昨日は那覇市で行われた坂東忠信講演会に参加した。
坂東先生は、元警視庁通訳(中国語)捜査官で膨大な数の中国人の犯罪者の捜査に立ち会った経験を有する方で中国「国防動員法」を中心に中国人の恐ろしさについて有意義な勉強をさせて頂いた。
坂東先生の講演については別の機会に譲るとして、同時に行われた沖縄の新進歴史学者・玉城有一郎博士の「『琉球処分』再考ー明治維新と万国公法の視点から」と題する興味深い講演について感想を述べたい。
現在琉球処分についての沖縄の歴史学者の主流は、概略こうだ。
「独立した琉球王国が明治期に日本国の侵略により植民地化された」といったもの。
ところが玉城博士は沖縄では琉球処分を「日本が西洋で起きた産業革命による近代化に追いつくため、また西洋の侵略から自国を守るため行った明治維新の秩禄処分⇒版籍奉還⇒廃藩置県という流れの中で捉える」という沖縄ではきわめて珍しい少数派。(同じような意見を歴史小説家の司馬遼太郎氏が著書「街道を行く」で披瀝している。 ※司馬遼太郎氏の琉球処分につては過去記事を【おまけ】で紹介する)
玉城博士は、付和雷同が常識の沖縄の歴史学界では異端児扱いで、現在は在野で研究中とのこと。
玉城博士によると、琉球処分についての論争は明治期の大田朝敷、伊波普ゆうら沖縄学者の論争があり、現在の「日本による植民地化説」が定着したのは1960年代になってからという。
1960年代といえばフランスの植民地だったベトナムが、アメリカの介入をうけ同じ国民が南北に分かれて戦ったベトナム戦争の時期。
米軍爆撃機の発進基地としてベトナム戦争に関わった沖縄が、ベトナム戦争の終結で民族統一を成し遂げた歴史的事実に影響された時期でもある。
そんな民族自決の機運が溢れる時期に琉球処分の歴史的解釈に沖縄のアイデンティティを求めると「植民地化説」が沖縄の歴史学会の主流になる意味も理解できる。
これを玉城博士は「沖縄の抑圧」と呼び、「歴史学に政治が介入した」と説明した。
ここで話は突然脱線する。
昨年の県知事選で「イデオロギーよりアデンティティを」を叫ぶ翁長県知事が誕生した。
確かに東西冷戦の終結後、日系アメリカ人でハーバード大学教授のフランシス・フクヤマ氏は著書『歴史の終わり』で世界の歴史は自由主義社会の勝利で「歴史の終わり」が実現したと説明、実際イデオロギー対立の歴史は終焉したかのように見えた。
ところががハーバード大学でフクヤマ教授の師匠であるサミュエル・P・ハンティントンは、1998年にフクヤマ氏の「歴史の終わり」に反論するかのように文明同士の衝突を考察した『文明の衝突』を著した。
現在フランスを中心に起きている反テロ騒動は、メディアが力説するような「言論の自由」のための戦いではない。 フランスが植民地した北アフリカ諸国から移民してきた異教徒たちによる移民問題であり、文明の対立問題だる。
ハンチントン教授の論に従がえば、イスラム文明とキリスト教を中心にした西洋文明の衝突であり、昨年暮におきたソニーピクチャーの製作した北朝鮮の金正恩をからかった映画に対する報復の(ハッカー攻撃)は、儒教文明とキリスト文明の衝突と捉えることもできる
ハンチントン教授は、世界を8つの文明に分け、日本を単一の文明圏とみなし、100年~400年ごろに中華文明から派生して成立した独自の文明であるとしている。
ハンチントン教授の指摘するとおり、冷戦終結後は「歴史の終わり」ではなく文明衝突の歴史の新たな始まりであるとすれば、翁長知事の誕生は「沖縄のアイデンティティの主張」であり、1960年代に確立した琉球処分の「植民地化説」に正統性を与えることになる。
「イデオロギーよりアイデンティティ」と「沖縄の自己決定権の確立」を主張する翁長知事の誕生は、日本文明に対立する沖縄独自の文明の確立を意味し、結局はフランスで起きている「文明の衝突」を沖縄で惹起することを意味する。
