狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄の怪人・上原正稔氏とはどんな人物か

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上原正稔氏とはどんな人物か。「集団自決訴訟」にも登場するドキュメンタリー作家


沖縄の新聞購読者をほぼ独占する地元二紙が極端な偏向報道をすることはよく知られている。

その中でも琉球新報は『鉄の暴風』の発刊者である沖縄タイムスに比べてまだマシだといわれていた。だが、昨年の「十一万人集会」を機に、琉球新報も沖縄タイムスと覇を競うように、異常とも思える偏向報道に驀進していった。

消された沖縄戦記
 昨年(2007年)沖縄の宜野湾市で行われた「9・28教科書検定意見撤回を求める県民大会」(「〝十一万人〟集会」)の熱気も冷めはじめた、十月十六日付け琉球新報夕刊に、それまで中断していた「沖縄戦史特集記事」が、まるで読者の目を避けるかのように、そっと再開された。


 新聞の特集記事が「読者の目を避けるかのように」、という表現に違和感を覚える方もいるだろう。 だが、琉球新報の購読者である筆者には、実際そのように感じられた。そして、それには偏向した沖縄の新聞を象徴するような深いわけがあった。


 ことの次第を説明するため、時間を約四カ月巻き戻す。
 平成十九年六月十九日は、琉球新報の長期特集記事(火曜から土曜の夕刊に連載)の第二話「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」の掲載予定日であった。

第一話「みんないなくなった 伊江島戦」が前日で終了、十九日からは第二話「慶良間で何が起きたのか」が始まる予定であった。


 執筆者上原正稔氏は掲載日の前、知人に「集団自決をテーマにしたもので、圧力に屈することなく執筆する」と語っていた。
 「集団自決」というテーマは地元二紙を中心に沖縄メディアが“民意”を煽っている最もホットなテーマのはずだった。言うまでも無く慶良間とは「集団自決」に関する「軍命令の有無」が問題になっている座間味島と渡嘉敷島を含む慶良間諸島のことを指す。
 だが、その特集記事は、読者に何の断りも無く、突然、中止になった。執筆者あるいは新聞社側の「お知らせ」や「弁明」等は一行も掲載されていなかった。
 

地元を代表する新聞が、「集団自決」に関する連載特集を突然中止したことに対して当然、いろんな憶測が飛び交った。
「新聞を中心に展開されている教科書検定運動に水をさすことになる内容になるため」だとか、「編集担当者の態度に変化があり、今回の事態に至ったらしい」とも言われた。
 偏向記事で知られる沖縄紙ではあるが、連載中止という非常手段に打って出るのはよほどのことがあったに違いない。


 上原氏の連載が中止された日の朝刊、文化面トップに林博史関東学院大学教授の「沖縄戦」特集の第一回目が掲載されていた。林教授といえば日本軍を残虐非道だと糾弾するサヨク学者で、「集団自訴訟」でも被告側の証拠を収集したことで知られている。
 上原氏の記事「慶良間で何が起きたか」には、一体、琉球新報を動揺させるどんな内容が書かれていたのだろうか。
 十月十六日、連載再開の冒頭で、執筆者の上原氏は次のように弁明をした。
《「パンドラの箱」の物語の順序も中身もちょっと変更を加えることにしたのでご了承お願いしたい。だが、読者が「あっ」と驚く話が続くことには何ら変りはない》
 前述のように事前の予告では「慶良間で何が起こったか」を明らかにし、集団自決の真実を白日の下にさらすとのことだった。
 しかし、再開した上原氏の原稿タイトルは「軍政府チームは何をしたか」であった。「集団自決」が起きた一九四五年三月下旬の慶良間を飛び越えて、四月以降の沖縄本島の米軍上陸、投降住民の管理の模様を記しており、「慶良間で何が起こったか」については一切触れていない。

「集団自決訴訟」にも登場するドキュメンタリー作家
 上原正稔氏とはどんな人物か。
 上原氏は「集団自決訴訟」の原告側と被告側の両陣営の準備書面に出てくる「沖縄ショウダウン」の著者で、沖縄一フィート運動の創始者でもある。「沖縄戦ショウダウン」は、平成八年六月一日から十三回にわたって琉球新報に連載されていた上原氏の沖縄戦記であり、現在連載中の「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」はその続編になる。
「沖縄戦ショウダウン」には、上原正稔が記載した注の中で、沖縄タイムスや琉球新報が今では決して記事にすることのない金城武徳や大城良平、安里巡査の証言を取り上げられている。その証言では赤松大尉について、食料の半分を住民に分け与えたとか、村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと語ったことが記載されているのである。
 更に援護法を集団自決に適用するには軍の自決命令が不可欠だったので、赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載している。
 平成八年といえば「集団自決裁判」が提訴される以前であり、琉球新報も偏向しているとはいえ、上原氏のように「反戦平和なんてボクには関係ない!」と言い放つドキュメンタリー作家の作品を連載する余裕があったことがわかる。


 それが平成十六年の提訴、そして平成十九年の「教科書検定意見発表」を機に、琉球新報も沖縄タイムスに負けない偏向報道に突っ走っていくのである。

「一フィート運動」を始めたのは上原氏
 毎年沖縄では「慰霊の日」の六月二十三日前後になると、地元テレビがこぞって沖縄戦の記録フィルムを放映する。米軍が沖縄へ上陸したときに撮影した記録フィルムを一フィートずつ買い取って放映する「一フィート運動」の実践である。
 上原氏は、独自のルートでアメリカで眠っている「沖縄戦映像」を取り寄せる「一フィート運動」の創始者でもあった。
 上原氏は従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えてイデオロギー問題に摺りかえる手法をとらない理由を次のように書いている。


「『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない多くの集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく沖縄戦の真実に気がついた」。
 そして、「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」と断ったうえで、「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた」と告白している。
 また、「反戦平和なんてボクには関係ない!」と堂々宣言し、封印されていた沖縄戦の真実の物語を追求している異色の沖縄戦研究家でもあった。


「一フィード運動」は、その後、同運動に大田昌秀元知事や、新崎盛暉、安仁屋政昭、石原昌家等のサヨク学者が運営委員として加わり、運動がイデオロギー化していく。
 創始者の上原氏は「一フィート運動」がイデオロギー化するのを嫌ったのか、組織を離れて独自の活動をするようになった。
「慶良間で何があったか」を白日の下に晒そうとしたドキュメンタリー作家上原氏の連載を、琉球新報が「中止」したのは、何のためだったのか。上原氏に「何があったのか」

「沖縄イニシアティブ」方式
 平成二十年三月二十七日付け琉球新報「声」欄に次のような投稿が載った。

《県民大会論争について  浦添市 S・S・(62歳)
 3月20日(の)本欄は良かった。県民大会への賛否両論が併記され、どうすべきか迷った人も結論が出せたと思う。新聞の使命は「偏見なく真実を報道」。だが、偏りがちなのも現実。その点、投稿は両論併記が簡単だ。 賛否を決めるときは多少稚拙でもそうしてもらえばと願う。(以下略)》


 琉球新報は時折、アリバイ作りのように自社論調にそぐわない「投稿」「寄稿」を掲載する。右のS氏は琉球新報の一見公平に見える両論併記の裏に潜む「沖縄イニシアティブ」方式という卑劣な言論封殺手段をご存知ないのだろう。
 二十日の「声」欄の論争も一見両論併記に見えるが一人の投稿者を複数の反論者で袋叩きにする「沖縄イニシアティブ」方式そのものであった。

罠にかかった小林よしのり
「沖縄イニシアティブ」方式の由来は後に譲るとして、最近の例では目取真俊氏と小林よしのり氏の論争に琉球新報はこの汚い手を使った。
 その経緯を「ウィキペディア」が、次のように書いている。


《目取真は『琉球新報』でも小林を中傷。小林は自ら申し出て反論文を掲載。だが反論一回きりという条件だったため、以降は『琉球新報』と目取真のコラボによる小林中傷特集としか言い様がない些かアンフェアな状況に。沖縄に巣食う同調圧力の象徴とも見なされている。》


 また、最近発売された小林氏の著書『誇りある沖縄へ』には、琉球新報と小林よしのり氏とのやり取りが次のように説明されている。


《だいたい、この連載には「目取真【めどるま】・小林論争を中心にというサブタイトルがついとるけど、わしは目取真俊への反論は一回しかさせてもらっていないんだからね。 〇七年十一月三日に目取真が「風流無談」というコラムでわしを批判した後、琉球新報の記者が「何回かの連載になってもいい」と言うから反論を書くことにしたのに、書き始めた途端に「小林さんの反論は今回限りにさせてもらいます」と言ってきた。(中略)。
 で、わしの反論が掲載された一週間後には、目取真の再反論が紙面に載った。さらに渡名喜(渡名喜守太・沖縄紙を根城にする左翼学者―筆者注)の連載も始まった。でも、わしはもう反論させてもらえない》


 このくだりを読んで、琉球新報の罠に見事に引っかかって憤慨する小林氏の姿が想像され、失礼ながら思わず吹き出してしまった。
 琉球新報の常套手段を知らずにこの「論争」を読んだ読者は、おそらく次のような印象を植え付けられただろう。
「沖縄の作家や学者はすばらしい。あの論客の小林よしのりが、たった一回しか反論できず論破されたあげく尻尾を巻いて逃げたのだから」と。

沖縄紙の共同開発
 では、そもそも沖縄マスコミの常套手段である「沖縄イニシアチブ」方式とは何なのか。
「沖縄サミット」を目前にした二〇〇〇年五月~六月、沖縄の新聞紙面を賑わせた「沖縄イニシアティブ」論争に端を発する。
 沖縄の新聞を舞台に、沖縄の保守系学者が沖縄の将来を展望した政策論を発表したが、これを、数を頼んだ沖縄の左翼学者が袋叩きにした。その論点は肝心の政策論からイデオロギー論に摺りかえられ、左翼学者を支援する沖縄紙の画策もあった。
 そのために以後、沖縄の保守系学者は物言えば唇が寒い状態に置かれ、沖縄二紙は左翼学者の独占状態になる。


 以上がアウトラインだが、少し詳しく説明しておく。
 二〇〇〇年五月三日から十一日にかけて、沖縄タイムスに琉球大学の三人の教授(高良倉吉、大城常夫、真栄城守定)が連名で、同年三月下旬、アジア・パシフィック・アジェンダ・プロジェクト(A・P・A・P)沖縄フォーラムで発表した「アジアにおける沖縄の位置と役割――沖縄イニシアティブのために」という論文を発表した。
 これを読んだ沖縄タイムスОBの左翼論客、新川明氏が同紙の十六日、十七日紙面で批判ののろしをあげた。いわく、「日本国による沖縄『統合』の歴史的な作業がいよいよ最終的な仕上げの段階に入った」。


 当初からイデオロギー論争に引きずりこんで袋叩きにする意図が露骨に見える。ちなみに、沖縄タイムスというホームグラウンドで「沖縄イニシアティブ」を袋叩きにした左翼知識人の面々は、新川明・新崎盛暉・仲里効・石原昌家・川満信一・比屋根照夫・目取真俊などの各氏であった。
 沖縄の保守派の「袋叩き」を先導した新川明氏は、沖縄タイムス記者から同社社長にまでなった人物。記者時代には本土復帰前の初の国政選挙に際し、「国政参加選挙拒否」の署名記事を連載し、波紋を広げたこともある極左思想の持ち主である。
 この沖縄紙の「アンフェアな論争」は、本来、次のような見方が正当ではないだろうか。
 この頃から「沖縄のサイレントマジョリーティーの本音」は新聞紙面から放逐されるようになった。少なくとも沖縄で論陣を張ろうと思うと学者は、「沖縄イニシアティブ」方式という卑劣な手段によって抹殺されることを覚悟せねばならない。


《何かを変えようとする際、反対意見が出ることは珍しいことではない。その声にしっかりと耳を傾けることで、より良い方向に改善できることは多い。その意味でも反対意見は重要である。》


 これは、 平成二十年二月七日付けの琉球新報社説の冒頭部分である。社説が大真面目で言っているのか、それとも己の言行不一致を皮肉っているのか、筆者のような凡夫の思慮の遠く及ばないことである。

 

 

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沖縄戦訴訟 最高裁も訴え認めず

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 大江岩波「集団自決」訴訟で、原告は敗訴した。

しかし、原告は、軍が集団自決を命令したかどうかを争点にしているのであり、軍の関与の有無を争っているのではない。軍の関与と軍の命令は全く別問題である。戦時中に起きた出来事は殆どが軍に関与しており、当然軍の関与なしに手榴弾を入手することは不可能である。軍と手りゅう弾の関係は相関関係はあるが、集団自決の因果関係ではない。

沖縄返還50周年を機会に、ブログ『狼魔人日記』で約20年間記録した「集団自決」問題の記事を資料集として発刊することを思い立った。

「集団自決」問題とは、沖縄タイムス刊『鉄の暴風』が発端となり、沖縄戦の最中に起きた「集団自決」は軍の命令か否かで世論を二分した大論争のことだ。

沖縄タイムスの新聞記者が書いた『鉄の暴風』に対して作家の曽野綾子が出版した『ある神話の背景』がアンチテーゼとなり議論は白熱化してくる。

その間、『鉄の暴風』を根拠に『沖縄ノート』を出版し、元隊長の名誉を棄損したとして大江健三郎と出版元の岩波書店を相手に、元隊長と遺族が名誉棄損請求と出版差し止め請求の提訴をした。

一方沖縄選出の衆議員議員で「軍命派」の照屋寛徳が国会質疑で「軍命の有無」を質問した。

曽野が書いた『ある神話の背景』の現地取材をメインにした実証的取材法を沖縄の歴史研究家たちが支持し、次々と「軍命派」から「否定派」に転向し始める。

■文科省検定の歴史判断

沖縄タイムス編著『鉄の暴風の』の批判本として出版された曽野綾子著『ある神話の背景』の影響を受けたのか、2007年度の教科書から「軍命による集団自決」という記述の削除を指導する文科省検定意見がでた。

検定意見に猛反発した沖縄メディアが主導する「文科省検定意見の撤回を求める県民大会」が、2007年9月29日に宜野湾海浜公園で開かれた。

2007年という年は、常軌を逸した日本軍糾弾の大キャンペーンという点で沖縄の新聞史に残る特異な年であった。

  その年の3月末、高校の歴史教科書の「軍命による集団自決」との記述を削除せよ、という文科省検定意見に反発し、4月初旬より沖縄2紙が狂気にみちた大キャンペーンを展開した。
その同じ年、琉球新報に長期連載中のドキュメンタリー作家上原正稔氏の「パンドラの箱が開くとき」の「慶良間で何が起きたか」の部分が著者の了解も得ないで削除された。削除の理由は上原氏が独自の調査の結論として「慶良間で起きた集団自決は軍の命令ではなかった」と記述した部分が「社の方針に合わない」とのことだった。

さらにその年は、大幅水増しで全国に名を馳せた「11万人集会」が開催された年であった。
文科省の検定意見を巡り、連日紙面には集団自決の生き証人と自称する人物が登場し、「残虐非道な日本軍」の悪行を次々と告発した。だがいずれの証言にも「軍命」を立証する客観的根拠は得られず、立証に迄は至らなかった。中には噂や伝聞の類で、明らかな嘘とわかるものが多数を占めた。

例えばこんな記事が堂々と新聞に報道された。

壕に避難していた少年に途中から入ってきた日本兵が「毒おにぎり」を食わそうとしたので、少年は壕を逃げ出し命拾いをあいたと言う証言が琉球新報に報道された。

食糧不足に悩む当時はおにぎりは滅多に口にすることのないゴチソウであり、その大事なおにぎりにわざわざ毒を塗って少年の殺害を謀るより、銃剣で脅して追い出したほうが容易であることは誰にでわかること。

その証言をした少年が仲里利信県議会議長であることが話題になった。仲里議長が嘘をついたか、さもなくば当時の厳しい食料事情を知らない若い記者が、聞き取りの際歪曲・捏造したかということは、当時の食糧事情を知る者なら誰でも容易に想像がつく。 これに関して仲里氏は以後沈黙を押し通し何も語っていない。

2013年6月12日付琉球新報の次のコラムもその類のいい加減な証言があたかも真実であるかのように語られている。


< 自然壕の暗闇の中、赤ん坊が次々に泣き出した。「黙らせろ」。敵に居場所を知られるのを恐れた日本兵が怒鳴った次の瞬間、銃声が響いた。7歳ほどの少女が前へ崩れ落ちた ▼糸満市の仲松庸全さんが沖縄戦で目撃した日本兵による少女銃殺の場面だ。「軍隊は住民を守らない。それどころか住民を殺害したり、死に追いやったりした」。体験から得た最大の教訓という 。 > 

上記コラムの事例が嘘である証拠は、米兵の目を恐れる日本兵が赤ん坊の泣き声は気にするが、射殺した銃声が米兵の耳に入るのを気にしていない。 これなどは戦争体験者の証言ではよくでてくる矛盾であり、誰もが気がつく嘘の証言である。

証言者の名前を記すと全てが真実のように受取られがちだが、よく読み返すと嘘は自ずと矛盾が露呈してくる。 壕に潜んでいた母親が、赤ん坊の泣き声が気になり、湿ったオムツを赤ん坊の口に当てて窒息させたと言う悲惨な話は今でも密かに語られている。

それが新聞などで証言となって公開されると、そこに「残虐非道な日本兵」が介在し、「日本兵によって殺された」という話に変化していく。 わが子を自分の手にかけた贖罪意識のある母親としては、せめて「残虐非道な日本兵に殺された」とでも証言しなければやりきれなかったのだろう。 だが、この場合日本兵の名前が特定されていないからまだ救える話だ。

■厚生省「軍命があれば、援護法の対象」

だが、自決命令を下して住民を集団自決に追いやったのは、「赤松、梅澤両隊長だった」などと名前を特定されたのが慶良間島集団自決の悲劇である。 そして名前を特定した理由が、当時の厚生省役人の漏らした「軍命があったなら集団自決の遺族も援護法の適用が可能」というひと言だという。

以後「軍命による集団自決」が集団自決のあった座間味村役場の公式見解になる。座間味島村の援護係宮村広延は援護金の支給で何度も当時の厚生省と交渉し援護金支給に貢献したして村役場から表彰を受けている。

■「援護法」が作り上げた極悪人

本来なら軍人の遺族にしか適用できない「援護法」を、軍属でもない集団自決の遺族に適用するための「拡大解釈」という厚生省の善意。 それが、仇となって2人の軍人に「集団自決を命じた極悪人」という汚名を着せることになる。 歴史の皮肉である。 上原正稔さんの琉球新報を相手取った戦いの目的は、不当に汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長の汚名返上にある。

■2009年の文科省検定意見はどうなったか

沖縄メディアやサヨク団体の圧力により、結果的に「関与」の記述は認めたものの、依然として当時の文科省検定意見は現在も法的に有効である。

したがって教科書に「集団自決は軍の命令による」と記述することは禁じられている。

教科書に記述を禁じられている文言は、当然新聞などにも「集団自決は軍の命令による」と記述することはできない。

沖縄では梅雨が明ける6月になると、賑やかなセミの声に負けじと、世間を騒がす年中行事が新聞を賑わす。 6月23日の「慰霊の日」を目前にして、沖縄2紙の紙面に躍る沖縄戦の特集記事のことだ。
悲惨な戦争の記憶を新たにするため、地元紙が毎年沖縄戦の特集記事を掲載する意義は県民の誰もが納得できるだろう。

