狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

新・貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実

2021-06-20 09:20:17 | ★改定版集団自決

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貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (1)2013-07-08 


世界日報に寄稿した連載沖縄戦記「貶められた旧日本兵」の掲載が始まった。

連載第一回は、何と、一面トップの掲載です!

 ■7月8日(月)世界日報掲載記事

【連載】貶められた旧日本兵-「援護法」に隠された沖縄戦の真実 (1)
「残虐な日本軍」は濡れ衣/遺族が長い沈黙破る


 毎年、6月23日の「慰霊の日」前後には、沖縄メディアが一斉に特集を組み、沖縄戦の「記憶の継承」という名目で反軍感情をあおる。
 読者が目にするのは、日本兵に「壕を追い出された」、「食糧を強奪された」、「自決を命令された」など、旧日本軍の悪行を糾弾する記事のオンパレードだ。旧日本軍を糾弾するだけでなく、戦後、米軍基地が置かれている状況に対して政府への不満をむき出しにする。

 果たして日本軍は悪行の数々を重ねていたのだろうか。また、何ゆえ沖縄メディアはこれほど執拗に日本軍の糾弾に狂奔するのか。

 沖縄戦の真実に迫ろうとすると、「援護法」という大きな壁に突き当たる。援護法とは、正式には昭和26年(1951年)に成立、翌年4月に公布された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」である。援護法の目的について、第1条にはこう書かれている。

 「軍人・軍属及び準軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護する目的としている」

(援護法は昭和26年成立のサンフランシスコ平和条約に基づく日本の独立と連動している。同条約は翌年の1952年(昭和27年)4月28日に公布された。⇒【おまけ】参照

 ここで言う「準軍属」とは、旧国家総動員法による徴用者や戦闘参加者、義勇隊、特別未帰還者などを指す。すなわち、軍などから要請を受けて戦闘などに協力した者のことである。

 援護法は昭和28年4月、「南島諸島に現住する者に対し、戦傷者戦没者遺族等援護法を適用する場合の取扱について」と題する通知により、沖縄在住者に適用された。
沖縄県福祉・援護課によると、援護法により救済された戦没者等は、軍人・軍属が2万5千人、一般県民(戦闘協力者)5万5千人で沖縄県民の全戦没者の7割近くに及ぶ。

 昭和34年には、一般住民も「戦闘参加者」として援護法が適用拡大された。本来、軍人・軍属・準軍属にしか適用できないものだが、日本軍の「命令」「要請」があったと申請すれば沖縄の民間人も給付が受けられるようになった。

 当時の厚生省と県や市町村、遺族らとの共同作業に基づく寛大な措置が「残虐非道の日本軍」という神話を生む素地になった。沖縄メディアが機会あるごとにあおる「日本軍の悪行」の記事・報道を忸怩(じくじ)たる思いで眺めながらも、これまで口を固く閉ざす人々がいた。援護法の成立から申請業務に関わり、誰よりもその「民間人への適用」のために強いられた矛盾を承知している遺族会のメンバーだ。

 戦後すでに68年が経過している。遺族会にも援護法成立当時の事情を知る人が少なくなってきた。沖縄県及び各市町村が発行する戦史には、沖縄防衛のために命をささげた日本軍の将兵を悪鬼のごとく罵倒する言葉が並ぶ。沖縄県平和祈念資料館(糸満市)の展示も例外ではない。

 「沖縄戦を捏造されたまま放置してはいけない」「あの世で英霊たちに会っても申し訳が立たない」

 このたび、遺族会の幹部が、長い沈黙を破って、援護法関連の資料を提供してくれた。その中で、援護法を一般住民の遺族に適用させるため、歴史を歪曲してしまったことが、県が作成した極秘文書により明らかになった。

 メディアが喧伝する「残虐非道な日本軍」の象徴が、慶良間島の集団自決だ。「住民を軍命で集団自決に追いやった」とされる梅澤裕、赤松嘉次両隊長は極悪人として糾弾されている。

