学教授

詳しい文字お起こしは他のブログにお任せして、感想だけを述べたい。

◆「慰安婦問題」

印象に残った発言は秦教授が安倍首相の「狭義の強制云々」の発言を捉え下手な説明だとし、こう述べた。

「軍の強制を示す証拠は出ておらず戦後60数年たった現在でも出ていない」

「もう軍の強制はなかったと断定してよい

 

これに対し

高嶋教授:「証拠資料がないからといって強制がなかったというわけではない」

「終戦時に慰安婦に関わる証拠資料は全て廃棄した

秦教授:「そちらの方々はすぐそのように言うが、最初は証拠資料がないのは『よく探してないから』と言っていた」

「丁寧に調べても見つからないと、今度は廃棄したから言い出した」

「日本軍は全ての命令を書類で残す。何十万にも及ぶ書類の中から慰安婦関係だけを選んで廃棄するのは不可能

「仮に完全に廃棄していたとしても誰かが記憶している筈だが、これも皆無」

「それに20万にも及ぶ大量の性奴隷を誘拐していたら親戚、や近所の人の目撃証人があるはずだが、これも皆無

「それにそんな大量の朝鮮女性を誘拐していたら当時の朝鮮の男性が黙って見過ごしていたはずがない

これに対する反論はなかった。

 

◆「集団自決問題」

秦教授が決定的証拠として、

宮村幸延氏(座間味村援護係、宮里助役の弟)の梅沢元隊長宛の侘び状のコピーを見せた。 

「同侘び状で宮村氏は、隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむを得ずつくり出されたもの、と明記され昭和62年3月28日付けの親書もある」

これに対し高嶋教授は、

「宮村幸延氏は侘び状を書いた記憶がなく、同氏が作成・捺印したものではないと述べている。仮に同氏が作成したものであるとしても、泥酔させられて書いたので同氏の認識や意思に基づくものではない」

と反論した。

しかし、沖縄の「市民団体」の激しいバッシングを避けて密かに座間味島を訪れた梅沢氏の立場は言わばサッカーで言う「アウェイ」の状態。

其処で宮村氏を記憶がなくなるほど梅澤氏によって泥酔させられたとは考え難い。

こう考えるのが妥当だろう。

宮村氏は、(『鉄の暴風』の誤記により)死んだと思われていた梅澤氏が現れたので驚愕し、良心の声に耐えかねて一旦「侘び状」を書いたが、その後の「市民団体」のバッシングや「裏切り者」と言った声に「泥酔して書いたので記憶にない」と言わざるを得なかった。

因みに当日記のように沖縄では珍しく保守意見を発信するブログにも「沖縄人のくせに」とか「裏切り者」と言った感情的な書き込みがあるくらいだ。

昨年同じように「軍命の存在」を否定する証言をした照屋昇雄さんも証言をする際当初、「匿名にしないと沖縄では生きていけない」と言っていたくらいバッシングは激しい。

「集団自決問題」の口火を切った曽根綾子氏も沖縄側からの激しいバッシングを受け剃刀の刃を郵送された事もあったという。

◆援護法社会

0歳児までも軍の協力者として「援護法」の申請をしたといわれる沖縄は「援護法社会」というらしい。(石原昌家・沖縄国際大学教授)

◆参考:政府が「軍命に書き換え」指導

援護法適用のために「軍命に書き換えた」当時の琉球政府・援護課の役人をしていた照屋昇雄さんの証言

◆【動画】軍命はなかったhttp://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/

 

 

照屋さん終戦直後の昭和20年代後半から琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった人。

琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め渡嘉敷島の調査を担当した。

照屋さんは「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。 

◆参考:

渡嘉敷島の集団自決 「大尉は自ら十字架背負った」

       

 

 

「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決

 

         ◇

 

近所に慰安所」 沖縄戦で住民証言

 

証言や研究成果について聞く参加者ら=7日、宮古島市中央公民館

 【宮古島】「宮古島の日本軍『慰安婦』について証言を聞く会」(宮古島の日本軍「慰安婦」問題を考える女たちの会主催)が7日、宮古島市中央公民館で開かれた。沖縄戦当時、朝鮮人慰安婦がいる慰安所に日本軍が出入りしていたことを住民が証言した。
 沖縄戦時、上野村野原に住んでいた与那覇博敏さん(73)が「小学5年のころ、家の近くに朝鮮人の女性たちがいる慰安所があった」と証言した。
 与那覇さんは「最初はどこの女性かなと疑問に思ったが後で朝鮮人と知った。日本軍の兵隊が出入りしていた。最初に見たのは1944年の早い時期。終戦間際までいたので、1年数カ月は慰安所として利用されていたと思う」と話した。
 県内各地の沖縄戦当時の慰安所について調査研究している早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の洪允伸(ホンユンシン)さん(28)は、慰安所が宮古島に10カ所、伊良部島に1カ所の少なくとも計11カ所確認されていることを説明した
 洪さんは過去2回の宮古島の調査で、宮古の場合は慰安所が住民の生活圏と密接に関係を持っていたことを指摘。「宮古は米軍上陸がなく、沖縄の中でも比較的被害が少なかったと言われるが、被害の大きさは死者数なのか」と疑問視した。
 さらに「日本政府は『狭義の意味で強制はなかった』とあいまいな立場を取るが、沖縄からこうしたことについて考えないといけない。性を売ることを押しつけたのは誰か何のために必要だったのかという人道に対する罪を宮古だからこそ問える」と強調した。
 洪さんは宮古島で3回目の調査を5月に予定しており、証言者を募っている。問い合わせは宮古島の日本軍「慰安婦」問題を考える女たちの会0980(72)2774。
(琉球新報 4/8 10:19)

                   ◇

≪「小学5年のころ、家の近くに朝鮮人の女性たちがいる慰安所があった」と証言した。・・・日本軍の兵隊が出入りしていた。≫

慰安所があった事も、それを軍が利用していた事も歴史的事実。

今更早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の洪允伸さんが宮古島まで出向いて、

証言を集めなくとも誰も異論は唱えないと思うのだが、

新聞の大見出しで

「近所に慰安所」

<沖縄戦で住民証言>

日本軍が出入り

・・・と書かれると、何か隠されていた新事実の発見のような印象操作を感じる。

 

≪ 性を売ることを押しつけたのは誰か≫

それは直接的には女衒であり、結局は貧困でしょう。

日本軍のせいにするのなら、現在も世界中に蔓延る売春も全てが日本軍のせいになる。

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コメント (4)

沖縄は捨て石だった❔【太平洋戦争】なんで米軍は沖縄から狙ったんや?

2019-08-11 06:14:29 | ★集団自決

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【太平洋戦争】なんで米軍は沖縄から狙ったんや?

沖縄2紙「日本政府が沖縄を”捨て石”をにしたから」

県民「沖縄を米軍の侵攻の盾にするため、他の地域に在った沖縄を日本が現在地に移動させたのなら、捨て石だが」

県民「アメリカの作戦だろうが」

 

「特攻隊や大和を捨ててまで守ろうとしたのに沖縄捨てられたとかよく言うな」
「捨てるなら沖縄見捨てて本土に戦力集めるわ」

 

 


 

2019年08月10日 10:05

【太平洋戦争】なんで米軍は沖縄から狙ったんや?

【太平洋戦争】なんで米軍は沖縄から狙ったんや?

 引用元:【太平洋戦争】なんで米軍は沖縄から狙ったんや? 

http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1565356614/

1: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:16:54 ID:K3j
直接東京に上陸せえや

2: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:18:32 ID:83p
はいダウンフォール作戦

3: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:19:47 ID:K3j
空襲で焼野原だったんだし難しくなかったんちゃうか?

4: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:19:52 ID:qRT
上陸目標の近くの島に上陸して飛行場整備してから上陸作戦してくるのが太平洋での米軍の基本戦略

5: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:20:45 ID:K3j
>>4
沖縄じゃなくて伊豆諸島占拠すれば東京狙えたんじゃ?

11: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:23:33 ID:qRT
>>4
でかい飛行場ないから狙わなかった

6: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:21:41 ID:i5r
伊豆諸島って奪って美味しい設備あったんだろうか
まぁ戦時下の日本の設備や施設なんて知れてるけど

7: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:21:46 ID:n3Z
台湾と日本を分断するためやで

10: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:23:20 ID:oj3
いきなり東京行ったら面倒くさいじゃん

13: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:24:04 ID:K3j
>>10
一気に日本政府を降伏に追い込むインパクトはあるやろ

14: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:24:11 ID:8Z2
沖縄に最初に眼を付けた米海軍の提督はペリーや
この島盗って海軍基地おけばこの周辺海域押さえられるやんって日本に来る前に報告してる
そのチャンスが巡ってきたのに捕らんわけないやろ

15: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:25:01 ID:83p
アメリカも大量に自軍の犠牲だしたくなかったんやろ

17: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:26:17 ID:eUN
海上封鎖でもいけたやろ

19: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:26:26 ID:sS7
北関東への上陸作戦も予定されてたで

20: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:26:35 ID:8Z2
ちな沖縄上陸作戦はノルマンディー上陸作戦よりも規模がデカい

22: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:27:50 ID:QX3
なんで沖縄はアメリカ領にされたんやろ

25: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:28:54 ID:oj3
>>22
そら戦略的な要所だからよ

26: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:29:02 ID:8Z2
>>22
ペリーの頃から隙あらばいつかは、と狙い続けてきた島だから

23: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:28:22 ID:PYh
東京や東北はてきとうな基地がなかったんやないか?

27: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:29:22 ID:n3Z
アメリカ兵が多くの犠牲を払って手に入れた沖縄を簡単に手放せなかったっていう感情的な面もある

28: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:30:07 ID:sOi
>>27
はえー

35: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:34:00 ID:8Z2
狂気のような菊水作戦を継続したのも大和を突入させたのも
日本は沖縄を見捨てないって意志を示すだめだった
沖縄の人にそれだけは理解して欲しい

38: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:39:55 ID:gdR
投入する兵力がとんでもなかったらまずオリンピック作戦で九州を確保して
航空基地などを整備した後コロネット作戦で東京を挟撃予定やったから

42: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:41:19 ID:11r
>>38
オリンピック作戦とは?

47: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:44:25 ID:gdR
>>42
ダウンファール作戦っていう日本絶滅大作戦の前半パートで九州確保が目的
後半パートがコロネット作戦で九州から東京を叩いて日本を滅ぼす

48: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:45:01 ID:n3Z
原爆を使い切っても普通の焼夷弾爆撃に切り替えてを地方のド田舎の都市まで無差別空爆を広める予定やったんやけどな

52: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:52:23 ID:n3Z
原爆撃ち尽くした後はもう戦略的重要地の軍港とか工場とかは関係ない
降伏するまで市民しか住まない小都市から小港まで焦土にする
ほんまに早めに降伏してよかったで

1001: 名無しさん@大艦巨砲主義! 2011/7/24(日) 12:20:40.20 ID:milio

コメント
 
1.古古米:2019年08月10日 10:09 ID:a8JnXM6w0▼このコメントに返信
その頃、今村大将はラバウルの畑を耕していた。
 
2.名無しさん:2019年08月10日 10:12 ID:isi41jsW0▼このコメントに返信
まず関東平野にいる天ころが最初のはず?
 
3.名無しさん:2019年08月10日 10:12 ID:hAKy.uo40▼このコメントに返信
考えてみればアラスカ経由で千島列島の北から始めるという選択肢もあったわけで、そう考えると沖縄の悲劇の裏にはロシアがあるとも言える。
 
4.名無しさん:2019年08月10日 10:13 ID:B.wkk5hx0▼このコメントに返信
海上封鎖はされていただろうから
本土からの補給は無理だと確信
アメリカの物量が日本軍を上回ると判断したのかな?
素人感覚での概観
 
5.日本本土に近い。:2019年08月10日 10:13 ID:WZkW7M1S0▼このコメントに返信
日本本土に近い。日本本土上陸時、航空基地として利用可能


加えて、台湾軍は手強い。


沖縄の32軍から9師団が抽出され、弱体化していたのを知っていた。
 
6.名無しさん:2019年08月10日 10:13 ID:MFM3yrio0▼このコメントに返信
米軍「沖縄なんて1日で制圧出来るわwwww余裕www」
 
7.名無しさん:2019年08月10日 10:14 ID:hAKy.uo40▼このコメントに返信
>>3
しかし千島列島から始めると、ロシアには1㎟も領土はやらん!というメッセージになってしまうと。
 
8.名無しさん:2019年08月10日 10:15 ID:B.wkk5hx0▼このコメントに返信
基本
日本は南からの攻撃には脆弱
 
9.名無しさん:2019年08月10日 10:17 ID:B.wkk5hx0▼このコメントに返信
※2
統一教会のかたですか?
 
