狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

新(3)貶められた旧日本兵、「軍命自決」記述を手引き

2021-06-22 07:47:37 | ★集団自決

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連載3、「軍命自決」記述を手引き2013-07-10

■7月10日付世界日報記事

【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(3


戦闘参加者概況表/「軍命自決」記述を手引き

 当時、援護法の申請に関わった関係者の証言によると、当初は厳しかった申請書の受理条件が、関係者の熱心な折衝の結果徐々に緩和され、ついには「裏の手引書」とも言える冊子「戦闘参加者概況表」によって、一般住民に対する援護法の適用が容易になった。

 この冊子は、昭和32年7月頃、琉球政府が作成したとみられる門外不出の援護法適用申請の記載マニュアル。20項目を示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」の発表に合わせて発行された。取材陣が入手したものは、昭和55年に沖縄県が再版したもの。沖縄県公文書館に保管され、表紙にはカク秘の印が押されている。

 「概況表」は、「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」に該当する20項目について、地域と場所、そしてサンプル文が書かれており、援護法適用を申請する際に実際にマニュアルとして使用されたものだ。

⑥「食糧供出」 概況 戦闘開始後においても軍は食糧、馬糧の供出を要請していたため、各市町村長は区長に割当て、区長は壕長(部落の避難壕毎に指名された区長の分身者)に命じ砲爆撃、機銃掃射の危険を冒して食糧を収集(芋掘り、野菜取り、豚、牛、山羊の集荷等)して軍の戦力維持に協力した。>

対象期間は昭和20年4月上旬と指定、対象地域(協力市町村)は、「西原、浦添以南の地域各市町村、北部は本部、今帰仁、羽地、国頭、大宜味」となっている。

 <⑧「壕の提供」 部隊の配備変更による壕の不足或は前線から後退した部隊のため、或は患者収容所等を新設又は拡張するため、或は作戦上の必要から部隊の壕を交換するため艦砲砲爆撃又は機銃掃射、火焔放射、ガソリンによる焼払いに晒されて死亡した者が相当多かった。>。

この項目の期間と地域について、北部は昭和20年中旬から終戦まで、中部は同年4月初旬から終戦まで、南部は同年5月下旬から終戦と指定している。

 そして、日本軍のイメージを決定的に悪いものに仕立てたのが集団自決をめぐる記述だ。なお、この部分は、渡嘉敷村がホームページ「慶良間諸島の沖縄戦」で引用している。

 <⑮「集団自決」 狭小なる沖縄周辺において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と行動を共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗出来る処までは対抗し癒々と言うときにはいさぎよく死花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。尚沖縄本島内においては個々に米軍に抵抗した後、手榴弾で自決したものもある。>。

「集団自決の地域」は座間味村、渡嘉敷村、伊江村に限定し、日付はそれぞれ昭和20年3月26日、同年3月28日、同年4月21日と定めている。

 この記述により「集団自決」した者は乳幼児までも「戦闘協力者」と認定する根拠となった。当時の厚生省が琉球政府による戦闘協力者の拡大解釈を黙認したため、後世の大きな悲劇を生んでいく。

集団自決」「壕の提供」「食糧提供」の事実は後に、左翼学者やマスコミによって「軍の自決命令」「食糧強奪」「壕からの追い出し」という言葉に変わり、極悪な日本軍のイメージを作り上げていったのである。

(「沖縄戦の真実」取材班)


                                    ☆

 

■富村順一氏の独白(2)

座間味との出会い

 私が座間味島に行ったのは
座間味戦記を書くことが目的ではありませんでした。

1960, 70年頃、私は東京の練馬区にいました。
当時私は、愛犬を連れて毎日、朝早く練馬の駅の前を散歩してましたが、
駅の前に『世界日報』という新聞が箱に入れられ、
「三十円を入れて、自由にお取り下さい」と張り紙がありました。
幼い時から余り良い人生を送ってないので、三十円の金を入れずに毎
日のようにその新聞を読んでいました。

ある日のこと、沖縄出身の宮平という牧師のことが記事になりました。
その牧師がインドネシアに於いてインドネシア解放、独立のために
日本軍から武器を譲り受け解放戦線に渡し、
その先頭に立ってインドネシア軍と共に戦ったという記事でした。

 私はそのような素晴らしい沖縄人がいたかと思い、連載されたその記事を
読み、いつかそのことを本に書いてみたいと思い、座間味島に行きました。

 役場に行き宮平牧師を捜したところ、親戚の宮平さんという方で島一番の
お年寄りの家を訪ねて行きました。
私が宮平牧師のことを話すと、そのお爺さんは「あゝ、あの中野無線〔注〕か。
あいつがインドネシアで日本軍から武器を引き取り、
解放軍と共に戦ったことはよく知ってる。
中野無線のことだからオランダ軍のこともよく知ってる。
だから彼は解放軍の一指揮官として戦った。

そのインドネシアのことよりは、この座間味戦記を書いてくれ」
と話しながら、お爺ちゃんは押入れから四冊の本を取り出してきました。

『鉄の暴風』『家の光』『沖縄県史』、沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』。
この四冊の本をテーブルの上に置き、手拳を振り上げて本を叩き、
「この四冊の本は嘘なんだ。
梅沢隊長が自決命令を出したというのはまるっきり嘘、
自決は我々村の有志が決めたものなんだ。
このようなことを書かれたのでは、お国のために日本の勝利を願い自決して
いった校長や村長郵便局長の魂が浮かばれない。

何とか真実を公表できないものか。
座間味戦記が小中高校の副読本になって嘘の教育をさせられてきた。
それが大きな問題だ。
君に頼みたいことがある。
賢い人が出来なくても、余り賢くない人が出来るものがある。
君は学校へも行ってない。が、失うものもない。
何でも云うことを云ってきた。書いてきた。
是非真実の座間味戦記を書いて欲しい。
そうでなければ死んだ人は浮かばれない。

梅沢隊長は慰安婦と爆死したとどの本にも載っているが、爆死した
梅沢隊長を見た人はいない。場合によっては生きているかも分からない。
ここに復員名簿がある。これをお前にやるから、これをもって暇のあるときには
訪ねて行き、島の戦記を聞いて欲しい」と頼まれました。
そうして封筒に足代として十万円ほどの金を入れて私に下さいました。

 あの宮平のお爺さんの、怒っているのか悲しんでいるのか判断のつかぬ
顔を見た時に、もしかしたら自決命令はなく、捏造された戦記ではないかと
考え、東京に帰ってから、暇な時には、復員軍人の名簿を頼りに
約30人の復員軍人の家を訪ね歩きました。

〔註〕中野無線・・・中野学校のこと。同校は「陸軍通信研究所」の
門札を掲げていた。宮平牧師が中野学校出身なのでこう呼んだ。(中村)



『梅沢隊長は健在だ』

 その中の一人、埼玉県大宮の関根清さんという衛生兵に出会うことが
出来ました。
関根さんは「家には妻や子もいるし、ここではそんな悲しい話は出来ない。
外で話そうじゃないか」と仰有ったので大宮の駅の前のお寿司屋さんに
入りました。お寿司が出ても席ねさんは二、三分、うつむいた儘
何も話そうとはしませんでした。溜め息をつきながら、

「実は富村さん、自決命令はなかったのだ。
梅沢隊長は自決命令を出して朝鮮人慰安婦と爆死したと沖縄戦記には
書いてあるが、梅沢さんはお元気である。自決命令は出てない」
と云ってまた溜息をつきながら、

「実は自決に関係しているのはこの私なんだ。
村の村長や校長先生、郵便局長、女を交じえた四、五人で梅沢隊長に
自決する手榴弾を下さいとお願いに行ったのだが、梅沢隊長に断られ、
そのため、よく部隊に出入りしていた女性がある衛生兵に顔なじみがいて、
その衛生兵に頼んだところ、当時島にいた従軍慰安婦が米軍上陸前に
梅沢隊長の命令によって、野戦看護婦になったようです。
その野戦看護婦が自決用として持っていたと思われる手榴弾を衛生兵が
取り上げて、宮城初枝さんに渡したということです。
その衛生兵が私です。
もしそのことが世間様に知られると、私の妻や子がどのような悲しい思いを
するかと思えば公表も出来ない」と云って涙を浮かべてました。

〔註〕宮城初枝や梅沢裕元隊長の手記によれば、隊長を訪ねた村の代表は
村役場助役兼兵事主任兼防衛隊長・宮里盛秀、同収入役・宮平正次郎、
国民学校校長・玉城政助、村役場吏員・宮平忠達、女子青年団長・
宮平(のち宮城)初枝の五人。
盛秀が隊長に要求したのは宮城初枝によれば弾薬。
梅沢元隊長によれば爆雷で殺して欲しい。
それが駄目なら手榴弾か小銃弾を頂きたいということであった。(中村)


宮城初枝さんの驚き

 梅沢隊長は生きていると聞かされた私は、
「では手榴弾を関根さんが渡したことは公表しないから、
梅沢さんの家を教えてくれ」
とお願いしても、
「すぐには出来ない。梅沢さんに断ってから教える」
と約束しました。

何日か後に電話で梅沢さんの住所を教えてくれました。
私は梅沢隊長に連絡し、関根さんと共に大阪に行き、食事をしながら
様々なことを話し合いました。

 死んだ筈の梅沢さんが生きていることを先ず最初に伝えるべき人は、
座間味島で是非正しい戦記を伝えて欲しいと私に頼んだ宮平のお爺ちゃん
であると思い、座間味島にお爺ちゃんを訪ね、梅沢隊長のお元気なことを
話したところ、お爺さんは「その話を一番知りたがってる人がいる。
一寸待ってくれ」と立って行かれ、宮城初枝さんを連れて来ました。

 宮城初枝さんは入って来るなり
「富村さん、梅沢隊長は本当にお元気ですか。それは本当ですか」
と云うので「間違いありません」と話したところ、
しゃがみ込んで泣いてました。

 「富村さん。私一人で勝手に文章を書いて『家の光』に投稿した訳では
ありません。
村の有志の方々に頼まれて仕方なく私は(隊長が自決を命じたと)書いたのです。
本当に梅沢隊長には申し訳ない。済みませんです。
今度会ったら、私がお詫びしていたとお伝えして下さい。そして島に来て下さい」
と話してました。

 このように謝る女性に話す言葉もなく、翌日、母の住む宜野湾市に
帰ったところ、宮城初枝さんの娘さんの晴美さんが、沖縄でたった一つの
月刊誌『青い海』の編集長をしていました。
お母さんから電話があったそうで、「梅沢さん、本当に生きていますか」
と私に訊くので「生きています」といったところ、確かめたいから
住所を教えてくれというので、私は晴美さんに梅沢さんの住所を教えました。

 この話がどのように伝ったのか、三日後に『沖縄県史』の編集長島力
(しまつよし)さんがまた私の家に来て、
「富村、梅沢さんは本当に生きているのか」と訊くので
「生きてます」と答えた。

 「もし梅沢さんが健在であれば確認したいし、自決命令も出てないとなれば、
『沖縄県史』も直さなければいけない。是非梅沢さんの住所を教えて欲しい」
という風に話がありましたので、私は『沖縄県史』の編集長である島力さんに
梅沢さんの住所を教えたので、梅沢さんと連絡が取れ、『沖縄県史』に
梅沢さんの手記が載るようになりました。


嘘の平和運動と訣別

 その何ヶ月か後、沖縄でアジアの平和集会という集会があり、
それを新聞で知って参加いたしました。
主催者は、中村先生も御存知の渡嘉敷島出身の方です。
大江訴訟の沖縄出張裁判で証人に立たれた金城重明さんです。
沖縄キリスト教短大の学長をなさって、現在は那覇の聖教会の牧師を
なさっている方です。
その方々が平和集会を主催したのです。
私も参加して、手を挙げて座間味戦記の話をいたしました。
そこには教職員組合、社会党、共産党といった錚々たるメンバーがいて、
多くの新聞記者もいました。

 私が沖縄タイムスの『鉄の暴風』や他の沖縄戦記の捏造した部分を
声張り上げて訴えたところ、ある知人に呼ばれました。
「お前みたいに本当のことを云っていたら平和運動は出来ない。
平和のためには多少の嘘は云ってもいいんじゃないか」
と云ったので私は「嘘を云って平和運動するなら、あんたなんかと共に
行動する必要はない。あんた達と平和運動するより犬をパートナーに一
人でいいから全国行脚をして沖縄の真実を訴える」と大衆の面前で叫び、
二匹のシェパードを連れてフェリーで沖縄を出発し、
鹿児島に着き、そこから歩いて全国を一周いたしました。

 私が沖縄戦記を訴える以前は、殆どの知人友人は左翼関係でした。
座間味戦記を捏造だと訴えはじめてからは、今までの仲間であった
運動家達は全部私の前から遠ざかり、私は一人孤立することになりました。

つづく

 

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フジTV「報道2001」 「慰安婦」と「集団自決」で大バトル!

2020-09-14 12:03:34 | ★集団自決

 

 
集団自決の報道といえば、沖縄2紙や沖縄のローカルテレビの専売特許であり、在京の大手テレビが報道することはめったにない。
 
ところが200年、フジTV「報道2001」が全国放送で、集団自決と慰安婦問題を取り上げた。
 
フジTVが集団自決を放映した2007年といえば、その年の高校歴史教科書の
「軍の命令による集団自決」との文言を「削除せよ」、との文科省検定意見で沖縄中が大騒ぎした年である。
 
その年2007年の9月25日には、全国的に悪名高い大幅水増し大会「11万人集会」が、開かれた。 ちなみに「11万人集会」の正式名は「高校歴史教科書の検定意見撤回を要請する県民大会」。実際の参加者数は、会場の面積から積算して、多くても2万人前後である。この時の文科省検定意見は撤回されず現在でも有効である。
 
沖縄戦再検証のため過去ブログ「報道2001」 「慰安婦」と「集団自決」で大バトル!2007-04-08

を編集・再掲します。

               ★

「報道2001」がホットな歴史テーマ「慰安婦問題」と「集団自決」を取り上げた。

出演者 

秦郁彦・元千葉大教授、

中西輝政・京都大学教授、

古森義久・産経新聞ワシントン駐在編集特別委員

姜尚中・東大教授、

藍谷邦夫・弁護士、 

高嶋伸欣・琉球大学教授

詳しい文字お起こしは他のブログにお任せして、感想だけを述べたい。

◆「慰安婦問題」

印象に残った発言は秦教授が安倍首相の「狭義の強制云々」の発言を捉え下手な説明だとし、こう述べた。

「軍の強制を示す証拠は出ておらず戦後60数年たった現在でも出ていない」

「もう軍の強制はなかったと断定してよい

 

これに対し

高嶋教授:「証拠資料がないからといって強制がなかったというわけではない」

「終戦時に慰安婦に関わる証拠資料は全て廃棄した

秦教授:「そちらの方々はすぐそのように言うが、最初は証拠資料がないのは『よく探してないから』と言っていた」

「丁寧に調べても見つからないと、今度は廃棄したから言い出した」

「日本軍は全ての命令を書類で残す。何十万にも及ぶ書類の中から慰安婦関係だけを選んで廃棄するのは不可能

「仮に完全に廃棄していたとしても誰かが記憶している筈だが、これも皆無」

「それに20万にも及ぶ大量の性奴隷を誘拐していたら親戚、や近所の人の目撃証人があるはずだが、これも皆無

「それにそんな大量の朝鮮女性を誘拐していたら当時の朝鮮の男性が黙って見過ごしていたはずがない

これに対する反論はなかった。

 

◆「集団自決問題」

秦教授が決定的証拠として、

宮村幸延氏(座間味村援護係、宮里助役の弟)の梅沢元隊長宛の侘び状のコピーを見せた。 

「同侘び状で宮村氏は、隊長命令説は援護法の適用を受けるためにやむを得ずつくり出されたもの、と明記され昭和62年3月28日付けの親書もある」

これに対し高嶋教授は、

「宮村幸延氏は侘び状を書いた記憶がなく、同氏が作成・捺印したものではないと述べている。仮に同氏が作成したものであるとしても、泥酔させられて書いたので同氏の認識や意思に基づくものではない」

と反論した。

しかし、沖縄の「市民団体」の激しいバッシングを避けて密かに座間味島を訪れた梅沢氏の立場は言わばサッカーで言う「アウェイ」の状態。

其処で宮村氏を記憶がなくなるほど梅澤氏によって泥酔させられたとは考え難い。

こう考えるのが妥当だろう。

宮村氏は、(『鉄の暴風』の誤記により)死んだと思われていた梅澤氏が現れたので驚愕し、良心の声に耐えかねて一旦「侘び状」を書いたが、その後の「市民団体」のバッシングや「裏切り者」と言った声に「泥酔して書いたので記憶にない」と言わざるを得なかった。

因みに当日記のように沖縄では珍しく保守意見を発信するブログにも「沖縄人のくせに」とか「裏切り者」と言った感情的な書き込みがあるくらいだ。

昨年同じように「軍命の存在」を否定する証言をした照屋昇雄さんも証言をする際当初、「匿名にしないと沖縄では生きていけない」と言っていたくらいバッシングは激しい。

「集団自決問題」の口火を切った曽根綾子氏も沖縄側からの激しいバッシングを受け剃刀の刃を郵送された事もあったという。

◆援護法社会

0歳児までも軍の協力者として「援護法」の申請をしたといわれる沖縄は「援護法社会」というらしい。(石原昌家・沖縄国際大学教授)

◆参考:政府が「軍命に書き換え」指導

援護法適用のために「軍命に書き換えた」当時の琉球政府・援護課の役人をしていた照屋昇雄さんの証言

◆【動画】軍命はなかったhttp://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/

 

 

照屋さん終戦直後の昭和20年代後半から琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった人。

琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め渡嘉敷島の調査を担当した。

照屋さんは「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。 

◆参考:

渡嘉敷島の集団自決 「大尉は自ら十字架背負った」

       

 

 

「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決

 

         ◇

 

近所に慰安所」 沖縄戦で住民証言

 

証言や研究成果について聞く参加者ら=7日、宮古島市中央公民館

 【宮古島】「宮古島の日本軍『慰安婦』について証言を聞く会」(宮古島の日本軍「慰安婦」問題を考える女たちの会主催)が7日、宮古島市中央公民館で開かれた。沖縄戦当時、朝鮮人慰安婦がいる慰安所に日本軍が出入りしていたことを住民が証言した。
 沖縄戦時、上野村野原に住んでいた与那覇博敏さん(73)が「小学5年のころ、家の近くに朝鮮人の女性たちがいる慰安所があった」と証言した。
 与那覇さんは「最初はどこの女性かなと疑問に思ったが後で朝鮮人と知った。日本軍の兵隊が出入りしていた。最初に見たのは1944年の早い時期。終戦間際までいたので、1年数カ月は慰安所として利用されていたと思う」と話した。
 県内各地の沖縄戦当時の慰安所について調査研究している早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の洪允伸(ホンユンシン)さん(28)は、慰安所が宮古島に10カ所、伊良部島に1カ所の少なくとも計11カ所確認されていることを説明した
 洪さんは過去2回の宮古島の調査で、宮古の場合は慰安所が住民の生活圏と密接に関係を持っていたことを指摘。「宮古は米軍上陸がなく、沖縄の中でも比較的被害が少なかったと言われるが、被害の大きさは死者数なのか」と疑問視した。
 さらに「日本政府は『狭義の意味で強制はなかった』とあいまいな立場を取るが、沖縄からこうしたことについて考えないといけない。性を売ることを押しつけたのは誰か何のために必要だったのかという人道に対する罪を宮古だからこそ問える」と強調した。
 洪さんは宮古島で3回目の調査を5月に予定しており、証言者を募っている。問い合わせは宮古島の日本軍「慰安婦」問題を考える女たちの会0980(72)2774。
(琉球新報 4/8 10:19)

                   ◇

≪「小学5年のころ、家の近くに朝鮮人の女性たちがいる慰安所があった」と証言した。・・・日本軍の兵隊が出入りしていた。≫

慰安所があった事も、それを軍が利用していた事も歴史的事実。

今更早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程の洪允伸さんが宮古島まで出向いて、

証言を集めなくとも誰も異論は唱えないと思うのだが、

新聞の大見出しで

「近所に慰安所」

<沖縄戦で住民証言>

日本軍が出入り

・・・と書かれると、何か隠されていた新事実の発見のような印象操作を感じる。

 

≪ 性を売ることを押しつけたのは誰か≫

それは直接的には女衒であり、結局は貧困でしょう。

日本軍のせいにするのなら、現在も世界中に蔓延る売春も全てが日本軍のせいになる。

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コメント (4)

沖縄は捨て石だった❔【太平洋戦争】なんで米軍は沖縄から狙ったんや?

2019-08-11 06:14:29 | ★集団自決

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【太平洋戦争】なんで米軍は沖縄から狙ったんや?

沖縄2紙「日本政府が沖縄を”捨て石”をにしたから」

県民「沖縄を米軍の侵攻の盾にするため、他の地域に在った沖縄を日本が現在地に移動させたのなら、捨て石だが」

県民「アメリカの作戦だろうが」

 

「特攻隊や大和を捨ててまで守ろうとしたのに沖縄捨てられたとかよく言うな」
「捨てるなら沖縄見捨てて本土に戦力集めるわ」

 

 


 

2019年08月10日 10:05

【太平洋戦争】なんで米軍は沖縄から狙ったんや?

【太平洋戦争】なんで米軍は沖縄から狙ったんや?

 引用元:【太平洋戦争】なんで米軍は沖縄から狙ったんや? 

http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1565356614/

1: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:16:54 ID:K3j
直接東京に上陸せえや

2: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:18:32 ID:83p
はいダウンフォール作戦

3: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:19:47 ID:K3j
空襲で焼野原だったんだし難しくなかったんちゃうか?

4: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:19:52 ID:qRT
上陸目標の近くの島に上陸して飛行場整備してから上陸作戦してくるのが太平洋での米軍の基本戦略

5: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:20:45 ID:K3j
>>4
沖縄じゃなくて伊豆諸島占拠すれば東京狙えたんじゃ?

11: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:23:33 ID:qRT
>>4
でかい飛行場ないから狙わなかった

6: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:21:41 ID:i5r
伊豆諸島って奪って美味しい設備あったんだろうか
まぁ戦時下の日本の設備や施設なんて知れてるけど

7: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:21:46 ID:n3Z
台湾と日本を分断するためやで

10: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:23:20 ID:oj3
いきなり東京行ったら面倒くさいじゃん

13: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:24:04 ID:K3j
>>10
一気に日本政府を降伏に追い込むインパクトはあるやろ

14: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:24:11 ID:8Z2
沖縄に最初に眼を付けた米海軍の提督はペリーや
この島盗って海軍基地おけばこの周辺海域押さえられるやんって日本に来る前に報告してる
そのチャンスが巡ってきたのに捕らんわけないやろ

15: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:25:01 ID:83p
アメリカも大量に自軍の犠牲だしたくなかったんやろ

17: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:26:17 ID:eUN
海上封鎖でもいけたやろ

19: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:26:26 ID:sS7
北関東への上陸作戦も予定されてたで

20: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:26:35 ID:8Z2
ちな沖縄上陸作戦はノルマンディー上陸作戦よりも規模がデカい

22: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:27:50 ID:QX3
なんで沖縄はアメリカ領にされたんやろ

25: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:28:54 ID:oj3
>>22
そら戦略的な要所だからよ

26: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:29:02 ID:8Z2
>>22
ペリーの頃から隙あらばいつかは、と狙い続けてきた島だから

23: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:28:22 ID:PYh
東京や東北はてきとうな基地がなかったんやないか?

27: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:29:22 ID:n3Z
アメリカ兵が多くの犠牲を払って手に入れた沖縄を簡単に手放せなかったっていう感情的な面もある

28: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:30:07 ID:sOi
>>27
はえー

35: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:34:00 ID:8Z2
狂気のような菊水作戦を継続したのも大和を突入させたのも
日本は沖縄を見捨てないって意志を示すだめだった
沖縄の人にそれだけは理解して欲しい

38: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:39:55 ID:gdR
投入する兵力がとんでもなかったらまずオリンピック作戦で九州を確保して
航空基地などを整備した後コロネット作戦で東京を挟撃予定やったから

42: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:41:19 ID:11r
>>38
オリンピック作戦とは?

47: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:44:25 ID:gdR
>>42
ダウンファール作戦っていう日本絶滅大作戦の前半パートで九州確保が目的
後半パートがコロネット作戦で九州から東京を叩いて日本を滅ぼす

48: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:45:01 ID:n3Z
原爆を使い切っても普通の焼夷弾爆撃に切り替えてを地方のド田舎の都市まで無差別空爆を広める予定やったんやけどな

52: 名無しさん@おーぷん 19/08/09(金)22:52:23 ID:n3Z
原爆撃ち尽くした後はもう戦略的重要地の軍港とか工場とかは関係ない
降伏するまで市民しか住まない小都市から小港まで焦土にする
ほんまに早めに降伏してよかったで

1001: 名無しさん@大艦巨砲主義! 2011/7/24(日) 12:20:40.20 ID:milio

コメント
 
1.古古米:2019年08月10日 10:09 ID:a8JnXM6w0▼このコメントに返信
その頃、今村大将はラバウルの畑を耕していた。
 
2.名無しさん:2019年08月10日 10:12 ID:isi41jsW0▼このコメントに返信
まず関東平野にいる天ころが最初のはず?
 
3.名無しさん:2019年08月10日 10:12 ID:hAKy.uo40▼このコメントに返信
考えてみればアラスカ経由で千島列島の北から始めるという選択肢もあったわけで、そう考えると沖縄の悲劇の裏にはロシアがあるとも言える。
 
4.名無しさん:2019年08月10日 10:13 ID:B.wkk5hx0▼このコメントに返信
海上封鎖はされていただろうから
本土からの補給は無理だと確信
アメリカの物量が日本軍を上回ると判断したのかな?
素人感覚での概観
 
5.日本本土に近い。:2019年08月10日 10:13 ID:WZkW7M1S0▼このコメントに返信
日本本土に近い。日本本土上陸時、航空基地として利用可能


加えて、台湾軍は手強い。


沖縄の32軍から9師団が抽出され、弱体化していたのを知っていた。
 
6.名無しさん:2019年08月10日 10:13 ID:MFM3yrio0▼このコメントに返信
米軍「沖縄なんて1日で制圧出来るわwwww余裕www」
 
7.名無しさん:2019年08月10日 10:14 ID:hAKy.uo40▼このコメントに返信
>>3
しかし千島列島から始めると、ロシアには1㎟も領土はやらん!というメッセージになってしまうと。
 
8.名無しさん:2019年08月10日 10:15 ID:B.wkk5hx0▼このコメントに返信
基本
日本は南からの攻撃には脆弱
 
9.名無しさん:2019年08月10日 10:17 ID:B.wkk5hx0▼このコメントに返信
※2
統一教会のかたですか?
 
