狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

新版・沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける徳嵩力氏

2020-05-22 11:28:06 | ★改定版集団自決
 
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【沖縄の声】石垣市議会が中国船追尾に抗議/誤解だら毛の検察法改正

過去記事に多くのアクセスがある場合、最近の読者のため当該記事を紹介している。

以下も過去記事沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける2012-05-12

からの一部引用である。

■沖縄タイムス 1983年6月8日

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である。

             ☆

 

当日記を古くから読まれている方は上記引用の記事を読んで、アウトラインは理解できるでしょうが、複雑に絡み合った集団自決の整理のため、記事に書かれている事実の説明から始める。

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究から発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。(文末に掲載)

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。

が、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのを歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だったという。

このような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていたが、翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

元赤松隊の一行

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

 

 

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続々・誤字・誤読事件、大江健三郎の「屁理屈ジャンケン」

2020-05-06 17:31:00 | ★改定版集団自決
 
狼魔人日記

 

我那覇真子氏・依田啓示氏の討論の経緯について 我那覇真子氏とFM21(ラジオ局)との間で行われている裁判について、依田啓示氏がご自身のYouTubeチャンネルで言及したことを受け、我那覇真子氏から依田啓示氏に内容証明書で討論の提案がありました チャンネル桜代表、水島総氏の立会いのもと、2020年2月24日に討論が行われましたのでその模様をお届けします。

出演:  水島 総(チャンネル桜代表)

討論者: 我那覇 真子(琉球新報・沖縄タイムスを正す県民・国民の会 代表)      依田 啓示(カナンファーム代表)

 

我那覇真子氏と依田啓示氏の公開討論その2

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 本記事も前の記事と同じく、十数年前の記事に多くの読者がアクセスしていただいた例です。

以下は、最近の読者に紹介するため一部編集した再掲です。

屁理屈ジャンケン」

2008-03-13

 

後だしジャンケン■

後だしジャンケンとは、相手が出したタイミングに一瞬のタイムラグを設けて、相手の手を読みそれに勝つ卑劣な手段のことをいう。

『母の遺したもの』の著者宮城晴美氏は、自著が「集団自決裁判」の原告側の証拠として提出され、「梅沢隊長が軍命を出した」という被告側の主張が否定されると、「一ヶ月前に立場を変えた」として自著を改定し『新版 母の遺したもの』を出版した。

筆者はこれを後出しジャンケンだと批判した。

「集団自決」 宮城晴美氏が新版で「後出しジャンケン」

宮城晴美氏らが弁護しようとする大江健三郎氏は法廷の証言台で自著『沖縄ノート』をテキストに、後出しジャンケンどころかとんでもない「屁理屈」を披露して世間を驚かした。

■屁理屈ジャンケン■

大江健三郎氏は、宮城晴美氏が批判に動揺して後だしジャンケンを出したような分かり易いような手法は取らなかった。

一旦出した自分の手はそのままにして、それを屁理屈で煙に巻いて勝を主張するというから、さすがはノーベル賞作家。

「屁理屈ジャンケン」とは、負けた場合でも、負けを認めず屁理屈で何とか勝とうという破廉恥な手段のこと。

例を挙げよう

チョキをだしたのに相手がグーなら普通は負けを認める。

だが、「屁理屈ジャンケン」はこれからが勝負。

「私はパーを出したつもりだ。 この指をチョキと見るのは君の誤読、いや、誤視だ」

「指は5本伸ばしたつもりだ」

「私の手の指は子どもの頃から曲がり気味なので、パーでもこうしか出せない」

大江健三郎氏は証言台でcorpus delictiなる一般読者には聞きなれない言葉まで引っ張り出して、

「罪の巨塊とは死体である」と、まともな人間なら赤面するような屁理屈を披露した。

法廷で証言台に立った後の11月20日の朝日新聞朝刊で、大江氏は「『罪の巨塊』に込めた思い」と題する更なる「屁理屈」をこねた。

 ≪私は渡嘉敷島の山中に転がった三百二十九の死体、とは書きたくありませんでした。受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指すcorpus delictiという単語を覚えました。もとのラテン語では、corpusが身体、有形物、delictiが罪の、です。私は、そのまま罪の塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。≫

一般の読者は著者自らの解説を聞く幸運には遭遇しないし、例え解説を聞いても理解できる人は少ない。

ならばと今度は朝日新聞の紙面でその「屁理屈」に上塗りの解説という念の入れようだ。

問題の箇所を『沖縄ノート』より抜粋するとこうなる。

《慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、ゆがめられる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。》(210ページ)

一般の読者に上記文で国語の問題を出したら、「罪の巨塊」が「死体」のことだ理解できる人が果たして何人いるか。

ちなみに辞書を引くとcorpus de・lic・ti は次のような二つの意味がある。

 [<L.] 犯罪の事実[主体];

(他殺)死体.⇒corpus  [さらに]

大江氏は敢て二番目の意味の死体(他殺体)は訳語に当てたという。

『沖縄ノート』が出版されてから30年以上経って初めて、こういう「新解釈」が出てくる・・・

これを称して「屁理屈ジャンケン」という。

■「逆ヘリクツ・・」?■

追いつめられるといろんな人が出てくるもの。

物故した方の書いた文、しかも「相手方」の勝を証明する文をひねくり回してトンデモ解釈する人物がいるが、

これは相手が出したチョキをパーに見えると屁理屈をこねる「屁理屈ジャンケン」の逆バージョンで「逆へリクツ」・・・うーん、疲れるわ。

いろんなブログが大江氏の屁理屈を「詭弁」、或いは「変な説明」として批判しているが日々是好日さんが「大江氏による「罪の巨塊」の変な説明 」で詳細に検証しているのでご覧下さい。 ノーベル賞作家も形無しです。

他にも大江氏の「屁理屈ジャンケン」を批判するブログの紹介。

大江健三郎という「嘘の巨塊」

 
コメント

続・幻の誤字・誤読事件、琉球新報の大失態!幻の「曽野綾子誤字・誤読事件

2020-05-06 14:07:13 | ★改定版集団自決
 
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我那覇真子氏・依田啓示氏の討論の経緯について 我那覇真子氏とFM21(ラジオ局)との間で行われている裁判について、依田啓示氏がご自身のYouTubeチャンネルで言及したことを受け、我那覇真子氏から依田啓示氏に内容証明書で討論の提案がありました チャンネル桜代表、水島総氏の立会いのもと、2020年2月24日に討論が行われましたのでその模様をお届けします。

出演:    水島 総(チャンネル桜代表)

討論者: 我那覇 真子(琉球新報・沖縄タイムスを正す県民・国民の会 代表)     依田 啓示(カナンファーム代表)

 

我那覇真子氏と依田啓示氏の公開討論その2

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 本記事も前記事と同じく、十数年前の記事に多くの読者がアクセスしていただいた例です。

以下は、最近の読者に紹介するため一部編集した再掲です。

琉球新報の大失態!幻の「曽野綾子誤字・誤読事件」

2008-04-02

3月30日の琉球新報オピニオン面「論壇」を見て驚いた。

ネット上では「幻の誤字・誤読事件」として誰にも相手にされない「事件」がまことしやかな大見出しで新聞紙面を飾っているではないか。

思わずエイプリルフールには未だ二日早いのに、と思ったくらいだ。

この「事件」は過去に2チャンネルで「某評論家」を中心にスレッドが立ち、散々論破、揶揄され幻の事件として決着が付いていたはずだ。

それが今頃琉球新報の「論壇」に亡霊のように掲載されるとは・・・。

<保守派・反左翼派の山崎氏に紙面を提供した本紙(新報)の良識に感謝する・・・>(同紙(琉球新報)「論壇」より)

おやおや、新報は紙面を某評論家に提供したことを今頃後悔していると思うがね。

 

琉球新報の記者は図書館にでも行って自分の目で検証する手間を惜しんだ。

そして琉球新報は、自社の記事を読んでこんな誤解をした読者HY氏(66歳)の意見を恥知らずにも掲載した。

「論壇」の見出しいわく、

<岩波訴訟、山崎論文の検証>

不可解な「巨魂」 「巨魁」

宜野湾市にお住まいのHY氏は某評論家のトンデモ論文とこれを掲載した琉球新報を頭から信じ込んでしまったようだ。

「論壇」本文は某評論家の文を引用しているが、引用文自体が巧みに曽野氏が誤字・誤読があったように印象操作している。

更なる誤解を生むのでので敢て某評論家の文には触れない。

この手の論争は「誰がこういった」、「某評論家先生がこういった」という言葉を引用するより自分の目で(元本を)確かめるのが一番。

何よりも現物を自分の目で確かめて曽野氏の初版本には誤字も誤読も存在しないことを確かめるべきだろう。 少なくとも琉球新報の記者はこの労を怠るべきではない。

ちなみに筆者が2ヶ月前に確かめた浦添図書館に蔵書されている初版本(文芸春秋社)は、誤字・誤読はない。

この幻の「誤字誤読事件」は過去の「事件」として一度書いた記事をボツにしていたが、今頃この事件の片棒を担いだ琉球新報が読者の誤解をまねくような記事を掲載するのでは、ボツネタを拾い上げ改めて以下にエントリーせざるを得ない。

やれ、やれ難儀なことだ。

 

                      ◇

マッチポンプとは「マッチで火をつけておきながら、それをポンプで消す」というように、自分でわざわざ問題を作り出しておきながら、そ知らぬ顔で、自分がそれに対する解決で賞賛を得たり、利益を得たりするあくどい自作自演の手法をいう。
 
火をつけるどころか、手元が狂って自分に火をつけた男がいる。
 
これは自作自演の「誤字事件」で自分に火が付き、それをけすため次から次へと喜劇を演じた男の物語である。
 
■喜劇第一幕 「曽野綾子誤字・誤読事件」
 
「曽野綾子誤読・誤字事件」というものがネット上を彷徨い、それにつられた琉球新報がこれに近づき三回にわたる連載を掲載した。
 
ところがこの「誤字事件」は元々実態のないもので、マッチで火遊びをした本人に火がつくに留まらず、火遊びに付き合った新聞社にさえ飛び火しかねない有様。
 
新聞の「誤字追求」をテーマにしたはずの「ご高説」掲載文が、追求する相手曽野氏の名前を「曽根」と誤記する大笑いネタまで紙面に晒すドタバタ劇。  
 
しかもご丁寧に目立つ大見出しで「曽根氏」と来たから笑いで涙まで出た。
 
「事件」の発端はこうだ。
 
過去に人気のあった絶版本を新しい出版社が読者の要望で再版した。
 
新しい出版社(初版本とは別の出版社)が原本版になかった誤植をした。 これを見つけた「売れない評論家」が狂喜乱舞して「曽野綾子誤読・誤字追求」の狼煙を自分のブログでぶち上げた。
 
こんなネットの落書きのような話を曽野氏が見ているはずもなく、例え見たとしてもまともに答えるはずもない。
 
そもそも「事件」そのもの実体が存在しないのだ。
 
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の1人相撲。
 
いや、むしろ風車を怪物に見間違えて猪突猛進したドンキホーテに例えた方が的を射ているのかもしれない。
 
だが捨てる神あれば拾う神、いや、紙があった。
 
曽野綾子を宿敵とする琉球新報である。
 
 
琉球新報は曽野綾子氏を執拗に追求する某評論家の「誤字事件」に飛びついた。
 
何の検証もなく紙面に某評論家の連載記事を掲載した。
 
その2月25日から27日に渡る某評論家の三回連載の「ご高説」の内容には敢て触れない。
 
ありもしない「誤字・誤読」を大上段に振りかざして追求するご本人の文で、相手の名を間違える一例を挙げただけでもその論のデタラメさが自明だから。
 
興味と暇のある方は琉球新報をご覧頂くとして三回連続の「ご高説」の見出しだけも記しておこう。
 
琉球新報朝刊 
 
◆2月25日 文化面
 
<大江岩波訴訟>保守論壇を憂う 上
 
曽野綾子氏の「ある神話の風景
 
歴史記述は信用できず
 
 
◆2月26日
 
<大江岩波訴訟>保守論壇を憂う 中
 
曽根氏の「現地取材万能主義」
 
客観性無視し結論ありき
 
 
◆2月27日
 
<大江岩波訴訟>保守論壇を憂う 下
 

誤字・誤読を放
 
思想的劣化は明らか
 
 
いやはや、これに目を通した時思わずコーヒーを吹いて紙面を濡らしてしまった。
 
原稿ミスか編集者の誤植かは知るよしもないが、吉本喜劇も驚くばかりの良く出来たギャグである。
 
琉球新報もよっぽど追いつめられていたのか、とんだ喜劇の片棒を担がされてしまったようだ。

【追記】

友人から確かに面白い話だがコーヒーを吹いたというのはオーバーだろうとのコメントをもらった。

本文の中の誤字だったらまぁ許したとしても、大見出しでの誤植である。

「誤字事件」を追及する「評論」の大見出しが誤字で、おまけに「事件」そのものが幻だったとしたらコーヒーを吹いたといっても納得だろう。

縷々説明を聞いた友人、コーヒーは吹かずに笑いのあまり涎を垂れ流したと聞く(爆笑)。

【追記終了】
 
 
 
「幻の誤字・誤読事件」の実体を解明しておこう。
 
 
①昭和48年5月10日 「ある神話の背景」文芸春秋社刊(初版出版社)
 
「沖縄ノート」の引用、「罪の巨塊」は正確に「塊」と引用されている。(259ページ)
 
②昭和59年6月18日「曽野綾子全集Ⅱ 第二巻」(「ある神話の背景」収録)読売新聞社刊
 
「沖縄ノート」の引用、「罪の巨塊」を「魂」と誤記。(354ページ)
 
③昭和62年6月15日、「ある神話の背景」PHP研究所
 
「沖縄ノート」の引用を読売新聞社版の誤字を引き継ぐ。(265ページ)
 
④2006年5月27日、「『集団自決』の真相(改題)」ワック
 
同じく読売新聞社版の誤字を受け継ぐ(296ページ)
 
確かに読売新聞社が犯した誤植を後の出版社が引き継いだ。
 
だが、曽野氏の初版本(昭和48年版)は正確に引用されており、誤字は曽野氏の責任ではなく、再版にした読売新聞社とそれを引き継いだ2出版社に責任はある。
 
だが裁判証拠に提出された初版本(文芸春秋社版)には何の誤植もなく裁判の論旨に何の関係もない
 
裁判には何の関係もなくましてや著者の曽野氏には何の関係もない、後に再版した出版社の誤植を、針小棒大に取り上げた某評論家と、それを鵜呑みにして「曽野氏誤字・誤読事件」を特集記事にした琉球新報こそ風車に突進するドンキホーテとパンチョパンサであった。
 
某評論家先生、舞い上がってしまい攻撃する相手を間違えたようだ。

攻撃するなら相手は最初に誤植をした読売新聞社ですよ!

なお雑誌『SAPIO』の誤植は対談であり「魁」も「塊」も発音は「かい」であり、これも曽野氏の問題と言うより雑誌編集者の責任だろう。

対談の相手の池田信夫氏と某評論家とのやり取りは次のエントリーに詳しい。

佐藤優の「丸投げ評論」(関連記事は後半にあります)

 

某評論家のご高説はともかく、

新報さん、事件は現場で起きているのですよ!

図書館にでも行って自分の目で確かめては?

「事件」は幻ですよ、新報さん!