10.名無しさん:2019年08月10日 10:18 ID:WBeircNN0▼このコメントに返信
あいつらペリーの頃の星条旗を世界大戦の日本降伏式に持ち込むぐらいの侵略意識だからなあ。
どれだけアメリカが日本をハメるつもりで動いてたんだか。
 
11.名無しさん:2019年08月10日 10:18 ID:R1xg7Yld0▼このコメントに返信
敵国政府を崩壊させたら余計に厄介なことになる
 
12.名無しさん:2019年08月10日 10:21 ID:B.wkk5hx0▼このコメントに返信
日本を攻撃する場合
南からの攻撃は必然
二方面作戦を取るにしても南からの攻撃は欠かせない
素人感覚でもね
 
13.名無しさん:2019年08月10日 10:22 ID:BNZbVD8H0▼このコメントに返信
蛙飛び作戦やぞ
・ガダルカナル ⇐ 占領
・インドネシア ⇐ スルー
・フィリピン  ⇐ 占領
・台湾     ⇐ スルー
・沖縄     ⇐ 占領
 
14.名無しさん:2019年08月10日 10:22 ID:JrNAVxpK0▼このコメントに返信
東京上陸作戦を敢行中、背後から襲撃される万に一つの可能性を排除したかったんじゃね?

これまでローラーをかけるように日本軍の拠点を潰してきたのだから、
沖縄だけを例外にする理由もないだろうし。
 
15.名無しさん:2019年08月10日 10:22 ID:TH00QtkJ0▼このコメントに返信
戦略的橋頭堡というのがあってだなあ
 
16.名無しさん:2019年08月10日 10:23 ID:.g0nkS0L0▼このコメントに返信
今でも沖縄に駐留しているぐらい地域的には重要な要衝なんでしょう
 
17.名無しさん:2019年08月10日 10:26 ID:B.wkk5hx0▼このコメントに返信
※12
支、那様が尖閣・沖縄を手中に収めようとするのは必然
対支、那様戦でも沖縄諸島が主戦場になる
日本の都市にはもれなく核兵器が炸裂するおまけ付
 
18.名無しさん:2019年08月10日 10:26 ID:q5OGhhUR0▼このコメントに返信
位置的にすげー重要だから
だから今はシナが狙ってる
 
19.名無しさん:2019年08月10日 10:29 ID:kcUyAkLA0▼このコメントに返信
日帝の作った飛行場が数多くあったから、本土へ蹂躙空襲を掛けるにはまさに最適の場所だった
・・・とヒストリーチャンネルの沖縄戦特集の番組内で言ってた
 
20.名無しさん:2019年08月10日 10:31 ID:SddTx5G40▼このコメントに返信
あれ?アッツやキスカ方面にも来ていたし、硫黄島にも来ていたじゃん。

別に南方オンリーじゃなかった気が
 
21.名無しさん:2019年08月10日 10:33 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
・10代20代の若者に「お国のため、陛下のために喜んで死んで来い」と言って特攻させる。なお、送り出した上官たちの大半は天寿を全うする 
・「特攻は志願だった」といいつつも、辞退した人もひっそりと志願したということに変更して特攻させる 
・戦車に勝つため、生身の兵士が爆弾を全身に巻きつけて戦車に突入し自爆させる 
・訓練1週間の10代をゴムボートに爆弾積ませ敵艦に特攻させる。または、潜水艦服を着せ潜水させ棒の先に付けた機雷で敵艦を突き自爆させる 
・自爆せず戻ってきた兵士はボコボコに殴り山奥に作った隔離施設で洗脳、自己批判させる 
・アッツ島の戦い、レイテ島の戦い、インパール作戦など、兵士を虫けらのように扱う。そこで死んだ兵士のことを美化し神様として靖国に祀る 
・南方に派遣された兵士はほとんどが戦闘ではなく餓死や病死 
・本当の戦局は全て隠し、ひたすら勝利報道をして戦意高揚 
・兵士たちの戦意が落ちてくると、現地に大量のヒロポン(覚せい剤)を軍が配布し服用させる。特に飛行士が飲まされた 
・沖縄戦に派遣された日本軍、沖縄の女子供老人に手榴弾を渡し「わかってるな…」と呟く。なお、政府は日本軍による自決強要はなかったと主張 
・憲兵が国民生活を厳しく監視。密告社会だった 
・戦争に疑問を持つ者は非国民、売国奴、アカとレッテル貼り特高が拷問。好戦的な者は愛国者と讃えられる 
・無理に戦争を継続した結果、戦没者の9割がなんと戦争最後の1年に死亡

結論→本当に負けて良かったw
 
22.名無しさん:2019年08月10日 10:33 ID:NVGgG6PO0▼このコメントに返信
日本の降伏後を見据えた極東戦略やぞ~米国は中国国民党に肩入れしてたが共産勢力の台頭もご存知やで!
ソ連の南下し朝鮮半島を狙ってたし!日本の負けは確定で軍部が最後までグダグダ嫌々してただけだぞ!
陛下の御英断をも反故にしようとした軍部と国民を斎尾まで煽った朝日・毎日新聞は許せんわ。
信濃毎日新聞は現在も左巻きだが戦前・戦中も左巻きで特高にやられてたからwwまだ許せるが。
 
23.名無しさん:2019年08月10日 10:34 ID:jq2SyX1D0▼このコメントに返信
特攻隊や大和を捨ててまで守ろうとしたのに沖縄捨てられたとかよく言うな
捨てるなら沖縄見捨てて本土に戦力集めるわ
 
24.名無しさん:2019年08月10日 10:34 ID:FhiZl4HB0▼このコメントに返信
大東亜戦争と書かないと答えません。
 
25.名無しさん:2019年08月10日 10:38 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>22
マスコミにも責任はあるけど
軍部から圧力かけられてたしなぁ

それに煽ってたのは朝日とかに限らず読売とかもやで
 
26.名無しさん:2019年08月10日 10:39 ID:.xHNePkf0▼このコメントに返信
ペリーの時代から幕府が琉球を力で支配し奴隷のように働かせていることを知っていた。
サトウキビ同様まさに搾り取っていた。
今でいうなら中国とチベットのような関係だね。
長く本土の日本人に迫害を受けていた琉球民族だから少なからずとも日本人に恨みがあると思ったんだろう。
占領後も沖縄の住民はアメリカ軍に協力的になると踏んでね。
だから最初に沖縄を落とす必要があった。そしてアメリカが見据える先にあるのはソ連だった。
アメリカの情報力と戦略の緻密さを侮ってはいけない。
日本は大東亜共栄圏という漠然とした構想以外に何か緻密な戦略を持っていたのか?
戦争する前から物量でも戦略でも負けていたんだよ。
 
27.名無しさん:2019年08月10日 10:40 ID:x.iwWzua0▼このコメントに返信
>>3
北海道から降りてくる作戦だとだいぶ厳しいんじゃないですかねぇ。

北海道は占領するには広すぎる。
今の北方領土は軍単位の段列を展開するには狭すぎる。近すぎる。
アリューシャン列島に軍単位の段列上陸作戦は遠すぎるのでは?
占領時期が遅れればあっという間に冬将軍。


沖縄
フィリピンに段列を展開できる。(台湾は飛び石で無視。)
九州攻略時に沖縄が段列になる。
 
28.名無しさん:2019年08月10日 10:40 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>23
本土に戦力集めててくれたら
沖縄も戦場にならず、県民も集団自決に追い込まれずに済んだからwinwinだったよ
 
29.名無しさん:2019年08月10日 10:44 ID:Pypx2ecp0▼このコメントに返信
ペリリューや硫黄島で米軍の受けたダメージを考えると
本土に直接乗り込んだら全滅もありえるでしょ。
 
30.名無しさん:2019年08月10日 10:44 ID:ouoap..c0▼このコメントに返信
航空爆撃だけなら長距離でも可能だが、上陸作戦となると大量の兵員・物資を輸送するので、短距離でないと不可能。米軍も最終的には関東占領が目標だったが、それには沖縄→九州→本州と段階を踏むことが不可欠とされていた。
伊豆七島は空港や設備の規模が小さすぎるし、そもそも伊豆七島自体が絶海の孤島なのでそこに至るまでの侵攻ルートがない。
 
31.名無しさん:2019年08月10日 10:45 ID:06nHU4bN0▼このコメントに返信

敵を分断して撃破するのは兵法の基本

南方資源地帯・台湾と分断し、日本直領を占領して国内(米国内)の戦意を高める。
 
32.名無しさん:2019年08月10日 10:45 ID:WxVlf6K80▼このコメントに返信
※20
アリューシャンは領土奪回、硫黄島はマリアナからの前線飛行場確保、沖縄はさんざん言われるだろうけど実際の侵攻用の橋頭保
意味合いがそれぞれ違うよ
 
33.名無しさん:2019年08月10日 10:45 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>9
統一教会って自民党と仲良しの朝鮮カルトだよね
 
34.名無しさん:2019年08月10日 10:46 ID:XbV1LQJH0▼このコメントに返信
※20
硫黄島のは「B-29の不時着地及び直掩隊の拠点ほすぃ!!」で橋頭保目的じゃなかったから・・・
 
35.名無しさん:2019年08月10日 10:46 ID:godZ1iI80▼このコメントに返信
本土侵攻の橋頭保だろ
フィリピンや硫黄島からだと日本本土は遠すぎる。
 
36.名無しさん:2019年08月10日 10:47 ID:Xlbl.cpA0▼このコメントに返信
>>13の飛び石作戦が正解だよ、無理にいかないで一つずつ飛ばしていく。
勿論本土狙うか九州を叩くかは作戦本部で決めたはず。
台湾はそこそこ軍備や人間が揃っていたからスルー、現地の軍人は悔しがったり安心したり気持ちは正直です。
だから硫黄島の飛行場が役に立ったというか考えた末の攻略でしょ。
 
37.名無しさん:2019年08月10日 10:47 ID:9PVpaIjg0▼このコメントに返信
>>28
本土を攻める拠点にするからどっちにしろ米軍はくるで
日本兵の死体でアクセサリーを作る連中やけど民間人には手を出さないといいな
 
38.ヴェルサス13がやりたかった。。。:2019年08月10日 10:49 ID:i7cbMYDn0▼このコメントに返信
要所として魅力があった沖縄、要所として魅力がなかったから切り離された朝鮮半島ってことか…
 
39.名無しさん:2019年08月10日 10:49 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>29
全滅するのは日本人の方
 
40.名無しさん:2019年08月10日 10:50 ID:ouoap..c0▼このコメントに返信
>>28
んなわけない
戦力は温存できても、当然米軍は「日本政府は沖縄を見捨てた!」と全国に空からビラを大量に撒くから、政府への信頼が完全に失われ、戦争継続ができなくなる
 
