狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

捏造された「残虐な日本兵」、我が子を殺した母の贖罪意識

2021-06-21 07:46:36 | ★改定版集団自決

 

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

「慰霊の日」、集団発狂の沖縄メディア!2013-06-23 

毎年、6月23日の「慰霊の日」前後には、沖縄メディアが恒例行事として集団発狂する。

沖縄戦の記憶の継承と称する沖縄戦キャンペーンだ。

沖縄戦の記憶の継承という建前に異論はないが、沖縄メディアが戦争を語るとき、他県には見られない特徴がある。

あたかも沖縄戦は日本軍と沖縄住民の戦いだったかのような論調で「残虐非道な日本軍」を執拗に告発するのだ。

その一方で敵の米軍は、沖縄住民を解放するため沖縄戦に臨んだという印象報道だ。

きょうの沖縄タイムスは「沖縄戦関連」記事で一面トップと社会面トップを飾った。

 

ところが、執筆者の山中由睦記者は、証言者のコメントをうっかりそのまま掲載するという大ポカやらかしてしまった。

大笑いである。

本来なら戦火を避け潜んでいたガマで、泣きだした幼子を「(日本兵が)泣かすな、出ていけ」と命令した。このように歪曲して書くべきだった。

先輩記者の捏造報道を継承して。

最近、沖タイも心を入れ替えて、これまで歪曲してきた沖縄戦の大嘘を訂正する気になったのか。

読者「そんな筈はない。沖タイにそんな殊勝な気がある筈がない」

「単なるポカ記事です」

[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1) 弟の姿 シダに重ね 遺骨「諦められぬ」 上原美智子さん(85) 那覇市

沖縄タイムス紙面掲載記事

[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1) 弟の姿 シダに重ね 遺骨「諦められぬ」 上原美智子さん(85) 那覇市

2021年6月21日 05:00

 自宅の庭の鉢には、きれいな緑色のタマシダが生い茂っている。この家に住む上原美智子さん(85)=那覇市=が、恩納村の山中から小さな一株を持ち帰ったものだ。

 5~6年がたち、シダは10倍以上に成長した。「こんなに元気に育ってくれたね」。上原さんは葉先をなでるように触り、柔和な表情でシダに語り掛けた。

 シダが生えていたのは76年前、沖縄戦で本島南部から逃げる途中に息絶えた8カ月の末弟を埋めた場所。戦後、姉が遺骨の回収に来たが見つからず、仕方なく近くの石を拾い、家の墓に入れた。

 戦後70年がたち、上原さんは自らこの場所を訪れ、遺骨を探した。遺骨は見つからなかったが、何かを持って帰らずにはいられなかった。近くに生えていた、ほんの5センチほどのシダを抜いた。「遺骨の代わり。これで弟を感じられる」 

□   □

 1945年3月23日朝、米軍機から雨あられのように銃弾が降り注ぐ中、9歳の上原さんは、自宅から少し離れた糸満市のガマ「アマンソウ」に向かった。母と姉は家畜の世話があったため、上原さんは妹と弟を連れ、8カ月の末弟を背負い無我夢中で走った。

 ガマにはすでに約250人が避難し、暗闇に排せつ物の臭いが充満していた。末弟が泣き出すと、ガマの奥から「マーヌクヮガ、ナカサンケー(どこの子か、泣かすな)」、「ンジティイケー(出ていけ)」と高齢女性の罵声が聞こえた。

 弟の口を手のひらで覆うと、声が小さくなった。苦悶(くもん)の表情を見るのが耐え切れず、ガマを出て10メートル前の木の下で震えた。頭上に米軍機が見え、死と隣り合わせの状況が続いた。

 夕方、母姉と合流し北に避難。何日か歩き続け、恩納村の避難場所に着いた。食料は乏しく、5月中旬に米軍の捕虜になったが、弟はその少し前に栄養失調で亡くなった。「弟は今も独り寂しく山中にいる。早く遺骨を拾ってあげたい」

□   □

 遺骨への思いは末弟に対してだけではない。当時38歳だった父・玉城蒲吉さんも見つかっていない。

 色白で“イケメン”だった父。畑仕事がない日は一緒に遊んでくれた優しい人だった。「カマスケ」という毛並みの良い馬を飼い、新品の馬車も持っていた。そんな父が大好きだった。

 父は44年10月ごろ軍に招集された。冬に馬車を取りに一度だけ戻ってきた。出発前、上原さんの頭を優しくなでながら「お母さんの言う通り、お利口にしてね」。これが別れとなった。

 父がその後どこに行き、どこで亡くなったのかは分かっていない。戦争で自宅は燃え、父の写真や遺品は全て焼失。父のぬくもりや思い出を感じられる物は何一つ残っていない。

 万年筆や衣類、馬車の部品、何でもいいから見つけたい-。そんな思いで、20年ほど前から遺骨収集に携わった。同じように沖縄で遺骨を探す人のため、そして父の手掛かりを探すため。自らガマに入った。

 高齢になり、最近は自ら探すことは減ったが、まだ

希望は捨てていない。「戦後76年。難しいのはもちろん分かっているけれど、簡単には諦められないさ」(社会部・山中由睦)

 戦後76年がたった今も、県内では沖縄戦で亡くなった約3千人の遺骨が見つかっていない。大切な人の足跡や生きた証しを求め、いまだ多くの人が遺骨を探している。その思いと遺骨収集の現状や課題に迫った。(21面に関連)

 「証を求めて」では、遺骨を探す人々の思いや遺骨収集現場の動画を制作しています。こちらのQRコードから。

(写図説明)(上)庭のタマシダをなでるように触る上原美智子さん=那覇市

(写図説明)(下)上原さんらが逃げ込んだ糸満市のガマ「アマンソウ」(糸満市教育委員会提供)

■毒おにぎりの大ウソ⇒仲里県議会議長

壕に避難していた幼子に、途中から入ってきた日本兵が毒おにぎりを食わそうとしたので、家族共々壕を逃げ出し命拾いしたと言う証言が派手に掲載された。 

実際に琉球新報に掲載された記事だが、食糧不足に悩む当時はおにぎりは滅多に口にすることのないご馳走。 

その大事なおにぎりに毒を塗って少年の殺害を謀るより、銃剣で脅して壕から追い出したほうが容易であることは誰にでもわかること。

その幼子の兄が当時の仲里利信沖縄県議会議長であることが自身の証言で話題になった。

仲里氏が嘘をついたか、さもなければ当時の厳しい食料事情を知らない若い記者が、聞き取りの際歪曲・捏造したか。

いずれにせよこの記事が嘘であることくらい読者は容易に想像がつく。

 これに関して証言者の仲里氏は以後沈黙を押し通し何も語っていない。

(【おまけ】参照)仲里氏の「毒おにぎり」は「残酷な日本兵」の象徴として朝日新聞を通じてニューヨークタイムズにも掲載された。

 

【おまけ】

「毒おにぎり」が海を渡る  仲里証言をニューヨークタイムズが報道2007-10-18

「県民大会」の実行委員長になり、更には「東京要請団」の団長として、仲里県議会議長の名前と顔はすっかり全国区になった。

地元マスコミでで仲里議長の名が一躍注目されるよったのは琉球新報の衝撃的「毒おにぎり」記事以来である。

 

毒おにぎりで知名度を上げ、その後国会議員になった

仲里利信氏

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

 
戦時中の食料事情を知る人なら、折角のご馳走の「白いおにぎり」に毒を入れる状況が理解できないと、この体験談に疑念を抱く人も多い。
 
だが、これがそのまま海外の新聞、それもあのニューヨークタイムズの記事となったとなると、歯止めなく世界中を1人歩きする。
 
「戦地売春婦」が「性奴隷」の名の下に世界中を一人歩きしたように。
 
「11万人」集会がニューヨークタイムズの記事になったことを琉球新報が報じたが、Red Foxさんが元記事を全訳した結果、
 
琉球新報の訳文を原文に無いことを報じる「超訳」と呆れ返っていた。
 
詳しくは「またオーニシか! 沖縄抗議集会 琉球新報報道の怪 (Red Fox) 」でご覧下さい。
 
記事を書いたのは反日記事で有名なオーニシ記者ですが、翻訳者の岩谷文太さんは次のようにコメントしています。
 
≪このNYタイムズの大西記者の記事の情報源となってるのは多くが沖縄タイムズや琉球新報の記事なので、もともとがバイアスがかかってる訳ですが、結果として琉球新報が情報を提供して書かれたNYタイムズの記事を琉球新報が逆輸入して更に誇張して報じるという自作自演のマッチポンプ記事です。NYタイムズ自体はアメリカの朝日新聞みたいなものですから。

沖縄の事は本来は沖縄の民意が決める事ではありますが、問題は本土から乗り込んだ活動家であり、米軍の問題があってもそこには中国の脅威がある訳です。≫
 
≪しかし琉球新報のこれは幾ら何でも酷過ぎますね。まずNYタイムズの記事を報じてると装いながら内容を改変してる点、それから引用表記のルールの基本が全く出来てない点ですが、これは英語読解力など記者の能力の問題なのか、それとも意図的に印象操作をしてるのかは、この記事を見る限りでは何とも言えませんが、ロサンゼルス通信員という方なので恐らく確信犯の後者でしょう。そもそもロス通信員なら宜野湾市の抗議集会で直接取材した訳でないでしょうから、NYタイムズに書かれてる以上の余計な情報が入るのが不自然というものです。

 そういうクリエイティビティ溢れる琉球新報には『創作芸術大賞』を進呈したいと思いますw。≫

 
そのニュークタイムズ記事の中で、多くの証言者が「日本軍の残虐性」を訴えている。
 
特に沖縄出張法廷で証言した金城重明氏は本人の写真つきで紹介されている。
 
だが、金城証言に続く仲里議長の「毒おにぎり」証言が、
 
日本軍の残虐性を示す逸話として、世界中に飛び火していくことを危惧する。
 
以下はニューヨークタイムズ掲載の「毒おにぎり」の仲里議長の証言部分の原文と訳文です。

Okinawans Protest Japan’s Plan to Revise Bitter Chapter of World War II
http://www.nytimes.com/2007/10/07/world/asia/07okinawa.html

 One of the visitors to Tokyo was Toshinobu Nakazato, chairman of Okinawa痴 assembly.

Angered by the revisions, Mr. Nakazato broke a 62-year silence and talked about his own wartime experiences.

Inside a shelter where his family had sought refuge, Japanese soldierhanded his family members two poisoned rice balls and told them to give them to Mr. Nakazato痴 younger sister and a cousin, he said. Instead, his family fled into the mountains, where his younger brother died.

的知 already 70,・he said in an interview, 殿nd the memories of those over 80 are already fading. So perhaps this time was the last opportunity for us to resist.・/p>

その一人である沖縄県議会の仲里利信議長は、教科書問題に不快感を示し、62年の沈黙を破って自らの戦争体験を語った。

仲里さんの家族が難を逃れたガマ (濠) では、彼の家族に日本兵が2個の毒入りおにぎりを手渡し、仲里さんの妹といとこに与えるように言った。彼の家族は山に逃れ、そこで弟が亡くなった。

 「私はもう70歳ですが、80歳以上の人達の記憶は薄らいでいます。だから今が私達が抵抗出来る最後のチャンスなのかもしれません」と仲里さんは語った。(Red Foxさん訳)

                     ◇

 

■琉球新報により伏せられた仲里証言の“ある部分”■

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

(略)

 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
 (琉球新報 6/21 9:50)
 
                    ◇
 
「11万人」集会の実行委員長として、又「上京要請団」の団長としてすっかりテレビ露出の多くなった仲里県議会議長だが、
 
その前に「毒入りおむすび」証言で既にネット上では全国区の有名人になっていた。
 
だが、仲里議長の証言場面を動画で検証すると、琉球新報記事は証言のある重要部分を敢て伏せている。
 
仲里議長は、動画では概ね次のように話しているが、
 
上記新報記事では「壕に退避していたら妹がワーワー泣き出したので、(壕の中にいた)皆さんが出て行きなさいといったが、出て行くわけにも行かない」の部分は省略されている。
 
この部分は「壕から日本兵に追い出された」という巷間流布している定説とはそぐわない。 
 
つまり琉球新報は、壕から出て行けと言ったのは日本兵でなければ今まで造り上げて来た残忍な日本兵のイメージが崩れると困るのである。
 
「壕から追い出した人物」と「毒おにぎりの人物」は同じ日本兵でなければ整合性が無いのだ。
 
そこで、新報は証言のある部分を伏せて報じた。
 
「壕から出て行けといったのは同じ県民だった
 
 
 仲里証言を【動画】で検証してみよう
 
 
文字おこしすると概ね次のようになる。
 
≪壕に退避していたら妹がワーワー泣き出したので、(壕の中にいた)皆さんが出て行きなさいといったが、出て行くわけにも行かない。

ある人突然着剣した銃を持った日本兵が3人壕に入ってきて三才になる従妹に白いおにぎりに毒を入れて食べなさいといった。

家族一緒に死のうと壕を飛び出した。≫

 

「毒おにぎり」の仲里議長の証言もそうだが、それを報じる琉球新報が更に事実を隠蔽するようでは、沖縄の新聞は・・・、

何としてでも「沖縄県平和祈念資料館」に展示されている「銃剣で親子を壕から追い出す日本兵像」のイメージを造りたいのだろう。

 

参考エントリー毒入りおにぎりを渡された県議会議長

◆関連ブログ:沖縄集団自決問題 NYタイムズ記事検証

⇒最後にクリックお願いします

コメント

戦争マラリヤ 疎開秘話3 大本営の密使

2021-06-21 04:49:54 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

 

疎開秘話3 大本営の密 使2012-01-18

沖縄タイムス+プラス プレミアム

日本軍の命令でマラリア蔓延地に強制避難 八重山で3600人病死の悲劇 住民が36人の証言集発刊 

2020年8月28日 14:00有料

 【八重山】八重山戦争マラリアを語り継ぐ会(潮平正道会長)は15日、証言集「命の輝きを求めて-マラリアを生き抜いた人々の証言」を発刊した。ことしは結成10周年で、証言をまとめたのは初めて。戦時中、石垣島を中心にマラリアに侵されて家族を失うなどつらい体験をした36人から聞き取り、手記を含めて38編をつづっている。

 自らも体験者で手記を寄せている潮平会長らが市内で記者会見。軍命でマラリア有病地に避難を強いられ、八重山全体で3600人余が犠牲になったことを挙げて、「証言を集めて残さないと、歴史の中の重要な部分が消えてしまうという危機感がある。後世に残すことを決意し、努力した」と意義を語った。

 当初は2015年の戦後70周年に刊行を目指した記念事業。証言の掘り起こしという課題と向き合って13年に着手したが、思うように計画が進まず7年越しの発刊になった。証言者のうち9人が完成を待たずに他界したという。

 編集長を担った西村幸吉さんは「当事者が戦争体験を語るのはとてもつらかったと思う。しかし後世のためにと頼み込んで話してもらった。再び戦火が起きることがないようにしたい」と引き締めた。

 江川義久副会長は「沖縄本島や県外の人に読んでもらい、戦争マラリアの理解を深めてほしい」と強調。玉城功一前会長は「戦中、戦後を生き抜いた証言者の命の輝きに触れることができる」と活用を呼び掛けた。

 県や市立図書館、市内小中高校に配布するほか、市内書店で1冊千円(税込み)で販売している。

第32軍が沖縄に着任する以前から、大本営は、沖縄住民が戦禍にさらされるのを防ぐため閣議決定により県外疎開を決めていた。 だが県外疎開、実際は思うようにはかどらず、県内のより安全と思われる場所への県内疎開を余儀なくされた。

ただ当時の法体系でも軍が直接住民に疎開命令を出すことは出来ず、第32軍は「南西諸島警備要領」を作成し県知事に協力を要請し、知事は警察の組織力でこれに協力した。

沖縄本島では、島田知事と荒井県警部長が住民疎開に尽力したが、共に殉職し県民の恩人として今でも慕われている。

だが県知事や警察の疎開指導が届かなかった離島地域ではやむなく直接軍が疎開の指導をせざるを得なかった。

同じ疎開でも県が指導した場合は命の恩人と感謝され、軍が直接指導した疎開は「強制疎開」などと、住民を殺戮させるために疎開させたような書き方をするのが沖縄紙の特徴である。

八重山で疎開を指導した山下軍曹は戦後67年経っても、八重山マラリアで住民を虐殺した悪鬼として罵倒され続けている。 

だが山下軍曹も島田県知事も、故郷に家族を残し使命を帯び決死の覚悟で沖縄に赴任した善良な父であり、夫であり兄だった。 彼らは住民を安全地帯に疎開させるという思いは同じで、唯一の違いといえば、軍服を着ていたかどうかの違いに過ぎない。

八重山住民を「日本刀で脅し、マラリアの汚染地域に強制的に疎開させた」と喧伝されている山下軍曹が、1981年にひっそりと島を訪れた時、八重山住民は「・・・戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」と抗議書を突きつけたという

その後山下軍曹は2度八重山を訪れ、その度に罵倒され追い返されたという。 

なぜ山下虎雄軍曹は何度も島を訪れたのか。

山下軍曹が罵倒されるのを覚悟で3度も八重山地区を訪れたのは、自分が指導した疎開で不幸なことに多くのマラリアの犠牲者が出たことに対する贖罪の気持ちの表れではなかったのか。

山下軍曹にとって不幸だったのは、それこそ幸か不幸か、八重山地区は本島のような米軍による「鉄の暴風」に曝されることがなかったことである。

山下軍曹が八重山住民の虐殺を企む「悪鬼」ではなかった。

たまたま不幸にも八重山地区に着任したばかりに、疎開を自ら指導せざるを得なかった善良な日本人だった。

これは戦後3度も八重山地区を訪問した事実から窺い知ることができる。

その一方で同じ疎開でも、島田県知事、荒井県警部長に対する沖縄紙の記述は、彼らが軍人でないという違いだけで比較的まともである。

以下は大本営の密使  沖縄戦秘話3に加筆したものである。

         ☆

沖縄は地元出版の盛んな地域である。

沖縄戦に関する軍側から見た記録や住民側の記録が多数出版されて、地元の本屋の店頭を飾っているが、軍と住民の間に立って県民の安全確保のため奔走した県行政側から見た記録は極めて少ない。

県民の安全確保のため県内外の疎開を実行するため島田知事とコンビを組んで命懸けで尽力した荒井退造警察部長は「県民の恩人」として、島田知事と共に遺骨も無いまま、摩文仁の「島守の塔」に合祀されている。

万年筆県に寄贈へ 那覇市真地の「県庁壕」で発見(2008.7.27)

「万年筆を多くの人に見てもらうことが義務」と語る荒井紀雄さん=東京都日野市
「県庁壕」で発見された万年筆

 【東京】沖縄戦中、県民の県外、北部疎開に尽くした荒井退造・県警察部長の遺品とみられる万年筆が、近く遺族から県に寄贈されることになった。万年筆は昨年12月、那覇市真地の通称・県庁壕(シッポウジヌガマ)で見つかり、6月に東京の遺族に届けられた。
 長男の荒井紀雄さん(75)=東京都=は「この万年筆が父の物だと断定できるわけではないが、大変な犠牲を生んだ沖縄の惨禍の『証言者』だ。多くの人々に見てもらえることが、私の義務だと思う」と話している。
 万年筆を見つけたのは「県庁壕」の発掘・調査を続けている知念賢亀さんと繁多川公民館「壕プロジェクト」のメンバーら。壕内の荒井部長室前の地中から掘り出した。
 戦時中の県職員や遺族らでつくる「島守の会」を通じて送られてきた万年筆を調べたところ「並木製作所」(現・パイロットコーポレーション)が1932年発売の製品と類似。当時の標準品が3円から5円だったのに対し、見つかった万年筆は16円程度で売られていた。元県職員の板良敷朝基さん(「島守の会」顧問)は「部長以上の高官しか持っていない代物」と説明しているという。
 昨年手術を受け、通院を続けている紀雄さんは「父は生前、『家族が私の骨を拾ってくれる』と語っていたという。骨は戻らなかったが、万年筆が息子の元へ戻ってきたと父は思っているかもしれない。私も生きていて良かった」と語っている。
 「県庁壕」は、米軍が沖縄本島に上陸する直前の45年3月末から5月末までに県警察部が避難していた壕。4月から島田叡(あきら)知事も合流した。荒井部長は島田知事とともに5月末に本島南部へ移動。6月26日、知事と摩文仁の軍医部壕を出た後、消息を絶った。(小那覇安剛


                                           ◇

 

■「狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団・民族・時代にあっては通例である」■ (ニーチェ )

この言葉は昨年、沖縄タイムスと琉球新報の沖縄二紙が「11万人集会」で県民を扇動していた頃、何度も当日記で引用させてもらった。

沖縄二紙は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、「県民大会」に反対するものは県民にあらず、といった狂気に県民を追い込んでいた。

職場等でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。

個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。

そしてその背後に新聞の扇動がある。

そんな例は歴史を紐解けば枚挙に暇がないほどだ。

軍情報局から日本敗戦間近の情報を得ていたにも関わらず、朝日新聞は、終戦の前日の8月14日の社説で、従来の「国民扇動」の論調を変えることが出来ずに、「敵の非道を撃つ」といった勇ましい記事を垂れ流し続けていた。

 

■昭和19年12月の「県民大会」■

昭和19年の12月8日、「日米戦争決起大会」(県民大会)が沖縄の各地で行われていた。

その当時の沖縄の雰囲気も、今から考えると狂気に満ちたものといえるだろう。

大詔奉戴日といわれたその日の「沖縄新報」には次のような見出しが踊っていた。

けふ大詔奉戴日 軍民一如  叡慮に応え奉らん

一人十殺の闘魂  布かう滅敵待機の陣

終戦の8ヶ月も前の記事なので、「沖縄新報」が、朝日新聞のように、敗戦間近の情報は得ていた筈はないが、見出しと記事がやたらと県民を煽っていることが見て取れる。 

昭和19年12月の大詔奉戴日は、二ヶ月前の「10・10那覇大空襲」の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各民間団体が勇み立って、沖縄各地で関連行事(県民大会)を開催しているが様子が伺える。

ちなみに大詔奉戴日とは、日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことを指し、真珠湾攻撃の翌月の1942年1月8日から、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされた。

そして、同記事では「鬼畜米英」についても、各界のリーダーの談話を交えて、次のような大見出しを使っている。

米獣を衝く  暴戻と物量の敵を撃て

お題目で獣性偽装   野望達成で手段選ばぬ

泉県知事の談話なども記されているが、那覇市の各地で檄を飛ばしているのは軍人ではなく、民間団体の責任者である。

<挺身活動へ  翼壮団長会議

県翼賛壮年団では、各郡団長会議の結果、団の強化を図り下部組織へ浸透を促し活発な挺身活動を開始することとなり幹部並びに団員の整備、部落常会との渾然一体化などを確立することに報道網をはって志気昂揚に全力をそそぐことになり、・・・>(沖縄新報 昭和20年12月8日)

当時の決起大会に参加した人の話によると、興奮して演壇上で「抜刀して」県民を扇動していたのは軍人ではなく民間人であったという。 

例えば座間味島の日本軍はこれに参加しておらず、那覇から帰島した村の三役から、那覇市での決起大会の状況を辛うじて知ることが出来たいう。

では、その頃、沖縄配備の第23軍は一体何をしていたのか。

 

■第32軍は県民疎開をどのように考えたか■

ウソも繰り返せば真実となり、根拠の無いスローガンも繰り返せば歴史となる。

連日沖縄の紙面で踊る、「日本軍は住民を守らない」

という左翼の主張は、昭和19年の夏から大本営と沖縄配備の第32軍が沖縄県民の安全を守るため、県や警察と協力し、県外疎開に必死の努力をしていたという歴史的事実には全く目をつぶった、「反日運動のために捏造されたスローガン」にすぎない。

戦時中といえども法律の下に行動する軍は、当時の日本の法の不備に悩まされていた。

日本は過去の戦争において常に戦場は国外であり、そのために昭和19年の第32軍沖縄配備の時点で、国民を強制的に疎開させる法律を備えていなかった。

ドイツやフランスのように国境が陸続きの大陸国では、戦争といえば国境を越えて侵入する敵軍を想定するが、四面を海に囲まれた海洋国家の日本では、敵の自国内侵入は海上での撃滅を想定しており、地上戦を考えた疎開に関する法律は整備されていなかった。

第32軍が沖縄に着任した昭和19年当時、

何と、戦時中であるにも関わらず当時の日本には、現在の平和な時代でも具備している「国民保護法」(平成16年6月18日 「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に相当する法整備がなされていなかったのである。

そのような状況で沖縄防衛を任される第32軍が沖縄着任に先立って最も憂慮したのは、米軍の上陸により沖縄住民が戦火に巻き込まれることであった。

■県民疎開は大本営の発想■

昭和19年7月1日、大本営の後宮参謀次長は、関東軍司令部から参謀本部付きとなっていた長勇少将を特命により沖縄に派遣した。 その特命の目的は食糧不足のための兵糧の研究が表向きであったが、その他にもう一つの重要な任務を命じられていた。

同じ年の8月10日に第32軍司令官、牛島満中将が沖縄に着任するが、その一月前の7月1日に沖縄に着任し、長少将が真っ先に行ったのが住民の県外疎開調査のための県内視察であった。 

既に第32軍の参謀長を拝命していた長少将は、調査結果を第32軍司令官渡辺正夫中将(牛島司令官の前任)に報告し、司令官は陸軍省に県民の県外疎開について具申し、それを受けて7月7日に県民の県外疎開の閣議が決定される。

沖縄配備の第32軍は、長勇参謀長の沖縄着任(正式には昭和19年7月8日 )の一日前には、法整備の不備だった「県民の県外疎開」を着任前に閣議決定させるという素早い動きをしていたのだ。