 だが、沖縄紙の報じる戦争の特集記事には、他県には見られない大きな特徴がある。 沖縄戦とは沖縄住民と日本軍の戦いだったと錯覚するほど、日本軍の沖縄住民に対する悪行の数々を執拗に糾弾する記事が紙面を飾る。

その一方で沖縄戦における米軍は、あたかも「残虐非道な日本軍」から沖縄住民を解放するため沖縄戦に臨んだかのような印象さえ与える。 

 毎年夏、何物かに憑依したかのように日本軍糾弾の特集記事を書き連ねる沖縄2紙ではあるが、

執筆者の山中由睦記者は、証言者のコメントをうっかりそのまま掲載するという大ポカやらかしてしまった。

大笑いである。

本来なら戦火を避け潜んでいたガマで、泣きだした幼子を「(日本兵が)泣かすな、出ていけ」と命令した。このように歪曲して書くべきだった。

先輩記者の捏造報道を継承して。

最近、沖タイも心を入れ替えて、これまで歪曲してきた沖縄戦の大嘘を訂正する気になったのか。

読者「そんな筈はない。沖タイにそんな殊勝な気がある筈がない」

「単なるポカ記事です」

[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1) 弟の姿 シダに重ね 遺骨「諦められぬ」 上原美智子さん(85) 那覇市

沖縄タイムス紙面掲載記事

[証を求めて 戦後76年遺骨収集](1) 弟の姿 シダに重ね 遺骨「諦められぬ」 上原美智子さん(85) 那覇市

2021年6月21日 05:00

 自宅の庭の鉢には、きれいな緑色のタマシダが生い茂っている。この家に住む上原美智子さん(85)=那覇市=が、恩納村の山中から小さな一株を持ち帰ったものだ。

 5~6年がたち、シダは10倍以上に成長した。「こんなに元気に育ってくれたね」。上原さんは葉先をなでるように触り、柔和な表情でシダに語り掛けた。

 シダが生えていたのは76年前、沖縄戦で本島南部から逃げる途中に息絶えた8カ月の末弟を埋めた場所。戦後、姉が遺骨の回収に来たが見つからず、仕方なく近くの石を拾い、家の墓に入れた。

 戦後70年がたち、上原さんは自らこの場所を訪れ、遺骨を探した。遺骨は見つからなかったが、何かを持って帰らずにはいられなかった。近くに生えていた、ほんの5センチほどのシダを抜いた。「遺骨の代わり。これで弟を感じられる」 

□   □

 1945年3月23日朝、米軍機から雨あられのように銃弾が降り注ぐ中、9歳の上原さんは、自宅から少し離れた糸満市のガマ「アマンソウ」に向かった。母と姉は家畜の世話があったため、上原さんは妹と弟を連れ、8カ月の末弟を背負い無我夢中で走った。

 ガマにはすでに約250人が避難し、暗闇に排せつ物の臭いが充満していた。末弟が泣き出すと、ガマの奥から「マーヌクヮガ、ナカサンケー(どこの子か、泣かすな)」、「ンジティイケー(出ていけ)」と高齢女性の罵声が聞こえた。

 弟の口を手のひらで覆うと、声が小さくなった。苦悶(くもん)の表情を見るのが耐え切れず、ガマを出て10メートル前の木の下で震えた。頭上に米軍機が見え、死と隣り合わせの状況が続いた。

 夕方、母姉と合流し北に避難。何日か歩き続け、恩納村の避難場所に着いた。食料は乏しく、5月中旬に米軍の捕虜になったが、弟はその少し前に栄養失調で亡くなった。「弟は今も独り寂しく山中にいる。早く遺骨を拾ってあげたい」

□   □

沖縄戦訴訟 最高裁も訴え認めず

太平洋戦争末期に激しい地上戦が行われた沖縄戦で被害を受けたとして、住民や遺族が国に謝罪と賠償を求めた裁判で、最高裁判所は、原告の上告を退ける決定を出し、住民側の敗訴が確定しました。

 

太平洋戦争末期の昭和20年に行われた沖縄戦をめぐり、沖縄県の住民と遺族36人は、激しい地上戦に巻き込まれてけがを負ったり、家族が死亡したりしたのは、旧日本軍の戦闘行為によって住民を保護する義務を怠ったことが原因だとして、国に謝罪と賠償を求めていました。

1審と2審は「住民に自殺をうながすなど、旧日本軍に不法な行為があっても、当時の明治憲法のもとでは、国が責任を負う規定がなかった。戦争の被害者は多数に上り、補償は裁判所が解決するのではなく、国会に委ねられるべきだ」などとして、いずれも住民側の訴えを退けました。

これに対し、原告が上告しましたが、最高裁判所第3小法廷の戸倉三郎裁判長は、13日までに上告を退ける決定を出し、住民側の敗訴が確定しました

                        ☆

>12審と2審は「住民に自殺をうながすなど、旧日本軍に不法な行為があっても、当時の明治憲法のもとでは、国が責任を負う規定がなかった

本件は「集団自決」のことを指していると思われる。

「集団自決」を証明する客観的証拠や証人は皆無である。

したがって、「軍の命令による集団自決」が在ったとは法廷でも立証されておらず、文科省検定意見でも「軍命で集団自決があった」と教科書に記載することは禁じている。

ただ、2007年9月29日のいわゆる「11万人集会」(実数は2万人弱)で、検定意見の撤回を大幅水増し集会で要請したため、当時の福田康夫首相は、集団自決に手榴弾を使用した例がある事を理由に、軍の命令は無かったが、「軍の関与はあった」などと曖昧な決着をした。

それ以降、上記記事にあるような「住民に自殺をうながす」など曖昧文言で「軍の命令」を印象つけている。

 

 

 ↓沖縄2紙の狂ったような水増し報道

no title

 

 

 

no title

 

沖縄2紙が実際には約2万人程度の集会を「11万人集会」(11万6000人と表記)と大幅水増し報道で政府を恐喝した。

 

そのため、当時の福田首相・町村官房長官のコンビは、軍命削除の「検定意見の撤回要求」は拒否したものの、「軍の関与」という妥協案を飲まされた。 

 

集団自決は戦時中のことであり、中には手榴弾で自決したものもいたため、軍命の有無にに関係なく広義の「軍の関与」という曖昧な文言でごまかした。

 

これは、慰安婦問題で軍の強制連行はなくても、慰安所を軍が利用した事実をもって広義の「軍の関与」とした例と酷似している。

 

妥協の産物として「軍の関与」を認めようとする政府の弱腰に、藤岡信勝拓大教授が「『軍の関与も認めてはいけない』と、反論したが最後は押し切られてしまった。

 

「軍の関与」も認めてはならない  藤岡信勝 拓殖大学教授

 

 

 

【正論】集団自決と検定 拓殖大学教授・藤岡信勝
"トリック報道"で世論誘導
2007.10.24



■「軍の関与」も認めてはならない

≪防衛隊と日本軍の混同≫

 日本軍が無辜の住民に自決を強要するほどの悪逆非道な存在であったことにしたい一部マスコミは、正面から「命令」「強制」を論証できないので、住民の証言を持ち出して世論誘導を図っている。その際、トリックの材料として用いられているのが防衛隊の存在である。

 米軍来襲時、島には(1)陸軍の正規部隊たる将兵(2)防衛隊(3)一般住民-の3種類の人々がいた。防衛隊とは昭和19年7月に帝国在郷軍人会沖縄支部が市町村の集落単位で中隊を編成したもので、法令的な根拠はなく、住民の義勇隊という性格のものだ。中国戦線から帰還した、村長など村の顔役が隊長を兼ねて行政と一体化し、日常の生活は家族と起居をともにしていた。

 手榴弾は防衛隊に米軍上陸の際の戦闘用に支給したものであり、自決用に一般住民に配布したのではない。集団自決を主導したのは防衛隊で、時には手榴弾を軍陣地から持ち出して住民に配布した。「兵隊さんから手榴弾を渡された」という住民の証言は、防衛隊を日本軍と混同しているのだが、マスコミはこの事実をよく知りながらイメージ操作のため確信犯的にこの混乱を利用しているのである。


≪「軍命令説」と同じ虚構≫

 もう一つのトリックは、「軍の関与」という言葉である。これはマスコミの世論操作であると同時に、政府の「落としどころ」として喧伝された経過がある。すでに8月段階で伊吹文科相(当時)は、「『軍の関与』という表現であれば、次回の検定で問題とはならないだろう。出版会社にお願いしてはどうか」と沖縄選出の自民党議員に水を向けていた。

 しかし、プレゼントに送った果物ナイフが殺人に使われたからといって送り主が殺人に「関与」したとはいえないという事例を分析すればわかるように、集団自決への「軍の関与」を認める必要はない。「軍の関与のもとに集団自決が起こった」という文を作ってみればわかるように、これは結局「軍命令説」や「軍の強制」と同じ虚構を教えることになる。

 集団自決は悲しい出来事だが、当時の日本人の心理状態では米軍が上陸すれば日本中どこでも起こった可能性がある。現に沖縄で日本軍不在の地でも集団自決は起こっている。

 そもそも「関与」という定義曖昧・伸縮自在の概念の導入は事態を紛糾・悪化させるだけである。「従軍慰安婦」問題で「軍の関与」がいかに国益を損なう混乱をもたらしたかを一考すればその危険は明らかだ。なぜ政治家は同じ轍を踏むのか。

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沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける

2023-08-22 07:04:18 | 資料保管庫
 

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沖タイの歪曲記事、故赤松大尉直筆の手紙を届ける 2012-05-12

                 ☆

■沖縄タイムス 1983年6月8日

故赤松大尉直筆の手紙を届ける

衆議院調査室の徳嵩力さんが本社東京支社に

住民に「申し訳ない」

虐殺については否定?

【東京】戦時中、海上挺進第三戦隊の隊長として渡嘉敷島の守備につき、住民虐殺、集団自決のあの悲惨な「事件」に深く関与したといわれる赤松嘉次大尉(故人)が12年前、当時の陣中日誌とともに関係者に出した直筆の手紙がこのほど、沖縄タイムス東京支社に届けられた。渡嘉敷での数々の悲惨な出来事について赤松氏は「一部マスコミの興味本位な報道」と伝えられる事実関係については強い口調で否定。 敗戦の結果についてのみ「申し訳ない」とつづっている。折りしも、沖縄では三十八回目の「慰霊の日」をやがて迎える。

手紙を保管なしていたのは、衆議院外務委員会調査室に勤める徳嵩力さん(61)。復帰前、「鉄の暴風」(沖縄タイムス刊)を読み、そのなかで渡嘉敷島の住民虐殺、集団自決など悲惨な出来事を初めて知った徳嵩氏が、やっとの思いで赤松氏を探しあて、事実関係を尋ねたことに対する返書で日付は昭和四十五年十一月三十日。 
そのなかで赤松氏は「戦時中、現地の方々の献身的な協力にも拘わらず力足らず、あのような結果になったことは沖縄で戦った者として現地の方々に申し訳なく思っている」と敗戦の悔いを「つづっている。
ただ住民虐殺、集団自決への自身の関与については「一部マスコミの、現地の資料のみによる興味本位的に報道されているようなものでは決してありませんでした」と強く否定。 同時に沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議についても“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している。
仕事上の関係もあって「沖縄に強い興味を持つ」という徳嵩氏は手紙と陣中日誌を読み返し「どうも後で理由付けした感があり、説得力に乏しい」と感想を語る。 さらに「赤松氏個人への感情は別として」と前置き、「住民の証言の方が、より重みがあるし、軍隊は、その特性から、いつでも物事を正当化するものです。 教科書問題にしても、やはり虐殺の事実は事実として歴史にとどめるべきだし、それが生き残った私たちの使命」とも。
中学、高校の教科書で沖縄戦で住民虐殺の記述も復活の兆しにある。 赤松氏がどのような胸中で手紙をつづったかは、確かめるよしもないが、日本軍による住民虐殺、軍命による集団自決という悲惨な出来事が渡嘉敷島で起こったことはまた歴史の事実である

             ☆

複雑に絡み合った集団自決の整理のため、記事に書かれている事実の説明から始める。

ここに登場する徳嵩力氏は、1921年生まれ、長野県出身。戦後、国家公務員上級試験合格し1956年衆議院外務委員会調査になり、沖縄問題を担当。復帰の3年前の昭和44年(1969年)に衆議院職員初の沖縄調査団として沖縄視察をしたエリート官僚である。

徳嵩氏は戦後一貫して沖縄問題を担当した使命感から独自に沖縄問題の研究を開始。さらに発展し「鉄の暴風」、「秘録沖縄戦」(山川泰邦)、「沖縄ノート」(大江健三郎)などの沖縄戦の本を読み漁り、ついには赤松大尉を捜し当てて、ことの真相を問いただす。

ちなみに「鉄の暴風」が伝聞や噂の類を基に書かれた嘘まみれの本であり、「沖縄ノート」はその嘘のネタ本を下地にしたデタラメの本であることは、今では大方の知るところ。 「秘録沖縄戦」も、「鉄の暴風」の影響を大きく受けており、近年著者の故山川康邦氏のご子息が歪曲部分を削除した改定版を出したくらいである。

復帰前の沖縄戦の情報が少なかった当時としては仕方の無いことだが、徳嵩氏が沖縄戦を勉強した本が全て沖縄タイムスの偏向思想により歪曲された本だけだったのは徳嵩氏にとって不幸であった。

優秀で誠実な戦前の日本のエリート官僚の系譜を継いだと思われる徳嵩氏は、イデオロギーとは別の視点から、日本軍が沖縄に及ぼした被害の数々をこれらの「沖縄本」から勉強し、激しい贖罪意識に襲われる。 そして政府の沖縄担当の調査官としての使命感から赤松大尉を探し出して当時の状況を聞き取るのだが、赤松大尉がそれに対する返事を手紙にして送ったのが記事に出て来る昭和45年11月30日付けの赤松氏の手紙である。 

今年は沖縄の日本復帰の40周年だが、赤松氏が手紙を送ったのは復帰の2年前、今から42年前の出来事である。

徳嵩氏は沖縄担当の官僚という職務上、沖縄紙の東京支局の記者と知り合うことになるが、ある席上偶々隣の席にいた沖縄タイムス記者に赤松大尉の手紙のことを話すことになる。

徳武氏としては赤松大尉の存在を知ったのが沖縄タイムス刊の「鉄の暴風」だったのだから沖縄タイムス記者に話すことに何の躊躇も無かったのだろう。 当時の徳武氏としては「鉄の暴風」や「沖縄ノート」がイデオロギーまみれのデタラメな本と言うことを知る由もなく、沖縄戦史の解明の資料として沖縄タイムスに手紙を渡したのも仕方の無いことである。

沖縄タイムスが赤松大尉の直筆の手紙を入手したら、どのような行動にでるか。 

猫に鰹節とはまさにこのこと。

手紙の内容の如何に関わらず、イデオロギーによる歪曲した捏造記事を書くことは火を見るより明らかだった。

それが上記引用の記事である。

この記事は12面のトップを徳嵩氏の写真つきで大きく飾り。徳嵩氏の写真には「故赤松氏からの当時の手紙を見ながら住民虐殺について語る徳嵩氏」というクレジットが付いている。

沖縄タイムスの記事を見て、沖縄戦当時渡嘉敷島の駐在巡査を勤め集団自決の一部始終を目撃した比嘉(旧姓安里)喜順氏が記事のあまりにも酷い歪曲された内容に悲憤慷慨し、その日のうちに抗議の手紙を徳嵩氏に送った。

手紙の日付が沖縄タイムスの記事と同じなのは、それだけ比嘉氏が当時の生き証人として居ても立ってもおれなかった比嘉氏の心境を表している。比嘉氏はその日の午後3時頃記事を読み、すぐ沖縄タイムスに抗議すると同時に徳嵩氏の連絡先を問いただし、その日のうちに手紙をしたため郵送している。

その手紙はご子息から公開の許しを得ているので、集団自決の真相解明の歴史的資料として下記に公開する。

その前にタイムス記事が触れている「同時に(赤松氏が)沖縄を訪ねた際(四十五年三月)の渡嘉敷住民、民主団体の抗議」について事実を説明しておく。

当時の新聞には、沖縄県民や渡嘉敷住民が、赤松氏を空港に出迎えた抗議した、と報道している。(※【おまけ】に詳述)

が、実際に空港で抗議したのは僅か十数名の那覇市の市職労の組合員であり、渡嘉敷住民は慰霊祭に赤松氏が参加するのを歓迎していた。

1970(昭和45年)3月26日、赤松氏が那覇空港で、左翼集団に取り囲まれて渡嘉敷島には渡ることを阻止されたことは過去にも再三書いたが、親族関係者の話で次のことも判明した。

赤松氏は、空港で、抗議集団にもみくちゃにされ、背広のボタンも引きちぎられる酷い有様だったという。

このような激しい抗議に遭っては、普通の定期船ではとても渡嘉敷島に渡ることができないと判断し、渡嘉敷行きは諦めかけていたが、翌慰霊祭当日、伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵、戦時中、渡嘉敷村女子青年団長)のご主人が、迎えに来てくれ舟を出してくれた。

たが、結局、赤松氏はさらなる騒動を避け、島には渡ることはせず、島の入り口まで行って、慰霊祭への花束だけを託したという。

渡嘉敷の住民は赤松氏の来島を大変歓迎していたが、マスコミや抗議集団との混乱を避けるため渡嘉敷上陸は断念した。

なお、伊礼蓉子氏の娘さんは、赤松氏宅にも訪問したことがあり、赤松氏の家族と今も交流が続いているという。 
     
この事件を、沖縄タイムスをはじめ全国の新聞、雑誌が騒ぎ立てて、これを機に赤松氏の悪評が一気に広がった。

赤松氏の地元では、地元紙である神戸新聞の記事を見た人が多く、赤松氏の長女は後にクラスメートからこのことを教えられたという。 

なお、赤松氏を渡嘉敷に送る舟を手配した伊礼蓉子氏(旧姓古波蔵)は、星雅彦氏の手記「沖縄は日本兵に何をされたか」(雑誌「潮」1971年11月号に掲載)の中で証言者として登場している。

《村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!」と叫んだ。その意志を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ、「足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせてない」とどなりつけられた。(注・比嘉喜順、伊礼蓉子らの証言。その点、米田惟好は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)(雑誌「潮」1971年11月号・星雅彦)》

 