41.名無しさん:2019年08月10日 10:51 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>37
・10代20代の若者に「お国のため、陛下のために喜んで死んで来い」と言って特攻させる。なお、送り出した上官たちの大半は天寿を全うする 
・「特攻は志願だった」といいつつも、辞退した人もひっそりと志願したということに変更して特攻させる 
・戦車に勝つため、生身の兵士が爆弾を全身に巻きつけて戦車に突入し自爆させる 
・訓練1週間の10代をゴムボートに爆弾積ませ敵艦に特攻させる。または、潜水艦服を着せ潜水させ棒の先に付けた機雷で敵艦を突き自爆させる 
・自爆せず戻ってきた兵士はボコボコに殴り山奥に作った隔離施設で洗脳、自己批判させる 
・アッツ島の戦い、レイテ島の戦い、インパール作戦など、兵士を虫けらのように扱う。そこで死んだ兵士のことを美化し神様として靖国に祀る 
・南方に派遣された兵士はほとんどが戦闘ではなく餓死や病死 
・本当の戦局は全て隠し、ひたすら勝利報道をして戦意高揚 
・兵士たちの戦意が落ちてくると、現地に大量のヒロポン(覚せい剤)を軍が配布し服用させる。特に飛行士が飲まされた 
・沖縄戦に派遣された日本軍、沖縄の女子供老人に手榴弾を渡し「わかってるな…」と呟く。なお、政府は日本軍による自決強要はなかったと主張 
・憲兵が国民生活を厳しく監視。密告社会だった 
・戦争に疑問を持つ者は非国民、売国奴、アカとレッテル貼り特高が拷問。好戦的な者は愛国者と讃えられる 
・無理に戦争を継続した結果、戦没者の9割がなんと戦争最後の1年に死亡

結論→日本軍より米軍のがマシw
 
42.名無しさん:2019年08月10日 10:51 ID:nSxkQVRj0▼このコメントに返信
沖縄は米国にとってThe key stone of Paciffic で1800年代から重要な位置だった。ペリー以前にも沖縄に上陸した米艦隊は占領のチャンスを狙っていた。ぺリーは小笠原の土地も買っていた。幕府が上陸するまでほとんど小笠原は米国人の島だった。今でも子孫が生活している。
スレの通り米軍が北海道から占領をしていれば千島は助かったかもしれないが、ポツダム宣言では千島をソ連に渡す協定をしてしまったから、ソ連軍が北からくることを容認していたのだろう。日本の海軍兵力は南方中心だったことも影響した。
 
43.名無しさん:2019年08月10日 10:51 ID:Uf5mTiQ60▼このコメントに返信
オセロでも真ん中から置くやつは、馬鹿でしょ。
 
44.名無しさん:2019年08月10日 10:51 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>40
それでええやん
どうせ詰んでるんだし
 
45.名無しさん:2019年08月10日 10:52 ID:hRdM5s4F0▼このコメントに返信
しかも沖縄戦の準備段階として
残存艦隊を沖縄へ来させないために、瀬戸内海にB-29で機雷ばら撒いて海上封鎖
これで海軍どころか西日本の海上輸送インフラを壊滅に追い込んでからの沖縄戦だもの
最低限の航路掃海して大和特攻艦隊を出せただけでも、実はたいしたもんなんだ
 
46.名無しさん:2019年08月10日 10:53 ID:06nHU4bN0▼このコメントに返信

硫黄島はB29の不時着地ではなくてB29を護衛する戦闘機の発進基地な

米戦闘機はサイパンからは日本本土に足が足りなかったから。
 
47.名無しさん:2019年08月10日 10:55 ID:EqENjgWV0▼このコメントに返信
※5
>>5
台湾は、蒋介石へのプレゼント決定しているから、最初から無視だよ。
沖縄は、蒋介石が断ったから、思う存分地上戦で蹂躙しただけ。
 
 
 
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集団自決の生き証人・安里巡査の証言、「沖縄警察史」より

2019-07-11 13:16:54 | ★集団自決

 

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2007年9月29日。

大幅水増しで知られる「11万人集会」が宜野湾海浜公園で開かれた。

2万人足らずの政治集会を5倍以上に水増しした「11万人集会」の正式名は「教科書検定意見撤回を求める県民大会」という。

爾来12年経過した。

だが、同集会が当時国に要求した教科書検定意見の撤回は、2019年7月11日(2022年5月)現在、いまだに撤回されていない。

従って当時の文科省検定意見は現在も有効である。

それでは、あれほど大巾水増し迄して国に撤回を要求した教科書検定意見とは一体何だったのか。

従来沖縄の集団自決に関し、教科書には「軍の命令による」という記述が認められていた。 それを削除せよ、というのが検定意見だった。

ところが、それまでの歴史的検証により、「集団自決が軍の命令により行われた」という客観的証言や証拠は皆無であった。その意味では遅すぎた検定意見と言えなくもない。

従って「集団自決は軍の命令」という記述は、教科書はおろか一般紙の記述でも間違いということにいなった。

ところが「集団自決軍命令説」に固執する沖縄2紙や沖縄2紙の御用学者たちは、「集団自決(強制集団死)」という新語を作り、あたかも軍命であるかのような印象の報道を拡散している。

そこで、当日記が過去に書き綴った集団自決に関する過去ブログを掘り起こし一部編集の上、再度集団自決の真相に迫ってみたい。

以下は過去ブログ安里巡査の証言、「沖縄警察史」より2012-04-30の引用である。

             ☆

 

琉球新報が己のイデオロギーを守るため掲載拒否した上原正稔さんの連載沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」。

その核心部分である「慶良間で何が起きたのか」が現在、南の島の小さな新聞「八重山日報」で連日好評掲載中である。

同時にこの幻の原稿は沖縄戦研究者の注目を浴びている。

琉球新報の面目はこれで丸潰れだ。

琉球新報の独善的な掲載拒否により知る権利を奪われた読者の怒りが今、燎原の火の如く県内に広がりつつある。

筆者の知人にも上原さんの原稿を八重山日報で読んで怒り心頭のあまり琉球新報の購読を止めた人が複数いる。

琉球新報の面目が潰れれば潰れるほど読者は離れていく。

石垣市の読者より上原さんの記事を読んだ感想をメールで頂いた。

重い内容ですが、「極限の事実」、しっかり受け止めて読みました。
それにしても琉球新報の読者の皆様にはお気の毒なことです。

琉球新報の罪は相当に重い、と思いますね。書き手の書物から事実を知り、
学ぶ、読者の喜びであり、知的財産です。これを奪う罪ですね。

石垣島より


■八重山日報 2012年4月29日

慶良間で何が起きたのか④ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 現地調査で知った意外な事実
 一九九五年夏、僕は渡嘉敷の金城武徳さんに案内され、島の最北端「北山(ニシヤマ)」に向かった。だが、金城さんは、ここは北山ではなくウァーラヌフールモーで第一玉砕場と呼ばれていると説明した。僕は『鉄の暴風』で植え付けられた自分の思い込みに呆れたが、さらに驚いたことに、金城さんと大城良平さんは「赤松隊長は集団自決を命令していない。それどころか、村の人たちから感謝されている。」と言うのだ。そこで『鉄の暴風』で隊長の自決命令を伝えたとされている比嘉(旧姓安里)喜順さんに会って事件を聞くと「私は自決命令を伝えたことはない。赤松さんが自決命令を出したとする。『鉄の暴風』は嘘ばかりです。世間の誤解を解いて下さい。」と言う。知念朝睦さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。渡嘉敷村史、沖縄県史など様々の証言を徹底的に検証した結果、次のような住民の動きが浮上した。―三月二十七日、村の防衛召集兵は前夜から「敵が上陸して危険だから北山に移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。渡嘉敷村落の西側の避難場所北山には古波蔵村長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。(前年の村の人口は一四四七人であることに注意。)そこで古波蔵村長、真喜屋前校長、徳平郵便局長ら村の有力者会議が開かれ、「玉砕のほかはない」と皆、賛成し玉砕が決められた。一方、赴任したばかりの安里巡査は村民をどのように避難誘導しようかと考え、軍と相談しようと思い、赤松隊長に会いに行った。安里巡査が赤松隊長に会うのはこれが最初だった。赤松隊長は「私達も今から陣地構築を始めるところだから、部隊の邪魔にならない場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言した。安里巡査は古波蔵村長ら村の有力者にそのように報告した。ところが防衛隊員の中には既に妻子を殺した者がいて、「このまま敵の手にかかるよりも潔(いさぎよ)く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」言い出して、先に述べたように村の有力者たちは集まって玉砕を決行しようということになった。防衛隊員も住民も既に平常心を失っていた。早まるな、という安里巡査に耳を傾ける者はいなかった。防衛隊員らは「赤松隊長の命令で、村民は全員、陣地裏側の北山に集まれ。そこで玉砕する」とふれ回った。住民は皆、死ぬことに疑問はなかった。最北端のウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊員は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊員から手榴弾が手渡された。天皇陛下のために死ぬ、国のために死ぬのだ。砲弾を雨あられと降らしている恐ろしい鬼畜は今にもここにやってくるのだ。夕刻、古波蔵村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。村長は北に向かって一礼し、「これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と演説し、「天皇陛下万歳」と叫んだ。皆もそれに続いて両手を挙げて斉唱した。村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが爆発しない。石に叩きつけても爆発しない。見かねた真喜屋校長が「それでは私が模範を見せよう」と手榴弾のピンを抜くと爆発し、その身体が吹き飛んだ。狂乱した住民は我も我も手榴弾のピンを抜いた。だが、不発弾が多く、爆発しないのが多い。「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そう」と防衛隊員の誰かが言った。村長は「よし、そうしよう。みんなついてきなさい。」と先頭に立って、三百メートルほど南に構築中の部隊本部壕に向かった。住民はワァーと叫んで陣地になだれ込んだ。その時、アメリカ軍の砲弾が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。本部陣地では仰天した兵士らが「来るな、帰れ」と叫ぶ。「兵隊さん、殺して下さい、と懇願する少女もいる。赤松戦隊長は防衛隊に命じ、事態を収めた。住民らはスゴスゴと二手に分かれて退散した。だが、午後八時過ぎ、ウァーラヌフールモー(第一玉砕場)に戻った住民らは「神もおののく集団自殺」を続行し、陣地東の谷間(第二玉砕場)に向かった金城武徳さんらは生き残った。そこでは、〝玉砕〟は終わっていたからだ。陣中日誌は記す。「三月二十八日午後八時過ぎから小雨の中敵弾激しく住民の叫び声阿修羅の如く陣地後方において自決し始めたる模様。(中略)三月二十九日、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で首を切断したる者、戦いとは言え、言葉に表し尽くしえない情景であった。」


 一九九五年取材した元防衛隊員の大城良平さんは語った。「赤松隊長は、村の指導者が住民を殺すので、機関銃を貸してくれ、と頼んできたが断った、と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はいないでしょう。」


 同じく比嘉喜順さんは語った。「赤松さんは人間の鑑(かがみ)です。渡嘉敷の住民のために泥をかぶり、一切、弁明することなく、この世を去ったのです。家族のためにも本当のことを世間に知らせて下さい。」


 僕はこの時点で「赤松さんは集団自決を命令していない」と確信した。だが、大きな謎が残った。なぜ、渡嘉敷の人たちは公(おおやけ)に『鉄の暴風』を非難し、赤松さんの汚名を雪(すす)ごうとしないのだろうか。その答えは突然やってきた。  (つづく)

              ☆

 

上原さんの文中に登場する集団自決の証言者で、琉球新報の方針と異なる証言をする人は、例え県内に在住している人でも、沖縄メディアは決して取材することは無かった。

最近物故されたが、1945年3月当時渡嘉敷島の巡査をしていた比嘉喜順さんや赤松隊長と終始行動をともにしていた知念朝睦副官らがそうだ。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受けて信憑性にかけ、それが真相解明の大きな妨げになっていた。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに援護法による年金支給の問題が絡むと今でも黙して語らないお年寄りが多数いる。

その点、知念さんや比嘉(安里巡査ー戦後比嘉家に養子で改姓)さんは当時成年であり信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会にとっては「よそ者」であり、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。したがって「援護金」のために嘘の証言をする必要の無い証言者である。

また知念副官も他所から赴任した島の血縁社会には無縁な軍人であった。

当時安里巡査は29歳で知念副官は25歳。 二人とも渡嘉敷の血縁社会には無縁であり、親族に「集団自決」の被害者のいない証言者であり、「援護法」に絡む嘘の証言の必要の無いよそ者であった。

年齢的にも、村の指導的立場の副官、警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、又戦後沖縄に在住しているのにもかかわらず、不思議なことに地元マスコミで安里さんに取材したものは1人もいないという。

その理由は?