現在辺野古で起きている安倍政府とプロ市民との衝突は、司令官の1人目取真俊氏の「くされやまとぅー」という罵声が象徴するようにハンチントン教授の予言する「文明の衝突」そのものではないか。
※とりあえず記憶の薄れぬうちのメモ代わりに書いたので、後で推敲の上書き直しするかもしれない。
【おまけ】
続・NHK反日偏向番組を糾す!司馬遼太郎版「琉球処分」2014-09-24
先ずは偏向番組の【動画】をご覧頂きたい。
時間のない方は飛ばして、概略をご覧下さい。
【動画】はるかなる琉球王国 ~南の島の失われた記憶~
【同番組の概略】
(1)中国の庇護の下、平和で豊かな生活を享受していた琉球王国は、慶長の薩摩侵略の後、外国船の開国要求を巧みな外交交渉で切り抜けたが、武力を背景に琉球処分を迫る日本(明治政府)のため日本国に組込まれ、琉球王国は滅亡してしまう。
(2)琉球王国の滅亡の危機に立ち上がった琉球の若者たちが宗主国・清に援軍を求めたが成功せず、逆に琉球を本島以南と分離支配する折衷案を清国に提案。
(3)清に援軍を求めて渡った幸地朝常は祖国の分断阻止を死を以って訴えたため、祖国分断は免れた。
(4)琉球の若者たちの必死の努力にも関わらず、琉球王国は侵略国日本に組み込まれ、結果的に悲惨な沖縄戦に巻き込まれる。
(5)戦後も米軍基地の重圧に苦しめられ、現在でも米軍用機オスプレイの被害を被っている。
(6)琉球王国の悲劇は、武器なき平和な島を武力で滅亡させた日本の琉球処分に起因する。
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大城立裕著「小説琉球処分」(講談社、1968年)は、そのタイトルが示すようにあくまでも日本史の中の「版籍奉還」「廃藩置県」を主題にした小説である。
歴史の勉強にはある程度参考にはなっても、あくまでも大城立裕という作家が書いた小説であるということを忘れてはいけない。
菅直人元首相などは沖縄問題を考える基礎として大城氏の「琉球処分」を読むなどと、沖縄に媚を売っていたが果たして小説としての認識があったか疑わしい。
同じ作家でもその綿密な歴史検証で歴史の専門家にも大きな影響を与えたといわれる司馬遼太郎氏は「琉球処分」をどのように見ていたか。
以下は過去ブログ司馬遼太郎も読んだ『鉄の暴風』 「琉球処分Ⅲ」2008-01-30 を一部編集・加筆したものの引用である。
☆
■ 「琉球処分Ⅲ」■
「琉球処分」も廃藩置県も日本各県が経験したという視点で見れば日本史流れのの中の共同体験だと言うことが出来る。
廃藩置県は全国諸藩の意志に関係なく、反対する藩があれば容赦なく武力で討つという明治政府の威圧の元に断行された。
その意味で言えば、確かに「琉球処分」は廃藩置県の一種だといえる。
明治維新の原動力となった薩長土肥の下級武士は出身藩の兵と資金でもって幕府を倒した。
それにも拘らず、倒幕から成立した明治政府によって倒幕を支援した藩そのものも潰され、更には武士の誇りも特権も経済基盤である禄高制さえ取り上げられ四民平等の「国民」に組み込まれた。
自分の資金と人材により幕府を倒し新政府を作ったら、その新政府が今度は自分の全ての権益を取り上げ更には解体を迫る。
倒幕派の藩主から見れば、歴史上これほどバカバカしい話はない。
現在の例えで言えば投げたブーメランに己が身を打ち砕かれたようなものだろう。
島津藩主久光が家来の西郷隆盛や大久保利通が突きつけた「廃藩置県」の断行に怒り狂った気持ちは一世紀以上の時を隔てても理解できる。
明治の群像を『飛ぶが如く』や『坂の上の雲』でみずみずしく描いた司馬遼太郎氏は、
「琉球処分」という言葉が多くの琉球史では一見琉球のみに加えられた明治政府の非道な暴力的措置のように書かれていることに疑念を投げかけている。
「(琉球処分と)同時代に、同原理でおこなわれた本土における廃藩置県の実情については普通触れられてはいない。 つまり、本土との共同体験としては書かれていない。」(「街道をゆく 6」)