赤松氏は当時の渡嘉敷村長の了解の下に沖縄訪問をしたわけだから「“大規模な歓迎”を受けたと、抗議が意外だった心情を吐露している」という赤松氏の心情は事実であった。

赤松氏に罵声を浴びせる組合員の中には赤松氏を出迎えにきた玉井喜八渡嘉敷村長がいた。

組合員の暴力的な実力行使で、結局赤松氏は慰霊祭に参加を断念するが、玉井村長は次のようなコメントを沖縄タイムスに伝えている。

「赤松氏は三年ほど前から慰霊祭に出席したいと連絡していた。ことしも村から慰霊祭のスケジュールを送ったらぜひ行きたいという返事があり、喜んでいたところだ。」 

集団自決論争が問題解決を困難にしている理由は次の点にある。

①「事件」が60数年前のことであり、体験者はほとんどが物故している。

②数少ない証言も、当時子供だった証人の曖昧な証言に頼らざるを得ない。

③物的証拠は一つもなく、証言あるいは証言記録のみを証拠としているの。

④意識的嘘の証言は論外としても、証言の「思い違い、記憶違い」等も考慮に入れなければならぬ。

これらに親族、地域社会などの人間関係、経済的要素の呪縛や、イデオロギーの呪縛が絡むと証言の信憑性の検証はますます難しくなる。

2007年の「11万人集会」の前後、沖縄紙は夥しい数の証言者を紙面に登場させ、連日「体験者証言」と大々的に報じたが、そのほとんどが、「毒おにぎり証言」の例のように客観的検証に耐える証言ではなかった。

卑近な例で、意図せざる「記録の過ち」を一つ例示しておこう。

玉井喜八渡嘉敷村村長がミニコミ誌に寄稿した『遺族会発足当時を想う』と題する手記の中に、玉井村長の記憶違いが見られる。

手記はここ⇒沖縄戦を歪曲した沖縄タイムスの大罪

同手記には昭和53年赤松夫人が三十三回忌の慰霊祭に渡嘉敷訪問したとある

だが、これは玉井村長の記憶違いで、赤松夫人が慰霊祭に参加したのは昭和53年ではなく、正確には昭和59年に戦隊員や遺族の方々に同行し、赤松氏の遺品を寄贈したという。

これは赤松氏の遺族関係者からご指摘を受けた。

玉井村長のような重要人物でさえこのような記憶違いを手記に書くくらいだから、故人が残した証言の記録が全て正しいとは限らず検証が必要なことは言うまでも無い。

実際に赤松夫人が渡嘉敷島を訪れたのは、手記にある昭和53年ではなく、昭和59年であるというから、赤松夫人は次の記念写真のどこかに写っているものと思われる。

和やかに記念撮影に収まる元赤松隊の一行

 

 

■比嘉喜順氏の手紙

 徳嵩様 謹んで申しあげます。

あなた様の東京支局によせられた故赤松大尉直筆の手紙を届けるの記事を読み、お便りを差し上げます。
私、当時(沖縄戦)昭和20年2月より昭和20年8月14日まで渡嘉敷村の巡査駐在所で勤務しておりました者であります。
それであなた様が「12年前より(まま)赤松大尉直筆の手紙」を届ける記事を6月8日の午後3時ごろ読みまして、早速沖縄タイムスに電話で貴殿の調査室の住所を知らして下さいと頼みまして、このお便りを差し上げます。 それで私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論自決場所のことも一部始終わかっております。 あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。
責任者として天地神明に誓ひ真実を申しあげます。 今までの戦争は満州、支那大陸で戦い、私達もその体験者の1人であります。 それが而も一番(不明)島、沖縄県、離島の自国内で連合軍の包囲を受け家族とも共戦争体験をしたのは、その人でなければ実際を語ることは出来ません。
「鉄の暴風」が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せてくれて驚いた程であります。 その時には既に遅く、全国に販売されていたようです。
それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した責任ある私達に調査もされず刊行されたことは私の一生涯の痛恨の極みであります。
沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べたことは今もって一度もございません。
私も戦い終わって昭和二十年八月二十七日、捕虜で金武村屋嘉の収容所に収容され、同年十一月三日そこを出て、家族をさがしあてたのが昭和二十年十一月十五日でした。 それで戦争の話、友軍の行動等を分かりました。 
それに比較して赤松隊長のとった行動は本当に良かったと思われました。 戦争中而も敵の海、空よりの砲撃のさ中で軍の食料(米、味そ等)調味品を村民にも二分し与えて下さったあの赤松隊長の志を、行動を、こんな隊長が大東亜戦争、沖縄戦の悪い代表扱いに掲載されることは本当に残念でなりません。 あの戦争は吾々日本人全体の責任と私は思って憚りません。 徳嵩さんがどう云う理由で十二年保存されて、然も赤松さんが故人となられた今頃にから沖縄タイムスに掲載されたか、私には理解に苦しむものです。
赤松隊の生存者もをられるし、当時の村民も尚健在者が多数残っています。 それでお願いですが曽野綾子著「ある神話の背景」沖縄、渡嘉敷の集団自決、文藝春秋社刊をお読みにお読みになられたらと思います。
真実と云ふのは両方の調査の上に立って表現するものでありまして、一歩的に出してそれで何も知らない人々がそれを信じることになり、大方はそんなものではございません。 私はそう思います。
歴史の事実も本当はそうであったかと、両方の調査をし、綿密に調べられてから、正しく報らすのが真の在り方と思われます。 私も貴方が出された「タイムス」の記事を見て、当時の沖縄戦の生々しい実態が甦り、本当に何とも言ひようのない悲憤慷慨と申しましょうか痛恨の念が一極です。
只々書かなければ止まない衝動にかられてこのお便りを書きました。
徳嵩様の重要な部所にお勤め鳴られてをり幸いと思います。
益々ご健康で、ご繁栄でありますと併せて我が国の繁栄に寄与なされますようご御祈りいたします。 乱筆で御免下さい。

                                                        敬具

昭和五十八年六月八日午後十一時三十分

沖縄県北中城字大城の自宅にて

旧姓 安里  比嘉喜順拝

徳嵩力 様

(つづく)

 

【おまけ】

タイムスの沖縄戦歪曲を象徴する報道が二つある。

一つは1950年(昭和25年)に出版された『鉄の暴風』。

もう一つは『鉄の暴風』発刊の20年後、1970年3月27日付沖縄タイムス社会面を飾った衝撃的記事である。

■梅澤・赤松両隊長が怒った沖タイ記事

戦後一貫して沈黙を守っていた渡嘉敷島、座間味島の両隊長が、「自決命令をしていない」と積極的に発言し始めるのは、実はこの1970年の記事以降のことである。

勿論梅澤氏は「鉄の暴風」の1980年改訂版発刊までは、死亡とされていたので、梅澤氏の発言と赤松氏の発言には凡そ10年のタイムラグがある。

『鉄の暴風』については、多くの研究者がそのデタラメな内容を論じ尽くしているのでここでは省略し、今から約40年前の沖縄タイムス記事について触れる。

1970年3月27日といえば、大江健三郎氏の『沖縄ノート』も曽野綾子氏の『ある神話の背景』もまだ発刊されておらず、『鉄の暴風』が沖縄戦のバイブルのようにいわれて時期である。

その日は渡嘉敷島で25回目の戦没者慰霊祭の当日で、沖縄タイムスは、前日の26日、慰霊祭に参列のため那覇空港に降り立った渡嘉敷島の元戦隊長赤松嘉次氏と空港で待ち受けた約40名の「抗議団」とのトラブルを大きく報じている。

その日の沖縄タイムス社会面トップを飾った大見出しはこうだ。

忘れられぬ戦争の悪夢

<赤松元海軍大尉(ママ)が来島>

空港に“怒りの声”

”非難したくない”

出迎えの玉井村長語る

抗議のプラカードを掲げた抗議団。 それに取り囲まれた赤松氏の写真と共に、タイムスは約40名の抗議団の赤松氏に対する「怒りの声」を報じている。

I「忘れられぬ戦争の悪夢  <赤松元海軍大尉が来島>  空港に“怒りの声”」の画像検索結果

 

 

赤松元陸軍大尉のことを、「元海軍大尉」と大見出しで事実誤認で報じる沖縄タイムスの無知(実際は陸軍大尉)はさておき、その記事から「県民の声」を一部拾うとこうなる。

「赤松帰れ」

「今頃沖縄に来てなんになる」

「県民に謝罪しろ」

「300人の住民を死に追いやった責任をどうする」

慰霊祭には出てもらいたくない。 あなたが来島すること自体県民にとっては耐えがたいのだし、軍国主義を全く忘れてしまったとしか思えない。 現在の日本の右傾化を見ろ」

この紙面構成を見ると、読者は「鬼の赤松の来県に抗議する渡嘉敷島の住民」という印象を刷り込まれてしまう。

わずか40名の左翼団体の抗議を、あたかも県民代表あるいは渡嘉敷住民であるかのように報じた沖縄タイムスは沖縄戦を歪めた首謀者であり、その罪はきわめて重い。

実際の抗議団は那覇市職労を中心にした左翼団体であった。

赤松氏に抗議文を突きつけたのも渡嘉敷村民ではなく那覇市職労の山田義時氏であった。

肝心の渡嘉敷村は赤松氏の慰霊祭出席を歓迎しており村民を代表して玉井喜八村長が出迎えのため空港に出向いていたくらいだ。

先ず記事の見出しに躍る”怒りの声”と”非難したくない”と言う玉井村長の矛盾を沖タイはどう説明するのか。

 

「うらそえ文藝」編集長の星雅彦氏は、偶々そのときの那覇空港の「騒動」の一部始終を目撃していた。

結局赤松氏は那覇に足止めを食い、赤松氏と同行の元部下たち一行は那覇市松山の大門閣ホテルに一泊し、翌27日、船で渡嘉敷に向かうことになるが、星氏は同じ船に便乗し慰霊祭にも参加したという。

星氏は偶然目撃した前日の空港での左翼団体の暴挙と、これを県民の意志であるかのように報道する地元マスコミの姿勢をみて、沖縄で流布する集団自決の「定説」にますます疑問を持つようになったという。

星氏は元赤松隊一行と共に渡嘉敷に向かうが、船の中で赤松隊一行は持参の経文の書かれたお札のようなものを広げてずっとお経を唱え続け、渡嘉敷港が近づくと持参の花束とお経のお札を海に撒いていたという。

慰霊祭の最中に「赤松が上陸する」との知らせを受け、マスコミと「民主団体」が現場に飛んで行った。

だが、赤松氏は個人で舟をチャーターして島に接岸し、結局島民に弔文と花束を託して上陸することなく、島を去ったという。

■沖縄戦史を歪曲した記事■

1970年3月27日のタイムス記事は、以後沖縄戦史を「タイムス史観」ともいえる歪な方向へ県民を扇動ていくマイルストーン的役割りを果たすことになる。

先ず、この記事を見た県民は、こう印象つけられた。

住民に自決を命じ、自分はおめおめと生き残った卑劣な鬼の赤松隊長を追い返す渡嘉敷住民

赤松元隊長は「鬼の赤松」といった印象を強烈に刷り込まれることになる。

またこの記事を見た大江健三郎氏は作家としての想像力を強く刺激され、本人の述懐によると『鉄の暴雨風』などによる沖縄戦の即席勉強と共に、新川明氏らタイムス記者のブリーフィングで得たにわか仕込みの知識で、現地取材もすることなく、作家としての想像力を駆使して「沖縄ノート」を書くことになる。

戦後起きた沖縄戦のセカンドレイプともいえる第二の悲劇は、まさに『鉄の暴風』に始まり、「1970年3月27日付タイムス記事」によって決定的になったいっても過言ではない。

そのときの記事には、金城重明氏が首里教会の牧師という肩書きでマスコミに初登場して証言している。

金城氏はその後、集団自決の証言者の象徴として、マスコミ出演や著書出版、そして全国各地の講演会などで八面六臂の活躍をするのは周知のことである。

■渡嘉敷村民の真意は?

それでは、当時の渡嘉敷村民の真意はどうだったのか。

そのとき赤松氏を迎えるため空港で待ち受けていた玉井渡嘉敷村長は、後にその心境を渡嘉敷村のミニコミ誌で吐露している。

以下は、『終戦50周年祈念「いそとせ」』(沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行)に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想の一部抜粋である。

遺族会発足当時を想ふ  

渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八

(略)
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。(略)
 渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるのみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。(略)
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。

引用者注
玉井喜八⇒1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没

3戦隊戦友会⇒赤松隊戦友会

赤松氏の慰霊祭参加を歓迎する村民を代表して、那覇空港に出迎えた玉井村長は「村民外の『民主団体』」が来島を阻止したことに驚きを隠せないようだが、33回忌には赤松夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことを喜んでいるようである。

沖縄タイムスは村民と元隊員とは敵同士であるかのような報道をしたが、赤松隊員と村民の信頼関係が深いことが記述されているし、手榴弾証言の富山眞順氏は別のミニコミ誌で、本土旅行の際は元赤松隊員に連絡し、空港等に迎えに来てもらい、一緒に観光するといった元赤松隊員との和気あいあいとした交流の模様を寄稿している。

これらは沖縄タイムスには決して載ることのない村民の本音であり、村内で読まれるミニコミ誌にのみ掲載されている。

赤松氏がマスコミに初登場するのは、上記1970年の沖縄タイムス記事の二年前の1968年発行の週刊新潮4月6日号誌上であるが、

そのときは「部下を戦死させたのに生き残った卑怯な隊長」、あるいは「スパイ容疑で住民虐殺した残虐な隊長」という主旨の追及に答えている。

「住民虐殺」については、意外にもその事実をあっさり認めている。 

だが「集団自決の隊長命令」については記者の質問もなければ、当然赤松氏の言及もない。

ところが週刊新潮の記事を見た琉球新報の関西支局が、赤松氏を神戸市加古川の自宅を訪れ、そのインタビュー記事を同年4月6日付けで掲載した。

その琉球新報記事で、記者の「集団自決は命令したのか」との質問を受け、

赤松氏は「絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた」と答えている

ところが、前記1970年の那覇空港における「鬼の赤松vs渡嘉敷村民」という印象操作記事以降、赤松氏は「軍命は出していない」と自ら積極的に発言するようになる。

その後、奇しくも『鉄の暴風』が梅澤氏の「死亡記事」を密かに削除した1980年(昭和55年)の初頭、赤松氏は無念のまま没する。

実弟の赤松秀一氏がその意志を継いで梅澤氏と共に、「集団自決訴訟」を起こしたことは周知のことである。

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SNS、新技術に抵抗する人、「デジタルは人間を幸せにしたのか?」

2023-08-20 15:36:32 | 資料保管庫
 

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新技術に抵抗する人

ワープロが登場した時、「原稿用紙に文字を埋めていく。その筆圧が重要なんだよ」とワープロ使用に抵抗していた先輩記者がいた。だが印刷局が生原稿を受け付けなくなってからは、後輩記者に入力させるという、今で言えばパワハラを問われかねない荒業で対応していた。最終的にはパソコンで記事を書くようになったが、その先輩も既に退職して久しい。

新しい技術が登場すると、飛び付いて眺め回し、いつの間にか使いこなす人がいる一方で、最後まで抵抗してごねる人がいる。「人類に災いをもたらすものだ」と占い師か予言者のようなことを言って忌避するが、「ああいう連中は置いていこう」と、さっさと導入して対応し、それがスタンダードになる。

週刊現代(8月12、19日号)が「デジタルは人間を幸せにしたのか?」の記事を載せている。まさに同誌をはじめ週刊誌がメインターゲットにしている団塊世代が感じ、辿(たど)り、持ち続けてきた時代の変化と疑問をまとめたような記事だ。

「内田樹(思想家)」は書類作成から絵画や音楽まで自動で作ってくれるチャットGPTの登場で「勤勉は価値を失い、モラルハザードが起きてしまう」と否定的だ。学生の論文作成が生成AI(人工知能)で行われる事例はもはや当たり前だが、7月9日付本欄では学生はそれほど愚かではないことを紹介した。「回答を導き出すツール」(AERA7月10日号)にすぎないのだ。「勤勉」が失われるのではなく、「能率」が得られるのである。

スマホ、携帯を持たないという人もいる。それは個人の自由だが、だからといってスマホを“悪魔の機械”のごとく忌み嫌うのもどうか。「斎藤貴男(ジャーナリスト)」は「スマホやケータイが脳の機能を代替してしまっているから」持たないと主張する。さらにこれが「国民総背番号制」につながり、「いつの間にか“便利”を代償に、管理・監視される社会やシステムに皆が同意し始めてきている」と、“陰謀論”めいたことまで言う。

「人間の領分」強調を

確かに利用者の閲覧傾向に合わせて広告を差し込んでくるのは鬱陶(うっとう)しいが、それを遮断することもできる。情報が偏ったり、たこつぼに入り込んだりしないようにするのは、ユーザーの自覚的な利用による。むしろ、デジタル機器と向き合う現代人のマインドとスキルを高めることの方が重要で、「使わない」という選択は極端過ぎるだろう。

「楠木建(経営学者)」は「仕事においても、HOW(どうやるのか)はAIが代替してくれます。人間に求められるのはWHATとWHY(なにをなぜするのか)でしょう」と述べている。やっとまともな意見が出てきた。「AIが代替できない人間の領分」をもっと強調すべきだ。

「アンデシュ・ハンセン(精神科医『スマホ脳』著者)」の指摘は重要だ。「人間の脳は、危険なことや、人と人との対立など、ネガティブな情報ほどより積極的に集めようとしてしまう」とし、「対立や危険を示す情報に、より大きな注意を向けるように脳ができている」と説明する。生存のための本能だ。

しかし巨大SNS企業はこの本能を利用する。より強い刺激をネットに流していくのだ。動画の閲覧数を稼ぐために過激化して反社会的な行動にまで出てしまう。既に社会問題化している。「21年にメタ(当時はフェイスブック)の内部告発で、インスタグラムは若者の精神衛生にとって危険であるという告発がありました」と紹介し、だからこそ「テクノロジーから自分を守る方法を身に付けなければならない」と強調した。

「やってみる」が大事

「野口悠紀雄(一橋大学名誉教授・経済学者)」は、「新しい技術は社会に対してプラスにもマイナスにも働きます。どう付き合っていけばいいのかを見極める」ことが必要だとし、「とにかくやってみるしかない」と結ぶ。

これが結論なのだ。先輩記者も最後はネットで記事を送ってきていた。四の五の言わずに、とにかくやってみることだ。

(岩崎 哲)

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覆された集団自決の大嘘!「援護法」に隠された沖縄戦の真実

2023-08-20 04:39:34 | 資料保管庫
 


貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実
壕の提供/「軍の命令」記入で援護対象に

 昭和31年(1956年)、戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省援護課の職員らが沖縄に派遣され、沖縄戦の実態調査を行った。琉球政府社会局が昭和33年に発行した援護法関係出版物「援護のあゆみ」によると、沖縄県遺族連合会が職員と協議会を重ね、集団自決や壕(ごう)の提供などの事例についても援護法が適用されるよう強く求め、厚生省に陳情した。
 戦争の実態調査や要望を踏まえて厚生省援護課は、昭和32年7月、援護法の適用例を20種の分類で示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」を発表した。これまであいまいだった「戦闘参加者」の定義がこれによって明確になった。「戦闘参加者」の分類は以下の通りだ。

 ①義勇隊②直接戦闘③弾薬・食糧・患者等の輸送④陣地構築、⑤炊事・救護等雑役⑥食糧提供⑦四散部隊への協力⑧壕の提供⑨職域(県庁職員報道)関係⑩区(村)長としての協力⑪海上脱出者の刳船(くりぶね)輸送⑫特殊技術者(鍛冶屋)⑬馬糧蒐集(しゅうしゅう)⑭飛行場破壊⑮集団自決⑯道案内⑰遊撃戦協力⑱スパイ嫌疑による斬殺⑲漁撈(ぎょろう)勤務⑳勤労奉仕作業。