安里(比嘉)さんと知念さんが渡嘉敷島で起きた「集団自決」の「(沖縄2紙にとって)不都合な真実」を知っていたからである。

以下は安里巡査の証言、言論封殺訴訟を編集し、引用した。

安里喜順氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者は何故か安里氏には取材をしていない。

安里氏は戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓したことは前に延べた。

曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場する安里氏の証言を改めて読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

 

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安里喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前にほ訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏の名を報じるマスコミは少ない。

だが、安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に真実がある

 

琉球新報が卑劣にも上原さんに断りも無く削除した一節には、渡嘉敷島集団自決の最重要証人である安里(比嘉)巡査の名前が記されていた。

 

安里巡査の証言を「沖縄警察史」という公的刊行物より2回にわたって紹介する。

安里(比嘉)喜順氏の証言-1

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行 
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

當間駐在所
 昭和16年4月に沖縄県巡査を拝命して、第77期生として巡査教習所に入った。同期生には豊崎孟善、田場進、上地永好、現県会議員の砂川武雄等がおり、昭和16年8月30日に卒業して那覇署に配置になった。
 那覇署で最初に勤務したのが東町交番であった。次は今のバスターミナルの近くにあった旭町交番、そして昭和17年に小禄村の當間巡査駐在所に配置になった。當間巡査駐在所には昭和20年1月15日まで勤務した。
 昭和19年の10・10空襲のときは當間巡査駐在所勤務で、その日の朝は本署に出勤していた。その時、「飛行機の練習にしてはどうも変だな」と思っていたら、やはり空襲だったので、自転車で急いで駐在所に戻った。
 10・10空襲で那覇は全部焼かれた。駐在所の近くには飛行場があって空襲されることは間違いないと思ったので家内と子供たちは中城に疎開させていた。
 那覇飛行場を建設するため山根部隊や建設隊などが来ていたが、私が駐在所に赴任した頃には飛行場建設は終わり防空壕堀などをしていた。
 その頃の駐在所勤務は戸口調査とか本署からの下命事項の調査報告や思想調査、警防団の訓練、そして定期招集で本署へ行くこと等であった。10・10空襲があってからは、一般住民の方達が夜警に出ていた。

渡嘉敷駐在所
 昭和20年1月15日付けで渡嘉敷巡査駐在所へ配置換えの辞令が出た。
 その時配置換えの辞令を受け取ったか、それとも電話で命令を受けたのかよく覚えていない。
 慶良間列島には、座間味村と渡嘉敷村があり、私が赴任した所は渡嘉敷村の字渡嘉敷であった。渡嘉敷には阿波連、それから前島の小さい離島もあり国民学校もあった。渡嘉敷村には駐在所は一カ所だけであった。
 15日に配置換えの命令を受けたが、渡嘉敷に赴任したのは21日頃であった。その頃は戦闘状態であり、それに渡嘉敷島は秘密地帯になっており、歩兵部隊か、特攻部隊が駐屯しており渡嘉敷島に行くことはできるが島からは簡単に出られない状況であった。島へはポンポン船で行くが、これも毎日は出ない。それに準備等もあったので、赴任するまで少し時間がかかった。
 駐在所は警察の建物ではなくて民家を借りていたので、単身赴任した。
 その頃は本島間の電話は架設されてないので、本島と渡嘉敷島の間を往来していたポンポン船で、書類を送ったり本署からの書類を受け取ったりしていた。戦争状態になってからはポンポン船も運行できなくなったので、本署との通信連絡はほとんど途絶えた。その後は自分一人で色々考えて判断して、警察業務を遂行した。
渡嘉敷島は小さい離島なので、戦争になったらまず心配されるのは食料であった。そこで食糧増産をすることになり、私も田植えの手伝いをした。

御真影奉還
 渡嘉敷島に赴任して間もない2月頃と思うが、国民学校の御真影を本島に奉還して行ったことがあった。
 これは県庁から命令が出たと思うが、「御真影を本島の一カ所に奉還しなさい」と言う事があったので、渡嘉敷国民学校の校長と、高等科の先生2人と私の4人で御真影をお守りしてポンポン船で本島に渡った。
 本島ではこの頃はバスなどは運行していなかったので、歩いたり拾い車をしたりして国頭の羽地村源河にあった国民学校にお届けした。
 帰りに中城に立ち寄って、家族にあった。その時次男坊が私にまとわり付いて「一緒に付いて行く」と言って泣いていたが、戦争が終わって帰ってみると、その子だけが戦争で亡くなっていた。今考えると何かこの世の別れを知っていたのかと思ったりする。その後、那覇署で任務終了したことを上司に報告した。
渡嘉敷島へ渡るため那覇港からポンポン船に乗って出航したところを、米軍の飛行機の爆撃を受けた。これで一巻の終わりかと思ったが、爆撃をかわし、渡嘉敷港に無事たどり着くことができた。

鈴木部隊
 渡嘉敷島に赴任したとき島には、鈴木部隊と言って歩兵の戦闘部隊が配置されていた。その頃はいろいろ軍を相手にしなければならない仕事も多かった。
 私は、前任地の當間駐在で飛行場の兵隊とはよく会っていたので、赴任してすぐ鈴木少佐のところに赴任あいさつに行った。
 鈴木少佐は私の前任地のこともすでに知っておられて、物資の少ない時であったが魚の缶詰などを出して歓迎してくれた。鈴木部隊の隊長は民家を借り、兵隊は国民学校にいた。陣地などは良く分からなかったが、歩哨に立つ所があったぐらいのもので、大砲などは持っていなかったと思う。
 鈴木部隊とはよくお付き合いしていたが、本島の兵力が足りないとのことで、鈴木部隊は二月頃、本島へ転進していった。島尻あたりの警備に就いたと思う。

赤松部隊
 渡嘉敷島には鈴木部隊の外に、赤松大尉の部隊が配置されていた。その部隊は秘密部隊と言う事であったので、赴任した当初は赤松大尉には会っていない。
 私が赴任した時には、鈴木隊長の部隊と赤松隊長の部隊の2つの部隊があった。鈴木部隊が転進してからは赤松部隊だけになった。
 赤松部隊は水上突撃隊で、人力で押し出すことができる小型船に爆弾を積んで、敵艦に体当たりする秘密部隊であったので陣地などは見ていないが、海岸の岸壁を掘ってそこに舟を隠していたようだ。
 同部隊には、首里出身の知念少尉がおられた。私と一緒に下宿していた宇久先生も首里出身で知念少尉とは知り合いであったので、知念少尉は時々下宿に訪ねてきていた。米軍が渡嘉敷島に上陸してからは、私は赤松部隊とは頻繁に行き来していたが、それ以前は赤松隊長との面識はなかった。

塩屋警察署へ赴任できず
 昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。
 艦砲が始まったので私は、島の高い所に登って島尻の方を見た。渡嘉敷島はそれまで相当な被害にあっていたが、いくらアメリカと連合軍に物量があると言ってもただ言葉だけの天文学的数字を言っているものとばかり思っていた。ポンポン艦砲弾が撃ち込まれる中を自分は警察官だから隠れるわけにはいかないので身を伏せながら方々の状況を見てびっくりした。
 沖縄本島は島尻から北谷あたりまで見渡す限り敵艦船が取り囲んでいたので、これはちょっとやそっとの物量ではないと思った。

(つづく)

 

 

【おまけ】

八重山教科書問題や32軍指令壕説明板の削除問題など、このところ連戦連敗の反日左翼陣営で、「沖縄版言論封殺魔」こと目取魔俊氏が負け犬の遠吠えをしている。

大江・岩波沖縄裁判で勝訴したが問題の核心である「軍命」は立証できなかったことは隠蔽し、あたかも裁判で勝ったことが「軍命の立証」を意味するかのような印象操作に懸命である。

当然のことながら「裁判の結果を生かす」場面など無いと思うのだがね。(涙) 

お気の毒。

ちなみに「言論封殺魔」こと目取真氏が紹介している岩波書店編『検証・沖縄「集団自決」裁判』(岩波書店)は、裁判の被告である岩波が嘘八百の沖縄タイムスなどを使って編纂した眉唾ものの自己弁護記録であることは、10倍水増しの「政治集会」を平気で「11万人集結」の県民大会集会などと平気で大嘘を書いているのを見れば一目瞭然である。

 

大江・岩波沖縄戦裁判の成果をいまに生かす

2012-04-29 21:20:24 | 「集団自決」(強制集団死)
 昨年4月21日に最高裁が梅澤裕氏と赤松秀一氏の上告を棄却し、大江健三郎氏と岩波書店の勝訴が確定してから1年余になる。大江・岩波沖縄戦裁判は、慶良間諸島における「集団自決」(強制集団死)の軍による命令や強制を否定し、さらに教科書記述の削除や変更、沖縄における自衛隊強化をも視野に入れて、右翼・歴史修正主義者たちによって組織的に取り組まれたものだった。 裁判は大江氏と岩波書店の全面的勝訴となった。しか . . . 本文を読む
 
 

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新・「鉄の暴風」のいかがわしさ

2019-06-25 05:14:03 | ★集団自決

 

狼魔人日記

 

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ここ数日風邪をこじらして、熱で頭がさえない。

例年慰霊の日の前後にアクセスが増える過去ブログから、もう一編紹介しよう。

 

『鉄の暴風』のいかがわしさ 2007-11-01 06:15:54 

米、数千人動員して民間人救出
「米軍より日本軍怖い」感覚へ

  沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。(略)(世界日報 2007年10月30日) http://www.worldtimes.co.jp/index.html

                     ◇

■米軍は解放軍■

「鉄の暴風」という言葉から受ける印象は、

「沖縄対日本軍」の戦いである。

そして米軍は日本の沖縄を解放に来た解放軍だという印象だ。

太田元沖縄県知事の一連の著書にはこのような記述が見られる。

≪その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)http://www.kamiura.com/chuu18.htm

 

沖縄タイムスが極端な偏向を通り越し、

敵意剥き出しの反日報道をするのには理由があった。

 

■沖縄タイムス出生の秘密■

その訳を深く掘り下げると沖縄タイムスの出生の秘密にたどり着くことになる。

それは昭和25年に発行された『鉄の暴風』の初版の前文にすべてが凝縮されている。

前文にはこう書かれていた。

「なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」 (『鉄の暴風』初版前文)

揉み手をしたような、この米軍へのおべんちゃら記事が『鉄の暴風』の記事だと知ると驚く人も多いだろう。

勿論、沖縄タイムス出生の秘密を暗示するこの前文はその後の重版では削除されている。

『鉄の暴風』は主として沖縄タイムス記者伊佐良博氏(後に太田に改姓)によって書かれたが、同書のもう一人の著者、牧港篤三氏によれば、

初版は2万部出版され「米軍に提出されるため英訳され、占領軍司令部でも話題になった」と記している。(沖縄タイムス平成14年6月12日付け)


■米軍広報紙としての出発■

さらに沖縄タイムスの創立者の1人座安盛徳氏(故人)は昭和25年5月2日、東京のGHQを訪問し、当時の沖縄人としては珍しくマッカーサー元帥と面談もしている。

当時は日本政府の要人でさえ面会の難しかったマッカーサー元帥に沖縄タイムスが容易に面会できた事実に驚かされる。

これによって沖縄タイムスが米軍の沖縄占領政策の重要な一部門に組み込まれていたことが分かる。

マッカーサーとの面談の三ヵ月後に『鉄の暴風』は初版が出版されることになる。

座安氏はマッカーサー元帥との面談を「雑感記事」として昭和25年5月6日の沖縄タイムス記事で次のように書いている。

「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度に一行はすっかり気をよくして・・・いよいよ思い切り甘えて見たくなった」

