本編はアクセスの多い過去ブログを編集し再掲した記事だが、読んでいて自分の記事ではあるが、分かり難い面が数多くある。
文章が下手なのは、ご容赦頂くとして、『鉄の暴風』の大嘘を弁護する証人たちの発言の嘘や誇張が混在し、それを報道する新聞が更に歪曲報道する。これだけ読んだだけで、頭が混乱する読者も多いだろう。
きょう取り上げる話題は新聞報道でも特に分かり難い部類に入るので、前もってアウトラインを説明しておこう。
先ず全体を二つに分け、前半は梅澤さんに関する大ウソ報道。⇒■【A】梅澤元隊長を二度殺した沖縄タイムス。
そして後半は、集団自決を巡る教科書検定意見の「撤回決議」を県議会が二度も行い、決議後に県議会の現地調査団が「デタラメな調査」をして、新聞がこれを歪曲報道した。 この報道を見た「赤旗」と朝日新聞が県議団に取材し、更に歪曲報道した。これを報じた朝日社説などは裁判の証拠物件になる有様だ。
⇒■【B】県議団・現地調査の「証人ロンダリング」
沖縄集団自決の発端は沖縄タイムス編『鉄の暴風』であることを、繰り返し述べてきた。
さらにそれが元隊長等をセカンドレイプして被害者にした「軍命論争」に発展した。 そのマイルストーンになる記事として、1972年の3月27日付沖縄タイムス記事を紹介した。 その後、断続的に沖縄タイムスによる集団自決のキャンペーン記事が掲載されてきた。
ところが、ある「事件」を切っ掛けに沖縄言論界が挙って大発狂したかのような事態に発展した。
2007年度の高校歴史教科書から、沖縄集団自決は「軍の命令による」という記述を削除せよ、と指示する文科省検定意見が出たのだ。
その年2007年は、年初頭から沖縄タイムス、琉球新報両紙の紙面は「軍命はあった」と証言する証人で紙面は埋められていた。勿論その証言なる者は全てが客観的論証に耐えるもの一件もなく、すべてが新聞記者と証言者による捏造報道だったことは言うまでもない。
この一連のデタラメ証言の渦は、その年2007年9月29日に行われた「歴史教科書検定意見の撤回を要請する県民大会」へと雪崩込むのである。(大幅水増しの「11万人集会」)
■【A】梅澤元隊長を二度殺した沖縄タイムス。
2007年の初頭から年末にかけて、沖縄タイムス紙面に次々登場するデタラメな証言を逐一論証するのは当日記の目的でないので、ここでは省略する。
だが、看過できない報道があった。
『鉄の暴風』の杜撰な取材で「不明死した」と一度殺された梅澤元隊長が、この年にも「名誉」を踏みにじられ、二度目の不明死を報道されたのだ。
沖縄タイムス(7月7日)の1面、社会面でこのような記事が掲載された。
見出しは、こうだ。
隊長「死になさい」
<軍命ない限り悲劇おこらぬ>
座間味体験者、切々
これが誤報だったというから驚きだ。
しかもこの誤報の訂正記事が小さなベタ記事で、よっぽどで無いと気がつかない。
こうなると、沖縄タイムスの確信的犯行と思わざるを得ない。
念のため上記見出しの該当記事を下記に引用する。
《「軍の命令がない限りは、日本兵が入ってこなければ、そんなこと(『集団自決』)はなかった」。6日、県議会文教厚生委員会(前島明夫委員長)の聞き取り調査に応じた座間味村の「集団自決(強制集団死)」体験者6人は、それぞれの体験を率直に証言した。聞き取るのがやっとの小さな声で話したり、じっとうつむいたり。語り、向き合うにはつら過ぎる62年前の記憶を口にしたのは、「教科書からの軍関与削除は絶対に許せない」との思いを伝えるためだった。》《吉田春子さん(81)は1945年3月25日、妹を連れて日本兵がいる壕に避難した。翌26日になり壕が米軍に攻撃され、夜になったら脱出しようと相談し、その夜に玉砕命令を聞いた。だが「母と会うまでは死ねない」と逃げだし、助かった。》
《当時25歳だった大城澄江さん(87)は座間味島への米軍の艦砲射撃が始まり、友人4人と避難中、壕内で「忠孝碑の前に集まれ」との声を聞いた。一度は忠孝碑の前に行ったが、その後、逃げ回っている途中で日本軍に遭遇、手りゅう弾を渡された。逃げ場を失い、自決しようとしたが爆発せず、生き延びた。》 《上洲幸子さん(84)は母ら4人と壕に避難。母は殺ソ剤での自死を主張したが、上洲さんが「逃げられるうちは逃げよう」と訴え、島内を歩き回った。ため池近くに村民や日本兵がおり、梅沢裕部隊長の姿もあった。梅沢部隊長は村民を集め「米軍は上陸して、どこにでも入り込んでくるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と話したという。》(沖縄タイムス 7月7日)