 

【追記】

これもボツネタだったが、2ヶ月前図書館に行ったとき曽野綾子氏の初版本に切り貼りされていた新聞切り抜きを写したもの。

これを「拾遺集」として以下に記す。

日付は1973年7月23日の琉球新報らしき新聞書評。

らしき、というのは新聞名が記されていないが、沖縄タイムスなら自社出版物を批判した書物の書評をこのように好意的に紹介するはずはない。

初版出版当時は沖縄論壇も琉球大学の仲地教授を始め曽野氏の労作を評価する地元学者も多く、琉球新報がこのような好意的書評を掲載してもおかしくはなかった。

その意味で初版本に切り貼りされて「書評」はこの本の評価を巡る貴重な歴史資料でもある。

以下浦添図書館蔵の「ある神話の背景」に切り貼りされていた新聞「書評」(1971年7月23日付け)

「ある神話の背景」(文芸春秋社) 曽野綾子著

これは小説ではないがかつて戦争末期に行われた沖縄戦での集団自決に新しい角度から照明を与えた問題の書である。
通説によれば、当時その方面での軍の指導者であった赤松大尉が島民に自決を命じたということになっている。 
この説は戦争にあらわれたもので、軍隊批判の一つの根拠をなしていた。 
ところが曽野綾子は、現地での調査や戦記の盲点をつく作業によって、集団自決に行きついた人々の状態を、かなり程度に復元した。
当時現場に関係していた人々がなぜ、真相を語りたがらないのか。
その理由の一つは、軍の命令なしで自決したとなると、遺族への年金がストップするので、そういう生活上の問題も絡んでいるという。 
もちろん、曽野綾子は格別の政治的目的をもってこの事件にとり組んだわけではない。 
著者の立場が、人間の生死とその孤独という問題に支えられていることは、最後まで読めばはっきりしていることである。

                      ◇

約四十年前の琉球新報の記者がこの書評を書いていたとしたら、現在の新報記者とその資質の差は歴然とするだろう。

もちろん書評筆者は後にこの「本」が火付け役となって訴訟が起きるなんて当時は夢想だにしなかっただろう。

それだけに素直に偏らずに本の本質を語っている。

「当時の通説」が「軍の指導者であった赤松大尉が島民に自決を命じたということになっている」となっているのが、裁判では「命令」が「関与」に摩り替えられるとはこの筆者は考えてもいなかっただろう。

四十年前の新聞社の論調を知る上で貴重な資料だと思う。

今の琉球新報ならトンデモ本扱いだろうが。(笑)

 

【おまけ】2008年5月10日

くだんの「売れない評論家」先生、琉球新報に自論が掲載されたのに気を良くしたのか、琉球新報に次の原稿が掲載されると掲載予定日まで明示して(4月11日)、長い間自分ブログで告知していた。

・・・が、待てど暮らせどお呼びがかからなかったの、アレから丁度一ヶ月、琉球新報に「売れない評論家」の名を見る事はない。

慌ててカスを掴んだ琉球新報、反省したのだろうか。

時々、琉球新報「声」欄の投稿で、あんなエライ先生の論文をもっと掲載して欲しい云々の投稿があるが・・・。

こんなのもあった。

琉球新報「声」欄:

「山崎論考に共感」  T・K・ (55歳 会社員 東京都)

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幻の誤字・誤読事件、生贄の島

2020-05-06 07:10:10 | ★改定版集団自決
 
狼魔人日記

 

我那覇真子氏・依田啓示氏の討論の経緯について 我那覇真子氏とFM21(ラジオ局)との間で行われている裁判について、依田啓示氏がご自身のYouTubeチャンネルで言及したことを受け、我那覇真子氏から依田啓示氏に内容証明書で討論の提案がありました チャンネル桜代表、水島総氏の立会いのもと、2020年2月24日に討論が行われましたのでその模様をお届けします。 出演:    水島 総(チャンネル桜代表) 討論者:    我那覇 真子(琉球新報・沖縄タイムスを正す県民・国民の会 代表)    依田 啓示(カナンファーム代表)

 

我那覇真子氏と依田啓示氏の公開討論その2

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前にも書いたが、当日記には十数年前に書いた古い記事に現在でも多くのアクセスを頂く場合がある。

以下はその一例を、最近の読者にも紹介する試みである。

生贄の島・沖縄 2008-05-01  よりの引用(一部編集)です。

                ★         

沖縄病とは、沖縄の魅力に取り憑かれ、幾度も旅行を繰り返す人、さらには移住してしまう人の行動を表す比喩である。

現在では宮本亜門や島田紳助、中尾彬らがこれに相当するという。

この語を最初に使用したのは、元東大総長の茅誠司と言われ、1960年に沖縄教育研究中央集会の講演で、「沖縄のことを考え続ける沖縄病」という表現をしたことに端を発する。(ウィキペディア)

曽野綾子氏が例え一時にせよ「沖縄病」になりかかっていた可能性がある。

「作家的好奇心」の気軽な動機で「不都合な真実」に触れなかったらひょっとしたら今頃は沖縄病の沖縄では人気の作家だったかも知れない。

というと、猛然と異論を吐く人々がいることは百も承知である。

何しろ、現在、沖縄マスコミが作った曽野綾子像は「沖縄をばかにしている」であり、マスコミに洗脳された沖縄人の中には曽野曽野氏を「沖縄の敵」と」公言してはばからないもいるくらいだ。

                    * 

『ある神話の背景』(昭和48年5月文芸春秋社刊)が出版される三年前の昭和45年、曽野綾子は沖縄戦のドキュメント『生贄の島』を発刊している。

■曽野綾子の沖縄戦ドキュメント作品

『生贄の島 ある沖縄女性との記録』

昭和44年4月から7月まで「週刊現代」連載

昭和45年3月 講談社刊

『ある神話の背景』

昭和46年10月から47年9月まで『諸君!』連載

昭和48年5月 文芸春秋刊

 

参考:大江健三郎著『沖縄ノート』(昭和45年・1970年、岩波書店)

 

『生贄の島』は沖縄戦に看護婦として従軍し、多くの犠牲者を出した沖縄師範女子部と沖縄の六つの高等女学校の生き残りの証言を中心に、日米の関係者の証言を加えた沖縄戦ドキュメントである。

この証言はひめゆり部隊の証言として一般に知られている。

曽野綾子選集(読売新聞刊)の解説として前野外吉氏が次のように曽野氏の沖縄への熱の入れようを記している。

「作者が『あとがき』で書いているように、これは、『沖縄から日本各地に散らばっていた』関係者たちを一人一人たずね歩いて記録をとるという膨大な作業を積み上げていかなければならない『大がかりな』仕事だった。 とても作者1人の手に余るため、『週刊現代』の協力で、1968年夏から曽野氏を複数の人たちが日本本土での取材を始め、同年12月には、曽野氏と『四人のベテラン記者』(「あとがき」)が沖縄で三週間の集中的な取材活動を行った。 鶴野伸子氏の『神の木偶ー曽野綾子の魂の世界』(主婦の友社)によれば、沖縄での曽野氏は、時に『三十九度の熱』に悩みながらも、『一日三人の割り』でインタビューを続けた。 こうして集められた証言は200人近くにものぼった。 それらを綿密に再構成した曽野氏の連載は、『週刊現代』1969年4月3日号から、7月31日号まで掲載され、翌70年の3月に講談社から単行本として刊行された。

曽野氏とは高等女学校以来の友人である鶴野伸子氏は、かつてこう書いた。 「曽野氏は泣かない女(ひと)である。 30年にもなる長い付き合いの間、私は彼女の涙を1度も見ずに過ごしてきた。 
だがその『泣かないはず』の曽野氏も、『生贄の島』の執筆では、涙をこらえることが出来なかった。 鶴野氏は書いている。
『(沖縄戦の証言の)資料が整理されて徐々に綾子のところに集まってくると、あまりの過酷さに、綾子は声を上げて泣いたという(『神の木偶』)。
たしかにこれは、読む側にとっても、とても平静には読み進めることができないおそるべき本である。 人々が追いつめられた状況のあまりの悲惨、あまりの苦痛、災禍のあまりの巨大さに圧倒され、私たちは何度となくページを閉じたくなる。  本文にある通り、曽野氏自身、執筆の中で『怒りに脅え』、『眼は泪で霞んで(証言資料の)頁が読みにくくなる』日々を過ごした。 しかし、そのたびに氏に書き続ける勇気をふるいおこさせたのは、この大きな苦難に直面し、しかしその経験を語ることの少ない人々にとって自分はせめて『ひとりの語部(かたりべ)』であらねばならないという思いであったろう。』(曽野綾子選集(読売新聞刊)の解説より抜粋)

                     ◇

曽野綾子の沖縄戦ドキュメンタリーというと、渡嘉敷島の「集団自決」を取材した『ある神話の背景』(『「集団自決の」真実』と改題)が話題になるが著者の作品に注いだ情熱、感情的入れ込みの量を計測できるとしたらおそらく『生贄の島』に使ったエネルギー量は『ある神話の背景の』のそれの数倍も上回ると想像できる。

何しろ「泪を見せたことの無い女」が39度の熱をものともせず集まり来る証言のあまりの過酷さに」嗚咽しながら原稿を書いたというから、氏の『生贄の島』発刊への並々なる使命感は読むものに迫力となって伝わってくる。

一方、『ある神話の背景』の執筆動機は極めて野次馬的なもので、『生贄の島』連載の後に刊行された大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んで、登場する赤松隊長のあまりにも酷い悪党ぶりに「世の中にこのような絵に描いたような悪人が実在する事実」(要旨)を知り、そんな人物に実際会って見たいという「作家的好奇心」が執筆の動機だという。

事実、この二つの沖縄戦ドキュメント発刊の間に曽野氏は慶良間島と想定できる沖縄のある島を舞台に「集団自決」をテーマにした純然たる小説を書いている。

『切りとられた時間』 昭和46年9月 中央公論社

筆者が最初に読んだ曽野氏の沖縄戦記は『生贄の島』であるが、発刊当時の沖縄では沖縄戦記といえば『鉄の暴風』がバイブルのように読まれており、「沖縄がこれだけ悲惨な目にあっているのに、本土の知識人は見てみぬ振りしていえる」といった風潮が蔓延していた。

他の沖縄戦記もほとんどが地元の著者の出版であり、そんな矢先、

当時既に有名作家だった曽野綾子氏が『生贄の島』を発刊したことは当時の沖縄にとっては歓迎すべきことだった。

『生贄の島』で情熱を使い果たした感のある曽野氏が、これで沖縄戦記は打ち止めにしていたら、曽野氏は「沖縄戦史の証言を掘り起こしてくれた恩人」として沖縄でも人気のある作家であった可能性もある。

ところが「作家的好奇心」で調査、出版した『ある神話の背景が』が触れてはならない「不都合な真実」に触れた瞬間、曽野氏は沖縄マスコミによって「沖縄の敵」にされてしまう。

特に『鉄の暴風』を発刊した沖縄タイムスは、同書の著者大田良博氏の杜撰な記述を指摘されて曽野氏を不倶戴天の敵として扱うようになる。(大田良博氏は沖縄タイムスの記者)

かくして、沖縄に情熱を傾け「沖縄病候補者」だった曽野氏は沖縄マスコミに洗脳された沖縄人により激しいバッシングを受けるようになり、「剃刀の刃を郵送さられた」事もあったという。

ネット時代になっても曽野氏へ沖縄人よりの罵倒は続いており、「曽野氏を心から憎む」といった理屈を超えた怨念に取り付かれたようなコメントも飛び交う有様である。

ちなみに曽野氏が『沖縄ノート』の引用を誤記・誤読したという神話が今でもまことしやかにネット上を流布しているが、まことにもって失笑ものである。

これは「論議」の問題ではなく「確認」の問題であり、確認という初歩的手続きを怠った琉球新報が,「売れない評論家」の「曽野綾子誤記論」に飛びついて三回に渡り連載記事を掲載して大恥を晒した経緯は過去に当日記でも触れた。

 

琉球新報の大失態!幻の「曽野綾子誤字・誤読事件」

 

某評論家は評論の続編掲載を琉球新報に内諾を得たのか、自ブログで長い間掲載予告をしていたが、ついに以後琉球新報に同氏の評論を見る事はなかった。 勿論、現在では(琉球新報掲載の)「予告」も削除されている。

琉球新報も目が覚めたのか、それとも遅ればせながら「事実確認」をしたのだろうか(嘲笑)。

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改定版・集団自決、捏造された公的刊行物

2019-09-09 07:50:49 | ★改定版集団自決

 

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集団自決、捏造された公的刊行物

沖縄縄戦を記した出版物が、一般刊行物から公的刊行物にいたるまで、虚偽の記述にあふれている事を再三指摘してきた。

 一般の人は公的刊行物を無条件に信頼する。

市中に出回っている雑多の出版物に記載してある証言より、公的刊行物にある証言の方が正しいと考える人は多い。

ところが一般的に信憑性があるといわれる公的刊行物が歪曲と捏造に満ちているのだ。

沖縄戦を綴った公的出版物の編纂・監修に、安仁屋沖国大名誉教授やその弟子の宮城晴美氏といった(大江・岩波手段自決訴訟の)被告側応援団が加わっており、意図的に証言を歪曲・捏造していた事実が判明している。

日本兵と米兵を入れ替えた捏造の沖縄戦史

「残虐非道の日本兵」と「人道精神に満ちたアメリカ兵」というイデオロギーを強調するあまり、証言者の聞き取りをした執筆者の主観で想像を交えた作文を捏造した例は珍しくない。

だが、(残虐な)「日本兵」と(人道的)「アメリカ兵」そのものを、意図的に入れ替えて「残虐非道な日本兵」を作り上げた例は前代未聞である。

証言者が「(残虐行為をしたのは)アメリカ兵」であると二度も念を押したにもかかわらず、元琉球新報記者の取材者は、公的刊行物である『那覇市史』に「残虐非道の日本兵」として記録しているのだ。

ことほどさように沖縄で発刊されている沖縄戦史はすべて眉に唾して読む必要がある。

                           *

 沖縄県文化協会会長の星雅彦氏は、県の依頼を受けて県内の知識人として初めて、『鉄の暴風』の著者よりも早い時期に、集団自決の行われた座間味、渡嘉敷両村の現地取材をした人物である。

沖縄の文芸誌『うらそえ文藝』(15号)が、同誌編集長星雅彦氏の執筆による「『集団自決』 その真相を墓場まで」と題する論文でこの公的刊行物の捏造記事を紹介している。

例えば、次のような氏独特の婉曲な表現で、従来の沖縄戦史を批判し、集団自決の核心に迫っている。(引用文の太字強調は引用者)

《隊長命令や軍命の有無について考えてみる。 すると思い付くことは、根拠がないのに当然あるかのような形を示し得るスタイルで、うまく誤魔化している場合があるということだ。また根拠や理由は不明瞭でも当然起きた筈だと言うような、妥当性の範疇の推量でもって真実性を想像させ得る背景もある。 たとえば軍命令の有無が裁判で争点になっていようとも、その背景や根本問題に真摯にむきあっていると受け取られることによって、賛同が得られる場合もある。 そしてそれらの間隙に、「捏造」が挿入され得るのである。

公的刊行物の記述に疑念を持った星氏は、その中から御存命の証言者を精力的に追跡調査し、改めてその証言を採録した。

そして公的刊行物と実際の証言との矛盾点を指摘している。 

ということは、ほとんどの証言者が、自分の証言が捏造されている事実を知らないままに長年過ごしてきたことになる。 

そして今回の星氏の指摘によって初めてその事実を知ったというから驚きである。

本文中の「避難壕の自決とその謎」という章から例を挙げてみる。

《去年(2009年)12月中旬に、筆者は那覇市の繁多川図書館で同地在住の知念勇(76歳)からミー壕(新壕)にまつわる話を聴かせてもらった。 そのいろいろ含みのある話の中には驚くべき事実が隠されていた。》

このような書き出しで始まるこの章には、当時国民学校6年生であった知念勇さんが、学校の授業はほとんどない毎日を壕掘り狩り出された様子が記されている。

そして昭和19年のいわゆる10・10空襲の時、警察署員と一緒に住民が逃げ込んだ壕に日本軍の将校が現れ、この壕は軍が使用するから民間人は移動せよと命ぜられた話を次のように記している。

《将校たちが去ったあと、壕内は打ちひしがれたように悄然となったが、それでも住民たちの多くは、身の回りの品をまとめはじめた。 署長代理は「今出て行くと危険だから、様子を見てから署員の誘導に従ってください」と告げた。
数時間後にはミー壕から次々と住民は出て行き、民間人は具志堅夫婦とその息子の古康さんと勇さん(証言者・引用者注)と父親の五名が残った。(略)

突然、歩哨が駆け込んで来た。 とすぐ、那覇署員たちは移動し始めた。 その後、日本軍も間もなく撤退して出て行った。 米軍が押し寄せてくる予報があったのだろう。 小一時間後に、数人の米兵がどかどかと入ってきた。 彼らはすぐ合図しあって、具志堅古康さんと勇さんの父親を黙って引っぱって壕から外へ連れ出した。 
一人の米兵は残って勇さんたちを見張っていたかと思うと、2、3分もたたぬうちにカービン銃の音がバラバラと外から聞こえた。 すぐに米兵が立ち去った後、少し間をおいて勇さんたちは父親たちを探しに外へ出た。 一面瓦礫の空間には人影らしきものは見当たらず誰もいなかった。 勇さんの父親は50歳くらいで一般住民の姿をしていたが、古康さんの父親は軍服を着ていたからまぎれもなく日本兵に見られたのだろう。 二人は抵抗しようとしたのか分からないが、何かトラブルで射殺されたに違いない。 連れていかれた二人はその後永久に姿を見せなかった
・・・年老いた知念さんの話はここまでである。》

■日本兵と米兵を故意に入れ替える悪質な歴史捏造■

「那覇市史」の画像検索結果


この面談の後、星氏は公的史料である『那覇市史」に掲載された知念さんの聞き取り調査の記述に明らかな作為的捏造部分を発見し、確認のため再度知念さんに面談することになる。

その驚きに満ちた経緯を上記文に続けてを星氏はこう記述している。

《ところが、筆者は『那覇市史 資料編弟3巻7』の中に「子どもと沖縄 繁多川の警察壕で」と題して知念勇さんの手記が載っているのを見つけた。 「《前略》父親はある日突然日本兵に連れ出された。 父親が連れ出された後、2、3発の銃声がしたが、父と共に連れ出された20歳くらいの青年と共に、再び壕には帰ってこなかった(後略)」(410頁)と記されている。 末尾に採話者「嘉手川重喜」とある。 筆者の知人であるがすでに鬼籍の人である。 
後日、再び知念勇さんに会って確かめてみた。 「自分も不思議に思っている。なぜ、米兵に連れ出されたということを、取材する人に2度も3度も言ったのに、どうして日本兵に入れ替わったのだろう?」と本人はいぶかしがるのであった。》

この部分を読んだ時、星氏が昨年、雑誌『正論』12月号に寄稿した『「鉄の暴風」はGHQの宣撫工作だった』と題する論文の次のくだりを、とっさに連想した。

沖縄戦の証言者がほとんど物故された現在、知念勇さんの例のようにご存命の方に証言を再確認して公的刊行物の意識的捏造を発見するのは奇跡に近い。

もし星氏の再調査が遅きに失し、不幸にして知念さんがなくなられていたら「知念さんの父親ら二人が、日本兵に壕から連れ出され射殺された」ということが、歴史の真実として刻まれることになる。