大本営は米軍の沖縄上陸は必至と予測し、牛島満司令官着任の一ヶ月以上も前の昭和19年7月1日に長参謀長を沖縄に派遣したが、

これと連動した内務省防空総本部も救護課の川嶋三郎事務官を沖縄に派遣し、県民疎開の閣議決定の下準備をさせていたのだ。(「消えた沖縄」浦崎純著・1969年)

緊急閣議決定で法的根拠は得たが、第32軍の県外疎開の実施にはさまざまな困難が伴った。

今の時代で安易に想像し、軍が圧倒的権力で有無を言わせず県外疎開を命令し、実施したわけではなかった。

県民の県外疎開を管轄する政府機関は内務省防空総本部であった。

当時の法律では空襲に備えて県外疎開を強制することは防空法に規定があったが、

沖縄の場合のように地上戦に備えて非戦闘員を強制的に疎開させる法的権限は持っていなかったのだ。

当時の沖縄の状況は新聞の勇ましい扇動報道に乗せられた各民間団体の「軍人より軍人らしい民間人」の狂気が巷にあふれ、

県外疎開の必要性を説いても、それに真面目に耳を傾けるものは少数派で、県外疎開は卑怯者と後ろ指を指される有様だった。

県外疎開を民間人に直接命令する権限の無い第32軍は、民間人の安全を管轄する県に協力を求め、

県は警察の持つ組織力と機動力によることが最適と考え県外疎開の担当部署を警察部と定めた。

現在のような平和な時代の後知恵で、

「軍の命令は自分の親兄弟を殺害する」ほど圧倒的で不可避であったと「沖縄タイムス史観」は主張するが、

実際は軍隊は住民に直接命令をする権限を持たず、住民の安全を確保するための県外疎開にせも県や警察機構の協力を仰がなければ実行できなかったのである。

 

警察部長として県民の県内外の疎開に尽力し、最後は南部で戦死を遂げた荒井退造氏が、冒頭記事の荒井紀雄さん(写真)の父君である

⇒最後にクリックお願いします

コメント (2)

新・(2)貶められた旧日本兵、壕の提供/「軍の命令」で援護対象に

2021-06-21 00:58:46 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

 

「援護法」に隠された沖縄戦の真実(2)2013-07-09

 ■世界日報 7月9日(火)掲載

【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(2)


壕の提供/「軍の命令」記入で援護対象に

 昭和31年(1956年)、戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省援護課の職員らが沖縄に派遣され、沖縄戦の実態調査を行った。琉球政府社会局が昭和33年に発行した援護法関係出版物「援護のあゆみ」によると、沖縄県遺族連合会が職員と協議会を重ね、集団自決や壕(ごう)の提供などの事例についても援護法が適用されるよう強く求め、厚生省に陳情した。
 戦争の実態調査や要望を踏まえて厚生省援護課は、昭和32年7月、援護法の適用例を20種の分類で示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」を発表した。これまであいまいだった「戦闘参加者」の定義がこれによって明確になった。「戦闘参加者」の分類は以下の通りだ。

 ①義勇隊②直接戦闘③弾薬・食糧・患者等の輸送④陣地構築、⑤炊事・救護等雑役⑥食糧提供⑦四散部隊への協力⑧壕の提供⑨職域(県庁職員報道)関係⑩区(村)長としての協力⑪海上脱出者の刳船(くりぶね)輸送⑫特殊技術者(鍛冶屋)⑬馬糧蒐集(しゅうしゅう)⑭飛行場破壊⑮集団自決⑯道案内⑰遊撃戦協力⑱スパイ嫌疑による斬殺⑲漁撈(ぎょろう)勤務⑳勤労奉仕作業。

 20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。

 しかし、当時の厚生省、琉球政府、市町村、そして、遺族という四者の共同作業により、6歳未満にも援護法が適用されるようになった。

 金城和信遺族連合会会長(当時)は「援護のあゆみ」の中で、「遺族は勿論全住民が一体となってこれら戦没者の報国の精神に充二文(ママ)に応えるべく全機能を上げて一人でも時効失効なき様処理に万全を期さなければならないと強く日本政府及び琉球政府に訴えるものであります」と述べている。

 実際に「戦闘参加者」として援護法の申請をした事例を示す、沖縄県公文書館に保管されている「現認証明書」(請求時の障害が公務上の傷病であることを認めることができる書類)の文面を引用する。

 <右は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村字摩文仁付近の戦闘間に於て球部隊司令部の下士官兵数名に避難壕を立ち退くよう要請され止むなく同壕を戦闘員のため提供して立ち退き、他の壕を求めて移動する際、至近に砲弾炸裂し、全身に砲弾破片創を負い、即死したことを同一行動中に確認致しましたのでその事実を証明します。
一九六〇年二月二十日

 沖縄県遺族連合会のある幹部は「軍に積極的に協力して戦死したという表現でも厚生省から突っ返されました。『軍の命令によって』と書き込んで再送して受理されました」と振り返る。そこで、現認証明書に「軍の命令・要請による」という虚偽事実の記入をしたが、そのうち大半が「壕の提供」に関する内容だったという。

(「沖縄戦の真実」取材班

                                       ☆

> 20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。

当時の厚生省は、本来なら民間人には適用されないはずの援護法を、可能な限り、というより「拡大解釈」をしてまで沖縄住民に適用しようとした。

 そこに「軍命捏造」という意図せぬ結果が生じ、後に反日左翼勢力の付け込む隙を与えることになる。

政府(厚生省)は、軍命と明記されていない申請書には「軍命」という不実(嘘)を書くように暗示する「書き換え」の指導をした。

例を挙げると、厚生省の1960年「戦闘参加者に関する書類」に、次のような記載がある。

昭和34年(‘59年)10月12日付け 厚生省引揚援護局未帰還調査部第四調査室長から⇒琉球政府社会局援護課長へ 「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」

別紙記載の戦斗協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦斗協力内容が消極的に失すると審査課より返却されたので、死亡者は要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項欄記載の如きこともあったものと推定されるのでその旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような、積極的な戦斗協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認証明欄の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います

厚生省から琉球政府側への「指導」も1959年ごろまでは、「積極的な戦闘協力」などと曖昧な指導をしているが、沖縄住民の援護金申請は全て受理してあげたい、という善意が働き、厚生省の「指導文書」も1962年になると、以前に比べてあからさまな「軍命捏造」の指導が目立ってくる。

その例がこの文書だ。

 ■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)

「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から⇒琉球政府へ

≪「要調査事項」昭和20年5月10日食糧を求めるため部隊に行ったのは、軍命令か 申請書の記述ではその点が不明であるから解明されたい

と軍命の有無を重視するよう明確に指導している。

さらに具体的に個々の「戦闘協力者」を、「軍命による」と記入するように、その時の状況に至るまで「指導」した例が、次の例である。

これは現在のお役所の常識から考えれば、「越権行為」といわれても仕方がない「指導」である。

 

「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧 

当時50歳の県庁職員についての「指導」

≪壕生活の指導並びに避難誘導のため摩文仁村に派遣されたが、摩文仁村摩文仁で避難誘導任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認め難いとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか。 例えば軍命により弾薬運搬又は食糧の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉職というが、公務の内容はなにか軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか・・
などと具体的に書き換えの仕方を指導している。

 
当時9歳の学童についての「指導」

≪艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他の避難場所を探している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した
という表現パターンで、書き換えが行われている。

 ■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」

認定保留者=座間味村 明治9年生まれ、昭和20年3月28日「隊長命令による自決」という内容で戦闘参加者として認定されている。   

>「隊長命令による自決」

ここで座間味村の隊長は梅澤裕氏と指名されたことになり、後に反日左翼勢力が「残虐な日本軍」と主張する根拠となる。

 

■1966年「援護関係表彰綴」

宮村幸延座間味村総務課長の功績調書

宮村幸延座間味村総務課長は、1957年8月、慶良間戦に於ける集団自決補償のため上京 1963年10月集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定と記されている。

宮村幸延氏は、連載の第6回目に登場するが、沖縄側は琉球政府社会局援護課のみならず、援護金申請書の直接の窓口である座間味村の援護係の宮村氏が直接上京し、厚生省と掛け合って援護金受給に大きな功績を成し遂げている。座間味村役所には宮村氏の「功績を讃える表彰状があるという。 幸延氏は梅沢氏に「侘び状」を書いた事で、とんだ騒動に巻き込まれることになる。その顛末は連載第6回をご期待下さい。

 国(厚生省)、琉球政府援護課、各市町村の援護係そして遺族会のメンバーの4者が一致協力し、祖国防衛の戦ため、軍人・軍属に負けずとも劣らない戦いをした沖縄の民間人に対する援護金支給の努力をしたのである。

その結果、1981年には6歳未満への援護法の適応が認められることになる。

⇒最後にクリックお願いします

コメント

新・貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実

2021-06-20 09:20:17 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (1)2013-07-08 


世界日報に寄稿した連載沖縄戦記「貶められた旧日本兵」の掲載が始まった。

連載第一回は、何と、一面トップの掲載です!

 ■7月8日(月)世界日報掲載記事

【連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (1)
「残虐な日本軍」は濡れ衣/遺族が長い沈黙破る


 毎年、6月23日の「慰霊の日」前後には、沖縄メディアが一斉に特集を組み、沖縄戦の「記憶の継承」という名目で反軍感情をあおる。
 読者が目にするのは、日本兵に「壕を追い出された」、「食糧を強奪された」、「自決を命令された」など、旧日本軍の悪行を糾弾する記事のオンパレードだ。旧日本軍を糾弾するだけでなく、戦後、米軍基地が置かれている状況に対して政府への不満をむき出しにする。

 果たして日本軍は悪行の数々を重ねていたのだろうか。また、何ゆえ沖縄メディアはこれほど執拗に日本軍の糾弾に狂奔するのか。

 沖縄戦の真実に迫ろうとすると、「援護法」という大きな壁に突き当たる。援護法とは、正式には昭和26年(1951年)に成立、翌年4月に公布された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」である。援護法の目的について、第1条にはこう書かれている。

 「軍人・軍属及び準軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護する目的としている」

(援護法は昭和26年成立のサンフランシスコ平和条約に基づく日本の独立と連動している。同条約は翌年の1952年(昭和27年)4月28日に公布された。⇒【おまけ】参照

 ここで言う「準軍属」とは、旧国家総動員法による徴用者や戦闘参加者、義勇隊、特別未帰還者などを指す。すなわち、軍などから要請を受けて戦闘などに協力した者のことである。

 援護法は昭和28年4月、「南島諸島に現住する者に対し、戦傷者戦没者遺族等援護法を適用する場合の取扱について」と題する通知により、沖縄在住者に適用された。
沖縄県福祉・援護課によると、援護法により救済された戦没者等は、軍人・軍属が2万5千人、一般県民(戦闘協力者)5万5千人で沖縄県民の全戦没者の7割近くに及ぶ。

 昭和34年には、一般住民も「戦闘参加者」として援護法が適用拡大された。本来、軍人・軍属・準軍属にしか適用できないものだが、日本軍の「命令」「要請」があったと申請すれば沖縄の民間人も給付が受けられるようになった。

 当時の厚生省と県や市町村、遺族らとの共同作業に基づく寛大な措置が「残虐非道の日本軍」という神話を生む素地になった。沖縄メディアが機会あるごとにあおる「日本軍の悪行」の記事・報道を忸怩(じくじ)たる思いで眺めながらも、これまで口を固く閉ざす人々がいた。援護法の成立から申請業務に関わり、誰よりもその「民間人への適用」のために強いられた矛盾を承知している遺族会のメンバーだ。

 戦後すでに68年が経過している。遺族会にも援護法成立当時の事情を知る人が少なくなってきた。沖縄県及び各市町村が発行する戦史には、沖縄防衛のために命をささげた日本軍の将兵を悪鬼のごとく罵倒する言葉が並ぶ。沖縄県平和祈念資料館(糸満市)の展示も例外ではない。

 「沖縄戦を捏造されたまま放置してはいけない」「あの世で英霊たちに会っても申し訳が立たない」

 このたび、遺族会の幹部が、長い沈黙を破って、援護法関連の資料を提供してくれた。その中で、援護法を一般住民の遺族に適用させるため、歴史を歪曲してしまったことが、県が作成した極秘文書により明らかになった。

 メディアが喧伝する「残虐非道な日本軍」の象徴が、慶良間島の集団自決だ。「住民を軍命で集団自決に追いやった」とされる梅澤裕、赤松嘉次両隊長は極悪人として糾弾されている。

 沖縄メディア、沖縄教職員組合(沖教組)、自治労などの反日左翼勢力が、援護法のからくりを利用した。「軍命に従い犠牲となった人」を対象とする援護法は、「残虐な日本軍」のイメージを捏造しようとする左翼勢力には都合のよいものだったからだ。

 援護法の拡大適用は、無慈悲で残酷な日本兵像を作り上げた。これが、沖縄の現在にいたるまでの反日感情や自虐史観を形成する一因となっている。援護法の仕組みを明らかにすることにより、濡れ衣を着せられた日本軍将兵の名誉を回復させたいというのが遺族の願いである。

(「沖縄戦の真実」取材班)

 

                    ☆

 

沖縄の地元紙には数多くの沖縄戦の生き証人が登場する。 ほとんどの証言は客観性に乏しく、明らかな嘘とわかるものも多々ある。 

■毒おにぎりの大ウソ⇒仲里県議会議長

壕に避難していた幼子に、途中から入ってきた日本兵が毒おにぎりを食わそうとしたので、家族共々壕を逃げ出し命拾いしたと言う証言が派手に掲載された。 

実際に琉球新報に掲載された記事だが、食糧不足に悩む当時はおにぎりは滅多に口にすることのないご馳走。 

その大事なおにぎりに毒を塗って少年の殺害を謀るより、銃剣で脅して壕から追い出したほうが容易であることは誰にでもわかること。

その幼子の兄が当時の仲里利信沖縄県議会議長のであることが話題になった。

証言者が嘘をついたか、さもなければ当時の厳しい食料事情を知らない若い記者が、聞き取りの際歪曲・捏造したことくらい読者は容易に想像がつく。

 これに関して証言者の仲里氏は以後沈黙を押し通し何も語っていない。(【おまけ】2参照)仲里氏の「毒おにぎり」は「残酷な日本兵」の象徴として朝日新聞を通じてニューヨークタイムズにも掲載された。

今年の6月12日付琉球新報の次のコラムでも、その類のいい加減な証言が、あたかも真実であるかのように語られている。

 自然壕の暗闇の中、赤ん坊が次々に泣き出した。「黙らせろ」。敵に居場所を知られるのを恐れた日本兵が怒鳴った次の瞬間、銃声が響いた。7歳ほどの少女が前へ崩れ落ちた ▼糸満市の仲松庸全さんが沖縄戦で目撃した日本兵による少女銃殺の場面だ。「軍隊は住民を守らない。それどころか住民を殺害したり、死に追いやったりした」。体験から得た最大の教訓という(コラム「金口木舌」より) > 

証言者の名前を記すと全てが真実のように受取られがちだが、 上記コラムの事例が嘘である証拠は、米兵の目を恐れる日本兵が赤ん坊の泣き声は気にするが、銃声が米兵の耳に入るのを気にしていない。 これなどは戦争体験者の証言ではよくでてくる矛盾である。

壕に潜んでいた母親が、赤ん坊の泣き声が気になり、湿ったオムツを赤ん坊の口に当てて窒息させたと言う悲惨な話は今でも密かに語られている。 それが新聞などで証言となって公開されると、そこに「残虐非道な日本兵」が介在し、「日本兵によって殺された」という話に変化していく。 わが子を自分の手にかけた贖罪意識のある母親としては、せめて「残虐非道な日本兵に殺された」とでも証言しなければやりきれなかったのだろう。

この場合日本兵の名前が特定されていないからまだ救いがある。

だが、「座間味島の戦隊長、渡嘉敷島の戦隊長」などと名前を特定されたのが、慶良間島集団自決の神話であり、悲劇である。

そして名前を特定した理由が、当時の厚生省役人の漏らした「軍命があったなら集団自決の遺族も援護法の適用が可能」というひと言だという。

以後「軍命による集団自決」が、集団自決のあった座間味村役場の公式見解になった。

 集団自決の遺族に援護法の適用するための「拡大解釈」という厚生省の善意。 

それが、仇となって2人の軍人に「集団自決を命じた極悪人」という汚名を着せることになる。

 歴史の皮肉である。

 

【おまけ】

きょう「4・28」 沖縄「屈辱の日」を知ってますか?2016年4月28日 05:04

 日本政府は52年7月、米国民政府との連絡を担う那覇日本政府南方連絡事務所(南連)を設置したが、沖縄の住民を「琉球住民」と定義し、沖縄在住で日本本土の国籍を持つ「日本人」とは区別していた。南連の沖縄政策は、「日本人」は保護の対象だが「琉球住民」は対象外としており、識者は「沖縄差別の源流ではないか」と指摘している。
 2013年4月28日には、安倍晋三首相が主権回復の日式典を催し、沖縄からは強い反発の声が上がった。
 28日午後6時15分から、沖縄平和運動センターが県民集会とデモ行進を県庁前で開く。

【おまけ】2

毒入りおにぎりを渡された県議会議長 2007-08-08

沖縄タイムス 2007年8月7日(火) 朝刊 29面  
 
「県議会が主体」期待/「集団自決」修正 県民大会準備委

 高校歴史教科書の検定で、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に関する日本軍関与の記述が削除・修正された問題で、「教科書検定意見撤回を求める県民大会準備実行委員会」は六日、県庁で会見を開き、大会への参加を呼び掛けるアピールを発表した。県子ども会育成連絡協議会の玉寄哲永会長は「県民代表の県議会が中心となって超党派の大会を開催してほしい」と述べ、県議会各会派がまとまって大会の主体となるよう期待した。
 玉寄会長は「県議会は検定撤回を求める意見書を二度にわたって可決している。教科書の改ざんを許さないという一点で各会派が一致できるはずだ」とし、県議会が県など各団体に参加を働き掛けていくよう求めた。九月九日に糸満市摩文仁の平和の礎前で開催を予定しているが、「われわれの考えであり、場所や時期は変更もあり得る」としている。
 同準備委員会は七月二十五日に仲里利信県議会議長に協力を要請。県議会は八日の各派代表者会議で協議する
 
呼び掛け団体には沖子連のほか、県婦人会連合会(小渡ハル子会長)、県老人クラブ連合会(花城清善会長)、県PTA連合会(諸見里宏美会長)、県高校PTA連合会(西銘生弘会長)、県遺族連合会(仲宗根義尚会長)の六団体が参加。賛同団体に、沖縄戦を体験した元女子学徒九団体で構成する「青春を語る会」など七団体が加わっている。
 アピールは「日本軍という主語が(検定で)消され、追いつめられて『集団自決』した人、とまるで住民が勝手に死んだとも読める教科書が全国の子どもたちの手に渡ろうとしている」と危機感を表明。「文部科学省は教科書検定制度の『中立・公正』を主張するなら『軍の関与はあった』とする体験者の声をどう認識しているのか」とし、審議会の議論内容を公開するよう求めている。

                        ◇

参院選で敗れた自民党推薦の西銘候補は、集団自決に関する教科書検定問題は撤回せよと主張していた。

当選した極サ候補候補と同じ意見た。

選挙直前、全県市町村議会を始め県議会まで反対決議を出してしまった影響だと考えられる。

選挙前、未確認ながら次のような情報を得ていた。

<沖縄集団自決に関する文科省の検定をめぐって心配な兆候があらわれています。沖縄の検定撤回運動にあおられて、参議院選挙を前に政府・自民党が反対派と何らかの密約をしかねない雲行きなのです>

結果は自民党の惨敗だった。

県議会決議では自民党の良識派が最後ま粘ったが、連日の異常なまでの煽動に押し切られた形で決議した。 それも二度までも。

これ以上の愚行はここで踏み留めるべきだ。

だが、サヨク勢力は9月9日(係争中の裁判の出張証人尋問の前日)に開催予定の「県民大会」に、県議会を引きずりこむ計画のようだ。

同準備委員会は七月二十五日に仲里利信県議会議長に協力を要請。県議会は八日の各派代表者会議で協議する

仲里利信県議会議長、この方の名を見ると次の衝撃的見出しの琉球新報記事がすぐ脳裏に浮かんでくる。

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

 

 (略)
 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
 (琉球新報 6/21 9:50)

                   ◇

今ではおにぎりは庶民的な食べ物だ。

懐が不如意の場合は「コンビニのおにぎりで済ます」ことは庶民なら一度は経験した感覚だろう。

コンビニでおにぎりを万引きし、店員に追い詰められて自殺した男がいる。

たかがおにぎり泥棒を追い詰めたと店側に非難の電話やメールが殺到したという。

おにぎり万引きして自殺  (8月5日 06:01)

たかがおにぎりと言うが餓死寸前のものにとっておにぎりは宝石にも勝る。

貧しかった戦前の沖縄では米の飯は銀飯(ぎんめし)といって滅多にお目にかかれない貴重品だった。

戦時中は更に食料不足が重なり常食の芋でさえままならなかった。

沖縄戦ではそんな食料が底をついた状況にあって、大事な銀飯のおにぎりに毒を塗して泣く子に食えと言う珍しい日本兵がいたことになる。

現代の感覚で考えると「泣く子に毒入りおにぎり」を与える日本兵は、残虐な日本兵の象徴だが、当時はお茶碗に飯粒一つ残しても怒られた。

この日本兵は日本人の美徳「もったいない」を知らない罰当たりな男だったと言うことになる。

この証言者の仲里利信県議会議長は集団自決の現地調査をした県議・文教厚生委員でもある。

仲里議長は文教厚生委員会でも戦争体験を語っているが沖縄タイムスの記事によると、日本兵が毒入りおにぎりを泣く子に・・・」という衝撃的な一節は無い。

同じ人物が語る戦争体験も報じる新聞社によってこのように違うものなのか。

「毒入りおにぎり」は「沖縄県平和祈念資料館」で沖縄住民に銃を向ける人形と並んで、残酷な日本兵を象徴する双璧となるだろう。

その貴重なはずの戦争体験のハイライトが“あの”沖縄タイムスの記事では語られていない。

 

体験語り歩み寄り 仲里議長(沖縄タイムス)

体験語り歩み寄り 仲里議長

 検定意見の撤回を求める意見書案を全会一致で可決した文教厚生委員会(前島明男委員長)。委員会終了後、与野党の委員は互いに歩み寄り、固い握手を交わした。

 意見書案の取り扱いをめぐっては、与野党の主張がぶつかり合い、何度も暗礁に乗り上げた。しかし、この日の委員会では終始、「同じ気持ちで採決したい」「どうしても意見をまとめよう」との声が上がり、政治対立を超えた「県民の意思」が示された。

 開始から三十分たった午後二時すぎ、着地点が見えないまま議論が進む中、委員の一人で県議会議長の仲里利信氏(自民)が「これまで話したことはないが、参考になれば」と口を開き、自身の沖縄戦体験を語り始めた

 「壕から追い出されたり、飛行機から丸見えの岩穴に一日隠れたりした。撃たれる覚悟もしたが撃たれなかった。何も食べられなかった弟は、満一歳で亡くなった。戦争とはこういうもの」と静かに訴えた。

 午後二時十五分、委員会は終了した。

 各委員の顔には笑顔が浮かび、安堵感が漂った。

 自民の伊波常洋政調会長は、共産党県委の前田政明副委員長や社大の比嘉京子書記長らと握手を交わし、談笑する場面も見られた。

                     ◇

仲井真県知事は辛うじて「県民大会」の主催を県がするのは避けたが、知事本人が参加するかどうかは不透明だ。

毒入りおにぎりのトラウマを証言する議長のいる、県議会の各派代表者会議が今日(8日)行われる予定である。

まさか県議会主催の「県民大会」なんて愚かなことは無いと思うが。

仲里議長さん、県知事の名言を思い出してください。

県議会が『市民運動』を主催或いは、これに深く関わったら禍根を残しますよ。

 

◆参考:県が「市民運動」を主催するわけにはいかないでしょう

 

⇒最後にクリックお願いします

コメント (2)

「貶められた日本兵」連載の趣旨

2021-06-19 14:24:44 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

原稿;貶められた日本兵」連載の趣旨2013-11-13 

世界日報に「貶められた日本兵」の連載を寄稿することになった。

連載の趣旨

■世論形成で裁判の援護射撃

7月29日の「パンドラ訴訟」の高裁判決日を約2ヵ月後に控えた6月。支援団体から、裁判を側面から援護する目的の世論形成の話が持ち上がった。

 それまで裁判の経過を逐一報道してきた世界日報に「援護法のカラクリ」について連載記事を掲載してもらうというのだ。 世界日報那覇支局との打ち合わせの結果、20回連載の内諾を得、原稿は6月末日まで書き上げ提出した。ところが、同紙本社からクレームがついた。

 今時「援護法」などという地味なテーマで20回も紙面を割くわけにはいかないというのだ。

 「パンドラ訴訟」はすべての沖縄メディアに黙殺されているため、沖縄県民でさえこの裁判の存在はほとんど知られていない。

 そんな状況で地味な「援護法」の特集記事など掲載しても誰も読まない、という本社の意見も一応は理解できた。

だが、「援護法のカラクリ」の解明なくして、沖縄集団自決の解明はありえない。世界日報那覇支局の粘り強い本社説得が効を奏し、結局、20回のうち資料的価値のある8回分を抜粋、判決日の直前まで連載という妥協案を飲まざるを得なかった。

