6月23日の慰霊の日の地元紙のフィーバーは例年を上回る異常ぶりだった。
「集団自決」で「教科書検定意見撤回」を叫ぶプロ市民運動と地元サヨク学者は強力タッグを組んだ。
それを地元マスコミが後押し、と言うよりむしろ主導した。
マスコミに煽られて、県内の各市町村議会が次々と「検定意見書撤回」が議決され、
ついには県議会まで反対決議をするという前代未聞の事態にまで発展した。
教科書問題と慰霊の日を結びつけたサヨク・メディアの思惑通りの結果だった。
慰霊の日の報道で、地元マスコミは得意満面で電子号外まで出した。→電子号外(PDF、1.4MB)
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同じ日に「沖縄集団自決冤罪訴訟」の証拠にもなっている『母の遺したもの』を出版した宮城晴美氏も講演会を開いた。
それを報道する琉球新報の大見出しは次のとおり。
宮城晴美さん講演
<自著「誤解されている」>
連合、平和オキナワ集会
惨劇を 事実を 次代へ
「岩波書店と大江健三郎さんが訴えられている裁判があります。それは私の書いた本がもとになりました」。
座間味村出身で座間味島の「集団自決」について記した『母が遺したもの』の著者、宮城晴美さんが23日、那覇市民会館で開かれた2007平和オキナワ集会(日本労働組合総連合主催)で講演した。
この中で、宮城さんは、「本が誤解された面がある」と切り出し、「集団自決」への軍命の有無にかんして「助役に関しては家族に『軍命が下った』とはっきり言っている」と注目される発言をした。
「集団自決」軍命 訴え継続を強調
宮城さんは「役場職員をしていた母は、助役、学校長、収入役、伝令と五人で梅沢隊長のところへ行った。 助役が『これから住民を玉砕させるので爆弾を下さい』と言ったら(隊長は)しばらく考えて『一応帰ってくれ』と言った。 母の目の前では帰ってくれ言ったけど、実際に助役は家族の所に行って『隊長から命令がきた、これから死ぬよ』と述べた。
「戦後、梅沢元隊長が自分の名誉挽回のためいろんな行動を取ってきて住民が二分された。 母も亡くなる前に『目の前に彼が立っている』と苦しんでなくなった。 私は、母は最期まで戦争で殺されたと思っている」と深い悲しみの表情を浮かべた。(以下略)(琉球新報 2007年6月24日)
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県内で9月出張法廷 岩波集団自決訴訟
沖縄戦で「日本軍の指揮官の命令で慶良間諸島の住民が集団自決した」とする本の記述は誤りで、名誉を傷つけられたとして、当時の指揮官と遺族が、出版元の岩波書店と作家の大江健三郎さんに本の出版差し止めと損害賠償などを求めている訴訟の第9回口頭弁論が25日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。今回も被告、原告双方が「集団自決」に対する「軍命」の有無について主張を展開。9月10日に沖縄で出張法廷を開き、当時「集団自決」を目の当たりにした金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授の証人尋問を行うことが決まった。
次回7月27日には、座間味島での「集団自決」について原告、被告双方が主張の根拠として引用している「母の遺したもの」の著者で女性史研究家の宮城晴美さんと、当時渡嘉敷島の守備隊中隊長だった皆本義博氏、同隊副官だった知念朝睦氏の3人の証人尋問を行うことも決まった。
弁論で岩波書店側は、原告が座間味島での「集団自決」は村の助役の命令だったと主張していることに反論。当時の助役の家族の証言などを新たに証拠として提出し「日本軍から米軍上陸時には自決するようあらかじめ命令されていた助役が、自決のため忠魂碑前に集合するよう住民に軍の命令を伝えた」などと当時の様子を明らかにした。
元指揮官ら原告側は「これまでの被告の主張は、防衛隊などが住民に手りゅう弾を渡したから命令があったと評価するにすぎないものや、命令の主体を特定しない『広義の命令』説であり、原告らが命令を出した張本人とする立証から逃げている」などと主張した。
(5/26 9:59)
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>「本が誤解された面がある」