 20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。

 しかし、当時の厚生省、琉球政府、市町村、そして、遺族という四者の共同作業により、6歳未満にも援護法が適用されるようになった。

 金城和信遺族連合会会長(当時)は「援護のあゆみ」の中で、「遺族は勿論全住民が一体となってこれら戦没者の報国の精神に充二文(ママ)に応えるべく全機能を上げて一人でも時効失効なき様処理に万全を期さなければならないと強く日本政府及び琉球政府に訴えるものであります」と述べている。

 実際に「戦闘参加者」として援護法の申請をした事例を示す、沖縄県公文書館に保管されている「現認証明書」(請求時の障害が公務上の傷病であることを認めることができる書類)の文面を引用する。

 <右は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村字摩文仁付近の戦闘間に於て球部隊司令部の下士官兵数名に避難壕を立ち退くよう要請され止むなく同壕を戦闘員のため提供して立ち退き、他の壕を求めて移動する際、至近に砲弾炸裂し、全身に砲弾破片創を負い、即死したことを同一行動中に確認致しましたのでその事実を証明します。
一九六〇年二月二十日>

 沖縄県遺族連合会のある幹部は「軍に積極的に協力して戦死したという表現でも厚生省から突っ返されました。『軍の命令によって』と書き込んで再送して受理されました」と振り返る。そこで、現認証明書に「軍の命令・要請による」という虚偽事実の記入をしたが、そのうち大半が「壕の提供」に関する内容だったという。

20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。

当時の厚生省は、本来なら民間人には適用されないはずの援護法を、可能な限り、というより「拡大解釈」をしてまで沖縄住民に適用しようとした。 そこに「軍命捏造」という意図せぬ結果が生じ、後に反日左翼勢力の付け込む隙を与えることになる。

政府(厚生省)は、軍命と明記されていない申請書には「軍命」という不実(嘘)を書くように暗示する「書き換え」の指導をした。

例を挙げると、厚生省の1960年「戦闘参加者に関する書類」に、次のような記載がある。

■昭和34年(‘59年)10月12日付け 厚生省引揚援護局未帰還調査部第四調査室長から⇒琉球政府社会局援護課長へ 「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」

≪別紙記載の戦斗協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦斗協力内容が消極的に失すると審査課より返却されたので、死亡者は要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項欄記載の如きこともあったものと推定されるのでその旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような、積極的な戦斗協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認証明欄の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います≫

厚生省から琉球政府側への「指導」も1959年ごろまでは、「積極的な戦闘協力」などと曖昧な指導をしているが、沖縄住民の援護金申請は全て受理してあげたい、という善意が働き、厚生省の「指導文書」も1962年になると、以前に比べてあからさまな「軍命捏造」の指導が目立ってくる。

その例がこの文書だ。

 ■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)

「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から琉球政府へ

「要調査事項」昭和20年5月10日食糧を求めるため部隊に行ったのは、軍命令か 申請書の記述ではその点が不明であるから解明されたい≫

と軍命の有無を重視するよう明確に指導している。

さらに具体的に個々の「戦闘協力者」を、「軍命による」と記入するように、その時の状況に至るまで「指導」した例が、次の例である。

これは現在のお役所の常識から考えれば、「越権行為」といわれても仕方がない「指導」である。

 

「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧 

■当時50歳の県庁職員についての「指導」

≪壕生活の指導並びに避難誘導のため摩文仁村に派遣されたが、摩文仁村摩文仁で避難誘導任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認め難いとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか。 例えば軍命により弾薬運搬又は食糧の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉職というが、公務の内容はなにか軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか・・≫


などと具体的に書き換えの仕方を指導している。

 
■当時9歳の学童についての「指導」

≪艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他の避難場所を探している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した≫


という表現パターンで、書き換えが行われている。

 ■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」

認定保留者=座間味村 明治9年生まれ、昭和20年3月28日「隊長命令による自決」という内容で戦闘参加者として認定されている。   

>「隊長命令による自決」

ここで座間味村の隊長は梅澤裕氏と指名されたことになり、後に反日左翼勢力が「残虐な日本軍」と主張する根拠となる。

 

■1966年「援護関係表彰綴」

宮村幸延座間味村総務課長の功績調書

宮村幸延座間味村総務課長は、1957年8月、慶良間戦に於ける集団自決補償のため上京 1963年10月集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定と記されている。

宮村幸延氏は、連載の第6回目に登場するが、沖縄側は琉球政府社会局援護課のみならず、援護金申請書の直接の窓口である座間味村の援護係の宮村氏が直接上京し、厚生省と掛け合って援護金受給に大きな功績を成し遂げている。座間味村役所には宮村氏の「功績を讃える表彰状があるという。 幸延氏は梅沢氏に「侘び状」を書いた事で、とんだ騒動に巻き込まれることになる。その顛末は連載第6回をご期待下さい。

 国(厚生省)、琉球政府援護課、各市町村の援護係そして遺族会のメンバーの4者が一致協力し、祖国防衛の戦ため、軍人・軍属に負けずとも劣らない戦いをした沖縄の民間人に対する援護金支給の努力をしたのである。

その結果、1981年には6歳未満への援護法の適応が認められることになる。 

                 ☆

 【おまけ】

援護法㊙公文書

1960年12月28日付琉球政府社会局より琉球政府駐日代表事務所宛ての問い合わせ。

➀11月26日付「沖縄タイムス」に掲載の「『戦斗協力者に新措置』『援護法は拡大適用厚生省は方針を決定」という記事の「適用者の数字」の問い合わせ。

 

 

琉球政府社会局の数字の問い合わせに対し、琉球政府駐日代表事務所から回答。

「ご紹介の数字は、記者自体の数字であり、新聞記事については当局は関知しないことで、記者の情報収集によるもので当局も迷惑している」というもの。

 

戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄は、「遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」「戦後、島の村長らが赤松嘉次元大尉に連絡し、命令を出したことにしてほしいと依頼し、赤松元大尉から同意を得て(本当は命令していないが)命令があった事となった」と語っている

ただし実際には、赤松自身は単に自決は自分の命令したものではないと語ったことしかない。(なお、座間味の梅澤の方は、宮城初枝から自決命令は聞いていなかったとの告白を受けた時に、島の人が助かるならば自分が悪者になるのはかまわない、自身の家族に真実が伝われば十分と語っている

 

【おまけ】2

沖縄集団自決の真実

「沖縄人の見た沖縄戦」①

――座間味戦の裏側にあるもの――

 

ルポライター(沖縄県国頭郡出身)   冨村順一(大阪市西成区77歳)

 

平成20年1月10日  昭和史研究所会報 第129号

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。

これは本来国家のなすべき事業なのです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

〔解説〕

平成19年11月9日、大阪地裁。大江・岩波裁判の日。

傍聴券を求める人々の中に車椅子の人物がいた。

この人が配布したA4判3頁の文書は、梅沢・赤松両元隊長の無実を訴え、

大江健三郎に謝罪を求める切々率直な内容のものであった。

 

この人こそ誰あろう。

かつては左翼反戦平和運動に携わりながら、梅沢裕隊長の「自決命令」の

なかったことを知るや、翻然梅沢氏弁護の運動を開始し、それが宮崎初枝

女史の告白を決意させ、また神戸新聞に「梅沢隊長の命令なし」の記事

を掲載させるきっかけをつくった冨村順一氏(『隠された沖縄戦記』などの著者)だ。

 

いわば梅沢隊長の冤が晴れる大きな一歩を刻んだ富村氏の正直で義に

強い人柄に、かねて中村は敬服していたが、大江裁判の折に氏の配布した

文書を読んで感銘を新たにし、氏に二、三の質問を含んだ書簡を送った。

 

それに対して11月30日、氏からテープレコーダーに録音した

委曲を尽した返事を頂戴した。貴重な体験と証言を含む内容なので、

一部を割愛して掲載させて頂くことにした。(中村)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

〔註〕「中村」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B2%B2

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★以下、富村順一氏のテープおこしの本文です。★

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 中村先生、今晩は。

先生からの御手紙を拝読し、直ぐに手紙を出そうと思いましたが、

何分にも手足が不自由で遅れたこと申し訳ありません。

 

話は違いますが、近所に梅南座という芝居小屋があります。

そこの主は沖縄出身の渡口さんというお婆ちゃんです。

このお婆さんは、娘さんやお孫さんも毎日のように私の家に来て

よく私の面倒を見てくれます。

そのような方ですから、私は先生から来た御手紙を劇場のママに見せました。

ママが「返事を書いたのか」と聞くので、ヘルパーに代筆を頼んで、

毎日四、五枚づつ書いていると話したところ、「このように大切なことは

ヘルパーの代筆では駄目だ。

貴方は手足は不自由でも口は利ける。

録音を取って生の声を包み隠さず、テープで差し上げなさい」と仰有った

ので、「テープレコーダーがありません」と話したところ、ママが

「じゃ、買えばいいんじゃないか」と仰有ったので、「そのようなお金は

ありません」と云ったところ、「じゃ、金は私が出すから録音テープで

自分の気持を先生に伝えた方がいい」と仰有って金を置いて行って下さった

ので早速テープレコーダーを買い、録音で先生に座間味戦記のことを

お伝えしようと思っています。

 

大城明さんの自殺

 

 私はここ十四、五年間、大衆の前へ出たことがありません。

故に梅沢さんはじめ私の知ってる方には、

私が死んだという噂が飛んでいる現在です。

何故、そのような私が今頃、大江裁判傍聴に行こうと思ったのか、

訳があります。

 

 一昨年(平成17年――中村)の10月1日、大阪西成区の津守公園で

大城明さんという沖縄出身の方が自殺いたしました。

彼は若い頃、ベトナム戦争反対、基地反対、部落開放運動なんかに

首を突っ込んでました。また非常に読書家でもありました。

 

 彼が自殺一週間前、突然私の家に来たのです。私の家に来るなり跪いて

「富村さん、本当に申し訳ありませんでした。

富村さんが練馬区の元町公園で二匹の犬と野宿しているときに、

夜六人の仲間と一緒に襲い、二匹の犬を殺し、富村さんに怪我をさせ、

富村さんが車椅子の生活をするようになったのは私達です。

私がそのリーダーでした。

その理由は、富村さんが書いた「座間味戦記 / 梅沢隊長は生きている

――自決命令はなかった」という『隠された沖縄戦記』を読みました。

沖縄には沖縄の偉い大学の先生や文化人が書いた『鉄の暴風』、

沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』、『沖縄県史』がある。

それらは何れも自決命令で、梅沢隊長は従軍慰安婦と爆死したことになっている。

 

だが富村さんは「隊長は生きている」と云う。

富村さんは右翼から金を貰って嘘の本を書いたに違いない。

このような沖縄人はいない方がいい。

二度と本を書けないようにしてやろうと、富村さんを襲い、袋叩きにしたのは

私達で、そのリーダーが私でした。本当に申し訳ありませんでした」

と云いながら鞄から一冊の本を取り出しました。

 

宮城晴美さんが書いた『母の遺したもの』という本でした。

十年以上も本と縁がなく、新聞も余り読みませんでしたので、

この本が出ていることも全く知りませんでした。

 

その本をテーブルの上に置き、「梅沢さんは自決命令を出していない、

ましてや、死んだといわれた梅沢さんが健在であることを知りました

。自分たちは取り返しのつかないことをしてしまった。

富村さん、本当に申し訳ありませんでした」と跪いて詫びたのです。

 

余りに突然のことで、私も宮城晴美さんが本を出したことも知らず、

どのように大城君に返事をしていいやら、言葉を失い、黙っていると、

大城君が

「富村さん、近い中に私は本を読めない所へ行くんだ。

富村さん、この眼鏡はフランス製です。いい眼鏡です。

もしレンズが合わなければ、レンズだけ替えてお使い下さい」

と眼鏡をテーブルの上に置きました。

彼は読書家でもあったので、私は「じゃあ、お前は好きな本を読まないのか」

と云ったところ、「本を読めない所へ行くんだ」と――。

 

 私はその意味をすぐには理解できませんでした。

それから一週間ほど経って、彼の友人が私の家に訪ねてきました。

 

 「実は大城明さんが自殺しました。

彼の部屋に富村さん宛の手紙がありました」と云いました。

彼はその手紙で何度も何度も「申し訳ありませんでした」と詫びていました。

またお母さん達にも、富村さんに迷惑をかけたから、お詫びするようにと

遺言があったようです。

その後、大城君のお母さんやお姉さんからも電話がありました。

「申し訳ない。何か困ったことがあったら連絡下さい。

可能なことはして上げます」ということでしたが、

私は「何も困っていません」と申し上げてお断りいたしました。

 

私は大城さんの自殺を考へ(ママ)た場合、まだ沖縄戦は終わって

ないんだと思うと同時に『鐵の暴風』や沖教組が捏造した

座間味戦記を書かなければ、このような自殺は出なかった訳です。

故に私は仮(たと)え手足が不自由でも、車椅子で外へ出かけることが出来る、

今度の大江裁判でも傍聴して、加納であれば事実を訴えようと思い、

裁判所へ行きましたが、残念ながら、傍聴出来ず帰ってきました。

 

 その後、大阪の関係者から二回ほど話を聞きに来ましたが、初対面であり、

どのような方かよく分からないので一部始終は話していません。

だが、先生のお手紙を読み、劇場のママからも、知ってること思ってる

ことを全部包み隠さず先生にお伝えするようにと云われておりますので、

私も知ってることを包み隠さず先生にお話しようと思います。

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出版者と連絡が取れました!沖縄紙が報じない金城重氏の闇の部分

2023-08-19 00:54:49 | 資料保管庫
 
 

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■出版社に連絡がつきました。

昨日音信不通だった出版者からメールが入りました。

ご心配をおかけいたしました。

とりあえずホッとしています。

出版が大幅に遅れたことに対し、当方の言い分は沢山ありましたが、取りあえず印刷が大幅に遅れ時間を争うので、「校正済」として即刻印刷を指示しました。

音信不通の言い訳は、にわかには信じがたいことですが、「夏休み」だったとのことです。

印刷に約一カ月掛かるので、出版は9月中旬となります。

確定しましたら連絡いたします。

申し訳ありませんが、後一カ月お待ち下しさいますようお願い申し上げます。

江崎 孝

 

沖縄紙が報じない金城重氏の闇の部分

2008-07-11

雑誌『WILL』増刊号の内容はいずれも読み応えのある記事で埋まっているが、今日はその中から特に筆者が興味を持った記事を紹介したい。

集団自決問題の真相解明に精力的に調査活動を続けているジャーナリスト鴨野守氏の渾身のレポート「村民多数を手にかけた『悲劇の証人』金城牧師」である。

3月28日の大阪地裁の判決文はA4で二百十九ページに及ぶ膨大なものだが、渡嘉敷島での集団自決の体験者で、裁判長がわざわざ沖縄まで出張して尋問(非公開)した金城重明・沖縄キリスト教短期大学名誉教授への言及が全くなかった。

裁判前後から集団自決体験者の生き残りとして、県内二紙が絶えず金城の一挙一動を大きく報じ、県内各地は勿論本土各県にも講演に出かける、いわば集団自決証言者のシンボルともいえる金城氏の、わざわざ出張までして行った法廷証言が何ゆえ判決文では無視されなかったのか。

これに着目した鴨野氏は、彼のこれまでの証言などを掘り起こしながら、なぜ金城証言は無視されたかを検証し、金城氏がすでに語ったものとは違う「集団自決の真相」に迫った。

雑誌『WILL』増刊号に寄稿した鴨野氏の渾身のレポートはこのような動機で書かれた。

目下販売中の雑誌ゆえ、詳細は書店で購入のうえご購読願いたいのだが、

一言で要約すれば、「沖縄のオジー(重要証言者)は、大ウソツキであった」

ということを鴨野氏は地道な検証・調査によって白日の下に晒したのである。

重要ポイントになる一箇所のみを引用する。(強調は筆者)

< 昨年九月十日午後、福岡高裁那覇支部で行われた所在尋問(出張法廷)で、金城氏は証人として証言した。この尋問は非公開であるが、そこでのやりとりは反訳されて文書にまとめられている。自決の場面を、氏は次のように語っている。
  「多くの家族がそれぞれ身内の者を殺していく。その主役を演じたのは父親です。しかし島では父親は軍隊に行ったり、県外、海外に出稼ぎに行ったりして数は少ない。したがって、そのかわり祖父がその役割を演じる。自分では死ねない幼い子供、女性、老人、そして最終はみずからも死んでいく。そういう手法でした。私たち家族に関しては六名家族ですけれども、父親は離れて、おりません。
ですから手をくだす人はいないわけです。二つ上の兄と私は男性ですので、これは当然自分たちがやるべきことだと、・・・

金城氏は出張法廷で、他の家族は体力のある父親や祖父が身内を手にかけていったが、自分(金城重明)の家族は父親は離れていたので、仕方なく自分と兄が家族に手をかけたのです、と“釈明”している。

ところが鴨野氏の調査によると、金城兄弟は父親も殺しており、その後沖縄紙の発言や講演などでも父親殺しは隠して発言している。

金城氏は何ゆえ一家の大黒柱の父親を殺害していながらそれを隠し続けてきたのか。

鴨野氏の迫真のレポートがその「不都合な真実」に迫っている。

沖縄のマスコミが決して報じることのない、鴨野氏のレポートを読んで、一番胸のつかえの下りた人たちは、渡嘉敷島の集団自決被害者の遺族の方々ではなかっただろうか。

彼らが言いたくてもいえない「真相」を、鴨野記者が代弁してくれた形になったのだから。

鴨野レポートを読む前に、関連の拙ブログを読んでいただけると、より興味深く真実が読み取れるのではないだろうか。

前に読んだ方も、ざっと以下再掲に目を通していただけると幸いです。

 

 

以下は過去ブログ「地獄を見た二人  雉も鳴かずば・・・」の一部抜粋引用です。

 裁判尋問「言葉失った」 「集団自決」で金城さん
<所在尋問で金城さんは被告の岩波書店の証人として出廷した。法廷は非公開だったが、金城さんは「あれは法廷なのか。法廷は公平と正義ではないのか。原告側弁護団は『ああしただろう、こうしただろう』と犯罪を吐かせるような形だった。私は腹が立ったというより言葉を失った」と、怒りを込めて振り返った。
 自らの体験を語りながら金城さんは「軍官民共生共死一体化」という日本軍の方針が住民を精神的に追い込んだと強調。「軍隊なしに集団自決は起こり得なかった。命令がなかったという意見があること自体おかしい」と述べた。>(2/6 16:07)
 
                       ◇
 
>原告側弁護団は『ああしただろう、こうしただろう』と犯罪を吐かせるような形だった。私は腹が立ったというより言葉を失った」
 
金城氏のこの発言を見て思わず脳裏に浮かんだ諺がある。
 
金城氏には失礼だとも思ったが、あえて書かせてもらうと、
 
雉も鳴かずば撃たれまい。
 
悲惨な体験をした金城氏がその体験を語ることに異議を挟むものはいないだろうが、体験の事実を語るに留まらず、自己弁護とも思われる「軍命令」をかたくなに主張し、裁判の証人にまでなって「軍命」を主張すれば、原告側弁護団に厳しく追及されるのは当然のこと。
 