今で見ると驚きだが、これが『鉄の暴風』の出版のため東京を訪れた沖縄タイムス幹部の米軍総大将への雑感である。

そう、沖縄タイムスは戦後沖縄占領米軍のプロパガンダ紙として出発したのだ。

ここで言うプロパガンダ紙というのは比喩的な意味ではなく米軍情報部の下に作られた広報紙という意味である。

勿論米軍情報部の目論む「沖縄住民を日本から永久分断する」情報作戦の一旦を担うのが沖縄タイムス紙創立の理由だった。


■「鉄の暴風」に続く「紙の爆弾」■

当時、不足気味の新聞用紙の提供など報道に必要な備品は全て米軍によって提供された。

<沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。>(世界日報「米軍より日本軍怖い」感覚へ)

米軍は「鉄の暴風」を吹き荒れさせた後は、

「紙の爆弾」といわれた膨大な量の宣伝ビラを島中にばら撒いて住民と日本軍の分断を図った。

この心理作戦遂行のため、情報部は沖縄での空中散布用に五百七十万枚のリーフレットを印刷。米軍上陸後にまかれたあるビラの文面を紹介しよう。

 皆さん達の家はこわされたり、畑や作物は踏み潰され又元気盛りの青年は殺され、沖縄の人は皆口に言えぬ苦労をしています。内地人は皆さん達に余計な苦労をさせます。……日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしたりしている事は皆さん達に明らかでしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯貴方達は、内地人の手先に使われているのです」(世界日報より)

全島に降り注いだ紙の爆弾の効果はてき面だった。


■沖縄と日本との分断工作■

ニューヨーク・タイムズはアレクサンダー・ロバーツ伍長の談話を次のように掲載している。

 <生き残った人々は、アメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げた。「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。そして七十人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている処に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねばならぬほどだった>

  ≪かくして、沖縄県民の心には徐々に、米軍ではなく日本軍が敵であるという認識が植え付けられていくのである。

   「沖縄人」と「内地人」を離間させ、対立を煽(あお)る「宣伝ビラ」の配布、方言による声の投降勧告の上で、米軍が行ったのが、戦場下で逃げ惑う民間人の救出だった。保坂廣志氏は、この民間人救出に、数千人もの軍政要員と、沖縄系二世が動員されたと指摘している。≫(「世界日報」10月30日記事)

『鉄の暴風』が書かれた戦後5年目の沖縄は通信手段や交通手段さえ現在とは比較にはならない。

バスやタクシーが未だ無いので、交通手段は勿論電話や取材用の紙さえ米軍に頼らざるを得なかった。


■不可思議な取材活動■

『鉄の暴風』著者太田氏の取材の様子を世界日報は次のように報じている。

≪さて、太田氏はこの反論連載(沖縄タイムス掲載の曽野綾子氏への反論)の中で『鉄の暴風』の取材期間が「三ヶ月、まったく突貫工事である」と書いている。≫

現役記者のK氏は、取材活動でケータイは勿論PC、カセットテープを駆使し、移動手段も飛行機、電車、車、場合によってはミニバイクに乗って取材活動している。

『鉄の暴風』の取材方法については、同業者として次のように疑念を呈している。

≪記者二人で、三ヶ月の取材で書き上げた分量は四百字詰め原稿用紙で750枚前後に及ぶ膨大なものだ。 しかも離島だけではなく、本島の北から南にまでの兵隊や住民の動向を取材の視野に入れている。・・・・果たして証言内容を精査、吟味する時間をどれほど持てたのだろうか。≫

だが、読者の疑念は次の事実で氷解する。

『鉄の暴風』は証言内容の精査、吟味は不要であり、

米軍がその機動力で一か所に集めた都合の良い「証言」者から聞き取るだけで済んだからである。

何故なら『鉄の暴風』発刊の主旨は著者がいう「歴史の記録」というより、「住民と日本との分断」という米軍の意図の下で発刊を許可されていたからである。

ちなみに当時の沖縄で全ての出版物は米軍の発した「二ミッツ布告」による事前の検閲が必要であった。

ニミッツ布告
1945(昭和20)年3月26日公布
正式名称、アメリカ海軍軍政府布告第1号
アメリカ軍の慶良間諸島上陸の時、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥によって公布される
北緯30度以南の南西諸島及びその周辺海域における日本政府の行政権と司法権を停止し、アメリカ軍の占領下におくことを宣言
アメリカの沖縄占領の実質的根拠となる
1966(昭和41)年まで存続


■米軍協力で集められた「証言者」■

昭和25年、那覇市の今で言う国際通りの国映館界隈は未だ道路も舗装されておらず米軍トラックが通ると埃が朦々と立ち込める悪路であった。

埃っぽいその道路から奥まった一角に在った某旅館に「集団自決」の証言者と称する人たちが集められた。

米軍の協力の下、実際に動いて証言者を集めたのは、沖縄タイムス創立の1人座安盛徳氏であった。

『鉄の暴風』の著者が不備な交通手段や通信手段を使わなくとも済むように、座安氏は先ずその旅館に「証言者たち」を集め、取材の準備を万端整えた。

そして『鉄の暴風』の連載を企画し、その後、単行本実現に米軍情報部との強力なコネを通じて影の力を発した。

その結果、太田氏は現地取材することも無く、一か所に集められた「関係者」からの聞き取りだけで「裏付け」をとることもなく、『鉄の暴風』を著したのである。

太田氏の取材は当時としてはある意味で、比較的容易に行われ、それが後日「伝聞取材」であると批判される原因になる。

一方影の著者とも言える座安氏のやったことは、「関係者」を集めるとは言っても、電話も交通手段も不備だった昭和25年当時の沖縄で、全島から「関係者」を一か所に集めることは至難の業で米軍の機動力の支援なくしては出来ない仕事であった。


■「伝聞記事」に対する太田氏の反論■

著者の太田氏は沖縄タイムス昭和六十年四月十日付で「座安氏の活躍」について明言している。

後にこれをまとめて出版した『戦争への反省』の中で、この「関係者」の取材が伝聞取材だったと問われたことに対して、次のように弁解している。

≪直接体験者でもないものが、あんなにくわしく事実を知っているはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないもの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。  永久に残る戦史として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私は、そんな不真面目な態度でのぞんではいなかった。≫((戦争への反省」225頁)

いやぁ、本職の記者でもない素人の筆者が読んでも、「~はずがない」とか、

「記録者(記者)は・・・でたらめではない」とか、

「新聞社が真剣に・・・」とかは子供の言い訳にしか取れないのだが・・・。

取材の基本は「裏づけ」だということは素人でも思いつくことだが、『鉄の暴風』の取材方針は「性善説」に徹しているようで、

詳しく知っていれば体験者のはずだ」、

「新聞社や記者はでたらめでもなければ、不真面目でもない」と主張することで伝聞取材説への反論としているのは驚きだ。

『ある神話の背景』(『集団自決の真相』と題して再版)の著者曽野綾子氏は、太田氏の上記の反論を、「子供の弁解」とは言わないまでも「素人のたわごと」と斬り捨てている。

「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」。

太田氏の弁明は素人からは「子供の言い訳」と取られ、曽野氏からは、「素人のたわごと」と一蹴された。

至言である。

「関係者」を旅館に集め取材のお膳立てをした座安盛徳氏は、後に沖縄タイムス専務、琉球放送社長などを歴任した人物で、米軍占領後沖縄を襲った巨大台風「グロリア」の被害処理を通じて米軍情報将校と個人的に強力なコネクションを持つようになっていた。

このように『鉄の暴風』は影の執筆者とも言える座安氏の米軍との個人的つながりの下に、

全ての資料は事前に準備されていたのである。

取材は現地に居なかった「関係者」の証言だけで充分だったのだ。

沖縄タイムス設立の目的は米軍のプロパガンダであり、

「日本軍を悪し様に罵って沖縄住民と日本との永久分断を計る」

という米軍の意図が広く沖縄中に浸透すれば、

『鉄の暴風』出版の目的は達せられたことになる。

 

初版から62年経った現在、『鉄の暴風』は今でも沖縄県民の日本への憎悪を煽り続けている。

恐ろしきはマッカーサーの62年殺しである。

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◆参考エントリー:

「沖縄人は日本人にあらず」 占領米軍の分断工作工作

「マッカーサーの三年殺し」【再掲】

 

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新・妄言!ひめゆり学徒は日本軍の「性奴隷」だった!

2019-06-24 09:18:14 | ★集団自決


 

狼魔人日記

 

 

 



毎年慰霊の日前後になると当日記の古い記事にアクセスが増える。

今回は「妄言!ひめゆり学徒は日本軍の「性奴隷」だった!2012-03-03 07:53:28」にアクセスが集中した。

日本軍を貶めるためのトンデモ学者たちの妄言だ。

ひめゆり学徒は日本軍の性奴隷だったというデタラメ説を同ブログより引用する。

               ☆

ひめゆり学徒は日本軍将校の慰安婦だった」と公言してはばからない人物がいる。

高嶋伸欣琉球大学名誉教授のことである。

八重山教科書問題で「識者の見解」などとデタラメな情報を垂れ流し、反日活動の折には必ず顔を出してくるこの人物の言動を辿れば、極悪複合体が反日という共通目的のため地下茎で強く絡み合っていることがわかる。

彼らは日本を貶め、沖縄を貶めるためには手段を選ばず、あらゆる反日活動の場面には登場する。

先日予告した「ひめゆり学徒は日本軍の慰安婦だった」に関連する雑誌『WILL』の対談の関連部分を再度引用する。

小林
先日、「報道2001」に出ていた高嶋伸欣琉球大学教授は「ひめゆり部 隊が慰安婦になっていたことがある」と発言したことがあるんですよ。全くの嘘 話なのに、ひめゆり部隊の語り部さんたちは抗議の声を上げないんです。結局、 反戦平和側の人間だから、仲間割れすれば右派・保守派を利すると考えたんでし ょう。これには腹が立ちました。「ひめゆり部隊」の名誉をしっかり守れ、と言いたい。

上坂 
私がこんな説教がましいことを言うのも、この歳になったからであって、 当時の空気を知る世代がいなくなれば、言ったもん勝ちになって、嘘の証言が事 実として通ってしまう。だから私は生きているうちに声を大にして言っておきた いのよ。
高嶋伸欣氏が東京の高校教師をしていた頃、とんでもないでたらめな本を出版している。 ひめゆり学徒を慰安婦と貶めた著書 『教育勅語と学校教育-思想統制に果した役割- 』(岩波書店 、 1990年11月20日)。その後高嶋氏は琉球大学の教授となり沖縄紙で「識者の意見」などと称して沖縄県民を貶めてきたことは周知の通りである。
 
高嶋氏のトンデモ本をこれを断罪する上杉千年氏の著書『検証「従軍慰安婦」』(全貌社1996年9月)から該当部分を引用する。
 
高嶋氏は、沖縄県民を『皇国民』に仕立て無意味な戦争に駆り立てた「皇民化教育」の象徴として「天皇・日の丸・君が代」への徹底的攻撃が学校を中心に実施されてきた。
 
しかし、反日左翼複合体にとっては、こうした運動だけでは「皇民化教育」の実態を暴露するのは不十分と考えた。
 
そこで、『皇民化教育』に踊らされる県民の愚劣な実態を捏造し公表する以外にないと判断した。
 
そのためには、沖縄で最も聖なる存在である『ひめゆり学徒』に代表される殉国の乙女とその引率教師を汚し辱めることこそ効果的として、"ひめゆり学徒にも従軍慰安婦がいた”という妄言の論文の公表となってくる。
 
■「ひめゆりの乙女」をも汚す究極の「反戦平和」
 
沖縄の反戦平和論の支柱をなしているのが「皇民化教育」批判であるである。 そこで、『皇民化教育』の実態を暴露するために『ひめゆり学徒隊』の「忌まわしいい事実」を捏造し公表するという究極の反戦平和論が進行したのである。 

それは、筑波大学付属高校社会科教諭高嶋伸欣著『教育勅語と学校教育』(平成2・11・20、岩波ブックレット)によってである。
 
それには、平成55年の社会科地理研究大会が那覇市開催された折に、記念講演をした「地元の歴史学者」が、次のように発言したと紹介している。
 
足手まといの「ひめゆり学徒隊」
沖縄戦といえば先ず最初に連想される「ひめゆり部隊」についても、美化されすぎているとし、「実は正規の看護婦からみれば、足手まといになったような状態もかなりあったようです」と述べた。(2頁)
 
