狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄紙・大嘘物語!続・大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘

2020-07-03 09:43:08 | オカッパの少年

 

 

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水島総社長の信義違反、共産党的同志粛清は許されない 琉球新報沖縄タイムスを正す県民・国民の会特別動画その10

              ★

■CH桜沖縄の話題

テドコン氏が病をおしてCH桜四連投!

下手すると五連投の可能性も・・・・。

現在の水島社長には、相談相手はテドコン氏だけ。

嘘吐きが相談相手の水島社長。

「あのね、私が20代の娘さんにお金の都合を付けてくれなんて話をすると思いますか?」

筆者「思います!」

嘘が下手過ぎるwww

水島社長は「依田・手登根嘘つきコンビ」から嘘のつき方を学ぶべき。

シロアリに食い尽くされた桜城!

↑6月28日(日)午後4時現在のCH桜沖縄の全景(ch桜の看板は非表示)ー(読者提供

              ★

希代の嘘つきを糾弾していたら、「嘘」に関連する過去記事にアクセスが急増する現象がある。

以下はその中の一つ。

琉球新報の大嘘を紹介しよう。

本件、前後の繋がりを知りたい方は、カテゴリーオカッパの少年(32)を参照ください。

             ★

■続・大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘

■琉球新報の衝撃的スクープ?

2007年。

その年は沖縄にとってまさに狂乱の年だった。

その年の3月、文科省が高校の歴史教科書の検定意見が、沖縄・慶良間諸島で起きた集団自決に関し「軍の命令による」という従来の記述を削除するよう求めた。

地元2紙が一斉にこれに反発した。

集団自決に関する特集を組み、検定意見撤回を求めるキャンペーンを展開した。

そして9月29日の「11万人集会」(「高校歴史教科書検定意見撤回を要請する県民大会」)へと狂気のように雪崩れ込んで行った年であった。

2007年とは「残虐非道の日本軍」を糾弾するキャンペーンで沖縄中が大きく揺れた年であった。

ちなみに同じ年の6月には、琉球新報は連載中の沖縄戦記「パンドラの箱が開く時」の第2章「慶良間で何が起きたのか」を、突然「社の方針と反する」という一方的理由で掲載拒否し、著者の上原正稔氏が琉球新報を「言論封殺」で提訴した年である。 

その年の8月25日、各市民団体、労働団体の検定意見に対する抗議声明が連日の紙面を飾り、反日本軍キャンペーンが熱気を帯びている最中、

沖縄戦の語り部の大城盛俊氏(75)は、はるばる伊丹市から沖縄を訪れ、驚愕すべき証言をした。

当時の琉球新報は大城氏の証言を次のように報道している。

「玉那覇春子 朝日新聞。(1985年8月1日)」の画像検索結果城盛俊氏

<教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。・・・5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。>

大城氏は1983年、喉頭がんで声帯を失ったが、人工声帯で沖縄戦の実相を全国各地で語り続け、講演は23年で1120回を数えると記事は結んでいる。

だが、「残虐非道の日本軍」の印象操作に必死の琉球新報が、その時、沖縄戦の語り部である大城氏に那覇市では一回の講演も依頼せずに伊丹市に戻しているのはいかにも不自然だった。

他にも疑問が続出した。

特に不可解なのは、戦時中に米兵の毒牙から身を守るため女の子が髪を切って男の子に変装する話は仄聞する。

だが、その逆のケースは聞いたことがなかった。

坊主頭の軍国少年がオカッパ頭に髪を伸ばしたら、学校で苛められるのは明らかである。 筆者は大城氏の証言をそのまま信じることは出来なかった。

もう一つの大きな疑問は、こうだ。

琉球新報が発行した『これが沖縄だ』は、大田昌秀氏の数多ある著作の中でもベストセラーといわれ、各書店はもちろん県平和資料記念館などの各戦跡・観光地でも販売され県民なら一度は目にしたことのある有名な本だ。


その表紙を飾る写真の少女が、発売以来30年たってから初めて、出版元の琉球新報によって「少女」が変装した大城氏の写真だった知らされたことが腑に落ちなかった。

大城氏が表紙の少女が大城氏自身であると、初めて知ったのは1984年(昭和54年)だという。

その時大城氏は著者の大田昌秀氏を訪問し、2人は感激のあまり肩を抱き合って泣いたという。

だが何故その時、2人はこの感動の戦争秘話を本の出版元である琉球新報に連絡しなかったのか。

日本兵の暴行により片目を失明し、片足が不自由になった「少女」が実は男の子の変装した姿だった・・・

琉球新報にとって「残虐非道の日本兵」を喧伝する材料としてこれほどオイシイ話は無いはずだ。

大城氏と大田氏が肩を抱き合って感激の涙を流した1964年から、2007年の琉球新報のスクープ報道まで20年以上も時間の経過している。 

何故20年もの時の経過が必要だったのか。

特に大城氏は表紙の「少女」が自分であると大田氏に名乗り出て以来、沖縄戦の語り部として23年間の間、「少女」を売り物に講演活動を展開している。

沖縄のメディアがこんなオイシイ話を20年余も放置していたのはいかにも不自然だった。

琉球新報のスクープ記事の後、筆者は大城氏の出身地である沖縄南部の「具志頭(ぐしかみ)村立歴史民俗資料館」を訪問し「沖縄戦コーナー」を確認した。

「玉那覇春子 朝日新聞。(1985年8月1日)」の画像検索結果うつろな目の少女

確かに、「うつろな目の少女」の写真は「村内収容所」「傷の手当てを待つ少女」とキャプションをつけ展示されてはいる。

だが、この少女が実は大城氏が変装した「男の子」だったという断り書きは無い。

さらに沖縄県平和祈念資料館でも確認した。

そこでは問題の写真は展示さえされていなかった。

学芸員に問合せしたが、表紙の少女が女装の少年だったということは知らなかった。

■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■

疑問は次々湧いてきた。

大城氏は日本兵に顔面を殴打され右目を失明したという。

その時の状況を、大城氏は「頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。」と説明している。

あらためて「少女」の写真と大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較検証してみた。 

写真の少女は着衣が黒く汚れているが、顔は無傷で腫れなども無い。

細紐で首から右手を吊るしているが、顔や手足の露出部分に腫れや傷の痕跡はない。

撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。

大城氏の説明では、目が傷で腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。

その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院でのことだ。

ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。

「少女」が63年前の大城氏であるかどうかはさて措いても、後年大城氏が右目を失明した原因が、そのときの日本兵に殴打されたためという主張には大きな疑念が生じてくる。

■暴かれた大城氏の嘘

そして2011年の9月、筆者は「少女」に関する衝撃的事実を知ることになる。

戦争に翻弄される子どもたちを描いた記録映画「戦場ぬ童(いくさばぬわらび)」の中で玉那覇(たまなは)春子さんという女性が「うつろな目の少女」は本人だと名乗り出ていることを知ったのだ。

「玉那覇春子」の画像検索結果

玉那覇春子さんが名乗り出たことを報じる朝日新聞(1985年8月12日月曜日)

沖縄県西原町の玉那覇春子さんが、映画に出演するようになったきっかけは、1枚の写真だったという。

米軍従軍写真班が撮影した右腕を負傷したオカッパ頭の少女だ。

玉那覇さんは、この写真を夫が買って来た写真集で見て「自分ではないか」と直感した。

写真の少女の右腕と、右わき腹のけがは、戦場での自分の傷と一致している。現在の玉那覇さんは、右腕のひじの先がない。

右腕とわき腹に負傷し、鉄の破片が入っていた。その時、親類の若いおばさんが、自分の着ていたかすりの着物を引き裂き右腕を吊ってくれた。

逃避行の果てに、気がついた時は、米軍の野戦病院のベッドに横たわっていた。

右腕は切断されていた。だが現在も目は不自由ではない。

写真の少女については、「首にかけた布が、私のものと同じで、身につけている花柄の生地は、当時は沖縄では珍しかった。新しがり屋の母は洋装好みだったし、砲弾を浴びる少し前にどうせ死ぬのだから、きれいなかっこうをしようと、一番いい服に着替えさせてくれた。

「戦争で母の写真もみんな焼けてしまったが、ハワイに移民した親類が数年前に送ってくれた母の写真を見ると、同じような柄の洋服を着ています」と玉那覇さんは語る。




映画の中では右手がない様子がわかります。
新聞の記事には「右手は義手」と書かれています。

大城さんが正しいのか、


「うつろな目の少女」を自分だと名乗り出た玉那覇春子さんを報道する朝日新聞。(1985年8月1日)


このフィルムの中で玉那覇春子さんが「うつろな目の少女は自分」と名乗り出ている。

 

■一フィート運動の成果、記録映画「戦場ぬ童」

「戦場ぬ童」は1985年、沖縄戦44周年記念記録映画として製作され、1985年第32回教育映画祭(日本視聴覚教育協会主催)で、優秀作品賞を受賞している。

このことは地元2紙にも大きく報道され、平和教育の絶好の教材として全県各地で、繰り返し上映された。

現在でも各図書館にはDVD化されたものが所蔵され誰でも見ることが出来る。

やはり大城盛俊氏は嘘をついていた。

その前年の1984年に大城氏が「少女」は自分であると大田昌秀氏に名乗り出て、その年から「うつろな目の少女」を売り物にし、全国で講演を活発に展開した。

そんな時期に玉那覇さんが名乗り出た。

大城氏自身、「少女」を演題にしたら、講演の申し込みが殺到したと告白している。

当然「うつろな目の少女」は沖縄戦の語り部を自認する大城氏の講演の絶好の売り物になる。

以後大城氏の講演会のチラシには必ず「少女」の写真と現在の自分の写真が並んで掲載されるようになる。

 

(講演会のチラシ)

大城氏は、沖縄戦のプロの「講演屋」として、「少女」を捏造した講演の売り物にしていた。

23年間に1120回という膨大な回数の講演会をこなした理由もこれで理解できる。

ところが、大田昌秀氏は大城氏が自著に掲載の「少女」に成りすまし嘘の講演を続けるのを黙認した。

その当時の大田氏は琉球大学教授であり一フィート運動の役員をしていた。 

一フィート運動のフィルムを基に製作され、優秀賞を受賞した記録映画「戦場ぬ童」を、沖縄戦の泰斗を自負する大田氏が見ていないはずはない。

大田氏はその前年の1984年5月、大城氏と対面し、その「数奇な運命」の告白を聞いている。

一方の大城氏はその年の9月、厚生省から「援護法」の申請を却下され、それを契機に講演活動を始めている。大城氏が日本兵に食料を強奪され、壕を放り出され、その際受けた暴行で右目は失明、後遺症で歩行障害まできたし、実母は日本兵にスパイ容疑で虐殺されている。

大田氏は「残虐非道な日本軍」を主張するために、大城氏ほど絶好な例はないと考えた。 

事実をイデオロギーで覆い隠すのが得意の大田氏としては、「少女」を講演の売り物にした大城氏が「残虐非道の日本軍」を喧伝し全国で講演会を続けることは自分のイデオロギーの喧伝に利すると考えたのだ。

 大田氏と同様、大城氏の嘘を黙認していたのが沖縄2紙だ。

琉球新報と沖縄タイムスが、自社紙面で優秀賞受賞を大きく報じた「戦場ぬ童」の内容を知らないはずは無い。

大田氏と沖縄2紙は共謀して大城氏がその嘘を題材に講演活動することを黙認してきた。

そして琉球新報が2007年の「検定意見撤回運動」のどさくさに紛れ、大城氏の嘘を大きく報道し、嘘が一人歩きを始める事になる。

その年2007年は連日「残虐非道の日本軍」の悪行を糾弾する証人が登場し、嘘の証言を垂れ流した。

当時県議の仲里利信氏などは、食糧事情の悪化した戦時中の沖縄では考えられないことだが、「日本兵に毒おにぎりを食わされそうになった」というデタラメな証言をした。

毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る
海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。
 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。
 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。(略)
 (琉球新報 6/21 9:50)

「悪逆非道の日本軍」についての証言であれば、何の検証もなくそのまま報道するというのが、2007年という狂気の年の沖縄マスコミの報道姿勢だった。

「毒おにぎり」のデタラメ記事は朝日新聞を通じてニューヨークタイムズに掲載され、「極悪非道の日本軍」のヨタ話が世界を駆け巡った。

ちなみに仲里氏は2014年の衆院選で「オール沖縄」の波に便乗・当選し、現在国会議員である。

「仲里利信」の画像検索結果

不思議なことに「毒おにぎり」と「うつろな目の少女」の二つの記事は、現在琉球新報のウェブサイトから削除されている

そして2008年の「沖縄慰霊の日」。

大城盛俊氏の嘘はついには朝日新聞の一面トップを飾ることになる。

朝日による嘘のロンダリングだ。

ここで連想するのは「従軍慰安婦」問題で詐話師といわれた吉田清治氏のことだ。

吉田氏がついた嘘の体験談を朝日新聞が後押し、一人歩きさせ一時は教科書にまで掲載された。

大田昌秀氏と大城盛氏の関係は吉田氏と朝日新聞のそれに酷似している。

大城氏がついた嘘を大田氏が検証もせずに是認し、それが琉球新報、朝日新聞と嘘のロンダリングを続けた。

最後は「少女」の生みの親である大田氏が自らの書籍で嘘のロンダリングを完成させることになる。

つづく

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コメント (8)