座間味島の集団自決に関する県議会の聞き取り調査で、軍命を出したと言われている梅沢裕部隊長が、村民を集めて「米軍は上陸して、どこにでも入り込んでいるから、もし敵に見つかったら舌をかみ切って死になさい」と話した、
との証言が84歳の女性からあった、と紹介されている。
梅沢氏は普段から村民の人命を軽視する言動をしていた人物であるという印象操作の記事だ。
ところが実際は証言者本人が記事を見て仰天し、沖縄タイムスに抗議し訂正の運びとなる。
翌7月21日朝刊には、次のような「おわびと訂正」が掲載された。
要するに「舌をかみ切って死になさい」と言ったのは、
梅沢氏ではなく、別の日本兵であり、記者が聞き間違えたという内容だ。
証言者は沖縄タイムスの集団自決キャンペーンに忖度し、名前を特定しなければ「軍命があった」と証言しても、記者が梅澤さんと明記するとは思わなかったらいい。梅沢さんの人権にかかわる胸の痛む誤報である。
■【B】県議団・現地調査の「証人ロンダリング」
問題の記事の前日6日の沖縄タイムスでは「軍命はない」と証言し続けている金城武徳さんの県議員団の聞き取り調査は次のとおり。
「集団自決」の現場では、体験者の金城武徳さん(76)と吉川嘉勝さん(68)が当時の状況を語った。金城さんは「軍の命令があり、村民は集落から移動した。米軍の迫撃砲が着弾する中で村民が集合し、村長が『天皇陛下万歳』と叫び、手榴弾が破裂した」と証言した。(沖縄タイムス)「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】
単に集落から移動したことを、「軍の命令があり」と印象操作する卑劣さである。
知らない人がこの記事を見たら金城さんは「軍の命令で集団自決をした」と証言したとミスリードされる。
琉球新報、沖縄タイムスが「集団自決」の生き残りで当時14歳の金城さんの証言をどのように歪曲して報じたか、つぎの【動画】で確かめて欲しい。
【動画・金城武徳さんの証言】http://www.youtube.com/v/P16oG_3X89o
本来イデオロギーの塊であり、同時に歴史では素人集団の沖縄県議団が、集団自決の検証のため、短期間に二度も現地調査をした。
その理由は何か。
結論ありきのアリバイ調査が目的だった。
■イデオロギー塗れの社会科教師
「集団自決」を語る時、高校の社会科教師こそ、なまじ中途半端な知識があるだけに、こんなに始末に終えないものはない。
昨年(2007年)の「11万人集会」の直前、30年近く高校の社会科の教師をして県会議員になった狩俣信子氏と県議文教委員の一行が、アリバイつくりのため渡嘉敷島に現地聞き取り調査に行ったとき、とんでもない発言をしたが、同行していながらこれを報じる新聞はなかった。
集団自決を体験した金城武徳さん(75)が証言しようとすると、自分のイデオロギーと違うと見るや次のように発言した。
「私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」
「集団自決」の実体験者の証言より詳しいとは、この元教師は霊能者なのだろうか。
勿論、歴史の検証が不可欠の「集団自決の軍命問題」を、県議会の多数決で議決で決めるものではない。
■順序が後先の県議団調査■
県議会で教科書の記述をを変えるような重要案件を決議する。
それなら、議決の前に調査・検証をしてその後に議決を計るのが順序だろう。
だが、「11万人」集会に至る端緒となった県議会の「教科書検定意見書撤回決議」の採択には、奇妙な「アリバイ工作」が有った事を知る人は少ない。
事は歴史教科書の記述に関わる重要案件だ。
歴史の素人である県会議員が安易に多数決で決める問題ではない。
だが、県議会は検証をする前に決議採択をしてしまった。