琉球が特殊な歴史・文化を持っていることは認めても、「琉球処分」はウチナーンビケン(沖縄独特)ではないという。
日本史の明治国家成立の過程で見られる普遍的な歴史的現象だというのである。
「琉球の場合は、歴史的にも経済的にも、本土の諸藩とはちがっている。 更には日清両属という外交上の特殊関係もあって、琉球処分はより深刻であったかも知れないが、しかし事態を廃藩置県とという行政措置にかぎっていえば、その深刻のどあいは本土の諸藩にくらべ、途方もない差があったとはいえないように思える。」(「街道をゆく」⑥27頁)
しかし、このように「琉球処分」を琉球独自の歴史ではなく日本史の中の明治維新の一過程と捉える司馬氏の歴史観には沖縄の左翼歴史家は猛然と反発するだろう。
その例が先日取り上げた某大学講師の、
「琉球は日本ではないのだから、琉球処分は明治維新の国造りの過程ではなく、海外侵略である」という論である。
その論に従うと「琉球処分」は無効だという。
煩雑を承知で、その無効論を再引用する。
<「人道に対する罪を構成」
戦争法規の適用
では、日本による琉球統治は正当だったのか。 日本が琉球の領土支配正当化するためには、日本が琉球を実行支配してきたか、もしくは琉球人に日本人としての帰属意識があることを証明する必要がある。
紙幅の関係上結論を先に述べると、日本による琉球の日本の領土編入は、国際法上の主体である琉球の意志を無視した、明治政府による暴力的で一方的な併合であり、国際法上大きな疑義があるということである。(上村英明『先住民族の「近代史」』>(琉球新報 1月15日)
このような論が当時から沖縄に存在するのを司馬氏は先刻ご承知のようで、自分で表立って反論せずに沖縄民俗学の大家・比嘉春潮氏の著書からの引用でやんわりと対処している。
<何にしても、私は10年ばかり前では、沖縄と本土とが歴史を共有しはじめた最初は廃藩置県からだ、とばかり思っていた。 しかし、そのことはすこしのんきすぎたようでもある。 ホテルの部屋にもどって~ベッドの上に寝転がっていたが、このことを考えはじめると、眠れそうにない。
雑誌「太陽」の1970年9月号に、比嘉春潮氏が「沖縄のこころ」という、いい文章を寄せておられる。
≪沖縄諸島に日本民族が姿をあらわしたのは、とおく縄文式文化の昔であった。 このころ、来た九州を中心に東と南に向かって、かなり大きな民族移住の波が起こった。 その波は南九州の沿岸に住む、主として漁労民族を刺激して、南の島々に移動せしめたと考えられる。 この移動は長い年月の間に、幾度となくくりかえされた。 そしてここに、言語、習俗を日本本土のそれと共通する日本民族の1支族ー沖縄民族が誕生する。≫
沖縄人の由来について、これほど簡潔に性格に述べられた文章はまれといっていい。 さらに「沖縄民族」という言葉については、氏はその著『新稿沖縄の歴史(三一書房)の自序において、「フォルクとしての沖縄民族は嘗て存在したが、今日沖縄人はナチオンとしての日本民族の1部であり、これとは別に沖縄民族というものがあるわけではない」と、書いておられる。
日本民族の中における沖縄人の巨視的関係位置はこの優れた民族学者のみじかい文章で尽くされているわけで、いまさら私が、那覇の町で思いわずらうこともなさそうである。
しかし、という以下のことを書く前に、1氏族が1社会を構成する前に歴史の共有ということが大きい、ということを、つい思わざるをえない。 日本の本島のなかでも、歴史をすみずみまで共有したのは、さほどの過去ではない。 例えば奥州の青森・岩手の両県が九州の五島列島とおなじ歴史の共同体験をするという時代は、秀吉の天下統一からである。(略) 豊臣政権下で大名になった五島氏は、明治4年の廃藩置県で島を去り、東京に移された。 旧藩主を太政官のおひざもとの東京に定住させるというのは、このとうじの方針で、薩摩の島津氏の当主忠義も、長州の毛利氏の当主も東京にいわば体よく長期禁足されていて、丘陵地に帰ることを許されていない。 このことは最後の琉球王尚泰においても同じである。>(「街道をゆく 6」)