10.名無しさん:2019年08月10日 10:18 ID:WBeircNN0▼このコメントに返信
あいつらペリーの頃の星条旗を世界大戦の日本降伏式に持ち込むぐらいの侵略意識だからなあ。
どれだけアメリカが日本をハメるつもりで動いてたんだか。
 
11.名無しさん:2019年08月10日 10:18 ID:R1xg7Yld0▼このコメントに返信
敵国政府を崩壊させたら余計に厄介なことになる
 
12.名無しさん:2019年08月10日 10:21 ID:B.wkk5hx0▼このコメントに返信
日本を攻撃する場合
南からの攻撃は必然
二方面作戦を取るにしても南からの攻撃は欠かせない
素人感覚でもね
 
13.名無しさん:2019年08月10日 10:22 ID:BNZbVD8H0▼このコメントに返信
蛙飛び作戦やぞ
・ガダルカナル ⇐ 占領
・インドネシア ⇐ スルー
・フィリピン  ⇐ 占領
・台湾     ⇐ スルー
・沖縄     ⇐ 占領
 
14.名無しさん:2019年08月10日 10:22 ID:JrNAVxpK0▼このコメントに返信
東京上陸作戦を敢行中、背後から襲撃される万に一つの可能性を排除したかったんじゃね?

これまでローラーをかけるように日本軍の拠点を潰してきたのだから、
沖縄だけを例外にする理由もないだろうし。
 
15.名無しさん:2019年08月10日 10:22 ID:TH00QtkJ0▼このコメントに返信
戦略的橋頭堡というのがあってだなあ
 
16.名無しさん:2019年08月10日 10:23 ID:.g0nkS0L0▼このコメントに返信
今でも沖縄に駐留しているぐらい地域的には重要な要衝なんでしょう
 
17.名無しさん:2019年08月10日 10:26 ID:B.wkk5hx0▼このコメントに返信
※12
支、那様が尖閣・沖縄を手中に収めようとするのは必然
対支、那様戦でも沖縄諸島が主戦場になる
日本の都市にはもれなく核兵器が炸裂するおまけ付
 
18.名無しさん:2019年08月10日 10:26 ID:q5OGhhUR0▼このコメントに返信
位置的にすげー重要だから
だから今はシナが狙ってる
 
19.名無しさん:2019年08月10日 10:29 ID:kcUyAkLA0▼このコメントに返信
日帝の作った飛行場が数多くあったから、本土へ蹂躙空襲を掛けるにはまさに最適の場所だった
・・・とヒストリーチャンネルの沖縄戦特集の番組内で言ってた
 
20.名無しさん:2019年08月10日 10:31 ID:SddTx5G40▼このコメントに返信
あれ?アッツやキスカ方面にも来ていたし、硫黄島にも来ていたじゃん。

別に南方オンリーじゃなかった気が
 
21.名無しさん:2019年08月10日 10:33 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
・10代20代の若者に「お国のため、陛下のために喜んで死んで来い」と言って特攻させる。なお、送り出した上官たちの大半は天寿を全うする 
・「特攻は志願だった」といいつつも、辞退した人もひっそりと志願したということに変更して特攻させる 
・戦車に勝つため、生身の兵士が爆弾を全身に巻きつけて戦車に突入し自爆させる 
・訓練1週間の10代をゴムボートに爆弾積ませ敵艦に特攻させる。または、潜水艦服を着せ潜水させ棒の先に付けた機雷で敵艦を突き自爆させる 
・自爆せず戻ってきた兵士はボコボコに殴り山奥に作った隔離施設で洗脳、自己批判させる 
・アッツ島の戦い、レイテ島の戦い、インパール作戦など、兵士を虫けらのように扱う。そこで死んだ兵士のことを美化し神様として靖国に祀る 
・南方に派遣された兵士はほとんどが戦闘ではなく餓死や病死 
・本当の戦局は全て隠し、ひたすら勝利報道をして戦意高揚 
・兵士たちの戦意が落ちてくると、現地に大量のヒロポン(覚せい剤)を軍が配布し服用させる。特に飛行士が飲まされた 
・沖縄戦に派遣された日本軍、沖縄の女子供老人に手榴弾を渡し「わかってるな…」と呟く。なお、政府は日本軍による自決強要はなかったと主張 
・憲兵が国民生活を厳しく監視。密告社会だった 
・戦争に疑問を持つ者は非国民、売国奴、アカとレッテル貼り特高が拷問。好戦的な者は愛国者と讃えられる 
・無理に戦争を継続した結果、戦没者の9割がなんと戦争最後の1年に死亡

結論→本当に負けて良かったw
 
22.名無しさん:2019年08月10日 10:33 ID:NVGgG6PO0▼このコメントに返信
日本の降伏後を見据えた極東戦略やぞ~米国は中国国民党に肩入れしてたが共産勢力の台頭もご存知やで!
ソ連の南下し朝鮮半島を狙ってたし!日本の負けは確定で軍部が最後までグダグダ嫌々してただけだぞ!
陛下の御英断をも反故にしようとした軍部と国民を斎尾まで煽った朝日・毎日新聞は許せんわ。
信濃毎日新聞は現在も左巻きだが戦前・戦中も左巻きで特高にやられてたからwwまだ許せるが。
 
23.名無しさん:2019年08月10日 10:34 ID:jq2SyX1D0▼このコメントに返信
特攻隊や大和を捨ててまで守ろうとしたのに沖縄捨てられたとかよく言うな
捨てるなら沖縄見捨てて本土に戦力集めるわ
 
24.名無しさん:2019年08月10日 10:34 ID:FhiZl4HB0▼このコメントに返信
大東亜戦争と書かないと答えません。
 
25.名無しさん:2019年08月10日 10:38 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>22
マスコミにも責任はあるけど
軍部から圧力かけられてたしなぁ

それに煽ってたのは朝日とかに限らず読売とかもやで
 
26.名無しさん:2019年08月10日 10:39 ID:.xHNePkf0▼このコメントに返信
ペリーの時代から幕府が琉球を力で支配し奴隷のように働かせていることを知っていた。
サトウキビ同様まさに搾り取っていた。
今でいうなら中国とチベットのような関係だね。
長く本土の日本人に迫害を受けていた琉球民族だから少なからずとも日本人に恨みがあると思ったんだろう。
占領後も沖縄の住民はアメリカ軍に協力的になると踏んでね。
だから最初に沖縄を落とす必要があった。そしてアメリカが見据える先にあるのはソ連だった。
アメリカの情報力と戦略の緻密さを侮ってはいけない。
日本は大東亜共栄圏という漠然とした構想以外に何か緻密な戦略を持っていたのか?
戦争する前から物量でも戦略でも負けていたんだよ。
 
27.名無しさん:2019年08月10日 10:40 ID:x.iwWzua0▼このコメントに返信
>>3
北海道から降りてくる作戦だとだいぶ厳しいんじゃないですかねぇ。

北海道は占領するには広すぎる。
今の北方領土は軍単位の段列を展開するには狭すぎる。近すぎる。
アリューシャン列島に軍単位の段列上陸作戦は遠すぎるのでは?
占領時期が遅れればあっという間に冬将軍。


沖縄
フィリピンに段列を展開できる。(台湾は飛び石で無視。)
九州攻略時に沖縄が段列になる。
 
28.名無しさん:2019年08月10日 10:40 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>23
本土に戦力集めててくれたら
沖縄も戦場にならず、県民も集団自決に追い込まれずに済んだからwinwinだったよ
 
29.名無しさん:2019年08月10日 10:44 ID:Pypx2ecp0▼このコメントに返信
ペリリューや硫黄島で米軍の受けたダメージを考えると
本土に直接乗り込んだら全滅もありえるでしょ。
 
30.名無しさん:2019年08月10日 10:44 ID:ouoap..c0▼このコメントに返信
航空爆撃だけなら長距離でも可能だが、上陸作戦となると大量の兵員・物資を輸送するので、短距離でないと不可能。米軍も最終的には関東占領が目標だったが、それには沖縄→九州→本州と段階を踏むことが不可欠とされていた。
伊豆七島は空港や設備の規模が小さすぎるし、そもそも伊豆七島自体が絶海の孤島なのでそこに至るまでの侵攻ルートがない。
 
31.名無しさん:2019年08月10日 10:45 ID:06nHU4bN0▼このコメントに返信

敵を分断して撃破するのは兵法の基本

南方資源地帯・台湾と分断し、日本直領を占領して国内(米国内)の戦意を高める。
 
32.名無しさん:2019年08月10日 10:45 ID:WxVlf6K80▼このコメントに返信
※20
アリューシャンは領土奪回、硫黄島はマリアナからの前線飛行場確保、沖縄はさんざん言われるだろうけど実際の侵攻用の橋頭保
意味合いがそれぞれ違うよ
 
33.名無しさん:2019年08月10日 10:45 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>9
統一教会って自民党と仲良しの朝鮮カルトだよね
 
34.名無しさん:2019年08月10日 10:46 ID:XbV1LQJH0▼このコメントに返信
※20
硫黄島のは「B-29の不時着地及び直掩隊の拠点ほすぃ!!」で橋頭保目的じゃなかったから・・・
 
35.名無しさん:2019年08月10日 10:46 ID:godZ1iI80▼このコメントに返信
本土侵攻の橋頭保だろ
フィリピンや硫黄島からだと日本本土は遠すぎる。
 
36.名無しさん:2019年08月10日 10:47 ID:Xlbl.cpA0▼このコメントに返信
>>13の飛び石作戦が正解だよ、無理にいかないで一つずつ飛ばしていく。
勿論本土狙うか九州を叩くかは作戦本部で決めたはず。
台湾はそこそこ軍備や人間が揃っていたからスルー、現地の軍人は悔しがったり安心したり気持ちは正直です。
だから硫黄島の飛行場が役に立ったというか考えた末の攻略でしょ。
 
37.名無しさん:2019年08月10日 10:47 ID:9PVpaIjg0▼このコメントに返信
>>28
本土を攻める拠点にするからどっちにしろ米軍はくるで
日本兵の死体でアクセサリーを作る連中やけど民間人には手を出さないといいな
 
38.ヴェルサス13がやりたかった。。。:2019年08月10日 10:49 ID:i7cbMYDn0▼このコメントに返信
要所として魅力があった沖縄、要所として魅力がなかったから切り離された朝鮮半島ってことか…
 
39.名無しさん:2019年08月10日 10:49 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>29
全滅するのは日本人の方
 
40.名無しさん:2019年08月10日 10:50 ID:ouoap..c0▼このコメントに返信
>>28
んなわけない
戦力は温存できても、当然米軍は「日本政府は沖縄を見捨てた!」と全国に空からビラを大量に撒くから、政府への信頼が完全に失われ、戦争継続ができなくなる
 
41.名無しさん:2019年08月10日 10:51 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>37
・10代20代の若者に「お国のため、陛下のために喜んで死んで来い」と言って特攻させる。なお、送り出した上官たちの大半は天寿を全うする 
・「特攻は志願だった」といいつつも、辞退した人もひっそりと志願したということに変更して特攻させる 
・戦車に勝つため、生身の兵士が爆弾を全身に巻きつけて戦車に突入し自爆させる 
・訓練1週間の10代をゴムボートに爆弾積ませ敵艦に特攻させる。または、潜水艦服を着せ潜水させ棒の先に付けた機雷で敵艦を突き自爆させる 
・自爆せず戻ってきた兵士はボコボコに殴り山奥に作った隔離施設で洗脳、自己批判させる 
・アッツ島の戦い、レイテ島の戦い、インパール作戦など、兵士を虫けらのように扱う。そこで死んだ兵士のことを美化し神様として靖国に祀る 
・南方に派遣された兵士はほとんどが戦闘ではなく餓死や病死 
・本当の戦局は全て隠し、ひたすら勝利報道をして戦意高揚 
・兵士たちの戦意が落ちてくると、現地に大量のヒロポン(覚せい剤)を軍が配布し服用させる。特に飛行士が飲まされた 
・沖縄戦に派遣された日本軍、沖縄の女子供老人に手榴弾を渡し「わかってるな…」と呟く。なお、政府は日本軍による自決強要はなかったと主張 
・憲兵が国民生活を厳しく監視。密告社会だった 
・戦争に疑問を持つ者は非国民、売国奴、アカとレッテル貼り特高が拷問。好戦的な者は愛国者と讃えられる 
・無理に戦争を継続した結果、戦没者の9割がなんと戦争最後の1年に死亡

結論→日本軍より米軍のがマシw
 
42.名無しさん:2019年08月10日 10:51 ID:nSxkQVRj0▼このコメントに返信
沖縄は米国にとってThe key stone of Paciffic で1800年代から重要な位置だった。ペリー以前にも沖縄に上陸した米艦隊は占領のチャンスを狙っていた。ぺリーは小笠原の土地も買っていた。幕府が上陸するまでほとんど小笠原は米国人の島だった。今でも子孫が生活している。
スレの通り米軍が北海道から占領をしていれば千島は助かったかもしれないが、ポツダム宣言では千島をソ連に渡す協定をしてしまったから、ソ連軍が北からくることを容認していたのだろう。日本の海軍兵力は南方中心だったことも影響した。
 
43.名無しさん:2019年08月10日 10:51 ID:Uf5mTiQ60▼このコメントに返信
オセロでも真ん中から置くやつは、馬鹿でしょ。
 
44.名無しさん:2019年08月10日 10:51 ID:Yi.qq4an0▼このコメントに返信
>>40
それでええやん
どうせ詰んでるんだし
 
45.名無しさん:2019年08月10日 10:52 ID:hRdM5s4F0▼このコメントに返信
しかも沖縄戦の準備段階として
残存艦隊を沖縄へ来させないために、瀬戸内海にB-29で機雷ばら撒いて海上封鎖
これで海軍どころか西日本の海上輸送インフラを壊滅に追い込んでからの沖縄戦だもの
最低限の航路掃海して大和特攻艦隊を出せただけでも、実はたいしたもんなんだ
 
46.名無しさん:2019年08月10日 10:53 ID:06nHU4bN0▼このコメントに返信

硫黄島はB29の不時着地ではなくてB29を護衛する戦闘機の発進基地な

米戦闘機はサイパンからは日本本土に足が足りなかったから。
 
47.名無しさん:2019年08月10日 10:55 ID:EqENjgWV0▼このコメントに返信
※5
>>5
台湾は、蒋介石へのプレゼント決定しているから、最初から無視だよ。
沖縄は、蒋介石が断ったから、思う存分地上戦で蹂躙しただけ。
 
 
 
コメント

集団自決の生き証人・安里巡査の証言、「沖縄警察史」より

2019-07-11 13:16:54 | ★集団自決

 

狼魔人日記

 ⇒最初にクリックお願いします

 

 

2007年9月29日。

大幅水増しで知られる「11万人集会」が宜野湾海浜公園で開かれた。

2万人足らずの政治集会を5倍以上に水増しした「11万人集会」の正式名は「教科書検定意見撤回を求める県民大会」という。

爾来12年経過した。

だが、同集会が当時国に要求した教科書検定意見の撤回は、2019年7月11日現在、いまだに撤回されていない。

従って当時の文科省検定意見は現在も有効である。

それでは、あれほど大巾水増し迄して国に撤回を要求した教科書検定意見とは一体何だったのか。

従来沖縄の集団自決に関し、教科書には「軍の命令による」という記述が認められていた。 それを削除せよ、というのが検定意見だった。

ところが、それまでの歴史的検証により、「集団自決が軍の命令により行われた」という客観的証言や証拠は皆無であった。その意味では遅すぎた検定意見と言えなくもない。

従って「集団自決は軍の命令」という記述は、教科書はおろか一般紙の記述でも間違いということにいなった。

ところが「集団自決軍命令説」に固執する沖縄2紙や沖縄2紙の御用学者たちは、「集団自決(強制集団死)」という新語を作り、あたかも軍命であるかのような印象の報道を拡散している。

そこで、当日記が過去に書き綴った集団自決に関する過去ブログを掘り起こし一部編集の上、再度集団自決の真相に迫ってみたい。

以下は過去ブログ安里巡査の証言、「沖縄警察史」より2012-04-30の引用である。

             ☆

 

琉球新報が己のイデオロギーを守るため掲載拒否した上原正稔さんの連載沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」。

その核心部分である「慶良間で何が起きたのか」が現在、南の島の小さな新聞「八重山日報」で連日好評掲載中である。

同時にこの幻の原稿は沖縄戦研究者の注目を浴びている。

琉球新報の面目はこれで丸潰れ、と書いた。

琉球新報の独善的な掲載拒否により知る権利を奪われた読者の怒りが今、燎原の火の如く県内に広がりつつある。

筆者の知人にも上原さんの原稿を八重山日報で読んで怒り心頭のあまり琉球新報の購読を止めた人が複数いる。

琉球新報の面目が潰れれば潰れるほど読者は離れていく。

石垣市の読者より上原さんの記事を読んだ感想をメールで頂いた。

重い内容ですが、「極限の事実」、しっかり受け止めて読みました。
それにしても琉球新報の読者の皆様にはお気の毒なことです。

琉球新報の罪は相当に重い、と思いますね。書き手の書物から事実を知り、
学ぶ、読者の喜びであり、知的財産です。これを奪う罪ですね。

石垣島より


■八重山日報 2012年4月29日

慶良間で何が起きたのか④ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 現地調査で知った意外な事実
 一九九五年夏、僕は渡嘉敷の金城武徳さんに案内され、島の最北端「北山(ニシヤマ)」に向かった。だが、金城さんは、ここは北山ではなくウァーラヌフールモーで第一玉砕場と呼ばれていると説明した。僕は『鉄の暴風』で植え付けられた自分の思い込みに呆れたが、さらに驚いたことに、金城さんと大城良平さんは「赤松隊長は集団自決を命令していない。それどころか、村の人たちから感謝されている。」と言うのだ。そこで『鉄の暴風』で隊長の自決命令を伝えたとされている比嘉(旧姓安里)喜順さんに会って事件を聞くと「私は自決命令を伝えたことはない。赤松さんが自決命令を出したとする。『鉄の暴風』は嘘ばかりです。世間の誤解を解いて下さい。」と言う。知念朝睦さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。渡嘉敷村史、沖縄県史など様々の証言を徹底的に検証した結果、次のような住民の動きが浮上した。―三月二十七日、村の防衛召集兵は前夜から「敵が上陸して危険だから北山に移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。渡嘉敷村落の西側の避難場所北山には古波蔵村長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。(前年の村の人口は一四四七人であることに注意。)そこで古波蔵村長、真喜屋前校長、徳平郵便局長ら村の有力者会議が開かれ、「玉砕のほかはない」と皆、賛成し玉砕が決められた。一方、赴任したばかりの安里巡査は村民をどのように避難誘導しようかと考え、軍と相談しようと思い、赤松隊長に会いに行った。安里巡査が赤松隊長に会うのはこれが最初だった。赤松隊長は「私達も今から陣地構築を始めるところだから、部隊の邪魔にならない場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言した。安里巡査は古波蔵村長ら村の有力者にそのように報告した。ところが防衛隊員の中には既に妻子を殺した者がいて、「このまま敵の手にかかるよりも潔(いさぎよ)く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」言い出して、先に述べたように村の有力者たちは集まって玉砕を決行しようということになった。防衛隊員も住民も既に平常心を失っていた。早まるな、という安里巡査に耳を傾ける者はいなかった。防衛隊員らは「赤松隊長の命令で、村民は全員、陣地裏側の北山に集まれ。そこで玉砕する」とふれ回った。住民は皆、死ぬことに疑問はなかった。最北端のウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊員は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊員から手榴弾が手渡された。天皇陛下のために死ぬ、国のために死ぬのだ。砲弾を雨あられと降らしている恐ろしい鬼畜は今にもここにやってくるのだ。夕刻、古波蔵村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。村長は北に向かって一礼し、「これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と演説し、「天皇陛下万歳」と叫んだ。皆もそれに続いて両手を挙げて斉唱した。村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが爆発しない。石に叩きつけても爆発しない。見かねた真喜屋校長が「それでは私が模範を見せよう」と手榴弾のピンを抜くと爆発し、その身体が吹き飛んだ。狂乱した住民は我も我も手榴弾のピンを抜いた。だが、不発弾が多く、爆発しないのが多い。「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そう」と防衛隊員の誰かが言った。村長は「よし、そうしよう。みんなついてきなさい。」と先頭に立って、三百メートルほど南に構築中の部隊本部壕に向かった。住民はワァーと叫んで陣地になだれ込んだ。その時、アメリカ軍の砲弾が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。本部陣地では仰天した兵士らが「来るな、帰れ」と叫ぶ。「兵隊さん、殺して下さい、と懇願する少女もいる。赤松戦隊長は防衛隊に命じ、事態を収めた。住民らはスゴスゴと二手に分かれて退散した。だが、午後八時過ぎ、ウァーラヌフールモー(第一玉砕場)に戻った住民らは「神もおののく集団自殺」を続行し、陣地東の谷間(第二玉砕場)に向かった金城武徳さんらは生き残った。そこでは、〝玉砕〟は終わっていたからだ。陣中日誌は記す。「三月二十八日午後八時過ぎから小雨の中敵弾激しく住民の叫び声阿修羅の如く陣地後方において自決し始めたる模様。(中略)三月二十九日、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で首を切断したる者、戦いとは言え、言葉に表し尽くしえない情景であった。」


 一九九五年取材した元防衛隊員の大城良平さんは語った。「赤松隊長は、村の指導者が住民を殺すので、機関銃を貸してくれ、と頼んできたが断った、と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はいないでしょう。」


 同じく比嘉喜順さんは語った。「赤松さんは人間の鑑(かがみ)です。渡嘉敷の住民のために泥をかぶり、一切、弁明することなく、この世を去ったのです。家族のためにも本当のことを世間に知らせて下さい。」


 僕はこの時点で「赤松さんは集団自決を命令していない」と確信した。だが、大きな謎が残った。なぜ、渡嘉敷の人たちは公(おおやけ)に『鉄の暴風』を非難し、赤松さんの汚名を雪(すす)ごうとしないのだろうか。その答えは突然やってきた。  (つづく)

              ☆

 

上原さんの文中に登場する集団自決の証言者で、琉球新報の方針と異なる証言をする人は、例え県内に在住している人でも、沖縄メディアは決して取材することは無かった。

最近物故されたが、1945年3月当時渡嘉敷島の巡査をしていた比嘉喜順さんや赤松隊長と終始行動をともにしていた知念朝睦副官らがそうだ。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受けて信憑性にかけ、それが真相解明の大きな妨げになっていた。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに援護法による年金支給の問題が絡むと今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、知念さんや比嘉(安里巡査ー戦後比嘉家に養子で改姓)さんは当時成年であり信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会にとっては「よそ者」であり、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。したがって「援護金」のために嘘の証言をする必要の無い証言者である。

また知念副官も他所から赴任した島の血縁社会には無縁な軍人であった。

当時安里巡査は29歳で知念副官は25歳。 二人とも渡嘉敷の血縁社会には無縁であり、親族に「集団自決」の被害者のいない証言者であり、「援護法」に絡む嘘の証言の必要の無いよそ者であった。

年齢的にも、村の指導的立場の副官、警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、又戦後沖縄に在住しているのにもかかわらず、不思議なことに地元マスコミで安里さんに取材したものは1人もいないという。

その理由は?