そして、その後アリバイ作りの為の現地聞き取り調査をしたのである。
結局、このマスコミ向けの「現地調査」が狂乱騒動の発端となった。
「県議会採決」と議員団による現地聞き取り調査の順序が後先になった事実。
この後先実施の不自然さを報道するマスコミは一つもない。
議決採択の後の現地調査では「後の祭り」ではないのか。
当日記はこの県議文教厚生委員の聞き取り調査が、デタラメナなアリバイ工作だった事を再三指摘してきた。
調査なんて今更どうでも良かったのだ。
だがマスコミの大々的報道で、デタラメな調査も信憑性を帯びてくるから、メディアの印象操作は恐ろしい。
県議団の調査となると、天下の文科大臣も態度が揺れ動かされるものらしい。
渡海紀三朗文部科学相は「検定後に新たな事実や証言が出ている。新事実が少し増えた状況で、どのように考えていくかだ」と語り、
教科書記述に「強制」の文言を復活させることもあり得るとの考えを示した。
渡海文科相が再修正の根拠として指摘した「新事実」というのはなにか。
沖縄県議会議員団が行った、デタラメな聞き取り調査を実施した際の証言のことだろう。
県議の調査で、座間味村の上洲幸子さん(84)が、旧日本軍隊長による直接命令があったと証言した。
ところが、上洲証言を報道した沖縄タイムスは、二度、「隊長」ではなかったとの訂正記事を掲載している。
だが、これが誤報だったことを伝える新聞はタイムス以外に一つも無かった。
沖縄タイムスの「大きな捏造記事」と「小さな訂正記事」
ちなみにこの沖縄タイムスの捏造記事はそのまま朝日新聞の社説に引用され全国を一人歩きし始める。(朝日の“捏造記事”タライ回し 沖縄タイムスが“捏造写真” )
◇
県議会文厚委 検定撤回へ現地調査 文部科学省の教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する日本軍強制などの記述が修正・削除された問題で、県議会文教厚生委員会(前島明男委員長)は6日午前、渡嘉敷島で「自決」現場を視察したほか、「集団自決」の生存者らから聞き取り調査を始めた。午後には座間味島に渡り調査する。 (7/6 16:05)全文 >>> |
![]() 「集団自決」の生存者から当時の話を聞く県議会文教厚生委員会の委員ら=6日午前10時半ごろ、渡嘉敷村
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上記写真で調査団を先頭で案内している当時14歳の金城武徳さん(75)の証言は新聞では肝心の部分は完全に削除された。
一方、当時僅か6歳の吉川さん(67)の証言は事細かに取り上げ「軍命令はあった」と結論付けている。
■デタラメだった聞き取り調査■
島の人によると、聞き取り調査は実に酷いものだったという。
金城さんが「軍の命令は無かった」と証言すると、
議員団の狩俣信子議員(社民党)は、金城さんの発言を封じるように次のように決め付けたという。
「私は、社会科の教師を30年近くやってきました。よってこの問題には造詣があります。」「戦争を美化しないで下さい。」
当時15歳で生き残ってきた証言者に対して、この「決め付け」発言がこの調査団の左翼的性格を物語っている。
証言者の発言を封じるなら何のための聞き取り調査だったのか。
そう、議会決議に合致する証言だけを聞けばよかったのだ。
「不都合な証言」を聞く耳など最初から持ち合わせてはいなかった。
社会科の教師をしていたら証言を聞かなくとも全てをお見通しだとは細木数子先生もきっとびっくりでしょう。
又調査団の団長で、後に「県民大会実行委員長」となる仲里県議会議長は、調査現場で驚くべき発言をしている。
あの「毒おにぎり」証言の仲里議長である。
「みんなで既に決めたこと(採択したこと)だから、早く話をまとめましょう」
もう既に決まった結論のアリバイ造りの調査だったことがこの議長の一言で、語るに落ちてしまっている。
この調査団の左翼偏向的性格は今更説明を要しないが、この一連の県議団の動きがマスコミのセンセーショナルな報道と相まって、
その後県民を狂乱の渦に巻き込んでいく。
■県議のアリバイ調査は県民の総意?