従軍慰安婦もいた『ひめゆり学徒隊』
 
中には、これもいいたくないことですけど、真実を語るべきだ思いますのでいいますが、彼女たちは単に野戦看護婦であっただけでなく。ときには高級将校の慰安婦の役割まで押し付けられた子どもたちもいたのです。・・・」と。 私たちは衝撃を受け息を飲んだ。たしかに当時の日本軍の性格からすれば、ありうることと思えた。≫(2~3頁」
 
≪さらに「ひめゆり同窓会」(沖縄県立女子師範・沖縄県立第一高女の同窓会で結成)の関係者や沖縄の研究者たちをたづねてまわった。「残念だがそれが事実です」という回答が数人からあった。 ただし、「ひめゆり部隊」の少女の中に該当者がいたとしても一人か二人だろう。 むしろそれ以外の若い女性が大部分のはずだとのことだった。≫(4~5頁)
 
高嶋氏は、沖縄の乙女たちが従軍慰安婦を志願した理由は講演後に質問した所、講師は次のように回答したという。
 
≪身も心も”お国”(天皇)のために捧げることこそ最高の美徳だと徹底して“教育”洗脳されていた所で、その天皇の軍隊”皇軍”の将校の求めだったのだから、女でもお役に立てるのだと思いこそすれ、疑問を感じる余裕などなかったのだ。≫
 
≪求めている側の日本軍の将校の地位が高ければ高いほど名誉なことだとして、地元の側でも指導者層が進んで身内の子女から生かせたくらいだ≫(3~4頁)」
 
以上が「沖縄戦の悲劇と公民か教育」(2~70頁)の要旨である。
 
この論旨よりして「ひめゆり学徒隊」に従軍慰安婦がいたのだから、その他の学徒隊、即ち、県立の第2高女、(白梅学徒隊)・第三高女(名護蘭学徒隊)・首里高女(瑞宣学徒隊)私立の」積徳高女(積徳学徒隊)でも、「指導者層」である引率教師により、「名誉なこととして」「すすんで」提供されてということになり、すべての学徒隊の教師と生徒の名誉は汚されたことになる。

 ■”根も葉もない話し”と訴える「ひめゆり関係者」

高嶋氏のあまりにもデタラメナ記述に怒り心頭の上杉千年氏は早速反論のための調査を開始する。

高嶋氏は、沖縄国体に向けて「沖縄戦・国土が戦場になったとき」(昭和52年・青木書店)で、「将校用慰安婦と皇民化教育」と題して執筆したが、「そのような事実はないという反論が沖縄の人々から提起」(10頁)されなかったとしている。

しかし、それは「同書」では、「沖縄住民に将校用の慰安婦の提出を求め、それに対して多くの若い女性たちが応じていた」という漠然とした表記であったからであろう。

それに対して、今回の論文は、極めて具体的である。 そこで「ひめゆり学徒隊」の関係者に意見を伺った所、次の回答を得た。

≪生徒の遺族・金城和彦国士舘大学教授より

金城氏は2人の令妹を「ひめゆり学徒隊」に捧げた方で、「嗚呼・沖縄戦の学徒隊」(昭和53年,原書房)等の著者でである。 また、ご尊父和信氏は「ひめゆりの塔」等を建設された方である。 
「ひめゆり部隊」の女学生は、軍属として野戦病院壕で負傷兵の看護(第一線で)に命の限りを尽くしたのが実相で、慰安婦になったのがいたというのは、絶対にありえないことで、それは為にする左翼の常套手段で、散華した乙女たちの御霊に対ししても絶対許してはならない暴言である。

引率教師の未亡人・玉代勢秀子女史より

玉代勢女史の夫君玉代勢秀文沖縄師範学校女子部助教授は、「ひめゆり学徒隊」の引率教師として散華されている。そして女史は、夫君の音信30通を「ひめゆり教師の手紙」(昭和63年、二戸来社刊)として敢行されている。その返信は、「根も葉もないこんな恐ろしいことをでっち上げる人間もいたものですね。聖なるひめゆり学徒、戦火を潜り抜けた生存者に対して残念極まりない思いです。生き残りの親しい友人に聞いていましたがそのようなことは絶対ないということでした」

ひめゆり同窓会長・嶺井百合子女史より

私は「ひめゆり同窓会」会長に書面を事前に送付し4月15日(平成4年)に電話をした。その要旨を示してみよう。

問:「ひめゆり隊」にも従軍慰安婦がいたという話は本当でしょうか・

答:「そいうことは、ありうることではありません。

問:「貴方のご年齢は・・・。そうすると「ひめゆり隊員」ではなかったのですね。」

答:「ひめゆり」のことは良く知っています。絶対にそのようなことはありません。

問:「金城国士舘大学教授も強く否定してみえますが、そうですね。」

答:「金城さんの仰る通りです。」≫

        ☆

故上杉千年氏の「検証『従軍慰安婦』(全貌社)の引用で、高嶋伸欣琉球大学教授の「ひめゆり学徒日本軍の慰安婦」説がいかにデタラメであるかは自明であるが、ひめゆり学徒の高齢化で生存者がほとんどいなくなったのを見越して、高嶋教授がテレビなどで発言しているとしたら人間の屑として唾棄すべきである。

上記インタビューに応じていた嶺井女史も既に逝去されている。

嶺井百合子さん死去/ひめゆり同窓会前会長(1999.10.18)

この高嶋という人物、沖縄左翼の代弁者として沖縄紙に頻繁に登場するが、学者というより極左活動家と言う方が相応しいと何度も指摘してきた。

だがここで疑問に思うのはいくら活動家とはいえ、全く根も葉もないことを言いふらすはずもない。

どからか流れ出た伝聞情報にちがいない。

その伝聞の情報源は本人の著書ではこう説明されている。

昭和55年の社会科地理研究大会が那覇市開催された折に、記念講演をした「地元の歴史学者」が、「ひめゆり学徒には日本軍の慰安婦もいた」発言したと紹介している。

ここでは「地元の歴史学者」とだけ記しているが、こんな重要問題を自著やテレビで公開に名前を伏せているのはいかにも不自然である。

この件について現在沖国大と「言論封殺」の戦いを続行中の、惠隆之介氏が一体どこの歴史学者がそんなことを言いふらしているのかと高嶋氏に直接問いただしたところ、その歴史学者とは安仁屋政昭沖国大教授のことだと明言したという

では全くの嘘話なのに、ひめゆり部隊の語り部たちが抗議の声を上げないのか。

何故これほど明らかなデタラメが活字になったりテレビで公開されていつというのに沖縄メディアが沈黙しているのか。

「反戦平和は免罪符」という法則が働いて、高嶋教授や安仁屋教授の主張がどんなに嘘八百でも、小林氏の指摘するように、同じ反戦平和側の人間だから、仲間割れすれば右派・保守派を利すると考えるのだろう。

何という恥知らずな輩だ。

極左学者、沖縄メディア、反戦語り部たちが同じ反日左翼複合体の構成員である。

その意味では八重山問題も第32軍壕説明板問題も「ひめ百合学徒慰安婦説」も地下茎ではしっかり結びついているということが出来る。

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大田実少将の遺言、県民かく戦えり!  2006-06-22 07:41:28

2019-06-13 08:59:03 | ★集団自決

狼魔人日記

 

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過去ブログ県民かく戦えり! 大田実少将の遺言の再掲です。・

2006-06-22 07:41:28 



事件は会議室で起こっているんじゃない!」。

「現場で起こってるんだ!」。

これは、映画「踊る大捜査線」の織田祐二扮する青島刑事の名セリフ。

本庁の幹部達が会議に明け暮れる中、事件の現場に乗り込み凶器に倒れる青島刑事の後姿と共この言葉が観客の胸を打った。

映画では特捜本部に本庁からやり手の女性本部長が送り込まれる。

彼女は青島刑事の現場主義を批判する。

そして有能な幹部が会議室から出す的確な指示・命令こそが最重要と言い放つ。

現場は余計なことを考えずその指示・命令に従えば事件は解決すると云うのだ。

言わば、現代日本のあらゆる組織が持つ、現場派と会議室派の葛藤がこの映画のテーマである。

                     *

この現場と会議室の葛藤は現代だけの問題ではない。

組織が持つ現場派と会議室派の葛藤は遠く明治の時代から、先の戦争の軍隊組織においても見られた。

62年前の沖縄戦で、現場の指揮官をしていた大田実海軍少将は、東京の会議室で現場に指令を出す海軍次官に遺言ともいえる長文の電文を送った。

レインボーブリッジの現場に立つ青島刑事と同じく満腔の怒りを込めて。

戦争は作戦室で起こっているんじゃない!」。

「現場の惨状を作戦室は知れ!」と。

今月の14日の沖縄タイムスは、戦地現場である海軍壕で自決した大田実司令官と戦没将兵4000人の慰霊式典を報じた。

太田実少将が豊見城の海軍壕で自決したのは1945年(昭和20年)6月13日。

毎年この日には遺族が集まって何故か密やかに慰霊祭が行われる。

現場の司令官や将兵の慰霊祭と言う理由で地元新聞の取り扱いは他の戦没者慰霊祭に比べて扱いが小さい。

沖縄戦で戦没した朝鮮人の慰霊碑でさえ建立して大々的に報じるのに。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/6344846c2b9598aab
7c7271321c54283

しかも大田司令官が命を賭して東京の「会議室」に現場・沖縄の惨状、住民の命がけの協力を打電し、「県民斯く戦えり。 今後のご高配を」と結んだ事には新聞は一言も触れていない。

県民が戦争に協力したのは平和運動にはそぐわない」というのが地元メディアの大田司令官への冷遇の原因らしい。

平和学習として沖縄の戦跡を修学旅行に取り上げる学校が増えているが、沖縄戦の現場の報告を血を吐く思いで東京の会議室に報告して自決した大田司令官の終焉の地「海軍壕跡」は平和学習コースからは何故か外されている。

沖縄の戦後復興についても気にしながら自決した大田実司令官について沖縄のメディアは冷めたい。

沖縄タイムス 2006年6月14日(水) 
 
旧海軍司令部壕慰霊祭

 沖縄戦で、旧海軍司令部壕やその周辺壕などで亡くなった旧日本海軍関係者や現地招集された住民など四千余のみ霊を慰める「旧海軍司令部壕慰霊祭」(主催・沖縄観光コンベンションビューロー)が十三日、豊見城市の旧海軍司令部壕公園で開かれ、県内外から参列した約九十人の遺族らは献花や焼香をし、冥福を祈った。
 同ビューローの仲吉朝信会長は「尊い命や文化遺産が失われた悲しみは癒えない。戦争体験を風化させず、平和な沖縄を次世代へ引き継ぎたい」と述べた。

 夫が大田實司令官の四男だという大田昌子さん(59)は「国のためといえ、家族を残して先立たなければならなかった義父の気持ちを考えるとやりきれない」と話した。
 


                   ◇

太田実海軍少将が万感の思いで東京の海軍次官宛てに打電した、遺言ともとれる長文の電文を下記に紹介する。

注:読みやすさを考え,原文漢字カタカナ混じり文を平仮名に直し,句読点を付加した。 これを筆者が更に読みやすく書き直した。

◆海軍沖縄特別根拠地隊司令官
大田実少将(自決後中将に昇進)海軍次官宛電文

昭和20年6月6日付け

「沖縄県民かく戦えり!」

「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを!」

沖縄県民の実情に関して、報告は本来県知事より報告すべき事だが、県には既に通信力はなく、第三十二軍指令部(牛島中将の最高司令部)も通信余力がない。

県知事の依頼を受けたわけではないが、沖縄の現状を見過ごすに忍びないので、私大田司令官が知事に代わってご緊急に報告する。

敵が沖縄に攻撃開始以来、陸海軍とも防衛戦闘に精一杯で、県民を顧みる余裕は殆どなかった。

しかし、私の知る限り県民は青壮年の全てを防衛召集に捧げた。

残りの老幼婦女子は、相次ぐ砲爆撃で家屋と全財産を焼き出され、軍の作戦の邪魔にならない小防空壕に避難、しかも爆撃、風雨に晒される窮乏生活にあまんじた。

しかも若い婦人は率先して軍に協力し、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、斬り込み隊をを申し出る者すらあった。