安里(比嘉)さんと知念さんが渡嘉敷島で起きた「集団自決」の「(沖縄2紙にとって)不都合な真実」を知っていたからである。

以下は安里巡査の証言、言論封殺訴訟を編集し、引用した。

安里喜順氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者は何故か安里氏には取材をしていない。

安里氏は戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓したことは前に延べた。

曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場する安里氏の証言を改めて読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

 

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安里喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前にほ訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏の名を報じるマスコミは少ない。

だが、安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に真実がある

 

琉球新報が卑劣にも上原さんに断りも無く削除した一節には、渡嘉敷島集団自決の最重要証人である安里(比嘉)巡査の名前が記されていた。

 

安里巡査の証言を「沖縄警察史」という公的刊行物より2回にわたって紹介する。

安里(比嘉)喜順氏の証言-1

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行 
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

當間駐在所
 昭和16年4月に沖縄県巡査を拝命して、第77期生として巡査教習所に入った。同期生には豊崎孟善、田場進、上地永好、現県会議員の砂川武雄等がおり、昭和16年8月30日に卒業して那覇署に配置になった。
 那覇署で最初に勤務したのが東町交番であった。次は今のバスターミナルの近くにあった旭町交番、そして昭和17年に小禄村の當間巡査駐在所に配置になった。當間巡査駐在所には昭和20年1月15日まで勤務した。
 昭和19年の10・10空襲のときは當間巡査駐在所勤務で、その日の朝は本署に出勤していた。その時、「飛行機の練習にしてはどうも変だな」と思っていたら、やはり空襲だったので、自転車で急いで駐在所に戻った。
 10・10空襲で那覇は全部焼かれた。駐在所の近くには飛行場があって空襲されることは間違いないと思ったので家内と子供たちは中城に疎開させていた。
 那覇飛行場を建設するため山根部隊や建設隊などが来ていたが、私が駐在所に赴任した頃には飛行場建設は終わり防空壕堀などをしていた。
 その頃の駐在所勤務は戸口調査とか本署からの下命事項の調査報告や思想調査、警防団の訓練、そして定期招集で本署へ行くこと等であった。10・10空襲があってからは、一般住民の方達が夜警に出ていた。

渡嘉敷駐在所
 昭和20年1月15日付けで渡嘉敷巡査駐在所へ配置換えの辞令が出た。
 その時配置換えの辞令を受け取ったか、それとも電話で命令を受けたのかよく覚えていない。
 慶良間列島には、座間味村と渡嘉敷村があり、私が赴任した所は渡嘉敷村の字渡嘉敷であった。渡嘉敷には阿波連、それから前島の小さい離島もあり国民学校もあった。渡嘉敷村には駐在所は一カ所だけであった。
 15日に配置換えの命令を受けたが、渡嘉敷に赴任したのは21日頃であった。その頃は戦闘状態であり、それに渡嘉敷島は秘密地帯になっており、歩兵部隊か、特攻部隊が駐屯しており渡嘉敷島に行くことはできるが島からは簡単に出られない状況であった。島へはポンポン船で行くが、これも毎日は出ない。それに準備等もあったので、赴任するまで少し時間がかかった。
 駐在所は警察の建物ではなくて民家を借りていたので、単身赴任した。
 その頃は本島間の電話は架設されてないので、本島と渡嘉敷島の間を往来していたポンポン船で、書類を送ったり本署からの書類を受け取ったりしていた。戦争状態になってからはポンポン船も運行できなくなったので、本署との通信連絡はほとんど途絶えた。その後は自分一人で色々考えて判断して、警察業務を遂行した。
渡嘉敷島は小さい離島なので、戦争になったらまず心配されるのは食料であった。そこで食糧増産をすることになり、私も田植えの手伝いをした。

御真影奉還
 渡嘉敷島に赴任して間もない2月頃と思うが、国民学校の御真影を本島に奉還して行ったことがあった。
 これは県庁から命令が出たと思うが、「御真影を本島の一カ所に奉還しなさい」と言う事があったので、渡嘉敷国民学校の校長と、高等科の先生2人と私の4人で御真影をお守りしてポンポン船で本島に渡った。
 本島ではこの頃はバスなどは運行していなかったので、歩いたり拾い車をしたりして国頭の羽地村源河にあった国民学校にお届けした。
 帰りに中城に立ち寄って、家族にあった。その時次男坊が私にまとわり付いて「一緒に付いて行く」と言って泣いていたが、戦争が終わって帰ってみると、その子だけが戦争で亡くなっていた。今考えると何かこの世の別れを知っていたのかと思ったりする。その後、那覇署で任務終了したことを上司に報告した。
渡嘉敷島へ渡るため那覇港からポンポン船に乗って出航したところを、米軍の飛行機の爆撃を受けた。これで一巻の終わりかと思ったが、爆撃をかわし、渡嘉敷港に無事たどり着くことができた。

鈴木部隊
 渡嘉敷島に赴任したとき島には、鈴木部隊と言って歩兵の戦闘部隊が配置されていた。その頃はいろいろ軍を相手にしなければならない仕事も多かった。
 私は、前任地の當間駐在で飛行場の兵隊とはよく会っていたので、赴任してすぐ鈴木少佐のところに赴任あいさつに行った。
 鈴木少佐は私の前任地のこともすでに知っておられて、物資の少ない時であったが魚の缶詰などを出して歓迎してくれた。鈴木部隊の隊長は民家を借り、兵隊は国民学校にいた。陣地などは良く分からなかったが、歩哨に立つ所があったぐらいのもので、大砲などは持っていなかったと思う。
 鈴木部隊とはよくお付き合いしていたが、本島の兵力が足りないとのことで、鈴木部隊は二月頃、本島へ転進していった。島尻あたりの警備に就いたと思う。

赤松部隊
 渡嘉敷島には鈴木部隊の外に、赤松大尉の部隊が配置されていた。その部隊は秘密部隊と言う事であったので、赴任した当初は赤松大尉には会っていない。
 私が赴任した時には、鈴木隊長の部隊と赤松隊長の部隊の2つの部隊があった。鈴木部隊が転進してからは赤松部隊だけになった。
 赤松部隊は水上突撃隊で、人力で押し出すことができる小型船に爆弾を積んで、敵艦に体当たりする秘密部隊であったので陣地などは見ていないが、海岸の岸壁を掘ってそこに舟を隠していたようだ。
 同部隊には、首里出身の知念少尉がおられた。私と一緒に下宿していた宇久先生も首里出身で知念少尉とは知り合いであったので、知念少尉は時々下宿に訪ねてきていた。米軍が渡嘉敷島に上陸してからは、私は赤松部隊とは頻繁に行き来していたが、それ以前は赤松隊長との面識はなかった。

塩屋警察署へ赴任できず
 昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。
 艦砲が始まったので私は、島の高い所に登って島尻の方を見た。渡嘉敷島はそれまで相当な被害にあっていたが、いくらアメリカと連合軍に物量があると言ってもただ言葉だけの天文学的数字を言っているものとばかり思っていた。ポンポン艦砲弾が撃ち込まれる中を自分は警察官だから隠れるわけにはいかないので身を伏せながら方々の状況を見てびっくりした。
 沖縄本島は島尻から北谷あたりまで見渡す限り敵艦船が取り囲んでいたので、これはちょっとやそっとの物量ではないと思った。

(つづく)

 

 

【おまけ】

八重山教科書問題や32軍指令壕説明板の削除問題など、このところ連戦連敗の反日左翼陣営で、「沖縄版言論封殺魔」こと目取魔俊氏が負け犬の遠吠えをしている。

大江・岩波沖縄裁判で勝訴したが問題の核心である「軍命」は立証できなかったことは隠蔽し、あたかも裁判で勝ったことが「軍命の立証」を意味するかのような印象操作に懸命である。

当然のことながら「裁判の結果を生かす」場面など無いと思うのだがね。(涙) 

お気の毒。

ちなみに「言論封殺魔」こと目取真氏が紹介している岩波書店編『検証・沖縄「集団自決」裁判』(岩波書店)は、裁判の被告である岩波が嘘八百の沖縄タイムスなどを使って編纂した眉唾ものの自己弁護記録であることは、10倍水増しの「政治集会」を平気で「11万人集結」の県民大会集会などと平気で大嘘を書いているのを見れば一目瞭然である。

 

大江・岩波沖縄戦裁判の成果をいまに生かす

2012-04-29 21:20:24 | 「集団自決」(強制集団死)
 昨年4月21日に最高裁が梅澤裕氏と赤松秀一氏の上告を棄却し、大江健三郎氏と岩波書店の勝訴が確定してから1年余になる。大江・岩波沖縄戦裁判は、慶良間諸島における「集団自決」(強制集団死)の軍による命令や強制を否定し、さらに教科書記述の削除や変更、沖縄における自衛隊強化をも視野に入れて、右翼・歴史修正主義者たちによって組織的に取り組まれたものだった。 裁判は大江氏と岩波書店の全面的勝訴となった。しか . . . 本文を読む
 
 

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新・「鉄の暴風」のいかがわしさ

2019-06-25 05:14:03 | ★集団自決

 

狼魔人日記

 

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ここ数日風邪をこじらして、熱で頭がさえない。

例年慰霊の日の前後にアクセスが増える過去ブログから、もう一編紹介しよう。

 

『鉄の暴風』のいかがわしさ 2007-11-01 06:15:54 

米、数千人動員して民間人救出
「米軍より日本軍怖い」感覚へ

  沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。(略)(世界日報 2007年10月30日) http://www.worldtimes.co.jp/index.html

                     ◇

■米軍は解放軍■

「鉄の暴風」という言葉から受ける印象は、

「沖縄対日本軍」の戦いである。

そして米軍は日本の沖縄を解放に来た解放軍だという印象だ。

太田元沖縄県知事の一連の著書にはこのような記述が見られる。

≪その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)http://www.kamiura.com/chuu18.htm

 

沖縄タイムスが極端な偏向を通り越し、

敵意剥き出しの反日報道をするのには理由があった。

 

■沖縄タイムス出生の秘密■

その訳を深く掘り下げると沖縄タイムスの出生の秘密にたどり着くことになる。

それは昭和25年に発行された『鉄の暴風』の初版の前文にすべてが凝縮されている。

前文にはこう書かれていた。

「なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」 (『鉄の暴風』初版前文)

揉み手をしたような、この米軍へのおべんちゃら記事が『鉄の暴風』の記事だと知ると驚く人も多いだろう。

勿論、沖縄タイムス出生の秘密を暗示するこの前文はその後の重版では削除されている。

『鉄の暴風』は主として沖縄タイムス記者伊佐良博氏(後に太田に改姓)によって書かれたが、同書のもう一人の著者、牧港篤三氏によれば、

初版は2万部出版され「米軍に提出されるため英訳され、占領軍司令部でも話題になった」と記している。(沖縄タイムス平成14年6月12日付け)


■米軍広報紙としての出発■

さらに沖縄タイムスの創立者の1人座安盛徳氏(故人)は昭和25年5月2日、東京のGHQを訪問し、当時の沖縄人としては珍しくマッカーサー元帥と面談もしている。

当時は日本政府の要人でさえ面会の難しかったマッカーサー元帥に沖縄タイムスが容易に面会できた事実に驚かされる。

これによって沖縄タイムスが米軍の沖縄占領政策の重要な一部門に組み込まれていたことが分かる。

マッカーサーとの面談の三ヵ月後に『鉄の暴風』は初版が出版されることになる。

座安氏はマッカーサー元帥との面談を「雑感記事」として昭和25年5月6日の沖縄タイムス記事で次のように書いている。

「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度に一行はすっかり気をよくして・・・いよいよ思い切り甘えて見たくなった」

今で見ると驚きだが、これが『鉄の暴風』の出版のため東京を訪れた沖縄タイムス幹部の米軍総大将への雑感である。

そう、沖縄タイムスは戦後沖縄占領米軍のプロパガンダ紙として出発したのだ。

ここで言うプロパガンダ紙というのは比喩的な意味ではなく米軍情報部の下に作られた広報紙という意味である。

勿論米軍情報部の目論む「沖縄住民を日本から永久分断する」情報作戦の一旦を担うのが沖縄タイムス紙創立の理由だった。


■「鉄の暴風」に続く「紙の爆弾」■

当時、不足気味の新聞用紙の提供など報道に必要な備品は全て米軍によって提供された。

<沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。>(世界日報「米軍より日本軍怖い」感覚へ)

米軍は「鉄の暴風」を吹き荒れさせた後は、

「紙の爆弾」といわれた膨大な量の宣伝ビラを島中にばら撒いて住民と日本軍の分断を図った。

この心理作戦遂行のため、情報部は沖縄での空中散布用に五百七十万枚のリーフレットを印刷。米軍上陸後にまかれたあるビラの文面を紹介しよう。

 皆さん達の家はこわされたり、畑や作物は踏み潰され又元気盛りの青年は殺され、沖縄の人は皆口に言えぬ苦労をしています。内地人は皆さん達に余計な苦労をさせます。……日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしたりしている事は皆さん達に明らかでしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯貴方達は、内地人の手先に使われているのです」(世界日報より)

全島に降り注いだ紙の爆弾の効果はてき面だった。


■沖縄と日本との分断工作■

ニューヨーク・タイムズはアレクサンダー・ロバーツ伍長の談話を次のように掲載している。

 <生き残った人々は、アメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げた。「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。そして七十人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている処に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねばならぬほどだった>

  ≪かくして、沖縄県民の心には徐々に、米軍ではなく日本軍が敵であるという認識が植え付けられていくのである。

   「沖縄人」と「内地人」を離間させ、対立を煽(あお)る「宣伝ビラ」の配布、方言による声の投降勧告の上で、米軍が行ったのが、戦場下で逃げ惑う民間人の救出だった。保坂廣志氏は、この民間人救出に、数千人もの軍政要員と、沖縄系二世が動員されたと指摘している。≫(「世界日報」10月30日記事)

『鉄の暴風』が書かれた戦後5年目の沖縄は通信手段や交通手段さえ現在とは比較にはならない。

バスやタクシーが未だ無いので、交通手段は勿論電話や取材用の紙さえ米軍に頼らざるを得なかった。


■不可思議な取材活動■

『鉄の暴風』著者太田氏の取材の様子を世界日報は次のように報じている。

≪さて、太田氏はこの反論連載(沖縄タイムス掲載の曽野綾子氏への反論)の中で『鉄の暴風』の取材期間が「三ヶ月、まったく突貫工事である」と書いている。≫

現役記者のK氏は、取材活動でケータイは勿論PC、カセットテープを駆使し、移動手段も飛行機、電車、車、場合によってはミニバイクに乗って取材活動している。

『鉄の暴風』の取材方法については、同業者として次のように疑念を呈している。

≪記者二人で、三ヶ月の取材で書き上げた分量は四百字詰め原稿用紙で750枚前後に及ぶ膨大なものだ。 しかも離島だけではなく、本島の北から南にまでの兵隊や住民の動向を取材の視野に入れている。・・・・果たして証言内容を精査、吟味する時間をどれほど持てたのだろうか。≫

だが、読者の疑念は次の事実で氷解する。

『鉄の暴風』は証言内容の精査、吟味は不要であり、

米軍がその機動力で一か所に集めた都合の良い「証言」者から聞き取るだけで済んだからである。

何故なら『鉄の暴風』発刊の主旨は著者がいう「歴史の記録」というより、「住民と日本との分断」という米軍の意図の下で発刊を許可されていたからである。

ちなみに当時の沖縄で全ての出版物は米軍の発した「二ミッツ布告」による事前の検閲が必要であった。

ニミッツ布告
1945(昭和20)年3月26日公布
正式名称、アメリカ海軍軍政府布告第1号
アメリカ軍の慶良間諸島上陸の時、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥によって公布される
北緯30度以南の南西諸島及びその周辺海域における日本政府の行政権と司法権を停止し、アメリカ軍の占領下におくことを宣言
アメリカの沖縄占領の実質的根拠となる
1966(昭和41)年まで存続


■米軍協力で集められた「証言者」■

昭和25年、那覇市の今で言う国際通りの国映館界隈は未だ道路も舗装されておらず米軍トラックが通ると埃が朦々と立ち込める悪路であった。

埃っぽいその道路から奥まった一角に在った某旅館に「集団自決」の証言者と称する人たちが集められた。

米軍の協力の下、実際に動いて証言者を集めたのは、沖縄タイムス創立の1人座安盛徳氏であった。

『鉄の暴風』の著者が不備な交通手段や通信手段を使わなくとも済むように、座安氏は先ずその旅館に「証言者たち」を集め、取材の準備を万端整えた。

そして『鉄の暴風』の連載を企画し、その後、単行本実現に米軍情報部との強力なコネを通じて影の力を発した。

その結果、太田氏は現地取材することも無く、一か所に集められた「関係者」からの聞き取りだけで「裏付け」をとることもなく、『鉄の暴風』を著したのである。

太田氏の取材は当時としてはある意味で、比較的容易に行われ、それが後日「伝聞取材」であると批判される原因になる。

一方影の著者とも言える座安氏のやったことは、「関係者」を集めるとは言っても、電話も交通手段も不備だった昭和25年当時の沖縄で、全島から「関係者」を一か所に集めることは至難の業で米軍の機動力の支援なくしては出来ない仕事であった。


■「伝聞記事」に対する太田氏の反論■

著者の太田氏は沖縄タイムス昭和六十年四月十日付で「座安氏の活躍」について明言している。

後にこれをまとめて出版した『戦争への反省』の中で、この「関係者」の取材が伝聞取材だったと問われたことに対して、次のように弁解している。

≪直接体験者でもないものが、あんなにくわしく事実を知っているはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないもの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。  永久に残る戦史として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私は、そんな不真面目な態度でのぞんではいなかった。≫((戦争への反省」225頁)

いやぁ、本職の記者でもない素人の筆者が読んでも、「~はずがない」とか、

「記録者(記者)は・・・でたらめではない」とか、

「新聞社が真剣に・・・」とかは子供の言い訳にしか取れないのだが・・・。

取材の基本は「裏づけ」だということは素人でも思いつくことだが、『鉄の暴風』の取材方針は「性善説」に徹しているようで、

詳しく知っていれば体験者のはずだ」、

「新聞社や記者はでたらめでもなければ、不真面目でもない」と主張することで伝聞取材説への反論としているのは驚きだ。

『ある神話の背景』(『集団自決の真相』と題して再版)の著者曽野綾子氏は、太田氏の上記の反論を、「子供の弁解」とは言わないまでも「素人のたわごと」と斬り捨てている。

「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」。

太田氏の弁明は素人からは「子供の言い訳」と取られ、曽野氏からは、「素人のたわごと」と一蹴された。

至言である。

「関係者」を旅館に集め取材のお膳立てをした座安盛徳氏は、後に沖縄タイムス専務、琉球放送社長などを歴任した人物で、米軍占領後沖縄を襲った巨大台風「グロリア」の被害処理を通じて米軍情報将校と個人的に強力なコネクションを持つようになっていた。

このように『鉄の暴風』は影の執筆者とも言える座安氏の米軍との個人的つながりの下に、

全ての資料は事前に準備されていたのである。

取材は現地に居なかった「関係者」の証言だけで充分だったのだ。

沖縄タイムス設立の目的は米軍のプロパガンダであり、

「日本軍を悪し様に罵って沖縄住民と日本との永久分断を計る」

という米軍の意図が広く沖縄中に浸透すれば、

『鉄の暴風』出版の目的は達せられたことになる。

 

初版から62年経った現在、『鉄の暴風』は今でも沖縄県民の日本への憎悪を煽り続けている。

恐ろしきはマッカーサーの62年殺しである。

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◆参考エントリー:

「沖縄人は日本人にあらず」 占領米軍の分断工作工作

「マッカーサーの三年殺し」【再掲】

 

コメント (3)

新・妄言!ひめゆり学徒は日本軍の「性奴隷」だった!

2019-06-24 09:18:14 | ★集団自決


 

狼魔人日記

 

 

 



毎年慰霊の日前後になると当日記の古い記事にアクセスが増える。

今回は「妄言!ひめゆり学徒は日本軍の「性奴隷」だった!2012-03-03 07:53:28」にアクセスが集中した。

日本軍を貶めるためのトンデモ学者たちの妄言だ。

ひめゆり学徒は日本軍の性奴隷だったというデタラメ説を同ブログより引用する。

               ☆

ひめゆり学徒は日本軍将校の慰安婦だった」と公言してはばからない人物がいる。

高嶋伸欣琉球大学名誉教授のことである。

八重山教科書問題で「識者の見解」などとデタラメな情報を垂れ流し、反日活動の折には必ず顔を出してくるこの人物の言動を辿れば、極悪複合体が反日という共通目的のため地下茎で強く絡み合っていることがわかる。

彼らは日本を貶め、沖縄を貶めるためには手段を選ばず、あらゆる反日活動の場面には登場する。

先日予告した「ひめゆり学徒は日本軍の慰安婦だった」に関連する雑誌『WILL』の対談の関連部分を再度引用する。

小林
先日、「報道2001」に出ていた高嶋伸欣琉球大学教授は「ひめゆり部 隊が慰安婦になっていたことがある」と発言したことがあるんですよ。全くの嘘 話なのに、ひめゆり部隊の語り部さんたちは抗議の声を上げないんです。結局、 反戦平和側の人間だから、仲間割れすれば右派・保守派を利すると考えたんでし ょう。これには腹が立ちました。「ひめゆり部隊」の名誉をしっかり守れ、と言いたい。

上坂 
私がこんな説教がましいことを言うのも、この歳になったからであって、 当時の空気を知る世代がいなくなれば、言ったもん勝ちになって、嘘の証言が事 実として通ってしまう。だから私は生きているうちに声を大にして言っておきた いのよ。
高嶋伸欣氏が東京の高校教師をしていた頃、とんでもないでたらめな本を出版している。 ひめゆり学徒を慰安婦と貶めた著書 『教育勅語と学校教育-思想統制に果した役割- 』(岩波書店 、 1990年11月20日)。その後高嶋氏は琉球大学の教授となり沖縄紙で「識者の意見」などと称して沖縄県民を貶めてきたことは周知の通りである。
 
高嶋氏のトンデモ本をこれを断罪する上杉千年氏の著書『検証「従軍慰安婦」』(全貌社1996年9月)から該当部分を引用する。
 
高嶋氏は、沖縄県民を『皇国民』に仕立て無意味な戦争に駆り立てた「皇民化教育」の象徴として「天皇・日の丸・君が代」への徹底的攻撃が学校を中心に実施されてきた。
 
しかし、反日左翼複合体にとっては、こうした運動だけでは「皇民化教育」の実態を暴露するのは不十分と考えた。
 
そこで、『皇民化教育』に踊らされる県民の愚劣な実態を捏造し公表する以外にないと判断した。
 
そのためには、沖縄で最も聖なる存在である『ひめゆり学徒』に代表される殉国の乙女とその引率教師を汚し辱めることこそ効果的として、"ひめゆり学徒にも従軍慰安婦がいた”という妄言の論文の公表となってくる。
 
■「ひめゆりの乙女」をも汚す究極の「反戦平和」
 
沖縄の反戦平和論の支柱をなしているのが「皇民化教育」批判であるである。 そこで、『皇民化教育』の実態を暴露するために『ひめゆり学徒隊』の「忌まわしいい事実」を捏造し公表するという究極の反戦平和論が進行したのである。 

それは、筑波大学付属高校社会科教諭高嶋伸欣著『教育勅語と学校教育』(平成2・11・20、岩波ブックレット)によってである。
 
それには、平成55年の社会科地理研究大会が那覇市開催された折に、記念講演をした「地元の歴史学者」が、次のように発言したと紹介している。
 
足手まといの「ひめゆり学徒隊」
沖縄戦といえば先ず最初に連想される「ひめゆり部隊」についても、美化されすぎているとし、「実は正規の看護婦からみれば、足手まといになったような状態もかなりあったようです」と述べた。(2頁)
 
従軍慰安婦もいた『ひめゆり学徒隊』
 
中には、これもいいたくないことですけど、真実を語るべきだ思いますのでいいますが、彼女たちは単に野戦看護婦であっただけでなく。ときには高級将校の慰安婦の役割まで押し付けられた子どもたちもいたのです。・・・」と。 私たちは衝撃を受け息を飲んだ。たしかに当時の日本軍の性格からすれば、ありうることと思えた。≫(2~3頁」
 
≪さらに「ひめゆり同窓会」(沖縄県立女子師範・沖縄県立第一高女の同窓会で結成)の関係者や沖縄の研究者たちをたづねてまわった。「残念だがそれが事実です」という回答が数人からあった。 ただし、「ひめゆり部隊」の少女の中に該当者がいたとしても一人か二人だろう。 むしろそれ以外の若い女性が大部分のはずだとのことだった。≫(4~5頁)
 
高嶋氏は、沖縄の乙女たちが従軍慰安婦を志願した理由は講演後に質問した所、講師は次のように回答したという。
 
≪身も心も”お国”(天皇)のために捧げることこそ最高の美徳だと徹底して“教育”洗脳されていた所で、その天皇の軍隊”皇軍”の将校の求めだったのだから、女でもお役に立てるのだと思いこそすれ、疑問を感じる余裕などなかったのだ。≫
 
≪求めている側の日本軍の将校の地位が高ければ高いほど名誉なことだとして、地元の側でも指導者層が進んで身内の子女から生かせたくらいだ≫(3~4頁)」
 
以上が「沖縄戦の悲劇と公民か教育」(2~70頁)の要旨である。
 
この論旨よりして「ひめゆり学徒隊」に従軍慰安婦がいたのだから、その他の学徒隊、即ち、県立の第2高女、(白梅学徒隊)・第三高女(名護蘭学徒隊)・首里高女(瑞宣学徒隊)私立の」積徳高女(積徳学徒隊)でも、「指導者層」である引率教師により、「名誉なこととして」「すすんで」提供されてということになり、すべての学徒隊の教師と生徒の名誉は汚されたことになる。

 ■”根も葉もない話し”と訴える「ひめゆり関係者」

高嶋氏のあまりにもデタラメナ記述に怒り心頭の上杉千年氏は早速反論のための調査を開始する。

高嶋氏は、沖縄国体に向けて「沖縄戦・国土が戦場になったとき」(昭和52年・青木書店)で、「将校用慰安婦と皇民化教育」と題して執筆したが、「そのような事実はないという反論が沖縄の人々から提起」(10頁)されなかったとしている。

しかし、それは「同書」では、「沖縄住民に将校用の慰安婦の提出を求め、それに対して多くの若い女性たちが応じていた」という漠然とした表記であったからであろう。

それに対して、今回の論文は、極めて具体的である。 そこで「ひめゆり学徒隊」の関係者に意見を伺った所、次の回答を得た。

≪生徒の遺族・金城和彦国士舘大学教授より

金城氏は2人の令妹を「ひめゆり学徒隊」に捧げた方で、「嗚呼・沖縄戦の学徒隊」(昭和53年,原書房)等の著者でである。 また、ご尊父和信氏は「ひめゆりの塔」等を建設された方である。 
「ひめゆり部隊」の女学生は、軍属として野戦病院壕で負傷兵の看護(第一線で)に命の限りを尽くしたのが実相で、慰安婦になったのがいたというのは、絶対にありえないことで、それは為にする左翼の常套手段で、散華した乙女たちの御霊に対ししても絶対許してはならない暴言である。

引率教師の未亡人・玉代勢秀子女史より

玉代勢女史の夫君玉代勢秀文沖縄師範学校女子部助教授は、「ひめゆり学徒隊」の引率教師として散華されている。そして女史は、夫君の音信30通を「ひめゆり教師の手紙」(昭和63年、二戸来社刊)として敢行されている。その返信は、「根も葉もないこんな恐ろしいことをでっち上げる人間もいたものですね。聖なるひめゆり学徒、戦火を潜り抜けた生存者に対して残念極まりない思いです。生き残りの親しい友人に聞いていましたがそのようなことは絶対ないということでした」

ひめゆり同窓会長・嶺井百合子女史より

私は「ひめゆり同窓会」会長に書面を事前に送付し4月15日(平成4年)に電話をした。その要旨を示してみよう。

問:「ひめゆり隊」にも従軍慰安婦がいたという話は本当でしょうか・

答:「そいうことは、ありうることではありません。

問:「貴方のご年齢は・・・。そうすると「ひめゆり隊員」ではなかったのですね。」

答:「ひめゆり」のことは良く知っています。絶対にそのようなことはありません。

問:「金城国士舘大学教授も強く否定してみえますが、そうですね。」

答:「金城さんの仰る通りです。」≫

        ☆

故上杉千年氏の「検証『従軍慰安婦』(全貌社)の引用で、高嶋伸欣琉球大学教授の「ひめゆり学徒日本軍の慰安婦」説がいかにデタラメであるかは自明であるが、ひめゆり学徒の高齢化で生存者がほとんどいなくなったのを見越して、高嶋教授がテレビなどで発言しているとしたら人間の屑として唾棄すべきである。

上記インタビューに応じていた嶺井女史も既に逝去されている。

嶺井百合子さん死去/ひめゆり同窓会前会長(1999.10.18)