 まったく掲載されないより、たとえ8回でも、まだ援護射撃になると考えたからだ。

 「パンドラ訴訟」は当初、被告琉球新報を「集団自決論争」という土俵に引きづり出す作戦で出発した。

 だが、琉球新報側ははそれを忌避し、「2重掲載」など契約上の問題に矮小化する作戦に徹し、最後まで「集団自決論争」の土俵に上がることはなかった。 

集団自決の真相解明には「援護法のカラクリ」の解明が不可欠である。

 裁判では立ち入る機会のなかった「援護法のカラクリ」について検証し、側面から裁判を支援しようというのがこの連載記事の大きな目的なのだ。

そこで世界日報には掲載されなかった12回分を基に書き下ろしたのが本稿である。

 多少重複する部分もあるがその点ご容赦いただきたい。



■未公開資料を入手

「援護金のカラクリ」が、沖縄の集団自決論争に深く関わっているといわれて久しい。だが、肝心の「援護金」関連の公的資料はプライバシーに関わる案件ということで、これまで一般には公開されていなかった。

 「援護法のカラクリ」とは専ら、日本軍を誹謗中傷する左翼陣営の専売特許として用いられてきた。石原昌家沖縄国際大学名誉教授などのサヨク学者が沖縄戦の研究という大義名分を掲げこれら資料を独占してきたからだ。

 石原氏が頻繁に沖縄紙に発表する「援護法」関連の論文は、独占した資料を都合のいいように解釈(歪曲)し、「国が援護金の給付という飴を与えて、その代償として国による沖縄戦の捏造が行われた」という類のものだった。石原氏は「国による沖縄戦の捏造」とは、「沖縄の集団自決に軍命はなかった」と国が歴史歪曲した」など主張している。

ところが援護法に関する非公開資料の分析とこれまで口を閉ざしていた遺族会の方々の証言を検証すると、「援護法のカラクリ」とは、実際には存在しなかった軍命を援護金受給の方便ため「軍命があった」と虚偽の記入をした事実が判明した。 

つまり「援護法のカラクリ」とは、反日サヨクが日本軍を貶めるため、沖縄住民に示した政府の「善意」を逆手に取った卑劣な手口であった。

■沖縄経済を支えた援護金

米軍統治下の沖縄の経済に大きく貢献したのは「米軍用地代」と「援護法受給」だといわれている。

軍用地については、新聞などで絶えず取り上げられるので、その是非はともかく、軍用地代金が沖縄経済に貢献したことは誰もが認めることである。

 だがもう一つの援護法受給金については、プライバシーの要素などが絡み、マスコミの話題になることもなく、その実態は当事者だけの内密の問題とされていた。

 戦後、子どもを抱え親戚の厄介者扱いされていた未亡人が、突然莫大な援護法の支給を受け、親戚が群がってきたという話も仄聞するが、受給者の大多数は受給を内密にしており、表立って受給を語る人は少なく兄弟でさえ秘密にしている人もいるくらいだ。

渡嘉敷島の集団自決の生き残りで、親兄弟5人の家族を手にかけたことを「軍の命令」だと証言し、大江・岩波集団自決訴訟では被告側証人として証言台に立った金城重明氏は、星雅彦氏のインタビューに答えて自身が援護法を受給したことを否定している。

 金城重明氏は兄重栄氏と2人で5人の家族を含む、複数の村人を殺害したと証言している。

 援護法の受給手続きさえすれば、金城兄弟は「軍の命令により」親兄弟を殺害したのであるから、少なくとも親兄弟5人分の遺族として莫大な額の援護金を受給しているはずだが、金城重明氏はこれを否定しているのだ。

 重明氏は青山学院大で神学を学びその後沖縄キリスト教短大の設立にもかかわった。後には教授から学長まで務めているが、その当時の一連の学費はキリスト教教会の援助によるものであり、援護金の給付によるものではないという。
重明氏に取材した星雅彦氏によると、当時のキリスト教会は重明氏の大学進学の援助をするほど資金的余裕がなかったとのこと。

 ただ重明氏は、戦後座間味村に留まってペンション経営をした兄重栄氏(故人)の方に援護金が行っている可能性は否定しなかったという。



■大甘な厚生省の対応ーそのわけは?■

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘し、できるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも表面上はそう見える。 お役所仕事といわれる所以である。

ところが沖縄戦に関わる「援護法」の給付金申請の場合、役所の対応は豹変する。

 それも申請者が沖縄県民に限ってだが、多少の記入ミスには目をつぶってでも何とか給付しようという態度に変わってしまうのだ。

つまり当時の厚生省は、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦と沖縄県民に限り拡大解釈し、軍に協力したという虚構を黙認し、何とかして給付させたいという善意が働いた。

 かくして書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見された。当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にしたのだ。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

厚生省の沖縄県民に対する奇怪な対応はこれだけではない。

申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場に暗示を与えたのもその一つだが、厚生省側は沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。

沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である。

当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

沖縄県出身の祝嶺和子さんは、1958年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

祝嶺さんは戦後、元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、1954年、厚生省に入省したが、沖縄出身ということで「沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい」と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた。 祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 祝嶺さんは「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」 と証言する。

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。
集団自決における「軍命」は援護金支給のための方便であり、それを指導した援護課の拡大解釈による強引な援護金支給は、政府主導の公金横領といわれても仕方がない。

 だが、結局一連の政府の指導は「集団自決に軍命はなかった」という証明に他ならない。

■厚生省を動かしたもの

ここで一つの大きな疑問が沸き起こる。

なぜ援護法の沖縄への適用が大甘になったのか

当時の厚生省を突き動かして、拡大解釈までさせて県民に援護法適用をさせたものは一体誰だったのか。

 これは厚生省独自の判断とは考えられず、だからといって当時の政府高官の判断だとも考えにくい。

「援護法」を「裏手引書」まで作成し、沖縄住民にだけ大甘な適用をした理由は、「県民に対し後世特別のご高配を」と結んだ大田実少将の電文を知る世論の同情もあってのことと考えられる。

勿論「援護法」の成立・適用に関わった多くの官民関係者の努力を見落とすわけには行かない。厚生省の担当官・比嘉新英や琉球政府社会局長そして援護業務に携わった山川泰邦、そして座間味村役場の援護係・宮村幸延らが「お役所仕事」の枠を乗り越えて努力したことや、遺族会幹部の方々の努力も見逃すことは出来ない。

 同時に「沖縄病」に取り付かれた茅誠司東大総長ら当時の知識人たちの沖縄への同情心も彼らの行動を後押しした。

だが、これだけの理由で、当時の厚生省が独自に沖縄住民に対して大甘な対応をしたとは考えにくい。

■「潜在主権」と「天皇メッセージ」

大田海軍中将の電文や関係者の努力だけで法治に厳しい日本の官僚機構である厚生省が、違法とも取れる拡大解釈までして沖縄住民に援護法の適用をした理由は解明できない。

官民関係者や政治を超越した何か大きな力が当時の厚生省に、沖縄への善意を吹き込んだ、としか考えられない。

ここで忘れてはならないのが沖縄の「潜在主権」にこだわった昭和天皇による「天皇メッセージ」の存在である。

もとより1979年にその存在が公表された「天皇メッセージ」を、1950年当時の関係者が知るはずもなかった。

 ただ昭和天皇が大田少将の電文を読んだ可能性は充分考えられる。理由は昭和天皇が20歳の皇太子時代、ヨーロッパ旅行時の船旅の第一歩を印されたのが沖縄であり、その沖縄が米軍の銃弾に蹂躙されたことを大田少将の電文で知り心を痛めたことも想像に難くないからだ。

人間誰しも多感な青春時代に訪れた土地の想い出が深く心に刻まれるもの。ましてや長いヨーロッパ旅行の船旅のお召し艦の艦長が沖縄出身の漢那憲輪和少将とあれば、皇太子時代の昭和天皇が船旅の最初に上陸した沖縄のことを特に身近な土地と考えてもおかしくはない。

裕仁親王は沖縄訪問を大変喜ばれ、外遊の日を記念して、毎年三月三日、艦長の漢那少将を始め関係者を宮中に招いて午餐会を催したという。

お召し艦「香取」が宮古列島沖を航行中、艦の甲板上に飛び魚が躍り込んできた。それから46年後の67(昭和42)年、宮中新年歌会始で、昭和天皇は皇太子時代沖縄で見た飛び魚を回想し和歌を詠まれた。

「わが船にとびあがりこし飛魚をさきはひとしき海を航きつつ」(「さきはひ」は幸いの意味) 

昭和天皇は青春時代に訪問された沖縄のことをしっかり心に刻んでおられ46年の時の経過を乗り越え青春時代の想い出を和歌に詠まれたのだ。御製碑は宮古神社に建立されている。

皇太子(裕仁親王)の沖縄訪問時、特筆すべきエピソードがある。最近の沖縄ブームで、沖縄ソバやゴーヤーチャンプルーなどが全国区になったが、それでも「エラブ海蛇」を食する人は極めて少ない。

 裕仁親王は沖縄県民でさえ好き嫌いの激しい沖縄特産の「エラブ海蛇」に興味を示され、漢那艦長に食べてみたいと所望された。

 艦長は急遽、「エラブ海蛇」を取り寄せて食卓に供した。裕仁親王は「たいへんおいしかった」と漢那艦長に告げている。

ここまで縷々と青春時代の昭和天皇と沖縄の関係について書いたのは、終戦直後の1947年の時点で、昭和天皇が当時既に米軍統治下にあった沖縄の将来について思いを馳せ、「臣吉田」と自称するほど昭和天皇を敬愛していた吉田茂首相を通じ、何らかの影響を厚生省に及ぼしていた事実を明らかにしたいからだ。 

■吉田茂とアレン・ダレスの熾烈な戦いー肉を切らせて骨を断つ

米軍は沖縄を「信託統治」により、将来は米国の自治領にしようと目論んでいた。 

昭和天皇は米国に対し「天皇メッセージ」と言う形で、

(1)沖縄住民の主権の確保、

(2)沖縄の分離ではなく期限付き租借、

(3)本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用)、

(4)本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用など)、を米国側に認めさせた。

これは紛れもない歴史の事実だ。

昭和天皇を敬愛していた吉田茂首相は、1951年の講和条約締結にあたり、米国務省顧問のアレン・ダレスと丁々発止の外交交渉をしたことが外交文書の公開で明らかになっている。

戦勝国の権威をバックに、自国の権益を要求するダレスに対し、まだ独立もままならぬ敗戦国の首相がどのような秘策で対応したのか。

吉田首相とダレスの交渉の前哨戦は、それに先立つマッカーサーと昭和天皇との「外交交渉」によって大方の下地は出来上がっていた。

 昭和天皇は、マッカーサーの6年間の在任中に11回も会談を持っている事実から、終戦直後のこの時期に「君臨すれども統治せず」という自身の信念を破って「天皇親政」による外交交渉を行っていたことがわかる。

 その期間に沖縄の将来を慮る「天皇メッセージ」が寺崎御用係を通じてワシントンに伝わった。

吉田首相は、昭和天皇の意を受け「潜在主権」という切り札を根拠に、骨を切らせて肉を断つ覚悟で、沖縄に関する上記の「本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用)」「本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用)など」、を米国側に認めさせた。

そもそも「天皇メッセージ」とは、1979年、進藤栄一・筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館から「マッカーサー元帥のための覚書」を発掘し、雑誌『世界』で発表したもの。 

同覚書には、宮内府御用掛かり寺崎英成がGHQ政府顧問ウイリアム・シーボルトを訪れ、天皇からのメッセージを伝えたと記されている。

これがいわゆる「天皇メッセージ」とされるもので、概略こう述べられている。

「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略)さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本が主権を残したままの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている」

沖縄に流布する大きな誤解の一つだが、沖縄保守系にも「天皇メッセージ」とは昭和天皇が自身の延命のため「沖縄をアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。

 だが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての陛下の「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。

「天皇メッセージ」の重要ポイントは昭和天皇が、沖縄に「潜在主権」を強く望んだこと。つまり日本の主権を残したまま米国に統治を委任すること希望したことだが、これを親子の場合で言えば、次のように例えることができる。

破産状態で子(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が金持ち(米国)に、戸籍はそのまま残して一時里子に出したようなものであり、戸籍を移籍する養子縁組(米国領にすること)とは根本的に異なる。

当時戦勝国のリーダーであり世界一の経済力を誇る米国の統治下にあった沖縄では、食糧不足で喘ぐ祖国日本では食すること出来ない米国産の豊富な食料供給の恩恵に浴した。

 その名残の一つがランチョンミート文化であり、戦前の沖縄にはなかったビーフステーキやハンバーガーなど現在も続く牛肉文化の繁栄である。

■「日本国への帰国を証明する」・・・パスポートに押されたゴムスタンプの意味

米軍統治下の沖縄で1952年の講和発効の日を経験した者は、「潜在主権」という言葉を一度は耳にした経験があるだろう。だがその意味を身を以って体験した者は少ない。 沖縄出身の筆者がまだ10代の頃体験したエピソードを披露する。

少年(筆者)が進学のため米軍統治下の沖縄を後にし祖国日本の「出入国・通関」に足を踏み入れたときのことだ。携行していた「パスポート(日本旅行証明書)」を通関に差し出したとき、審査官は学生服姿の筆者を見て微笑みながら声をかけてくれた。 

「進学のため?」

「はい、そうです」

審査官は高校の制服制帽姿の少年に終始優しく対応した。審査官はパスポートにゴムスタンプを押し、署名しながらこう言った。

「しっかり勉強しなさいよ」

「はい」

口下手の少年は審査官の優しい対応と励ましの声に、心の中で「ありがとう」とつぶやいたが、それを口に出して言うことができなかった。後で、パスポートに押されたスタンプを見て、感動がこみ上げてきた。

 「そうだったのだ」。 「これが潜在主権の意味だったのだ」。

スタンプには「日本国への帰国を証明する」と記され審査官の署名がされていた。

「日本国への入国」ではなく「帰国」という文字に感動したのだ。 まだ復帰していない祖国は「帰国を証明する」という形で少年を迎えてくれたのだ。

それまでの認識では米国の統治下にあるので、沖縄人は日本国民ではないという疑念さえ持っていた。ところが学校では「沖縄の潜在主権は日本にある」と聞かされていた。そのせいなのか、沖縄で戦後教育を受けた少年は、小学、中学、高校と文部省教科書で教育を受けていたが、そのことには何の矛盾も感じていなかった。少年は、「潜在主権」の意味がよく理解できないまま祖国日本に上陸し、通関手続きで「日本国への帰国を証明する」という審査官の署名つきスタンプを見て初めて「潜在主権」の意味を身を以って実感したのであった。

 少年の父が常々「天皇陛下とは同じ歳だ」との自慢話を聞かされていた少年は、祖国日本が「潜在主権」の証として「帰国を証明する」というスタンプで迎えてくれたことを、昭和天皇と父の姿をダブらせ、懐かしい祖父の住む故郷へ里帰りしたような感慨に耽った。

だが、少年はその時、「潜在主権」という文言が、昭和天皇の沖縄に対する大御心から生まれた「天皇メッセージ」の成果であることを知る由もなかった。半世紀以上前の日本の税関での記憶である。



大田少将の「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。」という沖縄県民に対する配慮は、昭和天皇の「天皇メッセージ」として当時の厚生省に直接伝わったのか。

68年前の昭和20年6月6日。
大田実海軍少将は、沖縄県南部の海軍壕から長文の電文を海軍省に送った。
そして、その最後を次のように結んだ。
<沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。>
沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して打電後自決した大田実少将。


戦後、日本軍批判の発端となった「鉄の暴風」と言う言葉の原型は大田少将の「沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。
「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない、無差別に住民を殺戮したのは米軍である。 これは紛れもない歴史の事実だ。
ところが何故か、戦後この言葉は1972年の沖縄の祖国復帰の前後から日本軍人を糾弾するキーワードと変化していく。

米軍は沖縄の永久領有を目論んで、沖縄住民を日本人から分断する占領方針を取った。 民意を得るため米軍は、沖縄住民には「優しく」対応するようにしていた。沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、年寄りや子供に手を差し伸べる優しい米兵の顔だけしか見ていない。
艦砲射撃という「鉄の暴風」で、住民を無差別殺戮した米兵のもう一つの顔を見ていないのだ。
一方、自分達を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に敗退した敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。 米軍は「紙爆弾」といわれる大量の謀略ビラを投下し、日本軍は大量の食糧を隠匿しているなど事実無根のデマで沖縄住民の日本軍に対する信頼感に楔を打ち込んだ。
そしていつしか「鉄の暴風」を実行したのは米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵だった、と言う印象に沖縄住民を駆り立てた。


だが戦後は、大田少将の「遺言」は、厚生省に引き継がれ、「沖縄の特殊事情」或いは、「沖縄に特段の配慮を」と形を変えて戦後の沖縄のいろんな場面に登場する。
                     
■「特段の配慮」による「援護法」の民間適用■

大田少将の遺言は、「援護法」の拡大解釈による沖縄住民への適用という形で戦後姿をあらわす。
日本政府は「1952年(昭和27年)6月、米軍占領下の沖縄に政府出先機関である南方連絡事務所を設置する。 今でいえば沖縄開発庁の先駆けのようのものである。
そして教職員組合と遺族会の強力な後押しによって、琉球政府でも翌53年4月に援護課を設け、援護法と恩給法に基づく復員処理事務に着手することになる。 
54年には琉球政府職員照屋昇雄さんが援護課に異動配属となっている。
慶良間島の「集団自決」に関しても,村役場の総務課が地元の窓口となり,総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走を始める。
「援護法」は講和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。
講和発効で日本が独立を果たす1年前のことである。

■「軍命」の持つ意味の変化■

「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。
「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、
それまでの「軍命」は、「援護法」のための方便というより、親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や罪の意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。
つまり戦後生き残った者が、死んだ家族や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。
少なくとも、昭和25年沖縄タイムスが『鉄の暴風』を発刊し、集団自決は軍命によるというデマを流布させるまでは、「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。

ところが、琉球政府援護課や村役場の担当係が、厚生省援護課と交渉していく過程で「軍命」は別の意味を持つようになる。

1965年頃までは、当時の沖縄教職員会も現在のように日教組のイデオロギーの洗礼は受けておらず、沖縄防衛のため散華された日本軍の将兵に対し崇敬の念は抱いてはいても、貶める気持ちなど微塵も有していなかった。

‘65年までの沖縄のこども達が書いた作文集が沖縄教職員会と日教組の共同で出版されている。 それには当時の子どもたちが、祖国日本を慕い、憧れている様子が活き活きと描かれており、沖縄戦に関しても、沖縄県民は日本軍に協力し祖国を守るために立派に戦ったというものばかりだ。

昨今の沖縄メディアに見られる「日本軍に対する怨みや憎しみ」が当時はほとんど見られなかったことがわかる。 当時の遺族の方々が申請書に「軍の命令による」と記入したのは、援護法を受給する為に日本軍を貶めたのではない。いやむしろ民間人も軍人・軍属に負けず立派に戦ったので、受給資格があるという意味で「虚偽申請」したことが真相といえる。それは大多数の遺族が靖国に祀られる事を誇りに感じている事実からも容易に判断できる。 

だが、ここで日本軍にとって不運な事態が発生する。 遺族が申請する援護業務は自治労に加盟している公務員が行なっていたことだ。 左翼思想に染まった自治労は職務上知りえた「日本軍の命令による」という援護金申請書の記述を日本軍憎悪のイデオロギーに利用することを思いつく。

1969年前後より、本土復帰が現実のもとして見えてきたために、復帰と共に配備される自衛隊を排除するための工作として歴史を改竄し、「残虐非道な日本軍」の神話を作る必要に駆られたのである。 現在「平和教育」の一環とされる戦跡巡りで平和ガイドと称する人たちは、「残虐非道な日本軍により沖縄県民は戦争に追いやられた」などと日本軍への憎悪を煽る説明をしている。

ところが‘77年までの沖縄の戦跡ガイドには、沖縄県民は軍民協力し立派に戦ったと説明されてる。
「日本軍の命令による」という言葉も、当初の「贖罪意識」から援護金申請書記入の「方便」のためと変化。そして、復帰前後になると反日サヨク勢力による自衛隊配備阻止のための「歴史改竄」と、形を変えていくのである。 昨今、沖縄の新聞を賑わす「残虐非道な日本軍」の記事は、沖縄の祖国復帰の後に登場した神話であった。

本連載の目的は、反日サヨク勢力によって「残虐非道な日本軍」などと改竄された沖縄戦の記録を是正することにある。 だが、これら歪曲・捏造された証言も一旦公的刊行物に掲載されると公式な「沖縄戦史」として一人歩きすることになる。

■ 捏造された公的刊行物

公刊行物である『那覇市史』の中の「子どもと沖縄 繁多川の警察壕で」と題して記事には、父親と共に避難した壕で、侵入してきた米兵に父親を連れ出され射殺された知念勇の手記が掲載されている。 

「父親はある日突然日本兵に連れ出された。 父親が連れ出された後、2、3発の銃声がしたが、父と共に連れ出された20歳くらいの青年と共に、再び壕には帰ってこなかった(後略)」(『那覇市史 資料編弟3巻7』410頁)。 なお、採話者の嘉手川重喜氏は元琉球新報の記者である。 

後日、証言者の知念勇に会って確認したところ「自分も不思議に思っている。なぜ、米兵に連れ出されたということを、取材する人に2度も3度も言ったのに、どうして日本兵に入れ替わったのだろう?」と本人は不思議がっていた。 知念勇は、証言はしたが掲載された「那覇市史」の確認を怠ったため歴史の改竄に気がつかなかった。

「座間味村史」など数々ある沖縄戦を捏造した公的刊行物の中でも、「日本兵」と「アメリカ兵」と敵対した兵隊の文言を、意識的に入れ替えて「残虐非道な日本兵」を作り上げた例は前代未聞である。
証言者の知念勇氏が「(残虐行為をしたのは)アメリカ兵」であると二度も念を押したにもかかわらず、取材者は、公的刊行物に「残虐非道の日本兵」として記録しているのだ。

おわりに

日本政府が、大田少将の「県民に特別の配慮を」とつたえた遺言を受け、沖縄住民に示した「善意」が、復帰前後沖縄に流入した反日サヨクに悪用され、「軍命」という援護法受給のための方便が「残虐非道な日本軍」の象徴と変化していった。

今回の「パンドラの箱訴訟」の完全勝訴と、それと平行して発表した「貶められた日本兵」という特集記事は、「援護法のカラクリ」を利用した反日サヨクにより、梅澤さんや故赤松さんが不当に着せられた濡れ衣をそそぐことに成功した。

これまで「援護法」関連の資料を独占し、日本軍を貶めてきた沖縄2紙などの反日サヨクは、7月の「貶められた日本兵」の発表以後ひと言の反論もない。 続く8月の「パンドラ訴訟」の敗訴確定にも黙して何も語ろうとしない。 彼らが梅澤さんや赤松さんを誹謗中傷してきたことが真っ赤な嘘であったことの何よりの証左である。

⇒最後にクリックお願いします

コメント (4)

慰霊の日に「デタラメ沖縄戦記」、平和の礎 41人追加刻銘 県出身38人 総数24万1632人

2021-06-18 07:46:33 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

毎年、慰霊の日(6月23日)前後になると沖縄2紙は、沖縄戦特集を組む。

それも、決まって「悪逆非道な日本軍」を印象付けるデタラメ記事だ。

今回は、事実上の沖縄戦は1945年6月23日に終わったはずなのに、平和の礎に刻銘される戦没者が現在でも続いている奇妙な記事だ。

平和の礎の発案者であるドキュメンタリー作家の上原正稔さんによると、戦没者数はデタラメだという。

そりゃーそうだろう。

ゾンビじゃあるまいし、毎年戦没者が現われたらたまったものではない。

 

沖縄タイムス紙面掲載記事

平和の礎 41人追加刻銘 県出身38人 総数24万1632人に

2021年6月18日 05:00有料

 糸満市摩文仁の平和祈念公園内の「平和の礎」で17日、新たに追加刻銘を終えた石版が設置された。作業員がクレーンでつり上げ、慎重に取り付け作業をした。本年度は県出身38人、県外出身3人の計41人が追加刻銘された。総数は24万1632人。

 戦後50年の1995年に建立された後、毎年追加刻銘が続いている。同公園を管理する県平和祈念財団常務理事兼事務局長の松川満さんは「長いこと待たされたという方もおられるだろう。26年、お待たせしましたという気持ちだ。亡くなった魂に哀悼をささげたい」と話した。

(写図説明)クレーンを使い、刻銘板を設置する作業員=17日、糸満市摩文仁の平和祈念公園

 

きょう慰霊の日 糸満市摩文仁で戦没者追悼式

2019年6月23日 05:00

慰霊の日を前に平和の礎に手を合わせる遺族=22日午後5半ごろ、糸満市摩文仁の平和の礎

 沖縄県は23日、「慰霊の日」を迎えた。おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦となり、多くの尊い命や文化遺産を奪った沖縄戦から74年。激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園では、午前11時50分から県と県議会主催の沖縄全戦没者追悼式が開かれる。20万人以上の戦没者に思いを寄せ、恒久平和を願う。

 追悼式では玉城デニー知事が平和宣言をするほか、糸満市立兼城小6年山内玲奈さん(11)が自作の詩「本当の幸せ」を朗読する。安倍晋三首相や関係閣僚、衆参両院議長も出席する。

 犠牲者の名前を刻んだ「平和の礎」はことし新たに42人が追加され、総数は24万1566人となっている。22日も雨が降りしきる中、花を手向けたり、手を合わせたりする遺族の姿が見られた。

 幼い姉を亡くした会社員の酒屋常男さん(65)=浦添市=は孫と訪れ、姉・フサ子さんの名前の前で手を合わせた。「礎があるだけで姉の思いが残っている気がする。こうして前に立つと伝わってくるものがある」と感慨深そうな表情を見せた。

 子や孫とともに訪れた野原菊枝さん(82)=那覇市=は祖父・西銘宜保さん、父・宜盛さんの刻銘板に水を掛け、冥福を祈った。毎年訪れているという野原さんは、手を合わせながら戦時中の様子を孫に伝えた。

 