母が遺した「真実の証言」を出版し、それが「反対派」の裁判証拠とされた。
これがもとで「集団自決に軍の命令は無かった」と立証されては困るのが
県内メディアで活動する宮城晴美氏の苦しい立場。
義理と人情の板ばさみならぬ、
「母の遺言」と「平和運動」の板ばさみに悩む宮城氏の立場にはご同情を申し上げる。
「本が誤解された面がある」というのが精一杯で、
実は本の内容は「集団自決生き残った母の証言で、『軍命令は無かった』というのが真実です」とはどうしても言えない。
それを言ったら「平和運動」に水をさすことになる。
母の遺したもの【立ち読みコーナー】 http://www.koubunken.co.jp/0250/0249sr.html
著者
宮城 晴美(みやぎ・はるみ)
1949年、座間味村に生まれる。『沖縄思潮』編集委員会、沖縄の総合月刊誌『青い海』の記者、編集者を経て、フリーランスライターに。県内外の新聞、雑誌に寄稿する傍ら、『座間味村史』(上・中・下巻)の執筆・編集に携わる。現在、那覇市総務部女性室に勤務し、『那覇女性史』の編纂事業を担当。沖縄の基地問題に取り組む「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」会員。
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■「約束」から一〇年(まえがき)
私の母・宮城初枝は、一九二一(大正一〇)年七月、慶良間諸島の一つ、座間味島に生まれました。太平洋戦争末期の沖縄戦でいち早く米軍に上陸され、住民の「集団自決」が起こった島です。当時二四歳で、村の役場に勤めていた母は、女子青年団員の一人として座間味島駐留の日本軍と行動をともにし、米軍との銃撃戦に巻き込まれた経験をもちますが、さらに「集団自決」の“当事者”でもあったと言えます。
一〇年前、母は、「いずれ機会をみて発表してほしい」と、一冊のノートを私に託し、その半年後、六九年の生涯を閉じてしまいました。字数にして四百字詰め原稿用紙で約百枚、自らの戦争体験を日を追って具体的につづったものでした。
実は母は、このノートに書いた大部分のことはすでに発表していました。まず一九六二年、雑誌『家の光』の懸賞募集に応募した手記が入選し、翌年、同誌四月号に掲載されました。さらにその手記は、それから五年後に出版された『沖縄敗戦秘録──悲劇の座間味島』という本(私家版)に、「血ぬられた座間味島」と題してそのまま収録されていたのです。
母はこの『悲劇の座間味島』と、ノートを私の目の前に開き、どこがどう違うのか説明をはじめました。事実と違う、あるいは書けなかったことを、今回は書いたという部分が八カ所ありました。村の指導者の行動や、自らが米軍の「捕虜」となったときの取り調べの内容など、本には載ってないことが具体的につけ加えられていました。
とりわけ、本に収録された手記にあった、当時の座間味島駐留軍の最高指揮官、梅澤部隊長からもたらされたという、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」の箇所の削除を指示する母の表情には、険しさが感じられました。「座間味島の“集団自決”は梅澤裕部隊長の命令によるもの」という根拠の一つとされ、母の戦後の人生を翻弄した数行だったのです。
事実はそうではなかった。母は自分の“証言”がもとで、梅澤元部隊長を社会的に葬ってしまったと悩み、戦後三五年経ったある日、梅澤氏に面会して「あなたが命令したのではありません」と〝告白〟しました。しかしそのことが思わぬ結果を招き、母は心身ともに追いつめられることになるのです。
改めて事実を記した手記を出版することで、母は“証言”をくつがえそうとしました。しかしそれだけでは、また別の意味で誤解を生じさせかねません。そこで母は、私にノートを手渡しながら、「これはあくまでも個人の体験なので、歴史的な背景や当時の住民の動きを書き加えてから発表してね」と言い、私も軽く引き受けたのです。でもその時は、そんなに早く母が逝ってしまうとは、夢にも思いませんでした。
それにしても、なぜ母は事実と違うことを書かなければならなかったのか。また事実を〝告白〟したことで母に何があったのか──。それを調べていくうちにわかったことは、「国家」の戦争責任は不問に付され、戦後の何十年もの間、〝当事者〟同士が傷つけあってきたということでした。