所詮、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致され毒牙にかかってしまうと、親子生き別れになり娘を軍営門に捨てる親もいる。

看護婦に至っては、軍移動に際し、衛生兵は既に出発した後なのに、身寄りのない重傷者を助けて、その行動は真面目で一時の感情で動いているとは思われない。

更に軍の作戦大転換があり遠隔の住民地区が指定されると、輸送力がないのにもかかわらず、夜間、雨の中を自給自足しながら移動するものもいた。

要するに、陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は終始一貫して物資節約を強要され、ご奉公の心を抱き、遂に勝利する事無く、戦闘末期には沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した。

食料は六月一杯を支えるだけしかないという。

沖縄県民はこのように戦った。

沖縄県民に対して後世になっても特別の配慮をお願いする。

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手、「会議室」の海軍次官・多田武雄(将官議員)は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して「会議室」に報告後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ「鉄の暴風」と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍なのに、何故か戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住を日本人から分断する占領方針から沖縄住民には「優しく」対応するようにしていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、「優しく」年寄りや子供に手を差し伸べる米兵の顔だけを見ている。

自分達は安全な戦艦の中にいて、そこから艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさして住民を無差別殺戮した米兵のもう一つの顔を見ていない。

一方、自分達を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態も晒しただろう敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵だったと言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍、「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

                   ◇

大田実少将の魂の叫び「県民かく戦えり。 」の電報・原文を煩雑を承知で下記に記録する。。(不明な箇所は□で表わしている。)

沖縄戦関係資料室http://www.okinawa-sen.or.jp/050707/index.html

 沖縄県民斯く戦えり

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

 左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。

 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。

 然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わず)かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。

 しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊(ほうすい)婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。

 所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。

 看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。

 さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

 これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部はとかくの悪評なきにしもあらざるも)ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に□□□□与え□ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□□□□□

 一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。

                  *

★付録①;大田実少将自決前日、最後の電報

発 沖根 昭和20年6月12日 1335

一、朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外に蝟集(いしゅう)し、煙弾を打ち込みあり
二、我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり
三、74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む

発 沖根 昭和20年6月12日 1619
これにて通信連絡を絶つ

 

★付録②大田司令官の三女、愛子さんの歌

身はたとへ沖縄の野辺に朽ちるとも祖国守ると父は逝きにし

参考文献
『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』、田村洋三、講談社文庫 

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沖縄タイムス刊『鉄の暴風』の出生の秘密

2018-11-08 17:35:19 | ★集団自決

 

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過去ブログ「鉄の暴風』のいかがわしさ 2007-11-01」 、を一部編集した引用です。

 

                            ☆

 

 

 米、数千人動員して民間人救出
「米軍より日本軍怖い」感覚へ

  沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。(略)(世界日報 2007年10月30日) http://www.worldtimes.co.jp/index.html

                     ◇

■米軍は解放軍■

「鉄の暴風」という言葉から受ける印象は、「日本対米国」の戦いではなく、

「沖縄対日本軍」の戦いである。

そして米軍は日本の沖縄を解放に来た解放軍だという印象だ。

太田元沖縄県知事の一連の著書にはこのような記述がある。

≪その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)http://www.kamiura.com/chuu18.htm

 

沖縄タイムスが極端な偏向を通り越し、

敵意剥き出しの反日報道をするのには理由があった。

 

■沖縄タイムス出生の秘密■

その訳を深く掘り下げると沖縄タイムスの出生の秘密にたどり着く。

それは昭和25年に発行された『鉄の暴風』の初版の前文にすべてが凝縮されている。

前文にはこう書かれていた。

「なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」 (『鉄の暴風』初版前文)

揉み手をしたような、この米軍へのおべんちゃら記事が『鉄の暴風』の記事だと知ると驚く人も多いだろう。

勿論、沖縄タイムス出生の秘密を暗示するこの前文はその後の重版では削除されている。

『鉄の暴風』は主として沖縄タイムス記者伊佐良博氏(後に太田に改姓)によって書かれたが、同書のもう一人の著者、牧港篤三氏によれば、

初版は2万部出版され「米軍に提出されるため英訳され、占領軍司令部でも話題になった」と記している。(沖縄タイムス平成14年6月12日付け)


■米軍広報紙としての出発■

さらに沖縄タイムスの創立者の1人座安盛徳氏(故人)は昭和25年5月2日、東京のGHQを訪問し、当時の沖縄人としては珍しくマッカーサー元帥と面談もしている。

当時は日本政府の要人でさえ面会の難しかったマッカーサー元帥に沖縄タイムスが容易に面会できた事実に驚かされる。

これによって沖縄タイムスが米軍の沖縄占領政策の重要な一部門に組み込まれていたことが分かる。

マッカーサーとの面談の三ヵ月後に『鉄の暴風』は初版が出版されることになる。

座安氏はマッカーサー元帥との面談を「雑感記事」として昭和25年5月6日の沖縄タイムス記事で次のように書いている。

「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度に一行はすっかり気をよくして・・・いよいよ思い切り甘えて見たくなった」

今で見ると驚きだが、これが『鉄の暴風』の出版のため東京を訪れた沖縄タイムス幹部の米軍総大将への雑感である。

そう、沖縄タイムスは戦後沖縄占領米軍のプロパガンダ紙として出発したのだ。

ここで言うプロパガンダ紙というのは比喩的な意味ではなく米軍情報部の下に作られた広報紙という意味である。

勿論米軍情報部の目論む「沖縄住民を日本から永久分断する」情報作戦の一旦を担うのが沖縄タイムス紙創立の理由だった。


■「鉄の暴風」に続く「紙の爆弾」■

当時、不足気味の新聞用紙の提供など報道に必要な備品は全て米軍によって提供された。

<沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。>(世界日報「米軍より日本軍怖い」感覚へ)

米軍は「鉄の暴風」を吹き荒れさせた後は、

「紙の爆弾」といわれた膨大な量の宣伝ビラを島中にばら撒いて住民と日本軍の分断を図った。

この心理作戦遂行のため、情報部は沖縄での空中散布用に五百七十万枚のリーフレットを印刷。米軍上陸後にまかれたあるビラの文面を紹介しよう。

 皆さん達の家はこわされたり、畑や作物は踏み潰され又元気盛りの青年は殺され、沖縄の人は皆口に言えぬ苦労をしています。内地人は皆さん達に余計な苦労をさせます。……日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしたりしている事は皆さん達に明らかでしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯貴方達は、内地人の手先に使われているのです」(世界日報より)

全島に降り注いだ紙の爆弾の効果はてき面だった。


■沖縄と日本との分断工作■

ニューヨーク・タイムズはアレクサンダー・ロバーツ伍長の談話を次のように掲載している。

 <生き残った人々は、アメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げた。「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。そして七十人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている処に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねばならぬほどだった>

  ≪かくして、沖縄県民の心には徐々に、米軍ではなく日本軍が敵であるという認識が植え付けられていくのである。

   「沖縄人」と「内地人」を離間させ、対立を煽(あお)る「宣伝ビラ」の配布、方言による声の投降勧告の上で、米軍が行ったのが、戦場下で逃げ惑う民間人の救出だった。保坂廣志氏は、この民間人救出に、数千人もの軍政要員と、沖縄系二世が動員されたと指摘している。≫(「世界日報」10月30日記事)

『鉄の暴風』が書かれた戦後5年目の沖縄は通信手段や交通手段さえ現在とは比較にはならない。

バスやタクシーが未だ無いので、交通手段は勿論電話や取材用の紙さえ米軍に頼らざるを得なかった。


■不可思議な取材活動■

『鉄の暴風』著者太田氏の取材の様子を世界日報は次のように報じている。

≪さて、太田氏はこの反論連載(沖縄タイムス掲載の曽野綾子氏への反論)の中で『鉄の暴風』の取材期間が「三ヶ月、まったく突貫工事である」と書いている。≫

現役記者のK氏は、取材活動でケータイは勿論PC、カセットテープを駆使し、移動手段も飛行機、電車、車、場合によってはミニバイクに乗って取材活動している。

『鉄の暴風』の取材方法については、同業者として次のように疑念を呈している。

≪記者二人で、三ヶ月の取材で書き上げた分量は四百字詰め原稿用紙で750枚前後に及ぶ膨大なものだ。 しかも離島だけではなく、本島の北から南にまでの兵隊や住民の動向を取材の視野に入れている。・・・・果たして証言内容を精査、吟味する時間をどれほど持てたのだろうか。≫

だが、読者の疑念は次の事実で氷解する。

『鉄の暴風』は証言内容の精査、吟味は不要であり、

米軍がその機動力で一か所に集めた都合の良い「証言」者から聞き取るだけで済んだからである。

何故なら『鉄の暴風』発刊の主旨は著者がいう「歴史の記録」というより、「住民と日本との分断」という米軍の意図の下で発刊を許可されていたからである。

ちなみに当時の沖縄で全ての出版物は米軍の発した「二ミッツ布告」による事前の検閲が必要であった。

ニミッツ布告
1945(昭和20)年3月26日公布
正式名称、アメリカ海軍軍政府布告第1号
アメリカ軍の慶良間諸島上陸の時、アメリカ太平洋艦隊司令長官
チェスター・ニミッツ元帥によって公布される
北緯30度以南の南西諸島及びその周辺海域における日本政府の行政権と司法権を停止し、アメリカ軍の占領下におくことを宣言
アメリカの沖縄占領の実質的根拠となる
1966(昭和41)年まで存続


■米軍協力で集められた「証言者」■

昭和25年、那覇市の今で言う国際通りの国映館界隈は未だ道路も舗装されておらず米軍トラックが通ると埃が朦々と立ち込める悪路であった。

埃っぽいその道路から奥まった一角に在った某旅館に「集団自決」の証言者と称する人たちが集められた。

米軍の協力の下、実際に動いて証言者を集めたのは、沖縄タイムス創立の1人座安盛徳氏であった。

『鉄の暴風』の著者が不備な交通手段や通信手段を使わなくとも済むように、座安氏は先ずその旅館に「証言者たち」を集め、取材の準備を万端整えた。

そして『鉄の暴風』の連載を企画し、その後、単行本実現に米軍情報部との強力なコネを通じて影の力を発した。

その結果、太田氏は現地取材することも無く、一か所に集められた「関係者」からの聞き取りだけで「裏付け」をとることもなく、『鉄の暴風』を著したのである。

太田氏の取材は当時としてはある意味で、比較的容易に行われ、それが後日「伝聞取材」であると批判される原因になる。

一方影の著者とも言える座安氏のやったことは、「関係者」を集めるとは言っても、電話も交通手段も不備だった昭和25年当時の沖縄で、全島から「関係者」を一か所に集めることは至難の業で米軍の機動力の支援なくしては出来ない仕事であった。


■「伝聞記事」に対する太田氏の反論■

著者の太田氏は沖縄タイムス昭和六十年四月十日付で「座安氏の活躍」について明言している。

後にこれをまとめて出版した『戦争への反省』の中で、この「関係者」の取材が伝聞取材だったと問われたことに対して、次のように弁解している。

≪直接体験者でもないものが、あんなにくわしく事実を知っているはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないもの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。  永久に残る戦史として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私は、そんな不真面目な態度でのぞんではいなかった。≫((戦争への反省」225頁)

いやぁ、本職の記者でもない素人の筆者が読んでも、「~はずがない」とか、

「記録者(記者)は・・・でたらめではない」とか、

「新聞社が真剣に・・・」とかは子供の言い訳にしか取れないのだが・・・。

取材の基本は「裏づけ」だということは素人でも思いつくことだが、『鉄の暴風』の取材方針は「性善説」に徹しているようで、

詳しく知っていれば体験者のはずだ」、

「新聞社や記者はでたらめでもなければ、不真面目でもない」と主張することで伝聞取材説への反論としているのは驚きだ。

『ある神話の背景』(『集団自決の真相』と題して再版)の著者曽野綾子氏は、太田氏の上記の反論を、「子供の弁解」とは言わないまでも「素人のたわごと」と斬り捨てている。