                  ★

先ず平和の礎の発案者の上原正稔さん自身にデタラメの戦没者数を」暴いてもらおう。

 

 

嘘にまみれた「平和の礎」刻銘戦没者は水増し、発案者の上原正稔氏が指摘 沖縄、2019-06-23

上記過去ブログの引用です。

 

「平和の礎」刻銘戦没者は水増し、発案者の上原正稔氏が指摘

 23日は組織的な沖縄戦が終結した日。沖縄県は、沖縄戦全戦没者追悼式典を正午、糸満市摩文仁の沖縄県平和祈念公園で開く。戦没者名を刻んだ糸満市摩文仁の「平和の礎」に、2019年度は新たに42人が追加刻銘され、刻銘者総数は24万1566人となった。そのうち、沖縄県出身者は約15万人に上る。

平和の礎

「平和の礎」に沖縄戦などの犠牲者名の刻銘板を取り付ける作業員=17日午前、沖縄県糸満市

 「平和の礎」発案者で戦争ノンフィクション作家の上原正稔氏はこのほど、県庁で記者会見を開き、「平和の礎に刻まれている刻銘者の過半数は沖縄戦と関係のない人々で、沖縄戦で亡くなった県出身者は5万5千人程度。意味もなく、県民の犠牲者を増やす嘘はやめてもらいたい」と訴えた。

 平和の礎は、「世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑『平和の礎』を太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建設する」という趣旨で1995年に建設された。

 県出身者の刻銘対象は、①満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡した者②45年9月7日以後、県内外で戦争が原因で1年以内に死亡した者――と規定されている。

 沖縄県生活福祉部は96年、沖縄戦犠牲者は20万656人と発表。総務省もこの数字を採用している。

 戦後、国は、軍人・軍属の遺族を支援するための「戦傷病者戦没者遺族等援護法」で、民間人までも「戦闘参加者」と位置付け、約5万6千人の沖縄県民が援護の対象となった。上原氏は、この数字をもとに、「嘘の申請をした人を差し引けば、県民の犠牲者は5万5千人を上回ることはない」と断言した

 また、戦前の昭和19年の人口と戦後の昭和21年の人口を勘案して、一般県民の約9万4000人が犠牲になったと推計されていることについて、上原氏は「戦前に本土や台湾に疎開してしばらく帰らなかった人が多いことが一切考慮されていない乱暴な数字だ」と批判。離島の粟国村を例に、「満州事変から戦後までの粟国村出身者を刻銘した結果、沖縄戦における20人弱の戦没者が601人に膨れ上がっている」と指摘した。

 上原氏は今年3月、県議会に正しい戦没者数を把握するよう意見書を提出。5月には、政府宛てにも同様の意見書を提出した。

 (沖縄支局 豊田 剛

               ★

 

■デタラメな「戦争マラリア」

戦争マラリアとは誤解を招く左翼の造語だ。

沖縄戦で石垣島が米軍の艦砲射撃の標的のなるのを恐れた日本軍は、少ない輸送船を動員、「血の一滴」と言われた石油燃料を使って石垣市民を西表島に疎開させた。

結果的に、米軍の艦砲射撃は免れたが当時沖縄本島にも生息していたマラリア蚊に刺され、マラリアを発症、治療薬の無い当時、死亡する者もいた。

これを称して沖縄2紙は「戦争マラリア」という造語を逸らせ、あたかもにHん軍がマラリア蚊を培養して石垣市民を罹患させたような印象記事を書く。

ちなみにマラリアは沖縄本島にも患者がいたし、日本全土でマラリアが絶滅するのは米軍が特効薬・キニーネを配給するようになった戦後のことである。

沖縄タイムス紙面掲載記事

戦争マラリア悲劇朗読 石垣出身高橋さん 長野で会企画 「平和の思い伝える」

2021年6月18日 05:00有料

 【八重山】戦時中に波照間島の住民が強制疎開した西表島の岩に刻まれた「忘勿石 ハテルマシキナ」を題材に戦争マラリアの悲劇を伝える少年長編叙事詩「ハテルマシキナ」の朗読会が19日、長野県松本市で開かれる。「忘勿石 ハテルマシキナ」は、60人超の児童の死を見守った波照間国民学校(当時)の識名信升校長が島を引き揚げる際に岩場に刻んだ。朗読会を企画した石垣市出身で同県安曇野市に住む高橋(旧姓・新庄)喜和さん(74)は「戦争マラリアと識名先生が岩場に刻んだ平和希求の思いを、多くの人に伝えたい」と話す。

 高橋さんは移住して20年が過ぎた頃、児童文学作家の故桜井信夫さんの少年長編叙事詩「ハテルマシキナ」で初めて知る史実に驚くとともに「識名校長」の名を確認し、強い衝撃を受けた。

 識名校長は戦後、高橋さんの出身校・石垣中の校長を務めた。卒業後に大阪の自動車整備場で働いていた高橋さんを前触れもなく訪ねてきて、励ましてくれたという。叙事詩には、識名校長が軍の前に立ちはだかる姿も描かれていた。高橋さんは「勇気ある行動と私を励ましてくれた先生と完全に重なった」と話した。

 語り継ぐことを決意した高橋さんは読み聞かせのボランティアをしている妻や知人らの協力を得て朗読会を企画し、開催にこぎ着けた。

 現地に建立された「忘勿石之碑」はおととしの台風で破損被害を受けて現在、修復期成会による募金活動が進む。周知活動を通して朗読会を知った期成会役員で、鑑賞を予定している島村賢正さん(71)は「長野や近隣県に住む友人らに鑑賞を呼び掛けてほしい」と話している。

 朗読会は松本市音楽文化ホールで19日午後1時から。入場料は千円。

(写図説明)岩場に刻まれた「忘勿石」(右)と識名信升校長の慰霊碑の写真パネルを紹介する島村賢正さん=14日、石垣市内

 

沖縄タイムス紙面掲載記事

潮平正道さん死去 88歳 戦争マラリア伝える

2021年4月19日 05:00有料

 八重山戦争マラリアを語り継ぐ会会長で九条の会やえやま共同代表を務めた潮平正道(しおひら・まさみち)さんが18日午後4時5分、病気療養中のところ石垣市内の病院で死去した。88歳。石垣市石垣出身。自宅は石垣市石垣87の3。告別式は21日午前11時~正午、石垣市真栄里570の8、サンレー石垣紫雲閣で。喪主は妻俊(とし)さん。

 1945年4月、旧制県立八重山中学校入学と同時に鉄血勤皇隊に動員され軍作業に従事。小学校などで戦争体験の講話を続けた。

 2010年6月、八重山戦争マラリアを語り継ぐ会の結成に関わり、20年3月に会長に就いた。証言集「命の輝きを求めて-マラリアを生き抜いた人々の証言」のほか、八重山の戦争を記録した自身の絵本「絵が語る八重山の戦争-郷土の眼と記憶」を発刊した

⇒最後にクリックお願いします

コメント (5)

腐臭を放つ大江健三郎、大江・岩波は裁判には勝ったが真実の法廷では敗れた。

2021-06-18 00:06:59 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

来週の水曜日(23日)は慰霊の日である。

毎年、この時期になると沖縄2紙が、「悪逆非道な日本軍」をテーマにした沖縄戦特集を掲載する。

過去ブログをサルベージして「大江・岩波集団自決訴訟」について引用する。

腐臭を放つ大江健三郎 2015-06-23

 
本日は「慰霊の日」。
 
今年は終戦70年の節目の年とあって、本日の沖縄タイムスは合計10面を使って沖縄戦の大発狂。
 
沖縄タイムスの発狂見出しにに逐一対応するのはバカバカしいので、一面の見出しのみを紹介する。
 
■一面トップ
 
戦後70年きょう慰霊の日
 
「戦争は人間性奪う」
 
戦争体験者70人のメッセージ
 
(以下省略) ふー、やれやれ。
 
              ☆
 
昨日のエントリーで琉球新報のデタラメな社説を紹介した。

大江・岩波集団自決訴訟の最高裁判決を捻じ曲げて、あたかも最高裁が「集団自決は軍の命令による」と認定したかのように報じるデタラメな社説のことだ。
 
最高裁で被告・大江側の勝訴が確定したのだから、軍命も確定したものと事実誤認していた多くの読者から問い合わせがあった。
 
そして、改めて新聞の影響力の大きさに慨嘆した。
 
たかが新聞、されど新聞である。
 
 
最高裁判決が出た当時の当日記から、サルベージしてみよう。
 

腐臭を放つ大江健三郎氏の自己保身 2011-04-24

 
最高裁判決文を紹介します。
 
判決はたったこれだけです。
上告より2年4ヶ月も待たせて、これだけかとも思うのだが、独自の判断を避けて大阪高裁判決を丸呑みしたのなら、所詮こんなものだろうか。
 
高裁判決が約半年の短期間で判決を下したのに対し、最高裁が2年余も時間をかけたのは、最高裁といえども、いや、むしろ最高裁だからこそ「戦後民主主義」の呪縛からは逃れきれず、いろいろ逡巡した結果だろう。 
 
 今我が国は、国民が選んだ民主党政権の下で未曾有の国難にあえいでいる。 最高裁判が「戦後民主主義」的判断を下すということが、現在の政治状況を見事に象徴している。
 白木勇裁判長以下前裁判官の名前も記しておいたので、次の選挙では不適格裁判官として全員辞職させよう。

 ■最高裁判決文

 

  決定

当事者の表示    別紙当事者目録のとおり。

 

上記当事者間の大阪高等裁判所平成20年(ネ)1226号出版差し止め等請求事件について、同裁判所平成20年10月31日に言い渡した判決に対し、上告人兼申立人らから上告及び上告心理の申し立てがあった。 よって、当裁判所は次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

本件を上告審理として受理しない。

上告費用及び申し立て費用は上告人兼申立人の負担とする。

理由

1上告について

民事事件について、最高裁判所に上告できることが許されるのは、民訴法312条1項又は2項所定の場合に限られるところ、本件上告理由は、違憲及び理由の不備をいうが、その実質は事実誤認又は単なる法令違反を主張しているものであって、明らかに上記各項に規定する自由に該当しない。

2 上告受理申し立てについて

本件申し立ての理由によれば、民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。よって、裁判所官全員一致の意見で、主文の通り決定する。

 

 平成23年4月21日

最高裁判所第一小法廷

裁判長裁判官   白木  勇

     裁判官   宮川  光治

     裁判官   櫻井  龍子

     裁判官   金築  誠志

     裁判官   横田  尤孝

                              ★


喜ぶ大江さん「強い励ましに」
 沖縄タイムス2011年4月23日


   【東京】沖縄戦をテーマにした「沖縄ノート」で「集団自決(強制集団死)」の日本軍強制の記述をめぐり、訴訟を闘い続けたノーベル賞作家の大江健三郎さん(76)は22日、東京地裁の司法記者クラブで会見し、軍の関与を記述した同作は名誉毀損(きそん)にあたらないなどとする一、二審判決の確定を受け、「(沖縄戦の評論は)一生の仕事と考えていたので(裁判は)苦しかった。最高裁の決定は力強い励ましになる」と喜びを語った。

 原告の上告を退ける最高裁の決定は、22日午前に関係者へ郵送で知らされた。同11時半ごろ電話で弁護士から知らせを受けたという大江さんは「ぼんやりして、(係争中の)5年間を考えていた」と突然の知らせを振り返った。

 会見で、大江さんは50年余りの作家活動の中で、沖縄ノートは「広島ノートと併せ、一番大切な本」と表現。沖縄戦や米軍基地などを負担してきた沖縄を、日本人が認識し直すために著作を続けてきたと説明し、「この本のことを覚えていてもらいたい、高校生にも読んでもらいたい。今あるのは、そういう気持ちだけ」と静かに語った。(略)

                ☆

昨日の沖縄2紙の狂乱振りを見ていると、「軍命」「強制」「教科書」と書いた大見出しが躍り、まるで最高裁判決で「軍命」「や「軍の強制」が確定し教科書にもおおっぴらに「軍の命令により集団自決が起きた」とかけるかのような印象を受ける。

歪曲と捏造の記事で溢れた紙面で連日叩かれたケビン・メア氏の心境が理解できるような気がする。

ところが一夜明けた本日の沖縄タイムスにはメア発言はともかく、昨日の狂乱が嘘のように集団自決関連の記事は一行もない。

筆者も複数の知人友人から電話をもらい「残念」の言葉を聞いたが、確かに出版差し止めと被告の謝罪が適わなかったのは残念であるが、両隊長が命令したり強制して集団自決が起きたのではないということは、既に大阪高裁で確定済みだったのでそれほど落胆したわけではないと答えておいた。

事実、負け惜しみではなく、両隊長の名誉回復は既に大阪高裁で確定した、と何度もエントリーしているので古くからの読者ならご存知のことと思う。

(省略)

それで、当日記では沖縄タイムス記事の次の「歪曲」部分を取り上げてみる。

会見で、大江さんは50年余りの作家活動の中で、沖縄ノートは「広島ノートと併せ、一番大切な本」と表現。沖縄戦や米軍基地などを負担してきた沖縄を、日本人が認識し直すために著作を続けてきたと説明し、「この本のことを覚えていてもらいたい、高校生にも読んでもらいたい。今あるのは、そういう気持ちだけ」と静かに語った。

このくだりを見た高校生は、最高裁が大江氏の問題の著書である『沖縄ノート』の内容の真実性を最高裁が認めたと判断し、そのデタラメな本の内容を鵜呑みにしてしまう恐れがある。

最高裁は、むしろ『沖縄ノート』には誤りがあるが、執筆当時の40年前には「軍命があった」という噂が流布し、それが検証も無いまま「定説」となっていたので、大江氏が「軍命」を「真実と思っても仕方が無かった」と、判断しているのである。(「真実実相当性」)

大江氏は最高裁がいかがわしいと判断した「沖縄ノート」を高校生にも読んでほしいと言っているのだ。

この発言を見て、高校生がデタラメを信じることに何ら心の痛痒を感じない保身に汲々とし老作家の腐臭を感じ取る。

 

4年前の「11万人集会」のとき、沖縄2紙に踊らされて参加した県民の大多数は集団自決問題が何であるかを知っていなかった。

「集団自決があった事実を教科書から削除するのはけしからん」といった基本的な事実誤認をしている県民は多く、事実、当日記にもそのような罵声を浴びせるコメントも多数あった。

ところが昨日の琉球新報の「識者評論 岩波・大江勝訴」と題する記事を」見て仰天した。

沖縄平和ネット代表世話人の村上有慶氏が、こんなことを言っているのだ。

裁判は原告の梅澤氏本人が命令を出したかというより、、沖縄戦の「集団自決」の有無を問う訴訟を起こすこと自体が目的で、「集団自決」はなかったとする教科書を書き人たちをバックアップするという政治的な動きの中にあった。」(琉球新報 4月23日)

4年前の沖縄2紙の歪曲報道に踊らされた気の毒な県民ならともかく、顔写真つきで新聞の「識者評論」をお書きになるエラ~イ先生が「『集団自決』の「有無を起こす裁判」があったと信じているのが驚きである。

いや、いや識者の先生がこんな基本的な間違いをするはずはない。

きっと、琉球新報が読者を「原告側は明らかな事実を教科書から消し去ろうと目論む卑劣な集団」という深謀で印象操作したものと考えるが、どうだろうか。

 

以下は池田信夫氏のブログの引用です。

大江健三郎の犯罪

 沖縄の集団自決をめぐって争われた名誉毀損訴訟の最高裁判決で、被告の大江健三郎氏と岩波書店が勝訴した。これまでの経緯を知らない人が、大江氏が正しかったと誤解するのもよくないので、少しコメントしておく。
問題の訴訟は、2007年の記事でも書いたように、赤松嘉次大尉らを集団自決を命じた屠殺者だと罵倒した大江氏の『沖縄ノート』の記述が事実かどうかをめぐって赤松大尉の遺族などが起こしたものだ。これについては曾野綾子氏が現地調査をした上で「事実ではない」と指摘し、大江氏側も問題の記述が伝聞で確認できないことは認めた。

一審の大阪地裁は「軍の命令があったと証拠上は断定できないが、関与はあった」という理由で原告の申し立てを退けた。これは「ノーベル賞作家」に配慮した問題のすり替えである。原告は赤松大尉が集団自決を命令したかどうかを問うているのであって、軍の関与の有無を争ってはいない。軍の関与なしに手榴弾を入手することは不可能である。

二審判決も事実関係を曖昧にし、命令があったかどうかはわからないが大江氏が命令を「真実と信じる相当の理由があった」という理由で、出版を差し止めるほどの事由はないとして控訴を棄却した。たしかに出版差し止めというのは、民主主義国では軽々に認めてはならないが、原告が差し止め訴訟を起こしたのは、大江氏側が記述の修正をしなかったからだ。

裁判を通じて明らかになったのは、赤松大尉は住民を「屠殺」するどころか、集団自決を思いとどまるよう伝えていたということだった。裁判では思わぬ事実も出てきた。大江氏を支援する先頭に立っていた金城重明牧師(元沖縄キリスト教短大学長)が、渡嘉敷島でゴボウ剣で数十人を刺殺したことを法廷で認めたのだ。こうした集団的な狂気が、どうして生まれたのかを追究するのが作家の仕事だろう。

戦争は軍部が暴走して起こしたもので、国民は無垢な被害者だという大江氏の幼稚な歴史観は、軍はすべて悪だという「平和憲法」的な思い込みでしかない。集団自決をもたらしたのは軍ではなく、人々を駆り立てる空気だったのだ。旗を振って戦勝を祝ったのは国民であり、それを積極的に煽動したのは新聞だった。彼らは戦後も解散させられることなく、責任を軍に押しつけてみずからの戦争犯罪に口をぬぐってきた。

大江氏を5年間の訴訟でサポートし、『沖縄ノート』を重版してきた岩波書店も共犯者である。彼らが戦後60年あまり振りまいてきた「非武装中立」の幻想は、きわめて有害なものだった。国民の短絡的な正義感に迎合して結果に責任を負わない万年野党と、既得権を無条件に擁護する与党との不毛な対決の中で政策の対立軸ができず、優先順位をつけて政策を取捨選択しなかった結果が、莫大な政府債務と迷走する危機管理である。

大江氏も岩波書店もわかっているように、

彼らは裁判には勝ったが真実の法廷では敗れた

『沖縄ノート』の大部分は、現地紙の切り抜きを文学的に加工したでっち上げだ。

それは彼の願望とは逆に、事実を直視できない「進歩的知識人」の知的不誠実の証拠として歴史に残るだろう

⇒最後にクリックお願いします

コメント (1)

再論・集団自決、中村粲教授の論文「集団自決」

2021-06-17 00:23:24 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

再論・集団自決、中村粲教授の論文「集団自決」

2018-04-15

最近ではほとんどの県民に忘れられた感の「集団自決」の復習のため、過去ブログを、一部編集して紹介しよう

中村粲教授の論文「集団自決」2007-10-23 より

2007年度の文科省「教科書検定意見書」で教科書の記述が変った。

記述の変化を指して「安倍内閣の極端な右傾化政策」の結果だと主張する左翼論者がいる。

だが、真実は違う。

集団自決は、軍の命令や強制の結果でない。

これは安倍内閣になって突然沸いて出た話でもなければ、文部官僚が突然思いついた話でもない。

ましてや官僚の思いつきで意見書を作り、教科書検定に介入したわけでもない。

歴史専門家や教科書執筆者(一部マルクス史観の執筆者を除く)にとって「(集団自決は)軍の命令や強制でない」ことは既に周知の史実であった。

ただ、これに異論を唱える教職員組合(教科書使用者)と史実との板ばさみで、教科書執筆者が困っているのが実情だった。

そこで執筆者たちは今回の「検定意見書」を「渡りに舟」として教職員組合に遠慮なく堂々と記述変更出来たわけだった。(現代史家の秦郁彦元千葉大教授の話)

従って安倍内閣の成立には何の関係もない。

教科書検定意見書は出るべくして出て来た当然の流れであった。

安倍内閣と無関係の証拠を挙げよう。

安倍内閣が成立する3年半前の、次の新聞報道を見れば自明だ。

ただ一つだけいえる事は、「集団自決」の「軍命の有無」に関する学会の流れを大部分のマスコミが報道しなかっただけのことである。

これを「安倍右傾化内閣」「突然の検定意見書」「教科書記述のわい曲」などと、センセイショナルに煽った沖縄タイムス、琉球新報の作戦に乗せられてしまったのが「11万人」集会であった。

むしろ「検定意見書」が出たのが遅きに失したくらいだ。

 【今も残る沖縄戦の神話】政府は日本軍将兵の名誉を回復せよ
 
産経新聞 平成15年(2003)4月7日記事
 
イラクで米英軍とイラク軍の地上戦が続いているが、五十八年前、沖縄で日米両軍の地上戦が始まったのも、ちょうど今ごろの時期だ。米軍の第一陣は昭和二十年三月下旬、沖縄本島西の渡嘉敷島、座間味島など慶良間諸島に上陸した。あの悲劇的な住民の集団自決が起きた島である。多くの教科書にも書かれているが、必ずしも正確な記述ではない。

日本軍にスパイ容疑で殺されたり、『集団自決』を強制された人々もあった。」「軍は民間人の降伏も許さず、集団的な自殺を強制した。」(日本書籍の中学歴史教科書)

「県民の犠牲者のなかには、味方の日本軍によって殺されたり、強制されて集団自決したりした人もいました。」(清水書院の同)

  いずれも日本軍が集団自決を強制したとしており、文部科学省の検定をパスしている。だが、事実は違う。集団自決は起きたが、軍はそれを強制していない。

日本軍の命令で住民が集団自決を強いられた、とする説が独り歩きするようになった発端は、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』である。渡嘉敷島に米軍が上陸してから二日後の昭和二十年三月二十八日、同島の恩納河原に避難していた住民に対し、守備隊の海上挺進隊第三戦隊長、赤松嘉次大尉から自決命令が出され、住民三百二十九人が手榴弾で自決した、と書かれている。昭和三十二年、旧厚生省援護局も現地で聞き取り調査を行い、日本軍の命令による集団自決だったと認定した。集団自決した住民は準軍属とみなされ、遺族らには援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)に基づく年金が支給されている。しかし、その後、作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決について独自取材した結果をまとめ、『ある神話の背景』(昭和四十八年、文芸春秋)という本を出した。赤松大尉やその部下だった元兵士、同島で生き残った住民たちからのインタビューなどで構成されている。現在、絶版で手に入りにくいが、『鉄の暴風』の記述に初めて疑問を提起したノンフィクションである。

『鉄の暴風』は座間味島の集団自決についても、米軍上陸の前日(昭和二十年三月二十五日)、軍が忠魂碑前の広場に住民を集めて玉砕を命じ、住民五十二人が手榴弾で自決したと、書いている。当時、同島を守備していた日本軍は海上挺進隊第一戦隊で、隊長は梅沢裕少佐だ。しかし、集団自決のとき、女子青年団員だった宮城初枝さんは後に、「梅沢少佐の命令はなかった」と告白し、そのことを娘の宮城晴美さんが『母が遺したもの』(高文研)という著書に書いている昭和史研究所代表の中村粲・独協大学教授は渡嘉敷・座間味両島の集団自決について、当時の守備隊将校や集団自決の目撃者らに改めてインタビューし、曽野さんや宮城さんの著書を学問的に補強する研究を続けている。中村教授は「集団自決の犠牲者の遺族には手厚い援護措置が必要だが、国が今も軍命令を前提としているとしたら問題だ」と話す。

先月末、その中村教授とともに、厚生労働省援護課を訪ねた。「昭和三十二年の現地聞き取り調査で、軍命令によって集団自決したという裁定を下し、犠牲者全員を準軍属として援護法の対象にした。最近、一部報道などで、軍命令がなかったという話も聞いているが、再調査はしない。」(山内忠淳・審査室長)という回答だった。

軍命令の有無は国の名誉の問題である。援護法適用の当否とは別に、少なくとも歴史教科書の誤りは正す必要がある。

                      ◇

 

上記は今から4年半も前の記事だが、記事内容は少しも色褪せていない。

ただ、当時絶版になっていた曽野綾子氏著『ある神話の背景』が、

『集団自決の真相』と改題されて現在再出販されている事実に時の流れを感じるくらいだ。

「日本政策研究センター」http://www.seisaku-center.net/の『明日への選択』平成19年8月号に掲載された中村教授の論文を下記に引用します。

 →中村論文はこちら

下記掲載は保存用。(太字強調は管理人)

 沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除
検定撤回狙うNHK報道

中村粲(獨協大学名誉教授・昭和史研究所代表)


◆「軍命令」を削除した検定を評価
 来春から使われる高校歴史教科書の沖縄住民集団自決に関する記述から「軍命令」が削除されることになった。文部科学省の検定意見に従って修正された記述を見ると、まだ集団自決が軍の強制によるとの誤解を与えかねない表現を使っている一部の教科書があることは遺憾であるが、軍命令や軍の強制で集団自決が行われたかの如き表現を教科書から削除するというこの度の検定方針は高く評価すべきものと考える。平成八年二月の検定をパスした七社発行の中学歴史教科書の反日偏向が余りにも甚しかったために、歴史教科書に対する世論の批判が大いに高まった結果、慰安婦問題が教科書から消え、南京事件の記述も抑制され、全体として改善されてきた中で、沖縄住民集団自決が軍命令で強制されて起こったとの記述だけは大手を振ってまかり通ってきたからである。

 

◆軍命令否定は禁忌だった
 文科省が前記のような検定方針を決定したのには、平成十七年八月以来係争中の「沖縄集団自決冤罪訴訟」を通じて、軍命令のあったことを否認する数多くの事実が明かるみに出されてきたことが関係しているとみるべきであろう。曽野綾子著『ある神話の背景』以来、軍命令の存在を疑い、更には「軍命令」説と遺族年金支給との関連を推測する向きもあるにはあったが、それを公言することは沖縄では一種の禁忌なのであった。