沖縄タイムスは恥知らずにも、
「証言を聞き終えた前島委員長は「検定意見削除は県民の総意だ。文科省にさらに強く訴えていく」という文で締めくくっている。
そう、タイムスは己が創作した“県民の総意”が重要であり、
重要証人の証言などどうでも良かったのだ。
沖縄タイムスは結局、聞き取り調査の証言は封殺して、自分が作ったシナリオ・「県民の総意」さえあれば、歴史の事実を捏造できると信じているのか。
デタラメな調査で「県民の総意」を捏造される県民もたまったものではない。
■平和学習の語り部が証言者■
沖縄タイムス;「集団自決」の現場視察 県議会文厚委【写真】
証言者・吉川嘉勝氏(68)は調査団に対し、
「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」
と語った。
吉川氏は最近(4月19日)まで渡嘉敷村の教育委員長を勤めていた教員上がりの村の偉い人でもある。http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/vill_inf/so_6/so_6_01.htm
このように沖教組関連の「平和教育」でどっぷり浸かった文教委員議員団の調査は、形だけのアリバイ作りのためだけの噴飯モノあった。
ちなみにこの吉川氏、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役をしていると言う。
そう、吉川さんは証言者である一方、「平和学習」の語り部でもあったのです。
いくら語り部でも、日本軍の残虐さは語って語っても「自決命令は、無かったかもしれないが、軍隊がいたから集団自決は起こった。軍国主義教育があったからあのような悲劇は起こった。」と語るのが精一杯だったのでしょう。
参考:「平和学習」
埼玉の中3生、修学旅行で「集団自決」地に 「平和」努力を決意 (7/5 16:05)
この吉川氏が証言するのは今回が始めてではない。
今年の慰霊の日の朝日新聞の記事で証言している。
だが、「軍曹が命じた」と巧妙に作文された朝日記事でも
吉川氏は一言も「軍の命令」とは証言していない。
http://www.asahi.com/national/update/0623/SEB
200706230011html
62年前に見た集団自決の現場 「軍曹が命じた」
2007年06月23日15時30分
沖縄戦の戦没者ら約24万人の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」。糸満市摩文仁(まぶに)に立ち並ぶ碑の前で23日朝、元中学校教諭の吉川嘉勝さん(68)は妻の英子さん(68)と一緒に静かに手を合わせた。礎には米軍の艦砲射撃で亡くなった父の名がある。
62年前、吉川さんは「集団自決」の現場にいた。
那覇市の西約30キロにある渡嘉敷島。周囲25キロの島に米軍が上陸したのは45年3月27日のことだ。住民らは土砂降りの雨の中、島北部の通称「北山」を目指した。吉川さんと家族もその中にいた。当時6歳だった。
「集団自決」が起きたのは翌28日。たどり着いた山中で家族や親類ごとに円陣を組んで座った。村長の短い訓示の後、「天皇陛下万歳」の叫びとともに、あちこちで手投げ弾が爆発した。
吉川さんの家族ら約10人が輪になった中でも、義兄らが手投げ弾を石に打ち付けた。だが、爆発しない。父は「火を燃やして、投げ入れろ」と指示した。
母が叫んだ。「手投げ弾を捨てろ」。生きられるだけ生きるべきだと必死に訴えていた、と吉川さんは振り返る。家族はその場を逃れた。
母が教えてくれた「命の重さ」を伝えるため、吉川さんは教師になった。校長を最後に教職を退き、島に戻った今は、地元の子どもや修学旅行生を相手に平和学習の案内役を務める。「自分たちの歴史を知り、戦争のない社会をつくってほしい」と語り続ける。
その島で、沖縄国際大名誉教授の安仁屋政昭さん(72)は88年、かつて村の兵事主任だった故富山真順さんから、ある証言を聞いている。
富山さんは45年3月20日、戦隊からの命令で17歳未満の少年と役場職員を役場の庭に集めた。兵器係の軍曹が住民二十数人に手投げ弾を2個ずつ配り、「敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になる恐れのある時は残りの1発で自決せよ」と訓示した、という。
沖縄ではいま、「集団自決」を巡る教科書検定で「日本軍による強制」が削除されたことに強い反発が起きている。安仁屋さんは言う。「富山さんの話は自決命令の存在を示す重要な証言だ」
