水島総社長の信義違反、共産党的同志粛清は許されない 琉球新報沖縄タイムスを正す県民・国民の会特別動画その10
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■CH桜沖縄の話題
テドコン氏が病をおしてCH桜四連投!
下手すると五連投の可能性も・・・・。
現在の水島社長には、相談相手はテドコン氏だけ。
嘘吐きが相談相手の水島社長。
「あのね、私が20代の娘さんにお金の都合を付けてくれなんて話をすると思いますか?」
筆者「思います!」
嘘が下手過ぎるwww
水島社長は「依田・手登根嘘つきコンビ」から嘘のつき方を学ぶべき。
シロアリに食い尽くされた桜城!
↑6月28日(日)午後4時現在のCH桜沖縄の全景(ch桜の看板は非表示)ー(読者提供)
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希代の嘘つきを糾弾していたら、「嘘」に関連する過去記事にアクセスが急増する現象がある。
以下はその中の一つ。
琉球新報の大嘘を紹介しよう。
本件、前後の繋がりを知りたい方は、カテゴリーオカッパの少年(32)を参照ください。
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■続・大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘
■琉球新報の衝撃的スクープ?
2007年。
その年は沖縄にとってまさに狂乱の年だった。
その年の3月、文科省が高校の歴史教科書の検定意見が、沖縄・慶良間諸島で起きた集団自決に関し「軍の命令による」という従来の記述を削除するよう求めた。
地元2紙が一斉にこれに反発した。
集団自決に関する特集を組み、検定意見撤回を求めるキャンペーンを展開した。
そして9月29日の「11万人集会」(「高校歴史教科書検定意見撤回を要請する県民大会」)へと狂気のように雪崩れ込んで行った年であった。
2007年とは「残虐非道の日本軍」を糾弾するキャンペーンで沖縄中が大きく揺れた年であった。
ちなみに同じ年の6月には、琉球新報は連載中の沖縄戦記「パンドラの箱が開く時」の第2章「慶良間で何が起きたのか」を、突然「社の方針と反する」という一方的理由で掲載拒否し、著者の上原正稔氏が琉球新報を「言論封殺」で提訴した年である。
その年の8月25日、各市民団体、労働団体の検定意見に対する抗議声明が連日の紙面を飾り、反日本軍キャンペーンが熱気を帯びている最中、
沖縄戦の語り部の大城盛俊氏(75)は、はるばる伊丹市から沖縄を訪れ、驚愕すべき証言をした。
当時の琉球新報は大城氏の証言を次のように報道している。
<教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる
「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。・・・5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。>
大城氏は1983年、喉頭がんで声帯を失ったが、人工声帯で沖縄戦の実相を全国各地で語り続け、講演は23年で1120回を数えると記事は結んでいる。
だが、「残虐非道の日本軍」の印象操作に必死の琉球新報が、その時、沖縄戦の語り部である大城氏に那覇市では一回の講演も依頼せずに伊丹市に戻しているのはいかにも不自然だった。
他にも疑問が続出した。
特に不可解なのは、戦時中に米兵の毒牙から身を守るため女の子が髪を切って男の子に変装する話は仄聞する。
だが、その逆のケースは聞いたことがなかった。
坊主頭の軍国少年がオカッパ頭に髪を伸ばしたら、学校で苛められるのは明らかである。 筆者は大城氏の証言をそのまま信じることは出来なかった。
もう一つの大きな疑問は、こうだ。
琉球新報が発行した『これが沖縄だ』は、大田昌秀氏の数多ある著作の中でもベストセラーといわれ、各書店はもちろん県平和資料記念館などの各戦跡・観光地でも販売され県民なら一度は目にしたことのある有名な本だ。
その表紙を飾る写真の少女が、発売以来30年たってから初めて、出版元の琉球新報によって「少女」が変装した大城氏の写真だった知らされたことが腑に落ちなかった。
大城氏が表紙の少女が大城氏自身であると、初めて知ったのは1984年(昭和54年)だという。
その時大城氏は著者の大田昌秀氏を訪問し、2人は感激のあまり肩を抱き合って泣いたという。
だが何故その時、2人はこの感動の戦争秘話を本の出版元である琉球新報に連絡しなかったのか。