完・大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘

2017-07-28 00:43:37 | オカッパの少年
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■完・大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘

 

■大田昌秀著『2人の「少女」の物語』の大嘘

 大田氏は最新の著作『二人の「少女」の物語』(新星社 2011年)を出版することにより、大城盛俊氏が語り部として20数年間に渡り全国にばら撒いてきた嘘を「沖縄戦の真実」として認め、歴史の一ページに刻むつもりである。

 

大田昌秀著『2人の「少女」の物語』には概ね三つの大きな嘘が含まれている。

「うつろな目の少女」についての嘘は、これまで述べたとおりだが、もう1人の「白旗の少女」についても嘘がある。

比嘉富子さんが「白旗の少女」は自分であると名乗り出た動機を大田氏は故意に隠蔽し読者を誤誘導しようとしている。

ドキュメンタリー作家上原正稔氏が創設した「1一フィート運動」の成果である米軍撮影記録フィルムの中で、健気にも手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は見る者の心を打った。



白旗の少女が公開されたその翌年には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、そこでは「少女を盾にする日本兵の醜い姿」が描かれた。

 「あとがき」には日本兵に対する憎悪をむき出しの、このような文言が書かれている。

 

<本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。 >

 

  <沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、もんぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >

 

沖縄の「識者」たちによる「白旗の少女」を歪曲した絵本の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年、「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。


比嘉富子著「白旗の少女」(講談社)

その本の後書きには、当初名乗り出ることを躊躇していた比嘉さんが、名乗り出るどころかあえて出版に踏み切った動機をこう書いている。

 

<・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのように誤解されているのは、大変残念なことです。この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。このことは、事実として書き加えておかなければなりません。(204、205頁)>

 

 比嘉富子さんが、勇気をもって真実を告白してくれたお蔭で日本兵の「捏造された汚名」は雪(そそ)がれることになった。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で沈黙を守っていたら、「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に語られていた。

ここに登場する日本兵は名も知られぬ無名兵士ゆえ、慶良間島集団自決の梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。

だが日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が定着していたであろう。

記録映画を見た観客は、事実をそのまま写すカメラの目を通して真実を見て取る。だが、新川明氏や大田昌秀氏のような「識者」の文を通して伝えられる物語は真実とは遠くかけ離れ、イデオロギーで歪曲されたものである。 

 

『2人の「少女」の物語』では、大田氏は比嘉さんが日本兵の汚名を雪ぐために名乗り出たという重要な理由には一言も触れていない。

比嘉富子さんは、「少女を盾にした卑劣な日本兵」という通説が嘘であることを証言するため、あえて名乗り出た。だが大田氏は比嘉富子さんの心情を隠蔽することにより「残虐非道な日本軍」というイデオロギーを押し通そうとした。

「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

否、「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は、一行の訂正もされず発売されているし、各図書館に所蔵され、子供たちの「平和教育」に使用されている。

「残逆非道の日本軍」というイデオロギーを押し通すために・・・これはデタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

 

■「一フィート運動」にまつわる嘘

『2人の「少女」の物語』が語るもう一つの大嘘は、「一フィート運動」の嘘だ。

 

同書には「一フィート運動」は大田氏が1983年(昭和58)に自宅で創始したというくだりがある(同書158ページ)。

一フィート運動はドキュメンタリー作家の上原正稔氏が創設した。これは沖縄戦に関心のある県人なら誰でも知っている紛れもない事実である。

当初、顧問として「一フィート運動」に関わった大田氏ら沖縄の左翼学者は上原氏のイデオロギーに拘らない姿勢に反発し、数を頼んで上原氏を追放した。

これが真実である。

では何故沖縄ではこのような明らかな嘘がまかり通るのか。

 

■「反戦平和は免罪符」

沖縄には筆者が流行らせた「反戦平和は免罪符」という言葉がある。

大田氏は、嘘を撒き散らしながらも「反戦平和」を叫ぶことにより沖縄2紙の免罪符にしっかり保護され、琉球大学教授から県知事、参議院議員と上り詰めた。

現在でも「大田平和総合研究所」所長として内外に嘘を撒き散らしている。大田氏のプライバシーに関しては本題を外れるので深く立ち入らないが、最後に沖縄紙が必死で大田氏をかばった例として、上原正稔氏に対する「暴力事件」を挙げておく。

 

■大田昌秀氏の正体

1992年9月13日、琉球政府の民政官を務めたフィアリー氏を歓迎するパーティがハーバービューホテルで催された。

会場にはアメリカ総領事ら県内外の知名氏が出席していた。

満座の客が注視する中、大田昌秀氏が上原正稔氏に私怨により暴力を振るい床を引きずり回した。

この事件は、沖縄2紙の記者がその場にいたが、大田氏の「反戦平和の免罪符」のお陰で一行の記事にもならず、県民の耳目から完全に遮断された。

まるで島ぐるみで太田氏のご乱行を隠蔽しているとしか思えない。事件の目撃証人は数多くいるがほとんどが新聞社OBを含む左翼文化人のため口をつぐむ人が多いという。

上原正稔氏は、確実に証言してくれる人物として、大田氏の暴力を押しとどめた沖縄タイムスOBの大山哲氏と元沖縄県副知事で沖縄県博物館・美術館館長も努めた牧野浩隆氏の名を挙げている。

沖縄2紙が与える「反戦平和の免罪符」を盾に、数多い著書の中で嘘を撒き散らす「文化人」の代表格が大田昌秀元県知事の正体である。

 

1996年発行の文藝春秋が「反戦政治家・大田昌秀氏の正体」と題する特集を組んで、大田氏の仮面を引き剥がしている。

 

 

 

文藝春秋 1996年10月号["マスコミの寵児"の知られざる実像:大田昌秀ある

 

「文藝春秋 大田昌秀」の画像検索結果

 

 

大田氏は自身が経営する大田平和総合研究所では沖縄戦のみならず、「中国大陸で日本軍が行った残虐行為」として数々の捏造写真を展示し日本軍に対する憎悪を煽っている。

その中でも「うつろな目の少女」の写真は一際目立つ展示がされている。

ところが不思議なことに、その写真の説明文には「大城盛俊氏が日本兵の暴行を避けるため少女に変装した」というセンセーショナルな記述は一行も無い。

「うつろな目の少女」の画像検索結果


琉球新報のロゴの付いた展示写真には次のような説明文が付されているだけである。

「戦火は何の関係ない人も悲惨極まりない地獄図となった。 戦火の火中に巻き込まれ、不可解な事態に疲れ果てた少女」

「うつろな目の少女」の画像検索結果

 

 

 

関連ブログ

反戦平和の免罪符を剥がす! 2011-04-10

 

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続・大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘 太田昌秀氏の大嘘を暴く

2017-07-27 00:45:55 | オカッパの少年

 

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■続・大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘

■琉球新報の衝撃的スクープ?

2007年、その年は沖縄にとってまさに狂乱の年だった。

その年の3月、文科省が高校の歴史教科書の検定意見が、沖縄・慶良間諸島で起きた集団自決に関し「軍の命令による」という従来の記述を削除するよう求めた。

地元2紙がこれに反発し、集団自決に関する特集を組み、検定意見撤回を求めるキャンペーンを展開した。そして9月29日の「11万人集会」(「高校歴史教科書検定意見撤回を要請する県民大会」)へと狂気のように雪崩れ込んで行った年であった。

2007年とは「残虐非道の日本軍」を糾弾するキャンペーンで沖縄中が大きく揺れた年であった。ちなみに同じ年の6月には、琉球新報は連載中の沖縄戦記「パンドラの箱が開く時」の第2章「慶良間で何が起きたのか」を、突然「社の方針と反する」という一方的理由で掲載拒否し、著者の上原正稔氏によって「言論封殺」で提訴された年である。 

その年の8月25日、各市民団体、労働団体の検定意見に対する抗議声明が連日の紙面を飾り、反日本軍キャンペーンが熱気を帯びている最中、沖縄戦の語り部の大城氏ははるばる伊丹市から沖縄を訪れ、驚愕すべき証言をした。

当時の琉球新報は大城氏の証言を次のように報道している。

「玉那覇春子 朝日新聞。(1985年8月1日)」の画像検索結果大城盛俊氏

<教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。・・・5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した

大城氏は1983年、喉頭がんで声帯を失ったが、人工声帯で沖縄戦の実相を全国各地で語り続け、講演は23年で1120回を数えると記事は結んでいる。

だが、「残虐非道の日本軍」の印象操作に必死の琉球新報が、その時、沖縄戦の語り部である大城氏に那覇市では一回の講演も依頼せずに伊丹市に戻しているのはいかにも不自然だった。



他にも疑問が続出した。

特に不可解なのは、戦時中に米兵の毒牙から身を守るため女の子が髪を切って男の子に変装する話は仄聞する。

だが、その逆のケースは聞いたことがなかった。

坊主頭の軍国少年がオカッパ頭に髪を伸ばしたら、学校で苛められるのは明らかである。 筆者は大城氏の証言をそのまま信じることは出来なかった。

もう一つの大きな疑問は、こうだ。

琉球新報が発行した『これが沖縄だ』は、大田昌秀氏の数多ある著作の中でもベストセラーといわれ、各書店はもちろん県平和資料記念館などの各戦跡・観光地でも販売され県民なら一度は目にしたことのある有名な本だ。
その表紙を飾る写真の少女が、発売以来30年たってから初めて、出版元の琉球新報によって「少女」が変装した大城氏の写真だった知らされたことが腑に落ちなかった。

大城氏が表紙の少女が大城氏自身であると、初めて知ったのは1984年(昭和54年)だという。

その時大城氏は著者の大田昌秀氏を訪問し、2人は感激のあまり肩を抱き合って泣いたという。

だが何故その時、2人はこの感動の戦争秘話を本の出版元である琉球新報に連絡しなかったのか。

日本兵の暴行により片目を失明し、片足が不自由になった「少女」が実は男の子の変装した姿だった・・・琉球新報にとって「残虐非道の日本兵」を喧伝する材料としてこれほどオイシイ話は無いはずだ。

大城氏と大田氏が肩を抱き合って感激の涙を流した1964年から、2007年の琉球新報のスクープ報道まで20年以上も時間の経過している。 

何故20年もの時の経過が必要だったのか。

特に大城氏は表紙の「少女」が自分であると大田氏に名乗り出て以来、沖縄戦の語り部として23年間の間、「少女」を売り物に講演活動を展開している。

沖縄のメディアがこんなオイシイ話を20年余も放置していたのはいかにも不自然だった。

琉球新報のスクープ記事の後、筆者は大城氏の出身地である沖縄南部の「具志頭(ぐしかみ)村立歴史民俗資料館」の「沖縄戦コーナー」を確認した。

「玉那覇春子 朝日新聞。(1985年8月1日)」の画像検索結果うつろな目の少女

だが、「うつろな目の少女」の写真は「村内収容所」「傷の手当てを待つ少女」とキャプションをつけ展示されてはいるが、大城氏が変装した姿だったという断り書きは無い。

さらに沖縄県平和祈念資料館でも確認したが問題の写真は展示さえされていなかった。

学芸員も表紙の少女が女装の少年だったということは知らなかった。

■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■

疑問は次々湧いてきた。

大城氏は日本兵に顔面を殴打され右目を失明したという。その時の状況を、「頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。」と説明している。

あらためて「少女」の写真と大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較検証してみた。 

写真の少女は着衣が黒く汚れているが、顔は無傷で腫れなども無い。細紐で首から右手を吊るしているが、顔や手足の露出部分に腫れや傷の痕跡はない。

撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。

大城氏の説明では、目が傷で腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。

その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院でのことだ。

ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。

「少女」が63年前の大城氏であるかどうかはさて措いても、後年大城氏が右目を失明した原因が、そのときの日本兵に殴打されたためという主張には大きな疑念が生じてくる。

■暴かれた大城氏の嘘

そして2011年の9月、筆者は「少女」に関する衝撃的事実を知ることになる。

戦争に翻弄される子どもたちを描いた記録映画「戦場ぬ童(いくさばぬわらび)」の中で玉那覇(たまなは)春子さんという女性が「うつろな目の少女」は本人だと名乗り出ていることを知ったのだ。

「玉那覇春子」の画像検索結果玉那覇春子さんが名乗り出たことを報じる朝日新聞(1965年8月13日)

沖縄県西原町の玉那覇春子さんが、映画に出演するようになったきっかけは、1枚の写真だったという。

米軍従軍写真班が撮影した右腕を負傷したオカッパ頭の少女だ。

玉那覇さんは、この写真を夫が買って来た写真集で見て「自分ではないか」と直感した。

写真の少女の右腕と、右わき腹のけがは、戦場での自分の傷と一致している。現在の玉那覇さんは、右腕のひじの先がない。

右腕とわき腹に負傷し、鉄の破片が入っていた。その時、親類の若いおばさんが、自分の着ていたかすりの着物を引き裂き右腕を吊ってくれた。

逃避行の果てに、気がついた時は、米軍の野戦病院のベッドに横たわっていた。

右腕は切断されていた。だが現在も目は不自由ではない。

写真の少女については、「首にかけた布が、私のものと同じで、身につけている花柄の生地は、当時は沖縄では珍しかった。新しがり屋の母は洋装好みだったし、砲弾を浴びる少し前にどうせ死ぬのだから、きれいなかっこうをしようと、一番いい服に着替えさせてくれた。