これに対して「私は腹が立ったというより言葉を失った」というのは、むしろ論理の矛盾を突かれ狼狽して「言葉を失った」というのが正しいのではないのか。
 
肉親に手をかけた贖罪意識で、論理を踏みにじるような「軍命」発言をしなければ、弁護団に追及されるような禍を招かずに済んだはず。
 
不謹慎ながら古い諺を想いだした次第。
 
金城重明氏の証言はこれまで地元紙は勿論本土大手紙でも幾度となく報道されている。
 
特に地元紙では肉親を手にかけた「悲劇の主人公」といった点を強調して紹介されているが、マスコミは彼が犯したもう一つの「原罪」については触れていない。
 
裁判ではその「原罪」について原告弁護団に追求された結果、狼狽して「言葉を失った」と想像される。
 
金城重明氏は当時18歳の兄重栄氏と二人で自分の親兄弟のみならず現場に居た他人の親子にまで手をかけていたのである。
 
                      ◇
 
■NHK特番「渡嘉敷島の集団自決■
 
2月1日19時30分に放映されたNHK「渡嘉敷島の集団自決」を見た。
 
「集団自決」の生き残り 金城重栄、重明兄弟が改めて証言した。

弟の重明氏は戦後島を出て本島に在住し「集団自決」の語り部として地元マスコミは勿論本土大手新聞でも再三登場し、証言を綴った著書もある有名人である。
 
一方、兄の重栄氏(81歳)は戦後も島に残り、農業に従事していたというが、少なくとも私の知る限り、これまで証言者としてマスコミに登場することはなかった。
 
弟重明氏の証言はこれまであらゆるところで発言しているので、主として兄重栄氏の発言を追ってみた。
 
6人妹弟の長男で当時18歳の重栄氏は病弱のため兵役に就けなかったが、その分だけ「日本軍の役に立ちたい」という気持ちが多く「島を守ってくれる」と信じる日本軍に親近感を持っていたという。
 
3月25日米軍の艦砲射撃が始まる。
 
その凄まじさは『鉄の暴風』と言われるが、後の計算でいうと、砲弾の平方あたりの破壊力と島の面積からはじき出して、179発の艦砲射撃があれば島は全滅していたはずだが、実際は1250発の砲弾が島に打ち込まれている。 島の有効破壊率というのがあるとすれば実にその69倍の砲弾が打ち込まれたことになる。
 
金城一家は両親と弟妹の6人で壕で隠れるが艦砲射撃は朝から晩まで続き、米軍はついに3月27日上陸を開始。
 
その時軍服らしきものを着た二人の人物が現れ長老達に何か話していたようだが内容は砲弾の音で聞こえない。

その男は手りゅう弾を二個ずつ呉れたが、彼が兵器係であったことは 後で知った。

自分達兄弟には手りゅう弾はなかった。

3時過ぎ村長が「天皇陛下万歳」を叫び、次々「集団自決」が始まった。

「生き残ることへの恐怖」が自決を加速させた。

木の枝で作った木の棒で肉親に自ら手を下す、・・・それは家族への愛であった。  

このまま死ぬより1人でも敵を倒して死のうと切り込みに向かう途中、日本兵に遭遇し島がまだ玉砕していないと知った。 

番組では語られなかったがその後二人は日本軍の陣地で数日過ごすことになる。

                     ◇

重栄氏の顔が画面アップで「木の棒で肉親を手にかける」と言った時、一瞬表情がこわばって重栄氏の言葉が止まった。

その時彼の脳裏には肉親を自分の手にかけた地獄絵のほかにもう一つの地獄絵が思い浮んだと想像する。

重栄、重明兄弟は肉親の他に他人も手にかけていたのだ。

しかもそのうちの数人は生き残って島で生活している。

兄弟にとってこれ以上の地獄が他にあろうか。

弟の重明氏が戦後島を出て宗教の道に入った心境も理解できる。

だが、肉親どころか他人まで自分が手にかけた重明氏は自分達の取った行動を自責の念で「家族への愛だった」と弁明する。

その一方、責任転嫁で「軍の強制だった」と言い続けなければ生きてはいけなかった。

「集団自決」とは何だったのか。

追い詰められた末の、閉鎖空間における極限的な状況が生み出した「狂気」のなせる業であり、その「狂気」は元々人間の内部に潜む。

この解明には歴史家はもとより心理学者の検証研究が不可欠と考える。

                     ◇

 
曽野綾子さんが『集団自決の真相(ある神話の背景)』を出版する1年前の1971年。
 
沖縄在住の作家星雅彦氏が、渡嘉敷村の村長や駐在巡査や村民から「集団自決」の取材をし、それをまとめて雑誌「潮」(1971年11月号)に発表した。
 
雑誌「潮」1971年11月号
特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか
星雅彦(作家) 
               (略)

修羅場と化した西山盆地
一方、西山盆地では、ほとんど無傷でいた阿波連の人たちの間から、無残な殺し合いが始まっていた。それは三百人の集団がアラシのように立ち去った直後だった。遠くで、迫撃砲が激しく炸裂するのを、生き残っている多数の村民は上の空で聞きながら、ある人たちはナタやガマを借りて生ま木を切って棍棒を作っていた。その側で、母や妹や弟を、青年になった息子が、ベルトでつぎつぎと締め殺していた。また手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では、持ってきた農具がそのまま凶器に変わって、血縁へ向かって理解しがたい怨念を打ち出すように、妻子を惨殺しはじめた。
(略)
ウシが気が変になったように、「クルチ、クミソウリ」(殺してください)と小声で繰り返し言っているとき、七歳になる二女は「死にたくない、死にたくない」と泣き叫んだ。長女は妹を腹の下に隠すように押えつけ、ただ恐ろしさのあまりじっとしていた。そのとき、阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている梶棒で撲殺するのだった。 
 
その中の金城重明(現牧師)という十六歳の少年がウシの側へ近寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径十センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押えて後込みしている長女の頭へたたきつけた。ギャツという声が短く走り、頭から血が流れた。少年はもう一度たたきつけた。娘たちは動かなくなった。それから少年は血走った目をむいて、ウシを見た。ウシは祈るように、「重明……」と小声でいって目を閉じた。ガーンと頭が割れるような音がした。ウシは額の上を二度叩きつけられるのを感じた後、意識を失った。 
 

                        ◇

以下は金城氏証言「集団自決は家族への愛」よりの抜粋です。


金城氏「軍命出た」 岩波「集団自決」訴訟

 渡嘉敷島で「集団自決」を体験し、生き延びた金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授(78)が岩波側の証人として出廷。「(島に駐留していた)赤松嘉次隊長が指揮する軍の命令なしに『集団自決』は起こり得なかった」として、日本軍の強制を証言した。
(略)

当時16歳だった金城さんも母と妹、弟を手にかけた。 軍の命令で陣地近くに集められていた金城さんら住民の下に軍の自決命令が出たようだとの話が伝わり、村長の「天皇陛下万歳」の号令で「集団自決」を始めたと具体的に証言した。
 「『天皇―』は玉砕の掛け声。村長が独断で自決を命じるなどあり得ず、軍命が出たということ」とし「集団自決」の直接の引き金に軍の強制があったと明言した。
 金城さんは家族を手にかけた時の気持ちについて、「米軍が上陸し、(惨殺されるかもしれないという思いで)生きていることが非常な恐怖で、愛するがゆえに殺した」と語った。
 (略) 原告代理人は会見で「村長が自決命令を出すはずはなく、軍命だったという金城氏の証言は推論にすぎない」などとして「金城氏は集団自決の隊長命令を語る証人として資格がないことがはっきりした」と述べた。

(琉球新報 9/11 9:38)

                      ◇

(9)防衛隊員、耳打ち「それが軍命だった」

 

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特集<狙われる沖縄>の目次
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❸出版遅延の状況

2023-08-18 05:01:47 | 資料保管庫

■ E-mail: v2@otegarushuppan.com
■ Tel: 0120-969-883(携帯電話、PHSからもご利用いただけます)
※IP電話や海外からは、052-799-7391におかけください。
■ Fax: 052-799-7984

■ 〒466-0848 名古屋市昭和区長戸町4-40
■ 株式会社ブイツーソリューション

■ 平日 9:00~18:00営業(土曜・日曜・祝日休み)

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『沖縄「集団自決」の大ウソ』出版遅延の状況をご報告いたします。

2023-08-17 10:32:06 | 資料保管庫
 
 

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読者の皆様へ

■出版社の都合で多少遅れる見込みです。

8月15日発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』の編集作業が現在進行中です。ただ販促物のチラシ作成など、さらに最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。

そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。

■出版費用の献金のご協力願い

最低限での出版には何とか漕ぎつけましたが、増刷等で皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口3000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

狼魔人日記

江崎 孝

お振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 名義:江崎 孝
  • 記号:17050
  • 番号:05557981

 

ゆうちょ銀行以外からお振り込む場合の振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 金融機関コード:9900
  • 預金種目:普通預金
  • 名義:江崎 孝
  • 店名:708(読み ナナゼロハチ)
  • 店番:708
  • 口座番号:0555798

★すでに御献金賜った方には、出版本を贈呈したいと思いますので、下記メルアドに贈呈本の送り先、住所氏名をご一報いただければ幸いです。

管理人への連絡⇒ezaki0222@ybb.ne.jp

                 ★

 

出版遅延の状況をご報告いたします。 

本作品の出版は一昨年より企画していましたが、一昨年の年末思わぬ体調不良(腰痛)でPCに向かえない状況が続き、一時出版を断念しました。

昨年より体調回復と共に12月頃から名古屋市在の出版社と交渉に入り、1月には原稿も完成し、後は編集・校正・出版の段階に入りました。

ところが2月になって突然出版社より連絡が入り、訴訟を含む内容のため出版後訴訟問題が起きた場合「対応できない」という理由で、書店販売、アマゾン販売は出来ない、とのこと。

ただ編集・印刷・製本のみなら引き受けても良いとのことでした。

ここまで来て「出版できない」との対応に、今から新たに出版社を探すのは、時間がかかるので、止む無く編集・印刷・製本のみで契約しました。

その後4月頃には「終戦記念日」の前には出版可能との連絡がありました。

 

ところが、予想しない出来事が起きました。

8月15日以前から、出版社と全く連絡が付かなくなってしまいました。

担当者は勿論他の編集者にメールしても、無しのつぶてです。

会社に何度電話しても「本日の営業は終了」との留守電のみです。

ファックスを打っても返事はありません。

原稿は印刷前の9分通り完成しているので、印刷に掛かれば数週間で完成のはずです。

いずれにせよ、全く予想外の展開に困惑していますが、しばらく静観して状況が判明次第、ご報告します。

江崎 孝

 

 

 

 

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出版まで後3日、援護法のからくり?、悪意の解釈と善意の拡大解釈

2023-08-12 07:11:04 | 資料保管庫

 

 

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あさ8を終えて

 

読者の皆様へ

■本発売まで後3日

8月15日発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』の編集作業が現在進行中です。ただ販促物のチラシ作成など、さらに最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。

そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。

■出版費用の献金のご協力願い

最低限での出版には何とか漕ぎつけましたが、増刷等で皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口3000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

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援護法のからくり?、悪意の解釈と善意の拡大解釈

2022-11-13

読者のコメントです。
 
■  安仁屋正昭さんのコメント遺族年金はそろそろ

戦後66年、そろそろ遺族会は援護金の受領を辞退してはどうか。
出来ないので、あれば正当な軍人軍属とこれに順ずる戦斗協力者のみに限るべきです。

今回の靖国合祀取り消し訴訟で明確になったことは、援護法の適応を受けるため、申請書を捏造したという事実です。
嘘をついて貰うわけだから、他人に知られては、ばれてしまう。
だから、申請書に記載した内容(どのような理由で何処で戦死したのか)を、家族にすら知らせていないというトンデモ無い事実です。
援護金を貰っている遺族に、「戦死されたご家族は、何時何処でどのように亡くなられましたか?」と聞き取りをし、これを「靖国神社に問い合わせてください」と頼み、照合すれば、

恐らく2万件前後の不合は明らかになるはずです。

場合によっては、詐欺行為の疑いがあるので、援護金不当受領者に対する裁判を起こしてもよいと思います。

金城 実氏率いる、原告人5人中、3人(戦没者8人)は、この対象です。 

 ■ヒロシさんのコメント 不都合な真実 
「チビチリガマに軍人はいなかった」という事を多くの県民が知っていることだと思いますが読谷村史http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu129.htm
>「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。
>避難民約一四〇人のうち八三人が「集団自決」
>真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した

どこにも軍の命令と書いていませんね。
「思い出」として日本の教育が悪かったと書いてあってミスリードさせようという意図がかくれていますけど。

 もう一つ  ヒロシ   
>「援護法」による年金をもらう代わりに民間人が「準軍属」にされるというからくりがあった。
これも年金をもらう申請をしたのは「誰か」というところが意図的に抜けていますよね。
年金をもらうために「遺族が虚偽の申請をして」「沖縄県の多数の遺族を一人でも多く金銭的に救うために」「虚偽とわかっていて」申請を受理した。
付け加えるならば「沖縄以外ではこのような虚偽の申請は受理されていない」わけですから
靖国訴訟は前提からしておかしい訳で最高裁まで行くでしょうけれど「裁判官には真っ当な判決」を望みます

            ★

> 場合によっては、詐欺行為の疑いが(安仁屋さん)

安仁屋正昭さんは「詐欺行為の疑い」と控え目な表現にしているが、より直截的にいえば「公文書偽造による『公金詐取』」といわれても仕方ない行為である。 沖縄人の立場としては言い難い言葉だが、筆者は3年前に「国主導の公金詐取」と指摘しておいた。

>これも年金をもらう申請をしたのは「誰か」というところが意図的に抜けていますよね。
>年金をもらうために「遺族が虚偽の申請をして」「沖縄県の多数の遺族を一人でも多く金銭的に救うために」「虚偽とわかっていて」申請を受理した。(ヒロシさん)

OABテレビの当該番組では、終始「本人(遺族)が知らない間に、靖国に祀られてしまい、本来なら軍人にしか給付されないはずの援護金を国が支給してごまかした」という印象で放映され。 だが、実際は「援護法」適用の申請をしたのは遺族本人であり、裁判では遺族を支援している石原昌家沖国大名誉教授でさえも、「当時文字の書けない人のために申請書を代筆した」と証言しているくらいである。

したがって遺族の虚偽の申請には石原教授も加担しており、「公文書偽造による公金詐取」の共同正犯といわれても仕方が無いだろう。

ちなみにこの石原教授は、QABテレビの当該番組で、「(チビチリガマの集団自決は)「軍の方針で行われた」とデタラメな発言をしているのには呆れるが、学者の名を騙る左翼アジテーターといえば納得できる。

大田少将の「県民斯く戦へり」という電報に応え、県民に配慮した国側の「援護金の拡大解釈」も、沖縄国際大学・石原昌家名誉教授のひねくれた解釈によるとこうなってしまう。

沖縄戦で亡くなった一般住民を靖国に合祀することによって、ヤマト政府が軍事植民地的支配だけでなく、精神的にも沖縄を支配するという仕組みを作り上げていったと思います」(QABテレビ)

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■政府主導の「公金横領詐取」■

現在の厚労省には「隊長命令を記した援護法申請書」は存在しないという。

当時の厚生省は「援護法」申請者に可能な限り許可を与えるため、度重なる政令を連発して軍命を暗示、誘導して申請書を書き換えさせた。

無謬性を誇るはずの官僚のこれらの措置は、今から考えれば違法ともいえる強引な拡大解釈をしている。

違法性の疑のある「隊長命令添付」の申請書の存在を、無謬性を信じる厚労省が認めるはずは無い。

当然「そのような書類の存在は確認できない」といった官僚的言辞で、当該書類(軍の命令書付き申請書)の存在を事実上否定したのだろう。

研究者の調査によると、拡大解釈してでも何とか「援護法」申請を受理しようとした当時の厚生省は、「軍命があれば受理出来る」と何度も誘導の文書を村役所の担当者に送っているという。

■援護金業務での宮村幸延氏の功績■

座間味村役所の援護係・宮村幸延氏は、援護法の折衝のため何度か上京しており、その結果、軍の命令を聞き分けられないと判断される6歳未満児から0歳児でも、63年以降準軍属として確定することになったようである。

そしてそのときの宮村氏の努力は現在も座間味村役所に宮村氏の「功績」として記録に留められていると言う。

現在公式には厚生労省に「軍命を付した援護法の申請書」の存在はないということになっている。

当時の厚生省の「拡大解釈」は、拡大を通り超して「違法解釈」と言われても仕方がない。 

つまり当時の厚生省の措置は、村役場と遺族を含む三者が口裏を合わせて公金を横領したと言われても仕方のない強引な処理である。

■宮村が「侘び状」を書いた理由■

元座間味村遺族会会長宮村幸延氏は、座間味島の自分が経営するペンションに訪ねてきた梅澤元戦隊長に「軍命を出した」と濡れ衣を着せたことを謝罪し、自筆捺印の「詫び状」を梅澤氏に書いた。


詫び状



■宮村が「侘び状」を書いた理由■

おそらくは『鉄の暴風』に死亡したと記述されていることを良いことに、座間味村役所の援護担当の宮村氏は梅澤氏の署名捺印を偽造して厚生省に「命令書付き申請書」を提出していたのではないか。

そして、宮村氏は、死んだはずのお富さんならぬ梅澤さんが生きていると知って驚天動地の心境だったのではないか。

何しろ、梅澤氏の署名捺印を偽造していたとしたら、「公金横領」は厚生省の指導による共同責任だとしても、公文書偽造の個人責任はまぬかれない。

梅澤氏に対する「侘び状」は、そんな宮村氏の個人的な後ろめたさも加わって書いたのではなかったのか。

ところが、その後突然、「梅沢氏に無理やり泥酔させられて書いた」として前言を翻すことになる。

その態度豹変の裏には沖縄タイムスの強力な圧力が推測される。

■「侘び状」による沖縄タイムスの衝撃■

それには、その後の梅沢さんの行動から、宮村氏の心の動きは容易に推定できることである。

その時点(1987年)で、沖縄タイムは『鉄の暴風』の「梅澤死亡」の誤記を、口止め料を富村順一氏に払った上、人知れず削除している(1980年版から削除)。

ところが、梅澤さんが沖縄タイムスを訪問し、「侮辱的誤記」に関し謝罪を求めたため、事態は思わぬ方向へ進展していく。

梅澤さんは昭和63年(1988年)11月1日、沖縄タイムスで対応した新川明氏に「誤記」の謝罪を求め、宮村幸延氏の「侘び状」を見せる。

「軍命派」の総本山の沖縄タイムスとしては、「誤記」に対する謝罪要求に動揺はしたが、謝罪はともかく、軍命を否定した「侘び状」をそのまま是として受け入れるわけにはいかなかった。

沖縄タイムスは次のように考えた。

富村氏の恐喝による口止め料支払いは、万が一露見してもあくまで「誤記」という些細な問題である。 だが梅澤氏の示した「詫び状」を沖縄タイムスが認めて、梅澤氏に謝罪文を書いたとしたら、戦後40年近く主張してきた『鉄の暴風』の歴史観が完全に覆ってしまう。