 沖縄メディア、沖縄教職員組合(沖教組)、自治労などの反日左翼勢力が、援護法のからくりを利用した。「軍命に従い犠牲となった人」を対象とする援護法は、「残虐な日本軍」のイメージを捏造しようとする左翼勢力には都合のよいものだったからだ。

 援護法の拡大適用は、無慈悲で残酷な日本兵像を作り上げた。これが、沖縄の現在にいたるまでの反日感情や自虐史観を形成する一因となっている。援護法の仕組みを明らかにすることにより、濡れ衣を着せられた日本軍将兵の名誉を回復させたいというのが遺族の願いである。

(「沖縄戦の真実」取材班)

 

                    ☆

 

沖縄の地元紙には数多くの沖縄戦の生き証人が登場する。 ほとんどの証言は客観性に乏しく、明らかな嘘とわかるものも多々ある。 

■毒おにぎりの大ウソ⇒仲里県議会議長

壕に避難していた幼子に、途中から入ってきた日本兵が毒おにぎりを食わそうとしたので、家族共々壕を逃げ出し命拾いしたと言う証言が派手に掲載された。 

実際に琉球新報に掲載された記事だが、食糧不足に悩む当時はおにぎりは滅多に口にすることのないご馳走。 

その大事なおにぎりに毒を塗って少年の殺害を謀るより、銃剣で脅して壕から追い出したほうが容易であることは誰にでもわかること。

その幼子の兄が当時の仲里利信沖縄県議会議長のであることが話題になった。

証言者が嘘をついたか、さもなければ当時の厳しい食料事情を知らない若い記者が、聞き取りの際歪曲・捏造したことくらい読者は容易に想像がつく。

 これに関して証言者の仲里氏は以後沈黙を押し通し何も語っていない。(【おまけ】2参照)仲里氏の「毒おにぎり」は「残酷な日本兵」の象徴として朝日新聞を通じてニューヨークタイムズにも掲載された。

今年の6月12日付琉球新報の次のコラムでも、その類のいい加減な証言が、あたかも真実であるかのように語られている。

 自然壕の暗闇の中、赤ん坊が次々に泣き出した。「黙らせろ」。敵に居場所を知られるのを恐れた日本兵が怒鳴った次の瞬間、銃声が響いた。7歳ほどの少女が前へ崩れ落ちた ▼糸満市の仲松庸全さんが沖縄戦で目撃した日本兵による少女銃殺の場面だ。「軍隊は住民を守らない。それどころか住民を殺害したり、死に追いやったりした」。体験から得た最大の教訓という(コラム「金口木舌」より) > 

証言者の名前を記すと全てが真実のように受取られがちだが、 上記コラムの事例が嘘である証拠は、米兵の目を恐れる日本兵が赤ん坊の泣き声は気にするが、銃声が米兵の耳に入るのを気にしていない。 これなどは戦争体験者の証言ではよくでてくる矛盾である。

壕に潜んでいた母親が、赤ん坊の泣き声が気になり、湿ったオムツを赤ん坊の口に当てて窒息させたと言う悲惨な話は今でも密かに語られている。 それが新聞などで証言となって公開されると、そこに「残虐非道な日本兵」が介在し、「日本兵によって殺された」という話に変化していく。 わが子を自分の手にかけた贖罪意識のある母親としては、せめて「残虐非道な日本兵に殺された」とでも証言しなければやりきれなかったのだろう。

この場合日本兵の名前が特定されていないからまだ救いがある。

だが、「座間味島の戦隊長、渡嘉敷島の戦隊長」などと名前を特定されたのが、慶良間島集団自決の神話であり、悲劇である。

そして名前を特定した理由が、当時の厚生省役人の漏らした「軍命があったなら集団自決の遺族も援護法の適用が可能」というひと言だという。

以後「軍命による集団自決」が、集団自決のあった座間味村役場の公式見解になった。

 集団自決の遺族に援護法の適用するための「拡大解釈」という厚生省の善意。 

それが、仇となって2人の軍人に「集団自決を命じた極悪人」という汚名を着せることになる。

 歴史の皮肉である。

 