戦争で母の写真もみんな焼けてしまったが、ハワイに移民した親類が数年前に送ってくれた母の写真を見ると、同じような柄の洋服を着ています」と玉那覇さんは語る。




映画の中では右手がない様子がわかります。
新聞の記事には「右手は義手」と書かれています。

大城さんが正しいのか、


「うつろな目の少女」を自分だと名乗り出た玉那覇春子さんを報道する朝日新聞。(1985年8月1日)


このフィルムの中で玉那覇春子さんが「うつろな目の少女は自分」と名乗り出ている。

 

■一フィート運動の成果、記録映画「戦場ぬ童」

「戦場ぬ童」は1985年、沖縄戦44周年記念記録映画として製作され、1985年第32回教育映画祭(日本視聴覚教育協会主催)で、優秀作品賞を受賞している。

このことは地元2紙にも大きく報道され、平和教育の絶好の教材として全県各地で、繰り返し上映された。

現在でも各図書館にはDVD化されたものが所蔵され誰でも見ることが出来る。

やはり大城盛俊氏は嘘をついていた。

その前年の1984年に大城氏が「少女」は自分であると大田昌秀氏に名乗り出て、その年から「うつろな目の少女」を売り物にし、全国で講演を活発に展開した。

そんな時期に玉那覇さんが名乗り出た。大城氏自身、「少女」を演題にしたら、講演の申し込みが殺到したと告白している。

当然「うつろな目の少女」は沖縄戦の語り部を自認する大城氏の講演の絶好の売り物になる。

以後大城氏の講演会のチラシには必ず「少女」の写真と現在の自分の写真が並んで掲載されるようになる。

 

(★チラシ写真)

大城氏は、沖縄戦のプロの「講演屋」として、「少女」を捏造した講演の売り物にしていた。

23年間に1120回という膨大な回数の講演会をこなした理由もこれで理解できる。

ところが、大田昌秀氏は大城氏が自著に掲載の「少女」に成りすまし嘘の講演を続けるのを黙認した。

その当時の大田氏は琉球大学教授であり一フィート運動の役員をしていた。 

一フィート運動のフィルムを基に製作され、優秀賞を受賞した記録映画「戦場ぬ童」を、沖縄戦の泰斗を自負する大田氏が見ていないはずはない。

大田氏はその前年の1984年5月、大城氏と対面し、その「数奇な運命」の告白を聞いている。

一方の大城氏はその年の9月、厚生省から「援護法」の申請を却下され、それを契機に講演活動を始めている。大城氏が日本兵に食料を強奪され、壕を放り出され、その際受けた暴行で右目は失明、後遺症で歩行障害まできたし、実母は日本兵にスパイ容疑で虐殺されている。

大田氏は「残虐非道な日本軍」を主張するために、大城氏ほど絶好な例はないと考えた。 事実をイデオロギーで覆い隠すのが得意の大田氏としては、「少女」を講演の売り物にした大城氏が「残虐非道の日本軍」を喧伝し全国で講演会を続けることは自分のイデオロギーの喧伝に利すると考えたのだ。

 大田氏と同様、大城氏の嘘を黙認していたのが沖縄2紙だ。琉球新報と沖縄タイムスが、自社紙面で優秀賞受賞を大きく報じた「戦場ぬ童」の内容を知らないはずは無い。

大田氏と沖縄2紙は共謀して大城氏がその嘘を題材に講演活動することを黙認してきた。

そして琉球新報が2007年の「検定意見撤回運動」のどさくさに紛れ、大城氏の嘘を大きく報道し、嘘が一人歩きを始める事になる。

その年2007年は連日「残虐非道の日本軍」の悪行を糾弾する証人が登場し、嘘の証言を垂れ流した。

当時県議の仲里利信氏などは、食糧事情の悪化した戦時中の沖縄では考えられないことだが、「日本兵に毒おにぎりを食わされそうになった」というデタラメな証言をした。

ちなみに仲里氏は2014年の衆院選で「オール沖縄」の波に便乗・当選し、現在国会議員である。

「仲里利信」の画像検索結果

不思議なことに「毒おにぎり」と「うつろな目の少女」の二つの記事は、現在琉球新報のウェブサイトから削除されている。

そして2008年の「沖縄慰霊の日」。

大城盛俊氏の嘘はついには朝日新聞の一面トップを飾ることになる。

朝日による嘘のロンダリングだ。

ここで連想するのは「従軍慰安婦」問題で詐話師といわれた吉田清治氏のことだ。

吉田氏がついた嘘の体験談を朝日新聞が後押し、一人歩きさせ一時は教科書にまで掲載された。

大田昌秀氏と大城盛氏の関係は吉田氏と朝日新聞のそれに酷似している。

大城氏がついた嘘を大田氏が検証もせずに是認し、それが琉球新報、朝日新聞と嘘のロンダリングを続けた。

最後は「少女」の生みの親である大田氏が自らの書籍で嘘のロンダリングを完成させることになる。

つづく

 

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コメント (3)

大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘 

2017-07-26 12:01:29 | オカッパの少年
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 きょう午後から大田昌秀元県知事の県民葬が行われ、安倍首相も参列し、追悼の辞を述べるという。
 
故人の冥福を祈るため参列する安倍首相に、「安倍帰れ!」などの罵声を浴びせるのは止めて頂きたい。
 
 
過去に太田知事について述べた記事より、抜粋し紹介しよう。
 

■大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘    

戦時中沖縄に上陸した米軍が撮影した一枚の少女の写真がある。

「うつろな目の少女」と呼ばれる写真の少女は、負傷した右手を布で首から吊るし、花柄模様の着物は血に染まり、オカッパ頭の放心した表情でカメラを見る姿はいかにも痛々しい。 


この写真は琉球新報社発行の写真記録『これが沖縄戦だ』(大田昌秀著)の表紙を飾り、さらに扉一枚を使って大きく紹介され、同書に掲載のもう1人の沖縄戦の少女、「白旗の少女」とともに沖縄では良く知られた写真である。

沖縄で出版される沖縄戦関連の書籍は、書店に特設コーナーを設けるほど数多い。 

だが沖縄戦を少しでも検証した人が読めば、あまりにも事実の歪曲、捏造が多いことに気がつく。

調査不足や勘違いによる事実誤認ならともかく、著者のイデオロギーを押し通すため、意図的に事実を歪曲、捏造した例は目を覆うほどだ。

沖縄タイムス刊の『鉄の暴風』が嘘にまみれた伝聞記であることは今では旧聞に属するが、沖縄戦記の代表的書き手である大田昌秀元県知事の出版物から歪曲・捏造の記述を拾い出すと、それだけでも数冊の本が出来るくらいだ。 

大田氏の最新の著作「二人の『少女』の物語」(2011年、新星出版)は、戦争に翻弄される二人の「少女」を描いているが、全編を通して大田氏のイデオロギーで事実が歪曲、捏造されている。 

「大田昌秀 2人の少女」の画像検索結果

本稿は、大田昌秀氏のベストセラー『これが沖縄戦だ』の表紙を飾った「少女」にまつわる稀代の詐話師の「語り部」と著者大田昌秀氏が、琉球新報や朝日新聞などのメディアを巻き込んで事実を捏造した驚くべき嘘の物語である。

■嘘つきは「語り部」のはじまり


2010年の夏、筆者は浦添市のとある喫茶店で、『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏から座間味島旅行の土産話を聞いていた。

当時沖縄県文化協会長を務めていた星氏は、沖縄の知識人として誰より早い時期に集団自決の行われた座間味島に現地取材をしたことで知られ、県史の編纂にも参画した。

星氏は、座間味村に滞在中、偶然にも、神戸から来た20人ほどの「平和学習ツアー」と称する教員グループと同行することになる。

そして宿泊した民宿が所有する小型バスに便乗して戦跡の壕巡りを体験した。

そのときの写真の一枚に写っている人物を見た筆者は、思わず驚きの声を発した。

「うつろの目の少女だ!」

「この嘘つきの語り部がこんな所でまだ他人を騙しているのか」――

星氏が示す写真には正面を向く老人が写っているだけで、1人の少女も写っていない。

写真の老人を指して、少女だと呟く姿は他人の目には、異様に映ったであろう。

筆者が「うつろな目の少女」、「嘘つき」などと決め付けたその老人は、夏休みを利用して神戸の教員グループを率いて座間味案内をしていた沖縄戦の語り部だった。

この人物こそ筆者が長年追い続けていた当時78歳の大城盛俊氏だった。

写真を見て「少女だ」と言ったわけは、こうだ。

大田昌秀著『これが沖縄戦だ』(琉球新報社)の表紙の写真の少女が、戦後65年経って座間味村で戦跡ツアーを案内する語り部の老人と同一人物と考えたからだ。

伊丹市在住の大城氏は勿論男性であり、沖縄戦の語り部を引退すると報じられていた。

老人とオカッパ頭の少女をめぐる衝撃の物語を説明するため、7年前の「沖縄慰霊の日」に時を巻き戻す。

■朝日の一面を飾った「うつろな目の少女」

2008年6月23日「沖縄慰霊の日」。

その日の朝日新聞夕刊は、一面トップをこのような大見出しで飾った。

「63年年目 沖縄慰霊の日」

「残酷なのは戦争」

「75歳語り部来年引退」

朝日の記事は、沖縄戦で日本兵の残虐非道な暴行で右目を失明し、その後遺症で足が不自由になった大城盛俊氏が、沖縄戦の語り部としての講演活動を引退すると報じた。

さらに記事は、63年前に米兵によって撮影されたオカッパ頭の「少女」の写真と、講演をする現在の大城氏の写真を並べて掲載し、「少女」と大城氏の関係を、次のように報じている。

<大城さんは沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。>

 過去に1120回を超える講演をしてきたといわれ、講演会のプロともいえる大城氏なら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると誰でも想像する。

ところが沖縄出身の筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、朝日が報じる石垣島での最後の講演会しか知らない。

しかもただ一度の沖縄での講演会が、なぜか沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だというのも不可解だった。

朝日の報道により、大城氏と「うつろな目の少女」の関係は一応理解できる。

しかし、それを詳しく知るためには、面倒でも更に時を遡って2007年の8月に巻き戻さねばならない。

つづく

 
うつろな目の少女

 

「大城盛俊」の画像検索結果

沖縄戦の語り部・大城盛俊氏

 

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コメント (1)

「安倍嫌い!」子供を政治利用する卑劣なサヨク

2016-07-31 06:17:48 | オカッパの少年

 

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 沖縄お悔やみ情報局

 

 

 痛いニュースの転載です。

         ★

 

2016年7月4日 11時56分

 

1 名前: トペ コンヒーロ(庭)@\(^o^)/:2016/07/30(土) 10:46:59.62 ID:Fib60PWF0●.net
1都知事選に出馬している鳥越俊太郎候補に向けて小学5年生が手紙を書き、その内容が話題になっている。自称小学5年生の子の手紙は「鳥越俊太郎さんへ LOVE&PEACE」と書かれている。手紙の内容を引用すると次の通り。

“こんにちは。東京都在住、小学5年生の●●●●です。手紙を書こうと思った理由は、お母さんが●●●でスタンディングをしていて、鳥越さんを応えんしているのと、私みたいな小学生で政治について興味のある人の意見も聞いてほしいと思ったからです。私がきらいな人はアベ首相です。首相とすら書きたくありません。自分が死なないからって金の為に戦争や原発推進するなんて人の心が無いとしか思えません。70年守ってきた平和を簡単にこわされないようにするために精一杯頑張ってください!!

●●●●●より”

一部名前の箇所などが伏せられているほか「お母さんが●●●」と書かれている箇所は党の名前だと予想できる。文字の長さからして2文字から3文字くらいだろう。

ただこの手紙は本当に小学5年生が自分で意思で書いたのかと疑惑が浮上している。「アベ首相」の部分だが、安倍と一度書いたあとに消してカタカナで書き直している。

字そのものは幼く感じるが、これくらいなら大人でも真似出来ないことはない。

小学5年生が自身でそして本心で書いたのか、それとも親に書くように言われたのか、それとも大人が書いたのは。この手紙からはこれ以上結論付けることはできない。

http://gogotsu.com/archives/20234

1




2: エクスプロイダー(関西地方)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 01:58:44.32 ID:410QdOYL0
親が書かせた感ありありだよな

9: 腕ひしぎ十字固め(熊本県)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:00:27.78 ID:Zwnjy9i/0
"アベ"のところの消した跡w

 

18: オリンピック予選スラム(大阪府)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:02:22.13 ID:5PqFTjn00
こどもを利用するのは左巻きの常套手段


35: ダブルニードロップ(やわらか銀行)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:04:58.84 ID:1Kaj3gtY0
原発推進とか漢字かけて安倍だけかけないとは変わった子だ

39: リバースネックブリーカー(東日本)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:05:40.39 ID:NLVn5zdi0
パヨクが常備してるキーワード全部ちりばめちゃった感w
キーワードは最大3個までとかちゃんと指定しとけよ

40: ジャンピングカラテキック(大阪府)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:05:40.86 ID:ixMZxPCg0
・・・都知事選ですよ?
 