結果的に母は、「事実はこうだった」と明確にせず、ある意味で責任を果たさないまま鬼籍に入ってしまいました。しかし、戦後なお“終わらない戦争”を引きずって生きた母の遺したものを、戦後世代の私が“追体験”し、ここに「新しい証言」として公刊することで、「母の償い」に代えられるのではないかと思っています。
一二月六日は母の命日です。今年でちょうど一〇年、やっと母との約束を果たせそうです。そしてなによりも、座間味島における日米の戦いで尊い生命を奪われ、中途で人生を断たれた多くの人々の供養になればと願っております。
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自分の虚偽の証言が梅沢元隊長の人生を破壊してしまったことを知り故宮城初江さんはことの重大さに気づき自分の“証言”を悔いた。
そして真実の告白を決意するが「反対勢力」との狭間で悩んだ。
「真実の告白」を自筆のノートに遺して娘の宮城晴美氏に託して他界する。
>なぜ母は事実と違うことを書かなければならなかったのか。また事実を〝告白〟したことで母に何があったのか─
「違うことを書かなければならなかった」というのはノートに書き遺した「真実」のことでは無い。
文学少女だった初江さんが、後世こんな大事(おおごと)になるとは考えもせず、ローカル誌「家の光」の懸賞文に自分の「戦争体験記」として応募した「(口裏あわせした)“違うこと”」のことをさす。
本人にとっても梅沢元隊長にとっても不幸なことに、応募した「戦争体験記」は入選し、同誌に掲載されてしまった。
それから“違うこと”が本人の意思とは関係なく独り歩きを始める。
この辺の事情を『母の遺したもの』の著者宮城春江氏は次のように説明している。
≪母はこれまでに座間味島における自分の戦争体験を、宮城初枝の実名で二度発表している。まず、1963年発行のの『家の光』4月号に体験実話の懸賞で入選した作品「沖縄戦最後の目」が掲載されたこと。それから5年後の1968年に発行された『悲劇の座間味島-沖縄敗戦秘録』に「血ぬられた座間味島」と題して体験手記を載せたことである。
ではなぜ、すでに発表した手記をあらためて書き直す必要があったのかということになるが、じつは、母にとつては“不本意”な内容がこれまでの手記に含まれていたからである。
「“不本意”な内容」、それこそが「集団自決」の隊長命令説の根拠となったものであつた。≫
◆母の遺したものhttp://www.zamami.net/miyagi.htm
亡き母が良心の呵責に耐えかねて書き遺した手書きの遺書とも言うべき手記。
母の遺志を継いで『母の遺したもの』としてこれを出版した宮城晴美氏。
だが、沖縄の異常な言論空間は、宮城氏を県内の対立意見の狭間に立たされることになる。
県内メディアで生きる宮城氏は、皮肉にも母と同じ苦しい立場を辿ることになる。
宮城氏が「沖縄集団自決冤罪訴訟」の原告側の『証拠』を出版していながら、一方では被告側の「証言者」になると言う「ねじれ現象」を本人が一番苦にしていると推察する。
この「ねじれ現象」こそ「集団自決」問題の象徴でもある。
座間味島の集団自決から33回忌(32年後)に当たる昭和52年3月25日、宮城初枝さんは娘に「梅澤隊長の自決命令はなかった」ことを初めて告白した。 事実は、梅澤隊長のもとに自決用の弾薬をもらいに行ったが断わられ追い返されていたのである。集団自決の命令を下したのは、梅澤隊長ではなく、村の助役だった。
では、なぜ村の長老たちは宮城さんにウソの証言をさせたかといえば、厚生省の方針で、非戦闘員が遺族年金など各種の補償を受けるには単なる自決では足りなく、軍の命令があった場合にだけ認められるという事情があったからだ。座間味村(そん)の遺族が国から補償を受けるためには、ウソでも軍の命令で集団自決したという証言が必要だったのだ。
その後、宮城初枝さんは梅澤隊長に面会して謝罪し、命令を下した助役の弟も梅澤隊長が無実であることを証言する念書を梅澤氏に手渡した。こうして座間味島では、住民側の証言によって梅澤隊長の命令はなかったことが証明されたのである。(「沖縄の集団自決『軍命令」』は創作だった」より抜粋)http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu2_fujioka.html