 

◆勇気ある人々――座間味の場合
 慶良間列島の集団自決は昭和二十年三月二十六日座間味島で、二十八日渡嘉敷島で発生した。前者については海上挺進第一戦隊長・梅沢裕少佐が、後者については同第三戦隊長・赤松嘉次大尉が隊長命令で強制したとして責任を負わされ、現地は無論、広く我国の言論界、教育界の指弾を浴びてきた。両元隊長は緘黙して謂われなき非難と屈辱に耐えてきたため、自分の家族からも誤解を受けることにもなり、その苦衷はよく筆舌の盡す処ではなかった。併しながら天は決して義人を見放すことはない。

 昭和五十七年六月、沖縄戦当時、座間味村の女子青年団長であった宮城初江さんから、来島した梅沢元隊長に対して「今まで周囲の圧力で自決は軍命令と主張してきたが、実は自分達五人の村代表が隊長に自決を申し出た時、隊長は自決を許可せず、弾薬類の支給を断った。私がその事実を知る唯一の生証人です」との告白がなされたのであった。

 またこれと前後して、沖縄戦の事実を求めて体験者を訪ね歩いていた沖縄の反戦運動家・富村順一氏が梅沢元隊長を往訪、梅沢氏の話を聞いて一驚し、梅沢氏に無実の罪を負わせてきたのは沖縄の恥辱であるとして翻然梅沢氏弁護の活動に入った。その富村氏の街頭演説を偶々聞いたのが神戸新聞の記者・中井和久氏であった。氏は早速梅沢氏に面接取材し、昭和六十年七月三十日付同紙朝刊に、集団自決に「日本軍命令はなかった」との記事を大きく掲載したのである。いずれも勇気ある人々と云うべきであろう。

 そして遂に決定的な告白と謝罪がなされた。昭和六十二年三月二十八日、梅沢氏が座間味島を訪ねた折、戦後座間味村役場で援護係をしていた宮村幸延氏が梅沢氏に対し、「集団自決は当時兵事主任兼村役場助役であった宮里盛秀の命令によるもので、遺族補償受給のため、弟の自分がやむを得ず隊長命令として申請した」旨の詫証文を書いて署名捺印したのである。この証文こそ、梅沢氏無実を示す駄目押しの証拠である。この謝罪も勇気ある決断だ。

 自分が罪を背負うことで座間味の村と人が豊かになることを願い、敢えて自己弁護せず濡れ衣を着て忍苦の人生を送ってきた梅沢元隊長の潔白は、こうした人々の良心と、道義的勇気のある告白や行動の積み重ねによって漸く世間に広く認知される処となってきたのである。

 

◆隊長命令を否定する人々――渡嘉敷の場合
 他方、渡嘉敷島についてはどうであろうか。『ある神話の背景』にまとめられた曽野綾子女史の取材記録の何処を押しても隊長命令で集団自決が行われたとの結論は出て来ない。

 また赤松隊長の副官と云われていた知念朝睦本部付警戒小隊長(少尉)や、唯一人の渡嘉敷島駐在巡査であった比嘉(旧姓安里)喜順氏の証言は軍命令のなかったことを明確に語っている。更に現在、渡嘉敷村民俗歴史資料館長である金城武徳氏は、当時数え年十五歳であったが、集団自決の現場に居て状況を鮮明に記憶している。集まった住民を前に自決を呼びかけ、「天皇陛下万歳」を唱えたのが古波蔵惟好村長であったこと、手榴弾不発で死に切れなかった人々が赤松隊長の処に赴いて機関銃を所望したのに対し、隊長は「早まったことをしてくれた」と残念がり、機関銃貸与を断ったことなど、金城氏は当時の現場を知る語り部として赤松氏の無実を訴え続けている。右の証言だけからでも、隊長命令のなかったことは明白であろう。タブーを怖れぬこれらの人々の勇気ある証言も道義的見地から高く評価されねばなるまい。

 

◆敢えて沈黙を通した赤松元隊長
 集団自決を軍命令によるものとしたのは『鉄の暴風』(沖縄タイムス社。初版発行は昭和二十五年八月十五日)が最初だが、その執筆者達は戦後沖縄に帰ってきた人達で、集団自決発生について直接の知識も体験もない。彼等は住民から聞き集めた断片的な話を反日反軍思想で軍命令の話に作り上げたに違いない。その確拠のない軍命令説が動かし難い公的見解として流布し定着した事情は何であろうか。それは座間味の場合と同様、遺族補償の関係である。

 『ある神話の背景』に出てくる赤松元隊長の発言を注意深く読むならば、赤松氏自身、遺族補償のために集団自決が軍命令とされたことを昭和四十五年三月の段階で承知していながら、敢えて村民への配慮から沈黙を守ったらしいことが看取される筈だ。筆者自身、平成十年に昭和史研究所の調査で渡嘉敷島を訪れた際にも、軍命令説は援護金受給のために作り出されたものらしいとの風聞のあることを知った。座間味で遺族補償申請のために集団自決が軍命令とされたのと同じ事情が渡嘉敷にもあるに違いないと推断した筆者は、平成十四年から翌十五年にかけて再三、遺族補償申請資料の閲覧希望を渡嘉敷村役場に申し出たが、好意的な対応に接することは出来なかった。また平成十五年三月には厚生労働省援護課を往訪、援護法による遺族年金支給の経緯と「軍命令」の実否に関する援護課の認識について質し、遺族補償も十分に行われてきた今(各遺族年額約二百万円の年金)、軍命令が遺族補償支給のための行政的便法であったことを認めて軍と軍人の名誉回復への道を開いたならば八方円満に解決するのではないか、と見解を質したが、軍命令の実否という「歴史的事実」についての言及は得られず仕舞いであった(詳細は、中村粲著『教科書は間違っている』日本政策研究センター刊。昭和史研究所『昭和史研究所會報特別版』)。

 

◆「私が軍命令を創作した」
 併しながら、座間味の場合と同じく、渡嘉敷にも決定的な証言者が出現した。那覇市の照屋昇男氏が軍命令は「創作」であったとの重大証言をしたのである(平成十八年八月二十七日産経新聞)。

 かつて琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員であった氏は、アンケートや聞き取り調査で援護法適用の資格の有無を調べた処、聞き取り調査をした百人以上の渡嘉敷島民の中に集団自決が軍命令だと証言した者は一人もいなかったと断言する。社会局長と共に厚生省援護課に島民の窮状を訴えて援護金支給を陳情したが無理だった。だがついに厚生省は軍命令があれば援護金を支給することを認めてくれたと云う。

 喜んだ玉井喜八村長(当時)が赤松元隊長を訪ねて事情を話した処「村を救うため十字架を背負う。隊長命令とする命令書を作ってくれたら押印してサインする」と云われた。そこで照屋氏等が「住民に告ぐ」とする自決命令書を作成したと氏は語っている。

 併しさすがに赤松元隊長も余命三ヶ月となった時、玉井村長に隊長命令という部分の訂正を要請してきたと云う。赤松氏に対する誹謗を見聞するたび、照屋氏は「胸に短刀を刺される思い」だった。元隊長の苦悩を察し、良心の呵責に耐えかねて、氏は遂に軍命令否定証言を公けにしたのであり、真に勇気ある行動と称えたい。とまれ、これによって座間味の梅沢元隊長、渡嘉敷の故赤松元隊長による集団自決命令が援護金受給のための「創作」であったことの鉄証が出そろったことになる。教科書から軍命令の記述が削除されたのは当然すぎる話である。教科書は生徒達に真実を教えねばならないからだ。

 

◆「防衛隊」を「日本軍」と歪曲するNHKの詐術
 処が軍命令を削除したこの検定を面白く思わないのがNHK。六月二十一日放送〈クローズアップ現代〉「“集団自決”62年目の証言~沖縄からの報告~」は右検定に対するNHKの敵意の表出と云ってよい。

 番組は冒頭で云う。軍命令削除の検定に対して沖縄では強い怒りと抗議の声が上がっている。その中で「体験者からの聞き取り調査が始まって」おり、「日本軍によって住民が自決に追い込まれていった状況が浮かび上がってきた」とのナレーションが流れる。更に「なぜ文部科学省は突然書き換えを求めたのか」と尤もらしく問題提起をしながらも、それについては現在係争中の「沖縄集団自決冤罪訴訟」原告の一人である梅沢裕氏の短い発言を流すだけで、原告団に提訴を決断させた数多くの証言や事実解明の経過には全く触れない。実はそれこそが軍命令不存在の証明なのであり、また文科省が軍命令記述の修正を求めた根拠であるにも拘らず、である。それ故視聴者は、文科省は元隊長の個人的感情にのみ依拠して軍命令記述を修正したかの如く錯覚する。これは今回の検定には客観的根拠がないとの印象を視聴者に与えるための欺瞞的番組編集手法と筆者は断ずる。

 番組が、軍命令存在の“証言”として再三流すのは「日本軍から手榴弾を渡されて自決を強いられた」との言葉である。だが、この中の「日本軍」というキーワードに重大なごまかしがある。住民に手榴弾を渡して自決を勧めたのは地元出身の防衛隊員で、戦隊所属の日本軍将兵ではない。防衛隊とは兵役法による正規兵ではなく、現地在郷軍人会が結成した義勇兵で、軍装も不統一、階級章も付けていない。軍とは別に、家族と共に起居していた。村民と常時接触していたのは、この防衛隊だったのだ。

 家族や村民と生活を共にしていた防衛隊員が、戦闘用に二個ずつ支給されていた手榴弾を勝手に自決用として家族等に配布した場合もあった。防衛隊員も日本兵のうち、と単純に考える住民は、それを「日本軍」による自決の命令あるいは指示と誤解したに違いない。NHKはそのような誤解をいいことに、軍命令を示す住民の“証言”として強引に押し通してしまっている。そうではないと判っているくせに、防衛隊=日本軍という拡大解釈で日本軍による自決命令という“証言”を作り出したこのNHK番組は正に言語詐術と欺瞞の見本である。本稿で紹介した沖縄の人々の様々な軍命令否定証言、援護金目的の軍命令創作証言はただの一つも出てこない。この怖るべき偏向番組の狙いはその言論暴力で今回の検定方針を撤回させ、軍命令を復活させることにあると私は見る。


〈『明日への選択』平成19年8月号より転載〉

⇒最後にクリックお願いします

コメント

集団自決、アリバイ作りの県議団調査  結論は決まっていた!社会科教師のいかがわしさ

2021-06-15 16:51:40 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

アリバイ作りの県議団調査  結論は決まっていた!2007-11-06 

本来イデオロギーの塊であり、同時に歴史では素人集団の沖縄県議団が、集団自決の検証のため、短期間に二度も現地調査をした。

その理由は何か。

結論ありきのアリバイ調査が目的だった。

 

 

■社会科教師のいかがわしさ

「集団自決」を語る時、高校の社会科教師こそ、なまじ中途半端な知識があるだけに、こんなに始末に終えないものはない。

昨年(2007年)の「11万人集会」前、30年近く高校の社会科の教師をして県会議員になった狩俣信子氏と県議文教委員の一行が、アリバイつくりのため渡嘉敷島に現地聞き取り調査に行ったとき、とんでもない発言をしたが、同行していながらこれを報じる新聞はなかった。

集団自決を体験した金城武徳さん(75)が証言しようとすると、自分のイデオロギーと違うと見るや次のように発言した。

私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」

「集団自決」の実体験者の証言より詳しいとは、この元教師は霊能者なのだろうか。

勿論、歴史の検証が不可欠の「集団自決の軍命問題」を、県議会の多数決で議決で決めるものではない。

 

■順序が後先の県議団調査■

県議会で教科書の記述をを変えるような重要案件を決議する。

それなら、議決の前に調査・検証をしてその後に議決を計るのが順序だろう。

だが、「11万人」集会に至る端緒となった県議会の「教科書検定意見書撤回決議」の採択には、奇妙な「アリバイ工作」が有った事を知る人は少ない。

事は歴史教科書の記述に関わる重要案件だ。

歴史の素人である県会議員が安易に多数決で決める問題ではない。

だが、県議会は検証をする前に決議採択をしてしまった。

そして、その後アリバイ作りの為の現地聞き取り調査をしたのである。

結局、このマスコミ向けの「現地調査」が狂乱騒動の発端となった。

「県議会採決」と議員団による現地聞き取り調査の順序が後先になった事実。

この後先実施の不自然さを報道するマスコミは一つもない。

議決採択の後の現地調査では「後の祭り」ではないのか。

当日記はこの県議文教厚生委員の聞き取り調査が、デタラメナなアリバイ工作だった事を再三指摘してきた。

調査なんて今更どうでも良かったのだ。

だがマスコミの大々的報道で、デタラメな調査も信憑性を帯びてくるから、メディアの印象操作は恐ろしい。

県議団の調査となると、天下の文科大臣も態度が揺れ動かされるものらしい。

渡海紀三朗文部科学相は「検定後に新たな事実や証言が出ている。新事実が少し増えた状況で、どのように考えていくかだ」と語り、

教科書記述に「強制」の文言を復活させることもあり得るとの考えを示した。

渡海文科相が再修正の根拠として指摘した「新事実」というのはなにか。

沖縄県議会議員団が行った、デタラメな聞き取り調査を実施した際の証言のことだろう。

県議の調査で、座間味村の上洲幸子さん(84)が、旧日本軍隊長による直接命令があったと証言した。 

ところが、上洲証言を報道した沖縄タイムスは、二度、「隊長」ではなかったとの訂正記事を掲載している。 

だが、これが誤報だったことを伝える新聞はタイムス以外に一つも無かった。

沖縄タイムスの「大きな捏造記事」と「小さな訂正記事」

ちなみにこの沖縄タイムスの捏造記事はそのまま朝日新聞の社説に引用され全国を一人歩きし始める。(朝日の“捏造記事”タライ回し  沖縄タイムスが“捏造写真” 

                                              ◇

県議会文厚委 検定撤回へ現地調査

 文部科学省の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する日本軍強制などの記述が修正・削除された問題で、県議会文教厚生委員会(前島明男委員長)は6日午前、渡嘉敷島で「自決」現場を視察したほか、「集団自決」の生存者らから聞き取り調査を始めた。午後には座間味島に渡り調査する。

(7/6 16:05)全文 >>

「集団自決」の生存者から当時の話を聞く県議会文教厚生委員会の委員ら=6日午前10時半ごろ、渡嘉敷村

上記写真で調査団を先頭で案内している当時14歳の金城武徳さん(75)の証言は新聞では肝心の部分は完全に削除された。

一方、当時僅か6歳の吉川さん(67)の証言は事細かに取り上げ「軍命令はあった」と結論付けている。

 

■デタラメだった聞き取り調査■

島の人によると、聞き取り調査は実に酷いものだったという。

金城さんが「軍の命令は無かった」と証言すると、

議員団の狩俣信子議員(社民党)は、金城さんの発言を封じるように次のように決め付けたという。

私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」

当時15歳で生き残ってきた証言者に対して、この「決め付け」発言がこの調査団の左翼的性格を物語っている。

証言者の発言を封じるなら何のための聞き取り調査だったのか。

そう、議会決議に合致する証言だけを聞けばよかったのだ。

「不都合な証言」を聞く耳など最初から持ち合わせてはいなかった。

社会科の教師をしていたら証言を聞かなくとも全てをお見通しだとは細木数子先生もきっとびっくりでしょう。

又調査団の団長で、後に「県民大会実行委員長」となる仲里県議会議長は、調査現場で驚くべき発言をしている。

あの「毒おにぎり」証言の仲里議長である。

みんなで既に決めたこと(採択したこと)だから、早く話をまとめましょう」

もう既に決まった結論のアリバイ造りの調査だったことがこの議長の一言で、語るに落ちてしまっている。

この調査団の左翼偏向的性格は今更説明を要しないが、この一連の県議団の動きがマスコミのセンセーショナルな報道と相まって、

その後県民を狂乱の渦に巻き込んでいく。

■県議のアリバイ調査は県民の総意?

沖縄タイムスは恥知らずにも、

「証言を聞き終えた前島委員長は「検定意見削除は県民の総意だ。文科省にさらに強く訴えていく」という文で締めくくっている。

そう、タイムスは己が創作した“県民の総意”が重要であり、

重要証人の証言などどうでも良かったのだ。

沖縄タイムスは結局、聞き取り調査の証言は封殺して、自分が作ったシナリオ・「県民の総意」さえあれば、歴史の事実を捏造できると信じているのか。

デタラメな調査で「県民の総意」を捏造される県民もたまったものではない。

 

■平和学習の語り部が証言者■
  
沖縄タイムス;「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】

証言者・吉川嘉勝氏(68)は調査団に対し、

自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」

と語った。

吉川氏は最近(4月19日)まで渡嘉敷村の教育委員長を勤めていた教員上がりの村の偉い人でもある。http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/vill_inf/so_6/so_6_01.htm

このように沖教組関連の「平和教育」でどっぷり浸かった文教委員議員団の調査は、形だけのアリバイ作りのためだけの噴飯モノあった。

ちなみにこの吉川氏、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役をしていると言う。

そう、吉川さんは証言者である一方、「平和学習」の語り部でもあったのです。

いくら語り部でも、日本軍の残虐さは語って語っても「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」と語るのが精一杯だったのでしょう。

参考:「平和学習」
埼玉の中3生、修学旅行で「集団自決」地に 「平和」努力を決意 カメラ  (7/5 16:05)

 

この吉川氏が証言するのは今回が始めてではない。

今年の慰霊の日の朝日新聞の記事で証言している。

だが、「軍曹が命じた」と巧妙に作文された朝日記事でも

吉川氏は一言も「軍の命令」とは証言していない。

 

http://www.asahi.com/national/update/0623/SEB
200706230011html

62年前に見た集団自決の現場 「軍曹が命じた」
2007年06月23日15時30分

 沖縄戦の戦没者ら約24万人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。糸満市摩文仁(まぶに)に立ち並ぶ碑の前で23日朝、元中学校教諭の吉川嘉勝さん(68)は妻の英子さん(68)と一緒に静かに手を合わせた。礎には米軍の艦砲射撃で亡くなった父の名がある。

 62年前、吉川さんは「集団自決」の現場にいた。

 那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島。周囲25キロの島に米軍が上陸したのは45年3月27日のことだ。住民らは土砂降りの雨の中、島北部の通称「北山」を目指した。吉川さんと家族もその中にいた。当時6歳だった。

 「集団自決」が起きたのは翌28日。たどり着いた山中で家族や親類ごとに円陣を組んで座った。村長の短い訓示の後、「天皇陛下万歳」の叫びとともに、あちこちで手投げ弾が爆発した。

 吉川さんの家族ら約10人が輪になった中でも、義兄らが手投げ弾を石に打ち付けた。だが、爆発しない。父は「火を燃やして、投げ入れろ」と指示した。

 母が叫んだ。「手投げ弾を捨てろ」。生きられるだけ生きるべきだと必死に訴えていた、と吉川さんは振り返る。家族はその場を逃れた。

 母が教えてくれた「命の重さ」を伝えるため、吉川さんは教師になった。校長を最後に教職を退き、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役を務める。「自分たちの歴史を知り、戦争のない社会をつくってほしい」と語り続ける。

 その島で、沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は88年、かつて村の兵事主任だった故富山真順さんから、ある証言を聞いている。

 富山さんは45年3月20日、戦隊からの命令で17歳未満の少年と役場職員を役場の庭に集めた。兵器係の軍曹が住民二十数人に手投げ弾を2個ずつ配り、「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのある時は残りの1発で自決せよ」と訓示した、という。

 沖縄ではいま、「集団自決」を巡る教科書検定で「日本軍による強制」が削除されたことに強い反発が起きている。安仁屋さんは言う。「富山さんの話は自決命令の存在を示す重要な証言だ」
 
朝日新聞は、既に「集団自決」の「軍命令論争」で敗北していることを承知している。

子分ともいえる沖縄タイムスが暴走するの止められず、当たり障りの無い記事でしか援護できない、・・・というより、既に敵前逃亡を決め込んでいる。(朝日の敵前逃亡 沖縄の「集団自決」 

                     ◇

これまでも学術調査団が何度も現地調査を行っており、「軍命令はなかった」という多くの証言者がいたが、これらは地元マスコミに載ることはなかった。(例えば宮平さん→★文末に引用)

■【動画と“新聞証言”の違い】

いずれにせよ、マスコミは自分等に不都合な事実は報じない。(これは金城さんも言っている)

琉球新報、沖縄タイムスが「集団自決」の生き残りで当時14歳の金城さんの証言をどのように歪曲して報じたか、つぎの【動画】で確かめて欲しい。

【動画・金城武徳さんの証言】http://www.youtube.com/v/P16oG_3X89o

 

連日紙面を飾るのは「多くの悲惨な証言がある」と言う極めて曖昧な記事のがオドロオドロしく報じられる。

確かに沖縄戦で悲惨な体験をした人は数多くいるだろう。

だが、「数多くの悲惨な証言」を必死で「軍命令で集団自決した」の結論にもっていこうと紙面づくりに追われているのが地元二紙だ。

最近では「命令の有無ではなく、強制性が問題だ」なんて言い変えだしているようが・・・。

そのうち「強制性の有無ではなく、軍隊がいたことが問題だ」なんて言い出すと思う。

まともな研究者、そして良識ある証言者達は皆「その事実」に気がついている

コメント (3)

究極の転向者:富村順一、新・沖縄タイムスを恐喝した男!

2021-06-15 07:17:26 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

新・沖縄タイムスを恐喝した男!究極の「転向者」富村順一2009-08-11

■究極の逆転向者ー富村順一■

極左作家富村順一氏の恐喝に屈して『鉄の暴風』の記事を人目を避けるように削除した沖縄タイムスは、その歴史に致命的汚点を残した。

口止め料として50万円を脅し取った上、タイムスの願いを踏みにじって自著で「削除記事」を暴露し大儲けをした富村順一氏について今回も触れる。

現在大阪西成区に在住の元極左活動家富村順一氏は、係争中の「集団自決裁判」には不自由な車椅子の体を押して大阪地裁まで来て、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。

左翼に襲われ車椅子生活に!