危うく沖縄タイムスが目論む「残虐非道な日本兵」の捏造の歴史に新たな頁が加わるところであった。

星氏はさらに、集団自決の史料として研究者なら一度は目を通したはずの『座間味村史』下巻の「村民の戦争体験記」を取り上げ、そこに記された20数名の体験記を「それらすべては伝聞であるが、隊長命令があったと記された証言が多い」として、各証言者の動きを検証している。 ここでその内容は省略するが、沖縄で集団自決を研究するに当たり異論を述べることが、いかに困難であるかを自分の経験を基に次のように述べて、論を結んでいる。

《ここで、沖縄の新聞を代表する世相を端的に言えば、沖縄では一般的に、二人の隊長の命令によって、集団自決が決行され、惨たらしく多数の住民が犠牲になったという見解だ。 それでは、もっともらしいが、よく考えると奇々怪々にさえ思えてくる。 今や軍命に意を唱えて探求すると、変人扱いされるか、他人の傷跡を暴く悪趣味に過ぎないと批判されるのだろう。 しかし沖縄戦の真実は、隠蔽されない限り、見えてこないのであろうし、そのような視線にこそ重要な意味があるような気がしてならない。(了)》

星氏は、沖縄で沖縄紙を代表する論壇に異論を唱えることは「変人扱い」と婉曲な表現に止めているが、昨年の5月に『うらそえ文芸』14号で沖縄タイムスと琉球新報を真っ向から批判して以来、それまで両紙から定期的にあった原稿依頼も全く途絶えたと聞く。 これは同時に沖縄二紙に反旗を翻したドキュメンタリー作家・上原正稔氏についても同じことが言える。

全体主義の沖縄で軍命に異論を唱えるのは変人扱いされるに止まらず、文筆で糧を求める人にとっては死活に関わる大問題でもあるのだ。

集団自決といえば沖縄タイムスやサヨク出版社の高文研や岩波書店によって発刊された本しか読まない人々にとって、星氏の今回の論文は是非とも一読を薦めたい最新の「集団自決研究」の書である。

■安仁屋教授の歴史捏造■

《私が同書に疑問を持つようになったのは、県資料編纂所が刊行する『沖縄県史第九巻 沖縄戦記録ー』の執筆のため、北谷村から南部・中部の集落を回って聞き取り調査をしたことがきっかけだった。

あれは確か1970年の暮れのことだった。 私は県資料編纂所の職員のAとBの訪問を受けた。 Aは私の書いた原稿について「なぜ日本兵の善行などを書き入れるのか」と詰問してきたのである。 取材は各区長の家に集まってもらい、これを記録するという形で行った。 取材は私一人ではなく資料編纂所の名嘉正八郎と一緒であった。 

この取材で日本兵が住民を助ける話も幾つか出たので「そういうものも記録すべきだと思った」とだけ答えた。 県資料編纂所のA職員は県史編纂時の検閲の役割りを担っていたことになる。

因みにAはマルクス主義で、一つのイデオロギーに全ての物事をはめて判断しようとする傾向があったのだ。
この取材を通して私は『鉄の暴風』は、日本軍を「悪」とするために創作された、ノンフィクションを巧みに交えた推理小説風読み物ではないかと考えるようになった。 そこには日本軍部と国民、また日本軍と沖縄住民を二極に分離させ対立させる仕掛けが巧みに織り込まれているのである。 まさしく江藤淳が『閉ざされた言語空間』で指摘したように、日本と米国の戦いを、日本の「軍国主義者」と「国民」との戦いにすり替えようとする米軍の底意が秘められているのである。(190~191頁)》

これについて筆者はA氏の正体を続々・星氏が『鉄の暴風』を批判!県資料編纂所職員の正体のなかで次のように暴露しておいた。

1970年の暮れに星氏を訪問し、氏が提出した原稿に「なぜ日本兵の善行など書き入れるのか」と詰問したマルクス主義者の県資料編纂所のA職員のことである。

ご本人の星氏は「A氏はまだ元気で沖縄で活躍されている方なので・・・」と実名を語るのを憚っておられるが、沖縄は狭いところで調べればすぐ正体はばれるもの。

1970年当時に県資料編纂所の職員であり、しかもこのような過激な発言で星氏に詰問する人物は自ずと限られてくる。

安仁屋政昭沖国大名誉教授は、沖国大の前は1967年から5年間、沖縄県資料編纂所の職員であり、そのマルクス主義的発言は現在も衰えてはいない。

なお、安仁屋教授は「集団自決」訴訟の被告側応援団の理論的中心人物であり、宮城晴美氏の恩師であることは夙に知られたことである。

その後、星氏が聞き取りした「日本兵の善行」は、安仁屋氏の独断により「沖縄県史」から削除された。


【参考資料】

「捏造された集団自決」の画像検索結果


「照屋昇雄 琉球政府 辞令」の画像検索結果

                 ★

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現在、当日記管理人は、沖縄県知事を相手取って複数の裁判を係争中です。 徳永弁護士、岩原弁護士ら代理人弁護士には手弁当でご協力いただいていますが、訴訟費用の資金難で交通費、宿泊代などの実費支払いも厳しい状態です。腹が減っては戦はできません。同じように先立つものが無ければ裁判は不可能です。そうです、訴訟資金が底をついています。

 

私どもはサヨク集団「オール沖縄」に占有された沖縄県政を子供たちに誇れる真っ当な県政に奪還すべく必死で戦っております。皆様の支援金ご協力をお願いいたします。(事務整理上一口1000円以上をお願いしますが、勿論金額の多寡は問いません)支援金は訴訟費用、報告会、講演会などの開催・広報活動に活用させていただきます。

 

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 沖縄県政の刷新を求める会!”

 

                                             ★

 

「お願い」の画像検索結果

 

 次の裁判のご報告です。

 

9月12日(木) 県警高江検問訴訟 判決

 

   13時10分 高等裁判所 201号法廷

 

   原告:江崎 孝外2名

 

   被告:沖縄県知事

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忘れられた沖縄戦!語り継ぐ沖縄戦2011 (3) 義烈空挺隊 ある県出身隊員の思い

2019-09-01 09:39:12 | ★改定版集団自決


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9月12日(木) 県警高江検問訴訟 判決
   13時10分 高等裁判所 201号法廷
   原告:江崎 孝外2名
   被告:沖縄県知事
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 沖縄県政の刷新を求める会 


昨日、「琉球新報・沖縄タイムスを正す県民・国民の会」の定例化で行われた村田春樹先生による講演会「嗚呼!沖縄戦の学徒隊」に参加した。

沖縄2紙などが沖縄戦を称して「捨て石にした」などと批判するが、32軍と共に戦った二中学徒隊らを支援すべく島を取り巻く米戦艦に体当たりして散華した特攻隊員や沖縄救援に向かう途中、雄図空しく撃沈された戦艦大和を考えれば「捨石」など言ったらバチが当たる。

昨日の講演会では沖縄ではあまり語られることのない義烈空挺隊の紹介があった。

 
「義烈空挺隊玉砕之地碑」の画像検索結果
www.vill.yomitan.okinawa.jp
 

鹿児島を発した特攻隊が沖縄を囲む米戦艦を特攻の目標にしたのに対し、熊本を発した義烈空挺隊は、沖縄本島に上陸を果たした米軍が読谷飛行場を利用するのを防止するため飛行場で待機中の米軍機と飛行場設備を破壊することが主目的だった。

同飛行場を破壊することは米軍機の空爆のため苦戦する第32軍の側面からの救援である。

連日のように沖縄戦の模様を報じる沖縄2紙がほとんど黙殺する「義烈空挺隊」について、テレビ朝日系のQABテレビが報じていたので、参考資料として引用する。

沖縄戦に殉じた義烈空挺隊の捨て身の作戦を知ったら「捨て石」などと口が裂けても言えないだはずだ。

 

語り継ぐ沖縄戦2011 (3) 義烈空挺隊 ある県出身隊員の思い

沖縄戦の後半、敵の手に落ちた二つの飛行場を制圧するという陸軍の作戦史上、類を見ない過酷な任務を背負った精鋭部隊が沖縄に飛来しました。

「義烈空挺隊」その壮絶な戦闘は神話化されていますが、沖縄出身の隊員がいたことや、第二期計画があったことはあまり知られていません。知られざる集団特攻の実態に迫ります。

1945年5月24日。熊本の健軍飛行場では奥山大尉以下、150人の隊員が最後の別れを惜しんでいました。彼らの任務は、アメリカ軍に占領された読谷と嘉手納、二つの飛行場に爆撃機ごと胴体着陸し、使用不能にする作戦です。

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さらに義烈空挺隊は、米軍の主力爆撃機、B29を一発で破壊するための訓練として、模型の背中に帯状の爆雷を乗せたり、爆弾を仕込んだ棒を吸盤で吸着させる技も習得していました。

そんな武器を体中に巻き付け、4人乗りの爆撃機に14人ずつ乗りこみ、夕方6時、沖縄の空に向かいます。人生最後の時間となる、沖縄までの4時間の飛行。

そして夜10時11分、「只今突入」の無線が入ります。しかしほとんどが打ち落とされ、実際に滑走路に胴体着陸したのはたったの1機でした。走り出た11人の隊員は次々に米軍機を襲い、7機が爆発。7万ガロンのガソリンを炎上させました。

News Photo
 

これはアメリカ軍が撮影した、翌朝の北飛行場の様子です。およそ30機の飛行機が破壊され、20人のアメリカ兵が死傷。一方、義烈空挺隊員の遺体の数は69体でした。

首里の司令部にいた八原高級参謀は後日こう述べています。「我が空挺隊が敵飛行場に降下し、獅子奮迅の働きをしている様を想像して感動を久しくした。しかし義烈空挺隊は、むしろ小禄飛行場に降下して軍の戦闘に参加してもらったほうが数倍うれしかった」

実は翌日の昼、最後の空挺隊員が残波岬で米軍に射殺されています。あの修羅場を抜け、彼はなぜ、海に向かっていたのか。

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その答えは、極秘だった「義烈空挺隊攻撃計画」に書かれています。

「X日Y時を期し主力8機をもって中飛行場に強行着陸し」「爾後、海岸方向に戦果を拡張し揚陸地点付近の物資集積所を攻撃」飛行場を破壊したあと、海岸の物資を攻撃するまでが「第一期攻撃計画」でした。

計画はそれだけではありません。「目的達成せば、一斉に戦場を離脱し北飛行場東方220.3地点に集結第二期攻撃・遊撃戦等を準ビス」

つまり、読谷山岳(ゆんたんざだけ)に再度集結して、ゲリラ戦に移行するのが第二期攻撃だったのです。

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隣の山には、すでにゲリラ戦を展開中の第二護郷隊がいました。護郷隊を率いるのは特殊なスパイ教育を受けた陸軍中野学校の人たちそして義烈空挺隊員のうち10人が中野学校の諜報員でした。

名護市史編さん係・川満彰さん「義烈空挺隊の中に陸軍中野学校のひとたちが10人も入っていた理由って言うのは」「第32軍が壊滅したあとも彼らがそこで遊撃隊となって第3遊撃隊第4遊撃隊。その人たちと一緒になって、また32軍が壊滅したあとも遊撃隊となって後方かく乱をしていこうと」

陸軍中野学校と沖縄戦の関連を研究している川満さんは、32軍玉砕のあとこそ、彼らの出番だったと指摘します。

川満さん「彼らは生き残る計画だったと思うんですよ。一般の僕たちから見ていたら無謀な計画ではあるんだけれど、とてもじゃないけどそんなことできるんかって言うのがあるんですけれど、彼らは生き残るつもりだった。遊撃戦を展開して、大本営、関東地区の爆撃をどうにかここで少しずつでもいいから食い止めるというそういったことが計画されていたんでしょうね」

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隊員の遺体から回収した地図には、アメリカ軍機の配置やどのテントにパイロットが寝ているかまで書かれていて、驚いたアメリカ軍は翌朝、スパイ対策を命じています。

住民のふりをした少年兵に諜報活動をさせるのは、護郷隊の得意技。中野学校の仲間によって知り尽くした場所で、義烈は第二期攻撃に入る計画だったのです。小野田少尉のように、たとえ占領されても国を奪還するまで潜伏して活動を続けるのが中野学校の基本でした。

重すぎる任務を背負った精鋭部隊。この中に、沖縄出身兵士が二人含まれていました。

義烈空挺隊最年長の山城准尉は、享年31歳。突撃の日、新聞記者にこう語っています。

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「私は沖縄生まれというので特別に関心を持たれているようですが別に悲壮な気持ちはありません。かえって自分の生まれ故郷で戦えるので気易い思いでいます。沖縄県民を救うことができれば本望です」

数年前、山城准尉の遺族の所在が判明しました。大宜味村喜如嘉。山城准尉はここで生まれ育ち、妹に当たる前田美恵子さんは、今も兄の写真を大事にしています。

美恵子さん「申し分ない兄でした。何かにつけてね。うん。(Q.優しかったですか?)優しかったです。力はあるし。三味線は弾くし、いろんな事しました。万能。(Q.特攻隊のような仕事だったというのは知ってましたか?)そういうことはきいてないです」

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山城さんの甥・前田貞夫さん「兵隊に行って落下傘部隊に所属してなくなったという、それ以上のことは全然わからないです」

特攻の任務も、ゲリラ戦計画も、日本軍の最高機密。家族に告げることはかなわなかった山城金栄さんはこんな言葉を遺しています。

「殉国、忠誠の真心、闘魂は火の玉となって敵を焼く」勇ましい言葉を胸に窮地にある沖縄の空を目指した山城さんは今何を思うのか。義烈空挺隊は、その秘匿性から県民にはあまり知られることのないまま、人々の記憶から消えようとしています。

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改定版・集団自決、沖タイ、詫び状で狼狽、援護法のからくり?、悪意の解釈と善意の拡大解釈

2019-08-30 06:23:40 | ★改定版集団自決

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 当日記管理人は、翁長知事を相手取って複数の裁判を係争中です。 代理人弁護士には手弁当でご協力いただいていますが、訴訟費用の資金難で交通費、宿泊代などの実費支払いも厳しい状態です。

 

9月12日(木) 県警高江検問訴訟 判決
   13時10分 高等裁判所 201号法廷
   原告:江崎 孝外2名
   被告:沖縄県知事

皆様の支援金ご協力をお願いいたします。(事務整理上一口1000円以上をお願いしますが、勿論金額の多寡は問いません)

 

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 沖縄県政の刷新を求める会   

 

当日記が唯一誇れるのは読者のレベルが高いこと。 これは何度か自慢したが、前のエントリーで沖縄タイムスのテレビ案内文を紹介し、「変だ」と疑問を呈しておいたら、早速読者から的を射たコメントを頂いた。 次に紹介する。、
 
■  安仁屋正昭さんのコメント遺族年金はそろそろ

戦後66年、そろそろ遺族会は援護金の受領を辞退してはどうか。
出来ないので、あれば正当な軍人軍属とこれに順ずる戦斗協力者のみに限るべきです。

今回の靖国合祀取り消し訴訟で明確になったことは、援護法の適応を受けるため、申請書を捏造したという事実です。
嘘をついて貰うわけだから、他人に知られては、ばれてしまう。
だから、申請書に記載した内容(どのような理由で何処で戦死したのか)を、家族にすら知らせていないというトンデモ無い事実です。
援護金を貰っている遺族に、「戦死されたご家族は、何時何処でどのように亡くなられましたか?」と聞き取りをし、これを「靖国神社に問い合わせてください」と頼み、照合すれば、

恐らく2万件前後の不合は明らかになるはずです。

場合によっては、詐欺行為の疑いがあるので、援護金不当受領者に対する裁判を起こしてもよいと思います。

金城 実氏率いる原告人5人中、3人(戦没者8人)は、この対象です。 

 ■ヒロシさんのコメント 不都合な真実  
「チビチリガマに軍人はいなかった」という事を多くの県民が知っていることだと思いますが読谷村史http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm
>「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。
>避難民約一四〇人のうち八三人が「集団自決」
>真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した

どこにも軍の命令と書いていませんね。
「思い出」として日本の教育が悪かったと書いてあってミスリードさせようという意図がかくれていますけど。

 もう一つ  ヒロシ    
>「援護法」による年金をもらう代わりに民間人が「準軍属」にされるというからくりがあった。
これも年金をもらう申請をしたのは「誰か」というところが意図的に抜けていますよね。
年金をもらうために「遺族が虚偽の申請をして」「沖縄県の多数の遺族を一人でも多く金銭的に救うために」「虚偽とわかっていて」申請を受理した。
付け加えるならば「沖縄以外ではこのような虚偽の申請は受理されていない」わけですから
靖国訴訟は前提からしておかしい訳で最高裁まで行くでしょうけれど「裁判官には真っ当な判決」を望みます

            ★

> 場合によっては、詐欺行為の疑いが(安仁屋さん)

安仁屋正昭さんは「詐欺行為の疑い」と控え目な表現にしているが、より直截的にいえば「公文書偽造による「公金詐取」といわれても仕方ない行為である。 沖縄県民としては言い難い言葉だが、筆者は3年前に「国主導の公金詐取」と指摘しておいた。