朝日新聞は、既に「集団自決」の「軍命令論争」で敗北していることを承知している。
子分ともいえる沖縄タイムスが暴走するの止められず、当たり障りの無い記事でしか援護できない、・・・というより、既に敵前逃亡を決め込んでいる。(朝日の敵前逃亡 沖縄の「集団自決」 )
◇
これまでも学術調査団が何度も現地調査を行っており、「軍命令はなかった」という多くの証言者がいたが、これらは地元マスコミに載ることはなかった。(例えば宮平さん→★文末に引用)
■【動画と“新聞証言”の違い】
いずれにせよ、マスコミは自分等に不都合な事実は報じない。(これは金城さんも言っている)
琉球新報、沖縄タイムスが「集団自決」の生き残りで当時14歳の金城さんの証言をどのように歪曲して報じたか、つぎの【動画】で確かめて欲しい。
【動画・金城武徳さんの証言】http://www.youtube.com/v/P16oG_3X89o
連日紙面を飾るのは「多くの悲惨な証言がある」と言う極めて曖昧な記事のがオドロオドロしく報じられる。
確かに沖縄戦で悲惨な体験をした人は数多くいるだろう。
だが、「数多くの悲惨な証言」を必死で「軍命令で集団自決した」の結論にもっていこうと紙面づくりに追われているのが地元二紙だ。
最近では「命令の有無ではなく、強制性が問題だ」なんて言い変えだしているようが・・・。
そのうち「強制性の有無ではなく、軍隊がいたことが問題だ」なんて言い出すと思う。
まともな研究者、そして良識ある証言者達は皆「その事実」に気がついている
2007年7月9日(月)「しんぶん赤旗」
助役“自決の軍命出た”
沖縄・座間味村 当時の発言 妹が証言
県議会の現地調査に
「集団自決」によって百七十八人が死に追い込まれた沖縄県座間味(ざまみ)村で、当時の宮里盛秀助役が「軍の玉砕命令が出た」と告げていたことを、妹の宮平春子さん(80)が証言しました。六日の沖縄県議会議員の「集団自決」現地調査の中で語りました。
座間味の「集団自決」をめぐっては、日本軍元戦隊長が「命令を出したのは助役」だと主張しています。隣の渡嘉敷(とかしき)島の元戦隊長の弟とともに、軍命があったと記述されて名誉を傷つけられたとして、大江健三郎氏と岩波書店を訴えています(二〇〇五年八月五日提訴)。
妹の春子さんは本紙の取材に「兄さんがウソをつくはずがありません。どうして今ごろ『軍の関与がなかった』なんて? くやしくて、今まで決してしゃべらなかった体験を話すことにしたのです」と心境を語りました。
子を抱きしめ
兄は宮里盛秀さん。一九四五年三月二十五日の夜、激しい空襲の中、壕(ごう)に避難していた春子さんたち家族のところに、兄がやってきました。
兄は父に向かって「軍の命令で、敵が上陸したら玉砕するように言われている」「お父さん、今まで親孝行できませんでした。あの世で孝行するから潔く死にましょう」と告げたといいます。
兄は七歳から四歳までの子ども三人を抱きしめ、「こんなに大きく育ててきたのに、自分の手で死なせるのは忍びない」とも述べました。
「自決」の場は村の忠魂碑。夜に集まることになっていて、春子さん一家は兄の家族と一緒に向かいました。
しかし引き返してくる人がいて、その人は「忠魂碑に照明弾が落ちてきて、集まった人たちが散り散りになった」と言いました。来た道を引き返し、元々いた壕のすぐ上にあった産業組合壕にいきました。
しかし中はいっぱい。兄は「後で呼びにいくから、(元の壕に)戻りなさい」と言い残し、産業組合壕に入っていきました。中に入った兄たちは「自決」して亡くなり、入れなかった春子さんたちは助かりました。
春子さんは「潔く死ぬように言ったのは軍であり国なんです。戦争のみじめさを後世に残したいと強く思うようになりました」「憲法を変えようとする安倍首相が憎たらしいね」と、言葉を選ぶように話しました。
軍が死を強要
県議会の「集団自決」現地調査では、八人の住民が証言。ある住民は座間味村の日本軍元戦隊長から「敵につかまるぐらいなら舌をかみきって死ねと言われた」と語り、別の住人も、ほかの軍人から「なぜ生きている。恥を知れ!」と怒鳴られたと、軍に死を強要されたことを述べました。
「私たちが体験したことが教科書から消されれば、あの戦争はなかったと言われたのと同じことになるのでは」と訴える人もいました。
◆
■朝日新聞の「捏造記事」たらいまわし■
沖縄タイムスがばら撒いた「ねつ造記事」が一人歩きしている例をもう一つ。
今朝の全国五紙で2007年9月29日の「県民大会」を社説で取り上げたのは朝日新聞一紙だけ。
他の4紙がスルーしたのはさて置き朝日一紙が取り上げた訳は、