この高嶋という人物、沖縄左翼の代弁者として沖縄紙に頻繁に登場するが、学者というより極左活動家と言う方が相応しいと何度も指摘してきた。

だがここで疑問に思うのはいくら活動家とはいえ、全く根も葉もないことを言いふらすはずもない。

どからか流れ出た伝聞情報にちがいない。

その伝聞の情報源は本人の著書ではこう説明されている。

昭和55年の社会科地理研究大会が那覇市開催された折に、記念講演をした「地元の歴史学者」が、「ひめゆり学徒には日本軍の慰安婦もいた」発言したと紹介している。

ここでは「地元の歴史学者」とだけ記しているが、こんな重要問題を自著やテレビで公開に名前を伏せているのはいかにも不自然である。

この件について現在沖国大と「言論封殺」の戦いを続行中の、惠隆之介氏が一体どこの歴史学者がそんなことを言いふらしているのかと高嶋氏に直接問いただしたところ、その歴史学者とは安仁屋政昭沖国大教授のことだと明言したという

では全くの嘘話なのに、ひめゆり部隊の語り部たちが抗議の声を上げないのか。

何故これほど明らかなデタラメが活字になったりテレビで公開されていつというのに沖縄メディアが沈黙しているのか。

「反戦平和は免罪符」という法則が働いて、高嶋教授や安仁屋教授の主張がどんなに嘘八百でも、小林氏の指摘するように、同じ反戦平和側の人間だから、仲間割れすれば右派・保守派を利すると考えるのだろう。

何という恥知らずな輩だ。

極左学者、沖縄メディア、反戦語り部たちが同じ反日左翼複合体の構成員である。

その意味では八重山問題も第32軍壕説明板問題も「ひめ百合学徒慰安婦説」も地下茎ではしっかり結びついているということが出来る。

ひめゆり学徒を冒涜し沖縄を貶め、日本国の解体を企む反日左翼複合体を沖縄から放逐すべきと考える人、クリック応援願います。⇒最初にクリックお願いします

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大田実少将の遺言、県民かく戦えり!  2006-06-22 07:41:28

2019-06-13 08:59:03 | ★集団自決

狼魔人日記

 

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過去ブログ県民かく戦えり! 大田実少将の遺言の再掲です。・

2006-06-22 07:41:28 



事件は会議室で起こっているんじゃない!」。

「現場で起こってるんだ!」。

これは、映画「踊る大捜査線」の織田祐二扮する青島刑事の名セリフ。

本庁の幹部達が会議に明け暮れる中、事件の現場に乗り込み凶器に倒れる青島刑事の後姿と共この言葉が観客の胸を打った。

映画では特捜本部に本庁からやり手の女性本部長が送り込まれる。

彼女は青島刑事の現場主義を批判する。

そして有能な幹部が会議室から出す的確な指示・命令こそが最重要と言い放つ。

現場は余計なことを考えずその指示・命令に従えば事件は解決すると云うのだ。

言わば、現代日本のあらゆる組織が持つ、現場派と会議室派の葛藤がこの映画のテーマである。

                     *

この現場と会議室の葛藤は現代だけの問題ではない。

組織が持つ現場派と会議室派の葛藤は遠く明治の時代から、先の戦争の軍隊組織においても見られた。

62年前の沖縄戦で、現場の指揮官をしていた大田実海軍少将は、東京の会議室で現場に指令を出す海軍次官に遺言ともいえる長文の電文を送った。

レインボーブリッジの現場に立つ青島刑事と同じく満腔の怒りを込めて。

戦争は作戦室で起こっているんじゃない!」。

「現場の惨状を作戦室は知れ!」と。

今月の14日の沖縄タイムスは、戦地現場である海軍壕で自決した大田実司令官と戦没将兵4000人の慰霊式典を報じた。

太田実少将が豊見城の海軍壕で自決したのは1945年(昭和20年)6月13日。

毎年この日には遺族が集まって何故か密やかに慰霊祭が行われる。

現場の司令官や将兵の慰霊祭と言う理由で地元新聞の取り扱いは他の戦没者慰霊祭に比べて扱いが小さい。

沖縄戦で戦没した朝鮮人の慰霊碑でさえ建立して大々的に報じるのに。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/6344846c2b9598aab
7c7271321c54283

しかも大田司令官が命を賭して東京の「会議室」に現場・沖縄の惨状、住民の命がけの協力を打電し、「県民斯く戦えり。 今後のご高配を」と結んだ事には新聞は一言も触れていない。

県民が戦争に協力したのは平和運動にはそぐわない」というのが地元メディアの大田司令官への冷遇の原因らしい。

平和学習として沖縄の戦跡を修学旅行に取り上げる学校が増えているが、沖縄戦の現場の報告を血を吐く思いで東京の会議室に報告して自決した大田司令官の終焉の地「海軍壕跡」は平和学習コースからは何故か外されている。

沖縄の戦後復興についても気にしながら自決した大田実司令官について沖縄のメディアは冷めたい。

沖縄タイムス 2006年6月14日(水) 
 
旧海軍司令部壕慰霊祭

 沖縄戦で、旧海軍司令部壕やその周辺壕などで亡くなった旧日本海軍関係者や現地招集された住民など四千余のみ霊を慰める「旧海軍司令部壕慰霊祭」(主催・沖縄観光コンベンションビューロー)が十三日、豊見城市の旧海軍司令部壕公園で開かれ、県内外から参列した約九十人の遺族らは献花や焼香をし、冥福を祈った。
 同ビューローの仲吉朝信会長は「尊い命や文化遺産が失われた悲しみは癒えない。戦争体験を風化させず、平和な沖縄を次世代へ引き継ぎたい」と述べた。

 夫が大田實司令官の四男だという大田昌子さん(59)は「国のためといえ、家族を残して先立たなければならなかった義父の気持ちを考えるとやりきれない」と話した。
 


                   ◇

太田実海軍少将が万感の思いで東京の海軍次官宛てに打電した、遺言ともとれる長文の電文を下記に紹介する。

注:読みやすさを考え,原文漢字カタカナ混じり文を平仮名に直し,句読点を付加した。 これを筆者が更に読みやすく書き直した。

◆海軍沖縄特別根拠地隊司令官
大田実少将(自決後中将に昇進)海軍次官宛電文

昭和20年6月6日付け

「沖縄県民かく戦えり!」

「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを!」

沖縄県民の実情に関して、報告は本来県知事より報告すべき事だが、県には既に通信力はなく、第三十二軍指令部(牛島中将の最高司令部)も通信余力がない。

県知事の依頼を受けたわけではないが、沖縄の現状を見過ごすに忍びないので、私大田司令官が知事に代わってご緊急に報告する。

敵が沖縄に攻撃開始以来、陸海軍とも防衛戦闘に精一杯で、県民を顧みる余裕は殆どなかった。

しかし、私の知る限り県民は青壮年の全てを防衛召集に捧げた。

残りの老幼婦女子は、相次ぐ砲爆撃で家屋と全財産を焼き出され、軍の作戦の邪魔にならない小防空壕に避難、しかも爆撃、風雨に晒される窮乏生活にあまんじた。

しかも若い婦人は率先して軍に協力し、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、斬り込み隊をを申し出る者すらあった。

所詮、敵が来たら老人子供は殺され、婦女子は拉致され毒牙にかかってしまうと、親子生き別れになり娘を軍営門に捨てる親もいる。

看護婦に至っては、軍移動に際し、衛生兵は既に出発した後なのに、身寄りのない重傷者を助けて、その行動は真面目で一時の感情で動いているとは思われない。

更に軍の作戦大転換があり遠隔の住民地区が指定されると、輸送力がないのにもかかわらず、夜間、雨の中を自給自足しながら移動するものもいた。

要するに、陸海軍が沖縄に進駐して以来、県民は終始一貫して物資節約を強要され、ご奉公の心を抱き、遂に勝利する事無く、戦闘末期には沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した。

食料は六月一杯を支えるだけしかないという。

沖縄県民はこのように戦った。

沖縄県民に対して後世になっても特別の配慮をお願いする。

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手、「会議室」の海軍次官・多田武雄(将官議員)は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して「会議室」に報告後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ「鉄の暴風」と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍なのに、何故か戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住を日本人から分断する占領方針から沖縄住民には「優しく」対応するようにしていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、「優しく」年寄りや子供に手を差し伸べる米兵の顔だけを見ている。

自分達は安全な戦艦の中にいて、そこから艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさして住民を無差別殺戮した米兵のもう一つの顔を見ていない。

一方、自分達を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態も晒しただろう敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵だったと言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍、「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

                   ◇

大田実少将の魂の叫び「県民かく戦えり。 」の電報・原文を煩雑を承知で下記に記録する。。(不明な箇所は□で表わしている。)

沖縄戦関係資料室http://www.okinawa-sen.or.jp/050707/index.html

 沖縄県民斯く戦えり

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

 左の電文を次官に御通報方取り計らいを得たし

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる。

 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇(いとま)なかりき。

 然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅(わず)かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。

 しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊(ほうすい)婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出る者あり。

 所詮、敵来たりなば、老人子供は殺されるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。

 看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。

 さらに、軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

 これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部はとかくの悪評なきにしもあらざるも)ひたすら日本人としての御奉公の護を胸に抱きつつ、遂に□□□□与え□ことなくして、本戦闘の末期と沖縄島は実情形□□□□□□

 一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支うるのみなりという。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。

                  *

★付録①;大田実少将自決前日、最後の電報

発 沖根 昭和20年6月12日 1335

一、朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外に蝟集(いしゅう)し、煙弾を打ち込みあり
二、我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり
三、74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む

発 沖根 昭和20年6月12日 1619
これにて通信連絡を絶つ

 

★付録②大田司令官の三女、愛子さんの歌

身はたとへ沖縄の野辺に朽ちるとも祖国守ると父は逝きにし

参考文献
『沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』、田村洋三、講談社文庫 

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沖縄タイムス刊『鉄の暴風』の出生の秘密

2018-11-08 17:35:19 | ★集団自決

 

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過去ブログ「鉄の暴風』のいかがわしさ 2007-11-01」 、を一部編集した引用です。

 

                            ☆

 

 

 米、数千人動員して民間人救出
「米軍より日本軍怖い」感覚へ

  沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。(略)(世界日報 2007年10月30日) http://www.worldtimes.co.jp/index.html

                     ◇

■米軍は解放軍■

「鉄の暴風」という言葉から受ける印象は、「日本対米国」の戦いではなく、

「沖縄対日本軍」の戦いである。

そして米軍は日本の沖縄を解放に来た解放軍だという印象だ。

太田元沖縄県知事の一連の著書にはこのような記述がある。

≪その意味では、沖縄戦のあとに上陸してきたアメリカ軍は沖縄にとって解放軍のはずだった。≫
(大田昌秀著「沖縄の決断」朝日新聞社刊)http://www.kamiura.com/chuu18.htm

 

沖縄タイムスが極端な偏向を通り越し、

敵意剥き出しの反日報道をするのには理由があった。

 

■沖縄タイムス出生の秘密■

その訳を深く掘り下げると沖縄タイムスの出生の秘密にたどり着く。

それは昭和25年に発行された『鉄の暴風』の初版の前文にすべてが凝縮されている。

前文にはこう書かれていた。

「なお、この動乱を通じて、われわれ沖縄人として、おそらく終生わすれることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えたかれらの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更正第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい」 (『鉄の暴風』初版前文)

揉み手をしたような、この米軍へのおべんちゃら記事が『鉄の暴風』の記事だと知ると驚く人も多いだろう。

勿論、沖縄タイムス出生の秘密を暗示するこの前文はその後の重版では削除されている。

『鉄の暴風』は主として沖縄タイムス記者伊佐良博氏(後に太田に改姓)によって書かれたが、同書のもう一人の著者、牧港篤三氏によれば、

初版は2万部出版され「米軍に提出されるため英訳され、占領軍司令部でも話題になった」と記している。(沖縄タイムス平成14年6月12日付け)


■米軍広報紙としての出発■

さらに沖縄タイムスの創立者の1人座安盛徳氏(故人)は昭和25年5月2日、東京のGHQを訪問し、当時の沖縄人としては珍しくマッカーサー元帥と面談もしている。

当時は日本政府の要人でさえ面会の難しかったマッカーサー元帥に沖縄タイムスが容易に面会できた事実に驚かされる。

これによって沖縄タイムスが米軍の沖縄占領政策の重要な一部門に組み込まれていたことが分かる。

マッカーサーとの面談の三ヵ月後に『鉄の暴風』は初版が出版されることになる。

座安氏はマッカーサー元帥との面談を「雑感記事」として昭和25年5月6日の沖縄タイムス記事で次のように書いている。

「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度に一行はすっかり気をよくして・・・いよいよ思い切り甘えて見たくなった」

今で見ると驚きだが、これが『鉄の暴風』の出版のため東京を訪れた沖縄タイムス幹部の米軍総大将への雑感である。

そう、沖縄タイムスは戦後沖縄占領米軍のプロパガンダ紙として出発したのだ。

ここで言うプロパガンダ紙というのは比喩的な意味ではなく米軍情報部の下に作られた広報紙という意味である。

勿論米軍情報部の目論む「沖縄住民を日本から永久分断する」情報作戦の一旦を担うのが沖縄タイムス紙創立の理由だった。


■「鉄の暴風」に続く「紙の爆弾」■

当時、不足気味の新聞用紙の提供など報道に必要な備品は全て米軍によって提供された。

<沖縄戦に関する沖縄県民の手記には、しばしば「米軍よりも日本軍の方が怖かった」という感想が出てくる。言葉も通じない敵の軍人に、同じ日本人よりも親近感を覚えるということが果たしてあるのだろうか。それは、米軍が「日本の圧政に苦しみ、虐げられている状況を打開してくれた解放軍」という認識を、県民が抱くようになって初めて可能だ。>(世界日報「米軍より日本軍怖い」感覚へ)

米軍は「鉄の暴風」を吹き荒れさせた後は、

「紙の爆弾」といわれた膨大な量の宣伝ビラを島中にばら撒いて住民と日本軍の分断を図った。

この心理作戦遂行のため、情報部は沖縄での空中散布用に五百七十万枚のリーフレットを印刷。米軍上陸後にまかれたあるビラの文面を紹介しよう。

 皆さん達の家はこわされたり、畑や作物は踏み潰され又元気盛りの青年は殺され、沖縄の人は皆口に言えぬ苦労をしています。内地人は皆さん達に余計な苦労をさせます。……日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしたりしている事は皆さん達に明らかでしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯貴方達は、内地人の手先に使われているのです」(世界日報より)

全島に降り注いだ紙の爆弾の効果はてき面だった。


■沖縄と日本との分断工作■

ニューヨーク・タイムズはアレクサンダー・ロバーツ伍長の談話を次のように掲載している。

 <生き残った人々は、アメリカ兵から食事を施されたり、医療救護を受けたりすると驚きの目で感謝を示し、何度も何度も頭を下げた。「鬼畜米英の手にかかるよりも自ら死を選べ」とする日本の思想が間違っていたことに今気がついたのであろう。それと同時に自殺行為を指揮した指導者への怒りが生まれた。そして七十人の生存者のうち、数人が一緒に食事をしている処に、日本兵が割り込んできた時、彼らはその日本兵に向かって激しい罵声を浴びせ、殴りかかろうとしたので、アメリカ兵がその日本兵を保護してやらねばならぬほどだった>

  ≪かくして、沖縄県民の心には徐々に、米軍ではなく日本軍が敵であるという認識が植え付けられていくのである。

   「沖縄人」と「内地人」を離間させ、対立を煽(あお)る「宣伝ビラ」の配布、方言による声の投降勧告の上で、米軍が行ったのが、戦場下で逃げ惑う民間人の救出だった。保坂廣志氏は、この民間人救出に、数千人もの軍政要員と、沖縄系二世が動員されたと指摘している。≫(「世界日報」10月30日記事)

『鉄の暴風』が書かれた戦後5年目の沖縄は通信手段や交通手段さえ現在とは比較にはならない。

バスやタクシーが未だ無いので、交通手段は勿論電話や取材用の紙さえ米軍に頼らざるを得なかった。


■不可思議な取材活動■

『鉄の暴風』著者太田氏の取材の様子を世界日報は次のように報じている。

≪さて、太田氏はこの反論連載(沖縄タイムス掲載の曽野綾子氏への反論)の中で『鉄の暴風』の取材期間が「三ヶ月、まったく突貫工事である」と書いている。≫

現役記者のK氏は、取材活動でケータイは勿論PC、カセットテープを駆使し、移動手段も飛行機、電車、車、場合によってはミニバイクに乗って取材活動している。

『鉄の暴風』の取材方法については、同業者として次のように疑念を呈している。

≪記者二人で、三ヶ月の取材で書き上げた分量は四百字詰め原稿用紙で750枚前後に及ぶ膨大なものだ。 しかも離島だけではなく、本島の北から南にまでの兵隊や住民の動向を取材の視野に入れている。・・・・果たして証言内容を精査、吟味する時間をどれほど持てたのだろうか。≫

だが、読者の疑念は次の事実で氷解する。

『鉄の暴風』は証言内容の精査、吟味は不要であり、

米軍がその機動力で一か所に集めた都合の良い「証言」者から聞き取るだけで済んだからである。

何故なら『鉄の暴風』発刊の主旨は著者がいう「歴史の記録」というより、「住民と日本との分断」という米軍の意図の下で発刊を許可されていたからである。

ちなみに当時の沖縄で全ての出版物は米軍の発した「二ミッツ布告」による事前の検閲が必要であった。

ニミッツ布告
1945(昭和20)年3月26日公布
正式名称、アメリカ海軍軍政府布告第1号
アメリカ軍の慶良間諸島上陸の時、アメリカ太平洋艦隊司令長官
チェスター・ニミッツ元帥によって公布される
北緯30度以南の南西諸島及びその周辺海域における日本政府の行政権と司法権を停止し、アメリカ軍の占領下におくことを宣言
アメリカの沖縄占領の実質的根拠となる
1966(昭和41)年まで存続


■米軍協力で集められた「証言者」■

昭和25年、那覇市の今で言う国際通りの国映館界隈は未だ道路も舗装されておらず米軍トラックが通ると埃が朦々と立ち込める悪路であった。

埃っぽいその道路から奥まった一角に在った某旅館に「集団自決」の証言者と称する人たちが集められた。

米軍の協力の下、実際に動いて証言者を集めたのは、沖縄タイムス創立の1人座安盛徳氏であった。

『鉄の暴風』の著者が不備な交通手段や通信手段を使わなくとも済むように、座安氏は先ずその旅館に「証言者たち」を集め、取材の準備を万端整えた。

そして『鉄の暴風』の連載を企画し、その後、単行本実現に米軍情報部との強力なコネを通じて影の力を発した。

その結果、太田氏は現地取材することも無く、一か所に集められた「関係者」からの聞き取りだけで「裏付け」をとることもなく、『鉄の暴風』を著したのである。

太田氏の取材は当時としてはある意味で、比較的容易に行われ、それが後日「伝聞取材」であると批判される原因になる。

一方影の著者とも言える座安氏のやったことは、「関係者」を集めるとは言っても、電話も交通手段も不備だった昭和25年当時の沖縄で、全島から「関係者」を一か所に集めることは至難の業で米軍の機動力の支援なくしては出来ない仕事であった。


■「伝聞記事」に対する太田氏の反論■

著者の太田氏は沖縄タイムス昭和六十年四月十日付で「座安氏の活躍」について明言している。

後にこれをまとめて出版した『戦争への反省』の中で、この「関係者」の取材が伝聞取材だったと問われたことに対して、次のように弁解している。

≪直接体験者でもないものが、あんなにくわしく事実を知っているはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないもの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。  永久に残る戦史として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私は、そんな不真面目な態度でのぞんではいなかった。≫((戦争への反省」225頁)

いやぁ、本職の記者でもない素人の筆者が読んでも、「~はずがない」とか、

「記録者(記者)は・・・でたらめではない」とか、

「新聞社が真剣に・・・」とかは子供の言い訳にしか取れないのだが・・・。

取材の基本は「裏づけ」だということは素人でも思いつくことだが、『鉄の暴風』の取材方針は「性善説」に徹しているようで、

詳しく知っていれば体験者のはずだ」、

「新聞社や記者はでたらめでもなければ、不真面目でもない」と主張することで伝聞取材説への反論としているのは驚きだ。

『ある神話の背景』(『集団自決の真相』と題して再版)の著者曽野綾子氏は、太田氏の上記の反論を、「子供の弁解」とは言わないまでも「素人のたわごと」と斬り捨てている。

「いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」。

太田氏の弁明は素人からは「子供の言い訳」と取られ、曽野氏からは、「素人のたわごと」と一蹴された。

至言である。

「関係者」を旅館に集め取材のお膳立てをした座安盛徳氏は、後に沖縄タイムス専務、琉球放送社長などを歴任した人物で、米軍占領後沖縄を襲った巨大台風「グロリア」の被害処理を通じて米軍情報将校と個人的に強力なコネクションを持つようになっていた。

このように『鉄の暴風』は影の執筆者とも言える座安氏の米軍との個人的つながりの下に、

全ての資料は事前に準備されていたのである。

取材は現地に居なかった「関係者」の証言だけで充分だったのだ。

沖縄タイムス設立の目的は米軍のプロパガンダであり、

「日本軍を悪し様に罵って沖縄住民と日本との永久分断を計る」

という米軍の意図が広く沖縄中に浸透すれば、

『鉄の暴風』出版の目的は達せられたことになる。

 

初版から62年経った現在、『鉄の暴風』は今でも沖縄県民の日本への憎悪を煽り続けている。

恐ろしきはマッカーサーの62年殺しである。

 

◆参考エントリー:

「沖縄人は日本人にあらず」 占領米軍の分断工作工作

「マッカーサーの三年殺し」【再掲】

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沖縄戦秘話、高山大尉の「反乱」、那覇高生の命を救う

2018-07-02 06:35:36 | ★集団自決

 

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沖縄戦で多くの男子生徒が動員され戦死した。

動員された生徒の戦死者は次の通り。

師範学校 224人

一中(現在の首里高校) 210人

二中(現在の那覇高校) 143人

いずれの学校も戦火の激しかった那覇地区に在ったため、日本軍と行動を共にし、戦死者の数も他地域の生徒に比べ多かった。

ただ、その中で二中の戦死者の数が少ないのが一際目を引く。

二中の戦死者の少ないのは単なる偶然ではなかった。

その秘密を解く鍵は、軍事教練のため二中に配属された高山大尉の「想定外」の行為にあった

そして「想定外の行為」に加担した三人に教師は、この秘密を墓場の中まで持ち込むことを誓い合った。

だが、しかし・・・・・。

 

続・二中の恩人高山大尉2010-09-03よりの引用。(一部編集)

古いエントリー記事を読んで感想や激励のメールをいただくことがある。

ブロガーとしては最新エントリーのアクセスも気になるもの。

だが、古い記事を読んでいただいて感想文をメールしていただくことはブロガー冥利に尽きる。 その瞬間は「人気ランキング」などどうでもよい気になってしまう。

前に県立2中(那覇高校)の配属将校・高山大尉のご親族の方からメールをいただいた。

「2008年12月19日の記事について、お礼を申し上げたく突然のメールお許し下さい」という書き出しで始まるそのメールには概ね次のようなことが書かれていた。

高山 代千八(高山大尉ー引用者注)は私の祖父(母方)にあたります。

祖母は戦時中悪い事をした人の妻と言われ、多くを語らずにいましたが、今回、貴方様のブログを拝見し祖母へ読んで聞かせたところ、涙をためて感謝しておりました。
また、私達孫世代も改めて戦争というものを知るきっかけとなりました。>

最後に丁重な文体で当日記への感謝を表し文を結んでいた。

少し古いが2008年高山大尉について書いた記事を紹介する。

なお文体の怪しい部分は一部訂正してある。

沖縄の学生を救った配属将校・高山大尉

当日記を愛読していただいている方には再三の繰り返しで恐縮だが、しつこいのを承知であえて反復掲載させていただく。

最近の沖縄2紙を見るたび、沖縄戦で戦った日本兵は、米兵を敵にして戦ったというより、むしろ沖縄住民を虐殺するために戦ったような印象を受ける。

「残虐非道な日本兵」と印象付ける記事を教材に使った「平和学習」として授業で教える教師もいる。

マスコミの扇動にのった地元大学生は、同じく「日本兵の悪行」を訴える演劇を上演し、沖縄教育界が一丸となって日本兵の悪行を糾弾している現状である。

■全国から20万人もの兵士が沖縄に集結した■

沖縄戦には日本全国、北は北海道から南は鹿児島、そして地元沖縄からも数多くの若者が兵士として動員され、その数は実に20数万人にも及ぶ。

現在のおよそ半分の約60万前後の人口しか居なかった当時の沖縄で、この20万人という数字は島中に兵隊が溢れていたといってもおかしくはない状況であった。

だが、いつの世でも人間にはいろんな種類の人がいるもの。 

20万人もの人間が沖縄に集結したら、中には「悪さ」をする人が出てきても不思議ではない。

日本兵の中に不届きな日本兵が一人もいなかったとは思わないが、はたして沖縄紙が報じるように日本兵は犯罪者集団のように沖縄住民に危害を加えたり略奪だけをしていたのか。

いやそうではない。

日本兵に救われた沖縄人も多数居た。

だが、「日本兵極悪説」のイデオロギーにまみれた沖縄2紙が報道しないだけの話である。

ところが沖縄タイムスも、戦後のある時期までは日本兵と沖縄住民との心温まる交流談や日本兵に命を救われたといった回顧証言も報道されていた。

その頃までは沖縄2紙も、「沖縄住民を助けた心優しき日本兵」の記事を報じる余裕があったのだ。

昭和56年12月20日付の沖縄タイムスに次のような記事がある。

 

ニ中の犠牲が少なかったのは配属将校の勇気ある決断

「ニ中の鉄血勤皇隊に犠牲者が少なかったのは、配属将校・高山代千八大尉(鹿児島県出身)の勇気ある行動があったから・・・」-さる10月、本紙夕刊連載中の「私の戦後史」に掲載された城間盛善氏(77)=沖縄市胡屋13、城間学園校長・当時ニ中英語教師=は、このような沖縄戦秘話を公表した。 連載終了後、鹿児島地裁判事をしている長男の盛俊氏(47)を通じて高山さんの遺族を捜していたが、14日鹿児島に遺族がいるという連絡が入った。 
城間氏は当時のもようを「私の戦後史」にこう書いている。