そうなれば沖縄タイムスの屋台骨を揺るがしかねない重大事件になる。

そこで、タイムスは確認の時間稼ぎのため次回の面談を約束し、座間味村当局に「侘び状」の件と村当局の「軍命の有無」についての公式見解を問いただす。

驚いたのは座間味村当局。 宮村幸延氏の「侘び状」をそのまま認めたら、村ぐるみで「公文書偽造」をして「公金横領」したことを公的に認めたことになる。

そこで苦労の結果考え出した結果はこうだった。

最初は「侘び状は偽物」と主張したが、本人の筆跡だと分かると急遽「泥酔させられて書いた。記憶がない」という苦し紛れの弁解を考え付く。

沖縄タイムスの問い合わせが同年の11月3日なのに、座間味村の回答が半月も遅れた理由は「侘び状」の言い訳を考えるため、宮村氏と座間味村長宮里正太郎氏が四苦八苦したことが推測できる。

結局、同月18日付けの宮里村長の回答は「村当局が座間味島の集団自決は軍命令としている」と主張、沖縄タイムス史観を踏襲したので、新川明氏を安堵させることになる。

約10年前、富村順一氏に梅澤死亡の記事で恐喝された沖縄タイムスにとって、宮村氏の「侘び状」を座間味村当局が認めてしまったら、『鉄の暴風』の最重要テーマの「軍命説」が一気に崩壊してしまう絶体絶命の危機であった。

そこで、「公金横領」や「公文書偽造」で村の弱みを握る沖縄タイムスが座間味村当局に強い圧力を加えたことは容易に想像できる。

沖縄タイムスは社運をかけて宮村氏自筆の「侘び状」を無効化させるため、座間味村と宮村氏個人に圧力を加え、最終的には運命共同体として共同戦線を張ったのだ。

「泥酔して書かされた侘び状は無効だ」という口実で。

一方の梅澤氏は、その頃既に宮城初枝氏の「梅澤さんは命令していない」という証言を得ている上、宮村氏の「侘び状」まで得た余裕からなのか、

座間味村や宮村氏を苦しい立場に追い込むことは避けたい様子が、タイムス訪問時の次の発言から垣間見ることが出来る。

「座間味の見解を撤回させられたら、それについてですね、タイムスのほうもまた検討するとおっしゃるが、わたしはそんなことはしません。あの人たちが、今、非常に心配だと思うが、村長さん、宮村幸延さん、立派な人ですよ。それから宮城初枝さん、私を救出してくれたわけですよ、結局ね。ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に、何のわだかまりも作りたくない。以上です。」(梅澤氏の沖縄タイムスでの発言)

その時、梅澤氏は後年宮城初枝氏の実の娘晴美氏が母の遺言を否定したり、「侘び状」を書いた宮村氏が前言を翻すなどとは夢想もせずに、このような余裕の発言をし、

村当局や宮村氏を窮地に追い込むくらいなら、沖縄タイムスとの謝罪交渉を打ち切っても良いといったニュアンスの発言をしている。

事実その後交渉は打ち切られている。

■厚生省の担当者に沖縄出身者を配属■

当時の厚生省は、校長など地域のリーダーがほとんど無条件に署名した現認証明書をそのまま受け付けるという極めて大雑把な審査をしていたという。

政府側は今から考えると違法性を問われかねない措置をしていたが、何とか沖縄側の申請に対応しやすいように、東京側の厚生省担当者にわざわざ沖縄出身者を配属して、出来るだけ援護法の適用の拡大を計った。

その当時東京側の厚生省担当に配属された沖縄出身者の証言が沖縄タイムスの2005年3月5日付朝刊に掲載されている。

< 沖縄戦の住民犠牲者が、援護法の対象となる「戦闘参加者」として、「該当」するか否か。最終的に決定したのは厚生省だ。その決定に携わっていたのが、沖縄県出身の祝嶺和子さん(77)=静岡県=だ。

 一九八九年に厚生省を退職するまで、中国残留孤児問題を含めて、援護畑一筋に働いた。

 沖縄戦当時、女子師範本科に在学していた。四五年三月、女師、一高女の学生が、看護隊として出陣する集合に、空襲に遭い、祝嶺さんは間に合わなかった。

 大勢の同級生や後輩が「ひめゆり学徒」として、亡くなった。戦後、そのことは「ずっと、頭を離れることはなかった」という。

 多くの友人を亡くし、生き残った元特攻隊員の祝嶺正献さん(故人)と結婚。沖縄から密航で日本本土へ渡った後、五四年、厚生省に入省した。

 沖縄出身ということで「『沖縄のことをこれからやるからね、援護局につくられた沖縄班に来なさい』と上司に言われ、決まっていた配属先から異動させられた」。

 前年から、米軍統治下の沖縄でも、軍人軍属に対して、日本の援護法適用が始まっていた。祝嶺さんの異動は、援護法の適用拡大に向けた動きだったようだ

 「援護では最初に、軍人軍属の、その次に沖縄では学徒たちも戦ったらしいな、ということで、私が引っ張られたのだと思う」

 当時、沖縄班の人員は七、八人。祝嶺さん以外に、もう一人県出身で、後に国民年金課長を務めた比嘉新英さん(故人)がいた。

 沖縄の市町村が受け付け、琉球政府を経由して、厚生省に送られる援護の申請資料。防衛隊など軍人軍属への申請書類に目を通していた同僚が、祝嶺さんに、尋ねた。

 「普通のおじさんやおばさんも、軍のために働いたのか」

 沖縄戦では、一般住民が、武器らしい武器もなく、米軍への切り込みを命じられ、日本軍のために弾薬を運び、「集団自決」を強いられた。・・・ (社会部・謝花直美) >

                    ◇

「集団自決」は戦時中の特殊な状況の下で行われた事件であり、金城重明氏の例のように、たとえ他人の「自決」に手をかして、本人が生き残ったとしても現在の価値観や法律でこれを裁くことは出来ない。

同じように、実際には存在しない軍の命令を政府指導で捏造し、「援護金」と言う形の公金を横領したことも現在の価値観や法律で断罪できない。

ただ、これらの「犯罪」を事実上指導・誘導した当時の厚生省、そして現在の厚労省が先輩の行った「過誤」を認めるはずはない。

従って「捏造命令書付き申請書」の存在を認めるはずはない。

 

【おまけ】

政府が援護法認定のために、実際は存在してない「軍命令」を、「軍命令があった」と申請するように示唆した。

その「政府の書き換え指導」を調査した石原昌家沖国大名誉教授の論文はこれ。

 ⇒政府が書き換え指導  援護法認定、「軍命」基準に

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インド独立はインパール作戦が起点!

2023-08-11 15:04:39 | 資料保管庫
 

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R5 08/11【ゲスト:我那覇 真子】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第180回

 

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。- ニーチェ -

インド独立はインパール作戦が起点!インパール平和記念館に安倍前首相が「平和」揮毫、沖縄とインパール作戦

2020-11-16

沖縄2紙に掲載される戦争談と言えば『鉄の暴風』に代表される沖縄戦と相場が決まっている。

沖縄戦では、住民の被害が強調され日本軍は住民を守るどころか住民を虐殺するのが目的のように報道されている。

いれいたかし氏と言う沖縄の識者などは戦艦大和は沖縄住民の虐殺のため派遣された、と言う有様だ。⇒戦艦大和は悪鬼の軍艦?!2009-01-25 

 

■沖縄にインパール作戦の生存者が現存

ところが11月9日付沖縄タイムスの読者の意見欄の「父の戦争体験」という投稿を読んで「おや!」と思った。

72歳の主婦金城一枝さんが父親の「インパール作戦」について次のようなコメントを書いている。

父の戦場体験「心」の傷深く 金城一枝=72歳

NHKの朝ドラ「エール」を毎日、楽しく見ています。 インパール作戦の回は、亡き父を思い出しました。父は数少ない生き残り兵です。私と2人の弟に、寝物語に戦争の話を良くしてくれました。

撤退の時、ちょうど雨期で荷物は頭上高く上げて歩いたそうですが、それに耐えきれず死んだ人も多数いたそうです。殺し合い、死体の上を逃げまどい、食糧もなく、ヘビやカエル、ネズミはごちそうです。しかも死体さえも。(略)肩はマラリアの傷、腕は銃弾の傷が残っていました。しかし、一番の傷は体ではなく「心」です。

              ★

筆者はNHKの朝ドラを見たことがない。したがって朝ドラ「エール」も観ていない。

投稿者の金城さんは、父がインパール作戦の生き残りで、朝ドラ「エール」の登場人物がインパール作戦に従軍しており、亡き父のことを思い出した模様。

朝ドラ「エール」は作曲家古関裕而氏がモデルとされている。

1944年4月、古関氏は、作家の火野葦平氏らと共に特別報道班員に選ばれ、インパール作戦が行われたビルマに従軍記者として派遣された。

インパール作戦についてウィキでは、こう説明されている。

インパール作戦とは大東亜戦争のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に[帝国陸軍により開始、7月初旬まで継続された、援蔣ルートの遮断を戦略目的として、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦に参加したほとんどの日本兵が死亡したため、現在では「史上最悪の作戦」と言われている。

当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行された。

               ★

沖縄にインパール作戦の生き残りが住んでいたことは驚きだが、八重山日報によると竹富島にもインパール作戦の生き残りが住んでいたらしい。

インパール作戦生還者と面会 インドの音楽家ら竹富訪問

八重山日報 2019/11/7

赤山喜介さん(中央)と感激の対面を果たして喜ぶマンカさん(右)たち=竹富島の赤山さん宅㊧、民俗楽器のリズムに合わせて全員で踊るなど、貴重な経験をした=竹富小中学校㊨

 第2次大戦の大激戦地として知られるインド北東部のインパール(インド・マニプール州)から、同地域を代表する伝統音楽家のマンガンサナさんら3人がこのほど、竹富島を訪問。島に住むインパール作戦の生存者、赤山喜介さん(100)と面会した。同作戦は日本軍の最も凄惨な作戦の一つとされ、日本兵7万5千人の死傷者の大半は餓死と病気によるものとされる。一方で、インド独立のきっかけになった戦いとも言われる。

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沖縄にインパール作戦の生き残りが二人も居て、前述の金城さんの父は75歳まで生き延び、竹富島に在住の赤山さんは100歳と言う高齢でご存命だから驚きである。

俗にインパール作戦は愚将牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行され、日本兵7万5千人の死傷者の大半は餓死と病気によるものとされ兵站を無視した世界一愚鈍な作戦と言われている。

確かに牟田口司令官の言動に批判される部分が数多く存在する。

■インパール作戦はインド独立の出発点だった

だが、インパール作戦は はたして 愚か な 戦い だっ た のか 。

万に一つも勝ち目がない作戦だったのか。

>一方で、インド独立のきっかけになった戦いとも言われる。

最近の研究によると(『日本人が知らない最先端の世界史』福井義高著)、インパール作戦には光と影の「2面性」があるという。

敗者である日本ではインパール作戦の光の部分には目を閉ざし、勝者の視点で影の部分にのみ注目し、同作戦は全く無謀で愚鈍と評価していると指摘している。

■歴史は勝者が作る

「歴史は勝者がつくる」と言われる。 

「戦争に勝ったこと」自体が、勝者の正当化になる。

戦の勝敗の結果が勝者・敗者に対する全体的な評価になってしまう。

戦争に勝ったのは、勝者が「正義で、強い」からで、敗者が「不正で、愚かで、弱い」からであるという評価になりがちである。

もちろん、戦争の戦略的・戦術的な成功・失敗の原因を科学的・技術的に分析することは可能であり、そこに因果性を認めることはできる。

インパール 作戦 と いえ ば、 日本 軍 の 数 ある 戦い の なか でも、 最も 悪名 高い もの の ひとつ で あり、確か に、 おびただしい 人命 損失 を もたらし た 補給 軽視 と 指揮 の 混乱 について は 弁護 の 余地 は ない。  

しかし、 そもそも 戦局 が すでに 日本 軍 に 不利 に なっ た 1944 年 の 段階 で、 あらた に インド に 攻め 入る という 発想 自体 が 戦略 的 思考 欠如 の 表 われ、 という 批判 は 必ずしも 当たっ て い ない。  

■インド独立の二人の闘士

インパール 作戦 を「 チェロ・デリー」(デリーに向かって進軍) すなわち インド 独立 に 向け た 重要 な 第一歩 として、 誰 よりも 熱心 に インド独立を推進 しインド人活動家がいた。

インドでは「ネタージ」(指導者)と崇拝されるチャンドラボースのことである。

インドでは無抵抗・非暴力でインド独立を目指したガンジーではなく、武器を持ってイギリスと戦ったチャンドラボースこそ、インド独立の父と見做されている。

ガンジーとボースの写真

ガンジーより若いチャンドラボースは当初、ガンジーの非暴力・無抵抗のインド独立運動に共鳴し、ガンジーの片腕としてと共に行動していた。

ところが、非暴力での独立運動は現実的でないと悟り、途中から武器を持って戦う独立運動を主導しガンジーとは対極の立場に立つ

チャンドラボースは、「インド独立軍」を指揮してインパール作戦で日本軍と共にイギリス軍と戦うが、日本の敗戦を知ると今度はソ連と共闘するため軍用機で台湾を飛び立つ。 その離陸の際不慮の事故死をする。 

しかし、日本の敗戦のちょうど2年後1947年8月15日、インドは念願の独立を果たす。

ボースはインドの独立を知らないまま事故死するが、現在インドではインド独立の父として尊敬されている。

では何故インド独立の父は非暴力のマハトマ(聖者)ガンジオ―ではなく、武器を持ってイギリスと戦ったネタージ(指導者)チャンドラボースなのか。

■インド独立50年記念祝典の出来事

1997年8月15日、インド議会は独立50年を祝って、独立闘争の三大英雄、ガンジー、ボース、ネルー(インド初代首相)の肉声録音を流した。 

その際、最大最長の拍手喝采を浴びたのは非暴力のガンジーではなく、武器を持って戦ったボースであった。

ボースはインドでは圧倒的人気にも関わらず、日本ではほとんど知られていない。

その理由は、ガンジーの非暴力の闘争が日本の左翼リベラリズムに大きく支持されていたからだろう。

又「歴史は勝者が作る」の論で言えば、ボースはイギリス軍と戦ったとは言え、連合軍にとっては悪の枢軸国日本の傀儡であり、ボースが参加した「大東亜会議」などは、勝者の歴史では茶番劇とはしか見做されていない。

それに日本でボースと言えばチャンドラボースの大先輩で、中村屋にカレーを紹介し日本に帰化した中村屋のボースと混同されるせいもある。

2019年6月22日、インドのインパール市で「インパール平和祈念館」の除幕式が行われた。

日本では評判の悪いインパール作戦を平和記念館で顕彰する行事を、報道するメディアは殆どなかった。

だが、同記念館には安倍首相自筆の「平和」の揮毫が飾られ、記念式典ではインドの音楽団が日本民謡として「安里やユンタ」を披露した。

その証拠の映像がこれ。

「安里屋ユンタ」が披露された場面。

 

【おまけ】

【インパール作戦って?】ビジネスマン必見!失敗の本質? " 75周年記念式典" / what is the Imphal strategy??

 

 

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出版まで後4日[戦後78年]集団死壕 文化財に指定 うるま市「継承の契機に」

2023-08-11 08:57:59 | 資料保管庫

 
具志川グスクの壕。左の慰霊碑には「集団自決」(強制集団死)で亡くなった13人の名前が刻まれている=7月26日、うるま市具志川(市教育委員会提供)
具志川グスクの壕。左の慰霊碑には「集団自決」(強制集団死)で亡くなった13人の名前が刻まれている=7月26日、うるま市具志川(市教育委員会提供)
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[戦後78年]集団死壕 文化財に指定 うるま市「継承の契機に」 具志川グスク 13人犠牲

 
2023年8月11日 5:00有料

 【うるま】うるま市は9日、同市具志川の具志川グスクとグスクに造られた壕の二つを市文化財に指定した。壕は沖縄戦で米兵に追い詰められた具志川の警防団の男女13人が「集団自決(強制集団死)」で犠牲になった場所。慶良間諸島や伊江島、読谷村での「集団自決」は広く知られているが、今回の指定で「うるま市でも『集団自決』が起きたことを後世に伝える契機にもなり得る」と専門家は指摘する。(中部報道部・又吉朝香)

 今回の壕とグスクの文化財指定は所有者である具志川自治会が2020年、市に申請し指定に至った。

 壕は1944年に日本軍が構築。日本軍が南部に移動後、字具志川の住民や15~32歳の男女23人による警防団が身を潜めていた。

 45年4月4日、侵攻してきた米兵に追い詰められた警防団は、日本軍から渡された手りゅう弾で「集団自決」を実行。13人が死亡し、生存者10人も大けがを負った。

 県教育委員会の2014年の調査によると県内に戦争遺跡は1077カ所あるが、文化財指定は具志川グスクの壕で28カ所目。戦後78年、戦争体験者が高齢化し、壕の劣化が進む中、文化財指定された戦争遺跡は全体の2・5%にとどまっている。

 壕の入り口には慰霊碑が建っているが、周辺は草木が生い茂って足場が悪く、訪ねる人は少ないという。

 また、1955年に発見された具志川グスクは14~15世紀に造られたとみられる。火葬骨や南九州から持ち込まれた土器やガラス小玉が見つかり、当時の文化交流や葬制を知る上で重要な遺跡と判断され、指定に至った。グスクには拝所があり、地域住民によってウマチー行事が年4回開催されている。

 具志川自治会の高江洲朝美会長は「今後はグスクや壕の環境整備に力を入れ、地域住民にとって大切な場所にしていきたい」と話した。

平和学習に活用期待

吉浜忍さん

沖縄国際大元教授

 具志川グスクとグスクの壕がうるま市の文化財に指定された意義は大きい。特に、自治会主体で取り組んだことを高く評価したい。文化財指定は市町村が独自で動く場合が多いが、土地の所有者が複数いたり、所有者が見つからないなどで指定に至らない場合も多い。

 市の文化財指定を受け、具志川グスクや壕を訪れる人は急激に増えるだろう。大型バスが来た場合の駐車場やガイドの手配など、自治会だけの予算や人手では手に負えなくなる。市のバックアップ体制が必須だ。

 今回を契機に、市は市内の他の戦跡の文化財指定や整備に取り組んでほしい。川田の海岸線沿いには、米軍の上陸を警戒して護岸に銃を固定するための銃座がある。平敷屋や伊計島には砲台跡など、他市町村にはない戦争準備のために造られた遺跡が数多く残っている。市独自の戦跡巡りのコースをつくれば、より効果的な平和学習のコンテンツとなり得る。

 市町村が文化財指定している戦争戦跡は28カ所で、県指定は1件もない。戦後78年が経過し、県内各地の壕は劣化が進み、平和学習のコンテンツとしての活用が年々難しくなっている。これを契機に、他地域でも文化財指定の取り組みが進むことに期待したい。

(談、沖縄近現代史)

(写図説明)(上)具志川グスクの壕。左の慰霊碑には「集団自決(強制集団死)」で亡くなった13人の名前が刻まれている

(写図説明)(下)具志川グスク=7月26日、うるま市具志川(市教育委員会提供)