85: 目潰し(東京都)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:18:52.98 ID:STr1ODPm0
手紙の写真なんか普通撮るか?
封もせずに手紙を渡してくれって託されたの?
最初から公開して欲しくて書いたのかな

104: ネックハンギングツリー(dion軍)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:23:21.65 ID:YOp+dXPd0
>>85
これ折った痕跡無いよな
書いてファイルにでも挟んでこれアップロードしようよみたいな感じで持ってきたのかな

1

651: リバースパワースラム(庭)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 10:55:48.21 ID:s9qfdSt70
>>104
ほんとだw
折り目がなくてワロタ

91: フロントネックロック(福島県)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:20:23.57 ID:XsNqkZvb0
親の書かせた文章だって普通の知能なら気づくよな
なんでサヨクは同じこと繰り返すんだろう?
実はコレに感動する一般人が居たりするの?w

92: ジャストフェイスロック(庭)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:20:37.02 ID:HbzK/Eay0
相当厳しいんだな鳥越

 

116: トペ スイシーダ(dion軍)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:25:54.94 ID:tHBvs92B0
わざわざ書き直した「アベ首相」がイデオロギー全開なんですが
なんで自ら墓穴を掘るかな



OM7J7kZ

119: デンジャラスバックドロップ(catv?)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:28:54.55 ID:dYM+qrVi0
子供を持ち出すのはやめようよ

子供が独り立ちして自分の意見を持つようになるまでは

125: 目潰し(東京都)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:31:45.26 ID:STr1ODPm0
自宅で親が毎日アベ氏ねアベ氏ねとか言ってたら
心配で相談したくなるのが本当の小学生

130: キドクラッチ(家)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:32:59.29 ID:o6IZSwqt0
これ騙される奴なんかいないだろ…
書けてない漢字が不自然すぎる…


136: ミッドナイトエクスプレス(奈良県)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:34:36.36 ID:dC3CK+ym0
小学五年生が在住って言葉使う?
住んでるじゃね?

 

150: ニールキック(西日本)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:39:28.51 ID:TiT3jrNg0
小学五年生で冒頭にlove&peaceとか書いてるのに、
途中から「金のために戦争や原発を推進するなんて」とかエラい口が悪くなってるんだが…
ちゃんと設定は最後まで貫け
172: 中年'sリフト(西日本)@\(^o^)/ 2016/07/30(土) 02:48:18.37 ID:0hEhyACf0
参院選の「(せんそう)にいく」ポスターと同じ臭いがする

00155

 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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子どもを政治に利用するのはサヨクの常套手段。

沖縄の学校で、「平和教育」「平和活動」といえば、サヨク教師の教育的指導が有ると考えてよい。

QABテレビ 2016年7月4日 11時56分

 

与那城小学校で平和集会

 

16-07-04-03

本や歌を通して平和について考えてもらおうと、うるま市の小学校で平和集会が開かれました。

集会は、沖縄戦の悲惨さや平和の尊さについて考えてもらおうと、保護者らで結成する読み聞かせグループが企画しました。

集会では、戦争を題材にした絵本の読み聞かせをはじめ、平均年齢71歳の合唱団「ワンボイス」が歌を披露したほか戦争体験者が当時を振り返り平和の大切さを伝えていました。

児童「命を無駄に無くしているからこれから喧嘩とか無くしていきたいと思います」子どもたちは平和や命の大切さを改めて感じているいるようでした。

 

                                                  ☆

 

学校での「平和集会」は、一見児童・生徒が自主的に計画したように見えるが、実際はサヨク教師が裏で操っている例がほとんどだ。

 

>戦争を題材にした絵本の読み聞かせをはじめ

 

戦争を題材にした絵本といっても、「残虐非道な日本軍」を題材にしており、中には「沖縄戦」は沖縄県民と日本軍の戦いだったと勘違いする子どもたちもいるくらいだ。

 

 沖縄サヨクによって「白旗の少女」が捏造され、「卑劣な日本軍」という嘘を書いた絵本が平和集会で今も教材になっている。

以下は過去ブログ白旗の少女の神話 の抜粋である。

 

白旗の少女」の写真を知る者は多いが、「平和教育」のために作られた少女にまつわる神話の背景を知る者は少ない。

 

白旗の少女 とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女。大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場。1986年公開の記録フィルム「沖縄戦・未来への証言」の中の笑顔が県民の印象に残った。少女は当時7歳の比嘉富子。(琉球新報)

 

                   ◇

 

 

 

 

「白旗の少女」や長寿の秘密 高校英語教科書に“沖縄” カメラ 2008年3月26日

 文部科学省は25日、2009年度から主に高校高学年で使われる教科書の検定結果を公表した。高校英語教科書には、沖縄戦で白旗を掲げて米軍に投降した「白旗の少女」と沖縄の長寿の秘密を探る「東洋の長寿の秘密」が登場する。「白旗の少女」は三友社出版で2、3年生対象、「東洋の長寿の秘密」は増進堂で3年対象のリーディングの教科書にそれぞれ05年から掲載されている。また音楽ではBEGINの「島人(しまんちゅ)ぬ宝」、寺島尚彦さんの「さとうきび畑」が登場するなど、沖縄を題材としたものが紹介されている。
 「白旗の少女」は沖縄への修学旅行生が増加し、関心が高まる中、平和問題につながる教材として05年に発行した教科書に初めて掲載され、現場教師らに好評だったことなどから今回も掲載を決めたという。
 内容は沖縄戦末期に一人戦場をさまよった少女が白旗を持って一人米軍に投降し、奇跡的に一命を取り留め、その時撮られた写真が“白旗の少女”として写真集に掲載され、少女は写真を撮ったカメラマンと43年ぶりに再会を果たした―という体験談をまとめた。(略)
 
                                             ◇

 

米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの姿には心を痛める。

 

その中でも特に有名な二枚の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。

 

その写真は太田昌秀著『写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版』(琉球新報刊)の中にそれぞれ収録されているが、その一枚が「白旗の少女」として知られる一枚。 もう一枚は「うつろな目の少女」として後に有名になる「傷つき血みどろになった少女」とキャプションのついた写真である。

 

「うつろな目の少女」の写真を知る人は多いが、そこに写るカメラ目線のオカッパ頭の少女がが、実は女装した男の子であったということを知る人は少ない。

 

この「女装の少年」については過去のエントリーで素朴な疑問を呈しておいた。⇒「うつろな目の少女」の秘密!

 

  

 

上記記事でも紹介している「白旗の少女」は、アメリカ軍が沖縄戦を撮影したフィルムを買い取る「一フィート運動」の成果として、1984年に紹介されたフィルムに写っていた。

手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)

 

後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影したらしい。

以後「白旗の少女」の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。

「白旗の少女」の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。

「白旗の少女」が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』というタイトルの本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。

 「白旗の少女」が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。

「平和教育」のため、沖縄の「識者」の予断により歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿に衝撃を受けたのである。

米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは結構なことだが、それを扱う「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される例は多い。

例えば子供用の絵本として出版されたの『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』(文・新川明、版画・儀間比呂志)には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)では、次のような文がある。

ゆっくりと目をあけると

すきとおるひかりのむこうに

アメリカ兵のすがたがみえました。

戦車のかげで鉄砲をかまえたまま

白い歯をみせてわらっています。

 

ふりかえると、日本兵たちが

両手をあげてついてきました。

おじいさんや女の人も

よろよとつづいていました。

そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。

 

同書の「あとがき」には次のようなことが書かれている。

 
  <さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
 本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました

 
私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
 はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、もんぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
 
さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
 

日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は元沖縄タイムス社長で、「沖縄イニシアティブ方式」と呼ばれる卑劣な手段で沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリストである。

「沖縄イニシアティブ方式」の詳細は、雑誌『WILL』2008年8月増刊号に寄稿してあるので参照されたい。

また、版画による絵を担当した儀間比呂志氏は沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は大きなインパクトを与えた。

絵本が糾弾するのは、「白旗を持った少女を盾にその後ろからついて来て、米兵に命乞いする」といった日本兵の卑劣な姿であった。

で、実際はどうであったのか。

記録映画版の映像で動画を見ると、「虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に白旗を持った少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振った」といった印象である。

それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する「少女を盾にした卑劣な日本兵」という雰囲気は画面からは読み取れない。

 

1985年、沖縄の「識者」たちによる『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして二年後の1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社 文・比嘉富子 絵・依光隆)が刊行される。

そしてその本の後書きには、当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していた比嘉が、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。

・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません
。(204、205頁)>

比嘉富子さん、よくぞ生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に語られたであろう。

ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されないが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」が定着していたであろう。

記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。

だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。

その昔、佐藤栄作が辞任会見の折に、

「テレビはしゃべったことをそのまま映すが新聞はウソを書くから記者は出て行け」

と新聞記者を会場から追い出した話しを想い出す。

 

では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

否、相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。

これはデタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

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  りゅう子の白い旗―沖縄いくさものがたり (1985年)
新川 明,儀間 比呂志
築地書館

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白旗の少女
比嘉 富子,依光 隆
講談社

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大田昌秀の正体!反戦平和の免罪符を剥がす

2015-11-03 06:24:07 | オカッパの少年
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■完・大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘

 

■大田昌秀著『2人の「少女」の物語』の大嘘

 大田氏は最新の著作『二人の「少女」の物語』(新星社 2011年)を出版することにより、大城盛俊氏が語り部として20数年間に渡り全国にばら撒いてきた嘘を「沖縄戦の真実」として認め、歴史の一ページに刻むつもりである。

 

大田昌秀著『2人の「少女」の物語』には概ね三つの大きな嘘が含まれている。

「うつろな目の少女」についての嘘は、これまで述べたとおりだが、もう1人の「白旗の少女」についても嘘がある。

比嘉富子さんが「白旗の少女」は自分であると名乗り出た動機を大田氏は故意に隠蔽し読者を誤誘導しようとしている。

ドキュメンタリー作家上原正稔氏が創設した「1一フィート運動」の成果である米軍撮影記録フィルムの中で、健気にも手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は見る者の心を打った。



白旗の少女が公開されたその翌年には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、そこでは「少女を盾にする日本兵の醜い姿」が描かれた。

 「あとがき」には日本兵に対する憎悪をむき出しの、このような文言が書かれている。

 

<本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。 >

 

  <沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、もんぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >

 

沖縄の「識者」たちによる「白旗の少女」を歪曲した絵本の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年、「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。


比嘉富子著「白旗の少女」(講談社)

その本の後書きには、当初名乗り出ることを躊躇していた比嘉さんが、名乗り出るどころかあえて出版に踏み切った動機をこう書いている。

 

<・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのように誤解されているのは、大変残念なことです。この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。このことは、事実として書き加えておかなければなりません。(204、205頁)>

 

 比嘉富子さんが、勇気をもって真実を告白してくれたお蔭で日本兵の「捏造された汚名」は雪(そそ)がれることになった。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で沈黙を守っていたら、「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に語られていた。

ここに登場する日本兵は名も知られぬ無名兵士ゆえ、慶良間島集団自決の梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。

だが日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が定着していたであろう。

記録映画を見た観客は、事実をそのまま写すカメラの目を通して真実を見て取る。だが、新川明氏や大田昌秀氏のような「識者」の文を通して伝えられる物語は真実とは遠くかけ離れ、イデオロギーで歪曲されたものである。 

 

『2人の「少女」の物語』では、大田氏は比嘉さんが日本兵の汚名を雪ぐために名乗り出たという重要な理由には一言も触れていない。

比嘉富子さんは、「少女を盾にした卑劣な日本兵」という通説が嘘であることを証言するため、あえて名乗り出た。だが大田氏は比嘉富子さんの心情を隠蔽することにより「残虐非道な日本軍」というイデオロギーを押し通そうとした。

「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

否、「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は、一行の訂正もされず発売されているし、各図書館に所蔵され、子供たちの「平和教育」に使用されている。

「残逆非道の日本軍」というイデオロギーを押し通すために・・・これはデタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

 

■「一フィート運動」にまつわる嘘

『2人の「少女」の物語』が語るもう一つの大嘘は、「一フィート運動」の嘘だ。

 

同書には「一フィート運動」は大田氏が1983年(昭和58)に自宅で創始したというくだりがある(同書158ページ)。

一フィート運動はドキュメンタリー作家の上原正稔氏が創設した。これは沖縄戦に関心のある県人なら誰でも知っている紛れもない事実である。

当初、顧問として「一フィート運動」に関わった大田氏ら沖縄の左翼学者は上原氏のイデオロギーに拘らない姿勢に反発し、数を頼んで上原氏を追放した。

これが真実である。

では何故沖縄ではこのような明らかな嘘がまかり通るのか。

 

■「反戦平和は免罪符」

沖縄には筆者が流行らせた「反戦平和は免罪符」という言葉がある。

大田氏は、嘘を撒き散らしながらも「反戦平和」を叫ぶことにより沖縄2紙の免罪符にしっかり保護され、琉球大学教授から県知事、参議院議員と上り詰めた。

現在でも「大田平和総合研究所」所長として内外に嘘を撒き散らしている。大田氏のプライバシーに関しては本題を外れるので深く立ち入らないが、最後に沖縄紙が必死で大田氏をかばった例として、上原正稔氏に対する「暴力事件」を挙げておく。

 