「集団自決」問題の発端となった『鉄の暴風』の初版は朝日新聞から発刊されている経緯から朝日はこの問題の当事者であり、「県民大会」の大騒ぎに、社説を書かざるを得なかったのであろう。
だが、沖縄タイムスの最近の「捏造記事(お詫びと訂正済み)」をそのまま引用しているのは朝日得意の意図的手法だろう。
集団自決―検定意見の撤回を急げ 朝日新聞・社説
≪(略)ことし80歳の宮平春子さんは45年3月25日夜、当時の村助役だった兄が父に「(敵の)上陸は間違いないから軍から玉砕しなさいと命令が下りた。潔く玉砕します。死にましょう」と伝えるのを聞いた。軍隊用語の「玉砕」が使われていること自体が軍のかかわりを物語る。
84歳の上洲幸子さんの証言は「もしアメリカ軍に見つかったら、舌をかみ切ってでも死になさい」と日本軍の隊長から言われた、というものだ。
こうした生々しい体験を文科省はどう否定できるというのか。(略) ≫
【記録保管】
さらにその年は、大幅水増しで全国に名を馳せた「11万人集会」が開催された年であった。
文科省の検定意見を巡り、連日紙面には集団自決の生き証人と自称する人物が次々登場し、「残虐非道な日本軍」の悪行を次々と告発した。だがいずれの証言にも「軍命」を立証する客観的根拠は得られず、立証に迄は至らなかった。中には噂や伝聞の類で、明らかな嘘とわかるものが多数を占めた。
例えばこんな記事が堂々と新聞に報道された。
壕に避難していた少年に途中から入ってきた日本兵が「毒おにぎり」を食わそうとしたので、少年は壕を逃げ出し命拾いをあいたと言う証言が琉球新報に報道された。食糧不足に悩む当時はおにぎりは滅多に口にすることのないゴチソウであり、その大事なおにぎりにわざわざ毒を塗って少年の殺害を謀るより、銃剣で脅して追い出したほうが容易であることは誰にでわかること。その証言をした少年が仲里県議会議長であることが話題になった。仲里議長が嘘をついたか、さもなくば当時の厳しい食料事情を知らない若い記者が、聞き取りの際歪曲・捏造したかのどちらかだろう。 当時の事情を知る者なら誰でも容易に想像がつく。 これに関して仲里氏は以後沈黙を押し通し何も語っていない。
2013年6月12日付琉球新報の次のコラムもその類のいい加減な証言があたかも真実であるかのように語られている。
< 自然壕の暗闇の中、赤ん坊が次々に泣き出した。「黙らせろ」。敵に居場所を知られるのを恐れた日本兵が怒鳴った次の瞬間、銃声が響いた。7歳ほどの少女が前へ崩れ落ちた ▼糸満市の仲松庸全さんが沖縄戦で目撃した日本兵による少女銃殺の場面だ。「軍隊は住民を守らない。それどころか住民を殺害したり、死に追いやったりした」。体験から得た最大の教訓という 。 >
上記コラムの事例が嘘である証拠は、米兵の目を恐れる日本兵が赤ん坊の泣き声は気にするが、射殺した銃声が米兵の耳に入るのを気にしていない。 これなどは戦争体験者の証言ではよくでてくる矛盾であり、誰もが気がつく嘘の証言である。
証言者の名前を記すと全てが真実のように受取られがちだが、よく読み返すと嘘は自ずと矛盾が露呈してくる。 壕に潜んでいた母親が、赤ん坊の泣き声が気になり、湿ったオムツを赤ん坊の口に当てて窒息させたと言う悲惨な話は今でも密かに語られている。 それが新聞などで証言となって公開されると、そこに「残虐非道な日本兵」が介在し、「日本兵によって殺された」という話に変化していく。 わが子を自分の手にかけた贖罪意識のある母親としては、せめて「残虐非道な日本兵に殺された」とでも証言しなければやりきれなかったのだろう。 だが、この場合日本兵の名前が特定されていないからまだ救える話だ。
だが、自決命令を下して住民を集団自決に追いやったのは、「赤松、梅澤両隊長だった」などと名前を特定されたのが慶良間島集団自決の悲劇である。 そして名前を特定した理由が、当時の厚生省役人の漏らした「軍命があったなら集団自決の遺族も援護法の適用が可能」というひと言だという。 以後「軍命による集団自決」が集団自決のあった座間味村役場の公式見解になる。座間味島村の援護係宮村広延は援護金の支給で何度も当時の厚生省と交渉し援護金支給に貢献したして村役場から表彰を受けている。
■「援護法」が作り上げた極悪人
本来なら軍人の遺族にしか適用できない「援護法」を、軍属でもない集団自決の遺族に適用するための「拡大解釈」という厚生省の善意。 それが、仇となって2人の軍人に「集団自決を命じた極悪人」という汚名を着せることになる。 歴史の皮肉である。 上原正稔さんの琉球新報を相手取った戦いの目的は、不当に汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長の汚名返上にある。