>これも年金をもらう申請をしたのは「誰か」というところが意図的に抜けていますよね。
>年金をもらうために「遺族が虚偽の申請をして」「沖縄県の多数の遺族を一人でも多く金銭的に救うために」「虚偽とわかっていて」申請を受理した。(ヒロシさん)

OABテレビの当該番組では、終始「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」という印象で放映され。 だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、裁判では遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言しているくらいである。

したがって遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、石原氏自身「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無いだろう。

ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。

チビチリガマには軍人は一人もいなかった。

大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。

沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)

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■政府主導の「公金横領詐取」■

現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないという。

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈をしている。

違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

■援護金業務での宮村幸延氏の功績■

座間味村役所の援護係・宮村幸延氏は、援護法の折衝のため何度か上京しており、その結果、軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満児から0歳児でも、63年以降準軍属として確定することになったようである。

そしてそのときの宮村氏の努力は現在も座間味村役所に宮村氏の「功績」として記録に留められていると言う。

現在公式には厚生労省に「軍命を付した援護法の申請書」の存在はないということになっている。

当時の厚生省の「拡大解釈」は、拡大を通り超して「違法解釈」と言われても仕方がない。 

つまり当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理である。

■宮村が「侘び状」を書いた理由■

元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。(※【おまけ】参照)

おそらくは『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、座間味村役所の援護担当の宮村氏は梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していたのではないか。

そして、宮村氏は、死んだはずのお富さんならぬ梅澤さんが生きていると知って驚天動地の心境だったのではないか。

何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたとしたら、「公金横領」は厚生省の指導による共同責任だとしても、公文書偽造の個人責任はまぬかれない。

梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのではなかったのか。

ところが、その後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻すことになる。

その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力が推測される。

■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■

それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できる。

その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。

ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。

梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。

「軍命派」の総本山の沖縄タイムスとしては、「誤記」に対する謝罪要求に動揺はしたが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。

沖縄タイムスは次のように考えた。

富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題である。

だが、詫び状の存在は『鉄の暴風』の記述を覆す重大問題だ。 

梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて梅澤氏に謝罪したら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。

そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。

そこで、タイムスは確認の時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。

■詫び状は座間味村が公金横領した物的証拠

驚いたのは座間味村当局。 宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。

そこで苦労の結果考え出した結果はこうだった。

最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた。記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。

沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。

結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、新川明氏を安堵させることになる。

約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。

そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えたことは容易に想像できる。

沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。

「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。

宮村氏の詫び状が真実なら、座間味村は村ぐるみで公金横領を実行したことになる。結局宮村氏は沖縄タイムスの「わび状は公金横領の証拠になる」という強迫に怯え「わび状は無効」と主張し始める。

座間味村が沖縄タイムスと一蓮托生の決意をした瞬間である。

一方の梅澤氏は、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている上、宮村氏の「侘び状」まで得た余裕からなのか、座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けた。

その様子が、タイムス訪問時の次の発言に垣間見ることが出来る。

座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)

その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もせずに、このような余裕の発言をした。

村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。

事実その後交渉は打ち切られている。

沖縄タイムスを追い詰めていながら、謝罪にまで追い込まなかったのは人の良い梅澤さんの性格と軍人らしい潔さでありである。

宮村氏の詫び状の存在や宮城初江さんの「軍命は虚偽」の証言や、「梅澤氏のごときは朝鮮人と不明死」などのデタラメ記事も併せて沖縄タイムスに謝罪文を書かせるべきだった。

今となっては悔やまれてならない。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

 

【おまけ】

政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。

その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大名誉教授の論文はこれ。

 ⇒政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に


◆宮村幸延氏が梅澤氏に宛てた詫び状


 

「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (6)
      (7月14日付 世界日報)

座間味村の援護係「隊長命自決の申請」を謝罪

 沖縄戦における座間味村の民間人の犠牲者は358人で、そのうち少なくとも300人が集団自決したとされている。
 座間味村の遺族会長であり、当時の援護係として「座間味戦記」を取りまとめた宮村幸延(戦後、宮里より改姓)という人物がいる。座間味島の守備隊長を務めた梅澤裕氏らがノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波裁判を相手取った「大江・岩波集団自決訴訟」では被告側に立って証言した人物だ。

 終戦を福岡で迎えた幸延氏は、故郷の座間味村に帰ると、長男の盛秀を含む男兄弟4人のうち3人が戦死したことを知る。しかも、助役を務め兵事主任を兼任していた盛秀は集団自決を先導した張本人と噂されていた。宮城晴美著「母の遺したもの」(高文研)によると、宮里助役は梅澤隊長に自決用の爆薬を求めた村の有力者の一人。村役場に常備されていた銃と銃弾帯を常に携帯し、16歳以上の若者で組織された民間防衛隊の隊長を務め、軍人より軍人らしい民間人と言われていたという。

 座間味村役所の援護係となった幸延氏は、補償申請の書類を遺族に代わって書き、厚生省援護局へ郵送した。ところが、書類が全部送り返されてきた。

 業を煮やした幸延氏は、厚生省との直談判のため何度も上京をした。その結果、0歳児を含め6歳未満も、昭和38年以降、準軍属として確定する。座間味村役所は昭和41年、幸延氏を功労者として表彰した。

 昭和56年、幸延氏は座間味村の慰霊祭の日、梅澤氏と鉢合わせた。援護金申請書に「隊長命令による自決」と記入し、多額の給付金受給の手続きをした張本人が、梅澤隊長の姿を見て動揺したことは想像に難くない。

 その当時、梅澤氏は、マスコミにより「慶良間島で住民に自決命令を出した残虐非道の隊長」との汚名を着せられ、家族崩壊の危機にあったと伝えられている。「せめて家族にだけも汚名を晴らしたい」と考えた梅澤氏は、援護法の真実を記した「詫び状」を幸延氏に要求した。

 梅澤氏の許可なく「隊長命令による」と書いた罪意識にさいなまれた幸延氏は、言われた通り自筆押印の「詫び状」を昭和62年3月28日付で書いて梅澤氏に手渡した。

 この「詫び状」が後になって「大江・岩波集団自決訴訟」の原告側の証拠資料として提出された。

 通常、民事裁判で争われる事例では、契約の「有効」か「無効」かを争う場合が多い。本人が自筆押印した書類があれば、極めて有力な証拠となる。

 「詫び状」が援護金の受給申請業務に影響を与えることを恐れた幸延氏は、当初「梅澤氏が勝手に書いた偽物」などと強弁したが、筆跡鑑定で本人の自筆と鑑定された。

 しかし、大阪地裁は平成20年(2008年)、「梅澤氏に無理やり泥酔させられて書いたため記憶がない」という幸延氏の弁解を受け入れて「詫び状」の有効性を否定した。裁判官がこのような判断を下した理由の一つは、ノーベル賞受賞を最高のブランドとする日本の裁判官の「ノーベル賞作家への配慮」にあると現代史家の秦郁彦氏は指摘している。

(「沖縄戦の真実」取材班)

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改定版・決定的証言―宮村幸延氏の謝罪文、中村粲・独協大学教授の証言

2019-08-26 00:58:52 | ★改定版集団自決

 

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根拠なく発狂する沖縄2紙の歪曲報道。

コジツケ報道ともいう。

「教科書検定意見書」により教科書の記述が変ったことを指して、「安倍内閣の極端な右傾化政策の」結果だと主張する左翼論者がいる。

「集団自決は軍の命令や強制の結果でない」と指摘した検定意見。

これは安倍内閣になって突然沸いて出た話でもなければ、文部官僚が突然思いついた話でもない。

ましてやその思いつきで意見書を作り、教科書検定に介入したわけでもない。

歴史専門家や教科書執筆者(一部マルクス史観の執筆者を除いて)にとって「軍の命令や強制でない」ことは既に周知のことであった。

ただ、これに異論を唱える教職員組合(教科書使用者)と史実との板ばさみで、教科書執筆者が困っているのが実情だった。

そこで執筆者たちは今回の「検定意見書」を「渡りに舟」として教職員組合に遠慮なく堂々と記述変更出来たわけだった。(秦元千葉大教授の話)

従って安倍内閣の成立には何の関係もなく、

教科書検定意見書は出るべくして出て来た当然の流れであった。

安倍内閣と無関係の証拠として、

安倍内閣が成立する3年半前の、次の新聞報道を見れば自明だ。

ただ一つだけいえる事は、「集団自決」の「軍命の有無」に関する学会の流れを大部分のマスコミが報道しなかっただけのことである。

これを「安倍右傾化内閣」「突然の検定意見書」「教科書記述のわい曲」・・・と、センセイショナルに煽った沖縄タイムス、琉球新報の作戦に乗せられてしまったのが「11万人」集会であった。

むしろ「検定意見書」が出たのが遅きに失していたくらいだ。

 【今も残る沖縄戦の神話】政府は日本軍将兵の名誉を回復せよ
 
産経新聞 平成15年(2003)4月7日記事
 
イラクで米英軍とイラク軍の地上戦が続いているが、五十八年前、沖縄で日米両軍の地上戦が始まったのも、ちょうど今ごろの時期だ。米軍の第一陣は昭和二十年三月下旬、沖縄本島西の渡嘉敷島、座間味島など慶良間諸島に上陸した。あの悲劇的な住民の集団自決が起きた島である。多くの教科書にも書かれているが、必ずしも正確な記述ではない。

「日本軍にスパイ容疑で殺されたり、『集団自決』を強制された人々もあった。」「軍は民間人の降伏も許さず、集団的な自殺を強制した。」(日本書籍の中学歴史教科書)

「県民の犠牲者のなかには、味方の日本軍によって殺されたり、強制されて集団自決したりした人もいました。」(清水書院の同)

  いずれも日本軍が集団自決を強制したとしており、文部科学省の検定をパスしている。だが、事実は違う。集団自決は起きたが、軍はそれを強制していない。

日本軍の命令で住民が集団自決を強いられた、とする説が独り歩きするようになった発端は、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』である。渡嘉敷島に米軍が上陸してから二日後の昭和二十年三月二十八日、同島の恩納河原に避難していた住民に対し、守備隊の海上挺進隊第三戦隊長、赤松嘉次大尉から自決命令が出され、住民三百二十九人が手榴弾で自決した、と書かれている。

昭和三十二年、旧厚生省援護局も現地で聞き取り調査を行い、日本軍の命令による集団自決だったと認定した。集団自決した住民は準軍属とみなされ、遺族らには援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)に基づく年金が支給されている。しかし、その後、作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決について独自取材した結果をまとめ、『ある神話の背景』(昭和四十八年、文芸春秋)という本を出した。赤松大尉やその部下だった元兵士、同島で生き残った住民たちからのインタビューなどで構成されている。現在、絶版で手に入りにくいが、『鉄の暴風』の記述に初めて疑問を提起したノンフィクションである。

『鉄の暴風』は座間味島の集団自決についても、米軍上陸の前日(昭和二十年三月二十五日)、軍が忠魂碑前の広場に住民を集めて玉砕を命じ、住民五十二人が手榴弾で自決したと、書いている。

当時、同島を守備していた日本軍は海上挺進隊第一戦隊で、隊長は梅沢裕少佐だ。しかし、集団自決のとき、女子青年団員だった宮城初枝さんは後に、「梅沢少佐の命令はなかった」と告白し、そのことを娘の宮城晴美さんが『母が遺したもの』(高文研)という著書に書いている。昭和史研究所代表の中村粲・独協大学教授は渡嘉敷・座間味両島の集団自決について、当時の守備隊将校や集団自決の目撃者らに改めてインタビューし、曽野さんや宮城さんの著書を学問的に補強する研究を続けている。中村教授は「集団自決の犠牲者の遺族には手厚い援護措置が必要だが、国が今も軍命令を前提としているとしたら問題だ」と話す。

先月末、その中村教授とともに、厚生労働省援護課を訪ねた。「昭和三十二年の現地聞き取り調査で、軍命令によって集団自決したという裁定を下し、犠牲者全員を準軍属として援護法の対象にした。最近、一部報道などで、軍命令がなかったという話も聞いているが、再調査はしない。」(山内忠淳・審査室長)という回答だった。

軍命令の有無は国の名誉の問題である。援護法適用の当否とは別に、少なくとも歴史教科書の誤りは正す必要がある。

                      ◇

 

上記は今から4年半も前の記事だが、記事内容は少しも色褪せていない。

ただ、当時絶版になっていた曽野綾子氏著『ある神話の背景』が、

『集団自決の真相』と改題されて現在再出販されている事実に時の流れを感じるくらいだ。

「日本政策研究センター」http://www.seisaku-center.net/の『明日への選択』平成19年8月号に掲載された中村教授の論文を下記に引用します。

 →中村論文はこちら

下記掲載は保存用。(太字強調は管理人)

 沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除
検定撤回狙うNHK報道

中村粲(獨協大学名誉教授・昭和史研究所代表)


◆「軍命令」を削除した検定を評価
 来春から使われる高校歴史教科書の沖縄住民集団自決に関する記述から「軍命令」が削除されることになった。文部科学省の検定意見に従って修正された記述を見ると、まだ集団自決が軍の強制によるとの誤解を与えかねない表現を使っている一部の教科書があることは遺憾であるが、軍命令や軍の強制で集団自決が行われたかの如き表現を教科書から削除するというこの度の検定方針は高く評価すべきものと考える。平成八年二月の検定をパスした七社発行の中学歴史教科書の反日偏向が余りにも甚しかったために、歴史教科書に対する世論の批判が大いに高まった結果、慰安婦問題が教科書から消え、南京事件の記述も抑制され、全体として改善されてきた中で、沖縄住民集団自決が軍命令で強制されて起こったとの記述だけは大手を振ってまかり通ってきたからである。

 

◆軍命令否定は禁忌だった
 文科省が前記のような検定方針を決定したのには、平成十七年八月以来係争中の「沖縄集団自決冤罪訴訟」を通じて、軍命令のあったことを否認する数多くの事実が明かるみに出されてきたことが関係しているとみるべきであろう。曽野綾子著『ある神話の背景』以来、軍命令の存在を疑い、更には「軍命令」説と遺族年金支給との関連を推測する向きもあるにはあったが、それを公言することは沖縄では一種の禁忌なのであった。

 

◆勇気ある人々――座間味の場合
 慶良間列島の集団自決は昭和二十年三月二十六日座間味島で、二十八日渡嘉敷島で発生した。前者については海上挺進第一戦隊長・梅沢裕少佐が、後者については同第三戦隊長・赤松嘉次大尉が隊長命令で強制したとして責任を負わされ、現地は無論、広く我国の言論界、教育界の指弾を浴びてきた。両元隊長は緘黙して謂われなき非難と屈辱に耐えてきたため、自分の家族からも誤解を受けることにもなり、その苦衷はよく筆舌の盡す処ではなかった。併しながら天は決して義人を見放すことはない。

 昭和五十七年六月、沖縄戦当時、座間味村の女子青年団長であった宮城初江さんから、来島した梅沢元隊長に対して「今まで周囲の圧力で自決は軍命令と主張してきたが、実は自分達五人の村代表が隊長に自決を申し出た時、隊長は自決を許可せず、弾薬類の支給を断った。私がその事実を知る唯一の生証人です」との告白がなされたのであった。

 またこれと前後して、沖縄戦の事実を求めて体験者を訪ね歩いていた沖縄の反戦運動家・富村順一氏が梅沢元隊長を往訪、梅沢氏の話を聞いて一驚し、梅沢氏に無実の罪を負わせてきたのは沖縄の恥辱であるとして翻然梅沢氏弁護の活動に入った。その富村氏の街頭演説を偶々聞いたのが神戸新聞の記者・中井和久氏であった。氏は早速梅沢氏に面接取材し、昭和六十年七月三十日付同紙朝刊に、集団自決に「日本軍命令はなかった」との記事を大きく掲載したのである。いずれも勇気ある人々と云うべきであろう。

 そして遂に決定的な告白と謝罪がなされた。昭和六十二年三月二十八日、梅沢氏が座間味島を訪ねた折、戦後座間味村役場で援護係をしていた宮村幸延氏が梅沢氏に対し、「集団自決は当時兵事主任兼村役場助役であった宮里盛秀の命令によるもので、遺族補償受給のため、弟の自分がやむを得ず隊長命令として申請した」旨の詫証文を書いて署名捺印したのである。この証文こそ、梅沢氏無実を示す駄目押しの証拠である。この謝罪も勇気ある決断だ。

 自分が罪を背負うことで座間味の村と人が豊かになることを願い、敢えて自己弁護せず濡れ衣を着て忍苦の人生を送ってきた梅沢元隊長の潔白は、こうした人々の良心と、道義的勇気のある告白や行動の積み重ねによって漸く世間に広く認知される処となってきたのである。

 

◆隊長命令を否定する人々――渡嘉敷の場合
 他方、渡嘉敷島についてはどうであろうか。『ある神話の背景』にまとめられた曽野綾子女史の取材記録の何処を押しても隊長命令で集団自決が行われたとの結論は出て来ない。