■大田昌秀氏の正体

1992年9月13日、琉球政府の民政官を務めたフィアリー氏を歓迎するパーティがハーバービューホテルで催された。

会場にはアメリカ総領事ら県内外の知名氏が出席していた。

満座の客が注視する中、大田昌秀氏が上原正稔氏に私怨により暴力を振るい床を引きずり回した。

この事件は、沖縄2紙の記者がその場にいたが、大田氏の「反戦平和の免罪符」のお陰で一行の記事にもならず、県民の耳目から完全に遮断された。

まるで島ぐるみで太田氏のご乱行を隠蔽しているとしか思えない。事件の目撃証人は数多くいるがほとんどが新聞社OBを含む左翼文化人のため口をつぐむ人が多いという。

上原正稔氏は、確実に証言してくれる人物として、大田氏の暴力を押しとどめた沖縄タイムスOBの大山哲氏と元沖縄県副知事で沖縄県博物館・美術館館長も努めた牧野浩隆氏の名を挙げている。

沖縄2紙が与える「反戦平和の免罪符」を盾に、数多い著書の中で嘘を撒き散らす「文化人」の代表格が大田昌秀元県知事の正体である。

 

大田氏は自身が経営する大田平和総合研究所では沖縄戦のみならず、「中国大陸で日本軍が行った残虐行為」として数々の捏造写真を展示し日本軍に対する憎悪を煽っている。

その中でも「うつろな目の少女」の写真は一際目立つ展示がされている。

ところが不思議なことに、その写真の説明文には「大城盛俊氏が日本兵の暴行を避けるため少女に変装した」というセンセーショナルな記述は一行も無い。

「うつろな目の少女」の画像検索結果


琉球新報のロゴの付いた展示写真には次のような説明文が付されているだけである。

「戦火は何の関係ない人も悲惨極まりない地獄図となった。 戦火の火中に巻き込まれ、不可解な事態に疲れ果てた少女」

 

 

関連ブログ

反戦平和の免罪符を剥がす! 2011-04-10

 

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大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘 

2015-11-01 06:15:36 | オカッパの少年

 

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■大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘    

戦時中沖縄に上陸した米軍が撮影した一枚の少女の写真がある。

「うつろな目の少女」と呼ばれる写真の少女は、負傷した右手を布で首から吊るし、花柄模様の着物は血に染まり、オカッパ頭の放心した表情でカメラを見る姿はいかにも痛々しい。 


この写真は琉球新報社発行の写真記録『これが沖縄戦だ』(大田昌秀著)の表紙を飾り、さらに扉一枚を使って大きく紹介され、同書に掲載のもう1人の沖縄戦の少女、「白旗の少女」とともに沖縄では良く知られた写真である。

沖縄で出版される沖縄戦関連の書籍は、書店に特設コーナーを設けるほど数多い。 

だが沖縄戦を少しでも検証した人が読めば、あまりにも事実の歪曲、捏造が多いことに気がつく。

調査不足や勘違いによる事実誤認ならともかく、著者のイデオロギーを押し通すため、意図的に事実を歪曲、捏造した例は目を覆うほどだ。

沖縄タイムス刊の『鉄の暴風』が嘘にまみれた伝聞記であることは今では旧聞に属するが、沖縄戦記の代表的書き手である大田昌秀元県知事の出版物から歪曲・捏造の記述を拾い出すと、それだけでも数冊の本が出来るくらいだ。 

大田氏の最新の著作「二人の『少女』の物語」(2011年、新星出版)は、戦争に翻弄される二人の「少女」を描いているが、全編を通して大田氏のイデオロギーで事実が歪曲、捏造されている。 

「大田昌秀 2人の少女」の画像検索結果

本稿は、大田昌秀氏のベストセラー『これが沖縄戦だ』の表紙を飾った「少女」にまつわる稀代の詐話師の「語り部」と著者大田昌秀氏が、琉球新報や朝日新聞などのメディアを巻き込んで事実を捏造した驚くべき嘘の物語である。

■嘘つきは「語り部」のはじまり


2010年の夏、筆者は浦添市のとある喫茶店で、『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏から座間味島旅行の土産話を聞いていた。

当時沖縄県文化協会長を務めていた星氏は、沖縄の知識人として誰より早い時期に集団自決の行われた座間味島に現地取材をしたことで知られ、県史の編纂にも参画した。

星氏は、座間味村に滞在中、偶然にも、神戸から来た20人ほどの「平和学習ツアー」と称する教員グループと同行することになる。

そして宿泊した民宿が所有する小型バスに便乗して戦跡の壕巡りを体験した。

そのときの写真の一枚に写っている人物を見た筆者は、思わず驚きの声を発した。

「うつろの目の少女だ!」

「この嘘つきの語り部がこんな所でまだ他人を騙しているのか」――

星氏が示す写真には正面を向く老人が写っているだけで、1人の少女も写っていない。

写真の老人を指して、少女だと呟く姿は他人の目には、異様に映ったであろう。

筆者が「うつろな目の少女」、「嘘つき」などと決め付けたその老人は、夏休みを利用して神戸の教員グループを率いて座間味案内をしていた沖縄戦の語り部だった。

この人物こそ筆者が長年追い続けていた当時78歳の大城盛俊氏だった。

写真を見て「少女だ」と言ったわけは、こうだ。

大田昌秀著『これが沖縄戦だ』(琉球新報社)の表紙の写真の少女が、戦後65年経って座間味村で戦跡ツアーを案内する語り部の老人と同一人物と考えたからだ。

伊丹市在住の大城氏は勿論男性であり、沖縄戦の語り部を引退すると報じられていた。

老人とオカッパ頭の少女をめぐる衝撃の物語を説明するため、7年前の「沖縄慰霊の日」に時を巻き戻す。

■朝日の一面を飾った「うつろな目の少女」

2008年6月23日「沖縄慰霊の日」。

その日の朝日新聞夕刊は、一面トップをこのような大見出しで飾った。

「63年年目 沖縄慰霊の日」

「残酷なのは戦争」

「75歳語り部来年引退」

朝日の記事は、沖縄戦で日本兵の残虐非道な暴行で右目を失明し、その後遺症で足が不自由になった大城盛俊氏が、沖縄戦の語り部としての講演活動を引退すると報じた。

さらに記事は、63年前に米兵によって撮影されたオカッパ頭の「少女」の写真と、講演をする現在の大城氏の写真を並べて掲載し、「少女」と大城氏の関係を、次のように報じている。

<大城さんは沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。>

 過去に1120回を超える講演をしてきたといわれ、講演会のプロともいえる大城氏なら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると誰でも想像する。

ところが沖縄出身の筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、朝日が報じる石垣島での最後の講演会しか知らない。

しかもただ一度の沖縄での講演会が、なぜか沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だというのも不可解だった。

朝日の報道により、大城氏と「うつろな目の少女」の関係は一応理解できる。

しかし、それを詳しく知るためには、面倒でも更に時を遡って2007年の8月に巻き戻さねばならない。

つづく

 
うつろな目の少女

 

「大城盛俊」の画像検索結果

沖縄戦の語り部・大城盛俊氏

 

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希代の大嘘つきが、PAC3配備反対!

2012-04-05 08:25:26 | オカッパの少年

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【動画】井上和彦】沖縄メディアはPAC3に反対しないの?[桜H24/4/2]

昨日までの沖縄タイムスは、PAC3の沖縄配備を「きな臭い動き」と捉え、いかにも自衛隊が戦争を仕掛けているような印象操作を試みたが、配備先の住民のむしろ歓迎するといった状況に困惑気味。

そこで今朝の沖縄タイムスは昨日までとは一変、一面、社会面のトップを「がれき受け入れ」問題で埋めた。

昨日の琉球新報のPAC3配備関連の記事を見たら面白い人物が写真入で紹介され「基地があるから狙われる」と叫んでいる。

この人物について4月4日付琉球新報の記事をそのまま引用する。

基地があるから狙われる 沖縄戦体験者の大城盛俊さん

沖縄本島や石垣島などへ、のパトリオット(PAC3)の配備に反対し、“危機感”を持って見つめている人物がいる。
大田昌秀氏著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙の写真で「うつろな目の少女」と紹介された、南城市(旧玉城村)出身の大城盛俊さん(79)=兵庫県」伊丹市=だ。 
大城さんは「(配備は)異常な事態。基地があるから狙われる。こんなことでは沖縄戦の二の舞になりかねない」と沖縄を軍事化する動きに警鐘を鳴らした。
沖縄戦当時12歳の大城さんは「男の子は兵隊にやられる」と女の子の格好をしていた。 
45年4月の米軍の本島上陸後、旧玉城村のガマに家族と非難していた。
5月下旬に日本兵がガマに入り「食料をよこせ」と迫った。大城さんが「取らないで」と断ると、日本兵は大城さんに殴る蹴る暴行を加えた。 その時殴られた目は今も見えないままだ。 大城さんは自身の体験から「軍隊は県民を守らない。 
ガマでも、日本兵は『お前たちを守りにきたんじゃない』とはっきり言っていた」と語り「基地があるからこそ、逆にミサイルの標的にされる」と、自衛隊のPAC3まで配備されると、むしろ危機が増すとの見方だ」(当銘寿夫)≫

PAC3の配備に反対する世論操作が困難と判断した琉球新報は、最後の切り札とも言うべき大城盛俊氏を伊丹市から呼んで、配備反対のコメントをさせた。 大城氏は自身が戦争体験者で「残虐非道な日本軍」により食料は奪われ、壕を放り出され、その際日本兵から受けた暴力により現在右目は失明し、歩行障害もきたしている。日本兵の残虐行為は大城氏自身に止まらず、実の母はスパイ容疑で日本兵に虐殺されている。 これだけの残虐行為を一身に受けていながら日本政府は大城氏の「援護金」の申請を却下している。

その大城氏の発言なら千金の重みがあると琉球新報は考えたのだろうが、大城氏が希代の詐話師であり、琉球新報や朝日新聞が大城氏のウソを情報ロンダリングしたことは、当日記の読者なら先刻承知のことである。

大城氏は2008年6月23日「沖縄慰霊の日」の朝日新聞の一面トップ記事で、それまで23年にわたって続けてきた沖縄戦の語り部を引退すると大きく紹介された。 引退の理由は健康上の問題を挙げていたが実際は記録映画「戦場ぬ童」で西原村にすむ玉那覇春子さんが「うつろな目の少女」は自分だと名乗り出た事実を知ったから引退宣言したと思われる。

その後はマスコミの目を避けるように座間味島の戦跡ツアーのコーディネーターをしたりしていたが、このたび琉球琉球新報に堂々と登場したのは、大田昌秀氏⇒琉球新報⇒朝日新聞と情報ロンダリングが続き、ついに昨年大田昌秀氏が「2人の『少女』の物語」を出版することにより大城氏の「ウソ物語」は情報ロンダリングを完成させ、大田昌秀氏により沖縄戦の真実として歴史の一ページに書き加えられたからである。

大田氏と大城氏との関係は、「従軍慰安婦問題」で体験者としてウソをばら撒いた吉田清作氏と吉田氏のウソを拡散しを一人歩きさせた朝日新聞の関係に酷似している。

★琉球新報の「スクープ」記事により「悪逆非道の日本兵」を告発する「語り部」としてのお墨付きをもらった大城氏の講演会のチラシ。

ファイル 500-1.jpg

 

関連エントリー:

座間味にいた「うつろな目の少女」

嘘と知りつつスクープ記事!オカッパの少年

続・ウソと知りつつスクープ記事、オカッパの少年

 

まだこんなことを叫んでいる目取真俊先生。

PAC3沖縄に到着。抗議の声をあげましょう!

 

【追記】11:15

石垣市民のコメントの紹介です。

        ☆

本日5日(木)、八重山毎日新聞コラム「不連続線」(添付PDFファイル)
ついでに、2011.12.8の八重山洋一の「11年後に日本は内部から滅ぶ」趣旨の
「不連続線」コラムも添付します。

筆者は、「詩人は芸術家」と自称、自慢する、「八重洋一郎」こと、
あの「アナーキスト八重山洋一(邂逅発行人『糸数用一』)」。

・・・・・本日の「不連続線」コラム(引用)・・・・・

先日の本紙への投稿、与那覇尚子さんの「あってはならない自衛隊配備」を
拝読し、与那国の悲鳴が聞こえると思った。時あたかも北朝鮮が人工衛星と
称してミサイル発射準備中である。
▼そもそもなぜ北朝鮮が国際世論を無視してかかる愚挙に出ようとするのか。
新・金正恩体制の権威づけと同時に北朝鮮包囲網の軍事偵察も大きな目的だろう。
▼かの国にとって最大の脅威は在沖米軍であろう(日本本土ではない)。沖縄は、
米国の軍事辺境である日本のさらなる軍事辺境、すなわち先端的軍事防衛線と
なっている。もちろん日米の捨て石である。太平洋戦争の悪夢がよみがえる。
(自衛隊が米軍の先触れであることはその制服が象徴している。米軍の軍服
そっくりではないか)▼与那覇さんは与那国がその先端的防衛を担わされる
のではないかと直感し「備えのないところに弾は来ない。備えのあるところに
弾はとんでくる」との牧野トヨさんの意見を引用▼さらに「軍事費、軍事費に
よる"潤い"をこの与那国にひとしずくたりとも落としてはならぬ」と暮らしの
中で歯をくいしばって頑張っておられる。その言葉に私は心の底から共感を
覚えた▼そして沖縄全体、八重山全体、与那覇さんにならってその意志を
強く持つべきだとつくづく思わされたのである。(八重洋一郎)

・・・・・引用終わり・・・・・

読者は「八重山洋一」が「アナーキスト(無政府主義者)」である本性を
見抜いている。読者を騙すことはできない。

「八重山洋一」、過去、朝日新聞紙面「対談」中、「核ジャックして米国、日本を
だまらせたい・・・・」と述べていた者です。

昨日紹介しました2009.4/6の「不連続線」筆者、上地義男と重なる論調ですね。

左偏向化石脳で、思考が停止している者らです。物が書けるだけでエラソーに
この地域に跋扈しています。この「不連続線」の時代の趨勢に反する不連続な論調、
狼魔人様、読者の論客の皆様の助太刀により、息を吹き返せぬほどにメッタ切りに
すべきだとつくづく思わされたのであります。

よろしくお願いいたします。


石垣島読者より

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嘘と知りつつスクープ記事!オカッパの少年

2011-11-07 06:27:02 | オカッパの少年

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11月1日にエントリーした「最終章、「オカッパの少年」の謎を追って」の最後の文を次のように結んだ。

≪朝日報道では引退したはずの大城氏はその後も西宮界隈の教員たちを引率して慶良間戦跡ツアーのコーディネーターをしていることが判明している。

 ⇒座間味にいた「うつろな目の少女」

そしてやはり大城氏はウソをついており、それを承知していながら琉球新報が捏造記事を書いたことが判明した。

衝撃の新事実、オカッパの少女は女性だった!