 

それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。 

富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。

富村氏は、左翼集団の暴力により、手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。

■富村氏が極左作家になった経緯■

富村順一氏は1930年5月3日、沖縄県国頭郡本部に生をうけるが、生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。

【追記】富村氏は2012.04.19に大阪で死亡したとされている。(享年82歳?【追記】2参照)

15歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。

以後全国を放浪するがその間も犯罪を繰り返し、各地の刑務所の出入獄をくり返す。

1970年7月8日、「70年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。 

その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。

「日本人よ、君たちは沖縄のことは口をだすな」

「天皇は第二次世界大戦で300万人を犠牲にした責任をとれ」

「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」

結局、逮捕、起訴され、懲役3年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成され、獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄」(富村順一著 拓植書房 1972年)として出版されることになる。

出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそり、この手の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。

ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。

○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁~35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。

○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。

○送りガナはあえて統一しませんでした。

○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。

○原文中、「   」の部分を傍点をつけ、「    」をはずしました。

支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。

同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続け、沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。

富村氏の著作を拾ってみても沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。

『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書 

『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。 

沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。 

『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。 

『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。 

皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。 

最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。 

『十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。

富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。 

もう一つのひめゆり部隊 -戦後沖縄の売春婦-』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。  

 『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。  

 『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。 

                    ◇

富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。

ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い(転載)

毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった

                   *

 
嘗て「東京タワ-事件」というのがあった。1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ-特別展望台(地上250メト-ル)のエレベ-タ-前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ-タ-で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル-テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。
 
私はこの資料を『青い海』大阪編集室で見た。編集長の津野さんから色々来と話を聞かされたが私には関心がなかった。あんなことで世の中が変わるのか、というのが正直な感想であった。大阪でも沖縄でも敬愛する先輩たちが富村裁判の応援に名前を連ねていた。
1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、
また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。

私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)
 
【おまけ】
沖縄タイムス・コラムに掲載された富村順一氏に関する記事。
1973年は沖縄返還の翌年である。
 

1973年6月22日http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tomimura.html

  沖縄タイムス  唐獅子

  意識した熱狂を

 

わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。

60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。

マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。

ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。

先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。

さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。

 

【追記】2

ブログ「富村順一死す | 無恥無情/『大阪府警の隠し事』の2012.04.19 に富村の死亡が載っている。

いつまで経っても、彼の死亡情報がネット上に現れないので、本ブログで述べておく。平成13年秋の生活保護法による保護決定から十有余年に及ぶ生活・住宅・医療扶助を受けつつ、何不自由のない生活を大阪市西成区にて送っていた富村順一は、同区梅南2にある借家を終の棲家として、この冬に死亡した。晩年には車椅子生活となり、昨秋までは電動式のそれを駆って、早朝に自宅を出て勝間街道を北上、鶴見橋商店街を東進して国道26号線を越え、あいりん地区(通称・釜ケ崎)にある労働センター付近を徘徊して露店で買い求めた弁当類を付近の公園や南海電鉄の高架下あたりで食して朝食をすませるという生活を続けていた。

【追記】3

 

【おまけ】

沖縄集団自決の真実

「沖縄人の見た沖縄戦」①

――座間味戦の裏側にあるもの――

 

ルポライター(沖縄県国頭郡出身)   冨村順一(大阪市西成区77歳)

 

平成20年1月10日  昭和史研究所会報 第129号

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。

これは本来国家のなすべき事業なのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

〔解説〕

平成19年11月9日、大阪地裁。大江・岩波裁判の日。

傍聴券を求める人々の中に車椅子の人物がいた。

この人が配布したA4判3頁の文書は、梅沢・赤松両元隊長の無実を訴え、

大江健三郎に謝罪を求める切々率直な内容のものであった。

 

この人こそ誰あろう。

かつては左翼反戦平和運動に携わりながら、梅沢裕隊長の「自決命令」の

なかったことを知るや、翻然梅沢氏弁護の運動を開始し、それが宮崎初枝

女史の告白を決意させ、また神戸新聞に「梅沢隊長の命令なし」の記事

を掲載させるきっかけをつくった冨村順一氏(『隠された沖縄戦記』などの著者)だ。

 

いわば梅沢隊長の冤が晴れる大きな一歩を刻んだ富村氏の正直で義に

強い人柄に、かねて中村は敬服していたが、大江裁判の折に氏の配布した

文書を読んで感銘を新たにし、氏に二、三の質問を含んだ書簡を送った。

 

それに対して11月30日、氏からテープレコーダーに録音した

委曲を尽した返事を頂戴した。貴重な体験と証言を含む内容なので、

一部を割愛して掲載させて頂くことにした。(中村)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

〔註〕「中村」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B2%B2

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★以下、富村順一氏のテープおこしの本文です。★

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 中村先生、今晩は。

先生からの御手紙を拝読し、直ぐに手紙を出そうと思いましたが、

何分にも手足が不自由で遅れたこと申し訳ありません。

 

話は違いますが、近所に梅南座という芝居小屋があります。

そこの主は沖縄出身の渡口さんというお婆ちゃんです。

このお婆さんは、娘さんやお孫さんも毎日のように私の家に来て

よく私の面倒を見てくれます。

そのような方ですから、私は先生から来た御手紙を劇場のママに見せました。

ママが「返事を書いたのか」と聞くので、ヘルパーに代筆を頼んで、

毎日四、五枚づつ書いていると話したところ、「このように大切なことは

ヘルパーの代筆では駄目だ。

貴方は手足は不自由でも口は利ける。

録音を取って生の声を包み隠さず、テープで差し上げなさい」と仰有った

ので、「テープレコーダーがありません」と話したところ、ママが

「じゃ、買えばいいんじゃないか」と仰有ったので、「そのようなお金は

ありません」と云ったところ、「じゃ、金は私が出すから録音テープで

自分の気持を先生に伝えた方がいい」と仰有って金を置いて行って下さった

ので早速テープレコーダーを買い、録音で先生に座間味戦記のことを

お伝えしようと思っています。

 

大城明さんの自殺

 

 私はここ十四、五年間、大衆の前へ出たことがありません。

故に梅沢さんはじめ私の知ってる方には、

私が死んだという噂が飛んでいる現在です。

何故、そのような私が今頃、大江裁判傍聴に行こうと思ったのか、

訳があります。

 

 一昨年(平成17年――中村)の10月1日、大阪西成区の津守公園で

大城明さんという沖縄出身の方が自殺いたしました。

彼は若い頃、ベトナム戦争反対、基地反対、部落開放運動なんかに

首を突っ込んでました。また非常に読書家でもありました。

 

 彼が自殺一週間前、突然私の家に来たのです。私の家に来るなり跪いて

「富村さん、本当に申し訳ありませんでした。

富村さんが練馬区の元町公園で二匹の犬と野宿しているときに、

夜六人の仲間と一緒に襲い、二匹の犬を殺し、富村さんに怪我をさせ、

富村さんが車椅子の生活をするようになったのは私達です。

私がそのリーダーでした。

その理由は、富村さんが書いた「座間味戦記 / 梅沢隊長は生きている

――自決命令はなかった」という『隠された沖縄戦記』を読みました。

沖縄には沖縄の偉い大学の先生や文化人が書いた『鉄の暴風』、

沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』、『沖縄県史』がある。

それらは何れも自決命令で、梅沢隊長は従軍慰安婦と爆死したことになっている。

 

だが富村さんは「隊長は生きている」と云う。

富村さんは右翼から金を貰って嘘の本を書いたに違いない。

このような沖縄人はいない方がいい。

二度と本を書けないようにしてやろうと、富村さんを襲い、袋叩きにしたのは

私達で、そのリーダーが私でした。本当に申し訳ありませんでした」

と云いながら鞄から一冊の本を取り出しました。

 

宮城晴美さんが書いた『母の遺したもの』という本でした。

十年以上も本と縁がなく、新聞も余り読みませんでしたので、

この本が出ていることも全く知りませんでした。

 

その本をテーブルの上に置き、「梅沢さんは自決命令を出していない、

ましてや、死んだといわれた梅沢さんが健在であることを知りました

。自分たちは取り返しのつかないことをしてしまった。

富村さん、本当に申し訳ありませんでした」と跪いて詫びたのです。

 

余りに突然のことで、私も宮城晴美さんが本を出したことも知らず、

どのように大城君に返事をしていいやら、言葉を失い、黙っていると、

大城君が

「富村さん、近い中に私は本を読めない所へ行くんだ。

富村さん、この眼鏡はフランス製です。いい眼鏡です。

もしレンズが合わなければ、レンズだけ替えてお使い下さい」

と眼鏡をテーブルの上に置きました。

彼は読書家でもあったので、私は「じゃあ、お前は好きな本を読まないのか」

と云ったところ、「本を読めない所へ行くんだ」と――。

 

 私はその意味をすぐには理解できませんでした。

それから一週間ほど経って、彼の友人が私の家に訪ねてきました。

 

 「実は大城明さんが自殺しました。

彼の部屋に富村さん宛の手紙がありました」と云いました。

彼はその手紙で何度も何度も「申し訳ありませんでした」と詫びていました。

またお母さん達にも、富村さんに迷惑をかけたから、お詫びするようにと

遺言があったようです。

その後、大城君のお母さんやお姉さんからも電話がありました。

「申し訳ない。何か困ったことがあったら連絡下さい。

可能なことはして上げます」ということでしたが、

私は「何も困っていません」と申し上げてお断りいたしました。

 

私は大城さんの自殺を考へ(ママ)た場合、まだ沖縄戦は終わって

ないんだと思うと同時に『鐵の暴風』や沖教組が捏造した

座間味戦記を書かなければ、このような自殺は出なかった訳です。

故に私は仮(たと)え手足が不自由でも、車椅子で外へ出かけることが出来る、

今度の大江裁判でも傍聴して、加納であれば事実を訴えようと思い、

裁判所へ行きましたが、残念ながら、傍聴出来ず帰ってきました。

 

 その後、大阪の関係者から二回ほど話を聞きに来ましたが、初対面であり、

どのような方かよく分からないので一部始終は話していません。

だが、先生のお手紙を読み、劇場のママからも、知ってること思ってる

ことを全部包み隠さず先生にお伝えするようにと云われておりますので、

私も知ってることを包み隠さず先生にお話しようと思います。

 (つづく)

⇒最後にクリックお願いします

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

このアイテムの詳細を見る
コメント (2)

石原沖国大教授の致命的証言!援護法申請で

2021-06-14 07:34:59 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

石原教授の致命的証言!援護法申請で

2012-01-29

 

 昨日述べた「援護法」に絡んで「沖縄靖国訴訟」で原告住民側の証人として証言台に立った、石原昌家沖国大名誉教授の「致命的証言」について、解説する。

先ず援護法の概略を知る参考に、古い沖縄タイムスの記事を引用する。

<沖縄タイムス 2005年3月4日 朝刊30面>

戦闘参加者とは誰か](6)
申請
「救えるものは救おう」
役場職員も事務研究

 一九五七年、厚生省は、沖縄戦で亡くなった一般住民のどのような行動が「戦闘協力者」として、該当するかを調査した。その後、実際の受け付け業務は、琉球政府から委託され、各市町村役所が担当した。

 申請の過程でも、援護法が「軍への協力」を前提としていたため、そのことが、強調されていくこととなった。

 長嶺秋子さん(70)=糸満市=は五三年、兼城村役場(当時)の初代の援護係に着任し、その後八年間担当した。

 援護法の申請手続きは、兵隊や現地召集の防衛隊など軍人軍属が先だった。

 「軍人の場合は、政府から一次名簿というのが届いていた。しかし、戸籍がなく、仮戸籍で受け付けた。防衛隊の場合は名簿もないので、各字を回って、誰が隊員なのかを申告してもらった」

 地域の公民館に机を置き、住民が申請に来るのを待った。「援護金の支給があると言っても、なかなか信用してもらえなかった。『戦争のことは思い出したくない。辛いことを思い出すからやりたくない』。そんな声が聞こえてきた」と振り返る。

 その後に、一般住民が対象となる「戦闘参加者」の申請が続いた。

 申請には、戦没者氏名、生年月日、死亡月日、死亡場所に加え、どのようにして亡くなったかを記した「戦闘参加概況書」を添付する必要があった。

 職員は、概況書を基に、「戦闘参加者」の基準となる二十項目、「義勇隊」「直接戦闘」「弾薬運搬」「戦闘協力者」などの、どれに当たるのかを判断した。

 申請は、琉球政府を通して、厚生省援護局未帰還調査部に送付。厚生省は、添付資料を基に、「戦闘参加者」に「該当」するのか、否かの審査をした。その結果を「戦闘参加該当予定者名簿」として、市町村に送り返され、該当遺族に通知が送られた。

 厚生省へ送付される「戦闘参加概況書」では、住民が協力した、軍隊の部隊名も特定する必要があった。住民の立場からすると、混乱した戦場での正確な記憶が求められるのは、土台無理な話だった。しかし、書類はそれを要求していた。

 結局、申請を受け付けた役場職員が、日本軍の作戦状況を把握して、日時場所から、部隊名を記入することもあった。

 市町村の援護課職員は事務研究の連絡会をつくり「戦闘概況」について、どう記せばいいのかを検討し、連携したという。長嶺さんは「琉球政府の方針も、沖縄は復帰できるかも分からない、援助できるものは援助しようということでした」と振り返る。

 同村役場三代目の援護課担当だった大城美根子さん(62)は六五年に着任。当時の業務は、「戦闘参加該当予定者名簿」の中から、「『非該当』の人を『該当』となるように救うことだった」と振り返る。「沖縄戦で亡くなった人たちが、救えないのはおかしい。亡くなった人たちは、皆『戦闘協力者』だと思っています」と語る。(社会部・謝花直美)

                          ☆

裁判所に提出した上原さんの陳述書見れば自明だが、琉球新報の「言論封殺」は慶良間島の集団自決の真相にターゲット絞っており、集団自決は「援護法」に大きく絡んでいる。

簡単に言えば本来軍属にのみ適用されるはずの「援護法」を政府主導で強引に沖縄住民に適用するように政令を発して特例を設け、住民の中の「戦闘参加者」を適用対象としたのである。

「援護法」の申請の流れはこうだ。

住民(遺族)⇒各市町村の援護課⇒琉球政府⇒厚生省援護局

そして各担当部門で出来るだけ「『非該当者』を『該当者』となるように救う」という思惑が働いた。 昨日紹介したように厚生省側でも祝嶺さんのような沖縄出身者を担当職員に配置転換し出来るだけ「援護法」の適用させるように指導した。

当初は市町村の窓口でも申請書の記入などに不慣れな職員が多く、多くの申請書が厚生省側から突きき返されたという。 だがそれには厚生省側の「受理されるノウハウ」の指導が付いており、結局要領を掴めば簡単に「戦闘参加者」として受理され援護金支給の対象となった。

政府(厚生省)、琉球政府、各市町村の三者が「出来るだけ受理する」という思惑で動けば、その申請手続きの過程で、どうしても該当しない申請者に虚偽の申請をするものが出てくる。 厚生省側にも見て見ぬふりをするどころ積極的に「偽造申請書」に加担する者も多かった。 組織ぐるみで加担した場合も多かったと聞く。

「援護法」の研究者を自認する石原昌家沖国大名誉教授は、申請書を書けない住民に代わって申請書を書く手伝いをしたと語っている。 この石原氏、援護法の研究だけやっておればそれなりの評価をされたのだろうが、沖縄で名声を得るには反日左翼複合体に迎合する必要を感じたのか、イデオロギー丸出しの論調で新聞紙上を賑わし「集団自決」訴訟では被告の大江・岩波側の弁護に回り、「軍命派」の論陣を張った。

■法廷で立ち位置を忘れた石原昌家氏

その一方で「沖縄靖国訴訟」では原告(遺族)側の証人となって法廷で証言をした際、イデオロギーと研究の狭間でついうっかり自分の現在の立ち位置を見失ってしまい致命的発言をしてしまった。

石原氏は、沖縄戦で犠牲になった住民を靖国に合祀するため政府主導で「軍命による自決」などの「戦闘参加者」を作って援護金を与え口封じした、という趣旨の意見書を提出し、証言台では次のような趣旨の証言を行った。

被告側弁護士:「石原先生の説明ですと、沖縄の遺族の中で援護金を貰っている人の中には本来、もらう資格が無い方々が多く含まれているということですか?」 

石原証人:   「いえいえそうではありません。ほとんどです」

被告側弁護士と石原証人との尋問で、石原証人は次のことを証言したことになる。

■石原証言のポイント

1)戦闘参加者という受理条件を与えるために、日本政府がその基準に合うように暗に指導していた。

2)日本軍が住民に命令や要請を受けた時点で国と住民に雇用関係が発生すると考えで、積極的な戦闘協力をした、と指導した。

3)壕の提供は、軍事行動であり、現認承認があれば軍属と認める。

4)厚生省から付き返されることは、結果的に書き換えて受理となった。

5)援護法の実態を解明することは、沖縄戦の事実を引き出すことになる。

               ☆

この証人尋問が、極悪複合体(反日左翼複合体)にとって何ゆえ致命的なのか。

石原氏は別の裁判である「集団自決訴訟」では大江・岩波側を支援し「軍命あり派」の論陣を張ったが、「沖縄靖国訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であり、国がそれを指導したと主張した。 ということは法廷で軍命は虚偽だったと証言したことになる。

石原氏の証言に関しては反日左翼複合体の側からも批判の矢が飛んでいると聞くが、結局、石原氏法廷での宣誓の通り、真実を語ったことになる。

真実を語ったため「集団自決」は軍命であるという持論を結果的に否定してしまったのだ。

もっともこの石原氏の致命的証言は、「不都合な真実」は徹底的に隠蔽する琉球新報、沖縄タイムスが報道するはずもなく、法廷記録として残っているだけである。

結局、石原氏の証言を要約すると、援護法と靖国合祀は、住民を死に追いやった戦争責任を回避するための口封じという「恨み辛みの歴史観」になる。

【おまけ】

<沖縄タイムス 2005年3月6日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](8)
東京の目
援護法での救済に腐心
「生かされた」責任感じ

 沖縄戦で看護隊として亡くなった女子学徒は、援護法で「準軍属」にあたる。一九五五年、女子師範学徒八十八人に、死亡公報が発せられた。それに基づき、援護法申請の手続きが取られていった。

 申請書類をめくると、女子師範、一高女、寮で一緒だった同級生や下級生の名前が記されていた。審査にあたった厚生省職員の祝嶺和子さん(77)=静岡県=は「寮で枕を並べた友達が、死んでいるんだから。絶対救わなくちゃいけない。そんな気持ちがありました」。当時の悲しみが再び込み上げて、言葉を詰まらせた。

 「でも、それだけやったから、私はね、自分が生きてもね、みんなには『お前は来なかったな』と言われないで済むと思っていました」

 夫、正献さんの生前の口癖は「特攻隊で自分の友達も皆、死んだ。自分らは生き残ったから、国のために何かやれということなんだ」。名護にいた幼少時から空手を学んでいた正献さんは、六三年に空手を基にした武術「躰道」を本土で広めることに努めた。

 「自分は生き残った」という思いを持ち続けた祝嶺さんは、沖縄戦で犠牲になった人々を援護法の対象として救うことに、心を傾けていった。

 一般の住民は逃げ回っていたのではないか。軍人が住民にも一緒に戦えと命令したのか。軍人が「自分たちが使うから、おまえたちは出て行け」と言って、住民を壕から追い出した―。

 「戦闘参加者」として、一般住民の申請書類が上がってきた時に、厚生省で批判的にみる人もいた。

 祝嶺さんは振り返る。「逃げ回っていた人もいたと思う。でも、そういうと沖縄の人が救われない。『戦闘参加者』として参加したんだと、はっきり言った」

 沖縄戦では、住民と軍隊が混在した。三カ月にも及ぶ戦闘の中で、一人の人間の死に至る過酷な体験は問題にされることはない。援護法の適用で、注目されるのは「軍への協力」、その一点だ。

 書類の審査で難しいケースについては、最終的には沖縄戦体験者の祝嶺さんのところに、回ってくるようになった。

 「軍への協力」が必要と、入り口を絞られた書類の上の沖縄戦。戦場で同じような行動をしていても、書き方一つで住民は「戦闘参加者」か、そうでないかに分けられる。

 「事実を書いてあるのだが、書類では通すことが難しい事例がある。だから、ほかはこのようにして通っているのだから、これと同じような書き方でと、そうちらっと教えた覚えはあります」

 「今からいうとおかしいかもしれないが、自分は生かされた。死んだ人はどうしても救わないといけないという、責任みたいなもんがあった。私はただ、沖縄の人を救えばいいという気持ちだった」(社会部・謝花直美)(毎週木―日曜日に掲載)

⇒最後にクリックお願いします

コメント

援護法、善意の解釈と悪意の拡大解釈

2021-06-13 11:37:29 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

援護法のからくり?、悪意の解釈と善意の拡大解釈2011-04-06 

 

当日記が唯一誇れるのは読者のレベルが高いこと。 これは何度か自慢したが、昨日のエントリーで沖縄タイムスのテレビ案内文を紹介し、「変だ」と疑問を呈しておいたら、早速読者から的を射たコメントを頂いた。 次に紹介する。
 
■  安仁屋正昭さんのコメント遺族年金はそろそろ

戦後66年、そろそろ遺族会は援護金の受領を辞退してはどうか。
出来ないので、あれば正当な軍人軍属とこれに順ずる戦斗協力者のみに限るべきです。

今回の靖国合祀取り消し訴訟で明確になったことは、援護法の適応を受けるため、申請書を捏造したという事実です。
嘘をついて貰うわけだから、他人に知られては、ばれてしまう。
だから、申請書に記載した内容(どのような理由で何処で戦死したのか)を、家族にすら知らせていないというトンデモ無い事実です。
援護金を貰っている遺族に、「戦死されたご家族は、何時何処でどのように亡くなられましたか?」と聞き取りをし、これを「靖国神社に問い合わせてください」と頼み、照合すれば、

恐らく2万件前後の不合は明らかになるはずです。

場合によっては、詐欺行為の疑いがあるので、援護金不当受領者に対する裁判を起こしてもよいと思います。

金城 実氏率いる、原告人5人中、3人(戦没者8人)は、この対象です。 

 ■ヒロシさんのコメント 不都合な真実 
「チビチリガマに軍人はいなかった」という事を多くの県民が知っていることだと思いますが読谷村史http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm
>「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。
>避難民約一四〇人のうち八三人が「集団自決」
>真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した

どこにも軍の命令と書いていませんね。
「思い出」として日本の教育が悪かったと書いてあってミスリードさせようという意図がかくれていますけど。

 もう一つ  ヒロシ   
>「援護法」による年金をもらう代わりに民間人が「準軍属」にされるというからくりがあった。
これも年金をもらう申請をしたのは「誰か」というところが意図的に抜けていますよね。
年金をもらうために「遺族が虚偽の申請をして」「沖縄県の多数の遺族を一人でも多く金銭的に救うために」「虚偽とわかっていて」申請を受理した。
付け加えるならば「沖縄以外ではこのような虚偽の申請は受理されていない」わけですから
靖国訴訟は前提からしておかしい訳で最高裁まで行くでしょうけれど「裁判官には真っ当な判決」を望みます

            ★

> 場合によっては、詐欺行為の疑いが(安仁屋さん)

安仁屋正昭さんは「詐欺行為の疑い」と控え目な表現にしているが、より直截的にいえば「公文書偽造による「公金詐取」といわれても仕方ない行為である。 沖縄人の立場としては言い難い言葉だが、筆者は3年前に「国主導の公金詐取」と指摘しておいた。

>これも年金をもらう申請をしたのは「誰か」というところが意図的に抜けていますよね。
>年金をもらうために「遺族が虚偽の申請をして」「沖縄県の多数の遺族を一人でも多く金銭的に救うために」「虚偽とわかっていて」申請を受理した。(ヒロシさん)

OABテレビの当該番組では、終始「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」という印象で放映され。 だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、裁判では遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言しているくらいである。

したがって遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無いだろう。

ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。

大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。

沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)

News Photo

 

 

■政府主導の「公金横領詐取」■

現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないといおう。

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈をしている。

違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

■援護金業務での宮村幸延氏の功績■

座間味村役所の援護係・宮村幸延氏は、援護法の折衝のため何度か上京しており、その結果、軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満児から0歳児でも、63年以降準軍属として確定することになったようである。

そしてそのときの宮村氏の努力は現在も座間味村役所に宮村氏の「功績」として記録に留められていると言う。

現在公式には厚生労省に「軍命を付した援護法の申請書」の存在はないということになっている。

当時の厚生省の「拡大解釈」は、拡大を通り超して「違法解釈」と言われても仕方がない。 

つまり当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理である。

■宮村が「侘び状」を書いた理由■

元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。

おそらくは『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、座間味村役所の援護担当の宮村氏は梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していたのではないか。

そして、宮村氏は、死んだはずのお富さんならぬ梅澤さんが生きていると知って驚天動地の心境だったのではないか。

何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたとしたら、「公金横領」は厚生省の指導による共同責任だとしても、公文書偽造の個人責任はまぬかれない。

梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのではなかったのか。

ところが、その後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻すことになる。

その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力が推測される。

■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■

それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できることである。

その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。

ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。

梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。

「軍命派」の総本山の沖縄タイムスとしては、「誤記」に対する謝罪要求に動揺はしたが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。

沖縄タイムスは次のように考えた。

富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題である。 だが梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。

そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。

そこで、タイムスは確認の時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。

驚いたのは座間味村当局。 宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。

そこで苦労の結果考え出した結果はこうだった。

最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた。記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。

沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。

結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、新川明氏を安堵させることになる。

約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。

そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えたことは容易に想像できる。

沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。

「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。

一方の梅澤氏は、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている上、宮村氏の「侘び状」まで得た余裕からなのか、

座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。

「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)

その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もせずに、このような余裕の発言をし、

村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。

事実その後交渉は打ち切られている。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

 

【おまけ】

政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。

その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大名誉教授の論文はこれ。

 ⇒政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

⇒最後にクリックお願いします

コメント

石原教授証言、「援護法」、住民ぐるみの公金詐取!