“ニ中の鉄血勤皇隊は、初め戦闘予想地域である南部の高嶺村に配置される予定だった。 しかし、高山大尉は、前途ある若者を無為に殺したくはないと思われたのだろう。 連隊区司令部会議で「ニ中は校舎が焼けたので、金武小学校へ移動した」と強引に主張。 それで、急転直下、北部へ配置換えになったのである。
ところが実際には、まだ移動していなかった。 高山大尉の言葉を裏付けるため、実績を作らなければならない。 移送係だった城間氏は、急いで生徒を北部へ送った。 
高山大尉はニ中に赴任する前、ガダルカナル島の戦闘に参加した経験を持っていた。 おそらくアメリカの強力な設備、偉大な戦闘力を知っていたのだろう。 悲劇を見通していた高山大尉の英断は、さらに続いた。
城間氏が後を追って金武に着いた時は、既に勤皇隊は解散された後。 「勤皇隊の参加承諾書に親のなつ印をもらって来い。だが米軍の上陸は間近だから、無理に帰隊することはない」と、高山大尉が合法的に親元へ帰していたのだった。 南部地区に配置された一中と師範が多くの死者を出したのに対し、ニ中はどれだけの若い命が救われたかしれない。 
城間氏が長い間、口を閉じていたのは、高山元大尉の気持ちも考えてからだった。 合法的で軍規律に反するものは何もないが、あの時代には裏切り行為ともとられかねない。 もしかしたら発表されたくないのでは、と思っていたという。 この事実を知っていたのは、校長と教頭、城間氏の三人だけ。 だがその中で生き残っているのは城間氏一人になった。 「いつか言わなければ事実が埋もれてしまう。 そこへ戦後史執筆の依頼。 本当にいいチャンスを作ってくれた」と話す。 
新しい秘話だけに、反響は大きかった。 二中卒や勤皇隊の人たちはは、「そんな裏話があったとは・・・」と驚いているという。(「沖縄事始め・世相史事典」編著 山城善三
)≫

                  ◇

ニ中の学生が戦火の少ない北部に急遽配置換えになり、多くの学生の命が戦火を免れたが、一方激戦地の南部に配置された一中(現在の首里高校)の学生には多くの犠牲者が出た。


一中の学生の戦没者を顕彰する碑文。

「一中健児の塔」の画像検索結果

 

 

多くの戦没者を顕彰するのも大事なことだが、高山大尉のように犠牲者を出さないように努力した人のことも我々は忘れるべきではない。

記事に出てくるニ中(県立第二中学)は、現在の那覇高校で筆者の出身校であるが、多くの先輩が配属将校・高山大尉の勇気ある決断により命拾いしたことは聞いた事はなかった。

本来だったら「ニ中勤皇隊の命の恩人」として高山大尉の顕彰碑を、校庭の片隅にでも建立してバチは当たらないだろう。

高山大尉のような軍人の人間的行動を顕彰したり、記事で紹介することは、

現在の沖縄の風潮では「戦争を賛美する」として、イデオロギー論争にすり替えられてしまう。

激戦地のガダルカナルでの米軍の壮絶な攻撃を経験した高山大尉が、配属将校として赴任したニ中の学生たちをむざむざ死が待っている南部への配置することを不憫に重い、嘘をついてまで強引に、安全な北部へ配置転換させた。

この重大な「軍事機密」を知っていたのは「首謀者」の高山大尉と学校側では校長、教頭そして移送係りの城間先生の三人だけであった・・・・。

三人の先生は「軍事機密」を墓場の中まで持ち込むことを誓い合った。

だが校長、教頭が次々物故する知らせを受け、一人残された城間先生は遂に誓いを破る決意をする。

これは決して「戦争賛美」のドラマではない。 

平和な時代にも戦争の時代にも自分のことより他人の命を慮り勇気ある行動をする人がいる。

高山大尉と三人の先生の「秘密」は「戦争賛美云々」を超越し、人間の心優しさを訴える人間ドラマである。

 

                       ◇

高山大尉のご親族の方から丁重な感謝のメールをいただいたので早速お礼の返事を出し高山大尉の生前のお話など知らせて欲しいと申し出た。

だが、高山大尉は昔の武人らしく生前、奥様(祖母)にも沖縄戦のことは一切話しておらず、記事に出てくる城間さんの勇気ある証言によって家族一堂(祖母も母達も)知ることができたとのこと。

そして、偶然閲覧した当日記によって祖母をはじめ親類一同が、改めて祖父の勇気の大きさを知る事ができたとのことで、高山大尉に関する新しい話は残念ながら聞くことはできなかったが、返信には次のようなことが書かれていた。

多くの犠牲になられた方々、そのご遺族のお気持ちを考えると、私達が堂々と話す事ではないのかもしれません。

ただ、祖父の勇気に身内ながら感動しました。」

「祖母は昨年だったと思いますが、沖縄へ母の妹と旅行。沢山の写真を片手に今でも思い出話を聞かせてくれます。」

いまどきの人間なら自分のやったことを針小棒大に宣伝するのが通常だが、ダルカナルの激戦や沖縄戦を経験した高山大尉は、生き延びた奇跡を喜びより、散華した戦友のことを考え、家族にも語らず寡黙な一生を過ごしたのではないかと推測する。

特に沖縄戦に関しては、沖縄紙を中心に異常とも思えるほどの日本兵バッシングを見聞きし、複雑な思いのまま亡くなられたと思うと、一人の沖縄県人、いや日本国民として心が痛む。

だが、遅まきながらも高山大尉の奥様が、ご主人様の武人らしい行動を知ることが出来、晴れ晴れとした気持ちで沖縄旅行を楽しむことが出来たと知って少しは高山大尉へのご冥福に寄与できたと感じ、沖縄県民として救われた気がした。

 

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侘び状

2018-07-01 07:39:04 | ★集団自決

本部壕発見で詐話師登場!2008-09-26

沖縄では、「援護金」の話が話題になると、ごく自然に次のような会話が交わされる。

「○○さんが貰っているのは本物の援護金だよ」

本物があるということは偽物の援護金があるのか。

こんな話も聞いた。

「○○さんのお父さんは戦前から片目が悪かったが、戦後は戦傷で目をやられたとして援護金をもらっていた」

おそらくこのような「偽」の援護金もごく普通に支払われていたのであろう。

それが、座間味島、渡嘉敷島のように集団自決が絡み、これに「軍命の有無」が問題になると話は更に複雑になってくる。

集団自決した人達は、それを軍命令による戦死ということにして、これまでに遺族一人当たり1億円以上の補償金が支払われている。http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu5.html

「「軍命令」という嘘が早期に是正されなかったのは、遺族援護法の適用を受けるために厚生省への報告で隊長命令があったことにしたという事情のためであります。それによって国から半世紀にわたり、集団自決した遺族の方々に一人当たり1億円の年金が支払われてきました。」

石原昌家沖国大教授に調査によると、渡嘉敷島、座間味島では軍命に関係なくまた、戦闘参加者でなくとも多数の戦没者とされた者が補償金をもらっていることが判明している。

「現認証明」と称する無審査同様の他の住民の証明で次々と「偽の援護金」が支払われた。

「体験者の口は重く・・・沈黙した」といった証言記事が良くマスコミを飾るが、

「偽者」と「本物」の援護金の実態解明が歴史の真相解明のキーポイントになると思われる。

 

以下引用の記事は、係争中の裁判の「事件現場」ともいえる「日本軍本部壕」が63年を経過して初めて確認されたことを報道している。

証拠もないのに「関係者」のあやふやな証言のみで、梅澤隊長を「軍命をくだした男」と断罪した勢力。

63年前、今回発見されたこの壕で米軍の猛攻に耐えたこの裁判の原告の梅澤隊長。

真相解明の困難さを象徴するようなニュースである。

座間味で壕群確認/旧日本軍本部跡か【社会】 画像あり

日本軍の本部と見られる壕の前に立つ宮村文子さん(右)と吉田春子さん=23日、座間味タカマタ

4カ所最長6メートル/住民ら、63年ぶり

 沖縄戦で「集団自決(強制集団死)」が起こった座間味島で、日本軍の海上挺進第一戦隊が使ったと見られる壕跡群が二十三日までに見つかった。戦時中安全な場所を求め周辺の壕に隠れた宮村文子さん(82)=座間味村=らが六十三年ぶりに確認した。宮村さんや、近くまで登った山城功さん(75)=宜野湾市=は、奥行きが六メートル余りある最長のものが「本部壕ではないか」と証言している。(安里真己)

 壕は座間味小中学校から東側のタカマタと呼ばれる丘陵部の急な斜面にあった計四カ所。

 内部が確認できる三カ所は硬い地面を掘り、いずれも天井はアーチ状で、高さ百八十センチ弱、幅九十センチ程度。奥行きは一メートルほどのものから六メートル余りで内部は直線だった。ほかの一つは入り口がふさがっている。二つの壕は三メートルほど離れて並び、あと二カ所はさらに斜面をよじ登った位置にあり、入り口の前は平らな広場状。

 座間味の戦争体験の聞き取りをしている沖縄女性史家の宮城晴美さんによると、日本軍の壕の周辺には地元の人が安全だと思い壕を掘ったが、米軍上陸前に危険だと日本兵に言われ別の場所に移動したという。

 宮城さんは「日本軍の壕と住民の壕の位置関係がはっきりすれば、軍と民との関係がより明確に浮かび上がるのではないか」と話した。

 当時壕の周囲は段々畑で戦後は焼け野原になっていたが、現在では木が生い茂って枯れ葉が積もっており壕の入り口まで、簡単に登れなくなっている。

 宮村さんは、教科書検定問題などで「集団自決」が取り上げられ、昨年から長男らと壕の確認を始めた。今年春にも一度、捜しに来たが、方角を見失い、たどり着けなかったという。

 この日、吉田春子さん(82)=座間味村=らと壕を確認した、宮村さんは「当時を知る人が少なくなっている。もっと早く確認するべきだったかもしれない」と話した。

 山城さんは「ずっと未確認だったので発見されてよかった。記憶通りだった」と指摘。その上で「昨年の教科書問題以降、関心は高まっている。子や孫にきちんと事実を伝えていくためにも調査や整備をする必要がある」と話した。

                   ◇

マスコミが報じる日本軍と住民は、加害者と被害者というお互い憎悪しあうに報じられるが、人目に触れることのないミニコミ誌に書かれた証言者達の随想には本音が書かれており、マスコミ報道とは逆であると書いた。

渡嘉敷島玉井村長の手記、沖縄タイムスが報じない

強制された富山証言 旧軍人との交流を記す手記発見!

続・強制された富山証言 もう一つの富山眞順手記

>宮城晴美さんによると、日本軍の壕の周辺には地元の人が安全だと思い壕を掘ったが、米軍上陸前に危険だと日本兵に言われ別の場所に移動したという。

 

宮城晴美氏も指摘するように、米軍上陸を目前にして「兵隊さんが守ってくれる」と信じた住民は軍基地の近くに集まったが、「兵隊さん」は特攻が任務であったため迎撃の装備はしておらず、とても住民を守るような余裕もなく別の場所に移動させたり、追い返したりしたのが真相である。

とても自決命令を出して、武器弾薬を配布するような余裕などなかったというのが真相である。

なお壕を発見した宮村文子氏は座間味の集団自決を指導したとされる宮里盛秀助役の義理の妹で、戦後「援護金」の支給に奔走した村役場総務課長で宮里盛秀氏の実弟宮村幸延氏の妻である。

「真実」認定に安堵 宮里の遺族

宮村氏は梅澤氏に「詫び状」を書いた人物である。

以下「援護法」と「特段の配慮」のカラクリより抜粋引用です。

 

慶良間島の「集団自決」に関しても,村役場の総務課が地元の窓口となり,

総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走を始める。

「援護法」は講和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。

■「軍命」の持つ意味の変化■

「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。

「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、

それまでの「軍命」は、「援護法」のための口裏あわせというより、

親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や贖罪意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。

つまり心中で生き残った者が、死んだ相手や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。

少なくとも、当時の座間味村助役の山城安次郎氏が、「渡嘉敷島の赤松の暴状」を訴えて沖縄タイムス大田記者の取材を受けた昭和25年前後には、

「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。

ところが、琉球政府援護課や村役場の担当課が、厚生省援護課と交渉していく過程で「集団自決」の「軍命」は別の意味を持つようになる。

元来「援護法」は「復員処理」の目的があり、対象者は戦地での戦死者か外地からの引揚げ者で、しかも対象は軍人・軍属と限られていた。

そこで琉球政府援護課と村役場が、地上戦が行われ戦場となった沖縄に「特別の配慮」をするようにとの運動を展開する。

だがこれには問題が生じてきた。

たとえば、本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならず、沖縄の一般住民に「特別の配慮」をした場合の齟齬が問題になったのだ。

日本政府は「政令」を連発するという非常手段でこれを乗り切った。

政令とは、行政府の命令のひとつで内閣が制定する成文法のことで、行政機関が制定する成文法である命令の中では優劣関係で最も高い位置づけになる。

日本政府は復員事務を処理する必要から、沖縄本島を中心とする南西諸島は政令で「戦地」と認定した。

元々軍人・軍属を対象にした「援護法」を沖縄の民間人に適用させるために政令を連発したが、それでも足りない場合は「援護法」の拡大解釈を行った。

一例を挙げると、地理に不案内な軍に道案内をした場合でも、結果的にその住民が戦死しておれば、「軍命」とされ「準軍属」扱いで遺族は年金の対象になった。

軍の命令というお墨付きが付けば「集団自決」は勿論のこと、他にも「食料供出」や「漁労勤務」という名目でも「準軍属」扱いとなった。

かくして、1983年には軍の命令が理解されるとは思われない0歳児から6歳までの幼児も「準軍属」扱いとされるようになる。

 ■宮村幸延総務課長の奔走■

座間味島の助役で、事実上「集団自決」を命令したとされる宮里盛秀氏の弟で、戦後村の総務課長として「援護法」の適用に奔走した宮村幸延氏は、この0歳児以下の適用に功績があったとして村で表彰されている。

ちなみに宮村氏は梅澤元隊長に「侘び状」を書いていながら「酔わされて書いた」として前言を翻した人物である。

また、昨年の法廷尋問のわずか一ヶ月前に証言して、宮城晴美氏の考えを変えた宮平春子氏は宮里盛秀、宮村幸延両氏の妹である。

「集団自決」に「軍命があった」ということは「事実の如何」を問わず、戦後の村にとっては、どうしても押し通せねばならぬ真実を超越した、必要欠くべからざる「証言」であった。

宮平春子氏の証言「動画」
⇒ 『日本軍の強制による集団自決 はあった!』証言2.3.4

                    ◇

 

 
 
 
《 証言  座間味村遺族会長

昭和20年3月26日の集団自決は梅澤隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命令として申請した、ためのものであります

右 当時援護係 宮村幸延 捺印

 

梅澤裕 殿

昭和62年3月28日 》

(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編著 PHP研究所)より)

「宮村 侘び状」の画像検索結果

 

 

                    ◇

この「侘び状」を自筆捺印して書いた宮村幸延氏は、後に「泥酔させられて書いた」ので記憶にない。従って無効であると主張し判決もその主張を認めた。

もしこの「侘び状」を有効と認めたら、援護係りの宮村氏は死んだと思われていた梅澤隊長の命令を、30数年間もの間偽造し、「公文書偽造」、「公金横領」を島ぐるみで行ったことを認めたことになる。

どんな理由を見つけてでもこの「侘び状」の内容を無効にする必要に迫られた宮村氏と村当局は、苦肉の策で「泥酔云々」と強弁し、それはめでたく判決で認められることになる。

同じく、この「侘び状」の存在で当初衝撃を受けた沖縄タイムスは、「侘び状の無効化」で座間味村当局と共同戦線を張る。

■水掛け論の決着には一枚の文書が・・・■

人間社会に争いは付き物である。 中でも「言った、言わない」の決着には、証言、証拠を準備せねばならず、一筋縄ではいかないのが世の常である。

一旦謝罪をしておきながら、後に都合が悪くなり前言を翻し、「謝罪した覚えがない」と開き直られると、「詫びた、詫びない」の水掛け論となる。

だが、そこに一枚の自筆捺印の「侘び状」があれば、水掛け論は一件落着する話である。

裁判の証拠物としても自筆捺印の書類が有効であることは論を待たない。

日本のお役所は書類重視主義である。

 

                    ◇

■三位一体の公金横領■

さて、『渡嘉敷島「集団自決」の真相』の後書きの石川水穂氏の解説に話題が飛ぶ。

また昭和六十二年三月、集団自決した助役の弟が梅沢氏に対し、「集団自決は兄の命令で行われた。私は遺族補償のため、やむを得ず、隊長命令として(旧厚生省に)申請した」と証言した。 (略)

 後に、この問題に興味を持った私は平成十五年三月、中村教授とともに、厚生労働省援護課を訪ねた。担当者は「昭和三十二年の現地聞き取り調査で、軍命令によって集団自決したという裁定を下し、犠牲者全員を援護法の対象にした。最近、一部報道などで、軍命令がなかったという話も聞いているが、再調査はしない」と回答した。行政側がいったん下した決定を容易に変えようとしない日本の官僚の姿を思い知らされた 》(『渡嘉敷島「集団自決」の真相』)

                     ◇

■政府主導の「公金横領」■

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法性の疑いも充分考えられる強引な拡大解釈をしている。

違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

■援護金業務での宮村幸延氏の功績■

座間味村役所の援護係・宮村幸延氏は、援護法の折衝のため何度か上京しており、その結果、軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満児から0歳児でも、63年以降準軍属として確定することになったようである。

そしてそのときの宮村氏の努力は現在も座間味村役所に宮村氏の「功績」として記録に留められていると言う。

現在公式には厚生労省に「軍命を付した援護法の申請書」の存在はないということになっている。

当時の厚生省の「拡大解釈」は、拡大を通り超して「違法解釈」と言われても仕方がない。 

つまり当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理である。

■宮村が「侘び状」を書いた理由■

元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。

おそらくは『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、援護担当の宮村氏は梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していたのではないか。

そして、宮村氏は、死んだはずのお富さんならぬ梅澤さんが生きていると知って驚天動地の心境だったのではないか。

何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたとしたら、「公金横領」は厚生省の指導による共同責任だとしても、公文書偽造の個人責任はまぬかれない。

梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのではなかったのか。

ところが、その後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻すことになる。

その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力が推測される。

■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■

それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できることである。

その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。

ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。

梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。

「軍命派」の総本山の沖縄タイムスとしては、「誤記」に対する謝罪要求に動揺はしたが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。

沖縄タイムスは次のように考えた。

富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題であるが、梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。

そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。

そこで、タイムスは確認の時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。

驚いたのは座間味村当局。 宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。

そこで苦労の結果考え出した結果はこうだった。

最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。

沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。

結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、新川明氏を安堵させることになる。

約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。

そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えたことは容易に想像できる。

沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。

「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。

一方の梅澤氏は、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている上、宮村氏の「侘び状」まで持っている余裕からなのか、

座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。

「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)

その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もせずに、このような余裕の発言をし、

村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。

事実その後交渉は打ち切られている。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美)

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

 

【おまけ】

政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。

その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大教授の論文はこれ。

政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

コメント

再論・集団自決、変節漢の専門家吉浜忍沖国大教授

2018-05-23 08:17:36 | ★集団自決

 

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 沖縄県政の刷新を求める会より

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 当会は、地政学的に大変重要な沖縄県が、我が国の安全と発展に寄与できるように県政の刷新を行う為に発足致しました。
 活動の中心は、県内にある不正・不当、県民や国民の不利益になる事案を取り除くため、法律を盾とし証拠を鉾として権力の座にある議会と行政を糺す活動を行います。
 ご協力頂ける方に裁判経費や活動のご支援をお願い申し上げます。(現在、「翁長知事国連訴訟」(1次、2次、3次)及び「県警検問違法訴訟」を提訴中です)

沖縄県政の刷新を求める会

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  • 記号:17010
  • 番号:19246121

 

沖縄のイカレタ団体が推薦したノーベル平和賞に似非学者の石原昌家沖国大名誉教授が含まれていると知り、そのインチキ理論を批判した。

今回は県史「沖縄戦」の編集責任者吉浜忍沖国大教授の変節理論を俎上に上げよう。

沖縄タイムスが子ども向けに発行する「わらびー」5月13日付は16ページに及ぶ「沖縄戦」特集を組んでいる。

その中で吉浜教授が子どもたちを相手に「反日沖縄戦」を説いている。

一々取り上げるのは面倒なので、過去ブログ「沖縄戦を歪めるNHK! 変節漢の専門家を登用2015-01-09を引用して吉浜教授の「変節沖縄戦」を批判する。

                ☆

NHK沖縄が、戦後70周年を迎えこのような特集番組を組むという。

70年の節目に沖縄戦を検証するのは結構だが、沖縄2紙に加えてNHKまでもが「反日サヨク史観」にどっぷりの番組で県民を誤誘導するのは勘弁してほしい。

 

 

昨日のNHK沖縄のおきなわHOTeyeの「沖縄戦の研究者に聞く」で、沖縄2紙の御用学者・吉浜忍沖国大教授が登場し沖縄戦の授業のことを述べていた。

関連記事はこれ。

沖縄戦を体系的に講義 沖縄国際大、定員超える希望者

琉球新報 2014年6月8日 

沖縄戦について体系的に学ぶことを目的に開講した沖縄国際大学の『沖縄戦』の授業=3日、宜野湾市の同大

 怖い、暗い、かわいそう―沖縄戦の悲惨な事実を前に「感想」だけで終わらせない平和教育の在り方として学生の注目を集めている講義がある。沖縄国際大学(宜野湾市、大城保学長)が4月から共通科目として開講している「沖縄戦」の講義だ。定員の150人に対し230人が受講を希望するなど関心も高い。週1回の講義は毎回ほぼ満席だ。
 同大では、これまで歴史の講義の一部で沖縄戦を扱うことはあったが、沖縄戦だけに焦点を絞ったのは初めて。当時の日本軍の記録など1次資料を活用し沖縄戦を体系的に学ぶ。担当する吉浜忍・総合文化学部社会文化学科教授は「『沖縄戦』という科目は全国的にも珍しいのではないか」と話す。
 3日のテーマは離島の沖縄戦だ。「宮古空港があった場所はもともと何があったか分かりますか」。吉浜教授の問い掛けに、首をかしげる学生の姿も多く見られた。吉浜教授は、日本軍が山の少ない宮古島を飛行場の適地として着目し、旧海軍飛行場を造ったことを指摘。今の宮古空港は同飛行場跡だと説明した。
 全学科全学年が選択できる共通科目。定員150人に対し230人が受講を希望。抽選の結果、定員を超える170人の登録を認めた。
 吉浜教授は同講義の開設理由について「ある意識調査で『沖縄戦を学びたい』と回答した県内の若者が8割もいた。今のままでは不十分だと感じているということだ。ニーズはある」と語る。県内と県外の学生が平和や基地問題を討論する際、課題も感じていた。「県出身の学生は県外の学生に議論で圧倒的にかなわない。戦争や平和への豊かな感性は持っているが感性だけでは議論はできない」と吉浜教授は指摘する。具体的、客観的な情報に基づき、体系的に沖縄戦を学ぶことで、感性を生かしながら沖縄戦への理解をより深めることができるはずだと考え、開設を決めた。
 受講している同大2年の照屋愛実さん(19)は「小中高では体験者の講話が中心で、軍の組織や国の狙いなど戦争の仕組みについては知らなかった。イメージ中心だったこれまでの学習と、大学での講義が結び付き、沖縄戦の実態が見え始めてきた」と話す。3年の嘉数大将さん(21)も「先生自身が掘り起こした資料なども使い、なぜ戦争が起きたのかをひも解いていける感じがする」と話した。(仲井間郁江)

                 ☆

吉浜忍沖国大教授は「集団自決論争」では過去に沖縄戦の専門家として頻繁に沖縄紙に登場したが、「軍命あり派」⇒「軍命なし派」⇒「軍命あり派」と、沖縄2紙のの論調が変わる度にそれに追随する節操のない「沖縄戦研究者」である。

吉浜氏については、当日記で過去に何度も批判しているが、とりあえずその一例をサルベージして紹介する。

 

八重山教科書問題について書いた「突然の発狂は教科書問題の目くらまし!2012-02-24の【おまけ】で吉浜教授を批判の俎上に乗せてある。

             ☆

【おまけ】

※ 左翼の巣窟沖国大で、新聞に迎合し「変節」を繰り返す吉浜忍教授について・・・。

集団自決に関する「転向学者」は枚挙に暇がないほどだが、1人だけ例を挙げる。

■二転三転の集団自決の「定説」■

座間味島の集団自決は「隊長命令による」という「定説」は、集団自決の生き残り宮城初江氏によってもたらされた。

初江氏は、その後それが「援護金」のために強制されたウソの証言であったことを娘晴美氏に書残した。

娘晴美氏が母の遺言である『母の遺したもの』(2000年12月)を出版することにより「定説」は逆転し、「隊長命令はなかった」が新たな「定説」となった。

「集団自決訴訟」提訴の5年前のことである。

沖縄戦研究者の吉浜忍沖国大助教授(当時)は、琉球新報に『母の遺した』の書評書いて「〔書評〕『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』宮城晴美著」 「定説」とは違う真相語る (隊長命令はなかった)吉浜忍(2000年12月24日・琉球新報)として、研究者の立場から新しい「定説」を補強した。

「書評」で吉浜教授が、争点の「隊長命令」では「命令は無かった」と、従来の「定説」とは違う真相を解説している。

琉球新報 2000年12月24日

『読書』 『母の遺したもの』 宮城晴美著

「定説」とは違う真相語る

座間味島は、沖縄戦の前哨戦であり、悲劇の始まりでもあった。 悲劇の象徴が「集団自決」であり、今日まで「悲劇の物語」として語られてきた。 そして、物語の核心部分の「隊長命令による集団自決」には著者の母親の証言が有力な根拠となった。
当事者によるものであっただけにこの証言は大きな影響を与え、様々な出版物に引用されたり、粉飾されたりして。やがて「定説」化していった。 「隊長命令による集団自決」を一つの争点にした家永教科書沖縄出張裁判も記憶に新しい。
「定説」は時には善意によってつくられることもある。 座間味島「集団自決」の「定説」には、沖縄戦で戦死や負傷した一般住民に対する「援護法」適用問題が絡んでいた。 「集団自決」においては「軍との雇用関係」、すなわち隊長命令があったとすれば「援護法」が適用され、遺族は救済される。
この根拠として母親の言質がとられた。 母親の戦後苦悩はここから始まる。 さらに関係者との板ばさみで苦悩は助長する。
そして母親は死を前に、娘への遺言として、「定説」とは違う真相を語った。 隊長命令はなかったと。
本書は、戦後世代の娘が母親と真剣に向かい合い。 苦悩を共有しつつある、かつ執念をもって真相を究明し、「定説」を覆した。 戦後世代の沖縄戦継承が問われている今日、戦後世代が沖縄戦を二次体験として、体験証言を検証し次世代へ継承するという著書の姿勢は今後の指針になるであろう。(略)(吉浜忍・沖縄県文化振興会史料編集室主幹)