【おまけ】

きょう「4・28」 沖縄「屈辱の日」を知ってますか?2016年4月28日 05:04

 日本政府は52年7月、米国民政府との連絡を担う那覇日本政府南方連絡事務所(南連)を設置したが、沖縄の住民を「琉球住民」と定義し、沖縄在住で日本本土の国籍を持つ「日本人」とは区別していた。南連の沖縄政策は、「日本人」は保護の対象だが「琉球住民」は対象外としており、識者は「沖縄差別の源流ではないか」と指摘している。
 2013年4月28日には、安倍晋三首相が主権回復の日式典を催し、沖縄からは強い反発の声が上がった。
 28日午後6時15分から、沖縄平和運動センターが県民集会とデモ行進を県庁前で開く。

【おまけ】2

毒入りおにぎりを渡された県議会議長 2007-08-08

沖縄タイムス 2007年8月7日(火) 朝刊 29面  
 
「県議会が主体」期待/「集団自決」修正 県民大会準備委

 高校歴史教科書の検定で、沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」に関する日本軍関与の記述が削除・修正された問題で、「教科書検定意見撤回を求める県民大会準備実行委員会」は六日、県庁で会見を開き、大会への参加を呼び掛けるアピールを発表した。県子ども会育成連絡協議会の玉寄哲永会長は「県民代表の県議会が中心となって超党派の大会を開催してほしい」と述べ、県議会各会派がまとまって大会の主体となるよう期待した。
 玉寄会長は「県議会は検定撤回を求める意見書を二度にわたって可決している。教科書の改ざんを許さないという一点で各会派が一致できるはずだ」とし、県議会が県など各団体に参加を働き掛けていくよう求めた。九月九日に糸満市摩文仁の平和の礎前で開催を予定しているが、「われわれの考えであり、場所や時期は変更もあり得る」としている。
 同準備委員会は七月二十五日に仲里利信県議会議長に協力を要請。県議会は八日の各派代表者会議で協議する
 
呼び掛け団体には沖子連のほか、県婦人会連合会(小渡ハル子会長)、県老人クラブ連合会(花城清善会長)、県PTA連合会(諸見里宏美会長)、県高校PTA連合会(西銘生弘会長)、県遺族連合会(仲宗根義尚会長)の六団体が参加。賛同団体に、沖縄戦を体験した元女子学徒九団体で構成する「青春を語る会」など七団体が加わっている。
 アピールは「日本軍という主語が(検定で)消され、追いつめられて『集団自決』した人、とまるで住民が勝手に死んだとも読める教科書が全国の子どもたちの手に渡ろうとしている」と危機感を表明。「文部科学省は教科書検定制度の『中立・公正』を主張するなら『軍の関与はあった』とする体験者の声をどう認識しているのか」とし、審議会の議論内容を公開するよう求めている。

                        ◇

参院選で敗れた自民党推薦の西銘候補は、集団自決に関する教科書検定問題は撤回せよと主張していた。

当選した極サ候補候補と同じ意見た。

選挙直前、全県市町村議会を始め県議会まで反対決議を出してしまった影響だと考えられる。

選挙前、未確認ながら次のような情報を得ていた。

<沖縄集団自決に関する文科省の検定をめぐって心配な兆候があらわれています。沖縄の検定撤回運動にあおられて、参議院選挙を前に政府・自民党が反対派と何らかの密約をしかねない雲行きなのです>

結果は自民党の惨敗だった。

県議会決議では自民党の良識派が最後ま粘ったが、連日の異常なまでの煽動に押し切られた形で決議した。 それも二度までも。

これ以上の愚行はここで踏み留めるべきだ。

だが、サヨク勢力は9月9日(係争中の裁判の出張証人尋問の前日)に開催予定の「県民大会」に、県議会を引きずりこむ計画のようだ。

同準備委員会は七月二十五日に仲里利信県議会議長に協力を要請。県議会は八日の各派代表者会議で協議する

仲里利信県議会議長、この方の名を見ると次の衝撃的見出しの琉球新報記事がすぐ脳裏に浮かんでくる。

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

 