2021-06-13 00:35:15 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

 

「援護法」、住民ぐるみの公金詐取!2012-01-28

最近、沖縄戦がらみで三つの裁判が行われた。

一つは2011年4月に最高裁判断が出た「集団自決訴訟」。 

そして係争中の「沖縄靖国訴訟」と「パンドラの箱掲載訴訟」である。

三つの訴訟はそれぞれ原告と被告、そして表面上の訴因は違っているが、実質の争点が沖縄戦であり、さらに論点を絞ると「集団自決と援護法の関係」になるという点では大きな共通項を持つ。

慶良間島の戦隊長だった梅澤氏らが大江健三郎氏と岩波書店を訴えた「集団自決訴訟」は最高裁判断で原告側が敗訴しているので、集団自決の「軍命の有無」論争は「軍命説」が確定したと一般には思われている。

■最高裁で軍命は立証できなかった

だが、これは沖縄2紙による印象操作による大きな誤解である。

たしかに最高裁で原告側の名誉毀損と損害賠償の請求は敗訴が確定した。

だが、最大の争点である「軍命」については被告大江・岩波側は立証することが出来ず、事実上梅澤氏らの名誉回復は確定した。

挙証責任は「軍命が有った」と主張する被告側にあるからだ。 

ただ名誉毀損が訴因である裁判で大江・岩波側が勝訴したため、沖縄2紙はあたかも「集団自決は軍命だった」ということが最高裁で確定したかのような印象操作記事を垂れ流し、それに誤誘導された読者が多い。

この沖縄2紙の印象操作については、しつこいが何度でも指摘しておく。

「パンドラ・・訴訟」でも原告上原さんが陳述書で強調されているように、集団自決には「援護法」が大きく関わっている。 集団自決の真相を解明しようとすると、その適用を受けるため申請書を偽造したという点に触れねばならず、この「秘密」を隠蔽しようとする勢力との壮絶な戦いが裁判という舞台で争われることになるのである。

沖縄2紙を筆頭に反日左翼勢力は、「援護法」の」カラクリを必死になって隠蔽しようとしているが、これが結果的には「極悪非道の日本軍人」という歴史の捏造を生み出すことになり、その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤さんと故赤松さんということになる。

上原正稔さんが昨年1月、琉球新報を提訴した記者会見の冒頭で、梅澤さんと故赤松さんに沖縄人として謝罪した理由は、すべて「援護法と集団自決」の複雑な関係にある。

集団自決と「援護法」の関係を深く検証すればするほど、援護法申請書の偽造などに行き着く。

詐欺行為の疑いを持つ人県民も多い。

より直裁的にいえば、援護法申請書の偽造は「公文書偽造による公金詐取」といわれても仕方ない行為である。 沖縄人の立場としては言い難い言葉だが、筆者はこれまでに何度も「公金詐取」と指摘している。

■石原教授のトンデモ発言

反日左翼の急先鋒である石原昌家沖国大教授がOABテレビに出演し、靖国訴訟の援護法関係でこんな意味の発言をしていた。

「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」という印象で放映された。 

だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、裁判では遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言しているくらいである。

したがって遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無いだろう。

ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。

大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。

沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)

News Photo

 

 

 

 

 

 

■政府主導の「公金詐取」■

現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないという。

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈をしている。

違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

元々「援護法」は沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にした。  

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘しできるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも役所は給付したくないように見える。 お役所仕事といわれる所以である。

ところが、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦に限り拡大解釈し軍に協力した住民に適用したときの当時の厚生省は、何とかして給付させたいという善意が働いて、書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見される。

 申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場を指導したのもその一つだが、厚生省側でも沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。

沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

■石原昌家氏の二枚舌■

集団自決の軍命論争ではいろんな場面で沖縄の識者たちがカメレオンのようにくるくると自説を変えていく例が多い。これを一々論じていたら一冊の本が出来るくらいなので立ち入らないが、援護法の研究者を自認する石原昌家氏の立場は微妙である。

石原氏は「集団自決訴訟」では被告・大江、岩波側を支援し、軍命はあったと主張する一方、「集団自決」という述語は「強制集団死」と呼ぶべきだと主張し、述語の中に軍命を意味する「強制」を使うなどの徹底した「軍命派」である。

その一方で、沖縄靖国訴訟では原告の遺族側の証人に立ち、「軍命は政府側が住民を靖国に祭るためのに指導した方便」という意味の証言をして、結局は軍命が「政府によって偽造されたもの」といった自己矛盾の発言をしている。

つまり政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆したというのだ。

もっと具体的に言えば、石原氏は自分の体験も含めて、援護法申請書に「(実際はなかった)軍命による自決」と書いて出せば、援護金をもらえたと証言しているのだ。

この人物、同じテーマの裁判に首を突っ込んでしまい原告と被告が逆の立場であることをうっかり失念して「オウン・ゴール」をかましたことになる。(爆)

参考: 茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

 

【おまけ】

石原教授は、沖縄靖国訴訟の原告側証人として法廷に立ち、原告側にとって致命的ともいえる発言をしているが、これについては稿を改めて述べてみたい。

⇒最後にクリックお願いします

コメント

富村順一、沖縄タイムスを恐喝した男

2021-06-12 00:49:44 | ★改定版集団自決

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

タイムスを恫喝した男 2012-06-27

沖縄タイムスがいま、一番発言してほしくない人物。

かつて「識者」としてタイム紙の紙面を飾った男。

その人は、富村順一氏のことである

              ★

昨日のエントリーで数多い「集団自決」論争の登場人物のなかから、久しぶりに宮城晴美氏を回顧してみたら、コメント欄に珍しい登場人物の名前を見付けた。

現在も大阪でご存命の富村順一氏のことである。

宜野湾市よりさんのコメントです。

波乱の人・富村順一さんを思い出します。
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/9a156cfdf90ff1669ff827f1f8f2edba

http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/8129fdffddce65897665bd677bdf5ed2

その富村順一さんの口述の書き起こしです。
初めて読まれる方は、長いし途中で別な記事やコメントが挟まりますが、上方の「次のメッセージ」をひたすら辿ってください。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1143582&tid=a4a4a4ha4a4a4h4z9qbe
clga4xa5aba5a6a5sa5ha5c0a5a6a5sa1aa&sid=1143582&mid=68190


この口述の細かい時系列を突いて反論することで却下、遮断しようとする人もあるかと思いますが、手に入るあらゆる違う記録を地道に突き合わせることこそが、一次史料がない中で史実を探る方法。

慰霊の日にも当然働いている人々があり、国道から見えるパチンコ店の駐車場にはいつものように車がたくさんあり、スポーツの試合や地域の行事があり。
だからと言ってその人たちが皆、先人を思わないわけでもなく。
忘れずとも人生は続いていく、と思う。
実相がまだよく判っていない恨みつらみに縁取られた「沖縄戦を忘れない」が、恒久平和を担保するものでも、拡張の意図を持った他国を抑えることを担保するものでもない、とも思う。

当日記の古いエントリーをリンクして下さったのも嬉しいが、さらに驚くのは今では絶版となっている富村氏の著書を読んだというコメントである。 涼太さんのような古くから支援して下さっている意識の高い読者の存在や安仁屋正昭さんのようにデタラメな公的刊行物を自分の眼で確かめるような熱心な読者の存在には、そのうち狼魔人日記は「本文よりコメント欄の方が勉強になる」と噂が立ちそうである。(涙)

その亮太さんのコメントです。

<安仁屋正昭様
宜野湾より様

私も富村順一氏の「隠された沖縄戦記」は読みました。

「手に入るあらゆる違う記録を地道に突き合わせることこそが、一次史料がない中で史実を探る方法。」

仰るとおりです。
私もいろいろな沖縄関係の本を読んでいるうちに、たどり着いた結論は「集団自決に軍の命令は無かった」です。
それ以外にも、久米島のスパイ処刑の真実など、沖縄のマスコミが発狂すればするほど真実が炙り出されます。
戦場売春婦が、日本軍の強制だ。補償しろ。と叫べば叫ぶほどぼろが出ます。>
同じことですね。

          ☆

そこで本日は沖縄戦史の裏の登場人物・富村順一氏について回顧してみる。

現在「うらそえ文藝」第17号が県内外の話題を呼んでいるが、3年前の209年同誌第3号で、富村氏に触れた部分があるので、抜粋して引用する。

うらそえ文藝」(14号2009.5より)

星雅彦  上原正稔との一問一答   
 

 ―― 集団自決をめぐって ――  

(略)   

 星 そう、『鉄の暴風』の間違いに対しては、訴えるべきだろうし、抗議して謝罪させることだってできるはずだったのに…。

 上原 それについては次のような裏話がある。ある悪い奴がいて―― 富村という男が沖縄タイムスに何度も訪れ、執拗に賠償金を要求して夕イムスから金を受け取つたという。そのことを僕は八〇年頃にタイムスのある記者から聞きましたよ。

 星 悪いウチナーンチュ?

 上原 そういう奴が、沖縄タイムスを脅迫したんです。彼は梅澤さんが生きていることを嗅ぎつけて、それをネタに沖縄タイムスを脅迫して、賠償金を要求したんです。

 星 そんなでたらめなことを。

 上原 でたらめじやなくて事実です。「梅澤さんは生きている。これを書いたのは君たちの間違いだろう」というふうに沖縄タイムスに抗議したわけです。それでお金を要求して、士方なく五〇万円を沖縄タイムスは渡したわけです。これは有名な裏話ですよ。


 星 その男に渡したんですか。それ本当の話ですか。立証できますか。

 上原 間違いない。彼はあくどい点でも有名な男ですから。

 星 生きているのに、慰安婦と一緒に死亡とは、悪意さえ感じられる。

 上原 梅澤さんは要求など、そんなことはしない。タイムスの昔の記者だったらたいてい知ってしいますよ。宮村という男がタイムスに抗議して、梅澤隊長が慰安婦と一緒に死んだという文章を削らせたのです。この削除にはそういう背景があったということです。

 星 そうすると、一九七○年に東京タワー事件を起こして、アメリカ人の神父を人質にして昭和天皇を処刑台に送れ!と叫んだあの富村順一ですね。それにしても彼がタイムスへの謝罪要求をしたとは・・・。

 上原 とにかくはっきりしてるのは、梅澤さんは現在も九一歳でとても元気だということですよ。

 星 それからこの裁判で、証言者たちが前言を翻して、逆な発言をするのも不思議な現象だ。例えば、宮城晴美さんのお母さんの宮城初枝さん、以前は宮平初枝さんだが、その人が軍命につぃて嘘の証言をしたこことを告白したのを、娘が後でまた裏返してあの告白は嘘だったという経緯がある。その上、戦後生まれの宮城晴美さんは自分の証言の真実性を訴えたりする。また、二重の虚言的な操作をする人が出てきたこりして、非常に疑心暗鬼になる。ただ、住民が本当のことを言えなくて、奥歯にものの挟まったような状能で証言するのを、私は数人から何度も感じてきたわけです。
 
 また、四〇年ほど前に渡嘉敷島と、座間味島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初校に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしっくりせず隠しているなと感じたものです。隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。私は七一年の「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど、わざとぼかして書いた。ある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。(略)

             ☆

星雅彦氏は、若いころ誰よりも早い時期に集団自決の聞き取り調査をした。 その経験を雑誌に書いたが、「(隊長命令がなかったことは)ある程度の確信はあったが」「わざとぼかしたて書いた」ことを次のように反省している。

「あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある。」と。

そしていま、歴史捏造を企てる勢力に対し「村八分」を覚悟で敢然と立ち上がった星雅彦。

そして琉球新報に対し「言論封殺」の戦いを挑んでいる上原正稔氏。

お2人の勇気ある言動に、最近とんと見かけなくなった侍(サムライ)の面影を見ることが出来る。

上記の「うらそえ文藝」の対談を見た芥川賞作家の目取真俊氏が自分のブログでいちゃもんをつけた。

相変わらずの無知丸出しのコメント対し、からかう意味のエントリーをしたのがこれ。

富村証言の衝撃!沖縄タイムスを恐喝!

以下は過去エントリーに一部加筆したものである。

■恐喝された沖縄タイムス■

沖縄在住の芥川賞作家目取真俊氏が自ブログで、係争中の裁判の判決文を誇らしげに引用し、「うらそえ文藝」の上原氏の発言を批判して「裏事情を知っているだけで、判決文も読まないものが口出しをするな」といったニュアンスの文を書いている。

『鉄の暴風』を訴えなかった理由

ところが判決文では触れていない「裏事情」を、これ以上発言されると一番困るのは沖縄タイムスであり、その意味では同じ立場に立つ目取真氏が沖縄タイムスの意を受けて星、上原両氏に、判決文全文を読んでいないことを盾に、発言を封じようと画策していることは容易に想像できる。

目取真氏は、沖縄タイムスが富村順一氏に恐喝され50万円支払ったことを、大した問題ではないといった書き方をしているが、これは読者の目を欺くためのごまかしに過ぎない。

富村氏の恐喝は沖縄タイムスにとって二つの意味で大きな汚点、いや、新聞社としては致命的ともいえる大きな打撃である。

先ず恐喝した富村氏は、過去に沖縄タイムスから著書を出版したり寄稿をしていたタイムスにとっては重宝な左翼作家であること。

つまり富村氏沖縄タイムスの紙面をにぎわす「識者の1人」だったのである。

そして恐喝の理由が、問題の書『鉄の暴風』の記事削除であり、沖縄タイムスは実際削除に応じたこと。

しかも恫喝された事実を沖縄タイムスは闇から闇へ葬ろうとした

恐喝を受けた当事者の新川明氏(元沖縄タイムス社長)が、「うらそえ文藝」の当該記事を見て立腹し、何らかの対抗手段を打つと息巻いていたが、結局この事件には沖縄タイムスOBを含む複数のの証言があるというので、問題化することを諦めたと聞く。

そして脅し取った50万円は、当然タイムス社からの出費だが、その出金名目は「原稿料」とした、という生々しい証言もある。

さらに恐喝した当人の富村氏が78歳の高齢ながら現在も大阪でお元気であることも沖縄タイムスが対抗手段を打つことなく沈黙を守る理由だという。

目取真氏はタイムスが恐喝されたことの真偽を同社に問い合わせ、それが事実だと知って愕然としたのではないか。

そこであのような目くらまし記事を書いて「沖縄タイムスが恐喝に屈した」という「うらそえ文藝」の告発を、「矮小化」(左翼の得意の表現)し、星、上原両氏のこれ以上の発言を封じ込めようとしているのではないか。

まさに、沖縄版・言論封殺魔の面目躍如である。

■証言の信憑性■

「集団自決訴訟」の特徴は、60数年前の体験者の証言と、

数十年前に彼らに聞き取り調査した人物の記録、

という極めて曖昧な要素のある証拠物を根拠に争われているという点である。

しかも数十年前に聞き取り調査に応じた体験者も大半は鬼籍に入ってしまった現在、

彼らが残した記録に「思い違い」や「勘違い」などがあったとしてもそれを本人に確認する術はない。

いや、その聞き取りをした人さえ「聞き違い」などが考えられるが.、聞き取りした人にも既に物故した方がいて、この問題の検証の難しさを倍化させている。

証言者がその時、その場所にいたからといって、その証言を無条件で信じることは出来ない。

■証言者のバックグラウンド■

アリバイ証言を求める場合、家族や、親族の証言がその信憑性を疑われるように、証言者のバックグラウンドが証言に及ぼす影響を無視することはできない。

ここで「集団自決訴訟」に登場する証人をそのバックグラウンドによって、大きく二つに分けてみる。

①本人または近い親族が「援護金」を受給している証人

②「援護金」とは無関係な証人

この二種類の証人は夫々同じような証言をするという特徴を持つ。

①の証人は金城重明氏や、宮里春子氏、宮村幸延氏のように「軍の命令があった」と証言しているのに対して、

②の証人は宮平秀幸氏のように「軍命令はなかった」と証言している。

通常の刑事裁判ならこの時点で「援護金受給」という経済的バックグラウンドを考慮すれば、①の証言は信憑性に欠けるとして却下されてしかるべきである。

だが、奇怪なことに「集団自決訴訟」では①の証言はほとんどそのまま採用されている。

その一方で、②の「援護金受給」に無関係な人びとの証言はことごとく虚言として却下されている。

■証言者のプラス派とマイナス派■

裁判には集団自決当時、現場にいなかった戦後生まれの学者や関係者も多く登場するが、彼らはその「証言」が経済的、社会的に見て本人にプラスかマイナスかによって二つに分類できる。

①プラス派⇒宮城晴美氏、林博史、安仁屋政昭、大城将保、石原昌家など

②マイナス派⇒照屋昇雄、星雅彦、上原正稔

外にも①の【プラス派】には高校教師から琉球大学教授に駆け上がった、高嶋伸也氏や元県知事で沖縄戦戦記本を多数出版した太田昌秀氏などの大物もいるが、

中でも宮城晴美氏は、那覇市役所の臨時職員だったのが『母の遺したもの』を出版した後、わずか三カ月足らずで那覇市歴史博物館の主査のポストを得て、

その後は女性史研究家の肩書きで新聞その他の団体から講演会等で引く手あまたの地元知名士になり、母校の沖国大では講師を努めていると聞く。 

更には琉球大学に博士論文提出中というから高嶋教授の後釜でも狙おうかというほど社会的にも経済的にもプラス派の代表者であろう。

おっと、教科書執筆者の高校教師・坂本昇氏なども①の【プラス派】の代表だろう。この方も沖縄では有名人になって沖縄の大学のポストを狙っているとか。

 

一方、②の【マイナス派】の証言者が少ないのは地元のマスコミが証言しても取り上げないせいもあるが、

経済的、社会的にマイナスになるなら、でしゃばって証言するより沈黙を選ぶのは人間の常なので、人数が少ないのも仕方がない。

例えば、戦後早い時期に現地で聞き取り調査をした、照屋昇雄さんなどは、「軍命があった」と証言しておれば地元ではチヤホヤされ、各地で集団自決の重要証人として執筆や講演会などを請われ、社会的にもプラス面が多かったはずだが、

「軍命はなかった」と証言したばかりに嫌がらせなどを受けた。 いや現在も受けているときく。

照屋さんの場合も当然マイナス面ばかりである。

最近『うらそえ文藝』で沖縄タイムスに捏造記事の訂正と謝罪を要求した、星雅彦氏と上原正稔氏が、その後沖縄の文壇から締め出され兵糧攻めに遭っていると聞くが、これも証言したための典型的なマイナス面であろう。

■富村順一・・・・・最大のマイナス派証言者■

もう一人、最大のマイナスを被った証言者がいる。

自ら座間味島を訪問し、聞き取り調査をした結果、これまでの極左的言動から一変し、沖縄タイムスの『鉄の暴風』のデタラメな記事を批判する側に「転向」した富村順一氏こそ、「転向」で最も激しいマイナスを被った人物だろう。

富村氏については改めて詳しくエントリーしたい興味ある人物だが、ここでは概略を述べる。

富村氏は、沖縄返還の前年、天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こし逮捕された。 服役中、彼を支援する左翼弁護団と交した獄中記がベストセラーになり、出所後は「作家」として生計を立てるようになる。 

勿論出版物の内容は左翼弁護団が「天皇糾弾・反日・沖縄人」というキーワードでおだて上げたせいか、

『棄民・戦争・天皇』とか『皇軍とアイヌ兵』といったいかにも左翼が喜ぶタイトルで10冊ほど出版するほどの売れっ子作家になる。 

沖縄では沖縄タイムスを始め、出版社と新聞社からの原稿依頼が殺到し、沖縄の知識人・文化人から大歓迎をされ、さらに、各大学、各地で講演することもあった。 

そして沖縄タイムス刊『沖縄にとって天皇制とは何か』(1976。 タイムス選書)の執筆者の一人にもなる。

ところが座間味島で聞き取り調査をしているうちに、『鉄の暴風』の余りのデタラメさが徐々に発覚し、流石の極左が売りものの富村氏も、沖縄左翼の捏造体質にあきれ返ってしまう。 

特に「朝鮮慰安婦と不明死した」と侮辱的に書かれている梅澤元隊長は存命、という情報を島の古老から得て、富村氏は梅澤元隊長探索の旅を開始する。

元隊員や多くの人を辿って大阪で警備会社の重役をしていた梅沢氏と大阪で会うことになる。 その頃は未だ『鉄の暴風』には梅沢氏の「死亡記事」が平気で記載されていた。

富村氏の慶良間島取材後に「梅澤生存」を記した『隠された沖縄戦記』をするのだが、その出版年(1979年)から判断して1978年ごろのことである。 

その後30年経って梅澤氏は「集団自決訴訟」の原告の一人になるわけだが、その時は『鉄の暴風』の存在さえ知らなかったようだ。

梅澤氏は、作家というより刑務所を出たり入ったりのヤクザ者といった方が似合う富村氏に梅田の居酒屋に呼び出され、二人は酒を酌み交わしながら座間味島のことを語り合った。

そのとき梅沢氏はこう語った。

「確かに悲惨な島であった。私は自決命令を出していない。 だが、私が自決命令出したとして公表されれば、助かる島の人は一杯いるでしょう。 またお金も降りるでしょう。それでいいんじゃないでしょうか。もう終わったことです。」

「私は自分が悪者になってもいいよ。座間味は大きな犠牲を出したんだから、自決した人もいる。 私は生きのびて、こうやって生きのびているだけでありがたい。それから考えると、あまり重視する問題じゃない」(富村順一著『沖縄戦語り歩き』拓植書房1995年』)

富村氏は梅澤氏の言葉に大きなショックを受け、沖縄の論壇から総スカンを食う覚悟で『隠された沖縄戦』を出版し、沖縄タイムスの歪曲報道を暴露する。

通常のパターンだったら沖縄人が沖縄戦記を出版した場合、沖縄マスコミは揃って宣伝記事を書くものだ。

だが、『隠された沖縄戦』の場合、沖縄マスコミ、知識人、文化人は皆これを黙殺し、沖縄の書店でもこれを販売するものはほとんど無かった。

従って富村順一氏のことを知る沖縄県人は、左翼文化人と古い記者以外ではほとんどいないし、富村氏が沖縄タイムスに乗り込んで恐喝した話など知る人は少ない。(タイムスを恐喝した話は『うらそえ文藝』に詳しい)

何よりも不可解なのは、『鉄の暴風』で「死亡記事」を書かれた「悪鬼のような梅澤元隊長」が生存していることが判明したのだから、

新聞にとっては重大ニュースであり一面トップで扱ってもおかしくなかったはずだ。

だが、実際は『鉄の暴風』から該当記事をソッと削除しただけで、タイムスも新報もこの重大ニュースを報道することはなかった。

それ以降、富村氏はあれほどチヤホヤされていた沖縄マスコミからも干されてしまい、多くの出版物も今ではほとんど絶版になっている。

おまけに左翼集団に襲われ重傷を負って車椅子生活を余儀なくされるのだから、富村順一氏ほど「転向」によって損害を被った人物もいないだろう。

富村順一氏は、沖縄マスコミの徹底した黙殺により、沖縄では忘れ去られた沖縄戦記作家であり、元極左活動家であり、そして「転向者」でもある。

従って現在「集団自決」に興味を持つ人でも、その名を知る者は少ない。

『鉄の暴風』から「梅澤死亡」の記事が削除されるのは、出版後30年経過した1980年になってからだが、沖縄タイムスはその年にはどうしても「削除版」を発行せねばならぬ理由があった。

それは、富村氏が削除の件でタイムスを恐喝しただけでなく、前年の1979年発行の自著『隠された沖縄戦』で、梅澤氏が生存している事実を書いて『鉄の暴風』の捏造体質を暴露していたからである。

富村氏が「梅澤生存情報」を使ってどのように50万円を脅し取ったのか。 

おそらくは沖縄タイムスが、「そのうちソッと削除するから、騒ぎ立てないでくれ」と口止めの意味で50万円を支払ったのであろう。

だが、富山氏は50万円を脅し取った上、口止めどころか自著でも暴露して大儲けした。

ちなみに当時の50万円は現在の500万円に相当するという。

富村氏も良くやるね。

⇒最後にクリックお願いします

コメント

アイヌに乗っ取られた南北の塔、真栄平

2021-06-11 08:35:41 | ★改定版集団自決

 

プロフィール画像

NO!残紙キャンペーンサイト

⇒最初にクリックお願いします

<金口木舌>正しく伝える責任

私たちは言葉と文化を奪い取られ、琉球の人と同じ扱いを受けた。これからも慰霊を続けたい」。旭川アイヌ協議会(北海道)の川村シンリツ・エオリパック・アイヌ会長の言葉だ。アイヌ民族出身の日本兵や沖縄住民を追悼する慰霊祭を糸満市で続けていた

▼沖縄戦の犠牲者数は、沖縄以外の都道府県では北海道が1万人以上と突出する。川村さんは北と南で連帯し、戦争や差別に反対することが国策の犠牲となった人々の願いだと訴えた。2月、川村さんは69歳で亡くなった
▼読谷村のチビチリガマで極限状態の住民が次々と死に追いやられた日から76年。2年前の慰霊祭には肉親らに毒薬を注射した看護師のめいが参列した
▼女性は遺族らに何度も頭を下げた。戦時中の「米軍に捕まったら惨殺される」という誤った情報や教育により、注射器を握らざるを得なかった伯母の無念を訴えた
▼沖縄戦で日本軍は多くの住民を戦闘に巻き込んだ。膨大な数の戦没者を出したことは政府が数十年間、推し進めた沖縄への同化政策と皇民化教育の結果でもある
▼文科省が発表した検定結果で高校の歴史教科書に「一中健児之塔」を「顕彰碑」とする記述があった。戦争体験者がさらに減少する中、記録や教育による継承は重要性を増す。過ちを繰り返さないため、沖縄戦を正しく伝える責任が全国の全ての世代にある。

                ★

私たちは言葉と文化を奪い取られ、琉球の人と同じ扱いを受けた。これからも慰霊を続けたい」。旭川アイヌ協議会(北海道)の川村シンリツ・エオリパック・アイヌ会長の言葉だ。アイヌ民族出身の日本兵や沖縄住民を追悼する慰霊祭を糸満市で続けていた

毎年定期的に行われたアイヌと沖縄共同の慰霊祭が、いつの間にか行わなくなった。

新聞報道の嘘がバレたからだろう。

 

説明文からアイヌ人の文字が削除された「南北の塔」の碑文

              ★

アイヌに乗っ取られた慰霊の塔⑯

2010-06-16 23:55:14 | 未分類

 

沖縄戦に関連する記事で、沖縄紙が明らかなウソを流し続ける例を、過去記事に加筆して紹介する。

「ウソも繰り返せば真実になる」とはよく言われることだが、本来そのウソを正すべき立場の新聞が、実はそのウソの発信源であるという例は枚挙に暇がない。

周知の通り、集団自決に絡む沖縄の新聞報道でも、自分のイデオロギーを押し通す為に確信犯的に誤報を流し続けた例は数多い。

沖縄紙が「平和」、「連帯」、「差別」といった枕詞の付く運動に敏感に反応し、検証もなく誤報を垂れ流すことはよく知られたこと。

糸満市の真栄平地区の住民が建立した「南北の塔」が、左翼集団と連帯したアイヌの団体によって、あたかもアイヌによって建立された「アイヌ人の戦士」を祭る塔であるかのようなウソの報道が一人歩きを始めている。

沖縄にある慰霊塔は南部に集中しているが糸満市真栄平にある「南北の塔」について、そのいわれを知るものは県民はおろか糸満市民でさえ少ないといわれる。(筆者自身も最近まで知らなかった)

「南北の塔」の建立者である真栄平地区の関係者に取材することもなく、確信犯的に「アイヌの塔」の印象操作をする琉球新報、沖縄タイムスの恥知らずな記事がこれ。

平和へアイヌの祈り 南北の塔、戦争犠牲者弔う 糸満市  琉球新報2006年5月18日 

沖縄戦で犠牲になった人々を供養する参列者=糸満市真栄平の南北の

 【糸満】アイヌ民族の先祖供養祭「イチャルパ」が14日、糸満市真栄平の南北の塔で行われ、アイヌ民族を含む沖縄戦で犠牲になった人々を弔った。川村アイヌ民族記念館長の川村シンリツ・エオリパック・アイヌさんが主宰。アイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや共同代表)のメンバー、真栄平区民ら約70人が参列して祈りをささげた。
 アイヌの衣装を着た川村さんらが火を取り囲み、酒をささげた。続いて参列者らは果物などを供え、同じように酒をささげ儀式を行った。
 儀式を終えた川村さんは「沖縄戦で亡くなった北海道の人の名簿を見たが、名字だけでアイヌと分かる人はたくさんいて、もっとしっかり調べなければならない。平和を願うこの儀式をこれからも続けていきたい」と話した。
 南北の塔は1966年、真栄平区民とアイヌ民族の再会の中で建立され、南北の戦争犠牲者を追悼するという意味から「南北の塔」と名付けられた。

                   
 アイヌ儀式で供養/糸満・南北の塔 戦死者に哀悼(沖縄タイムス)