 
全ての写真を見る 3枚
                ★
2023年8月現在、70数年前沖縄の座間味村、渡嘉敷村でお起きた集団自決は「軍命だった」という軍命論は、客観的証拠は皆無で、否定されている。
したがって、2007年9月29日の「高校歴史教科書検定意見の撤回を求める県民大会」(11万人集会)で撤回を要請した文科省検定意見は、現在も有効であり、教科書に「軍による集団自決命」の文言は記載できない。
そこで「軍命派」の先頭を行く沖縄2紙は「集団自決(強制集団死)」などと、あたかも「軍命による集団自決」が事実であるかのような印象記事を掲載して読者を誤誘導している。
ちなみに上記記事の「警防団」は民間人であり、日本軍ではない。
【おまけ】

32軍はハーグ条約違反!渡名喜沖国大講師の空虚な議論【ハーグ陸戦条約】

2023-04-29 10

被告の大江健三郎は沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』や一連のタイムス記事に作家として空想力を刺激され、『沖縄ノート』で原告の元軍人を誹謗中傷し、原告の名誉を著しく棄損した。 大江氏が『沖縄ノート』を書く際、根拠としたのが『鉄の暴風』は、その内容がすべて正しいという前提だった。ところが裁判の審議の過程で、『鉄の暴風』内容が間違いだらけであることが判明した。

しかし、「戦後民主主義」の信者と思われる裁判長は「大江被告が、当時の沖縄戦の研究レベルでは『鉄の暴風』の内容を真実と考えても仕方なかった」という「真実相当性」という強引な解釈で大江被告の名誉棄損を免責にして大江勝訴が確定した。

結局、大江被告は名誉棄損は免責されたが、大江が前提にした「軍命による集団自決」は立証できなかった。

大江被告が『沖縄ノート』を書いた間違った前提は概略次の2点だ。

➀集団自決命令が事実である(p.169-17)

②渡嘉敷島の戦隊長・赤松嘉次大尉の(沖縄を再訪する際の)気持ちを、彼が書いた又は語った一つの実在資料も示さず、「想像」・「推測」していること。(p.208)

                 ★

2022年6月30日付沖縄タイムス16面トップに次の見出しが躍っている。

沖縄戦法的な戦争責任問う 

32軍に住民処罰権無し 渡名喜守太沖縄国際大学非常勤講師

ハーグ・ILО条約にも違反

内容を一部引用しよう。

《■天皇大権を干犯

沖縄戦において日本軍の沖縄人に対する加害行為の法的問題について考える場合、国内法と国際法の観点から考察できる。

国内法上の問題について考えるにあたって、当時の沖縄の法制上の位置づけを確認し、そこから日本軍に与えられた権限の範囲を確認しておきたい。

沖縄は日本の一県で日本の憲法や法律が施行、適用される日本の法域だった。行政官庁である沖縄県が置かれ、中央から内務官僚である知事が派遣され統治されていた。軍事的には1937年に改正された軍機保護法における特殊地域に指定されていた。昨年成立した土地利用規制法の「注視区域」に沖縄全体が指定された場合、当時の状況に一気に近づく。

沖縄戦当時は米軍の包囲を受けており、第32軍の作戦地、国内戦場であった。これは典型的な合意地境であり、戒厳令を施行する条件を満たしていた。》

 

執筆者の渡名守太沖縄国際大学非常勤講師がこの記事で言いたいことは、概略こうだ。

沖縄戦の際、沖縄では戒厳令は発令されていなかったので、第32軍が民間人に軍命を出す法的権限は無かった。

ここまで読むと、『鉄の暴風』に書かれている「軍命」は越権行為であり、実際軍命による集団自決はあり得ない、と「軍命否定論」に繋がってしまう。

ところが、ここから渡名喜氏の論旨は暴走に突入、急転直下「32軍の沖縄住民虐殺があったのはハーグ条約違反」と主張する。

渡名喜先生の論理の粗雑さに笑ってしまった。

「軍命による住民虐殺(集団自決)」は、大江岩波訴訟の審議でも立証できなかった。 しかし渡名喜氏は「軍命があった」という間違った前提で、新聞の四分の一を駄文で埋めている。

ちなみみに「ハーグ陸戦条約」とは、いわゆる戦時国際法の一つで、1899年のハーグ平和会議で制定された多国間条約。

本条約では、「戦闘員・非戦闘員の区別」「使用してはならない戦術・兵器」「宣戦布告・降伏・休戦」など、戦争における義務と権利が具体的に規定されている。

渡名喜氏は本条約が禁止する「軍隊による民間人虐殺」を見て小躍りして喜んだのだろう。 そして強引に「32軍の民間人虐殺」に結びつけたのだろう。これこそが大江岩波集団自決訴訟でも立証できなかった「間違った前提」である。

1944年10月10日、米軍は10・10那覇空襲で「民間人の大量虐殺」を行っているが、これこそハーグ条約違反そのものであり、慶良間島集団自決が始まった翌年3月26日は、島を囲む大量の米軍艦で海が黒くなるほど海を埋めつくしていたという。 戦う術も逃げ場もない島の住民に雨あられと艦砲射撃で攻撃し「島民のジェノサイド」をしていた。 ついでに言うと1945年3月26日、米軍は座間味島上陸と同時にニミッツ布告1号を発令し、全沖縄を米軍統治下に置いた。 自分(米軍)が「占領統治下」に置いた民間人に艦砲射撃で攻撃し住民をパニックに陥れた。

これこそが渡名喜先生が批判する「ハーグ条約」違反ではないのか。

 

ニミッツ布告1号

 

最後に繰り返す。

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日本人が忘れてはいけない歴史、終戦が決定したのは「昭和20年8月9日23時50~10日2時すぎ」

2023-08-10 05:34:22 | 資料保管庫

 

 

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終戦の日というと昭和20年8月15日の玉音放送と言われている。

だが実際の「無条件降伏」を記したポツダム宣言を受諾したのは昭和20年8月10日の午前2時過ぎであり、天皇の処刑も含む無条件降伏の最終決断をしたのは昭和天皇であった。

 

真面目なライブです「昭和20年8月9日23時50~10日2時すぎに、起こったことは、すべての日本人が忘れてはならない」

今から78年前の今日、宮中御文庫附属庫の地下10メートルの防空壕の一室で、どんなことがあったか。これは私たち日本人が永久に忘れてはならない出来事です。

【鈴木貫太郎の最期】日本の滅亡をくいとめた軍人。戦争末期に首相に就任、戦争終結に向けて尽力した男。

【おまけ】

昭和天皇とマッカーサーの絆!アメリカ訪問時、米国民の心を鷲掴みにした昭和天皇のスピーチに感動

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続・山本五十六は名将か愚将か、いま問い直す太平洋戦史(24)軍政家・山本五十六の実像(上)

2023-08-09 10:53:01 | 資料保管庫
 

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【6月12日配信】みんなで学ぼう!日本の軍閥 第2部第6話(最終話)山本五十六~名将か愚将か~ 杉田水脈 倉山満【チャンネルくらら】

 

 

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(24)軍政家・山本五十六の実像(上)曖昧だった軍縮への姿勢

 

「条約派」粛清で海軍中枢に進出

山本五十六と堀悌吉(1910年代)

“悲劇の名将”像定着

山本五十六に対する戦後の評価は、概(おおむ)ね肯定的である。即(すなわ)ち、親英米の山本は海軍の良識派に属し軍縮の実現に努力、また対米戦を避けるため日独伊三国同盟締結に強く反対した。だが思いは叶(かな)わず、それどころか対米戦の最高責任者を命じられる。己の信念と職責の相克に苦しみながらも、卓越した戦略家の山本は日本が対米戦で勝利し得る唯一の方策として真珠湾作戦を発案、万難を排し奇襲攻撃を成功させ世界戦史に名を遺(のこ)す大戦果を挙げた。

だが不運にもミッドウェイ海戦で敗北し、初戦の優位は失われる。戦局を立て直すため自ら最前線に赴き一線部隊の指揮を執るが、敵機の攻撃を受け壮烈な戦死を遂げる。最後まで平和を願いながらも、一旦(いったん)開戦となれば最も勇ましく戦い、散った“悲劇の名将”。また情に厚く部下思いで、「やって見せ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ」の格言も残しているように人使いの名手であった。

こうした山本五十六像が定着しているが、太平洋戦争の再考に当たり、開戦前から戦争前半を指揮した山本五十六について軍政、軍略の両面から光を当て直してみたい。

壮年期まで目立たず

山本五十六は明治17年4月4日、JR長岡駅に程近い玉蔵院町(現・長岡市坂之上町)で、旧越後長岡藩士高野貞吉の六男に生まれた。長岡中学を経て明治34年に海軍兵学校に合格、成績は2番だった。しかし入校後、成績はトップクラスを維持できず、卒業時の席次は192人中11番。既に日露戦争が始まっており、内地での練習航海を経て巡洋艦日清に配属され、日本海海戦に参加。前甲板主砲砲身の破裂で負傷し、左手の中指と人差し指を失う。

ロンドン滞在中の山本五十六(中央、1934年)

大正2年海軍大学校に入学、在校中に旧長岡藩家老の山本家を継ぐ。大正8年から10年までハーバード大学に留学、全米各地を見て回るが英語の成績は最低評価だった。帰国後霞ケ浦航空隊教頭として若い搭乗員の育成に当たるが、大正15年駐在武官として再び米国勤務を経験する。以後昭和3年から10年にかけて空母赤城艦長、海軍航空本部技術部長、第1航空戦隊司令官、海軍航空本部長と航空職域を歴任。その間、昭和4年にロンドン海軍軍縮会議全権委員の随員として渡英、昭和9年には第2次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の代表を命じられるが交渉は決裂。帰国後、永野修身(おさみ)海相に請われ昭和11年、海軍次官となる。

こう書くと輝かしい経歴を重ねたかに見えるが、必ずしもそうではない。後年の存在感の大きさを考えれば意外だが、青年期から壮年にかけての山本は一頭抜けたエリートとの評価を得ていない。寡黙で真面目だが同期の中でも目立つ存在ではなく、特段のエピソードも残していない。山本はトップクラスが必ず配属される軍令部に勤務した経験もない。海軍の本流ではなかったということだ。

山本の生家に残る勉強部屋

山本の存在が広く知られるようになったのは軍縮会議に参加した頃だが、ロンドン軍縮会議の随員に選ばれたのは、同期で無二の親友、堀悌吉(ていきち)軍務局長の強い推薦があったからだ。堀は海兵・海軍大学ともに首席で卒業した俊英で、彼の頭脳は“海軍の宝”とまで言われた。

大正から昭和初期にかけて、海軍の軍備制限を目的に一連の軍縮交渉が続けられた。当時日本海軍内部では、英米との協調を重視し軍縮条約締結を容認する条約派と、米国に勝つには対米7割の海軍力が必要でそれを下回る条約を容認しない艦隊派と呼ばれた英米強硬派が対立していた。堀は、条約派の筆頭格であった。

ワシントンの軍縮会議で、米英日の主力艦(戦艦)と空母の保有比率が5・5・3と定められた。首席全権加藤友三郎は対米6割の制限を受け容(い)れたが、艦隊派は強く反発。次いで補助艦制限を目指すロンドン軍縮会議が開かれた。会議は難航するが、英大使松平恒雄と米全権上院議員リードの話し合いで妥協が成立、首席全権若槻礼次郎は海軍随員らに諮ることなくこれを容れ、再び7割を下回る内容で決着した。

対米7割に固執する山本は、財部(たからべ)彪(たかし)海相に再度の交渉を具申し、若槻に退けられている。この時、大蔵省随員の賀屋(かや)興宣(おきのり)(開戦時の蔵相)が財政上の制約に触れると、いきなり山本は「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と怒鳴り付けている。この逸話からうかがえるように、山本は明確な対米7割論者で、財部に再考を迫った強い姿勢が艦隊派から評価された。

本国指示に従う官吏

ところが「妥協案を受諾せよ」の訓令を受けるや、なおも反対を叫ぶ他の随員らの説得役に回っている。山本は堀のように政治的識見を発揮する条約派ではなかったが、政府の方針に逆らう強硬な艦隊派でもなく、本国の指示に従い対米7割を心中に押し留(とど)める忠実な官吏だった。また艦隊派頭目の軍令部総長伏見宮に対する彼の態度も終生曖昧なものだった。

昭和9年の大角(おおすみ)岑生(みねお)海相の人事で、山梨勝之進や左近司(さこんじ)政三(せいぞう)ら条約派が予備役に追い込まれた。だが先の強硬な態度が艦隊派に歓迎されたためか、山本は粛清に遭わず第2次ロンドン軍縮会議予備交渉では代表に選ばれている。もっとも政府は交渉の決裂を見越し、海軍も無条約時代に目を向けていた。

山本のロンドン滞在中、堀悌吉が艦隊派の策謀で海軍を追われる。失意に浸る山本は自らも海軍を辞すると言いだすが、英米協調を説く条約派の指導者が相次ぎ海軍を去ったことが彼の出世に幸いした。彼らの抜けを埋める形で山本五十六は海軍次官に栄進、中央の舞台に躍り出る機会を得たのである。

(毎月1回掲載)

戦略史家東山恭三

 

 

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史 (25)軍政家・山本五十六の実像(中)航空機を対米必勝の切り札に

 

防御軽視、戦闘機より攻撃機重視

エアパワーの重要性を説き空軍独立論を唱えたウィリアム・ミッチェル米陸軍大佐
エアパワーの重要性を説き空軍独立論を唱えたウィリアム・ミッチェル米陸軍大佐

軍縮会議契機に本腰

山本五十六が軍政面で力を注いだ分野に航空機がある。元来砲術屋であった山本が航空機に関心を持ったのはハーバード大学に留学中、当時の米国駐在武官で海軍の航空機開発を主導した上田良武大佐の薫陶を受けた時といわれる

帰国後、海軍大学校の教官になった山本は戦艦と航空機の攻防を論じ、将来の航空戦力の重要性を説いている。だが彼が航空機の開発・整備に本腰を入れるようになった最大の契機は、前回取り上げた軍縮会議だった。ワシントン軍縮会議で日本は対米7割を確保できず、自ら参加したロンドン軍縮会議でも対米7割を下回る不本意な結果に終わった。

そこで、軍縮の対象とならない航空機を対米戦必勝の切り札と考えたのである。軍令部勤務を経験せず海軍では傍流の山本が自らの将来を賭す上でも、航空という未知の分野は魅力的であった。さらに言えば、山本が海軍の公式教義であった“大艦巨砲主義”に抗(あらが)うかのように航空主兵主義を掲げたのは、海軍の戦略を司(つかさど)る軍令畑に加われなかったことへの自身のコンプレックスも影響していたように思われる。

山本は自ら航空職域を志願、大正14年に霞ヶ浦航空隊の教頭となり、一匹狼(おおかみ)で職人芸的な技量を誇る搭乗員らを鍛え直し、航空部隊の組織づくりに注力した。駐在武官として再び渡米するが、当時ミッチェル大佐の空軍独立論や戦艦無用論が米国で話題に上っていた。その議論にも刺激を受けたと考えられる。

霞ヶ浦海軍航空隊
霞ヶ浦海軍航空隊

帰国後、山本は一線部隊と開発部門の双方で一層航空機に深く関わるようになる。特に航空本部技術部長の時には、互いに競わせる形で民間企業の育成を図り、国産航空機の開発体制整備に尽力。また艦艇の対米劣勢を補う戦力として、陸上基地から発進し米戦艦を雷爆撃できる航続距離の長い爆撃機(中攻)の開発を主導した。

本海軍の漸減邀撃(ようげき)戦略では、日本近海での戦艦同士の艦隊決戦で雌雄を決する前に、米太平洋艦隊の戦力を少しでも減殺させるため、より前方の海域で潜水艦等補助艦による夜戦とともに、航空機による反復攻撃が想定されていたからだ。

山本や松山茂航空本部長による中攻のアイデアが、九六式陸上攻撃機やその後継の一式陸上攻撃機の誕生に繋(つな)がった。山本が航空本部を離れ海軍次官に就任した翌年(昭和12年)、海軍は三菱重工業に新型戦闘機十二試艦上戦闘機の開発を指示した。後の零式艦上戦闘機である。山本が直接零戦の開発を指揮したわけではないが、彼の努力があって海軍における国産航空機の開発体制が軌道に乗ったことは間違いない。

搭乗員不足が深刻化

太平洋戦争初頭の凱歌(がいか)は、山本が説き、かつ実践に努めた航空主兵主義の輝かしい成果であった。真珠湾攻撃とマレー沖海戦における日本の鮮やかな勝利は、それまでの戦争の常識を覆した。列国は戦艦が航空機には勝てないことを思い知らされ、戦艦主体の戦略から航空機と空母を主体とする戦略へと切り替えていくのである。

九六式陸上攻撃機
九六式陸上攻撃機

かように山本五十六は、戦間期において航空機の重要性を説いた第一人者であると同時に、海軍航空を世界最強の戦力に仕上げた最大の功労者と言える。だが半面、彼の方針は問題や弊害も残した。

戦前の日本海軍では攻撃重視の発想から、戦闘機よりも攻撃機を重視する立場が力を得るようになった。当時、九六式陸上攻撃機に九五式戦闘機が追い付けない状況があり、攻撃機は速度も航続距離でも戦闘機を凌(しの)いだ。しかも攻撃機は防護機銃を備えており敵戦闘機の攻撃も排除できると考えられたからだ。戦闘機無用論まで主張された。

中攻開発を主導したことからも窺(うかが)えるように、山本は戦闘機よりも攻撃機を重要視する派の代表格だった。山本技術部長の下で昭和11年度から戦闘機搭乗員の養成比率は大幅に引き下げられ、戦闘機隊も半分以下に縮小された。

士官搭乗員の養成数を見ると、昭和4年から同10年までの7年間の卒業者218人中、戦闘機要員は43人で全体の約20%を占めていたが、昭和11年以降は13%に激減してしまった。だが日華事変で、中国の戦闘機に最新の九六陸攻が100機以上撃墜され、援護戦闘機を伴わない攻撃機の脆弱(ぜいじゃく)性が露呈した。さらに太平洋戦争に突入すると、戦闘機の部隊や搭乗員の絶対的な不足が深刻な問題となる。

航空白兵主義を招く

そもそも攻撃絶対主義を唱える日本海軍は、攻撃機開発に当たり爆弾や魚雷の搭載量を最大化することを至上命題とし、機体や搭乗員の防御を無視した。圧倒的な攻撃力があれば防御は不要という発想だ。山本もその路線を強く支持し、さらに加速させた。そのため、援護戦闘機のない攻撃機は敵戦闘機の攻撃や水上艦の対空砲火を受けると忽(たちま)ち火を噴いた。世界屈指の戦闘機零戦は重い20ミリ機銃を2門搭載したが、機体軽量化のため防御が無視されたのは攻撃機と同様だった。

米戦において海軍航空隊は勇ましく敵艦隊に突入したが、陸兵の切り込みと同様、次々に撃ち落とされ、徒(いたずら)に優秀な搭乗員と航空機を喪失させていった。攻撃ばかりに目を奪われ、援護戦闘機や機体防御の必要性を無視した発想が、航空機や搭乗員の急速な消耗による航空戦力の著しい低下を招いたのである。水上艦艇の劣勢を補うべく航空機を対米戦の中心に据えた山本は、海軍戦史に新たなページを開いたが、同時に彼の進めた防御徹底軽視の路線が航空戦力の早期瓦解や航空白兵主義を招いたのである。その行き着く先が特攻であった。