日本兵の暴行により片目を失明し、片足が不自由になった「少女」が実は男の子の変装した姿だった・・・
琉球新報にとって「残虐非道の日本兵」を喧伝する材料としてこれほどオイシイ話は無いはずだ。
大城氏と大田氏が肩を抱き合って感激の涙を流した1964年から、2007年の琉球新報のスクープ報道まで20年以上も時間の経過している。
何故20年もの時の経過が必要だったのか。
特に大城氏は表紙の「少女」が自分であると大田氏に名乗り出て以来、沖縄戦の語り部として23年間の間、「少女」を売り物に講演活動を展開している。
沖縄のメディアがこんなオイシイ話を20年余も放置していたのはいかにも不自然だった。
琉球新報のスクープ記事の後、筆者は大城氏の出身地である沖縄南部の「具志頭(ぐしかみ)村立歴史民俗資料館」を訪問し「沖縄戦コーナー」を確認した。
確かに、「うつろな目の少女」の写真は「村内収容所」「傷の手当てを待つ少女」とキャプションをつけ展示されてはいる。
だが、この少女が実は大城氏が変装した「男の子」だったという断り書きは無い。
さらに沖縄県平和祈念資料館でも確認した。
そこでは問題の写真は展示さえされていなかった。
学芸員に問合せしたが、表紙の少女が女装の少年だったということは知らなかった。
■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■
疑問は次々湧いてきた。
大城氏は日本兵に顔面を殴打され右目を失明したという。
その時の状況を、大城氏は「頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。」と説明している。
あらためて「少女」の写真と大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較検証してみた。
写真の少女は着衣が黒く汚れているが、顔は無傷で腫れなども無い。
細紐で首から右手を吊るしているが、顔や手足の露出部分に腫れや傷の痕跡はない。
撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。
大城氏の説明では、目が傷で腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。
その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院でのことだ。
ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。
「少女」が63年前の大城氏であるかどうかはさて措いても、後年大城氏が右目を失明した原因が、そのときの日本兵に殴打されたためという主張には大きな疑念が生じてくる。
■暴かれた大城氏の嘘
そして2011年の9月、筆者は「少女」に関する衝撃的事実を知ることになる。
戦争に翻弄される子どもたちを描いた記録映画「戦場ぬ童(いくさばぬわらび)」の中で玉那覇(たまなは)春子さんという女性が「うつろな目の少女」は本人だと名乗り出ていることを知ったのだ。
玉那覇春子さんが名乗り出たことを報じる朝日新聞(1985年8月12日月曜日)
沖縄県西原町の玉那覇春子さんが、映画に出演するようになったきっかけは、1枚の写真だったという。
米軍従軍写真班が撮影した右腕を負傷したオカッパ頭の少女だ。
玉那覇さんは、この写真を夫が買って来た写真集で見て「自分ではないか」と直感した。
写真の少女の右腕と、右わき腹のけがは、戦場での自分の傷と一致している。現在の玉那覇さんは、右腕のひじの先がない。
右腕とわき腹に負傷し、鉄の破片が入っていた。その時、親類の若いおばさんが、自分の着ていたかすりの着物を引き裂き右腕を吊ってくれた。
逃避行の果てに、気がついた時は、米軍の野戦病院のベッドに横たわっていた。
右腕は切断されていた。だが現在も目は不自由ではない。
写真の少女については、「首にかけた布が、私のものと同じで、身につけている花柄の生地は、当時は沖縄では珍しかった。新しがり屋の母は洋装好みだったし、砲弾を浴びる少し前にどうせ死ぬのだから、きれいなかっこうをしようと、一番いい服に着替えさせてくれた。
「戦争で母の写真もみんな焼けてしまったが、ハワイに移民した親類が数年前に送ってくれた母の写真を見ると、同じような柄の洋服を着ています」と玉那覇さんは語る。
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映画の中では右手がない様子がわかります。
新聞の記事には「右手は義手」と書かれています。
大城さんが正しいのか、
「うつろな目の少女」を自分だと名乗り出た玉那覇春子さんを報道する朝日新聞。(1985年8月1日)