 
2008年5月18日(日) 朝刊 22面
アイヌ儀式で供養/糸満・南北の塔 戦死者に哀悼
 【糸満】沖縄戦に動員され戦死したアイヌ民族の日本兵らを追悼するアイヌの儀式「イチャルパ」が十七日、糸満市真栄平の南北の塔前の広場で行われた。北海道旭川市から参加した川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん(川村アイヌ民族記念館長)ら県内外の五十人が、火の神に酒をささげ、アイヌの言葉でみ霊を慰めた。
 
供養祭はアイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや代表)が主催。毎年、5・15平和活動の一環として行っており、今年で九回目。

 まよなかさんは「日本の先住民族であるアイヌと琉球民族が一緒になって、日本に住むすべての人々の権利が保障される社会をつくっていこう」と呼び掛けていた。

 川村さんは「アイヌの戦没者を沖縄の方々が祭っていただき大変ありがたい。これからも毎年、続けていきたい」と話していた。

 南北の塔は一九六六年、真栄平区とアイヌの元兵士らによって建立された。沖縄戦で亡くなった、北海道から沖縄までのすべての人々を祭っている。

                    ◇
アイヌ人と沖縄人は毛深いとか、顔の造作が濃いとかで共通点があり、そして独特の文化を持っているということで連帯したイベントが、沖縄でも行われていることは筆者も承知していた。
 
だが、それが左翼勢力に結びついてウソを垂れ流しているとは知らなかった。
 
アイヌ人と沖縄人が人類学的にどのような関係にあるのかは、本稿の主旨ではないのでここでは触れないが、違う民族との「連帯」が左翼勢力と結びつくと、結局「反日」運動に繋がるのは「恨之塔」建立の場合と同じである。
 
人類学的(遺伝学的)興味のある方は⇒http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071105/acd0711050810001-n1.htm
【試行私考 日本人解剖】
 
次の引用文は左翼社会科教師の集団である「北海道歴史教育者協議会」の教師の文である。
 
書き換えられた碑文に思う~沖縄 南北の塔 ~ 沖縄 南北の塔

                札幌市立石山中学校     平井 敦子
☆南北の塔
 
沖縄県南部戦跡。有名な摩文仁の丘から、少し離れたところに真栄平という集落がある。180戸900人の住民が、沖縄戦でわずか349人になってしまったという激戦の地だ。バス停を降り、緩い傾斜地の畑の間を登り気味に5分ほど歩くと雑木林の中に「南北の塔」はある。官立ではなく、住民ら有志によって建てられた慰霊碑だ。戦後、地域に散乱していた遺骨を集めて納めた大きな納骨堂。そのうえに小さめの墓のような形の碑石がのせられ、「南北の塔」と刻まれている。ふと碑の右側面をみると「キムンウタリ」と朱文字が彫り込まれている。
 キムン、アイヌ語で「山」。ウタリ、「仲間」という意味だ。「山部隊」と称される日本軍の部隊にアイヌ出身兵が含まれていた。この部隊の兵士たちも、真栄平の住民とともに多く犠牲になっている。
 戦時中住民と交流のあったアイヌ兵のひとり、弟子さんがこの住民有志による慰霊碑建立の話を聞き、アイヌの仲間たちに募金を訴え、碑石の費用の一部として寄付したという経緯がある。この「南北の塔」にまつわる話は、草の根出版会「母と子でみる 沖縄戦とアイヌ兵士」(橋本進編)に詳しい。
 
☆南北の塔再訪
 2001年の夏、私は13年ぶりに「南北の塔」を訪れた。友人にぜひ見せたくて案内をしたのだ。久しぶりに訪れたその場所は、碑の周囲が整備され、壕のあたりの戦争の残存物も目立たなくなっていた。
「あれ、おかしいな。無い…。」
 私の記憶に鮮明に残っている碑の解説板が見あたらない。友人に碑の由来を話しながら、少し焦り気味に私はその解説板をさがした。「たしかにあったんだよ、そこにアイヌのことも書いてあるんだ…」と言いながら。しかし思いこみとは怖いもので、“木製”と思っているからみつけられなかったのだ。
「あった!そっか新しくしたんだ。」
 そう、粗末な木製解説板は、それは見事な石碑文になって、しっかりあった。安堵して私たちは碑文を読み始めた。ところが、最後まで読み通しても“アイヌ”という文字がどこにも無いのである。私の記憶違いか?前回の解説文にはあったはずなんだ。そうじゃなければ、「南北の塔」という名の由来も、そこに刻まれている「キムンウタリ」の意味も来訪者には何がなんだかわからないじゃないか。焦る私に友人が言う。「書き換えられたんじゃない?」
 疑問を残したまま、私たちは真栄平をあとにした。札幌に戻ってからさっそく私は前回訪れた時のアルバムをめくってみた。
「間違いない」
 写真には、くっきりと“アイヌ”の文字が見える。新しく石碑に作り替えるときに意図的に消された、そうとしか思えない。でもなぜ?
 今でも、南北の塔にはウタリ協会からアイヌの人々が訪れイチャルパ(供養祭)が開かれている。その主催団体、アイヌ民族と連帯する沖縄の会の人に電話で聞いてみた。碑文が変わったことは知らなかったという。ただ、数年前、イチャルパをしているところに数人の住民がチラシをまきにきて「歴史をねじまげるな」「アイヌの墓ではない」というような批判めいた内容だったという。確かに、この碑はあの沖縄戦で散乱した地域住民の納骨場であって、アイヌ民族のための墓などではない。しかし、この地で南北の民族が共に戦争の犠牲となったという思いが響きあってこの碑があることには違いない。
 少なくとも、碑を訪れた人の拠りどころは碑文と塔の文字しかないのだ。このままでは「キムンウタリ」の意味はなぞのまま埋もれてしまう。


*木製板は昭和62年6月、石碑は平成元年3月。私が見た木製板はわずか1年7ヶ月の仮設板だったらしい。あくまでも「仮」であればなおさら、そこにあったアイヌの文字を正式には消したことの意味を考えたい、と思う。(北海道歴史教育者協議会)
                   ◇

筆者の平井敦子先生?は「南北の塔」建立の経緯はある程度知っているようだが、以前に来たときにあったアイヌの文字が消えているのをみて北海道民として不快感を味わったのではないかと推察される。

碑文を書き直した理由は、戦後真栄平地区の住民が建立した「南北の塔」が、改築の際寄付をした一人のアイヌ人弟子(てし)さんの話だけがクローズアップされ、これに左翼集団が飛びついて毎年塔の前でアイヌ民族衣装を着たアイヌ人たちと連帯し「平和活動」を展開し、これを地元新聞が大々的に報じるので、県民でさえ「南北の塔はアイヌ人によって建立されたアイヌ人の慰霊塔」であるといった誤解が一人歩きをはじめ糸満市議会でも問題になったからだという。

⇒糸満市議会喜納 正治  議員

では、糸満市が言う「南北の塔建立の」の実相はどうなっているのか。糸満市が発行した「糸満市における沖縄戦の体験記録」(平成8年3月23日発行)によるとこうなっている。

≪『南北の塔』は泣いている

ー戦争の落とし子である私はいったいだれなのかー

糸満市真栄平南北の塔を考える会

塔は真栄平区民の意思で建立

先月、ある用件で糸満市役所に行った時、「この前北海道の塔でアイヌの祭りがありましたね。」 Aさんの挨拶である。 やっぱりそうだったのか。 糸満市職員でも南北の塔はアイヌの塔になっているのだ。 テレビ、ラジオ、新聞等のマスコミや図書の威力を改めてみせつけられた思いである。 

南北の塔が真栄平区民の意思によって建立された塔であると知っているのは真栄平区民だけになった

昭和21年、収容所から帰ってきて最初にやった仕事は遺骨収拾であった。それから毎年のように遺骨集めをして、これまで塔も何回か改築し、場所も二転三転したと思う。

昭和41年の改築には県との協力で、立派に作ることになり、区民常会を何回も開いて計画的にすすめた。さらに他県の遺族の方々からのご奉仕(ご寄付)もあった。 その中の一人が北海道出身の元アイヌ兵士T氏である。≫

では、「南北の塔」は一般的にどのように紹介されているのか。

≪南北の塔は、糸満市舞栄平(まえひら)部落の裏側に建立された納骨堂である。戦後、元アイヌ兵の弟子豊治氏らが住民と協力してこの一帯から四五〇〇体を収骨して納めた。≫

≪「南北の塔」建立(昭和41年 1966年)
かつて沖縄戦を戦った兵士であった、アイヌ民芸使節団の弟子豊治が沖縄に訪問。弟子豊治の戦った場所であった真栄平の地域住民と共に、アイヌの兵士、沖縄の人々など、あの戦いで亡くなった全ての人々を祭る慰霊碑を建立。北から南まで、多くの人々がここに眠ることから「南北の塔」と名付けた。碑の側面には「キムンウタリ」の銘も刻まれている。蘇るアイヌとしての自覚(戦後から現在まで)

                     ◇

「南北の塔」建立の実相を知るものは今では、糸満市民はおろか糸満市職員でもいない。 勿論北海道のアイヌ側も関わったとされるTが亡くなってしまって事実を知るものはいない。彼らは「真栄平地区の住民たちがアイヌの塔を善意で管理している」と本気で信じているようだ。

アイヌ人と沖縄人が共に慰霊の塔の前で慰霊行事を行うことに異論を唱えるものはいないだろう。

だが、マスコミによって事実が歪められ、左翼運動に利用されるとなると真栄平区民でなくとも異論を唱えたくもなる。

沖縄の新聞は、真実を明らかにすべきだと思うのだが、それをすると、例年「アイヌの塔」の前で行われる「反戦平和イベント」に水をさすことになるので、あえてそんなことはしないだろう

 

続・アイヌに乗っ取られた南北の塔⑰

2010-06-17 12:05:57 | 未分類

 

私事で恐縮ですが、本日(17日)より25日までの9日間、関西から東京と旅行をしてきます。

関西では奈良、唐招提寺などを訪ね、東京では大学時代の友人に逢ったり、池波正太郎の本で無性に食べたくなった念願のドジョウ鍋などトライしてみるつもりです。

ネットはいばらく遠ざかる予定ですが、更新は予約で継続します。

その間も勝手ですが、変らぬご支援のクリックなどをお願いいたします。

今日のエントリーも沖縄紙のウソ報道関連の過去記事に手を入れたものです。

「プロ沖縄人」「プロアイヌ人」の連帯による反日活動、そしてそれを支援する沖縄紙のウソ報道に騙されてはなりません。

続・アイヌに乗っ取られた南北の塔

人間には悲しい習性があるもので、自分の生まれ育った地域では当然と思っていた習慣と違うものに接すると奇異の眼で見る傾向がある。

若かりし頃初めて上京したとき、居酒屋に入り「さけ茶漬け」のメニューを見て

「ヤマトンチュは酒で茶漬けをするのか」と恐れ入った友人の話には笑った。⇒沖縄の食文化雑感

習慣の違いは、特に食べ物に関して著しい。

が、それが一歩誤ると差別に向かうので要注意である。

沖縄の方言で「イチャリバチョーデー」という言葉がある。

直訳すれば「行き会えば兄弟」、何かの縁で知り合ったものは兄弟みたいなものだという意。

「袖触れ合うも他生の縁」に近い意味を持つ。

アイヌ人が毎年糸満市の真栄平地区にある「南東の塔」の前で行う先祖供養祭「イチャルパ」を行うという。

何かの縁でアイヌ人も塔建立に関わったたわけだから、地元の人がこれを排除する理由は無い。

それこそアイヌ人でも皆「イチャリバチョーデー」である。

ただ、アイヌの供養祭「イチャルパ」は発音が似てはいるが、沖縄方言「イチャリバチョーデー」とは言語的には何の関係もないし、

地元住民は、マスコミの歪曲報道により、真栄平区民が建立した「南北の塔」が、あたかも「アイヌ人が造ったアイヌ兵士の遺骨を祭る」と喧伝されているのに困惑している。 つまり軒を貸して母屋を取られることを危惧しているのである。 

沖縄南部の戦跡巡りをした人なら気が付くことだが、沖縄には全国46都道府県の碑はあるが、「沖縄県の碑」だけはない。

筆者が小学校時代、遠足といえば決まって「南部戦跡巡り」と「中城(なかぐすく)公園」だった。 

南部戦跡といっても現在のように碑の乱立はなかったので、行く場所は「ひめゆりの塔」、「健児の塔」そして「 魂魄の塔」の三つの塔と相場は決まっていた。

各県の塔が乱立する中、あえて「沖縄の塔」を挙げるとすれば、この「魂魄の塔」がそれに相当するだろう。

肉親の遺骨を確認できなかった多くの遺族にとっては、「魂魄の塔」がその遺骨を納めた場所となっているからだ。

真栄平区民が建立した「南北の塔」は真栄平地域界隈で亡くなった身元不明の遺骨を納めた碑であるから、そこにアイヌ兵士の遺骨が収納されている確証はない。

マスコミが流布させた「アイヌの塔」の神話は一人歩きを始めて、止まることを知らない。

 

苦難の歴史や芸能紹介 アイヌ民族と交流の夕べ カメラ 2006年5月17日

バッタの飛ぶ様子を表したアイヌ民族舞踊を披露する川村さん(手前)=名護市幸喜区公民館

 【名護】「第2回アイヌ民族と交流の夕べ」(協賛・アイヌ民族と連帯する沖縄の会、ティダの会)が12日、名護市の幸喜区公民館で開かれ、アイヌ民族でアイヌ文化資料保存館の川村シンリツ・エオリパック・アイヌ館長が、住民ら約50人と交流した。
 
川村さんは糸満市真栄平の「南北の塔」で、沖縄戦で亡くなったアイヌ出身兵を供養するために来県。交流会は、伝統芸能を紹介することでアイヌと沖縄の交流を図ろうと、昨年から行われている。
 交流会では琉球民謡ショー、まよなかしんやさんによるライブも行われた。川村さんは、アイヌの苦難の歴史などを紹介し、アイヌの民族衣装を身にまとって弓矢を使った踊りやバッタの飛ぶ様子を表現した踊りなど、アイヌの民族芸能を披露した。

                 ◇

何事も左翼活動家が絡んでくると話が妙な方向に歪められてくる。

まよなかしんや↓
http://naha.cool.ne.jp/mayonakashinya/020310.html

[AML 69 94] 5月沖縄行動のご案内  

左翼団体にはこのように蝿がたかってくる。

月間「部落解放」⇒アイヌ文化振興法10年

左翼団体が「南北の塔」を扱うとこうなる。

http://blogs.yahoo.co.jp/tatakau_yunion_okinawa/
20818212.html
  たたかうユニオンへ! ↓

アイヌ儀式で供養、沖縄-アイヌ連帯

 

糸満・南北の塔でアイヌ儀式でアイヌ戦死者哀悼・供養

 沖縄戦に動員され戦死したアイヌ民族の日本兵らを追悼するアイヌの儀式「イチャルパ」が十七日、糸満市真栄平の南北の塔前の広場で行われた。北海道旭川市から参加した川村シンリツ・エオリパック・アイヌさん(川村アイヌ民族記念館長)ら県内外の五十人が、火の神に酒をささげ、アイヌの言葉でみ霊を慰めた。
 供養祭はアイヌ民族と連帯する沖縄の会(まよなかしんや代表)が主催。毎年、5・15平和活動の一環として行っており、今年で九回目。
 まよなかさんは「日本の先住民族であるアイヌと琉球民族が一緒になって、日本に住むすべての人々の権利が保障される社会をつくっていこう」と呼び掛けていた。
 川村さんは「アイヌの戦没者を沖縄の方々が祭っていただき大変ありがたい。これからも毎年、続けていきたい」と話していた。
南北の塔は一九六六年、真栄平区とアイヌの元兵士らによって建立された。沖縄戦で亡くなった、北海道から沖縄までのすべての人々を祭っている

                     ◇

昨日のエントリーの「南北の塔を考える会」の手記の続きを引用する。

間違った記述の本が多い

昭和56年に『南北の塔』という本が出版されている。 この本は、元アイヌ兵士からの聞き取りで書かれたというが、その中に地元を無視したような書きぶりがある。 元アイヌ兵士の行動を称えることと、アイヌ兵士が真栄平の人々に呼びかけて南北の塔を建てたようなことが書かれている。 寄付をしたことが美談になることはよいが、誇張しすぎている。 その後、この本を参考にして書かれた本が沖縄でも出版されているが、間違った記述が多い。 沖縄タイムスの『大百科事典』(『沖縄大百科事典』-引用者注)、太田昌秀著の『慰霊の塔』、高教組南部支部の『歩く、見る、考える沖縄』、沖教組島尻支部の『南部戦跡巡り』、本土でも『沖縄戦でたたかった兵士』等まだまだあるが、これらの出版物にはこれらの出版物には南北の塔は全てアイヌとの関係で書かれている(ただ一冊、沖縄県から出された『沖縄の聖域』だけは正しい)。≫

ウソの情報を撒き散らしている新聞社、発刊者を拾ってみると、

沖縄タイムス⇒『沖縄大百科事典』

太田昌秀⇒『慰霊の塔』

高教組南部支部⇒『歩く、見る、考える沖縄』、

沖教組島尻支部⇒『南部戦跡巡り』

なるほど左翼団体がドキュメンタリーを著すると「反戦平和」に捉われて事実を歪曲することは『鉄の暴風』の場合と同じだ。

赤い脳ミソの著者が発刊すると、事実が歪曲されるということを見事に証明するリストだ。

沖縄タイムスは、取材相手が沖縄にいるにも関わらず、取材もせずにデタラメを書き散らした。

この点でも『大沖縄辞典』は『鉄の暴風』と軌を一つにしている。

 

さて、糸満市真栄平の「南北の塔を考える会」の手記引用を続けよう。

・・・ラジオ、テレビは墓参団が来沖するたびに、アイヌのことを中心に報道するので、ウソも百回いえば本物になるとかで、私達がいくら努力しても訂正されそうもない。 不可解なことだが、北海道のある町から、真栄平の区長や役員等に感謝状と記念品が贈られている。 南北の塔の維持管理に感謝するとのことらしい。 又、地元の知らない中に、アイヌ兵士が30余柱合祀したなどのマスコミ報道もある。 ところが、南北の塔にアイヌ出身者の遺骨があるという確証はないとおもう。 なぜならば、他県人からすれば無名戦士の墓であり、魂魄の塔と同じだからである。≫(続く)

 

完結編!アイヌに乗っ取られた慰霊塔 イヨマンテの夜と魔女の洞窟

2010-06-18 07:07:07 | 未分類

 

 

完結編!アイヌに乗っ取られた慰霊塔 イヨマンテの夜と魔女の洞窟

南の島にある小さな戦没者慰霊の塔を巡る北と南の本家争い・・・関係ない読者にとっては興味のもてないと思われる話題を二日に渡ってエントリーした。

昨日の続編で終わりにしようと思ったのだが、予測に反してアクセスが多くコメントも頂いたので、しつこく本日も「南北の塔」についてのエントリーです。

 

この話題を書くにあたり、「南北の塔」に関わった北海道の方々を「アイヌ人」と一くくりで書くことに抵抗は感じた。

だが、「沖縄で反戦平和」を叫ぶ人々のことをマスコミは一くくりで「沖縄人」と書いている。 一くくりにされても困る沖縄人が多数いても、マスコミは馬耳東風である。

「南北の塔」の北海道の関係者もそれに対応して敢えて「アイヌ人」と書かしてもらった。

因みに知人の沖縄在住20年の元北海道民に「南北の塔」について聞いてみたら、「南北の塔」はおろか、アイヌ人との逸話も聞いたことがないという。

「真栄平区民が建立した慰霊塔にアイヌ人が寄付をして、それが縁で毎年アイヌの慰霊祭が行われる」

これだけの話だったら、「イチャリバ(行き会えば)チョーデー(兄弟)」で、

北と南の心温まる交流の話題でこれに異論を挟むものはいなかったはずだ。

ところがこの話に「左翼」という接着剤が関わってくると「在日」や「同和」といった団体が金魚の糞のようにくっついてくる。

当然のように沖縄マスコミが針小棒大に騒ぎ立てるといういつものパターンである。

 

このように「南北の塔」の建立者である真栄区民にとって迷惑なことがまかり通っている原因は、間違いだらけの出版物やマスコミの一方的な報道にある。

糸満市が発行した「糸満市における沖縄戦の体験記集」(平成8年発行)に記載の「南北の塔を考える会」の手記を続けて引用しよう。

手記ではデタラメな記述の本やマスコミ報道の例を次のように列記している。

・真栄平に「わしは南北の塔をたてました。」

・これは、まぎれもなく、アイヌの建てた塔です。

・アイヌの人が建てた塔がある。

・南北の塔を建てたのは、アイヌの下級兵士と住民です。

・住民と相談して慰霊の塔をつくることにした。

・アイヌの墓がある。

・アイヌ兵士39柱を合祀した。

・塔名も、ごく自然に南北の塔にしたのです。

このような表現が、国民や県民、市民の誤解をまねいている。しかし、事実は、塔の建築中に、T氏(アイヌ人)が世話になった真栄平出身のK氏を通じて寄付の申し込みがあった。そこで塔碑をつくることになり、役員会で塔名を決定し、K氏の紹介である石材店に発注することになった。 そこで石材店に寄付申込者のK氏を呼んで「費用の件で200ドル以上かかるがよいか」と再確認して了解を得た。 その場でT氏から「私のきぼうだが、キムンウタリと関係者の氏名を刻んでくれないか」との要望があり刻名することに決定した。 これが真実である。

したがって、本にあるようなことは、誰かが作り出したものである。 寄付を受けるまでは役員の誰一人としてT氏を知らなかったし、会ったこともない。 

従って、「すすめて建てさせた」、「名前も自然にきまった」などありえない話である。 南北の塔はマスコミや関係図書の中ではアイヌ中心に書かれたり、報道されたりするので、市民権はアイヌにあるように思われている。 このままでは、戦争体験者が語れなくなる頃には、籍はアイヌに移ってしまうおそれがあり、今、区民がその解決に向けて立ち上がっている。≫

                      ◇

南北の塔の所有・管理について真栄平区民がこだわるのには訳がある。

沖縄戦で多くの身元不明の遺骨が魂魄の塔に葬られたが、真栄平区民にも多くの身元の確認できない戦没者がでた。

自分の墓に埋葬することの出来ない身元不明の区民の遺骨が南北の塔に祀られている。 真栄平区民は墓参のとき「南北の塔」に向かってウタンカー(遥拝)をして身近な人は線香をあげて供養をしている。 自分の先祖の遺骨を祀る南北の塔を他人に任すことは出来ないという心情が、真栄平区民が南北の塔にこだわる理由である。

マスコミの歪曲報道により、南北の塔が「アイヌ化」されていくのを憂い、「南北の塔を考える会」の手記は次のように結んでいる。

これを解決するには、公の記録として残し、民間資料にあるアイヌ中心の記事を訂正することである。 子々孫々に、南北の塔はまぎれもなく真栄平の塔であると語りつぐために筆を取りました。 市民の、ご理解、ご協力をお願いします。≫

                   ◇

 

【おまけ】

「まよなかしんや」といい「喜屋武マリー 」といい、売れなくなった沖縄歌手は左翼の支援でなんとか生き延びようとする。

今回の沖縄行では、恨之碑沖縄建立、南北の塔(イチャルパ)、アイヌ・沖縄・コリア
在日コリアなど、有意義な交流ができました。

関係者のみなさま、ありがとうございました
。≫(談話室(BBS)

「恨之碑」や「慰安婦の碑」と同じように「南北の碑」も沖縄左翼のシンボルとなりつつある。

「慰安婦の碑」建立へ 宮古島を反日の島へ!

朝鮮軍夫  「恨之碑」

 

【おまけ】2

左翼が接着剤になると、沖縄とアイヌに、ヒロシマ.がくっ付いてしまう⇒北と南で連携の波動/52年目の出発(7月17日)

 

【おまけ】3

筆者が初めてアイヌ人を意識したのは小学四年ごろ少年雑誌・少年クラブに連載されていた北海道を舞台にした冒険小説「魔女の洞窟」(久米元一)によってである。 勿論筋書きは覚えていないが登場人物にアイヌ人が登場し、ピリカメノコやコタン、イヨマンテといったアイヌの単語を知り、マリモや雄阿寒、雌阿寒といった地名も知りほのかに北海道の大地に憧れを持った。

それから7年か8年後の大学の2年の頃、北海道旅行への憧れは、函館出身の友人とリュックを背負って北海道の無宿旅行により実現した。

無宿旅行というのは、テント、食料持参で旅館、ホテルには泊まらず野宿をするという意味。 洞爺湖湖畔にテントを張ったり、十勝岳頂上でテント泊したことも懐かしい想い出。

 

伊藤久男が歌うイヨマンテの夜 は好きな歌の一つだが、南北の塔の前でこれを歌われたら、静かに先祖を供養したい真栄平区民にとって迷惑な話かも知れない。

 伊藤久男の朗々とした声が聞けます⇒イヨマンテの夜

イヨマンテの夜
 
 
【おまけ】4
「魔女の洞窟」について書いているブログを見つけた!http://hennahon.at.webry.info/200612/article_29.html
 
≪では北海道が舞台の本を。

「魔女の洞窟」 久米元一 昭和28年 ポプラ社

画像


「湯島博士の娘あや子の首にかけた
 アイヌ人形の秘密をめぐり、
 恐るべき北斗星団の一味の暗躍!
 莫大な洞窟の砂金をめぐる
 息づまる大冒険!」

……と、あらすじにはあるが、
またしても内容が思い出せない。

大学の図書館で「日本の作家一覧」とかいう
本を読んでいたら、ちゃんとこの
久米元一先生の欄もあって、

「『魔女の洞窟』が内容、構成共に優れている」
と書いてあった。

とにかく、本書は砂金をめぐる話らしい。

私もウソタン川で砂金を採ったことがある。
半日かかって、耳掻き一杯分ほどしか採れなかった≫
コメント (4)