 また赤松隊長の副官と云われていた知念朝睦本部付警戒小隊長(少尉)や、唯一人の渡嘉敷島駐在巡査であった比嘉(旧姓安里)喜順氏の証言は軍命令のなかったことを明確に語っている。更に現在、渡嘉敷村民俗歴史資料館長である金城武徳氏は、当時数え年十五歳であったが、集団自決の現場に居て状況を鮮明に記憶している。集まった住民を前に自決を呼びかけ、「天皇陛下万歳」を唱えたのが古波蔵惟好村長であったこと、手榴弾不発で死に切れなかった人々が赤松隊長の処に赴いて機関銃を所望したのに対し、隊長は「早まったことをしてくれた」と残念がり、機関銃貸与を断ったことなど、金城氏は当時の現場を知る語り部として赤松氏の無実を訴え続けている。右の証言だけからでも、隊長命令のなかったことは明白であろう。タブーを怖れぬこれらの人々の勇気ある証言も道義的見地から高く評価されねばなるまい。

 

◆敢えて沈黙を通した赤松元隊長
 集団自決を軍命令によるものとしたのは『鉄の暴風』(沖縄タイムス社。初版発行は昭和二十五年八月十五日)が最初だが、その執筆者達は戦後沖縄に帰ってきた人達で、集団自決発生について直接の知識も体験もない。彼等は住民から聞き集めた断片的な話を反日反軍思想で軍命令の話に作り上げたに違いない。その確拠のない軍命令説が動かし難い公的見解として流布し定着した事情は何であろうか。それは座間味の場合と同様、遺族補償の関係である。


 

 『ある神話の背景』に出てくる赤松元隊長の発言を注意深く読むならば、赤松氏自身、遺族補償のために集団自決が軍命令とされたことを昭和四十五年三月の段階で承知していながら、敢えて村民への配慮から沈黙を守ったらしいことが看取される筈だ。筆者自身、平成十年に昭和史研究所の調査で渡嘉敷島を訪れた際にも、軍命令説は援護金受給のために作り出されたものらしいとの風聞のあることを知った。座間味で遺族補償申請のために集団自決が軍命令とされたのと同じ事情が渡嘉敷にもあるに違いないと推断した筆者は、平成十四年から翌十五年にかけて再三、遺族補償申請資料の閲覧希望を渡嘉敷村役場に申し出たが、好意的な対応に接することは出来なかった。また平成十五年三月には厚生労働省援護課を往訪、援護法による遺族年金支給の経緯と「軍命令」の実否に関する援護課の認識について質し、遺族補償も十分に行われてきた今(各遺族年額約二百万円の年金)、軍命令が遺族補償支給のための行政的便法であったことを認めて軍と軍人の名誉回復への道を開いたならば八方円満に解決するのではないか、と見解を質したが、軍命令の実否という「歴史的事実」についての言及は得られず仕舞いであった(詳細は、中村粲著『教科書は間違っている』日本政策研究センター刊。昭和史研究所『昭和史研究所會報特別版』)。

 

◆「私が軍命令を創作した」
 併しながら、座間味の場合と同じく、渡嘉敷にも決定的な証言者が出現した。那覇市の照屋昇男氏が軍命令は「創作」であったとの重大証言をしたのである(平成十八年八月二十七日産経新聞)。

 かつて琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員であった氏は、アンケートや聞き取り調査で援護法適用の資格の有無を調べた処、聞き取り調査をした百人以上の渡嘉敷島民の中に集団自決が軍命令だと証言した者は一人もいなかったと断言する。社会局長と共に厚生省援護課に島民の窮状を訴えて援護金支給を陳情したが無理だった。だがついに厚生省は軍命令があれば援護金を支給することを認めてくれたと云う。

 喜んだ玉井喜八村長(当時)が赤松元隊長を訪ねて事情を話した処「村を救うため十字架を背負う。隊長命令とする命令書を作ってくれたら押印してサインする」と云われた。そこで照屋氏等が「住民に告ぐ」とする自決命令書を作成したと氏は語っている。

 併しさすがに赤松元隊長も余命三ヶ月となった時、玉井村長に隊長命令という部分の訂正を要請してきたと云う。赤松氏に対する誹謗を見聞するたび、照屋氏は「胸に短刀を刺される思い」だった。元隊長の苦悩を察し、良心の呵責に耐えかねて、氏は遂に軍命令否定証言を公けにしたのであり、真に勇気ある行動と称えたい。とまれ、これによって座間味の梅沢元隊長、渡嘉敷の故赤松元隊長による集団自決命令が援護金受給のための「創作」であったことの鉄証が出そろったことになる。教科書から軍命令の記述が削除されたのは当然すぎる話である。教科書は生徒達に真実を教えねばならないからだ。

 

◆「防衛隊」を「日本軍」と歪曲するNHKの詐術
 処が軍命令を削除したこの検定を面白く思わないのがNHK。六月二十一日放送〈クローズアップ現代〉「“集団自決”62年目の証言~沖縄からの報告~」は右検定に対するNHKの敵意の表出と云ってよい。

 番組は冒頭で云う。軍命令削除の検定に対して沖縄では強い怒りと抗議の声が上がっている。その中で「体験者からの聞き取り調査が始まって」おり、「日本軍によって住民が自決に追い込まれていった状況が浮かび上がってきた」とのナレーションが流れる。更に「なぜ文部科学省は突然書き換えを求めたのか」と尤もらしく問題提起をしながらも、それについては現在係争中の「沖縄集団自決冤罪訴訟」原告の一人である梅沢裕氏の短い発言を流すだけで、原告団に提訴を決断させた数多くの証言や事実解明の経過には全く触れない。実はそれこそが軍命令不存在の証明なのであり、また文科省が軍命令記述の修正を求めた根拠であるにも拘らず、である。それ故視聴者は、文科省は元隊長の個人的感情にのみ依拠して軍命令記述を修正したかの如く錯覚する。これは今回の検定には客観的根拠がないとの印象を視聴者に与えるための欺瞞的番組編集手法と筆者は断ずる。

 番組が、軍命令存在の“証言”として再三流すのは「日本軍から手榴弾を渡されて自決を強いられた」との言葉である。だが、この中の「日本軍」というキーワードに重大なごまかしがある。住民に手榴弾を渡して自決を勧めたのは地元出身の防衛隊員で、戦隊所属の日本軍将兵ではない。防衛隊とは兵役法による正規兵ではなく、現地在郷軍人会が結成した義勇兵で、軍装も不統一、階級章も付けていない。軍とは別に、家族と共に起居していた。村民と常時接触していたのは、この防衛隊だったのだ。

 家族や村民と生活を共にしていた防衛隊員が、戦闘用に二個ずつ支給されていた手榴弾を勝手に自決用として家族等に配布した場合もあった。防衛隊員も日本兵のうち、と単純に考える住民は、それを「日本軍」による自決の命令あるいは指示と誤解したに違いない。NHKはそのような誤解をいいことに、軍命令を示す住民の“証言”として強引に押し通してしまっている。そうではないと判っているくせに、防衛隊=日本軍という拡大解釈で日本軍による自決命令という“証言”を作り出したこのNHK番組は正に言語詐術と欺瞞の見本である。本稿で紹介した沖縄の人々の様々な軍命令否定証言、援護金目的の軍命令創作証言はただの一つも出てこない。この怖るべき偏向番組の狙いはその言論暴力で今回の検定方針を撤回させ、軍命令を復活させることにあると私は見る。


〈『明日への選択』平成19年8月号より転載〉

 

■水掛け論の決着には一枚の文書・詫び状が・・・■

人間社会に争いは付き物である。 中でも「言った、言わない」の決着には、証言、証拠を準備せねばならず、一筋縄ではいかないのが世の常である。

一旦謝罪をしておきながら、後に都合が悪くなり前言を翻し、「謝罪した覚えがない」と開き直られると、「詫びた、詫びない」の水掛け論となる。

だが、そこに一枚の自筆捺印の「侘び状」があれば、水掛け論は一件落着する話である。

裁判の証拠物としても自筆捺印の書類が有効であることは論を待たない。

日本のお役所は書類重視主義である。

 

(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編著 PHP研究所)より)

「宮村 侘び状」の画像検索結果

 

                    ◇

この「侘び状」を自筆捺印して書いた宮村幸延氏は、後に「泥酔させられて書いた」ので記憶にない。従って無効であると主張し判決もその主張を認めた。

もしこの「侘び状」を有効と認めたら、援護係りの宮村氏は死んだと思われていた梅澤隊長の命令を、30数年間もの間偽造し、「公文書偽造」、「公金横領」を島ぐるみで行ったことを認めたことになる。

どんな理由を見つけてでもこの「侘び状」の内容を無効にする必要に迫られた宮村氏と村当局は、苦肉の策で「泥酔云々」と強弁し、それはめでたく判決で認められることになる。

同じく、この「侘び状」の存在で当初衝撃を受けた沖縄タイムスは、「侘び状の無効化」で座間味村当局と共同戦線を張る。

 

 


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改定版・究極の転向者・冨村純一、車椅子で梅澤氏を応援

2019-08-25 08:10:55 | ★改定版集団自決

 

狼魔人日記

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■究極の逆転向者ー富村順一■

前回、極左作家富村順一氏の恐喝に屈して『鉄の暴風』の記事を人目を避けるように削除した沖縄タイムスは、その歴史に致命的汚点を残したと書いた。

口止め料として50万円を脅し取った上、タイムスの願いを踏みにじって自著で「削除記事」を暴露し大儲けをした富村順一氏について今回も触れる。

現在大阪西成区に在住の元極左活動家、富村順一氏は、「大江・岩波”集団自決裁判”」には不自由な車椅子の体を押して大阪地裁まで来て、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。

左翼に襲われ車椅子生活に!

それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。 

富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。

富村氏は、左翼集団の暴力により、手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。

■富村氏が極左作家になった経緯■

富村順一氏は1930年5月3日、沖縄県国頭郡本部に生をうける。生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。

15歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。

以後全国を放浪するがその間も犯罪を繰り返し、各地の刑務所の出入獄をくり返す。

1970年7月8日、「70年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。 

その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。

「日本人よ、君たちは沖縄のことは口をだすな」

「天皇は第二次世界大戦で300万人を犠牲にした責任をとれ」

「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」

結局、逮捕、起訴され、懲役3年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成され、獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄」(富村順一著 拓植書房 1972年)として出版されることになる。

出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそり、この類の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。

ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。

<○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁~35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。

○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。

○送りガナはあえて統一しませんでした。

○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。

○原文中、「   」の部分を傍点をつけ、「    」をはずしました。>

支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。

同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続け、沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。

富村氏の著作を拾ってみても沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。

『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書 

『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。 

『沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。 

『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。 

『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。 

『皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。 

『最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。 

『十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。

『富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。 

『もう一つのひめゆり部隊 -戦後沖縄の売春婦-』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。  

 『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。  

 『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。  

                    ◇

富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。

ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い(転載)

毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。

                   *

 
嘗て「東京タワ-事件」というのがあった。1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ-特別展望台(地上250メト-ル)のエレベ-タ-前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ-タ-で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル-テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。
 
私はこの資料を『青い海』大阪編集室で見た。編集長の津野さんから色々来と話を聞かされたが私には関心がなかった。あんなことで世の中が変わるのか、というのが正直な感想であった。大阪でも沖縄でも敬愛する先輩たちが富村裁判の応援に名前を連ねていた。
1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、
また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。
私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)
 
【おまけ】
沖縄タイムス・コラムに掲載された富村順一氏に関する記事。
1973年は沖縄返還の翌年である。
 

1973年6月22日http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tomimura.html

  沖縄タイムス  唐獅子

  意識した熱狂を

 

わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。

60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。

マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。

ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。

先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。

さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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韓国、日韓基本条約の事実上の破棄を検討か?「65年協定の際に議論できなかった懸案をすべて協議しよう」

2019-08-25 07:48:03 | ★改定版集団自決

日韓基本条約は破棄できるか

2019年08月24日 20:30

韓国のGSOMIA破棄は常識では理解できないが、日本の経済制裁に経済で報復できないので、約束を破っていやがらせするぐらいしかないのだろう。日韓請求権協定は韓国大法院の「徴用工」判決で空文化したので、次に考えられるのは日韓基本条約の破棄である。

そういう声は、韓国の与党にも出てきた。朝鮮日報(韓国語版)によると今月、韓国の元統一相、李在禎氏はこう述べて「65年韓日協定体制の清算」を求めた。

今日も私たち国民が日本の侵略と植民支配が残した傷に対してどの謝罪も受けられずにいる最大の理由は、維新独裁政権[朴正熙政権]の屈辱的拙速な韓日基本条約と請求権協定で、最初のボタンを掛け違えたためだ。

もともと日韓条約は、日本でも韓国でも反対が多かった。韓国は日韓併合が国際法違反で無効だという立場から日本の植民地支配への賠償を要求したが、日本は日韓併合は有効だという立場だった。韓国では日韓条約に反対する学生運動が起こったが、それを押し切って1965年に日韓条約を結んだのが朴正熙大統領である。

この背景には、アメリカの圧力があった。60年代にアメリカはベトナムへの軍事介入を強め、韓国は外人部隊としては最大の延べ31万人の兵力をベトナム戦争に派遣した。

日本は「憲法の制約」で兵力を派遣できなかったので、韓国の資金援助で後方支援した。ベトナム戦争の時期に、韓国に導入された外資は合計40億ドル。その半分がアメリカだが、日本は日韓条約で官民含めて11億ドルを供与した。

つまり日韓条約は、ベトナム戦争に韓国人を動員し、その資金を日本が援助する体制だったのだ。これで韓国は世界の最貧国から中進国に飛躍し、これが「漢江の奇蹟」と呼ばれるが、その実態は外需依存の成長だった。

日本では5億ドルの経済協力という意味不明の「つかみ金」を出し、韓国内の資産53億ドルを放棄する日韓条約には反対が強かったが、アメリカの外圧で佐藤内閣が押し切った。

日韓併合が有効か無効かについては、日韓条約の第2条で「[日韓併合条約は]もはや無効であることが確認される」という玉虫色の表現になった。これを日本側は「かつて有効だったが日韓条約で無効になった」と解釈し、韓国側は「もともと日韓併合は無効だった」と解釈した。

このとき未払い賃金などは韓国政府が一括して受け取ることが決まったが、朴大統領はそれを国民にほとんど分配しないで政権内で使ってしまった。それに対する批判を恐れて、彼は条約の内容を国内に説明しなかったため、その後も韓国人が日本政府に対して損害賠償を求める訴訟がたくさん起こされた。

これについては盧武鉉政権が2005年に条約締結のときの外交文書を公開し、個人請求権は韓国政府が責任を負うことを認めたが、このとき慰安婦などを例外にしたことがその後の火種になった。

昨年の「徴用工」判決は、これをもう一歩進め、労働者についても「不法な侵略のもとでの強制動員」の慰謝料は請求権協定の対象外だとした。これは日韓併合がもともと無効だったという韓国の解釈の論理的帰結である。

この判決は請求権協定を無効としたわけではないが、日韓併合が不法な侵略なら、それに対する日本の賠償を明記しなかった日韓条約も不法だから改正すべきだ、という結論に至るのは、あと一歩である。もちろん日本政府は改正交渉に応じないだろうが、韓国がGSOMIAのように一方的に破棄することはできる。

ただ、これが脅しになるかどうかはあやしい。日韓条約を破棄して国交断絶すると、韓国は北朝鮮のように貿易も旅行もできない国になる。その経済的損失は、韓国のほうが日本より圧倒的に大きい。

日韓請求権協定で日本が放棄した韓国内の資産の所有権も、原状回復しなければならない。1965年に日本が放棄した資産53億ドルは韓国のGDPの1.7倍だったので、今なら250兆円ぐらいだ。

日韓条約を破棄すると日韓地位協定も無効になるので、韓国内の日本人も日本国内の韓国人も国外追放できる。地位協定にもとづいて日本で特別永住権をもっている在日韓国人も、すべて永住権を失う。

どう考えても、韓国の失うものがはるかに大きい。これがさすがの文在寅大統領も日韓条約の破棄に言及しない理由だろう。それをいうと韓国内で「破棄しろ」という世論が巻き起こって、止められなくなるからだ。

それなら日本から「そんなに日本が嫌いなら日韓条約を破棄しましょうか?」と言ってみたらどうだろうか。政権が言うわけには行かないから、自民党議員がポロッと「失言」してもいい。韓国のマスコミが反応したら、文在寅政権はあわてて火消しに走るだろう。火が消えないと、とんでもないことになるが…


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改定版・沖縄タイムスを恫喝した男、富村順一・沖タイの執筆者

2019-08-24 01:27:23 | ★改定版集団自決

 



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■恐喝された沖縄タイムス■

沖縄在住の芥川賞作家目取真俊氏が自身のブログで、「大江・岩波集団自決訴訟」の判決文を誇らしげに引用し、『うらそえ文藝』に掲載の上原氏の発言を批判して「裏事情を知っているだけで、判決文も読まないものが口出しをするな」といったニュアンスの文を書いている。