琉球新報がウソと知りつつ歪曲報道したと言う証拠は、次のエントリーで紹介する。≫

              ★

■嘘と知りつつ報道した琉球新報




映画の中では右手がない様子がわかります。
新聞の記事には「右手は義手」と書かれています

次に引用するのは26年前の琉球新報 朝日新聞の特集記事「夏草の祈り」の抜粋である。

≪写真≫ あの時 子どもだった

映画出演し 惨劇を証言

この夏、沖縄では映画『戦場ぬ童(いくさばぬわらび)の自主上映が盛んに行われている。 公民館、小学校、小さな集会場には人々が集い、スクリーンを食い入るように見つめる。沖縄戦終結から40年を期して作られたこの映画は、米軍と日本軍の地上戦戦闘に否応なく巻き込まれた沖縄の子どもたちの姿を追う。 そして、現在40代となったその最後のおきなわせんの体験世代に、証言の列に加わるように呼びかけた。 

虐殺住民のさなかで
沖縄市西原町の玉那覇(たまなは)春子さん(48)は、映画のなかで、積極的に自身の戦場体験を語る。 春子さんが映画に出演するようになったのは、1枚の写真がきっかけだった。 その写真には、米軍従軍写真班が撮影した「右腕を負傷した少女」だ。 撮影は「6月21日具志頭(ぐしかみ)で」となっている。 この日は沖縄戦の総指揮官だった牛島満中将自決の2日前。 戦闘は終結に近づき、日本軍による住民虐殺、集団自決の強要などの惨劇のさなかだった。 
春子さんは、この写真を夫が買って来た写真集で見て「自分ではないか」と直感した。 現在の春子さんは、右腕のひじの先がない。 写真の少女の右腕と、右わき腹のけがは、戦場での自分の傷と一致している。 生まれは沖縄本島南部の具志頭村。 父は楽器製造家。 米軍上陸から2ヶ月余りたった6月の初め、背走してきた日本軍が村に入り込み、「軍が使うから」と、家を追われた。 父親はすでに防衛隊にとられており、母親は春子さんと妹を連れ、食料、衣類を手に、親類の人たちと一緒に村を出た。 
「イモのくずを湯でといて飲み、飢えをしのぎながら、あちこちの防空壕を渡り歩いた。 ちょうど梅雨で、雨にぬれながら、戦場を逃げ惑いました」

4日目に母が死亡
家を出てから何日目だっただろうか。 大きなかわら屋根の家にたどりついた。 避難民があふれ、仕方なく軒下で夜露をしのんだ。 3日目に、その民家が直撃弾を受け、血の海となった。 母は全身から出血し「水が飲みたい、水が飲みたい」と言いながら、ガジュマルの木下で4日目に息をひきとった。
春子さんは右腕とわき腹に負傷した。 鉄の破片が入っていた。 その時、親類の若いおばさんが、自分の着ていたかすりの着物を引き裂き右腕をつってくれた。 妹も両足に大怪我をした。 どこをどう逃げまどったのか、気がついた時は、コザの野戦病院のベッドに横たわっていた。 右腕は切断されていた。 傷口には無数のピンク色のウジがはい回り、すごく痛んだことは記憶にあるのだが。 写真の少女については、「首にかけた布が、私のものと同じにに見えた。 身につけている花柄の生地は、当時は沖縄では珍しかった。 新しがり屋の母は洋装好みだったし、砲弾を浴びる少し前に「どうせ死ぬのだから、きれいなかっこうをしようと、一番いい服に着替えさせてくれた。 戦争で母の写真もみんな焼けてしまったが、ハワイに移民した親類が数年前に送ってくれた母の写真を見ると、同じような柄の洋服を着ています」と春子さんはいう。(略)(琉球新報 朝日新聞 1985年8月12日)

★ソース
夏草の祈り  あの時子供だったhttp://blogs.yahoo.co.jp/masazumi_kenmochi/32654237.html

【付記】11月18日 

上記リンクにある1985年8月12日付新聞記事は朝日新聞の記事であることが判明したのでお詫びして訂正いたします。

 

                       ☆

 

注目して欲しいのは、この記事が当日記が当初から疑問を呈していた「オカッパの少年」をスクープした琉球新報の記事であること。

ドキュメンタリー作家で「1フィート運動」の創始者でもある上原正稔さんが、米国公文書館から発掘してきた沖縄戦の記録フィルムを基に製作された映画『戦場ぬ童』(1985年製作)。

その記録映画には2人の少女が登場する。

1人は「白旗の少女」で有名な比嘉富子さん。 

もう1人が「右腕を負傷した少女」の写真。 太田昌秀著『これが沖縄戦だ』(1977年出版)では「うつろな目の少女」として紹介されている写真の少女のことだ。

 

玉那覇春子さんは、 映画『戦場ぬ童』に登場して「うつろな目の少女」は7歳当時の自分の写真であると証言した。

 

上記引用の記事では琉球新報は、「うつろな目の少女」は玉那覇春子さんである報道しておきながら、その後の2007年には、西宮に住む大城盛俊氏(75)が、写真の少女は、オカッパの少女に変装した自分だと名乗り出たとき、琉球新報はその証言がウソであることを知りながらスクープとして大々的に報道したのだ。

その時の報道がこれ。

「教科書の嘘は許さず」という大見出しで、琉球新報自身は大嘘の報道をしていたことになる。 

教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

2007年8月25日琉球新報

「沖縄がいつまでもバカにされたままでいいのか。沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴える大城盛俊さん=那覇市天久の琉球新報社


日本兵に暴行され、傷だらけになった大城盛俊さん(当時12歳)=1945年6月(大城さん提供)

 「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。24日、琉球新報社を訪れた大城さんは、史実を歪める教科書検定の動きに「教科書が嘘(うそ)をついて、その嘘を教えられた子どもたちが大きくなったらどうなるのか」と懸念し、憤りで声を震わせた。
 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。
 大城さんは、1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸後に家族と玉城村のガマ(壕)に避難したときのことを鮮明に記憶している。そこには200―300人の住民がいた。5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。
 数日後、大城さんは米兵に助けられた。同写真は診療所の前で撮影された。(略) (深沢友紀)

             

新聞記事といえどもしょせんは人間が書くもの。

勘違いもあれば、誤報もある。

だが琉球新報は「うつろな目の少女」が玉那覇春子さんであると知りながら、つまり大城盛俊氏のウソの報道を、確信犯的にウソと知りつつ垂れ流した。

これは琉球新報が意識せずに報道した誤報の類ではなく、「悪逆非道の日本軍」のイメージ作りを意図した極めて悪質な捏造記事である。

実は、沖縄タイムスは琉球新報の「スクープ記事」の2年前に大城盛俊氏に取材していた。

 

すこし長くなるがその時の沖縄タイムスの記事を全文引用する。

◆沖縄タイムス<2005年3月13日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](11)
適用拡大
日本兵が暴行 右目失明
43年目に障害年金申請

 

 大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、沖縄戦の最中、日本兵による暴行で右目を失明した。母親もまた日本兵にスパイ容疑をかけられ、惨殺されている。

 戦争当時、十二歳。玉城国民学校に通う元気な少年の人生が、そのけがで一変した。

 右目が見えないため、米軍基地のハウスボーイや、土建業のお茶くみ、穴掘りといった単純な仕事しか就くことができなかった。

 敗戦六年目の一九五一年、大阪へ働きに出た。「いつか、日本兵を見つけて、敵討ちしたい」という憎しみを抱いて旅立った。

 大城さんが去った沖縄では、五三年に援護法適用、五九年には一般住民も「戦闘参加者」として、適用拡大。遺族年金や障害年金が支払われていった。

 四五年三月。十二歳の大城さんは、玉城村に養父母と住んでいた。三月二十三日に港川沖の水平線をびっしりと米艦隊が埋めた。翌日から激しい艦砲射撃が始まり、一家は同村親慶原にあるワチバル壕へ避難した。

 昼は攻撃を避け壕で過ごし、攻撃がやんだ夜に壕を出て、畑を耕した。

 そんな状態が二カ月続いた五月下旬。首里から撤退してきた石部隊の日本兵が、壕に来て「民間人はここを立ち退くように」と命令した。大城さんらは、家財道具や食糧を抱えて、玉城城跡にある壕に移らざるを得なかった。移った先で惨劇が起きた。

 六月上旬、球部隊の日本兵六人が壕にやってきて、食べ物があるか聞いた。大城さんが「ない」と否定しても持っていたリュックサックを奪い取ろうとした。

 リュックの中には、家族のための食糧が入っていた。日本兵は、「これは渡せない」と再び拒んだ大城さんの襟首をつかみ、近くの畑に引きずっていって、投げ飛ばした。意識がもうろうとする中を無理やり立たされ、顔を殴られた。倒れこむと今度は軍靴でけり飛ばされた。

 「こんな子どもに何をするのか」。追いかけて抗議した父親にも、兵隊は暴力を振るおうとした。だが、リュックをあさっていた兵隊が食糧を見つけると、暴行を加えた兵隊は用が済んだとばかりに、立ち去って行った。

 大城さんの右目は充血し腫れあがり、右肩は脱臼。体中に傷や打撲傷を負う瀕死の重傷だった。

 その後、捕虜になり、米軍の診療所で手当てを受け、傷は癒えた。しかし、その時、既に右目の視力回復は難しいといわれた。戦後に治療を受けたが回復しなかった。

 五一年、大阪に渡り、工場勤めをした。「日本兵に殴られんかったら、目も見えて、仕事もできた」。心の中では怒りを持ち続けた。沖縄を差別する同僚を懲らしめようとしたこともあった。

 七五年に転職で沖縄に帰郷。援護法の障害年金が一般住民にも支給されることを知った。

 大城さんが援護法適用を申請したのは八八年。戦後四十三年もたっていた。

                   ◇

<2005年3月17日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](12)
審判
日本兵暴行は「規定外」
裁判できず泣き寝入り

 

 一九七五年、大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、新しい仕事を得て二十四年ぶりに、沖縄へ帰郷した。その時初めて、沖縄戦で「戦闘参加者」と認定されれば、一般住民にも遺族年金や障害年金が支給されることを知った。

 県が実施した援護法の巡回相談を訪れた時のこと。大城さんは担当職員に、日本兵に暴行を受け失明した状況を説明した。

 「あなたを殴った兵隊はいるのか」。担当職員は、事務的に質問をした。

 いや応なしに沖縄戦に巻き込まれて、味方の日本兵に暴行された。十二歳だった大城さんが何一つ自分で選んだことではない。なのに、それを証明するのは自己の責任でと言われる。

 あまりに理不尽な問いに、大城さんは激怒した。「戦闘中だから、その日本兵が誰かは分からない。じゃあ、艦砲射撃でけがをした人は、撃った米兵を特定しないといけないのか」

 相談に訪れていた戦争体験者のお年寄りたちも「やんどー、やんどー(そうだ、そうだ)」と加勢してくれた。

 沖縄で援護法が適用されてから、すでに三十年たっていた。「できるだけ多くの人を救う」。初期の援護担当職員によって、そうやって運用されてきた援護法は、時の流れとともに、住民の戦争体験を審判するものに変わっていた。

 それでも、大城さんは、友人らの助けを借りながら当時の証言を集め、八八年に、申立書を申請した。

 しかし、厚生省は九二年、日本兵の暴行による障害は「援護法の規定外」として、申請を却下した。

 沖縄の一般住民が、援護法の「戦闘参加者」として認定されるためには、「日本軍への協力」が前提だ。住民が、戦争で受けた被害を補償するものではなかった。

 大城さんは、支援者らとともに、三万人余の署名を集め、厚生省に援護法適用を認めるよう要請した。却下に対して不服申し立てをしたが、九四年に再び却下された。

 後は裁判しか道は残されていなかった。「何年かかるかと弁護士に聞いたら、十年から十五年という。年も取るし、費用もかかる。結局やめてしまった」。大城さんは悔しそうに振り返った。

 九一年に娘らが育った本土へ移り、現在は伊丹市に住む。「沖縄のことをみんなが考えてくれたらありがたい」。そう思い、ボランティアで沖縄戦の語り部として、講演活動で訴える。「沖縄の戦後は終わっていない。私のように、泣き寝入りをさせられている人はたくさんいるはずだ。日本の国は、沖縄への戦後補償をしていない」

 「軍への協力」が前提となる援護法では、一般住民が沖縄戦で受けた被害は救えない。

 「住民を守る軍隊が、沖縄では、沖縄人に銃を向けた。沖縄の人一人ひとりが、沖縄戦が何だったのかもっと考えてほしい」

              ★

不思議なことに、二日にわたる特集記事で、大城氏が「うつろな目の少女」が自分であるという「スクープ報道」はしていない。

さすがの沖縄タイムスも大城氏のウソをそのまま記事にするに気が引けたのだろうか。

その2年後の2007年、琉球新報は大城氏のヨタ話を嘘と知りつつ「スクープ」として大々的に報道した。

そのわけは?