「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」。

太田氏の弁明は素人からは「子供の言い訳」と取られ、曽野氏からは、「素人のたわごと」と一蹴された。

至言である。

「関係者」を旅館に集め取材のお膳立てをした座安盛徳氏は、後に沖縄タイムス専務、琉球放送社長などを歴任した人物で、米軍占領後沖縄を襲った巨大台風「グロリア」の被害処理を通じて米軍情報将校と個人的に強力なコネクションを持つようになっていた。

このように『鉄の暴風』は影の執筆者とも言える座安氏の米軍との個人的つながりの下に、

全ての資料は事前に準備されていたのである。

取材は現地に居なかった「関係者」の証言だけで充分だったのだ。

沖縄タイムス設立の目的は米軍のプロパガンダであり、

「日本軍を悪し様に罵って沖縄住民と日本との永久分断を計る」

という米軍の意図が広く沖縄中に浸透すれば、

『鉄の暴風』出版の目的は達せられたことになる。

 

初版から62年経った現在、『鉄の暴風』は今でも沖縄県民の日本への憎悪を煽り続けている。

恐ろしきはマッカーサーの62年殺しである。

 

◆参考エントリー:

「沖縄人は日本人にあらず」 占領米軍の分断工作工作

「マッカーサーの三年殺し」【再掲】

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沖縄戦秘話、高山大尉の「反乱」、那覇高生の命を救う

2018-07-02 06:35:36 | ★集団自決

 

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沖縄戦で多くの男子生徒が動員され戦死した。

動員された生徒の戦死者は次の通り。

師範学校 224人

一中(現在の首里高校) 210人

二中(現在の那覇高校) 143人

いずれの学校も戦火の激しかった那覇地区に在ったため、日本軍と行動を共にし、戦死者の数も他地域の生徒に比べ多かった。

ただ、その中で二中の戦死者の数が少ないのが一際目を引く。

二中の戦死者の少ないのは単なる偶然ではなかった。

その秘密を解く鍵は、軍事教練のため二中に配属された高山大尉の「想定外」の行為にあった

そして「想定外の行為」に加担した三人に教師は、この秘密を墓場の中まで持ち込むことを誓い合った。

だが、しかし・・・・・。

 

続・二中の恩人高山大尉2010-09-03よりの引用。(一部編集)

古いエントリー記事を読んで感想や激励のメールをいただくことがある。

ブロガーとしては最新エントリーのアクセスも気になるもの。

だが、古い記事を読んでいただいて感想文をメールしていただくことはブロガー冥利に尽きる。 その瞬間は「人気ランキング」などどうでもよい気になってしまう。

前に県立2中(那覇高校)の配属将校・高山大尉のご親族の方からメールをいただいた。

「2008年12月19日の記事について、お礼を申し上げたく突然のメールお許し下さい」という書き出しで始まるそのメールには概ね次のようなことが書かれていた。

高山 代千八(高山大尉ー引用者注)は私の祖父(母方)にあたります。

祖母は戦時中悪い事をした人の妻と言われ、多くを語らずにいましたが、今回、貴方様のブログを拝見し祖母へ読んで聞かせたところ、涙をためて感謝しておりました。
また、私達孫世代も改めて戦争というものを知るきっかけとなりました。>

最後に丁重な文体で当日記への感謝を表し文を結んでいた。

少し古いが2008年高山大尉について書いた記事を紹介する。

なお文体の怪しい部分は一部訂正してある。

沖縄の学生を救った配属将校・高山大尉

当日記を愛読していただいている方には再三の繰り返しで恐縮だが、しつこいのを承知であえて反復掲載させていただく。

最近の沖縄2紙を見るたび、沖縄戦で戦った日本兵は、米兵を敵にして戦ったというより、むしろ沖縄住民を虐殺するために戦ったような印象を受ける。

「残虐非道な日本兵」と印象付ける記事を教材に使った「平和学習」として授業で教える教師もいる。

マスコミの扇動にのった地元大学生は、同じく「日本兵の悪行」を訴える演劇を上演し、沖縄教育界が一丸となって日本兵の悪行を糾弾している現状である。

■全国から20万人もの兵士が沖縄に集結した■

沖縄戦には日本全国、北は北海道から南は鹿児島、そして地元沖縄からも数多くの若者が兵士として動員され、その数は実に20数万人にも及ぶ。

現在のおよそ半分の約60万前後の人口しか居なかった当時の沖縄で、この20万人という数字は島中に兵隊が溢れていたといってもおかしくはない状況であった。

だが、いつの世でも人間にはいろんな種類の人がいるもの。 

20万人もの人間が沖縄に集結したら、中には「悪さ」をする人が出てきても不思議ではない。

日本兵の中に不届きな日本兵が一人もいなかったとは思わないが、はたして沖縄紙が報じるように日本兵は犯罪者集団のように沖縄住民に危害を加えたり略奪だけをしていたのか。

いやそうではない。

日本兵に救われた沖縄人も多数居た。

だが、「日本兵極悪説」のイデオロギーにまみれた沖縄2紙が報道しないだけの話である。

ところが沖縄タイムスも、戦後のある時期までは日本兵と沖縄住民との心温まる交流談や日本兵に命を救われたといった回顧証言も報道されていた。

その頃までは沖縄2紙も、「沖縄住民を助けた心優しき日本兵」の記事を報じる余裕があったのだ。

昭和56年12月20日付の沖縄タイムスに次のような記事がある。

 

ニ中の犠牲が少なかったのは配属将校の勇気ある決断

「ニ中の鉄血勤皇隊に犠牲者が少なかったのは、配属将校・高山代千八大尉(鹿児島県出身)の勇気ある行動があったから・・・」-さる10月、本紙夕刊連載中の「私の戦後史」に掲載された城間盛善氏(77)=沖縄市胡屋13、城間学園校長・当時ニ中英語教師=は、このような沖縄戦秘話を公表した。 連載終了後、鹿児島地裁判事をしている長男の盛俊氏(47)を通じて高山さんの遺族を捜していたが、14日鹿児島に遺族がいるという連絡が入った。 
城間氏は当時のもようを「私の戦後史」にこう書いている。

“ニ中の鉄血勤皇隊は、初め戦闘予想地域である南部の高嶺村に配置される予定だった。 しかし、高山大尉は、前途ある若者を無為に殺したくはないと思われたのだろう。 連隊区司令部会議で「ニ中は校舎が焼けたので、金武小学校へ移動した」と強引に主張。 それで、急転直下、北部へ配置換えになったのである。
ところが実際には、まだ移動していなかった。 高山大尉の言葉を裏付けるため、実績を作らなければならない。 移送係だった城間氏は、急いで生徒を北部へ送った。 
高山大尉はニ中に赴任する前、ガダルカナル島の戦闘に参加した経験を持っていた。 おそらくアメリカの強力な設備、偉大な戦闘力を知っていたのだろう。 悲劇を見通していた高山大尉の英断は、さらに続いた。
城間氏が後を追って金武に着いた時は、既に勤皇隊は解散された後。 「勤皇隊の参加承諾書に親のなつ印をもらって来い。だが米軍の上陸は間近だから、無理に帰隊することはない」と、高山大尉が合法的に親元へ帰していたのだった。 南部地区に配置された一中と師範が多くの死者を出したのに対し、ニ中はどれだけの若い命が救われたかしれない。 
城間氏が長い間、口を閉じていたのは、高山元大尉の気持ちも考えてからだった。 合法的で軍規律に反するものは何もないが、あの時代には裏切り行為ともとられかねない。 もしかしたら発表されたくないのでは、と思っていたという。 この事実を知っていたのは、校長と教頭、城間氏の三人だけ。 だがその中で生き残っているのは城間氏一人になった。 「いつか言わなければ事実が埋もれてしまう。 そこへ戦後史執筆の依頼。 本当にいいチャンスを作ってくれた」と話す。 
新しい秘話だけに、反響は大きかった。 二中卒や勤皇隊の人たちはは、「そんな裏話があったとは・・・」と驚いているという。(「沖縄事始め・世相史事典」編著 山城善三
)≫

                  ◇

ニ中の学生が戦火の少ない北部に急遽配置換えになり、多くの学生の命が戦火を免れたが、一方激戦地の南部に配置された一中(現在の首里高校)の学生には多くの犠牲者が出た。


一中の学生の戦没者を顕彰する碑文。

「一中健児の塔」の画像検索結果

 

 

多くの戦没者を顕彰するのも大事なことだが、高山大尉のように犠牲者を出さないように努力した人のことも我々は忘れるべきではない。

記事に出てくるニ中(県立第二中学)は、現在の那覇高校で筆者の出身校であるが、多くの先輩が配属将校・高山大尉の勇気ある決断により命拾いしたことは聞いた事はなかった。

本来だったら「ニ中勤皇隊の命の恩人」として高山大尉の顕彰碑を、校庭の片隅にでも建立してバチは当たらないだろう。

高山大尉のような軍人の人間的行動を顕彰したり、記事で紹介することは、

現在の沖縄の風潮では「戦争を賛美する」として、イデオロギー論争にすり替えられてしまう。

激戦地のガダルカナルでの米軍の壮絶な攻撃を経験した高山大尉が、配属将校として赴任したニ中の学生たちをむざむざ死が待っている南部への配置することを不憫に重い、嘘をついてまで強引に、安全な北部へ配置転換させた。

この重大な「軍事機密」を知っていたのは「首謀者」の高山大尉と学校側では校長、教頭そして移送係りの城間先生の三人だけであった・・・・。

三人の先生は「軍事機密」を墓場の中まで持ち込むことを誓い合った。

だが校長、教頭が次々物故する知らせを受け、一人残された城間先生は遂に誓いを破る決意をする。

これは決して「戦争賛美」のドラマではない。 

平和な時代にも戦争の時代にも自分のことより他人の命を慮り勇気ある行動をする人がいる。

高山大尉と三人の先生の「秘密」は「戦争賛美云々」を超越し、人間の心優しさを訴える人間ドラマである。

 

                       ◇

高山大尉のご親族の方から丁重な感謝のメールをいただいたので早速お礼の返事を出し高山大尉の生前のお話など知らせて欲しいと申し出た。

だが、高山大尉は昔の武人らしく生前、奥様(祖母)にも沖縄戦のことは一切話しておらず、記事に出てくる城間さんの勇気ある証言によって家族一堂(祖母も母達も)知ることができたとのこと。

そして、偶然閲覧した当日記によって祖母をはじめ親類一同が、改めて祖父の勇気の大きさを知る事ができたとのことで、高山大尉に関する新しい話は残念ながら聞くことはできなかったが、返信には次のようなことが書かれていた。

多くの犠牲になられた方々、そのご遺族のお気持ちを考えると、私達が堂々と話す事ではないのかもしれません。

ただ、祖父の勇気に身内ながら感動しました。」

「祖母は昨年だったと思いますが、沖縄へ母の妹と旅行。沢山の写真を片手に今でも思い出話を聞かせてくれます。」

いまどきの人間なら自分のやったことを針小棒大に宣伝するのが通常だが、ダルカナルの激戦や沖縄戦を経験した高山大尉は、生き延びた奇跡を喜びより、散華した戦友のことを考え、家族にも語らず寡黙な一生を過ごしたのではないかと推測する。

特に沖縄戦に関しては、沖縄紙を中心に異常とも思えるほどの日本兵バッシングを見聞きし、複雑な思いのまま亡くなられたと思うと、一人の沖縄県人、いや日本国民として心が痛む。

だが、遅まきながらも高山大尉の奥様が、ご主人様の武人らしい行動を知ることが出来、晴れ晴れとした気持ちで沖縄旅行を楽しむことが出来たと知って少しは高山大尉へのご冥福に寄与できたと感じ、沖縄県民として救われた気がした。

 

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