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太平洋戦争の最大の英雄と言われる山本五十六は名将か愚将か、軍政家・山本五十六の実像(下)三国同盟反対は組織防衛から

2023-08-08 13:30:45 | 資料保管庫

 

 

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太平洋戦争の最大の英雄と言われる山本五十六は名将か愚将か
 
事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。- ニーチェ -

戦国時代から明治維新にかけてリアリズムを基調にした小説で国民的作家と称される司馬遼太郎は、太平洋戦争をテーマにした昭和時代を小説化することが出来なかった。

本や映像として残るインタビューなどを総合すると、司馬自身も戦車隊に属していたので、 ノモンハン事件について調べていたらしいが、結局小説として書くことはなかった。「一行も書けなかった」本人が述べている。その理由は、司馬本人も確かNHKのインタビューで、 「(昭和のことを)書いたら1年も持たずに気が狂って死ぬんじゃないか。私には書けなかった」 「昭和という時代は、私にとって書いていて実に精神衛生に悪いものを持っています。それをいつか若い世代が昭和を解剖して欲しい。私の言葉はそのきっかけとして若い人に託したい」 と言っている。 上の言葉は亡くなる数年前の言葉で、エッセイなどを見ても自分の寿命が長くないと本人が悟っての時期なので、事実上の遺言とも言えるかもしれない。

今だからこそ、今一度、司馬遼太郎氏の言葉に耳を傾けたい

司馬作品がNHKの大河ドラマでは最も人気があるが、いずれも戦国時代から明治期に活躍した偉人英傑の物語である。

司馬作品は昭和期を描かなかったので、当然太平洋戦争時の英雄は大河ドラマには登場しない。

一方、太平洋戦争の英雄として現在でも国民的人気の高いのは山本五十六連合艦隊司令長官である。

次の大河ドラマは司馬作品とは離れて山本五十六大将を主人公にしたら視聴率を稼げるという声もある。

その証拠に映画ではこれまで山本五十六を主人公にした作品が制作されている。

 

【山本五十六 解説】何度も映画化された山本五十六と連合艦隊映画の魅力を徹底解説!/山本五十六映画の超大作「トラ・トラ・トラ!」/

 

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(26)軍政家・山本五十六の実像(下)三国同盟反対は組織防衛から

 

受け入れ難かった陸軍の対ソ戦シナリオ

米内光政海相(左)と山本五十六次官
米内光政海相(左)と山本五十六次官

2次交渉に関与せず

昭和11年12月、山本五十六は廣田弘毅内閣の海相となった永野修身(おさみ)に請われ、海軍次官に就任する。その6日前(11月25日)、日本はドイツと防共協定を締結、翌年にはイタリアが加わり三国防共協定となった。3年9カ月にわたり山本が海軍次官の職にあった間、この防共協定を事実上の軍事同盟へと強化する動きが生まれる。山本は永野の後任となった米内(よない)光政海相、井上成美軍務局長と共に、身を挺(てい)して三国同盟に反対したと今日では理解されている。しかし、実態は必ずしもそうではなかった。

三国同盟締結の動きは、1次と2次に分けて考える必要がある。第1次交渉は、昭和13年夏から14年夏にかけての三国防共協定強化の動きである。これは、独ソ不可侵条約の締結(14年8月)で頓挫した。続く第2次交渉は、昭和15年夏から三国同盟が実際に締結された同年9月までを指す。このうち三国同盟の是非を巡り論議が沸騰したのは、ドイツの破竹の勢いに幻惑され締結を強く迫る陸軍に対し、対米戦誘発の危惧から海軍が反対し鋭く対立した第2次交渉の時である。この時、既に山本は海軍次官の職を離れ、連合艦隊司令長官として海に出ており、第2次交渉には全く関わっていない。

井上成美軍務局長
井上成美軍務局長

山本が海軍次官だった当時の第1次交渉では、防共協定を強化し対ソ包囲網を形成することが主な目的とされ、対米戦問題はさほど意識されなかった。端的に言えば陸軍が北進するための同盟締結であり、米内や山本が反対したのは、独伊への接近で英米を刺激することよりも、陸軍の思惑に乗せられ海軍が対ソ戦に引き摺(ず)り込まれることを嫌ったからである。

大陸での戦争となれば、陸軍が主で海軍は従となる。英米を睨(にら)み南に目を向ける海軍からすれば、北進は受け入れ難いシナリオだ。しかも陸軍の強化が優先され、海軍の予算は削られるため、米海軍相手に軍備の大幅増強を目論(もくろ)む海軍の思惑は狂ってしまう。海軍の反対は組織防衛の側面が強く、対英米関係の悪化が反対の主な理由ではなかった。山本の反対も陸軍への消極的抵抗だった。英米戦回避のため自ら積極的に陸軍に働き掛けた事実はない。

英米協調意識希薄に

日英同盟はとうに破棄され、さらに軍縮会議で海軍は英米に不本意な結果を強いられた。山本にとっても忘れ難い屈辱の記憶である。そのうえ南進を考える当時の日本海軍にとって、英米はその途(みち)を塞(ふさ)ぐ障害となる。昭和14年2月、米内海相の下で海南島を武力占領し南に歩を進めたことからも、英米協調の意識が海軍から薄れていたことがうかがえよう。

右翼が山本を付け狙い、山本も遺書を準備していたのは事実だ。だが、陸軍に逆らったため右翼に脅され命を狙われた者はほかにも大勢いた。戦後、山本を語る際にこのエピソードが強調され、対米戦回避のため命を賭して同盟締結に反対したというイメージが生まれ、さらにそれを作家・阿川弘之が喧伝(けんでん)し、通説化させたのではなかろうか。

阿川は、米内、山本、井上の海軍三羽烏(さんばがらす)が同盟締結に逸(はや)る陸軍の前に立ちはだかったかに書くが、3人がトリオを組んでいたのは第1次交渉の時で、それも僅(わず)か1年10カ月にすぎない。しかも当時は、陸軍も同盟締結に未(いま)だ慎重な姿勢を取っていたことを付言しておく。

第2次交渉の頃には既に英独が戦端を開いており、同盟を結べば英米を刺激することは明らかだった。その一方、三国同盟にソ連も組み込めば英米を牽制(けんせい)できる。北に備え南に出やすくする同盟とも言えた。締結を迫る陸軍に対し、対米英戦に自信が持てない海相吉田善吾は強く反対した。しかし病に倒れ、後任の海相となった及川古志郎は陸軍に屈する。

及川古志郎海相
及川古志郎海相

昭和15年9月15日、及川海相は海軍首脳を集め、海軍として三国同盟締結已(や)む無しの意見集約を図った。もし海軍が反対すれば、近衛文麿(このえふみまろ)内閣は総辞職に追い込まれる。内閣崩壊の責任を自分は負い得ないというのが理由だった。会議では伏見宮軍令部総長が「ここまで来たら仕方無いね」と発言し、異論を抑えた。

戦略家の顔が前面に

会議の最後で山本が立ち上がり、自分は大臣の統制に絶対に服従する者であり異論を挟む考えは毛頭無いが、唯(ただ)一点、心配に絶えぬ点があり、それを尋ねたいと切り出した。そして「自分が海軍次官だった当時、企画院の物動計画では8割が英米勢力圏からの資材で賄われることになっていた。三国同盟を締結すればそれは失われるので、不足を補うためどのように物動計画を変更したのか聞かせてほしい」と及川に迫った。

現状では航空兵力が不足しており、陸上攻撃機を2倍にせねばならないと発言したとも伝えられる。「対米戦には戦闘機千機、中攻千機が必要」というのが山本の持論だったが、日本の生産力で陸攻を2倍に増やすなど不可能なことは誰よりも彼がよく知っていた。これに対し及川は、「色々御意見もありましょうが、この際は三国同盟に御賛成願いたい」と答えるのみだった。

第2次交渉の際、公の場で山本が三国同盟に関し自身の考えを吐露したのは、巷間(こうかん)伝えられる限りではこの一度だけである。山本の反対は、英米協調や親米派の立場からではなく、海軍を率い米国に戦いを挑む立場の最高司令官としての不安に拠(よ)るものだった。この3日前、近衛首相に懇請され対米戦の見通しを聞かれた山本は、「是非やれと言われれば、半年や一年は暴れて見せますが、二年三年となっては全く確信が持て」ないと戦争回避の努力を求めた。その一方、彼の胸中では、米国に勝つための秘策が育ちつつあった。かくて軍政家に代わり、戦略家・山本五十六の顔が前面に躍り出ることになる。

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出版まで後9日玉井村長の手記、沖縄タイムスが報じない現地の実情

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玉井村長の手記、沖縄タイムスが報じない2008-09-14

 

渡嘉敷島・死線を越えた人たちの再会ー「集団自決」問題で騒いでいるのは関係ない人たち。

 沖縄戦の集団自決問題でクローズアップされた渡嘉敷島。

昭和45年(1970年)、日本軍の責任者であった赤松元大尉は渡嘉敷村から慰霊祭のスケジュールを受け取り、招待の打診を受けた。そして赤松元大尉は出席の意向を伝え、3月26日に那覇に到着した。そこで赤松元大尉は大ブーイングを浴る。

「赤松帰れ!」

「人殺し帰れ!」

 そして赤松元大尉は村の人々とともにその場を後にした。つまり、赤松元大尉を非難しているのは当時の軍人、島民ではなく、全く別の人たち、つまり反日サヨクの組合員たちだった

赤松元大尉は残念ながら那覇で足止めを食い、渡嘉敷島にわたることができなかった。赤松隊に所属していた生き残り将兵十三人と遺族が渡嘉敷島に渡り、慰霊祭に出席する。

 同行した皆本元少尉の話。「島の方がたは大変残念がっていましたね。『赤松さんにぜひ来てほしかった』という声を何度も聞いております。のちに関西で行われた会合では、当時の玉井村長さんがわざわざ来てくれました」

慰霊祭の様子を琉球新報と沖縄タイムスが次のように書いている。



琉球新報(三月二十九日付)
「この日の渡嘉敷村は平日と変わらない静かなたたずまい。赤松元大尉が来島できなかったことや、その部下が初めて来島したことにも反応は少なく、報道陣が詰めかけたのが、異様にさえ感じているような冷静さ。赤松元大尉が本島まで来ていることを知らされても『肉親を失ったことは忘れられないが、いまさら古傷にふれても仕方がない』と言った言葉が返ってくるだけ。本島で繰り広げられた『赤松帰れ!』の騒ぎはウソのような『悲劇の島』二十五回忌の慰霊祭-」

沖縄タイムス(三月三十日付)
「五十年配の人たちは男女の別なく、生き残り将兵等と手を取り合った。炊事班に借り出され、赤松隊で働いていたという夫人などは、顔を覚えていた何人かをつかまえ、当時はお世話になりました、と涙を流さんばかりだった」

 慰霊祭のあとの「第三戦隊戦友会村民懇親会」では村のご夫人や娘さんが島の踊りを披露して歓迎し、出席した皆本元少尉は一緒に踊った。

手元の本にそのときの写真が一枚載っている。「集団自決は強制だった」という人たちは、この写真を見て何というのだろう。「死ね」と言った人たちを歓迎するわけないだろう

島に渡れなかった赤松元大尉はモーターボートを借りて、渡嘉敷島沖まできて、島へ向けて手旗信号で何かを合図している。おそらく元部下が島にいて元隊長の意を汲むことになっていたのだろう。あの日あの時あの場所にいた死線を越えた人たち同士にしかわからない感情が手旗信号で伝わったと想像する。

平成19年(2007年)、沖縄で集団自決軍命令の教科書記述削除に抗議する、いわゆる11万人集会(実際は2万人弱)に参加した渡嘉敷村の人はゼロである。

                  ◆

「沖縄タイムス史観」でいえば、渡嘉敷島の戦隊長は「鬼の赤松」であり、当時駐屯していた軍人は「住民を死に追いやった島の仇である」ということになるだろうが、実際は報道とは異なり、島の遺族会と旧軍人との交流は戦後ずっと続いている。

大江健三郎氏が創り上げた「島の慰霊祭に参加の為那覇空港に降りた赤松元隊長を“島の人々”が追い返した」といった神話が、島の人々にとっては、不本意な出来事であり、「故赤松隊長には気の毒なことだった」という気持ちが本音であった。

沖縄タイムスが決して報じることない、赤松氏が追い返された当時の玉井渡嘉敷村長の手記を入手したので全文引用する。

地元在住の重要証言者であるにも関わらず沖縄タイムスが一度も取材もしなかった知念元少尉と遺族会との交流も記されている。(取材もされずに知念少尉の「発言」は『鉄の暴風』には捏造されて記載されている)

沖縄タイムス史観に従えば赤松隊長の副官であった知念元少尉は遺族会の憎むべき仇のはずだが・・・。

取材されない重要証人 副官知念少尉の証言

マスコミ演出の或る「情景」★本土風の名前

 

沖縄に住んでいてもタイムス等の新聞報道に汚染されると、渡嘉敷村民が赤松隊長にどのような心情を抱いていたかについては、ミスリードされ結果として誤解されてしまう。

玉井村長が抱いていた赤松隊長に抱いていた心情を、沖縄タイムスは決して記事にすることはないだろうし、下記の玉井村長の手記を記事として報道することも決してない。

                    ◇

終戦50周年祈念「いそとせ」沖縄県遺族連合会 平成7年12月30日発行 に寄稿された玉井元渡嘉敷村長の随想

遺族会発足当時を想ふ     渡嘉敷村遺族会長 玉井 喜八


 戦後50年の節目を迎えることになった。想えば半世紀の長い年月であるが何故かそんなに時が流れた感がしない。戦災で焼失破壊された自然や物的なものは年と共に逐次その姿を取り戻し復元されつつあるが、ただ一つ取り戻すことのできない尊い人の命がある。私達は常に心の奥に犠牲になった肉親や同胞を弔い慰める気持ちがあるため時の流れを感じないかも知れない。
 昭和22年復員して帰って見ると島は過去の姿はなく、生き残った村民は自失呆然で自給自足もままならぬ状況であった。
 焼け残った住宅の補修や仮設住宅の設置に追われ乍らも何かしら足が地につかずの感がしてならない、村を復興するには先ず何より、村民に心の安らぎを与える途を講ずる必要を痛感し戦没者の慰霊供養を最優先すべきであることを決し、慰霊碑の建立をすることになった。
 建立場所を西山の集団自決現場近くに設定したが、現地はその当時、機動力が使用できる場所でなく、すべて人力で搬送しなければならない状況にあり、いろいろ検討の結果これを実現するには肉親を失った方々が組織をつくり、率先して村当局と協力し、全村民への奉仕を呼びかけるため、はじめて遺族会が結成された。
 学童をはじめ全村民の協力を得ていよいよ建立を始めたが、現場に辿り着く道らしい道がなく、天に昇るような険しいけもの道を海岸から砂や砂利を擔ぎ頭に乗せ、各自体力に応じて搬送したことは孤立した島で共に死線を越えた人々の固い絆があってこそ実現できたと思ふのである。
 遺族会発足当時は主として戦没者の援護法適用について、県当局や遺族連合会との連携をはかることが主な活動であった。
 幸いにして、国は島における戦闘状況に特殊事情があったとして理解を示し、戦没者全員が戦闘協力者として法の適用が認められたことは唯一の慰めであった。
 西山の山頂に建てられた慰霊塔(白玉之塔)には軍人、軍属、防衛隊、一般住民を含め430余柱が合祀され、毎年3月28日、集団自決の日を村の慰霊の日として行事が行われてきたが、昭和34年予期しないことにこの地一帯がホークミサイル基地として接収された為に塔への出入りが自由にできない状況となり移設を余儀なくされた。
 移設場所を港の北側、部落を一眺する丘に選定し、移設費用全額米軍負担として、昭和35年に移設を完了し現在に至っている。
 
渡嘉敷島の戦闘状況とりわけ自決命令云々については、これまで文献等に記述されたが、島に残った人々は各自異なった体験を語っており、当時の混乱した状況が偲ばれるみみである。
 おもふに戦争の残した傷跡は簡単に償えるものではないが、個人が心の安らぎを得る機会は与えるべきであるとして、当時の隊長が慰霊供養のため島を訪問したいとの希望があり、遺族会に諮ったところ、当時の国策遂行のためになされた戦争行為であり、個人の意に副ふようにとのことで受入れをすることで一致した。ところが意外に村民以外の民主団体に来島を阻止され、他の隊員は島に渡ったが隊長は目的を果たすことができなかった。
 後で聞いた話では別の船をチャーターして渡嘉敷港の軍桟橋で弔花を届けて引返したとのことである。本人は既に故人となり、今にして思えばその当時、故人の望みをかなえてやれなかった事に心残りもあるが、時の社会状況からして止むを得ないことであった。
 昭和53年の33回忌は隊員との合同で行われた。慰霊祭に隊長夫人が参加し、村民や遺族と親しく語り合ったことが何よりの慰めになったことと思われる。
 3戦隊戦友会は、本村に駐留した復員者で組織された会で、村や遺族会と緊密な連携がなされ村民との融和がはかられている。学校の記念事業等に積極的に協力すると共に戦跡碑の設置塔を実施し、村との信頼関係を確立している。
 昨年(平成6年3月28日)数え年による50回忌の慰霊行事を実施した。村民や遺族の他本土から戦友会員100余名参加して盛大に行われたその状況が、NHKのニュースで全国に放映されたことは最も印象に残ることである。
 50年の歳月は、戦争の傷跡を埋め尽くし、島の何処を眺めても戦争と直接つながるものは見ることができない。部落を見下ろす丘に戦没者の芳名を刻した白玉之塔が建っているのみである。
 戦時中谷間の避難小屋で生まれた戦争を知らない子が、現在村の指導者として活躍している姿を見るとき、時の流れと世代が変わった実感が湧いてくる。
遺族会も高齢化と共に会員が減少し運営もきびしい状況にあるが、何としても維持存続し戦争の悲惨を後世に語り継がねばならない。慰霊の塔の維持管理、慰霊事業はすべて村主導で行われているので、遺族会としても村の平和行政の推進に積極的に協力して行きたい。
 昨年、戦友会員や隊員の遺族が大挙して島を訪れ50回忌の慰霊祭が行われた。その際に会を代表して皆本義博会長から永代供養基金として一金三百万円が村遺族会へ送られた、想えば当時紅顔の少年たちも既に70の坂を越しており会員は減少するのみである。この基金の果実により戦友会として今後の供花費用に充て永久に弔って行きたいといふ心づかいである。村遺族会としてもその厚意を有り難く受け、戦争の犠牲を無にしないよう、またこれを契機に会の再建をして行く決意を新たにしている。
 かっては玉砕場(集団自決跡地)又は基地(ホークミサイル基地)と呼ばれた西山の頂上は、沖縄の本土復帰を記念して設立された「国立沖縄生年の家」があり、戦争を知らない全国から集ふ青少年が自然を満喫しながら研修に励んでいる姿を見るとき、平和の尊さをしみじみ感ずるのである。

注 1.西山は北山のこと。
  2.玉井喜八…1921年10月生まれ1953年12月17日33歳で渡嘉敷村長就任。以後32年間1985年12月まで村長の職にあった。2000年8月79歳で没
  3.「国立沖縄生年の家」…現在の「国立沖縄青少年交流の家」
  4.句点、読点は適宜補った。

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