(つづくー明日掲載予定)

              ★

パンドラの箱掲載阻止訴訟 
第4回口頭弁論のお知らせ

 

皆様、日頃のご支援ご協力、誠に有難う御座います。

いよいよ、沖縄の閉ざされた言論空間に亀裂が入り始めました。

本年1月にドキュメンタリー作家の上原正稔氏が琉球新報社を著作権の侵害と表現に自由の侵害を理由に提訴して以来、新聞販売店主から相つぎ「押し紙訴訟」が提訴されるようになっており、このまま「押し紙訴訟」が増えてゆけば、琉球新報社は弁護士費用で首が回らなくなるかもしれません。

同時に、沖縄タイムス社も同様の押しつけを新聞販売店にしているだけに、火の粉が飛んで来ないように、ハラハラしている状況です。

さて、そういう意味で、この第4回以降の口頭弁論がどのように進められて行くかに、世間は注目し始めております。

今回の法廷は(これまでも見所十分な内容でしたが)、被告側の主張が破綻して行くさまをご覧いただけるものと思います。お時間の許す方は是非傍聴にご参加下さい。

尚、その後の報告会も恒例通り、行いますので、こちらの会場にも参加頂けましたら、今後の展開を予測いただけるものと思います。

 

■第4回口頭弁論 

11月8日(火)午前11時開廷 (傍聴希望者は10時30分までに)那覇地裁

■同報告会

同日正午より奥武山 護国神社社務所 2階会議室

参加費   無料

お問い合わせ: 090‐9780‐7272 錦古里まで

 

 

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コメント (2)

最終章、「オカッパの少年」の謎を追って

2011-11-01 14:15:17 | オカッパの少年

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沖縄では有名な写真「うつろな目の少女」が、琉球新報のスクープで70代の老人である大城盛俊氏であると報道されたとき、大きな衝撃と同時に一つの疑問が黒雲のように胸中にわき上がるのを禁じえなかった。

大城氏がウソを付いたのを、琉球新報が裏づけ調査もせずそのまま垂れ流したのではないかと言う疑念である。

その後、この衝撃的記事は沖縄タイムス、八重山毎日新聞とフォロー記事が出て、ついには朝日新聞の一面トップで報道されるまで拡散されていった。

さらに朝日の記事をフォローしたのが次に引用する韓国の中央日報日本語版の記事である。

本稿は琉球新報のスクープ記事に疑念を持って、大城氏の過去を追跡調査した過去エントリーに加筆した連載記事の最終回である。

連載中に八重山教科書問題のため一時中断したが、直前の記事はこれ。

4・オカッパの少年の謎を追って!

 

              ☆

険を避けて少女になった大城さん、最後の講演/沖縄 

 

 

 太平洋戦争当時、日本軍が沖縄で行ってきたことを日本人に伝えてきた大城盛俊さん(75)が21日、沖縄県石垣島で最後の講演をしたと朝日新聞が伝えた。63年目を迎えた沖縄被害者「慰霊の日」の2日前だった。彼が25年間、全国を回りながら行った講演は約1230回。毎週1回のペースだった。しかし妻の病気の看護をしているうち、自分の足首の関節も弱くなって公式講演は今回で終えることにした。彼はこの日「初めて講演するときは『沖縄ってアメリカにあるんですか』と質問する子供もいた」と回顧した。それほど過去の沖縄の悲しい歴史を知らない日本人が多かったという意味だった。

  彼が沖縄戦争の証言するようになったきっかけは、1984年に現われた1枚の写真だった。沖縄琉球大学教授だった大田昌秀元沖縄知事が沖縄の悲劇を告発する『これが沖縄戦だ』という本を出し「うつろな目の少女」というタイトルで本表紙に載せた大城さんの幼いころの写真だった。この本が出ると大城さんは「写真の中の人物は僕です」と明らかにし、世間の注目を集めた。彼の証言の人生は少年が少女に化けた事情から始まる。

  日本が太平洋戦争で敗戦の色が濃くなった1945年5月。大城さんは12歳の少年だった。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」として彼の父親は大城さんを女の子に変装させた。彼の頭をおかっぱ頭にして女の子の服を着せた。その後、洞くつに隠れて過ごす中、日本軍が訪ねてきた。日本軍は大城さんが黒砂糖を入れておいた袋に何が入っているかを尋ねた後「生意気だ。反抗するのか」と大城さんの顔を軍靴で蹴った。翌日、沖縄に上陸した米軍は血だらけになったまま倒れている大城さんを治療し、このとき撮った写真が「うつろな目の少女」という名で本の表紙に使われたのだ。

  この本が出版された後、大城さんは全国を回りながら行った講演の核心は「反戦」だ。彼は「私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではなく、彼らをそこまで追いやった戦争の狂気」だとし「ベトナム戦争もイラク戦争も同じだ」と強調した。

  太平洋戦争当時、日本軍も初めは沖縄住民に「私たちが皆さんを守ってあげる」と言ったという。それで住民たちは素直に日本軍に寝る場所や食糧を提供して協力した。しかし、米軍上陸が切迫すると日本軍は恐怖に震え、狂気を見せ始めた。道路と陣地構築に住民を動員すると壕に抑留させた。そのせいで米軍の砲弾が落ちても民間人は逃げだせなかった上、日本軍が壕外に出るときには住民を前に立てて盾にしたというのが大城さんの証言だ。

  日本軍に暴行されて失明した彼は母親が死亡した経緯についても話した。「母はほかの洞くつから私(大城)がいた洞くつに戻る途中、日本軍につかまり、米軍スパイと疑われた。日本軍は母を洞くつに閉じこめて手榴弾を投げた」

  彼は喉頭がんの手術を受けたことから人工発声器を使って講演をしてきた。電気装置で声を伝達するので聞き取りにくいのだが、彼の講演にはいつも人があふれた。彼は「沖縄の空は青いが、痛い過去があったという点を覚えていてほしい」とし、最後の講演を終えた。   
(中央日報 2008年6月26日)

 

                     ◆

 

■失明は「援護法」の適用除外?■

大城氏の証言を以下に紹介する。  

<戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。沖縄戦から48年後の1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れた。その2年前に戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづく障害年金の適用を厚生省へ申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。
「日本兵の暴行による障害は援護法の対象にならない」
席上、援護課長は従来からの見解をくり返した。援護法の対象は基本的に軍人・軍属・準軍属などの「戦闘参加者」に限られ、原爆や空襲などの「一般戦災」は除外されている。 しかし全島戦場と化した、「壕の提供」や伊江島・座間味・渡嘉敷の「集団自決」者なども「戦闘参加者」として援護法が適用されたのだ。
「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」
こういって大城さんは怒る。
「提訴したいが日数がかかるのであきらめました。もっと若ければ…。戦後補償は沖縄だけの問題ではない。日本が侵略したアジアの被害者に、まず補償しなければ。これからも、そんな実情を訴えていきます」>(『『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

ここらで「援護法」について概略を説明したい。

 ■「援護法」の概略■
「軍命の有無」が争われている集団自決論争で、「軍令であった」としたのは、「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)による遺族年金の受給をするための方便だったと当時の琉球政府職員が証言している。

そもそも「援護法」とは、軍人が負傷、または疾病した場合、恩給法の規定に基づき軍人に恩給を支給する法律であり、支給対象は軍人とその遺族に限られる。

だが沖縄戦の場合、悲惨な地上戦で住民が塗炭の苦しみを経験した事情に鑑み、政府は政令を発布することにより、その適用範囲を拡大して民間人も準軍属として支給対象にした。

軍が関与した民間人への適用範囲も漸次拡大し、軍の命令、関与が理解できるとは思えない6歳未満の幼児にも適用、更に再度の政令改正により遂には0歳児にも適用対象の範囲を広げた。
 
つまり、軍の関与で親兄弟や知人に殺害されたり、傷を負った住民は、0歳児に至るまで「援護法」の対象になったのである。援護を受けるには、申立人(遺族)と死亡または負傷の証言をしてくれる住民の証言を記した現認証明書があればよい。

日本兵に壕を追い出されたり、食料を強奪された場合でも、「壕提供」や「食料提供」という名目の現認証明書を知人らに書いてもらい、「援護法」の適用となったのである。

そのため実際には他の住民に追い出された場合でも、「日本兵に追い出された」と証言して援護法の対象になったと言う。

政府は「援護法」の沖縄住民への適用には比較的寛大で、「戦前から目の悪かった者が戦後援護法の適用を受けている」といった話は良く聞く公然の秘密である。

大城氏の場合、日本兵に食事・宿舎の提供などで実際に協力しており、日本兵の暴行を受けたとき壕を連れ出され食料を強奪されている。その結果失明したのなら現認証明書さえあれば「援護法」に適用されて、なんら不思議でない。

ところが大城氏が「援護法」による障害年金の適用を厚生省に申請したのは戦後半世紀も経ってからであり、厚生省はこれを却下している。

1993年10月、2815人の署名を携えて厚生省援護課を訪れているが、何故その時に膨大な数の署名に代わり、たった一枚の現認証明書を準備できなかったのか。
 
暴行を受けたとき近くにいた(と思われる)住民の証明があれば済むことだ。しかも援護課は現認証明書に関しては比較的大目に見ていたではないか。

大城氏は「アメリカ軍から障害を受けた場合は補償されるのに、日本軍から受けた場合はなぜ補償されないのか」と怒りを露わにしているが、「日本軍の命令」により命を絶たれた子供が補償されていることを考えれば、大城氏の受けた障害が補償されなかったのは他に理由があったのではないのか。

■戦後46年経ってから「援護法」を申請■
「援護法」の適用に関し、ここで二つの疑問が生じてくる。 

第一の疑問は、大城氏は1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知ったというが、その時は既に終戦後32年も経過しており大城氏のような重篤な障害者ににしては知った時期があまりにも遅すぎる。

戦後大阪に在住した時期があり、そのため知るのが遅かったとも考えられるが、大阪とはいえ大城氏が住んでいた大正区は沖縄出身者が多く住み、沖縄人の情報ネットワークが濃密なことで知られた地域。 

大城氏は日本兵の暴行による右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず苦労したというのが事実なら、何故自ら障害の補償に関する情報を求めなかったのか。 

大城氏の場合は歩行障害と失明という他人が容易に識別出来る障害なので、仮に自ら情報を求めなくても、大阪の濃密な沖縄人コミュニティーの知人縁者や、沖縄の親戚から「援護法」の情報を知らされていてもおかしくはないはずだ。 

重い身体的ハンディを抱えながら、何故、戦後半世紀も経過するまで「援護法」適用の申請をしなかったのか。 百歩譲ったとしても申請のための情報を得る努力をしなかったのか。

さらに不可解なのは、大城氏が「援護法」の適用を申請したのは、「援護法」の存在を知った年(1977年)から遅れること更に14年も経過した1991年になってからという事実である。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)

したがって大城氏が実際に申請したのは、戦後というより沖縄が返還されてから既に19年も経過してからである。

このように仕事にも影響のある重大な障害を抱えながら、「援護法」の申請を長期にわたり放置していた理由は一体何であったのか。

■得られなかった現認証明書■
次の疑問は、大城氏は、「援護法」申請のために2815人の署名を持って厚生省を訪れているが、申請手続きには一枚の現認証明書があれば済むことであり、大人数の署名など必要ないはずだ。

「援護法」の申請手続きに必要なたった一枚の現認証明書が得られないので、本土各地で行った千回以上の講演会で得た署名で現認証明書に替えようとしたのではないか。   

署名を持って大城氏は日本兵の暴行による失明を「援護法」にもとづく障害年金の適用を求めて申請したが却下され、異議申し立てをしていたのだ。

■故郷沖縄で講演を避けたその訳は■
ここで、朝日新聞記事「75歳語り部 来年引退」を振り返ってみると、次のような記述がある。

<以来、講演は1230回を超えた。語り部は多くが沖縄在住で旅行客が相手だが、兵庫県在住の大城さんは主に本土で沖縄戦を語り続けてきた。

沖縄は「平和教育」の盛んな地域であり、講演会やその他の手段で日本軍の住民に対する残虐行為がことさら誇張されてきた。

その意味ではオカッパ頭で女装した少年が日本兵の暴行で失明し、手足に不自由をきたす障害を受けたのなら、こんな絶好の「平和教育」の題材はないはずだ。

だが、大城氏はまるで故郷沖縄での講演を避けるように、主に本土で講演会を行っている。

一方沖縄では本人が著した一冊の出版物もなく、引退前の故郷での講演会も那覇市などの沖縄本島ではなく、石垣島だけの一回限りだということに疑念は更に深まる。

大城氏も地元新聞も一体何を恐れているのか。

まるで大城氏は何か写真の「少女」と現在の自分の関係で知られたくない秘密を持っており、そのため故郷での講演会や自伝等の出版物を避けているのではないのか。

■「悪逆非道の日本兵」ではなく「残酷な戦争」■
 冒頭に引用した2008年6月23日付「朝日新聞」夕刊の一面トップを飾った「残酷なのは戦争」という大見出し再度戻る。 