更に新しい「定説」に、沖縄タイムスがお墨付きを与えることになる。

『母の遺したもの』が沖縄タイムス出版文化賞を受賞するという栄誉と共に学術的にも社会的にも「隊長命令はなかった」が確固たる新「定説」となった。

〔沖縄タイムス 12月12日〕
第22回沖縄タイムス出版文化賞受賞作品が決まる

2001年12月12日・沖縄タイムス・朝刊
 正賞:『アンヤタサー』山里将人著
、『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』宮城晴美著

■提訴後の変節■

座間味島の集団自決の「定説」がタイムス、新報によって認知されたわけだが、この「定説」は2005年の「集団自決訴訟」によって、再び揺らぎ「隊長命令はあった」と元の「定説」に逆戻りする。

それに従って研究者達の「定説」も次々と姿を変えてくる。

例えば沖縄タイムスの「書評」で『母の遺したもの』は「『定説』とは違う真相を語るー隊長命令はなかった」と書いた吉浜氏の変節ぶりはこの通り

沖縄タイムス2008年年11月18日

[魚眼レンズ]吉浜忍さん
沖縄戦の事実しっかりと

 「集団自決」訴訟の控訴審で原告の訴えを退ける判決が出たことについて「一審判決を踏襲したもの。おそらく原告勝訴にはならないと考えていた」と話す沖縄国際大学教授の吉浜忍さん。「当然の判決」と強調する

 「カリキュラム上の問題で突っ込んで話はできなかった」と断りながら、自ら講義でも学生に対して同判決について触れ、説明したという。

 「沖縄戦の歴史的な事実関係をしっかり丹念に教えることが大事。学生は逆にスローガン的、感情的なものではなく、事実を踏まえた沖縄戦を学びたいという気持ちが強い」と指摘。

 「今後もこれまでの沖縄戦の証言を継続的に教えていきたい」と気を引き締めている。

沖縄では、新聞が作る「定説」には、たとえ研究者といえども逆らえないということが、吉浜氏の変節ぶりから垣間見える。

吉浜氏は以前書いた「書評」のことはすっかりお忘れになったようで、沖縄タイムス紙上で再度豹変した「定説」を激しく主張している。

2007年3月31日『沖縄タイムス』朝刊27面を転載。

沖縄戦 ゆがむ実相

 高校教科書に掲載された沖縄戦の「集団自決」の実態が国によって隠された。文部科学省は、今回の教科書検定で「軍命の有無は断定的ではない」との見解を示し、過去の検定で認めてきた「集団自決」に対する日本軍の関与を否定。関与を記述した部分の修正を教科書会社に求めた。同省が変更理由に挙げたのは「集団自決」をめぐる訴訟での日本軍の元戦隊長の軍命否定証言と近年の「学説状況の変化」。文科省の姿勢に、県内の関係者からは「沖縄戦の実相の歪曲」「殉国美談に仕立て上げている」と批判が出ている。
 沖縄戦研究者の吉浜忍沖国大助教は「検定意見で日本軍の『集団自決』への関与がぼかされたが、軍隊が誘導したのが実態だ」と沖縄戦の実相を指摘する。その上で「国によって沖縄戦が書き換えられた。これまでの研究や調査を逆転させようという政治的意図を感じる」。(略)

                    ◇

現在沖縄タイムスと琉球新報が捏造した「定説」に真っ向から異論を唱えている星雅彦氏と上原正稔氏が、事実上沖縄論壇から干された状態にある。

これを考えれば、沖縄の識者たちが、次々と沖縄二紙に追随し、変節していくのもむべなるかなで、同情の念を禁じえない。

沖縄の学者さんたちは変節しなきゃ生きていけない。

お気の毒。(涙)

 

【おまけ】

吉浜教授の講義を受けた沖国大卒の読者が、貴重なコメント。

 2015-01-09 07:29:11

私、沖国卒でこの教授の講義を受けていました。当時右とか左とかも分からない私は、沖縄戦についての考えを書く試験で、被害者意識はあまり良くないみたいに書いたら非常に点数が低く、地雷を踏んでしまったなーと思った記憶がありますね。
この教授は、他の感情むき出しの教授などと違い、感情をなるべく出さずに(今考えると情報操作が散りばめられていたのは容易に想像できるが)
明るくジョーク好きだったので、これまで言えなかったことを書いてみようと思って書いたんですが、ダメでしたね。

卒業後数年経って、ガチサヨだと分かりました。

 

 

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コメント (2)

再論・集団自決!石原教授の致命的証言!援護法申請で

2018-05-22 13:30:56 | ★集団自決

 

 

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 沖縄のイカレた団体に推薦された石原昌家沖国大名誉教授がノーベル平和賞にノミネートされという。

沖縄戦を歪めた似非学者がノーベル平和賞にノミネートとは。

ブラックジョークにしても度が過ぎる!

石原氏といえば昨年発刊された県史「沖縄戦」の執筆を担当したことで知られるが、県史「沖縄戦史を歪めたことでも有名である。

以下はブログ「石原教授の致命的証言!援護法申請で2012-01-29 」を一部編集した引用です。

昨日述べた「援護法」に絡んで「沖縄靖国訴訟」で石原昌家沖国大名誉教授氏は、原告住民側の証人として証言台に立った。

石原氏の「致命的証言」について、報告する。

先ず援護法の概略を知る参考に、古い沖縄タイムスの記事を引用する。

<沖縄タイムス 2005年3月4日 朝刊30面>

戦闘参加者とは誰か](6)
申請
「救えるものは救おう」
役場職員も事務研究

 一九五七年、厚生省は、沖縄戦で亡くなった一般住民のどのような行動が「戦闘協力者」として、該当するかを調査した。その後、実際の受け付け業務は、琉球政府から委託され、各市町村役所が担当した。

 申請の過程でも、援護法が「軍への協力」を前提としていたため、そのことが、強調されていくこととなった。

 長嶺秋子さん(70)=糸満市=は五三年、兼城村役場(当時)の初代の援護係に着任し、その後八年間担当した。

 援護法の申請手続きは、兵隊や現地召集の防衛隊など軍人軍属が先だった。

 「軍人の場合は、政府から一次名簿というのが届いていた。しかし、戸籍がなく、仮戸籍で受け付けた。防衛隊の場合は名簿もないので、各字を回って、誰が隊員なのかを申告してもらった」

 地域の公民館に机を置き、住民が申請に来るのを待った。「援護金の支給があると言っても、なかなか信用してもらえなかった。『戦争のことは思い出したくない。辛いことを思い出すからやりたくない』。そんな声が聞こえてきた」と振り返る。

 その後に、一般住民が対象となる「戦闘参加者」の申請が続いた。

 申請には、戦没者氏名、生年月日、死亡月日、死亡場所に加え、どのようにして亡くなったかを記した「戦闘参加概況書」を添付する必要があった。

 職員は、概況書を基に、「戦闘参加者」の基準となる二十項目、「義勇隊」「直接戦闘」「弾薬運搬」「戦闘協力者」などの、どれに当たるのかを判断した。

 申請は、琉球政府を通して、厚生省援護局未帰還調査部に送付。厚生省は、添付資料を基に、「戦闘参加者」に「該当」するのか、否かの審査をした。その結果を「戦闘参加該当予定者名簿」として、市町村に送り返され、該当遺族に通知が送られた。

 厚生省へ送付される「戦闘参加概況書」では、住民が協力した、軍隊の部隊名も特定する必要があった。住民の立場からすると、混乱した戦場での正確な記憶が求められるのは、土台無理な話だった。しかし、書類はそれを要求していた。

 結局、申請を受け付けた役場職員が、日本軍の作戦状況を把握して、日時場所から、部隊名を記入することもあった。

 市町村の援護課職員は事務研究の連絡会をつくり「戦闘概況」について、どう記せばいいのかを検討し、連携したという。長嶺さんは「琉球政府の方針も、沖縄は復帰できるかも分からない、援助できるものは援助しようということでした」と振り返る。

 同村役場三代目の援護課担当だった大城美根子さん(62)は六五年に着任。当時の業務は、「戦闘参加該当予定者名簿」の中から、「『非該当』の人を『該当』となるように救うことだった」と振り返る。「沖縄戦で亡くなった人たちが、救えないのはおかしい。亡くなった人たちは、皆『戦闘協力者』だと思っています」と語る。(社会部・謝花直美)

                          ☆

裁判所に提出した上原さんの陳述書見れば自明だが、琉球新報の「言論封殺」は慶良間島の集団自決の真相にターゲット絞っており、集団自決は「援護法」に大きく絡んでいる。

簡単に言えば本来軍属にのみ適用されるはずの「援護法」を政府主導で強引に沖縄住民に適用するように政令を発して特例を設け、住民の中の「戦闘参加者」を適用対象としたのである。

「援護法」の申請の流れはこうだ。

住民(遺族)⇒各市町村の援護課⇒琉球政府⇒厚生省援護局

そして各担当部門で出来るだけ「『非該当者』を『該当者』となるように救う」という思惑が働いた。 

昨日紹介したように厚生省側でも祝嶺さんのような沖縄出身者を担当職員に配置転換し出来るだけ「援護法』の適用させるように指導した。

当初は市町村の窓口でも申請書の記入などに不慣れな職員が多く、多くの申請書が厚生省側から突き返されたという。 

だがそれには厚生省側の「受理されるノウハウ」の指導が付いており、結局要領を掴めば簡単に「戦闘参加者」として受理れ援護金支給の対象となった。

政府(厚生省)、琉球政府、各市町村の三者が「出来るだけ受理する」という思惑で動けば、その申請手続きの過程で、どうしても該当しない申請者に虚偽の申請をするものが出てきても、見て見ぬふりをする。 それどころ積極的に「偽造申請書」に加担する者も多かった。 組織ぐるみで加担した場合も多かったと聞く。

援護法」の研究者を自認する石原昌家沖国大名誉教授は、申請書を書けない住民に代わって申請書を書く手伝いをしたと語っている。 

この石原氏、援護法の研究だけやっておればそれなりの評価をされたのだろう。

だが、沖縄で名声を得るには反日左翼複合体に迎合する必要を感じた。

イデオロギー丸出しの論調で新聞紙上を賑わし「集団自決」訴訟では被告の大江・岩波側の弁護に回った。

そして「軍命派」の論陣を張った。

その一方で「沖縄靖国訴訟」では原告(遺族)側の証人となって法廷で証言をした。

その際、イデオロギーと研究の狭間でついうっかり自分の現在の立ち位置を見失ってしまい致命的発言をしてしまった。

石原氏は、沖縄戦で犠牲になった住民を靖国に合祀するため政府主導で「軍命による自決」などの「戦闘参加者」を作って援護金を与え口封じした、という趣旨の意見書を提出し、証言台では次のような趣旨の証言を行った。

被告側弁護士:石原先生の説明ですと、沖縄の遺族の中で援護金を貰っている人の中には本来、もらう資格が無い方々が多く含まれているということですか?」 

石原証人:   「いえいえそうではありません。ほとんどです」

被告側弁護士と石原証人との尋問で、石原証人は次のことを証言したことになる。

■石原証言のポイント

1)戦闘参加者という受理条件を与えるために、日本政府がその基準に合うように暗に指導していた。

2)日本軍が住民に命令や要請を受けた時点で国と住民に雇用関係が発生すると考えで、積極的な戦闘協力をした、と指導した。

3)壕の提供は、軍事行動であり、現認承認があれば軍属と認める。

4)厚生省から突き返された書類は、結果的に書き換えて受理となった。

5)援護法の実態を解明することは、沖縄戦の事実を引き出すことになる。

               ☆

この証人尋問が、極悪複合体(反日左翼複合体)にとって何ゆえ致命的なのか。

石原氏は別の裁判である「集団自決訴訟」では大江・岩波側を支援し「軍命あり派」の論陣を張った。

その一方、「沖縄靖国訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であり、国がそれを指導したと主張した。 

ということは法廷で軍命は虚偽だったと証言したことになる。

石原氏の証言に関しては反日左翼複合体の側からも批判の矢が飛んでいると聞く。

だが、結局、石原氏法廷での宣誓の通り、真実を語ったことになる。

真実を語ったため「集団自決」は軍命であるという持論を結果的に石原氏自ら否定してしまったのだ。

もっともこの石原氏の致命的証言は、琉球新報、沖縄タイムスが報道するはずもなく、法廷記録として残っているだけである

結局、石原氏の証言を要約すると、援護法と靖国合祀は、住民を死に追いやった戦争責任を回避するための口封じという「恨み辛みの歴史観」になる。

【おまけ】

<沖縄タイムス 2005年3月6日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](8)
東京の目
援護法での救済に腐心
「生かされた」責任感じ

 沖縄戦で看護隊として亡くなった女子学徒は、援護法で「準軍属」にあたる。一九五五年、女子師範学徒八十八人に、死亡公報が発せられた。それに基づき、援護法申請の手続きが取られていった。

 申請書類をめくると、女子師範、一高女、寮で一緒だった同級生や下級生の名前が記されていた。審査にあたった厚生省職員の祝嶺和子さん(77)=静岡県=は「寮で枕を並べた友達が、死んでいるんだから。絶対救わなくちゃいけない。そんな気持ちがありました」。当時の悲しみが再び込み上げて、言葉を詰まらせた。

 「でも、それだけやったから、私はね、自分が生きてもね、みんなには『お前は来なかったな』と言われないで済むと思っていました」

 夫、正献さんの生前の口癖は「特攻隊で自分の友達も皆、死んだ。自分らは生き残ったから、国のために何かやれということなんだ」。名護にいた幼少時から空手を学んでいた正献さんは、六三年に空手を基にした武術「躰道」を本土で広めることに努めた。

 「自分は生き残った」という思いを持ち続けた祝嶺さんは、沖縄戦で犠牲になった人々を援護法の対象として救うことに、心を傾けていった。

 一般の住民は逃げ回っていたのではないか。軍人が住民にも一緒に戦えと命令したのか。軍人が「自分たちが使うから、おまえたちは出て行け」と言って、住民を壕から追い出した―。

 「戦闘参加者」として、一般住民の申請書類が上がってきた時に、厚生省で批判的にみる人もいた。

 祝嶺さんは振り返る。「逃げ回っていた人もいたと思う。でも、そういうと沖縄の人が救われない。『戦闘参加者』として参加したんだと、はっきり言った」

 沖縄戦では、住民と軍隊が混在した。三カ月にも及ぶ戦闘の中で、一人の人間の死に至る過酷な体験は問題にされることはない。援護法の適用で、注目されるのは「軍への協力」、その一点だ。

 書類の審査で難しいケースについては、最終的には沖縄戦体験者の祝嶺さんのところに、回ってくるようになった。

 「軍への協力」が必要と、入り口を絞られた書類の上の沖縄戦。戦場で同じような行動をしていても、書き方一つで住民は「戦闘参加者」か、そうでないかに分けられる。

 「事実を書いてあるのだが、書類では通すことが難しい事例がある。だから、ほかはこのようにして通っているのだから、これと同じような書き方でと、そうちらっと教えた覚えはあります」

 「今からいうとおかしいかもしれないが、自分は生かされた。死んだ人はどうしても救わないといけないという、責任みたいなもんがあった。私はただ、沖縄の人を救えばいいという気持ちだった」(社会部・謝花直美)(毎週木―日曜日に掲載)

 

 

 

 

 

 

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再論・集団自決、法廷で証言!石原昌家氏、「自決軍命は虚偽」石原昌家氏、

2018-05-22 10:49:55 | ★集団自決

 

 

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前の記事でノーベル平和賞に、暴力男の山城博治被告や暴力おばぁの島袋文子氏がノーベル平和賞にノミネートされるとは、県民をバカにしていると書いた。

 

翁長知事、山城議長らノーベル賞にノミネート 県内から8氏2団体 琉球新報 2018年5月21日 18:24

 

 
 8氏は翁長知事と山城氏のほか、元知事公室長の高山朝光氏、沖縄国際大学名誉教授の石原昌家氏、元読谷村長の山内徳信氏、沖縄戦の遺骨収集を続ける具志堅隆松氏、辺野古新基地建設に反対する島袋文子氏、元白梅学徒の中山きく氏。
【琉球新報電子版】

 

だが、ノミネートされた8人に中に沖縄国際大学名誉教授の石原昌家氏が含まれているのを見て、平和に貢献した大学教授の印象を持つ人がいる可能性がある。

だが、石原氏こそ沖縄戦を歪曲し、「集団自決は日本軍の命令」というデタラメ流布させた張本人である。

過去記事を引用して石原教授にデタラメを暴いてみよう。

以下は過去記事「法廷で証言!「自決軍命は虚偽」石原昌家氏、2013-07-16 」の引用です。

 

 

■世界日報 7月15日掲載

【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(7)
靖国合祀取消で原告証人/
「自決軍命は虚偽」と証言


   集団自決は、沖縄だけではなく樺太や満州でも起きていた。それでは、なぜ沖縄の集団自決だけが大きく問題にされるのだろうか。 理由の一つが「援護法」の沖縄県民への拡大適用。もう一つが沖縄タイムス社編「鉄の暴風」(朝日新聞)、大江健三郎著「沖縄ノート」(岩波出版)などの沖縄戦関連書籍による元隊長に対するいわれなき誹謗(ひぼう)である。
   集団自決で特に問題にはならなかった沖縄本島中部の金武村(きんそん)(現在の金武町)では、援護金申請の依頼を受けた村の指導者が、すべての申請書に「軍の命令による」と記入し、命令を発した軍人の名を「田中軍曹」という架空の名前を使用した。

   架空の軍人を申請書に書いて援護金の受給を受けた成功談は、戦後金武町教育委員会町史編纂(へんさん)室に務めた奥間俊夫氏が高橋秀美著「からくり民主主義」(新潮社)の中でこう証言している。

   <もらえるものはもらいなさい、という役所の指導があって病気や空襲で死んだ人たちの遺族も便乗して申請したんです。申請書類には誰の命令で行動したか、を記入する欄があるんですが、なぜかほとんどが“田中軍曹”でして、調べてみるとそんな人は実在しないんです。>

   「援護金」を受給するために“田中軍曹”という架空の日本兵をでっち上げ、村民が「口裏合わせ」をしたことで金武村の場合は丸く収まった。

   しかし、この場合、「戦闘参加者概況表」で示された集団自決の地域(座間味村、渡嘉敷村、伊江村)には該当しない。援護法が拡大適用され、それが黙認されたことが分かる。

   一方、渡嘉敷、座間味両村の場合は、実在の梅澤裕氏と赤松嘉次氏を「軍命を下した日本兵」と明記したため、その後に大きな問題を残した。歪曲(わいきょく)・捏造(ねつぞう)された証言も一旦、公的刊行物に掲載されると公式見解としての「沖縄戦史」として独り歩きすることになってしまう。

   石原昌家沖国大名誉教授は、「沖縄靖国合祀(ごうし)取消訴訟」では原告(遺族)側の証人となって法廷に意見書を提出した上、証人にもなっている。石原氏は、沖縄戦で犠牲になった住民を靖国に合祀するため政府主導で「軍命による自決」などと「戦闘参加者」をつくって援護金を与え口封じした、という趣旨の意見書を提出した。

   ところが被告側弁護士の尋問で「歴史の改竄(かいざん)」について次のような証言をした。


 <被告弁護士 「事実と異なる内容の申請書を最初から出して、何の問題もなく適用された人も当然いますよね」

 石原証人 「そうです。圧倒的ですよ」>

 
   「戦闘参加者」という援護法の受理条件を与えるため、「虚偽記入」を指導して援護法を適用させた事実を認めた。

   石原氏は、「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側を支援し「軍命あり派」の論陣を張った一方で、「沖縄靖国合祀取消訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であると主張したのだ。

      (「沖縄戦の真実」取材班

                ☆

沖縄メディアに登場する日本兵は、鬼の形相で幼児を抱く母親を銃剣で威嚇する蝋人形(沖縄県平和祈念資料館)が象徴するように、米軍と戦うというより沖縄住民を虐殺するために沖縄に派遣されたかのような印象さえ与える。



さらに、沖縄県民は常に被害者で日本軍は敵である、という主張が延々と続く。いちいち蝋人形で場面を再現しなくてもよさそうなものだが、とにかく悲惨だ、悲惨だ、ひどい目に遭った、と感情論に訴える展示が続く。

実際はどうだったのか。

典型的な日本兵の暴状として頻繁に証言される「壕の追い出し」は、一般住民を米軍の馬乗り攻撃から守るためだった。 

米軍の馬乗り攻撃とは、壕の上に米軍が馬乗り状態になり壕の中に潜む日本兵の火炎放射器、手榴弾などで攻撃し、日本兵の全滅を図る攻撃。

その際民間人が壕に留まったら、玉砕の巻き添えを食うことになる。

 

以下に出典を記して、「援護法と軍命の捏造」の実態を列記する。

■出典:那覇市史2-6 島尻郡旧真和志村戦争記 8頁(戦争と市民生活198頁)

証言者:金城 嘉味(明治32年生)

    金城 光順(明治26年生)

    比嘉 康進(明治20年)

内容: 

【金城 嘉味】空襲の時には区民は各自で掘った防空壕や墓などに入ったが、区民の大部分は戦車壕に避難した。私も戦車壕に入ったが、二十年三月二十五日にここを追い出された。その日壕の入口から海を見たら、一面米軍の艦船で埋まっていた。一緒にいた兵隊から「米軍はここに上陸するかもしれないから、一般民は出ろ」といわれて戦車壕から出された。それから私たちは国頭に行った。壕を出てからの行動は皆バラバラであった。夜は艦砲射撃がないとわかったので、昼間は寝て夜だけ歩いて四月一日に大宜見村の根路銘に着いた。

【金城 光順】私は戦車壕を出てからチブガーバル(壺川原)の親戚の墓に行った。そこに一ヵ月位住んでいた。そこにいる時には墓の入口に畳をたててあったので、それで爆風をまぬがれることもあった。米軍が勢理客に近づいた時に、軍命令によって玉城村に行けといわれた。

【比嘉 康進】私は戦車壕に入らず、石部隊の兵隊と一緒に協同で掘ったナーチュの壕にいた。壕には七家族,三十七人が隠れた。戦いが激しくなってからは、毎晩十人位の兵士が斬り込みに出かけたが、帰ってくるのはほとんどいなかった。斬り込み隊員が出かける時には、同僚たちは「斬り込みにいったらけがをしてはだめだよ、死んで帰ってこいよ」と励ましとも慰めともつかない見送りをしていた。

 石部隊が全滅したので、かわって球部隊がきた。彼らは壕に入ってくると私たちに「壕から出て行け」といったので、「出ない」といったら「殺すぞ」と脅迫した。―略

 

■優しかった兵隊さん

那覇市史第2巻中の6

114頁、公募原稿・市民の戦争体験沖縄戦32頁

8少年時代の悲惨な戦争体験    那覇市識名五 玉城秀時

昭和20年5月下旬頃、識名部落から西方凡そ六百米の大石森から機関銃の銃声が聞こえて来たので、私達は日本軍の機関銃の銃声だと思い込んでいたら日本の兵隊さんが、その銃声は敵だから君達は南部へ避難しなさいといって道順まで教えてくれた。識名東原を通り通称泊下橋を渡り現在の四十四号線に出た。そこに与那原へ向かっておよそ百米の地点で、日本の兵隊さん約三十人にであった。その際私達に向かってみなさん元気でなあ、と声をかけてくれた。その時兵隊さん達は鉢巻をしていたが、武器らしい物は持たず、なにか爆薬らしい小さな遺骨箱の様な物を持っていて、みんな歌を歌っていた。―略―

■その他、壕からの善意の追い出し

*6月18日 ひめゆり学徒の居た第三外科壕で比嘉軍医は、学徒に解散を命じ壕から出てゆくようにたしなめたが、なかなか出ようとしない学徒を追い出す為に日本刀を抜き、出なければ斬ると脅し出した。 出なかった者たちは米軍のガス弾で戦死した。

 

*沖縄第六十二師団 特設警備第二二三中隊 永岡敬淳隊長は、6月22日山城(旧喜屋武村)に集結したものわずか四名遂に負傷し戦闘する力尽き自決する。

永岡隊長は暗い壕の中で手探りで一人びとり握手され「ご苦労さまでした。君たちは若い、死んではいけない!捕虜になりなさい。アメリカ軍は君たちをころすようなことはしないと思う。だから武器を(手榴弾)捨てて出なさい」と、「隊長さんは?」と訊くと、「私は、沢山の部下を失ったので・・」とおっしゃったあと、懐から数珠を出され、私たちの無事投降を祈られるように、「安子、生きて私の家族に巡り逢うことがあるはずだから、この数珠を預かってくれ。よろしく頼む」と私の首に掛けられました。それから、「だれも私の後について来るな」と言われ壕の出口方向に行かれました。多分そののち自決なさったと思います。(翁長安子)

*野戦病院長小池勇助隊長(少佐)は、6月26日真壁村糸洲の壕から積徳高等女学校の学徒に解散命令をだした。

「長い間、軍に協力してくださりご苦労だった」「・・・決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてくれ。」と言われ看護隊一人一人と別れの握手をされた。

 

 

■壕の追い出しは、県民を救う為に行なったものである

 

 1、 西平 守盛 元警視正(沖縄戦当時 警部補)玉城村付近一帯受

 

「銃突き付け日本兵は、住民を救うため」

 

 「ひらめき」14号21頁(国旗国歌推進沖縄県民会議会誌)平成12年2月11日

 