大きな流れで言えば沖縄民族は日本民族の支流である、の一言で某大学講師の「琉球処分=違法な植民地侵略」論を粉砕している。
それでも司馬遼太郎氏は「共同体験をしたから結構だといっているのではない」と断り書きを入れて、
琉球藩が廃藩置県以前、250年にわったて薩摩藩から受けた「痛烈な非搾取の歴史」を述べて日本史上他の藩と異なる特殊性を完全に無視はしていない。
司馬氏は「司馬史観」と呼ばれるリアリズムを歴史小説のバックボーンにしており、
封建制国家を一夜にして合理的な近代国家に作り替えた明治維新を高く評価する。
その歴史観によれば「琉球処分」も日本が近代国家建設のため中央集権国家を作っていく合理主義つまりリアリズムの産物であり、肯定的な見方をしている。
DNA解析のない時代に碩学の比嘉俊春潮氏は、「沖縄人は言語、習俗を日本本土のそれと共通する日本民族の一支族、」と喝破していた。
では最新科学のDNA検査は沖縄人の人種的解析にどのような結論をだしていたか。(※注1)
☆
「琉球処分」を韓国併合と同じ視点で見ると沖縄差別論が噴出する。
だが、歴史学者で現在副知事である高良倉吉氏によると、明治政府が沖縄に対して差別政策をした例は皆無だという。
明治政府の近代化改革である明治維新を全国の各藩と同様に生真面目に「琉球藩」にも適用したのが「琉球処分」である。
したがって、韓国併合による朝鮮籍日本人と異なり、「沖縄県民」に対しては明治憲法も適用され 明治政府が全国で一斉に実施した廃藩置県の沖縄版である。
明治政府は大日本帝国憲法を制定して、法の下での平等を目指して身分制度を廃止した。
義務教育も全国一律に実施したため識字率も本土並みに引き上げられた。
沖縄県民には朝鮮籍日本人に対するような教育や戸籍の差別存在せず、参政権も本土並みになった。
(※注1)
沖縄人ルーツ「日本由来」 南方系説を否定(9/17沖縄タイムス)
琉球大学大学院医学研究科の佐藤丈寛博士研究員と木村亮介准教授らを中心とする共同研究グループは琉球列島の人々の遺伝情報を広範に分析した結果、台湾や大陸の集団とは直接の遺伝的つながりはなく、日本本土に由来すると発表した。これまでも沖縄本島地方についての研究データはあったが、八重山・宮古地方も含め、大規模に精査した点が特徴。英国に拠点がある分子進化学の国際専門雑誌「モレキュラーバイオロジーアンドエボリューション」の電子版(1日付)に掲載された。
木村准教授は「沖縄の人々については、東南アジアや台湾などに由来するといういわゆる『南方系』との説もあったが、今回の研究はこれを否定している。沖縄の人々の成り立ちを明らかにする上で貴重なデータになる」と話している。
研究では、沖縄本島、八重山、宮古の各地方から計約350人のDNAを採取。1人当たり50万カ所以上の塩基配列の違いを分析した。
また、宮古・八重山諸島の人々の祖先がいつごろ沖縄諸島から移住したのか検証したところ、数百年から数千年と推定され、最大でも1万年以上さかのぼることはないとの結果が出た。宮古・八重山ではピンザアブ洞穴人(2万6千年前)や白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴人(2万年前)の人骨が発見されており、現在の人々の祖先なのか関心を呼んできたが、主要な祖先ではないことを示している。
一方、港川人(1万8千年前)については、沖縄本島地方の人々の主要な祖先ではない可能性が高いとみられるものの、さらなる精査が必要という。
共同研究に携わったのはそのほか、北里大学医学部や統計数理研究所など。
琉球列島内で見ると、沖縄諸島と宮古諸島の集団は遺伝的な距離が比較的離れており、八重山諸島の集団が中間に位置していることも判明した。
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