 (略)
 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
 (琉球新報 6/21 9:50)

                   ◇

今ではおにぎりは庶民的な食べ物だ。

懐が不如意の場合は「コンビニのおにぎりで済ます」ことは庶民なら一度は経験した感覚だろう。

コンビニでおにぎりを万引きし、店員に追い詰められて自殺した男がいる。

たかがおにぎり泥棒を追い詰めたと店側に非難の電話やメールが殺到したという。

おにぎり万引きして自殺  (8月5日 06:01)

たかがおにぎりと言うが餓死寸前のものにとっておにぎりは宝石にも勝る。

貧しかった戦前の沖縄では米の飯は銀飯(ぎんめし)といって滅多にお目にかかれない貴重品だった。

戦時中は更に食料不足が重なり常食の芋でさえままならなかった。

沖縄戦ではそんな食料が底をついた状況にあって、大事な銀飯のおにぎりに毒を塗して泣く子に食えと言う珍しい日本兵がいたことになる。

現代の感覚で考えると「泣く子に毒入りおにぎり」を与える日本兵は、残虐な日本兵の象徴だが、当時はお茶碗に飯粒一つ残しても怒られた。

この日本兵は日本人の美徳「もったいない」を知らない罰当たりな男だったと言うことになる。

この証言者の仲里利信県議会議長は集団自決の現地調査をした県議・文教厚生委員でもある。

仲里議長は文教厚生委員会でも戦争体験を語っているが沖縄タイムスの記事によると、日本兵が毒入りおにぎりを泣く子に・・・」という衝撃的な一節は無い。

同じ人物が語る戦争体験も報じる新聞社によってこのように違うものなのか。

「毒入りおにぎり」は「沖縄県平和祈念資料館」で沖縄住民に銃を向ける人形と並んで、残酷な日本兵を象徴する双璧となるだろう。

その貴重なはずの戦争体験のハイライトが“あの”沖縄タイムスの記事では語られていない。

 

体験語り歩み寄り 仲里議長(沖縄タイムス)

体験語り歩み寄り 仲里議長

 検定意見の撤回を求める意見書案を全会一致で可決した文教厚生委員会(前島明男委員長)。委員会終了後、与野党の委員は互いに歩み寄り、固い握手を交わした。

 意見書案の取り扱いをめぐっては、与野党の主張がぶつかり合い、何度も暗礁に乗り上げた。しかし、この日の委員会では終始、「同じ気持ちで採決したい」「どうしても意見をまとめよう」との声が上がり、政治対立を超えた「県民の意思」が示された。

 開始から三十分たった午後二時すぎ、着地点が見えないまま議論が進む中、委員の一人で県議会議長の仲里利信氏(自民)が「これまで話したことはないが、参考になれば」と口を開き、自身の沖縄戦体験を語り始めた

 「壕から追い出されたり、飛行機から丸見えの岩穴に一日隠れたりした。撃たれる覚悟もしたが撃たれなかった。何も食べられなかった弟は、満一歳で亡くなった。戦争とはこういうもの」と静かに訴えた。

 午後二時十五分、委員会は終了した。

 各委員の顔には笑顔が浮かび、安堵感が漂った。

 自民の伊波常洋政調会長は、共産党県委の前田政明副委員長や社大の比嘉京子書記長らと握手を交わし、談笑する場面も見られた。

                     ◇

仲井真県知事は辛うじて「県民大会」の主催を県がするのは避けたが、知事本人が参加するかどうかは不透明だ。

毒入りおにぎりのトラウマを証言する議長のいる、県議会の各派代表者会議が今日(8日)行われる予定である。

まさか県議会主催の「県民大会」なんて愚かなことは無いと思うが。

仲里議長さん、県知事の名言を思い出してください。

県議会が『市民運動』を主催或いは、これに深く関わったら禍根を残しますよ。

 

◆参考:県が「市民運動」を主催するわけにはいかないでしょう

 

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