このフィルムの中で玉那覇春子さんが「うつろな目の少女は自分」と名乗り出ている。
■一フィート運動の成果、記録映画「戦場ぬ童」
「戦場ぬ童」は1985年、沖縄戦44周年記念記録映画として製作され、1985年第32回教育映画祭(日本視聴覚教育協会主催)で、優秀作品賞を受賞している。
このことは地元2紙にも大きく報道され、平和教育の絶好の教材として全県各地で、繰り返し上映された。
現在でも各図書館にはDVD化されたものが所蔵され誰でも見ることが出来る。
やはり大城盛俊氏は嘘をついていた。
その前年の1984年に大城氏が「少女」は自分であると大田昌秀氏に名乗り出て、その年から「うつろな目の少女」を売り物にし、全国で講演を活発に展開した。
そんな時期に玉那覇さんが名乗り出た。
大城氏自身、「少女」を演題にしたら、講演の申し込みが殺到したと告白している。
当然「うつろな目の少女」は沖縄戦の語り部を自認する大城氏の講演の絶好の売り物になる。
以後大城氏の講演会のチラシには必ず「少女」の写真と現在の自分の写真が並んで掲載されるようになる。
(講演会のチラシ)
大城氏は、沖縄戦のプロの「講演屋」として、「少女」を捏造した講演の売り物にしていた。
23年間に1120回という膨大な回数の講演会をこなした理由もこれで理解できる。
ところが、大田昌秀氏は大城氏が自著に掲載の「少女」に成りすまし嘘の講演を続けるのを黙認した。
その当時の大田氏は琉球大学教授であり一フィート運動の役員をしていた。
一フィート運動のフィルムを基に製作され、優秀賞を受賞した記録映画「戦場ぬ童」を、沖縄戦の泰斗を自負する大田氏が見ていないはずはない。
大田氏はその前年の1984年5月、大城氏と対面し、その「数奇な運命」の告白を聞いている。
一方の大城氏はその年の9月、厚生省から「援護法」の申請を却下され、それを契機に講演活動を始めている。大城氏が日本兵に食料を強奪され、壕を放り出され、その際受けた暴行で右目は失明、後遺症で歩行障害まできたし、実母は日本兵にスパイ容疑で虐殺されている。
大田氏は「残虐非道な日本軍」を主張するために、大城氏ほど絶好な例はないと考えた。
事実をイデオロギーで覆い隠すのが得意の大田氏としては、「少女」を講演の売り物にした大城氏が「残虐非道の日本軍」を喧伝し全国で講演会を続けることは自分のイデオロギーの喧伝に利すると考えたのだ。
大田氏と同様、大城氏の嘘を黙認していたのが沖縄2紙だ。
琉球新報と沖縄タイムスが、自社紙面で優秀賞受賞を大きく報じた「戦場ぬ童」の内容を知らないはずは無い。
大田氏と沖縄2紙は共謀して大城氏がその嘘を題材に講演活動することを黙認してきた。
そして琉球新報が2007年の「検定意見撤回運動」のどさくさに紛れ、大城氏の嘘を大きく報道し、嘘が一人歩きを始める事になる。
その年2007年は連日「残虐非道の日本軍」の悪行を糾弾する証人が登場し、嘘の証言を垂れ流した。
当時県議の仲里利信氏などは、食糧事情の悪化した戦時中の沖縄では考えられないことだが、「日本兵に毒おにぎりを食わされそうになった」というデタラメな証言をした。
⇒毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る
海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
(琉球新報 6/21 9:50)
「悪逆非道の日本軍」についての証言であれば、何の検証もなくそのまま報道するというのが、2007年という狂気の年の沖縄マスコミの報道姿勢だった。
「毒おにぎり」のデタラメ記事は朝日新聞を通じてニューヨークタイムズに掲載され、「極悪非道の日本軍」のヨタ話が世界を駆け巡った。
ちなみに仲里氏は2014年の衆院選で「オール沖縄」の波に便乗・当選し、現在国会議員である。
不思議なことに「毒おにぎり」と「うつろな目の少女」の二つの記事は、現在琉球新報のウェブサイトから削除されている。
そして2008年の「沖縄慰霊の日」。
大城盛俊氏の嘘はついには朝日新聞の一面トップを飾ることになる。
朝日による嘘のロンダリングだ。
ここで連想するのは「従軍慰安婦」問題で詐話師といわれた吉田清治氏のことだ。
吉田氏がついた嘘の体験談を朝日新聞が後押し、一人歩きさせ一時は教科書にまで掲載された。
大田昌秀氏と大城盛氏の関係は吉田氏と朝日新聞のそれに酷似している。
大城氏がついた嘘を大田氏が検証もせずに是認し、それが琉球新報、朝日新聞と嘘のロンダリングを続けた。
最後は「少女」の生みの親である大田氏が自らの書籍で嘘のロンダリングを完成させることになる。
つづく