『鉄の暴風』を訴えなかった理由

ところが判決文では触れていない「裏事情」を、これ以上発言されると一番困るのは沖縄タイムスであり、その意味では同じ立場の目取真氏も困るはずだ。 

そこで目取真氏は沖縄タイムスの意を受けて星、上原両氏に、判決文全文を読んでいないことを盾に、これ以上の発言を封じようと画策していることは容易に想像できる。

目取真氏は、沖縄タイムスが富村順一氏に恐喝され50万円支払ったことを、大した問題ではないといった書き方をしている。

だが、これこそが大問題なのだ。

富村氏の恐喝は、沖縄タイムスが『鉄の暴風』の記事のデタラメな記事を指摘したに過ぎず、沖縄タイムスにとって二つの意味で大きな汚点になる。

いや、新聞社としては致命的ともいえる大きな打撃でもある。

先ず恐喝した富山氏は、過去に沖縄タイムスから著書を出版したり寄稿をしていたタイムスにとっては重宝な「識者」言われる左翼作家であること。

そして恐喝の理由が、問題の書『鉄の暴風』の記事削除であり、沖縄タイムスは実際削除に応じたこと。

恐喝を受けた当事者の新川明氏(元沖縄タイムス社長)が、「うらそえ文藝」の当該記事を見て立腹し、何らかの対抗手段を打つと息巻いていたが、結局この事件(50万円恐喝)には沖縄タイムスOBを含む複数の証言があるというので、問題化することを諦めたと聞く。

そして脅し取った50万円(当時の50万円は現在の数百万円に相当)は、当然タイムス社からの出費だが、その出金名目は「原稿料」とした、という生々しい証言もある。

さらに恐喝した当人の富山氏が78歳の高齢ながら当時は(現在は故人)大阪でお元気であることも沖縄タイムスが対抗手段を打つことなく沈黙を守る理由だという。

目取真氏はタイムスが恐喝されたことの真偽を同社に問い合わせ、それが事実だと知って愕然としたのではないか。

そこであのような目くらまし記事を書いて「沖縄タイムスが恐喝に屈した」という「うらそえ文藝」の告発を、「矮小化」(左翼の得意の表現)し、星、上原両氏のこれ以上の発言を封じ込めようとしているのではないか。

まさに、沖縄版・言論封殺魔の登場である。

■証言の信憑性■

「集団自決訴訟」の特徴は、70数年前の体験者の証言と、数十年前に彼らに聞き取り調査した人物の記録、という極めて曖昧な要素のある証拠物を根拠に争われているという点である。

しかも数十年前に聞き取り調査に応じた体験者も大半は鬼籍に入ってしまった現在、彼らが残した記録に「思い違い」や「勘違い」などがあったとしてもそれを本人に確認する術はない。

いや、その聞き取りをした人さえ「聞き違い」などが考えられるが、聞き取りした人にも既に物故した方がいて、この問題の検証の難しさを倍化させている。

証言者がその時、その場所にいたからといって、その証言を無条件で信じることは出来ない。

■証言者のバックグラウンド■

アリバイ証言を求める場合、家族や、親族の証言がその信憑性を疑われるように、証言者のバックグラウンドが証言に及ぼす影響を無視することはできない。

ここで「集団自決訴訟」に登場する証人をそのバックグラウンドによって、大きく二つに分けてみる。

①本人または近い親族が「援護金」を受給している証人

②「援護金」とは無関係な証人

この二種類の証人は夫々同じような証言をするという特徴を持つ。

①の証人は金城重明氏や、宮里春子氏、宮村幸延氏のように「軍の命令があった」と証言しているのに対して、

②の証人は宮平秀幸氏のように「軍命令はなかった」と証言している。

通常の刑事裁判ならこの時点で「援護金受給」という経済的バックグラウンドを考慮すれば、①の証言は信憑性に欠けるとして却下されてしかるべきである。

だが、奇怪なことに「集団自決訴訟」では①の証言はほとんどそのまま採用されている。

その一方で、②の「援護金受給」に無関係な人びとの証言はことごとく虚言として却下されている。

■証言者のプラス派とマイナス派■

裁判には集団自決当時、現場にいなかった戦後生まれの学者や関係者も多く登場するが、彼らはその「証言」が経済的、社会的に見て本人にプラスかマイナスかによって二つに分類できる。

①プラス派⇒宮城晴美氏、林博史、安仁屋政昭、大城将保、石原昌家など

②マイナス派⇒照屋昇雄、星雅彦、上原正稔、安里巡査、知念少尉

外にも①の【プラス派】には高校教師から琉球大学教授に駆け上がった、高嶋伸也氏や元県知事で沖縄戦戦記本を多数出版した太田昌秀氏などの大物もいるが、

中でも宮城晴美氏は、那覇市役所の臨時職員だったのが『母の遺したもの』を出版した後、わずか三カ月足らずで那覇市歴史博物館の主査のポストを得た。

その後は女性史研究家の肩書きで新聞その他の団体から講演会等で引く手あまたの地元知名士になり、母校の沖国大では講師を努めていると聞く。 

更には琉球大学に博士論文提出中というから高嶋教授の後釜でも狙おうかというほど社会的にも経済的にもプラス派の代表者であろう。 

おっと、教科書執筆者の高校教師・坂本昇氏なども①の【プラス派】の代表だろう。この方も沖縄では有名人になって沖縄の大学のポストを狙っているとか。

 

一方、②の【マイナス派】の証言者が少ないのは地元のマスコミが証言しても取り上げないせいもあるが、

経済的、社会的にマイナスになるなら、でしゃばって証言するより沈黙を選ぶのは人間の常なので、人数が少ないのも仕方がない。

例えば、戦後早い時期に現地で聞き取り調査をした、照屋昇雄さんなどは、「軍命があった」と証言しておれば地元ではチヤホヤされ、各地で集団自決の重要証人として執筆や講演会などを請われ、社会的にもプラス面が多かったはずだが、「軍命はなかった」と証言したばかりに嫌がらせなどを受けた。 

いや現在も受けているときく。

照屋さんの場合も当然マイナス面ばかりである。

最近『うらそえ文藝』で沖縄タイムスに捏造記事の訂正と謝罪を要求した、星雅彦氏と上原正稔氏が、その後沖縄の文壇から締め出され兵糧攻めに遭っていると聞くが、これも証言したための典型的なマイナス面であろう。

■富村順一・・・・・最大のマイナス派証言者■

もう一人、最大のマイナスを被った証言者がいる。

自ら座間味島を訪問し、聞き取り調査をした結果、これまでの極左的言動から一変し、沖縄タイムスの『鉄の暴風』のデタラメな記事を批判する側に「転向」した富村順一氏こそ、「転向」で最も激しいマイナスを被った人物だろう。

富村氏については改めて詳しくエントリーしたい興味ある人物だが、ここでは概略を述べる。

 

天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こした男

富村氏は、沖縄返還の前年、天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こし逮捕された。 

服役中、彼を支援する左翼弁護団と交した獄中記がベストセラーになり、出所後は「作家」として生計を立てるようになる。 

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「富村順一 沖縄タイムス 東京タワー」の画像検索結果600×484
 

勿論出版物の内容は左翼弁護団が「天皇糾弾・反日・沖縄人」というキーワードでおだて上げたせいか、

『棄民・戦争・天皇』とか『皇軍とアイヌ兵』といったいかにも左翼が喜ぶタイトルで10冊ほど出版するほどの売れっ子作家になる。 

沖縄では沖縄タイムスを始め、出版社と新聞社からの原稿依頼が殺到し、沖縄の知識人・文化人から大歓迎をされ、さらに、各大学、各地で講演することもあった。 

そして沖縄タイムス刊『沖縄にとって天皇制とは何か』(1976。 タイムス選書)の執筆者の一人にもなる。

ところが座間味島で聞き取り調査をしているうちに、『鉄の暴風』の余りのデタラメさが徐々に発覚し、流石の極左が売りものの富村氏も、沖縄左翼の捏造体質にあきれ返ってしまう。 

特に「朝鮮慰安婦と不明死した」と侮辱的に書かれている梅澤元隊長は存命という情報を島の古老から得て、富村氏は梅澤元隊長探索の旅を開始する。

元隊員や多くの人脈を辿って大阪で警備会社の重役をしていた梅沢氏と大阪の梅田で会うことになる。 その頃は未だ『鉄の暴風』には梅沢氏の「死亡記事」が平気で記載されていた。

富村氏の慶良間島取材後に「梅澤生存」を記した『隠された沖縄戦記』をするのだが、その出版年(1979年)から判断して1978年ごろのことである。 

その後30年経って梅澤氏は「集団自決訴訟」の原告の一人になるわけだが、その時は『鉄の暴風』の存在さえ知らなかったようだ。

梅澤氏は、作家というより刑務所を出たり入ったりのヤクザ者といった方が似合う富村氏に梅田の居酒屋に呼び出され、二人は酒を酌み交わしながら座間味島のことを語り合った。

そのとき梅沢氏はこう語った。

「確かに悲惨な島であった。私は自決命令を出していない。 だが、私が自決命令出したとして公表されれば、助かる島の人は一杯いるでしょう。(援護法に該当) またお金も降りるでしょう。それでいいんじゃないでしょうか。もう終わったことです。」

「私は自分が悪者になってもいいよ。座間味は大きな犠牲を出したんだから、自決した人もいる。 私は生きのびて、こうやって生きのびているだけでありがたい。それから考えると、あまり重視する問題じゃない」(富村順一著『沖縄戦語り歩き』拓植書房1995年』)

富村氏は梅澤氏の言葉に大きなショックを受ける。

沖縄の論壇から総スカンを食う覚悟で『隠された沖縄戦』を出版し、沖縄タイムスの歪曲報道を暴露する。

通常のパターンだったら沖縄人が沖縄戦記を出版した場合、沖縄マスコミは揃って宣伝記事を書くものだ。

だが、『隠された沖縄戦』の場合、沖縄マスコミ、知識人、文化人は皆これを黙殺し、沖縄の書店でもこれを販売するものはほとんど無かった。

従って富村順一氏のことを知る沖縄県人は、左翼文化人と古い記者以外ではほとんどいない。

ましてや富村氏が沖縄タイムスに乗り込んで「捏造記事」をネタに恐喝した話など知る人は少ない。(タイムスを恐喝した話は『うらそえ文藝』に詳しい)

何よりも不可解なのは、『鉄の暴風』で「死亡記事」を書かれた「悪鬼のような梅澤元隊長」が生存していることが判明したのだから、新聞にとっては重大ニュースであり一面トップで扱ってもおかしくなかったはずだ。

だが、実際は『鉄の暴風』から該当記事をソッと削除しただけで、タイムスも新報もこの重大ニュースを報道することはなかった。

それ以降、富村氏はあれほどチヤホヤされていた沖縄マスコミからも干されてしまい、多くの出版物も今ではほとんど絶版になっている。

おまけに左翼集団に襲われ重傷を負って車椅子生活を余儀なくされるのだから、富村順一氏ほど「転向」によって損害を被った人物もいないだろう。

富村順一氏は、沖縄マスコミの徹底した黙殺により、沖縄では忘れ去られた沖縄戦記作家であり、元極左活動家であり、そして「転向者」でもある。

従って現在「集団自決」に興味を持つ人でも、その名を知る者は少ない。

『鉄の暴風』から「梅澤死亡」の記事が削除されるのは、出版後30年経過した1980年になってからだが、沖縄タイムスはその年にはどうしても「削除版」を発行せねばならぬ理由があった。

それは、富村氏が削除の件でタイムスを恐喝しただけでなく、前年の1979年発行の自著『隠された沖縄戦』で、梅澤氏が生存している事実を書いて『鉄の暴風』の捏造体質を暴露していたからである。

富村氏が「梅澤生存情報」を使ってどのように50万円を脅し取ったのか。 

おそらくは沖縄タイムスが、「そのうちソッと削除するから、騒ぎ立てないでくれ」と口止めの意味で50万円を支払ったのであろう。

だが、富山氏は50万円を脅し取った上、口止めどころか自著でも暴露して大儲けした。

富村氏も良くやるね。

 

 

 
 
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改訂版・沖縄戦、厚生省に引き継がれた「特別のご高配」(援護法の解釈)

2019-08-23 14:31:10 | ★改定版集団自決


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沖縄の学童疎開船・対馬丸が米軍の魚雷を受け撃沈。8月22日で75周年になる。

今日23日の沖タイは一面トップを含む合計三面を使って大発狂である。

■一面トップ

対馬丸 鎮魂の祈り

撃沈75周年 慰霊祭に550人

■第二社会面トップ

幼い兄に平和誓う

島袋さん、自ら遺影を掲示

■社会面トップ

75年 癒えぬ悲しみ

「戦いは絶対許せない」

対馬丸慰霊祭 生存者ら継承誓う

沖縄戦対馬丸撃沈の記憶の継承という建前に異論はない。

だが、沖縄メディアが沖縄戦を語るとき、他県には見られない特徴がある。

あたかも沖縄戦は日本軍と沖縄住民の戦いだったかのような論調で「残虐非道な日本軍」を執拗に告発するのだ。

対馬丸を撃沈したのは米潜水艦であり、日本軍ではない。

しかし、沖縄2紙が「対馬丸」を報じるときは加害者はあたかも日本軍であるかのような印象報道をする。

曰く「食糧難の当時、口減らしのため学童を強制疎開させた、そのため多くの犠牲者が出た」という印象操作だ。

「石油の一滴は血の一滴」と言われた石油不足の戦時中、戦火を避けるための疎開を悪意に満ちた歪曲報道が沖縄2紙の常道だ。

その一方で敵の米軍は、沖縄住民を解放するため沖縄戦に臨んだという印象報道

沖縄国際大学名誉教授 石原昌家氏t

 沖縄の地上戦突入前、学童疎開は老幼婦女子の避難というより、(1)戦闘の邪魔にならないようにする(2)食料確保のための口減らし(3)明確に示されていないが次の戦闘員確保-という軍事的な戦略として行われた。背景に1937年、日中戦争の本格化の中で改正された軍機保護法がある

 

■援護法と歴史捏造

沖縄戦の真実を追究するといつも行く手に立ちふさがる大きな壁に行き当たる。

「援護法」のことだ。

本来軍人・軍属にしか適用できない同法を当時の厚生省が「拡大解釈」で無理やり沖縄の民間人に適用した。

その善意が逆に「残虐非道な日本軍」と言う神話を捏造した。 軍の命令による民間人の戦争被害は準軍属扱いで同法の適用可としたのだ。 「壕を追い出した」のも日本軍の命令であり、「食糧強奪」も日本軍の命令と政府は「指導」した。

その結果沖縄だけは民間人も援護法の適用を受けるという恩恵に浴した。 

「沖縄県民かく戦えり」で知られる大田海軍司令官が、「県民に対し後世特別のご高配を」と結んだ長い電文は沖縄県民の奮闘をを知る故に、沖縄に対する深い敬愛や同情もあってのことと思われる。

沖縄戦史が歪曲・捏造された原因が「援護法」の「拡大解釈」にあることは、少しでも援護法と沖縄戦の関係を知るものにとってはよく知られた事実である。

「援護法と歴史捏造」について触れた過去記事から選んで引用する。

           ★

「援護法」と「特段の配慮」のカラクリ

2008-06-06

 63年前の昭和20年6月6日。

大田実海軍少将は、沖縄県南部の海軍濠から長文の電文を海軍省に送った。

そして、その最後を次のように結んだ。

「太田中将 電文」の画像検索結果

<沖縄県民斯く戦えり。

県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを。>

打電を終え、大田実海軍少将はその一週間後、現場で自決する。

享年54歳。

なお現場の大田司令官が打電した相手の多田武雄海軍次官は終戦の8年後、62歳で没している。

沖縄戦の現場で県民と共に戦い、県民の蒙った惨状を見かねて戦後の県民の行く末までも心配して打電後自決した大田実少将。

この大田少将に対する県民の態度は冷たい。 

これも地元メディアの影響か。

戦後、日本軍批判の先鋒を担いだ『鉄の暴風』(沖縄タイムス刊)と言う言葉の原型は大田少将の沖縄島は形状が変わるほど砲撃され草木の一本に至るまで焦土と化した」と言う電文に伺い見れる。

「鉄の暴風」で沖縄島の地形を変える程の焦土作戦を行こない無差別に住民を殺戮したのは米軍であることは間違いのない事実。

ところが何故か、戦後この言葉は日本軍人を糾弾するキーワードと化す。

県民は「鉄の暴風」の艦砲射撃で県民を爆撃した下手人の米兵の顔を直接見ていない。

米軍は沖縄住民を日本人から分断する占領方針から、沖縄住民には「優しく」対応するように努めていた。

沖縄住民は、やっと命が助かりほっとした時に、年寄りや子供に手を差し伸べる優しい米兵の顔だけしか見ていない。

艦砲射撃という「鉄の暴風」を吹き荒れさせ、住民を無差別殺戮し、学童輸送船を撃沈させた米兵のもう一つの酷薄な顔を見ていないのだ。

一方、沖縄県民を守れず、食料補給もままならず、痩せこけて、圧倒的物量の米軍の前に醜態を晒した敗残兵としての日本兵の顔を沖縄住民は現場で見ていた。

そしていつしか「鉄の暴風」を実行した米軍ではなく、そういう状況に沖縄住民を陥れた日本軍こそ敵、と言う理屈に一気に飛躍する。

食べ物をくれた米軍は解放軍。

「鉄の暴風」を防止できなかった日本軍は敵軍、という理不尽な論理だ。

その結果が、復帰後続く「物呉ゆしどぅ我御主」、「命どぅ宝」の伝説である。

県民と共に戦い、県民の行く末を案じつつ現場に散った大田司令官と海軍将兵の霊に、

合掌。

参考⇒県民かく戦えり! 大田実少将の遺言

                  *

「沖縄戦 援護法 集団自決」の画像検索結果

 