米軍の飛行機は「非戦闘員は、知念半島に避難せよ」という趣旨の「ビラ」を摩文仁方面で撒いた。それで、日本兵は、壕の中にいる住民に、「知念半島は安全だから壕を出て知念半島に行け」と言った。しかし、住民は聞き入れなかったから「銃突き付けたら聞き入れるだろう」と思って銃突き付け「出て行け」と言ったのである。・・・日本兵が自分の身の安全を図るために、沖縄住民を犠牲にしたと曲解して、「日本兵は悪者である」と悪宣伝しているのが、沖縄の現状である。

 

  *ビラを拾った人は、壕の外に出て行動した人々であり、より勇敢な人たちだった*

つづく

【おまけ】

「白旗の少女」として有名な比嘉富子さんは、1フィート運動の記録映画にでてくる自分の映像を利用し、「白旗を掲げる少女を盾に投降する卑劣な日本兵」の汚名をそそぐ為発刊した自著で、日本兵の壕追い出しについて次のように述べている。

(比嘉さんが壕に潜んでいたら、日本兵が入ってきた。)

以下引用。

5、6人の兵隊さんがやって来て、「どけどけ、ここでまもなく戦闘が始まるぞ!はやくほかえいけ!」とどなりました。わたしは夜になるのを待ちきれず、まだ日のあるうちにぬけ出し、あちこちのガマ(壕)からガマへとわたって、「ネェネェ、ネェネェ(オネーチャン・引用者注)」といいながら覗いては、先にガマに住んでいる人から、シ、シとまるで犬か猫のように追い出されるしまつでした。」

(負傷兵がいる壕に逃げ込んだ比嘉さんに、日本兵が語りかける。)

「『ねぇ、そこの」女の子。逃げるならいまのうちよ!もうすぐ、入り口をふさいで、爆弾でみんながしぬのよ。 それとも、わたしたちといっしょに死ぬ?』 わたしは、ぴくっと体をふるわせて、あわててガマをとびだしました。そしてできるだけ遠くへ逃げようと崖をおりました。 しばらくすると、うしろで大きな爆発音がして谷間にごうごうとこだましました。」

 

 

 

 

 

 

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集団自決研究の一級資料公開!45年前の星雅彦氏の手記

2018-05-20 05:34:22 | ★集団自決

 

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 5月18日、那覇地裁近くの「ジョイフル」で、上原正稔、星雅彦、と筆者を含む有志5人が会食した。

会食の目的は上原正稔、星雅彦両氏の激励会だ。

最近世界日報に「歪められた沖縄戦史」を連載し始めた上原正稔さんを激励すると同時に約半世紀以上前に、慶良間島の集団自決の生き残り住民から聞き取り調査をした星雅彦さんが膨大な資料の整理を始めたことに対する激励のゆんたく会。

だが、実際は談論風発、論議は脱線に次ぐ脱線で、止め処も無く広がった。 縺れた糸を解きほぐすのに疲労困憊、再会を期して2時間ほどで解散した。

 以下は過去ブログ集団自決研究の一級資料公開!45年前の星雅彦氏の手記2014-05-07 の引用である。

 

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏が沖縄の知識人の中で誰よりも早い時期に、渡嘉敷島と座間味島で集団自決の生き残りの聞き取り調査をしたことは、当日記で再三紹介した。

ご本人はその当時の心情をうらそえ文藝」(14号2009.5)の上原正稔との一問一答で次のように吐露している。   


  

 うらそえ文藝 第14号 (2009年5月発行)
                     
  特別企画 薩摩侵攻400年
  座談会 琉球文化の交流と成熟
       -薩摩侵攻から琉球以上は-
       田名真之・豊見山和行・小野まさ子・星雅彦
   
  特集 集団自決 
  対談 上原正稔VS星雅彦
     

 星 (略) 
 「また、四〇年ほど前に渡嘉敷島と、座間味島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初校に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしっくりせず隠しているなと感じたものです。隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。私は七一年の「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど、わざとぼかして書いた。ある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。(略)」(タイムスを恫喝した男 2012-06-27 )

さらに当時の取材の模様を雑誌「潮」(1971年11月号)に寄稿しており、集団自決の真相を知るための貴重な資料として当日記でも何度か引用させてもらった。

 例えば過去ブログの沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届けるでは次のような一節を紹介している。

 《村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

               ☆

慶良間島で起きた集団自決研究の第一級資料とも言える星雅彦著の雑誌「潮」(1971年11月号)掲載手記が、ヒジャイ出版の季刊誌「沖縄内なる民主主義5号」にその全文が掲載されている。

雑誌「潮」が入手困難な現在、今回の収録は今後の集団自決の検証にとってきわめて貴重な資料になる。

さらにその全文をヒジャイ出版の又吉義隆さんがブログで公開したので、当日記も早速これを全文紹介させて頂いた。

以下は「沖縄に内なる民主主義はあるか」の引用です。

星雅彦氏は一九七一年に軍命はなかったことを書いていた


星雅彦氏は一九七一年に軍命はなかったことを書いていた
「沖縄内なる民主主義5」の「軍命はなかったのになぜ集団自決は起きたか」から転載した。
星氏が軍命令はなかったことをすでに知っていたことが分かる。

集団自決について掲載しているサイトを探していたら、偶然、星雅彦氏が一九七一年に書いた「集団自決を追って」を掲載しているサイトを見つけた。「集団自決を追って」を読んで驚いたのは、集団自決は軍の命令ではないと書いてあることだった。一九七一年は前の年に「沖縄ノート』(著者:大江健三郎)が出版されて「集団自決」は軍命令であったと沖縄の人たちに広がっていた時である。その時に、軍命令はなかったことを沖縄の作家が書いていたのだ。驚くべき事実である。
私はWEBで「集団自決を追って」の出所を調べた。すると一九七一年十一月号の雑誌「潮」に特別企画・「沖縄は日本兵に何をされたか 」に掲載されていたことをつきとめた。同時に掲載してあったのが前号の「沖縄内なる民主主義4」に掲載した赤松嘉次氏 (元海上挺進第三戦隊長)の「私は自決を命令していない」である。前号でも赤松戦隊長が自決命令を出していなかったことを証明したが、星雅彦氏の「集団自決を追って」でも赤松戦隊長が自決命令を出していないことを書いている。それだけではない。赤松隊長が自決命令を出していなかったにも拘わらず村民が集団自決をしたいきさつも書いてある。非常に貴重なドキュメントである。
私は星雅彦氏にお願いして、「集団自決を追って」をこの本に掲載させてくれるようにお願いした。星さんは快諾してくれた。それだけでなく、「雑感」を書いてくれた。


雑感
私が沖縄戦に関心を抱き、執筆するようになったのは、一九六九年の夏頃からだ。県資料室長の名嘉正八郎から「沖縄県史」戦争記録の仕事の依頼を受けたのがきっかけである。早速「沖縄県史第九巻 沖縄戦記録1」に収めるための録音・テープお越し、文章化の仕事などに取り掛かった。
 そのためには事務局の方でセットした各市町村へ出向き、戦争体験者たち数人が区長宅へ集められ、座談会形式で戦争体験を収集するところから始めなければならない。
 多くの話者は痛ましい話ながら坦々と語ったが、ためらいがちに訥々と語る人や、思い出しながら切羽詰って涙ながらに語る人も居た。それでも話し終わった人々の顔は、すっきりとした安堵感が漂っていたと思う。
 現在も証言集の作成は続いているが、四十年前とはかなり違っているようだ。昨今、戦争の話の中に政治やイデオロギーが絡み合って複雑な話し手の心境が伺えるのだ。
 例えば、何かの話の内容に疑惑が入り込んでいたり、虚構性の対象にされたりする。事実らしく書いてあっても事実でない場合があったり、嘘っぱちを書いていながら、事実として受け取られる場合が少なくない。
その点からすると、昔の「潮」(一九七一年十一月号)に私が執筆した「集団自決を追って」は率直そのままの記録だと思う。ただ、周辺の革新系の友人たちに多少気兼ねがあったようで、ふがいなくも私は若干逃げ口上を記してしまった。「悲劇の再現とは、口はばったい言い種である。ただひたすら二十六年前(一九四五年)の悪夢を想像してみたままである」と付記したが、それでもその説話スタイルの中に真実が込められているだろうと自負している。
 
 数年前のある日、大田昌秀氏から電話があって、「あの内容は現地で調べて書いたのか」と問われた。私は「泊りがけで調べました」と答えた。大田氏との対話はそれっきりである。
 集団自決を現地で調べた私には一種の使命感があった気がする。


星雅彦
 


雑誌「潮」一九七一年十一月号
特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか
集団自決を追って

ドキュメント
集団自決を追って
星雅彦(作家)

(本稿は私が当時の村長や駐在巡査や若干の村民から取材した集団自決の内容を、私なりにまとめ、悲劇の再現を試みたものである。いな、悲劇再現とは、口はばったい言種である。ただひたすら二十六年前の悪夢を想像してみたまでである)
  目次
砲弾とどろく渡嘉敷島
米軍上陸で動揺する村民
闇の雨中を西山盆地へ集結
"玉砕するしかない"
「みんな一緒に死のうね」
修羅場と化した西山盆地

二十六年前(一九四五年)に、沖縄戦の最初の上陸地点、慶良間列島の中の渡嘉敦島で、想像を絶するような陰惨な悲劇があった。それは、日本の末端の皇国の民の、玉砕という名のもとに引き起こした"集団自決。である――

砲弾とどろく渡嘉敷島

集団自決があったのは、前夜の雨がやんだ後のくもり空が、茂った木の葉の間から見える西山盆地の雑木林の中で、三月二十八日の午後一時ごろだった。
三月二十三日には、初めての本格的な空襲で、村の役場や郵便局が焼けたので、ほとんどの村民はそれぞれの壕に避難したり、荷物を運んだりした。二十四日も空襲で、二十五日には、艦砲射撃も加わって、島は遠く近く砲弾のとどろく音と地鳴りにあけくれた。
夜になって、無気味な静けさの中で、防衛隊が二人、壕の入口まできて、ウシ(三十七歳の主婦)に向かって「阿嘉島にアメリカーが上陸したそうだ」「阿嘉島の人たちは、みんな玉砕したそうだ」と知らせてくれた。三人の子供をかかえたウシは、この渡嘉敷島の暗い運命を予感して、大変なことになったと思った。

古波蔵村長(三十三歳)は、在郷軍人であった。このさい、日本軍に協カして戦いたい気持ちもあったが、日本の特幹隊は遠くトカシクに本部をおいていて、すぐに行けもせず、また彼は家族といっしょに壕に避難していたので、家族のことも気になって、何度も壕を出たりして、若い青年たちを走らせ情報をキャッチすることに努めていた。が、阿嘉島がやられているとは聞いたが、玉砕したとは聞いてなかった。
安里駐在巡査(二十九歳)は、沖縄本島に妻子を置いて単身一月下旬に赴任したばかりで、島の地形も日本軍のこともよくわからなかった。しかし彼は二、三日前から、赤松隊長を探し出すために、トカシクの山の中を歩き回っていた。日本軍の動きはあわただしく、阿波連に向かって移動していたので、馴れぬ山道をあっちこっち歩いたが、二十五日も二十六日も赤松隊長には逢えなかった。

大本営からの阿嘉島は玉砕した(注.誤報であった)という情報は、安里巡査の耳にも入っていた。誰から聞いたかは憶えてないが、とにかく、巡査よりも村民のほうが先に、戦況やそうした近海の米軍の動きなどをよく感じ取っていた。
敵の軍艦が慶良間海峡に侵入していることは山の上から見ればすぐわかったが、大町大佐が阿嘉島から阿波連の海岸に立ち寄ったということは、極秘中の極秘のはずだが、防衛隊が彼に教えてくれた。安里巡査はあせっていた。小学生まで陣地構築に協力してきた村民が、これから先どうあらねばならぬか、安里巡査は赤松隊長に相談したかったのだ。村長も一刻も早く隊長と相談してこいということだった。

翌二十七日も砲弾のとび交う中を、腰にぷらさげたサーベルをカチャカチャ音させて歩き回り、やっと西山のほうへ移動したばかりの赤松隊長の居所をつきとめた。その間に、出会った防衛隊や朝鮮人軍夫や村民から、特攻舟艇の破壊作業のことや、米軍の上陸や、日本軍が迎撃する交戦の模様を、伝え聞いた。
支那(北支から中支)で軍隊生活をおくった経験のある安里巡査は、これまでに阿度か軍隊生活を話題にし、日本軍が「こっぴどく支那人をやっつけた」ことを話したことがあったが、あの残虐なことが、あすはわが身にふりかからねば幸いだがと、ふと不安に思った。なにしろ兵隊たちの間から、米軍の捕虜になったら間違いなく戦車で礫き殺されるという風聞が出ていて、それは疑う余地がないようだった。

ただ一方には、日本が最後には勝つ、という信念があった。がしかし、それは惨澹たる道程の果てに、最終的に勝利の結果を産むという、悲壮な意味を含んでいて、自分たちは犠牲にならねばならぬかもしれぬという気持ちが同居していた。そうした心情は村民の一般的傾向であった。

米軍上陸で動揺する村民

三月二十六日の朝、米軍が阿波連から上陸したことが村民に知れたったとき、村民のほとんどは動揺し、壕から壕へ移動した。

ウシは子供たち(長女十二歳.二女七歳.長男三歳)を連れて、屋敷内の壕から、港に向かって西側の川向こうの山の麓の壕に行った。そこにはすでに二家族が入っていた。その家族の中の十六、七歳になる少年たち二人が、あわただしく出たり入ったりして落ち着かず、しきりに死ぬ覚悟で何かしなければならぬといったりしていた。竹ヤリを持ち歩く姿は、頼もしい感じであった。ウシたちは、ガテカル(嘉手刈)の壕で一夜をあかした。

翌二十七日になると、敵が攻めてくるのが感じられたし、阿波連から避難してきた人たちも敵が押し寄せてきていると話していたので、ウシたちは、ウンナガーラ(恩納川)近くに叔父たちが掘った壕があるのを思い出して、そっちへ向かった。その途中で、山のほうのミーヤーの上のところで、アメリカーが何やら作業しているのが見えた。

ウンナガーラのイチャチチというところの壕に着いたら、叔父や十八歳になるその息子は「いざとなったら、天皇陛下万歳をいって死ぬんだ」と語し合っていた。けれども、敵機の爆音は、ひっきりなしに聞こえるし、遠くから砲弾の炸裂音が近づいてくるように聞こえるので、みんなひどくおぴえていた。ウシは「死ななくても、すむよ、友軍がついているから大丈夫よ」と逆に元気づける始末だった。

安里巡査は、朝から敵機に見つからぬよう隠れたりしながら、午後も夕方近くなって、やっと西山の谷間の日本軍の陣地を探しあてて、そこではじめて赤松隊長と逢った。そこへたどりつくまでに、空襲ですっかり焼けた部落や山林の中を歩いているとき、安里巡査は沖縄本島にいる妻子の安否を思った。渡嘉敷に赴任してから、一度は宇久校長(沖縄本島出身)といっしょに御真影を保管するために沖縄本島に渡ったことがあったが、あのとき帰ってこなければよかったと、彼は後悔したりもした。

西山のトトンジャーラ(イシッピ川)の奥地の日本軍の陣地は、移動してきたばかりで何もできてなくて、朝鮮人軍夫や兵隊たちが、盛んにタコ壷を掘っていた。陣地壕はまだほとんど掘られてなかった。赤松隊長は、陣地構築の指図をしていた。(注・防衛隊や軍夫や村民の幾人かは、集団自決の後日、壕掘り作業に出ている―小嶺善吉らの証言。二十七日に地下壕内で将校会議か開かれたという記録は間違いで、将校は分散したタコ壺の中か外で戦闘配置についていた。村民をどうこうするという会議を開く余裕はまったくなかった―知念朝睦〈少尉〉の証言)
そこで安里巡査は、赤松隊長に向かって、村民はあっちこっちの壕に避難して右往左往しているが、これからどうしたらよいかわからないので、軍のほうでなんとか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけた。

そのとき赤松隊長は、次のようにいった。島の周囲は敵に占領されているから、誰もどこにも逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難していたほうがよい。場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう(注・比嘉喜順、旧姓・安里、元駐在巡査の証言)。そこで安里巡査は早速、居合わせた防衛隊数人に対し、村民に西山盆地に集合するよう伝達してくれと告げた。彼自身も、各壕を回っていい伝えて歩いた。

防衛隊の一人は、古波蔵村長にいち早くほば正確な伝達をした。そして村長からも、同様の伝達が出た。それは人の口から人の口へ、すばやくつぎつぎと広がって伝わっていったが、村民のあるものは赤松隊長の命令といい、あるものは村長の命令だといった。

注(又吉) 四十二年前に、星氏は、赤松隊長が「島の周囲は敵に占領されているから、誰もどこにも逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難していたほうがよい」と言ったと書いている。このドキュメントを多くの沖縄の人々か読んで居たら、「集団自決」に対する認識は違っていただろう。

闇の雨中を西山盆地へ集結

ウシたちの壕には、防衛隊の一人がきて、「村長命令だ、ウンナガーラから西山にのぼれ」といった。そこで迷いながらも、ウシたちはともかく出掛けるしたくをしていた。こんどは三人の防衛隊がきて「もうすぐそこに敵がきている」「みんな西山に登ってください」「村長命令です、西山に集まってください」と口々にいった。その三人の防衛隊は、ウシの弟、モリスケ叔父、ミサトの叔母の妹の夫で、三人とも輿奮してせきたてていた。村長命令とあらば、どんなことでも従うほかはないと、ウシは思った。

ウシたちが恩納川を登って行くうちに、雨はどしゃぶりになった。ウシは三歳の息子をおぶって、七歳の二女の手を引いて歩いた。十二歳の長女(本誌119ページの安座間豊子さん)は、三日分の食糧(米と黒砂糖とカツオ節)を入れたランドセルを背負って、ウシの後につづいた。ウシたちは、ずぶぬれになって暗い谷川のふちを歩き、ときどき滑って水の中へ落ちこんだりした。ぬれた赤土はよく滑るし、もう夜になっていて、何も見えなかった。

ざわめくような足音や、親子の名を呼び合う人声で、多数がぞろぞろ西山へ向かっていることが判った。ウシは長女に三日分の食糧だけを持たせてあったが、一日か二日、西山に避難するつもりだった。後でわかったことだが、ある人たちは、クワやナタやカマを持っていた。それらの農具は、西山で壕や小屋をつくることを予想して持ち運ぱれたのだ。多数が持っていた一メートルほどの棍棒は、荷物を肩にかけて持ち運ぶときに使われた。

恩納川の上流の谷間の上のほうが、西山の盆地だった。日本軍の最後の本部となった陣地は、小高い山を一つ隔てた小さいもう一つの谷間(トトンジャーラの上流)にあった。この二つの谷間の川は、渡嘉敷部落からは別々に並行しているが、上流に行くにしたがって接近し、西山高地に達するところで、深い谷底に小さい溝のようになって消えていた。西山の頂上の平たんな雑木林は、この二つの谷間の北方にあった。そこが西山盆地で、戦後、村民が玉砕場と称するところである。

その日の、雨の降りしきる夜半、渡嘉敷村の約三分の二の人たちが、ウンナーガーラ(恩納川)にそって苦心しながら北上した。そして、ほとんどが、上流の谷間の林の中で一夜を明かした。そのあたりには、以前に建てた避難小屋が三軒あったが、大多数は身を隠す場所が見つからず、野ざらしであった。ウシたちは、大きな木の葉を手探りで集めて、それを敷いてその上に横になり、眠るともなくうつらうつらしていた。

そのころ、阿波連の人たちは、約一時間遅れて西山にようやく到着していた。その多数は、阿波連から上陸した米軍に追われて渡嘉敷へ向かっている途中で、人々の口から「西山に集まれという村長命令が出ている」と聞かされ、渡嘉敷部落の人たちの後につづいたのだった。阿波連の人たちのほとんどは、それぞれ山の壕に避難していたが、食糧や衣類などは壕に残したまま、荷物らしい荷物は持たず、手ぶらの人も少なくなかった。また、壕やトカシクの野戦病院に、ケガ人を残してきた人もいた。

一方、渡嘉敷村の女子青年団は、不断から日本軍に献身的につくしていたので、いざとなったら皇国のために死ぬ覚悟ができていて、それぞれ懐中にカミソリを隠し持っていた。また防 衛隊の過半数は、何週間も前に、日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決せよということであった。

注(又吉) 明治維新により琉球王国から沖縄県になったが、まだまだ古い封建社会のしきたりが強い社会だった。特に地方は琉球王国時代の豪族が明治以後も村の長であった。ウシのような平民にとって村長はリーダーであり支配者であった。村長の命令には従わなければならなかった。今のように自由というものは村民にはなかった。

玉砕するしかない

三月二十八日は曇天だった。木の葉の間から、チラチラと朝の光が見え、まどろんでいた村民は起きて、雨で黄色く濁った谷川の水で顔を洗ったり水を飲んだりした。ウシは弁当箱に水をくんできて、子供たちに飲ませたり黒砂糖をなめさせたりした。食事らしい食事は誰もしなかったし、そんな準備をする余裕も元気もなかった。みんな打ち沈んでいた。こんもりと潅木のおい茂っているその谷間いったいには、見渡すかぎり村民が終結していた。朝の七時ころになって、防衛隊の数人がどなるように、「みんな上のほうに集まれ」「西山盆地に集まれ」と叫んだ。それで村民は命令どおり、そこからわずか二百メートルほど離れた平たんな場所に移動した。

ウシたちが、そこの雑木林にたどり着いたときには、すでに多数の渡嘉敷部落の人たちが入りこんでいて、みんな十人か十五人ぐらいずつかたまって、地べたにすわっていた。しぜんに肉親を中心に親族同士が寄り集まっていた。後から後からぞろぞろと、阿波連の人たちもつづいて入ってきて、およそ千人の集団となった。それから約三時間、集められた村民はそのまま放ったらかされていた。

その間、集団の一角に、村長を中心にして、郵便局長や校長や助役や巡査や役場の人たちと防衛隊の幹部ら、約十数人が寄り集まって、何やらしきりに協議していた。そのころになると、上空には敵の偵察機がぐるぐる回っていた。茂った木の葉から、ときどき敵機がよぎって行くのが見えた。「これからどうするかという意見を出し合ったが、話し合っていくうちに、玉砕するほかはない、という結論になってしまった。しぜんに、玉砕ということになって、その恐怖感から逃れられなくなった」(比嘉喜順らの証言)

そこで気丈夫な古波蔵村長は、具体的にどういうふうにするか、と話を進展させた。あれこれ意見が出たが、結局、みんなが死ぬにしては、手榴弾が足りないということになった。一人の防衛隊が、「友軍の弾薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょうか」と申し出たことから、それに一決して、不断から親しく兵隊と接触している防衛隊三人が出掛けることになった。

それから一時間後に、防衛隊によって、ひそひそと村民に「玉砕する」話がひろめられた。村の指導者たちは、バラバラになって、それぞれの家族や親戚の人たちに、「やさしく説得するように」玉砕のことを話した。阿波連の防衛隊たちは、少し離れて散在している部落の人たちに、もっと中心に寄り集まるようにいい伝えた。

集まった村民は、恐怖に打ちおびえながらも、静かに親族同士で輪になってすわった。渡嘉敷の人たちは、比較的に荷物を持ち運んできていたので、死ぬ覚悟を決めて着替える人が少なくなかった。が、集団のはずれにいる人たちの中には、まだ暖昧な気持ちで、これから何が起こるか、何もわからず、集団自決を予想だにしない人たちがいた。

古波蔵村長は、次のような理由から、駐在巡査を通じて赤松隊長から玉砕命令が出たにちがいないと、ひそかに思っていた。西山にきて協議の緒果、いわぱ自発的に玉砕することになりはしたが、昨日、安里巡査一人が赤松隊長に逢ってきた結果、集合が決まったこと、それから安里巡査は一人死ぬのを避けるふうに、「自分は村民の玉砕を見とどけて、軍に報告したい」(米田惟好<当時の古波蔵村長>の証言)といって、いざというときには少し離れたところに彼一人立っていたというのである。(注・米田惟好の解釈―軍は持久戦を考えて食糧確保のため、村民に対し「ロベらし」「足手まとい」だと思ったにちがいない)

注(又吉) 村長、郵便局長、校長、助役、巡査、役場の人たち、防衛隊の幹部らが協議して集団自決を決めている。村長など地位ある人たちの多くは武士の子孫であっただろう。日本軍が勝利するためには村人が自決したほうがいいという選択をしたのはあり得ることだった。

「みんな一緒に死のうね」

「アメリカーが上陸して、家も焼かれてしまったし、帰るところもないし、どうせ死ぬならみんないっしょのほうがいい」とウシの弟の防衛隊が話しているとき、安里巡査がきて、「手榴弾が破裂するときは手にしっかり握っていたほうがよい」と助言した。それから間もなくして、古波蔵村長がみんなの中央に立って、「敵にとり囲まれてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」と、声をふるわせながらいった。

急にしーんと静まり返った。ウシはその気になって、誰かが持ってきた茶わんに水を入れて、みんなの前に差し出し、「みんないっしょに、あきらめて、死のうね」といい終わるか終わらないうちに、遠くで誰かが「発火用意、打て!」と叫ぶと同時に、ぱあーんぱあ-んぱあーんと、つづいて手榴弾の炸裂音が聞こえた、ウシはわなわな震えがきて、水をこぼしたとき、急に耳を強く打たれたようになって、何が何やらわからなくなった。

ウシが気がついたときには、彼女自身は三歳の子供を抱いたまま僻せになっていた。目の前に倒れている二人の娘も無傷でねぼけたような顔で起き上がった。が、手榴弾を持っていた弟は、断末魔の様子で、血だらけの片手をがたがたふるわせて倒れていた。その背後には、弟の妻が、両眼をほおの上にとび出させたまま、死んでいた。

ウシはわが目を疑い、からだをまるめて俯せたままで、まわりをながめた。と、たくさんの死体がころがっているのを見届けると同時に、まったくとつぜん、鳥が泣き叫ぷようないやな声が入り乱れて聞こえてきた。

「アキサミヨーアキサミヨー」(感嘆詞)「母ちゃんよー母ちゃんよー」「アンマーヨーアンマーヨー」(母親の呼称)と悲痛におおぜいが叫んでいた。頭上からはブーンブーンブーンと敵機の爆音が響いていた。ウシは動転し、しばらく目をとじていた。が、ふたたび周囲を見まわした。手榴弾を破裂させた弟は死に、そのすぐ側にいた自分たちは無事だったのだ。そして、まわりにいた親族の七、八人は即死していた。それからウシは、何やらうめきながら逃げて行く集団を見た。