「援護法 沖縄戦 石原昌家 集団自決」の画像検索結果

■厚生省に引き継がれた「特別のご高配」

大田少将の電文の遺言ともいえる「県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」は、厚生省に引き継がれ、

「沖縄の特殊事情」或いは、「沖縄に特段の配慮を」

と形を変えて戦後の沖縄のいろんな場面に登場する。

意味は全く違うが、最近でもこんな例もある。

「沖縄に特段の配慮」 唯一県名挙げる 国民保護方針(2005.3.27)

                      ◇

■「特段の配慮」による「援護法」の民間適用■

大田少将の遺言は、厚生省の本来軍人対象の「援護法」を沖縄住民へ適用するという形で姿をあらわす。

日本政府は「1952年(昭和27年)6月、米軍占領下の沖縄に政府出先機関である南方連絡事務所を設置する。 今でいえば沖縄開発庁の先駆けのようのものである。

そして教職員組合と遺族会の強力な後押しによって、琉球政府でも翌53年4月に援護課を設け、援護法と恩給法に基づく復員処理事務に着手することになる。 

54年には琉球政府職員照屋昇雄さんが援護課に異動配属となっている。

慶良間島の「集団自決」に関しても、村役場の総務課が地元の窓口となり、総務課長の宮村幸延氏が「援護法」の住民への適用のため奔走する。

「援護法」は講和条約発効直後の1952年7月に制定されたが、沖縄には1年遅れて適用が制定された。

■「軍命」の持つ意味の変化■

「集団自決」は、1952年(昭和27年)前後から、その持つ意味に変化が起き始める。

「集団自決」が軍命令であるという記述は1950年(昭和25年)に発刊された『鉄の暴風』に見られるが、

それまでの「軍命」は、「援護法」のための口裏あわせというより、親族や縁者を手にかけた生存者が、遺族の糾弾や贖罪意識を逃れる為、「軍命でやむを得なかった」という言い訳のための「軍命」だった。

つまり生き残った者が、死んだ相手や世間に対して言い訳するための「軍命」であった。

少なくとも、当時の座間味村助役の山城安次郎氏が、「渡嘉敷島の赤松の暴状」を訴えて沖縄タイムス大田記者の取材を受けた昭和25年前後には、

「集団自決」の「軍命」は援護法のためというより、むしろ死者へ対する贖罪意識のために必要だった。

ところが、琉球政府援護課や村役場の担当課が、厚生省援護課と交渉していく過程で「集団自決」の「軍命」は別の意味を持つようになる。

元来「援護法」は「復員処理」の目的があり、対象者は戦地での戦死者か外地からの引揚げ者で、しかも対象は軍人・軍属と限られていた。

そこで琉球政府援護課と村役場が、地上戦が行われ戦場となった沖縄に「特別の配慮」をするようにとの運動を展開する。

だがこれには問題が生じてきた。

たとえば、本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならず、沖縄の一般住民に「特別の配慮」をした場合の齟齬が問題になったのだ。

日本政府は「政令」を連発するという非常手段でこれを乗り切った。

政令とは、行政府の命令のひとつで内閣が制定する成文法のことで、行政機関が制定する成文法である命令の中では優劣関係で最も高い位置づけになる。

日本政府は復員事務を処理する必要から、沖縄本島を中心とする南西諸島は政令で「戦地」と認定した。

元々軍人・軍属を対象にした「援護法」を沖縄の民間人に適用させるために政令を連発したが、それでも足りない場合は「援護法」の拡大解釈を行った。

一例を挙げると、地理に不案内な軍に道案内をした場合でも、結果的にその住民が戦死しておれば、「軍命」とされ「準軍属」扱いで遺族は年金の対象になった。

軍の命令というお墨付きが付けば「集団自決」は勿論のこと、他にも「食料供出」や「漁労勤務」という名目でも「準軍属」扱いとなった。

かくして、1983年には軍の命令が理解されるとは思われない0歳児から6歳までの幼児も「準軍属」扱いとされるようになる。

 ■宮村幸延総務課長の奔走■

座間味島の助役で、事実上「集団自決」を命令したとされる宮里盛秀氏の弟で、戦後村の総務課長として「援護法」の適用に奔走した宮村幸延氏は、この0歳児以下の適用に功績があったとして村で表彰されている。

ちなみに宮村氏は梅澤元隊長に「侘び状」を書いていながら「酔わされて書いた」として前言を翻した人物である。

また、昨年の法廷尋問のわずか一ヶ月前に証言して、宮城晴美氏の考えを変えた宮平春子氏は宮里盛秀、宮村幸延両氏の妹である。

「集団自決」に「軍命があった」ということは「事実の如何」を問わず、戦後の村にとっては、どうしても押し通せねばならぬ真実を超越した、必要欠くべからざる「証言」であった。

宮平春子氏の証言「動画」
⇒ 『日本軍の強制による集団自決 はあった!』証言2.3.4

 

■本土と沖縄の齟齬■

本土の場合、東京空襲や広島、長崎の原爆で死亡した一般市民の場合は援護法の対象にもならなかった。

一方、沖縄の一般住民は「特別の配慮」で援護法の対象になった。

静岡県浜松市在住の上原宏日本戦災遺族会理事長は、本土における一般戦災者に補償がない点を、

沖縄タイムスの取材に答えて次のように語っている。

戦闘参加者とは誰か](18) 
日本戦災遺族会 
一般戦災者に補償なし 
被害の規模が実現阻む

太平洋戦争で、日本の各都市が空襲に襲われ、一般被災者約五十万人が犠牲になったとされる。その補償を求めて、一九六六年に「全国戦災死没者遺族会連合会」が結成された。七七年には「日本戦災遺族会」と名称を変更、事務局を東京都千代田区に置き、現在全国二十地域に約二千人の会員がいる。 
 理事長の上原宏さん(84)=静岡県浜松市=は、浜松市戦災遺族会の会長を務める。 
 浜松市は、多数の軍需工場や軍施設が集中していたため、米軍の空襲が反復して行われ、約三千五百人もの死者が出た。上原さんは、この空襲で女学校二年生だった妹を自宅の防空壕で亡くしている。「空襲は、非戦闘員を狙った消滅作戦だった」と憤る。 
 一般被災者の場合、戦時中は「戦時災害保護法」で、住宅焼失は三百五十円、負傷は治療全額補償がなされていた。ところが、戦後、一般被災者への補償はなされていない。日本の戦災補償は、軍人軍属を補償した援護法が軸になってきたからだ。 
 援護法は、国との雇用関係が前提。しかし、法運用の中で、対象の「軍人軍属」の枠は次第に拡大されてきた。五八年に沖縄戦の「戦闘参加者」、全国でも五九年「学徒動員」、六三年「内地勤務軍属」、六九年「防空監視隊員」など。 
 そうした流れから、上原さんは「最後に残ったのが一般戦災者だ」と強調する。「現状は、けがの状態から、障害福祉年金などを受けている。しかし、それはけが人としての補償である。戦争による同じ『死』でも、差があるのは納得いかない」 
 また、上原さんは「私は一般被災者は約八十万人とみている。空襲時の戦死だけでなく、その後に戦病死、戦傷死が続いたからだ」と指摘する。この一般被災者の被害の多さが、補償が実現しない要因でもある。 

 連合会の前身「全国戦災死没者遺族会連合会」の時代、戦災各都市での慰霊行事への国費支出、弔慰金支給を国会と自民党に要望した。しかし一般被災者への弔慰金支給は実現していない。 
 連合会が七七年に社団法人化した時に、一般戦災者の戦災実態の調査研究、慰霊行事や慰霊碑の管理などを主に掲げ、補償要求は掲げることはなかった。 

 届かない補償要求。上原さんらが、力を入れているのは、戦争体験の継承だ。自らも、満州(中国東北部)、フィリピンの従軍、マニラへ向かう途中撃沈され、仲間を失った体験を「語り部」として小学生に話してきた。「遺族は高齢化し、消えていく。私たちの体験を伝えるために、会員それぞれが語り部活動をやっている」 
 一方で、「浜松空襲で亡くなった妹のことはつらくて話せない」という。遺族が向かい合う悲しみは戦後六十年たっても、何も変わらない。「遺族は本当は、補償をしてほしい。戦後六十年の節目に、扶助と慰霊を同時にしてほしいんです」と訴える。(社会部・謝花直美)(2005年3月26日 沖縄タイムス)

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改訂版集団自決、援護法と歴史捏造、新たな論戦の出発点

2019-08-20 05:07:36 | ★改定版集団自決

 

 

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「援護法」は元々沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にした。  

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘しできるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも役所は給付したくないように見える。 お役所仕事といわれる所以である。

ところが、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦に限り拡大解釈し軍に協力した住民に適用したときの当時の厚生省は、何とかして給付させたいという善意が働いて、書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見される。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場を指導したのもその一つだが、厚生省側でも沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。

沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である。

当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ。

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) > (沖縄タイムス 2005年3月5日付朝刊)

集団自決における「軍命」は援護金支給のための方便であり、それを指導した援護課の行為は、政府主導の公金横領といわれても仕方がないが、結局一連の政府の指導は「集団自決に軍命はなかった」という証明に他ならない。

           ☆

「沖縄集団自決冤罪訴訟」は20058月5日に大阪地方裁判所に提訴されるが、その5ヶ月前の沖縄タイムスには、「政府主導の公金横領」という「軍命有り派」にとっては不利になるような記事でも正直に掲載していた。

しかもその記事は、後に「軍命のためなら白でも黒と書く」と揶揄される謝花直美記者が書いているのだ。 

当時の謝花記者は、後に集団自決に関わる訴訟が起きようとは夢想もせず、ただ「日本軍が住民を戦闘に巻き込んだ」というイデオロギーを書くため、結果的には軍命論を否定するような記事をかいているのだから皮肉なものである。

 

 

2012年6月17日付沖縄タイムス社会面の最下部のベタ記事にこんな見出しが。

戦いの実相圧殺」

上告棄却に抗議

沖縄靖国訴訟談

16日、原告団が記者会見をして、最高裁の上告棄却に抗議の声明文を出した。

声明では、援護法の適用で被害住民も「積極的戦闘協力者」に仕立て上げ、沖縄戦の実相を捏造して合祀に結び付けていると指摘。合祀を容認する司法の判断は、憲法が保障する人権を無視し、民主主義を根本から否定する暴論だと批判した。2歳の弟ら家族4人が合祀されている原告の安谷屋昌一さん(72)は「合祀を強制され、個人の信仰心は受け入れられないなんておかしい」と批判。母親が合祀されている崎原盛秀さん(78)は「沖縄戦の実相を無視した沖縄差別だ」と談じ、今回の裁判で得た資料を分析して「靖国の本質を暴き。合祀取り消しに向けた運動につなげていきたい」と語った。>

ここでも「ゆすりたかり」の常套句である「沖縄差別だ」がでてくるのは爆笑もの。

民間人の援護金受給は、沖縄県民のみであり、東京空襲などによる膨大な数の民間人戦没者は援護金の対象外である。

家族四人分の援護金を受給していながら、どの面下げて「沖縄差別だ」などと発言できるのだろう。

いつもならマイクに向かって「不当判決」などと蛮声を張り上げる原告団代表の金城実氏の怒りのコメントがないのが寂しいが、そもそも金城氏と上記の安谷、崎原両氏とは同じ原告でも立場が違う。


父親の戦死を「犬死」と罵る金城実氏

安谷屋、崎原両氏は軍属でない母親や幼い弟が合祀されているので、石原教授が主張する「国の歴史捏造による不適格者の合祀」に相当するが、金城氏の父親は兵隊として招集され戦死しているので、本来靖国に祭られるべき適格者ある。

金城氏は戦死した父親の援護金を受け、京都にある私立の美術大学を卒業している。 

美術大学が文系大学のなかで一番金のかかる大学であることはよく知られたこと。

援護金のおかげで金城氏は恵まれた学生生活を送ったことになる。

金城実氏はその父親の援護金を享受しながら、一方では父親の戦死を「犬死だ」と罵って原告団の先頭に立ったわけだから、両親とも草葉の陰で「親不孝もの」と嘆いていることだろう。

関連して、安仁屋正昭さんのコメントを引用する。

先ずは、名前に恥じない働きで、老人たちを焚きつけ訴訟を起してくれた金城実氏と
学者魂で援護法のカラクリを暴露してくれた石原先生に感謝しながら
「御愁傷様です」と御礼を述べたい

沖縄靖国訴訟についての新聞論調が見られないので、テレビ報道を資料として「保存しておく。

沖縄靖国合祀訴訟 遺族の敗訴が確定

NHKニュース 6月15日 16時42分

太平洋戦争の沖縄戦などで犠牲になった肉親が無断で靖国神社にまつられ、精神的な苦痛を受けたとして遺族が神社への「合祀」の取り消しなどを求めた裁判は、最高裁判所で遺族の上告が退けられ、敗訴が確定しました。

この裁判は、昭和20年の沖縄戦などで亡くなった戦没者の遺族5人が「家族を靖国神社に無断でまつられ、肉親を自由に追悼する権利を侵害された」と主張して、靖国神社のほか、神社に戦没者の名前を提供した国に、合祀の取り消しと慰謝料の支払いを求めたものです。
1審と2審はいずれも、「合祀を受け入れられないこと自体は理解できるが、悼を妨げられたり、神社の信仰を強制されたりしておらず、権利の侵害とはいえないなどとして訴えを退け、遺族が上告していました。
これについて最高裁判所第2小法廷の竹内行夫裁判長は、15日までに上告を退ける決定をし、遺族の敗訴が確定しました

              ☆

原告:「家族を靖国神社に無断でまつられ、肉親を自由に追悼する権利を侵害された」

判決:「追悼を妨げられたり、神社の信仰を強制されたりしておらず、権利の侵害とはいえない」


靖国合祀取り消し訴訟 上告棄却・遺族の敗訴確定 QABテレビ

家族が靖国神社に無断で祭られているのは精神的苦痛だとして、遺族らが合祀取消などを求めている裁判で、最高裁判所は、2012年6月13日付けで遺族らの上告を棄却しました。

遺族の敗訴が確定です。遺族側は裁判で、無断で合祀したことは追悼の自由の侵害であり、国の情報提供は政教分離の原則に反すると主張。しかし2011年の控訴審判決で遺族の主張は、「神社の教義及び宗教的行為そのものを否定することに繋がりかねない」として棄却され原告が上告していました。

原告側弁護団によりますと、「上告理由に該当しない」として上告を棄却する決定書が14日、届いたということです。弁護団の山城圭事務局長は、「最高裁は靖国神社による遺族の苦しみを是認し、合祀に協力した国の責任を認めなかった」と強く抗議しています

              ☆

原告:「追悼の自由の侵害であり、国の情報提供は政教分離の原則に反する」

判決:「神社の教義及び宗教的行為そのものを否定することに繋がりかねない」

              ☆

最高裁の上告棄却で原告の敗訴が確定し、沖縄タイムスや石原教授、金城実氏などが戦意喪失した様子だが、沖縄靖国訴訟は終結しても石原教授が火を点けた「援護法のカラクリ」の解明は終わったわけではない。

援護法に絡む「集団自決」の軍命論争は、終結どころか新たな出発点に立ったばかりである。

石原教授の論戦への復活を期待したい。

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改訂集団自決、続・石原教授の二枚舌、[戦闘参加者とは誰か](6)

2019-08-19 07:32:54 | ★改定版集団自決

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昨日の記事で沖縄戦の研究者と自称する石原昌家沖国大名誉教授を、集団自決に関し二枚舌の言動をしていると批判した。

沖縄戦の学者を実名を挙げて二枚舌と批判したのだ。

過去にも、何度も実名で批判している。

援護法のからくり?、悪意の解釈と善意の拡大解釈 2011-04-06 

だが、以前から一度の反論もない。

筆者の指摘は事実だから。

念のため核心部分を再度引用しておこう。

■石原昌家氏の二枚舌■

集団自決の軍命論争ではいろんな場面で沖縄の識者たちがカメレオンのようにくるくると自説を変えていく例が多い。これを一々論じていたら一冊の本が出来るくらいなのでここでは深く立ち入らないが援護法の研究者を自認する石原昌家氏の立場は微妙である。

石原氏は「集団自決訴訟」では被告・大江、岩波側を支援し、軍命はあったと主張する。

石原氏は「集団自決」という述語は「強制集団死」と呼ぶべきだと主張し、述語の中に軍命を意味する「強制」を使うなど、徹底した「軍命派」である。

その一方で、沖縄靖国訴訟では原告の遺族側の証人に立ち、「軍命は政府側が住民を靖国に祭るためのに指導した方便」という意味の証言をして、結局は軍命が「政府によって偽造されたもの」(軍命否定)といった自己矛盾の発言をしている。

つまり政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と偽って申請するように示唆したというのだ

もっと具体的に言えば、石原氏は自分の体験も含めて、援護法申請書に「実際はなかった軍命による自決」と書いて出せば、援護金をもらえたと証言しているのだ。

 

 石原昌家沖国大教授「援護法に適用されることが結果的に(沖縄戦をゆがめないと)適用されなかった」

「石原昌家 沖縄国際大学」の画像検索結果
QAB 琉球朝日放送

昨日述べた「援護法」に絡んで「沖縄靖国訴訟」で原告住民側の証人として証言台に立った、石原昌家沖国大名誉教授の「致命的証言」について説明しよう。

先ず援護法の概略を知る参考に、古い沖縄タイムスの記事を引用する。

沖縄タイムス 2005年3月4日 朝刊30面>

[戦闘参加者とは誰か](6) 
申請 
「救えるものは救おう」 
役場職員も事務研究

 一九五七年、厚生省は、沖縄戦で亡くなった一般住民のどのような行動が「戦闘協力者」として、該当するかを調査した。その後、実際の受け付け業務は、琉球政府から委託され、各市町村役所が担当した。

 申請の過程でも、援護法が「軍への協力」を前提としていたため、そのことが、強調されていくこととなった。

 長嶺秋子さん(70)=糸満市=は五三年、兼城村役場(当時)の初代の援護係に着任し、その後八年間担当した。

 援護法の申請手続きは、兵隊や現地召集の防衛隊など軍人軍属が先だった。

 「軍人の場合は、政府から一次名簿というのが届いていた。しかし、戸籍がなく、仮戸籍で受け付けた。防衛隊の場合は名簿もないので、各字を回って、誰が隊員なのかを申告してもらった」

 地域の公民館に机を置き、住民が申請に来るのを待った。「援護金の支給があると言っても、なかなか信用してもらえなかった。『戦争のことは思い出したくない。辛いことを思い出すからやりたくない』。そんな声が聞こえてきた」と振り返る。

 その後に、一般住民が対象となる「戦闘参加者」の申請が続いた。

 申請には、戦没者氏名、生年月日、死亡月日、死亡場所に加え、どのようにして亡くなったかを記した「戦闘参加概況書」を添付する必要があった。

 職員は、概況書を基に、「戦闘参加者」の基準となる二十項目、「義勇隊」「直接戦闘」「弾薬運搬」「戦闘協力者」などの、どれに当たるのかを判断した。

 申請は、琉球政府を通して、厚生省援護局未帰還調査部に送付。厚生省は、添付資料を基に、「戦闘参加者」に「該当」するのか、否かの審査をした。その結果を「戦闘参加該当予定者名簿」として、市町村に送り返され、該当遺族に通知が送られた。

 厚生省へ送付される「戦闘参加概況書」では、住民が協力した、軍隊の部隊名も特定する必要があった。住民の立場からすると、混乱した戦場での正確な記憶が求められるのは、土台無理な話だった。しかし、書類はそれを要求していた。

 結局、申請を受け付けた役場職員が、日本軍の作戦状況を把握して、日時場所から、部隊名を記入することもあった。

 市町村の援護課職員は事務研究の連絡会をつくり「戦闘概況」について、どう記せばいいのかを検討し、連携したという。長嶺さんは「琉球政府の方針も、沖縄は復帰できるかも分からない、援助できるものは援助しようということでした」と振り返る。

 同村役場三代目の援護課担当だった大城美根子さん(62)は六五年に着任。当時の業務は、「戦闘参加該当予定者名簿」の中から、「『非該当』の人を『該当』となるように救うことだった」と振り返る。「沖縄戦で亡くなった人たちが、救えないのはおかしい。亡くなった人たちは、皆『戦闘協力者』だと思っています」と語る。(社会部・謝花直美)

                          ☆

集団自決を巡る沖縄2紙の「言論封殺」は慶良間島の集団自決の真相にターゲット絞っており、集団自決は「援護法」に大きく絡んでいる。

簡単に言えば本来軍属にのみ適用されるはずの「援護法」を政府主導で強引に沖縄住民に適用するように政令を発して特例を設け、住民の中の「戦闘参加者」を適用対象としたのである。

「援護法」の申請の流れはこうだ。

住民(遺族)⇒各市町村の援護課⇒琉球政府⇒厚生省援護局

そして各担当部門で出来るだけ「『非該当者』を『該当者』となるように救う」という思惑が働いた。 昨日紹介したように厚生省側でも祝嶺さんのような沖縄出身者を担当職員に配置転換し出来るだけ「援護法』の適用させるように指導した。

当初は市町村の窓口でも申請書の記入などに不慣れな職員が多く、多くの申請書が厚生省側から突き返されたという。 だがそれには厚生省側の「受理されるノウハウ」の指導が付いており、結局要領を掴めば簡単に「戦闘参加者」として受理れ援護金支給の対象となった。

政府(厚生省)、琉球政府、各市町村の三者が「出来るだけ受理する」という思惑で動けば、その申請手続きの過程で、どうしても該当しない申請者に虚偽の申請をするものが出てきても、見て見ぬふりをするどころか、むしろ積極的に「偽造申請書」に加担する者も多かった。 組織ぐるみで加担した場合も多かった

「援護法」の研究者を自認する石原昌家沖国大名誉教授は、申請書を書けない住民に代わって申請書を書く手伝いをしたと語っている。 この石原氏、援護法の研究だけやっておればそれなりの評価をされたのだろう。 だが、沖縄で名声を得るには反日左翼複合体に迎合する必要を感じたのか、イデオロギー丸出しの論調で新聞紙上を賑わし「集団自決」訴訟では被告の大江・岩波側の弁護に回り、「軍命派」の論陣を張った。

その一方で「沖縄靖国訴訟」では原告(遺族)側の証人となって法廷で証言をした際、イデオロギーと研究の狭間でついうっかり自分の現在の立ち位置を見失ってしまい致命的発言をしてしまった。

石原氏は、沖縄戦で犠牲になった住民を靖国に合祀するため政府主導で「軍命による自決」などの「戦闘参加者」を作って援護金を与え口封じした、という趣旨の意見書を提出し、証言台では次のような趣旨の証言を行った。

被告側弁護士:「石原先生の説明ですと、沖縄の遺族の中で援護金を貰っている人の中には本来、もらう資格が無い方々が多く含まれているということですか?」 

石原証人:   「いえいえそうではありません。ほとんどです

被告側弁護士と石原証人との尋問で、石原証人は次のことを証言したことになる。

■石原証言のポイント

1)戦闘参加者という受理条件を与えるために、日本政府がその基準に合うように暗に指導していた。

2)日本軍が住民に命令や要請を受けた時点で国と住民に雇用関係が発生すると考えで、積極的な戦闘協力をした、と指導した。

3)壕の提供は、軍事行動であり、現認承認があれば軍属と認める。

4)厚生省から付き返されることは、結果的に書き換えて受理となった。

5)援護法の実態を解明することは、沖縄戦の事実を引き出すことになる。

               ☆

この証人尋問が、極悪複合体(反日左翼複合体)にとって何ゆえ致命的なのか。

石原氏は別の裁判である「集団自決訴訟」では大江・岩波側を支援し「軍命あり派」の論陣を張ったが、「沖縄靖国訴訟」では、「軍命は『戦闘参加者』を作るための虚偽記入」であり、国がそれを指導したと主張した。 

ということは法廷で軍命は虚偽だったと証言したことになる。

これを世間では二枚舌という。

石原氏の証言に関しては反日左翼複合体の側からも批判の矢が飛んでいると聞くが、結局、石原氏法廷での宣誓の通り、真実を語ったことになる。

真実を語ったため「集団自決」は軍命であるという持論を結果的に否定してしまったのだ。

もっともこの石原氏の致命的証言は、「不都合な真実」は徹底的に隠蔽する琉球新報、沖縄タイムスが報道するはずもなく、法廷記録として残っているだけである。

結局、石原氏の証言を要約すると、援護法と靖国合祀は、住民を死に追いやった戦争責任を回避するための口封じという「恨み辛みの歴史観」になる。

【おまけ】

沖縄タイムス 2005年3月6日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](8) 
東京の目 
援護法での救済に腐心 
「生かされた」責任感じ

 沖縄戦で看護隊として亡くなった女子学徒は、援護法で「準軍属」にあたる。一九五五年、女子師範学徒八十八人に、死亡公報が発せられた。それに基づき、援護法申請の手続きが取られていった。

 申請書類をめくると、女子師範、一高女、寮で一緒だった同級生や下級生の名前が記されていた。審査にあたった厚生省職員の祝嶺和子さん(77)=静岡県=は「寮で枕を並べた友達が、死んでいるんだから。絶対救わなくちゃいけない。そんな気持ちがありました」。当時の悲しみが再び込み上げて、言葉を詰まらせた。

 「でも、それだけやったから、私はね、自分が生きてもね、みんなには『お前は来なかったな』と言われないで済むと思っていました」

 夫、正献さんの生前の口癖は「特攻隊で自分の友達も皆、死んだ。自分らは生き残ったから、国のために何かやれということなんだ」。名護にいた幼少時から空手を学んでいた正献さんは、六三年に空手を基にした武術「躰道」を本土で広めることに努めた。

 「自分は生き残った」という思いを持ち続けた祝嶺さんは、沖縄戦で犠牲になった人々を援護法の対象として救うことに、心を傾けていった。

 一般の住民は逃げ回っていたのではないか。軍人が住民にも一緒に戦えと命令したのか。軍人が「自分たちが使うから、おまえたちは出て行け」と言って、住民を壕から追い出した―。

 「戦闘参加者」として、一般住民の申請書類が上がってきた時に、厚生省で批判的にみる人もいた。

 祝嶺さんは振り返る。「逃げ回っていた人もいたと思う。でも、そういうと沖縄の人が救われない。『戦闘参加者』として参加したんだと、はっきり言った」

 沖縄戦では、住民と軍隊が混在した。三カ月にも及ぶ戦闘の中で、一人の人間の死に至る過酷な体験は問題にされることはない。援護法の適用で、注目されるのは「軍への協力」、その一点だ。

 書類の審査で難しいケースについては、最終的には沖縄戦体験者の祝嶺さんのところに、回ってくるようになった。

 「軍への協力」が必要と、入り口を絞られた書類の上の沖縄戦。戦場で同じような行動をしていても、書き方一つで住民は「戦闘参加者」か、そうでないかに分けられる。

 「事実を書いてあるのだが、書類では通すことが難しい事例がある。だから、ほかはこのようにして通っているのだから、これと同じような書き方でと、そうちらっと教えた覚えはあります」

 「今からいうとおかしいかもしれないが、自分は生かされた。死んだ人はどうしても救わないといけないという、責任みたいなもんがあった。私はただ、沖縄の人を救えばいいという気持ちだった」(社会部・謝花直美)(毎週木―日曜日に掲載)


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改訂版・石原昌家沖国大教授の二枚舌、沖縄「集団自決」否定された軍命! 2015-11-26

2019-08-18 07:26:06 | ★改定版集団自決

 

狼魔人日記

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沖縄「集団自決」否定された軍命! 2015-11-26

 

 2007年9月29日に行われた”11万人集会”の前後、沖縄戦を巡る三つの裁判が行われた。

 

一つは慶良間島の元戦隊長梅澤さんらが大江健三郎よ岩波書店を名誉毀損で提訴した「集団自決訴訟」。 

 

そして靖国合祀の取り消しを沖縄戦の遺族が求めた「沖縄靖国訴訟」と、ドキュメンタリー作家上原正稔氏が有給新報を訴えた「パンドラの箱掲載訴訟」である。

 

ちなみに「パンドラ訴訟」は、第二審で被告の琉球新報が逆転敗訴を喫したが、上告を断念したため、琉球新報の敗訴が確定した。 

ところが沖縄2紙は琉球新報の敗訴確定を一行も報道せず,県民の耳目から隠蔽した。

 

琉球新報の敗訴確定を報じたのは本土メディアだけであった。(【おまけ】参照)

三つの訴訟はそれぞれ原告と被告、そして表面上の訴因は違っているが、実質の争点が沖縄戦であり、さらに論点を絞ると「集団自決と援護法の関係」になるという点では大きな共通項を持つ。

 

慶良間島の戦隊長だった梅澤氏らが大江健三郎氏と岩波書店を訴えた「集団自決訴訟」は最高裁判断で原告側が敗訴しているので、集団自決の「軍命の有無」論争は「軍命説」が確定したと一般には思われている。

 

だが、これは沖縄2紙による印象操作による大きな誤解である。

 

たしかに最高裁で原告側の名誉毀損と損害賠償の請求は敗訴が確定した。

 

だが、最大の争点である「軍命」については被告大江・岩波側は裁判を通じて立証することが出来なかった。

 

「軍命説」を流布させた張本人の大江氏と岩波は法廷で「軍命」の挙証義務があるが、それが立証できなかったため事実上梅澤氏らの名誉回復は確定した。

 

法廷では「軍命説」を立証できなかったが、裁判官は問題の大江健三郎著『沖縄ノート』が出版された当時の歴史研究では、大江氏が「軍命説」を真実として信じても仕方がなかった、という「真実相当性」を適用し、大江・岩波の「名誉毀損」は免責とした。

 

ただ名誉毀損が訴因である裁判で大江・岩波側が勝訴したため、あたかも「集団自決は軍命だった」ということが最高裁で確定したかのような印象操作記事を沖縄2紙が垂れ流し、それに誤誘導された読者が多い。

 

この沖縄2紙の印象操作については、しつこいが何度でも指摘しておく。

 

「パンドラ訴訟」でも原告上原さんが陳述書で強調されているように、集団自決には「援護法」が大きく関わっている。 

 

集団自決の真相を解明しようとすると、その適用を受けるため申請書を偽造したという点に触れねばならない。

 

この援護法の「秘密」を隠蔽しようとする勢力との壮絶な戦いが裁判という舞台で展開されることになるのである。

 

沖縄2紙を筆頭に反日左翼勢力は、「援護法」の」カラクリを必死になって隠蔽しようとしているが、これが結果的には「極悪非道の日本軍人」という歴史の捏造を生み出すことになりる。

 

その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤さんと故赤松さんということになる。

 

上原正稔さんが、琉球新報を提訴した記者会見の冒頭で、梅澤さんと故赤松さんに沖縄県民として謝罪した理由は、すべて「援護法と集団自決」の複雑な関係にある。

 

集団自決と「援護法」の関係を深く検証すればするほど、援護法申請書の偽造などに行き着き、詐欺行為の疑いを持つ人も多い。

 

より直裁的にいえば、援護法申請書の偽造は「公文書偽造による公金詐取」といわれても仕方ない行為である。 沖縄県人の立場としては言い難い言葉だが、筆者はこれまでに何度も「公金詐取」と指摘している

 

■石原教授のトンデモ発言

 

反日左翼の急先鋒であるOABテレビに、石原昌家沖国大教授が出演し、靖国訴訟の援護法関係でこんな意味の発言をしていた。

 

「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」。 

 

だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、裁判では遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言しているくらいである。

 

したがって「本人(遺族)が知らない間に」とは真っ赤な嘘である。 それどころか遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、石原教授は「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無いだろう。

 

ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。(チビチリガマには1人の軍人もいなかった)

 

大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。

 

沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)

 

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■政府主導の「公金詐取」■

 

現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないという。

 

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

 

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈をしたことになる。

 

違法の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

 

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

 

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

 

元々「援護法」は沖縄住民に援護金給付をする目的の特例だったため、当時の厚生省は裏付け調査を省いて、書式さえ整っていたら全てを給付の対象にした。  

 

通常、お役所に何らかの給付金を申請するとき、お役所側は重箱の隅を突っつくように、申請書のミスを指摘しできるだけ給付金を与えないようにする。 少なくとも役所は給付したくないように見える。 お役所仕事といわれる所以である。

 

ところが、本来軍人に給付すべき「援護法」を、沖縄戦に限り拡大解釈し軍に協力した住民に適用した。

 

当時の厚生省は、何とかして給付させたいという善意が働いて、書類の不備を指摘するどころか、今考えればお役所が「偽造申請」に加担したような場面も散見される。

 

 申請書の記入に「軍命」を臭わすように村役場を指導したのもその一つだが、厚生省側でも沖縄出身者を他の部署から援護課担当者に強引に移動させ、同じ沖縄人なら対応しやすいだろうという配慮を示していた。

 

沖縄集団自決に絡む援護金給付が「政府主導の公金横領」といわれる所以である

 

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

 

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

 

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

 

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

 

 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美)

 

                    ◇

 

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

 

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

 

また、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

 

従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

 

■石原昌家氏の二枚舌■

 

集団自決の軍命論争ではいろんな場面で沖縄の識者たちがカメレオンのようにくるくると自説を変えていく例が多い。これを一々論じていたら一冊の本が出来るくらいなのでここでは深く立ち入らないが、援護法の研究者を自認する石原昌家氏の立場は微妙である。

 

石原氏は「集団自決訴訟」では被告・大江、岩波側を支援し、軍命はあったと主張する。

 

石原氏は「集団自決」という述語は「強制集団死」と呼ぶべきだと主張し、述語の中に軍命を意味する「強制」を使うなど、徹底した「軍命派」である。

 

その一方で、沖縄靖国訴訟では原告の遺族側の証人に立ち、「軍命は政府側が住民を靖国に祭るためのに指導した方便」という意味の証言をして、結局は軍命が「政府によって偽造されたもの」(軍命否定)といった自己矛盾の発言をしている。

 

つまり政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と偽って申請するように示唆したというのだ

 

もっと具体的に言えば、石原氏は自分の体験も含めて、援護法申請書に「実際はなかった軍命による自決」と書いて出せば、援護金をもらえたと証言しているのだ。

 

この人物、同じテーマの裁判に首を突っ込んでしまい原告と被告が逆の立場であることをうっかり失念して「オウン・ゴール」をかましたことになる。(爆)

 

参考: 茶番劇の靖国合祀訴訟 戦争加害者と同列視するなだって

 

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