赤い血を鮮明につけたケガ人たちや、恐怖のあまり泣き叫ぶ女子供たちをまじえて、約三百人あまりが、わさわさ押し合うようにしてそこから立ち去って行くのだった。その逃げて行く集団の中に、郵便局長と村長がいるのがはっきり見えた。

……集団自決の場所から群をなして立ち去ってきた約三百人は、日本軍の陣地のほうへ向かってなだれたが、三百メートルも行かぬうちに、米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。米軍の砲弾は、どこからくるのか判然としなかったが近くでどんどん炸裂した。その破片にあたって即死したものが幾人かいた。弾にあたって郵便局長の妻も倒れて死に、局長は子供を背負わなければならなくなった。その集団は、そこで立ち往生したまま、騒いでいた。

村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)

おりしも助けを求めてなだれこんだその集団は、日本軍陣地の百メートル近くまできていた。日本軍は戦闘配置についていたが、発砲は自滅に等しいとみて、ただ敵の様子をうかがっていた。そこへ泣き叫ぶ村民がなだれこんできたので、追い払うために、将校は一様に抜刀して威嚇した。たちまち村民は悪夢からさめたように静まりかえり、恩納川の谷間へと散り散りに去って行った。

修羅場と化した西山盆地

一方、西山盆地では、ほとんど無傷でいた阿波連の人たちの間から、無残な殺し合いが始まっていた。それは三百人の集団がアラシのように立ち去った直後だった。遠くで、迫撃砲が激しく炸裂するのを、生き残っている多数の村民は上の空で聞きながら、ある人たちはナタやガマを借りて生ま木を切って棍棒を作っていた。その側で、母や妹や弟を、青年になった息子が、ベルトでつぎつぎと締め殺していた。また手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では、持ってきた農具がそのまま凶器に変わって、血縁へ向かって理解しがたい怨念を打ち出すように、妻子を惨殺しはじめた。

ウシたち親子四人は「ここは地獄だ、早く逃げよう」と、いったんそこから立ち去りかけたが、血相をかえた阿波連のお婆さんたちが下のほうからきて「下からオランダー(外人)が登ってくるよ、いまに耳や鼻を切り取られるよ」といわれ、こわくなって舞い戻った。アメリカ人につかまることへの恐怖感がつのった。ちょうど十メートルぐらい離れたところに、夫の妹たちが生き残っていて、茫然とすわっていた。そこには、ケガして歩けない人たちが二十人ぐらい集まっていた。ウシたちはそこへ助けを求める気持ちで行った。すぐ側で、イノハさん(医者)は、不発弾の手榴弾を何度も石にたたきつけていた。

彼はあきらめて、それを投げ捨て「何かないか」とキョロキヨロしていた。そのとき小学生の息子が、「お父さんポク肥後ノ守があるよ」と小刀を出した。するとイノハさんは、「お母さんからね」というとすぐ、自分の妻の首を切り、それから息子と娘の首も、つぎつぎと切って、見ているまえで、彼は木の股に小刀をはさんで、自分の首を押しあててずっと刺しこみつづけた。そして急にガクンとぐったりなってころがり倒れた。

それが契機となって、隣の家族は、急に殺気立って、妻がおびえている夫を叱った。「日本人じゃないの! あんた男のくせに殺しきれないの!」と中年の女は、ナタを振り上げ、すわっている四、五歳の女の子の頭をめった打ちにして殺し、それからうなだれている夫を、「エイ、エイ、エイ」と叫びながら同様に打ち殺した。すると連鎖的に、老人が孫の頭をつかんで、カマでその頸動脈をかき切った。血が倒れた首から噴き上げた。

「アキサミョー」(感嘆詞)「私も殺してください」とウシは思わず叫んだ。だが老人は、振り向きもせず黙って木に登り、首つりのしたくをするのだった。

ウシが気が変になったように、「クルチ、クミソウリ」(殺してください)と小声で繰り返し言っているとき、七歳になる二女は「死にたくない、死にたくない」と泣き叫んだ。長女は妹を腹の下に隠すように押えつけ、ただ恐ろしさのあまりじっとしていた。そのとき、阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている梶棒で撲殺するのだった。

その中の金城重明(現牧師)という十六歳の少年がウシの側へ近寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径十センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押えて後込みしている長女の頭へたたきつけた。ギャツという声が短く走り、頭から血が流れた。少年はもう一度たたきつけた。娘たちは動かなくなった。それから少年は血走った目をむいて、ウシを見た。ウシは祈るように、「重明……」と小声でいって目を閉じた。ガーンと頭が割れるような音がした。ウシは額の上を二度叩きつけられるのを感じた後、意識を失った。

何時間かたって、ウシも長女も意識を取り戻した。夕方間近くなっていた。周囲は死者ぱかりだった。首つり自殺をとげた死体が、十五、六人、潅木にぶらさがっていた。二女は痴呆状態になってすわっていた。ウシが抱いていた子供は、口がほおのところへ移って顔がゆがんでいた。ウシの額に振りおろされた棍棒は勢いあまって子供の顔にもあたったようである。

ウシは急にわれに返って、娘に、「水をくんできて」と叫んだ。娘はふらふら立ち上がり、ころがっている薬カンを拾って、水をくみに行った。その間、ウシは自分の顔いっぱいについている血糊をソデでふき、割れた前頭部からまだ血か流れるのを防ぐために、湿った赤土を取って傷口に塗りこんだ。それから娘がくんできた水を、抱いた子供の顔にかけた。すると子供は全身ひきつらせ、顔をぶるぶるけいれんさせて、元に戻った口から血のアワを出した。「生き返ったよ」と、ウシは思わず笑顔になった。

それからウシたち親子四人は、なんとか生きようと思い、谷間のほうへ下りて行った。

                終わり

 星雅彦氏のドキュメントは集団自決の現場の人物をリアルに描いている。集団自決をした理由はそれぞれの立場や思想や感情の違いがあり複雑であった。

〇古波蔵村長(三十三歳)
「玉砕しかない」「敵にとり囲まれてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」

古波蔵村長は在郷軍人であった。彼自身が熱烈な軍国主義者であっただろう。彼にとって戦争に勝つのが最大の目的であった。勝つためには日本軍の足手まといになる村人は自決しなければならないと考えた。

〇ウシ
「みんな一緒に死のうね」「アキサミョー」(感嘆詞)「私も殺してください」
 軍国主義の教育を受けていない。あるいは影響を受けていない人であった。しかし、上の人の命令は絶対であると考える琉球王国時代の農民の思想を持った人である。ウシにとっては村長の命令は絶対であった。村長の命令があったから自決しようとしたのである。しかし、ウシには自決しなければならない理由を心から理解することはできなかった。ウシにとっては強制された死であった。強制された死では自決することはできない。だから人に殺してもらおうとした。

〇村の女
「「日本人じゃないの! あんた男のくせに殺しきれないの!」

軍国主義教育の影響を受けた人である。国のために死ぬのが日本人としての誇りであると教えられ、それを信じた彼女は日本人になろうとして自決をしたのである。

〇医者のイノハさん
「何かないか」「お母さんからね」

エリートであるイノハさんは軍国主義国家では軍国主義に従わなければならないと考えていただろう。エリートであるがゆえに軍国主義を理解し、軍国主義に従ったのである。

〇渡嘉敷村の女子青年団
不断から日本軍に献身的につくしていたので、いざとなったら皇国のために死ぬ覚悟ができていて、それぞれ懐中にカミソリを隠し持っていた。
 軍が政権を握ってからは軍国主義教育はますます強化されていく。若い人たちほど軍国主義教育の影響を強く受け、国のために自決する思想は強かった。

〇防衛隊
何週間も前に、日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。防衛隊員も女子青年団と同じであった。

〇金城少年
「まだ生きているのか!」

成績が優秀であったがゆえに軍国主義教育をうのみにし軍国主義少年になった。国民は天皇ため、国のために死ぬと教えられ、それを心の底から信じていた。教育の責任の重さを知らなければならない。

〇赤松隊長
「そんな武器は持ち合わせてない」

マルレで敵艦に特攻して死ぬために渡嘉敷島に来た赤松隊長は若干二十五歳の若き日本軍将校であった。軍人は天皇陛下と国のために戦うという信念の強い彼は米軍と戦うことしか念頭になかった。国民である村人は軍隊が守るという考えだったから集団自決は赤松隊長にとっては考えられないことだった。

 渡嘉敷島の集団自決が起こったのは軍命令があったからではない。日本が軍国主義国家になったこと、軍国主義教育が浸透していったこと。米国との戦争で敗北していったこと、渡嘉敷が離島であったこと、沖縄の古い思想が残っていたことなどが複雑に絡まって起こったのだ。集団自決の場では多くの人間模様があり、自決の原因もそれぞれに違う面があった。

 日本の勝利のためには「村人の玉砕しかない」と村人を集めて、真っ先に自決しようとした古波蔵村長であったが自決に失敗した。その後は再び自決をしようとはしないで戦争を生き延びている。人間には死の本能はない。生の本能がある。「命どぅ宝」である。自分で自分を殺すというのは人間の本能に逆らうことであり、そのためにはぎりぎりまで自分を追い詰めなければできないことである。大変なエネルギーが必要である。自決に失敗した村長たちにもう一度自決をするというエネルギーは残っていなかった。だから生の本能によって生き延びたのである。
軍国主義思想、軍国主義教育、沖縄の古い思想が入り混じった離島社会に米軍が進攻して起こった悲劇が慶良間島の集団自決であった。軍命令で集団自決をしたというような単純なものではなかった。集団自決の現場は自殺と殺害が交錯した凄惨な修羅場であった。
集団自決の深層に素直な目で入っていきそれを受け止めることが私たち沖縄人のやるべきことである。

最近、沖縄二紙やマスコミでは「『集団自決』(強制集団死)」という表現をするようになった。強制集団死とは軍が強制したから「集団自決」をしたのだという意味である。「集団自決」という表現では、自ら死んだという印象が強く、軍の強制で死んだというイメージが弱いと考え、軍の命令で死んだという印象を強くするために(強制集団死)を使っているのだろう。
自決の思想を浸透させた戦時中の教員、公務員、政治家、識者などの責任を回避し、集団自決の真実から目を背け、なにがなんでも日本軍に責任を押し付けようとして(集団強制死)という文言がつくられた。

自決は人間の生の本能を断ち切る極限の決断であり非常に重いものである。(集団強制死)は日本軍の命令に自決した人々がロボットのように従った印象を与えるものであり、集団自決の真相に蓋をするものである。人間の生の本能を軽視するものである。
(集団強制死)が集団自決を軽視した残酷な文言であるあることを知るべきである。

 

 

 

 

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コメント (4)

上原正稔氏の世界日報連載「歪められた沖縄戦史」

2018-05-18 00:09:41 | ★集団自決

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ドキュメンタリー作家上原正稔さんが、世界日報に連載中の「歪められた沖縄戦史」を掲載します。
 
 


【連載】歪められた沖縄戦史―慶良間諸島「集団自決」の真実 上原 正稔 <1>

「梅澤少佐の不明死」/隠蔽された『鉄の暴風』の誤報

 人はよく「戦争とは醜いものだ」と言う。だが、筆者は、最も醜いはずの戦争に中に、最も美しい人間の物語を発見し、数々の沖縄戦の物語を伝えてきたが、現在につながる大切な物語の一つの終わりがまだ見えない。それは住民の“集団自殺”の真相だ。そもそも沖縄県慶良間諸島の「集団自決」が事の始まりだ。

 渡嘉敷島の第3戦隊長の赤松嘉次(よしつぐ)大尉と座間味島の第1戦隊長、梅澤裕(ゆたか)少佐の“玉砕命令”により「集団自決」が始まったとの風説は超ロングセラー『鉄の暴風』に起因する。

 1950年8月15日、沖縄タイムス編集、朝日新聞出版の『鉄の暴風―現地人による沖縄戦記』を発行した。初版2万部は驚くべき数字だが、第2章「悲劇の離島・集団自決」の稿を除けば、今でも参考にすべき戦記だということも驚きだ。

 この本によって赤松大尉と梅澤少佐は集団自決を命じた「極悪人」であることが「暴露」され、そのイメージが定着した。ところが70年、曽野綾子氏が赤松さんら第3戦隊の隊員らに取材し、現地調査を行い、『ある神話の背景』を著し、「赤松嘉次さんは集団自決を命じていない」と発表した。それでも、沖縄の人々が真実の言葉に耳を傾けることはなかった。

 『鉄の暴風』によると、伊佐(後に大田に改名)良博氏が執筆した「集団自決」の稿の最後に、座間味について「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた」と記されている。「日本軍は最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅澤少佐ごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの2人と不明死を遂げたことが判明した」と稿を閉じている。

 ところが、この記述は現在市販されている『鉄の暴風』から見事に削除されている。なぜか。それは、70年4月、東京タワーでアメリカ人牧師を人質に取り、言いたい放題の暴言を吐き、マスコミの人気者になった沖縄生まれの富村順一氏が梅澤さんが生きていることを嗅ぎつけ、沖縄タイムス社に足を運び、それをネタにタイムスを脅迫して金銭を要求。まんまと50万円をせしめたからだ。これは有名な裏話だが、タイムスが語れない恥ずべき秘話となっている。

 「梅澤少佐ごときは2人の慰安婦と共に不明死を遂げた」との記述とその隠蔽(いんぺい)工作はまさに名誉棄損そのものだ。

 

 うえはら・まさとし 1943年、沖縄県糸満市生まれ。ドキュメンタリー作家。83年に沖縄戦フィルムを買い取る「1フィート運動」を開始し、映像を通して沖縄戦を伝えた。その後、沖縄戦の連載を地元紙に執筆。2007年には連載「パンドラの箱を開ける時」を掲載拒否された件で琉球新報に勝訴した。主な著書に「沖縄戦トップシークレット」(沖縄タイムス)。

【連載】歪められた沖縄戦史―慶良間諸島「集団自決」の真実 上原 正稔 <2>

名誉回復求め提訴/目撃した米兵の手記入手

 2005年8月4日、梅澤裕さんと故赤松嘉次さんの弟の秀一さんは、住民に「集団自決」を命じていないとして大阪地裁に「名誉回復」目的で訴訟を起こした。被告は『鉄の暴風』を編集した沖縄タイムスではなく、意外にも『沖縄ノート』の著者大江健三郎氏とその出版社、岩波書店だった。勝訴に自信満々だった原告弁護団はノーベル平和賞受賞作家の大江氏と大手出版社岩波をターゲットに選んだが、外部にいる者(筆者も含めて)からすれば、完全勝訴は間違いないはずだった。

 『沖縄ノート』は「集団自決」だけでなく、沖縄の左翼陣営の文化人にアレコレ聞いているだけで中身はほとんどないからだ。しかも、大江氏は『鉄の暴風』からの受け売りの知識をひけらかしているだけで、赤松戦隊長の名も出さず、“罪の巨塊”とか批判しているにすぎない。

 しかるに、「集団自決」の真相に迫る証拠資料や証人は数多く存在している。

 筆者は1985年、沖縄タイムス紙上でアメリカ第10軍のG2サマリーを中心にした『沖縄戦日記』を連載し、その中でニューヨーク・タイムズの報道する渡嘉敷島住民の“集団自決”を発表した。

 <神もおののく集団自決―3月29日発(英語ではMass suicide=集団自殺) 昨夜、我々第77師団の隊員は、渡嘉敷の険しい山道を島の北端まで登りつめ、その時1マイルほど離れた山地から恐ろしいうめき声が聞こえてきた。(中略)この世で目にした最も痛ましい光景だった。死亡者の中に6人の日本兵(※)がいた。――数人の生存者が一緒に食事をしているところに生き残りの日本兵(※)が割り込んできた時、彼らは日本兵(※)に向かって激しい罵声を浴びせ殴りかかろうとした>

 筆者はこの時点では気付かなかったが、※印を付した「日本兵」とは実は武器弾薬を装着した防衛隊員である。このことを知ったのは、95年春と夏に、渡嘉敷島に渡って現地調査をした時だった。アメリカ兵には日本兵と防衛隊員の区別がつかなかったのだ。

 その前年の94年、筆者は戦後50周年に沖縄を訪れるアメリカ人遺族関係者を迎えるために「おきなわプラス50市民の会」を組織し、その移動の中で、慶良間諸島の慶留間(げるま)島と渡嘉敷島の「集団自決」を目撃したグレン・シアレス伍長の手記を入手した。それはハードボイルドでありながら、実に感動的で衝撃的なものだった。

 95年には翻訳しておらず、英文そのままだったことに注意しよう。筆者がシアレス伍長の手記を『沖縄戦ショウダウン』として発表したのは96年の6月だった。

 

【連載】歪められた沖縄戦史―慶良間諸島「集団自決」の真実 上原 正稔 <3>

米兵が記した惨劇/阿波連で100人以上が自決

 グレン・シアレス伍長は、手記でこう綴(つづ)る。

 <1945年4月27日夜明け、俺たちは渡嘉敷の最南端の浜に上陸し、山の小道を登る途中で3人の日本兵を射殺し、目的地に着くと信号弾を打ち上げ、味方の艦隊の砲撃が始まった。(中略)

 山を下りて「阿波連の村を確保せよ」との命令を受けた。その途中、小川に出くわした(阿波連のウフガー上流)。川は干上がり、幅10メートル、深さ3メートルほどの川底のくぼみに大勢の住民が群がっている。俺たちの姿を見るや、住民の中で手榴弾(しゅりゅうだん)が爆発し、悲鳴と叫び声が谷間に響いた。想像を絶する惨劇が繰り広げられた。大人と子供、合わせて100人以上の住民が互いに殺し合い、あるいは自殺した。俺たちに強姦(ごうかん)され、虐殺されるものと狂信し、俺たちの姿を見たとたん、惨劇が始まったのだ。

 年配の男たちがちっちゃな少年と少女の喉を切っている。俺たちは「やめろ、やめろ、子供を殺すな」と大声で叫んだが、何の効果もない。俺たちはナイフを手にした大人たちを撃ち始めたが、逆効果だった。

 狂乱地獄となり、数十個の手榴弾が次々爆発し、破片がピュンピュン飛んでくるので、こちらの身も危ない。全く手がつけられない。「勝手にしやがれ」とばかり、俺たちはやむなく退却し、事態が収まるのを待った。

 医療班が駆け付け、全力を尽くして生き残った者を手当てしたが、既に手遅れで、ほとんどが絶命した。>

 この集団自決については一切表に出たことがなかった。だが、海上挺進第3戦隊陣中日誌は記す。

 <3月29日―悪夢の如(ごと)き様相が白日眼前に晒(さら)された。昨夜より自決したる者約200名(阿波連においても百数十名自決、後判明)。首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部(けいぶ)を切断したる者、戦いとはいえ言葉に表し尽くし得ない情景であった。>

 シアレス伍長の手記を見事に裏付けている。第3戦隊陣中日誌は後、詳しく紹介することにしよう。

 

【連載】歪められた沖縄戦史―慶良間諸島「集団自決」の真実 上原 正稔 <4>

渡嘉敷島で聞き取り

赤松隊長への誤解解消へ

 1995年の春と夏、渡嘉敷島を訪ね、「集団自決」の生き残りの人々や関係者から情報を集めた。自決を生き延びた金城武徳さんに自決現場に案内してもらった。そして、海上挺身第3戦隊の陣中日誌を金城さんから入手した。後に大城良平さん、比嘉(旧姓安里)喜順さん、知念朝睦さんらから貴重な情報を入手することができた。

 第3戦隊陣中日誌は、「3月27日。第1中隊は本隊に合流すべく阿波連を撤収、渡嘉志久高地に上陸せる敵に前進を阻止せられ、2、3度切り込み突破を行ふも前進不能となり!」と記録している。

 阿波連の集団自決については前記のように記録している。

 渡嘉敷では「恩納ガーラ」(ガーラは「河原」の意味)と阿波連の川の上流で二つの「集団自決」があったことになる。

 ところで「集団自決」という表現は『鉄の暴風』の執筆者の一人、伊佐良博氏が初めて使った、と後に証言し、戦時中は「玉砕」と使われていることに注意しよう。

 筆者は金城さんに渡嘉敷最北の山中の恩納ガーラへ案内してもらった。山頂の石碑のすぐ北に「自決現場」第1玉砕場があった。だが金城さんは、ここは恩納ガーラではなく、ウァーラヌフールモーと呼ばれているという。恩納ガーラは渡嘉敷村落のすぐ西側を流れる川の中流だったのだ。そこは深い谷間で空襲を避ける絶好の場所だった。この川岸に住民は避難小屋を造ったが、ここでは「集団自決」はなかったのだ。

 恩納ガーラの上流から険しい斜面を登り、北山(にしやま)を越え、ウァーラヌフールモーに達するのだが、現在、川にはダムができ、昔の面影はない。筆者は自分の思い込みに呆(あき)れたが、さらに驚いたことに、金城さんや大城さんらは「赤松隊長は悪人ではない。それどころか立派な人だった」と言うのだ。

 そこで北中城村に住む比嘉さんに会って聞くと「その通りです。世間の誤解を解いてください」と言う。

 知念さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘(うそ)の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙にして調査せねばならない、と決意した。

 

【連載】歪められた沖縄戦史―慶良間諸島「集団自決」の真実 上原 正稔 <5>

米軍が渡嘉敷上陸

避難壕に逃げ込む住民

 渡嘉敷村史と沖縄県史10巻、陣中日誌からウァーラヌフールモーの惨劇を追ってみよう。

 3月23日午前10時ごろ。数十機の爆撃機が渡嘉敷上空に姿を見せた。住民も兵士もそれが米軍機だと気付くものはいない。突如、空襲が始まり、民家や陣地に爆弾と焼夷(しょうい)弾が落とされ、至る所で山火事が発生した。延べ300機の空襲は午後6時まで断続的に続き、島は大混乱に陥る。住民は麓など各地に用意していた避難壕(ごう)に逃げ込み、陸戦になじみのない第3戦隊の兵士らはわずかばかりの銃兵器で対空射撃を試みたが、この日戦死者11人、負傷者10人を出し、散々な日となった。これが沖縄戦の始まりとなった。

 3月26日。早朝、慶良間に集結した敵(ブランデー提督)の艦隊は慶良間各島に猛烈な艦砲射撃を加え、第77歩兵師団が慶留間、阿嘉、座間味の島々に上陸した。渡嘉敷島の大町大佐が島を脱出する機会は失われた。

 赤松戦隊長は出撃準備のため、夜明け前に舟艇を浜に出し、大町大佐に出撃命令を求めたが、大町大佐は「ここで手の内を晒(さら)せば、本島に船舶団の作戦に支障が出るので船を戻せ」と命令。だが、時既に遅く、敵の艦砲射撃が始まっている。

 赤松隊長は涙をのんで「自沈」を命令。こうして事態は島の全ての人々の予測を超えた方向へ進んでいった。

 27日。海上挺身戦隊とは、爆雷2個を搭載した舟艇で、夜間敵艦船に体当たり爆破する目的で編成された特攻隊のことだ。生きて帰ることはないはずだったが、特攻艇を自沈した今、にわかづくりの陸戦守備隊として島に立てこもることになった。

 午前2時、赤松戦隊長らは渡嘉敷村落の北の北山(にしやま)の周囲に守備陣地を敷くことになり、山道を上った。

 午前9時、アメリカ軍は艦砲射撃の下、留利加波、渡嘉志久、阿波連に上陸を開始。渡嘉志久を守備する第3中隊の残存部隊は抵抗したもののほとんど戦死。阿波連を守備する第1中隊は阿波連を撤退する時、アメリカ軍(A中隊)の待ち伏せに遭い、多数が死傷し、生き残った者は阿波連東の山中に四散することになった。

 一方、村の防衛召集兵(以下、防衛隊と呼ぶ)は3月23日の空襲以来、住民の避難や消火作戦でてんてこ舞いの忙しさだったが、前夜から「敵が上陸して危険だから恩納ガーラに移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。

 

【歪められた沖縄戦史 慶良間諸島「集団自決」の真実 上原正稔】<6>

パニックに陥る住民

玉砕の連絡が飛び交う

 渡嘉敷村落の西側の恩納ガーラには古波蔵惟好村長、真喜屋実意先生(前村長)、徳平郵便局長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。

 1944年2月22日、国勢調査によれば、村の人口は1447人であり、「数百人」とはその一部にすぎないことに注意しよう。

 古波蔵村長らの有力者会議が開かれ、「自決の他はない」と皆、賛成し自決が決められた。

 ある防衛隊員は「戦うために妻子を片づけよう」と言った。

 村の兵事主任、新城真順は前日掘ったばかりの北山陣地に行き、赤松嘉次隊長に「住民をどこに避難させたらよいか」と指示を仰いだ。赤松隊長は「陣地北側の盆地に避難させてはどうか」と言った。そこがウァーラヌフールモーだった。

 その後、恩納ガーラに防衛隊員がやって来て「赤松隊長の命令で村民は全員、直ちに北山のウァーラヌフールモーに集まれ」と語った。別の防衛隊員は「自決するから北山に集まれ」と言った。

 14歳の金城武徳は敵の上陸が始まると、部落内の防空壕を出て、神社の後ろを通って、父が恩納ガーラに造ってあった避難小屋を目指した。夜、土砂降りの中、食糧を置いてある恩納ガーラに伝令がやって来た。あっちこっちの避難小屋を巡り、「軍の命令で北山に避難せよ」と伝えた。

 16歳の小嶺勇夫はイチャジシ(恩納ガーラ)の避難小屋で生活を始めていたが、村の青年がやってきて「村長命令で上の本部に全員集合せよ」と言った。14歳の山城賢治はウビガーラから恩納ガーラに移動したが「明日あたり玉砕だ」という話を聞いた。30歳の小嶺国枝はイチャジシの避難小屋にいたが「玉砕するから北山に集まれ」との連絡を受けた。

 グリースガイ(死に装束)をしてウァーラヌフールモーに向かった。夜半から28日の明け方にかけて、数百人の老若男女が雨の中、恩納ガーラの上流から険しい傾斜面の道なき道を黙々と登って行った。

 ウァーラヌフールモーは北山の山頂すぐ北側にあり、馬の鞍(くら)のような形をしていて、長さ約30㍍、幅5・6㍍で北に突き出ていて、その両端は深さ3、4㍍ほどの溝を成し、その先は人が下りられないほどの深い渓谷が海に続いている。

 

 

 

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