記事を見たときからこれが心にひっかかっていた。

 この見出しで係争中の裁判で行われた論点のすり替えが脳裏を過ぎったのだ。
 
「集団自決訴訟」で、当初は慶良間島の両戦隊長が「自決命令を下したかどうか」が争点だと思われたが、両隊長の「命令又は強制」の存在が証明されないと分かると、被告側は一転して戦隊長個人の問題から日本軍全体の責任に論点を摩り替えた。
 
大城氏の受けた日本兵による暴行に話をもどすが、人間はそんなに寛大になれるものだろうか。

  友軍のはずの日本兵に壕を追われ、食料を強奪され、更に失明と歩行障害を患うほどの暴行を受けているのだ。

それだけではない。 

大城氏の母親は身に覚えのないスパイ容疑で日本軍に虐殺されたという。大城氏が日本軍から受けたこのような理不尽な仕打ちに対して、せめて戦後の日本政府が「援護法」等の適用で報いてでもおればともかく、それさえも非情に却下されているではないか。

大城氏が日本軍に対して恨み骨髄に達したとしても不思議だとはいえまい。
 
ところが朝日記事には大城氏のまるで神か仏のように寛大なコメントが掲載されている。

「でも私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではない。彼らにそうさせた戦争が、残酷なのです。ベトナムもイラクもそうです」と。

この大城氏の言葉は果たして大城氏の本心なのだろうか。
 「集団自決訴訟」の例と同じように、大城氏の場合も「事実として証明できないもの」の存在で、

やむを得ず恨みのターゲットを「悪逆非道の日本兵」から「残酷な戦争」にすり替えたのではないのか。

いや、論理は「集団自決訴訟」の場合より更に大幅にすり替わり、焦点は「日本兵」から「日本軍」を飛び越えて「戦争」へと拡散している。

そして論理のすり替えは、大城氏が被害を被った「沖縄戦」から、更にベトナム戦争、イラク戦争と「戦争一般」にすり替わっているではないか。
 大城氏は寛容にも、自分を失明させ足を骨折させ、さらには実母を虐殺した日本兵の残酷さを許し、戦争そのものの残酷さを訴えているのだろうか。 

■「うつろな目の少女」の真相を■
果たして「うつろな目の少女」は、間違いなく大城盛俊氏その人なのか。

それにしては、あまりに当人の語った戦時中の証言に致命的とも言える矛盾が存在する。

これまでに全国で1230回を超える講演を行い、数十万の日本人に語りかけ、今年、その講演活動にピリオドを打つという大城氏には、「沖縄戦の語り部」として、「うつろな目の少女」にまつわる真相を語る責任がある。(完)

             ★

朝日報道では引退したはずの大城氏はその後も西宮界隈の教員たちを引率して慶良間戦跡ツアーのコーディネーターをしていることが判明している。

 ⇒座間味にいた「うつろな目の少女」

そしてやはり大城氏はウソをついており、それを承知していながら琉球新報が捏造記事を書いたことが判明した。

衝撃の新事実、オカッパの少女は女性だった!

琉球新報がウソと知りつつ歪曲報道したと言う証拠は、次のエントリーで紹介する。

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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4・オカッパの少年の謎を追って!

2011-10-17 06:48:38 | オカッパの少年

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本稿は以下のエントリーの続編です。 初めての方は順序通り呼んだ後のほうが分かりやすいですが、飛ばし読みしても大意はわかります。

衝撃の新事実、オカッパの少女は女性だった!

オカッパの少年の謎を追って!

続・オカッパの少年の謎を追って、

3・オカッパの少年の謎を追って 沖縄タイムスがスルーした理由は?

             ★

ドキュメンタリ作家上原正稔さんが米公文書館から発掘した沖縄戦の記録フィルムを都合のいいように切り貼りしてデタラメなナレーションをつけた記録映画があたかも「沖縄戦の真実」とでも言わんばかりの体裁で沖縄各地で放映されている。 記録フィルムの偏向した監修者たちを見れば如何にその記録映画がイデオロギーで歪曲・改竄されているかは一目瞭然である。

「オカッパの少年」の写真も上原さんが創設した一フィートフィルム運動の成果として発掘され、それが太田昌秀著「これが沖縄戦だ」の表紙に使用され、全県的に有名になり、それを偶然見た大城盛俊氏がそれは自分だと名乗り出た。

「オカッパの少女」が実は70代半ばの老人だったというセンセーショナルな報道は、琉球新報、沖縄タイムス、八重山日報で報道され、朝日新聞の一面トップを飾るほど有名になった。

筆者は琉球新報が2007年、初めてこれを報じた時から大城氏が「オカッパの少女」であることに疑念を持って、大城氏のそれまでの発言と大城氏について断片的に記された書籍を調べ上げたが、疑念はますます募るばかりであった。

本稿は、その時の疑念を綴った文を、一部加筆したものである。

新たな疑惑が浮上■  
 大城氏の引退を報じる朝日新聞の二枚の写真で、更に新たな疑惑が湧いてきた。確かに講演をする現在の大城氏の右目は写真で見ても失明の様子が伺える。

だが、63年前の「少女」はカメラ目線で、焦点もしっかりしていて、とても右目に失明を伴う重症を受けているとは見て取れない。

果たして米軍のカメラに撮られた「うつろな目の少女」は大城盛俊その人なのか。 

沖縄は出版の盛な県である。 特に沖縄戦に関する本は、専門の作家やジャーナリストもおれば、歴史研究と作家の二足のわらじを履く人もいるくらいで、話題性のある逸話は必ずといっていいほど自著か、そうでなければ学者や作家の筆により出版されるのが普通である。

例えば沖縄戦の写真で、もう一人の有名な「白旗の少女」は、地元ジャーナリストと版画作家により絵本になり、さらにそれを基にしてアニメ映画が作られているほどである。そして絵本には、白旗の少女を盾にした醜い日本兵がついて来たという意味の一文が加えられ、日本兵に対する憎悪を煽って「平和教育」の目玉になっている。

前述したように、「うつろな目の少女」は、ベストセラー写真集の表紙を飾り、日本軍の暴行で失明したというストーリーなど、「白旗の少女」以上のインパクトを持つる写真である。

しかし、不思議なことに本人の自著は勿論、普通ならこの種の証言に飛びついてきた沖縄のメディアも、「沖縄戦研究家」たちも、この「少女」をテーマに出版したという形跡が見当たらなかった。

そんな中、上羽修著『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』(株式会社草の根出版社発行1999年)が、大城氏に触れていることを知った。 
著者の上羽氏は1996年から翌年にかけて約半年間沖縄に滞在して沖縄戦を取材し、その中で、大城さんの体験談を取り上げている。同書には大城少年に関して次のような記述がある。

<1944年夏ごろ、大城さんが玉城国民学校5年生(12歳)のとき、「これまで見たこともない大きな軍艦が横付けされ、その中からトラックや戦車が吐き出されるのを見て、みんなびっくりしました」それから村は急にあわただしくなった。4年生以上の児童は陣地構築に動員され、石や土を運ばされた。もう授業どころではなかった。女性も部隊の炊事や洗濯をさせられた。兵舎を前もって建てずにやってきた日本軍は、学校や大きな家に兵隊を分宿させた。大城少年は村会議員のおじさん夫婦と三人で暮らしていたが、家が大きいので兵隊に座敷を提供して、三人は炊事場で寝起きした。(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)>

「うつろな目の少女」が米兵に撮影される一年前の1944年には、大城少年は玉城国民学校5年生(12歳)で、4年生以上は陣地構築にかり出され、女性も炊事洗濯させられていたという事実がこの記述で分かる。つまり写真を撮られた時、大城少年は13歳になっており、男の子なら戦地に引っぱりだされ伝令や道案内をさせられても当時は不自然ではなかったのだ。これは神戸新聞の「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて.」という記事とも符合する。 
更に同書で「少女」が日本兵の暴行を受ける場面が出てくる。少し長くなるが引用する。

■日本兵の暴行と目の傷の矛盾■
<アメリカ軍が沖縄本島中部へ上陸すると、玉城村にいた日本軍はいったん首里のほうへ移動した。
「まもなく首里が攻められると、兵隊たちは自分の命を守るため一生懸命逃げ帰ってきました。鉄砲も持たない兵隊は持っていても杖がわりにした兵隊が村にきて、壕を探しはじめたんです」 
とうとう大城さんの壕へも5人ほどの兵隊がきた。
「ここは軍の陣地にするから民間人は出ろ」こう命令し、村びとをみんな追い出した。おじさんは炊事道具と着替えを、おばさんは味噌や塩などを、大城少年は米の入ったリュックサックを背負い、玉城城跡の南側にあった小さな自然壕へ移った。
6月に入って、この壕へも兵隊が5、6人あらわれた。
「なんだ、お前は男の子か」
兵隊は大城少年の顔を見て不信の声を上げた。
オカッパ頭だったからだ。中国戦線で日本軍の暴行を見てきたおじさんが、大城少年にも暴行をふるわないように女の子の格好をさせていたのだ。
「食べ物があったら、よこせ」  
兵隊は壕の中を引っ掻きまわした。大城少年はリュックを見つけられてはたいへんと、サッと引き寄せるところを見つかってしまった。 兵隊が引ったくろうとするのを必死にしがみついた。
「この野郎、殺したろか、沖縄人め!」

大城少年が殴られるのを見て村びとが騒いだので、兵隊は大城少年をリュックごと壕の外へ連れ出し、さんざん殴り、大きな軍靴で踏みつけた。大城少年は意識を失った。気づいたときには頭や背中、膝から血が出て、目は腫れ上がっていた。おじさんは傷口を小便で洗い、木の葉とタバコと豚の脂とを練ってあててくれた。しかし目の傷がなかなか治らず、ウジ虫がわいた。右肩が脱臼して手が垂れ下がるので、首から紐で吊った。それから1週間ほどしてアメリカ軍に保護された。二世が大城少年のけがをみて「これはひどい」と知念村志喜屋収容所に連れていった。そこで撮られた写真が「うつろな目の少女」である。ていねいに、治療されたが、視力と歩行は元に戻らなかった。>(『母と子でみる44 ガマに刻まれた沖縄戦』)
 
あらためて『これは沖縄戦だ』に掲載の「少女」の写真と上記引用文の大城少年が日本兵に暴行を受ける記述を比較検証してみた。

写真には「傷つき血みどろになった少女」とのキャプションが付いている。オカッパ頭の少女は着衣が黒く汚れているが、「血みどろ」という説明がなければ「泥まみれ」とも見て取れる。

細紐で首に右手を掛けているので、右肩が脱臼しているようには見えるが、顔や手足の露出部分に怪我や傷の痕跡はない。写真撮影当時の少女の目線は両眼ともカメラに焦点が合っており、とても目が不自由には見えない。少なくとも目の周辺に怪我らしい痕跡は見当たらない。

ここで写真の「少女」の目と大城氏が説明する目の怪我の状況に大きな矛盾が生じてくる。
怪我は日本兵の暴行により目が腫れ上がり、手当てをしてもらっても「目の傷はなかなか治らず」、そこにウジが湧くほどの重症である。その一週間後に米軍に治療してもらったというが、63年前の米軍の野戦病院での治療がどのようであったか知る術はないが、ウジが湧くほどの重い傷が1週間後には写真のようにカメラ目線の無傷の目に治療できるとは到底考えられない。 

もっと決定的な矛盾がある。

大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』(クリエイティブ21 2007年)には、<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが>とある。
これは、大田氏が大城氏を取材してまとめた記事である。ところで、2003年8月16日付「神戸新聞」で、大城氏は記者の質問にこう答えている。
<―体験を語るきっかけになったのは、約二十年前に新聞に「うつろな目の少女」として掲載された大城さんの写真だった
 「戦地に出されないために、当時は父に無理やり女の子の格好をさせられて。それで、ガマに避難しているときに、日本兵がやってきて、砂糖を奪おうとした。抵抗したら『貴様は女の子かと思ったら男か。生意気だ』と、意識を失うまで殴られ、けられて全身血だらけになった。その後、今度は米兵がきて『何もしないから出てきなさい』といった。恐る恐る外へ出て、生まれて初めてもらったチョコレートを銀紙ごと食べてしまい、吐き出した。それから軍の診療所に連れていかれ、治療を待つ間に撮られたのがあの写真だ」>

米軍診療所で治療を受ける前であったとすれば、眼帯をつけられる前の写真と言えるが、その眼帯を一カ月もつけるほどの大ケガをしている目とは到底、見えない。
これらをまとめれば、大城氏が全くの虚偽を語っているのか、さもなくば「うつろな少女」が大城氏ではない、という結論となる。大城氏が右目を失明した原因が戦時中の日本兵から受けた傷のせいだという主張さえ、疑念が生じてくる。

続く

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3・オカッパの少年の謎を追って 沖縄タイムスがスルーした理由は?

2011-10-12 09:53:18 | オカッパの少年

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■却下された「援護法」適用■

「オカッパの少女」に扮した大城少年が捕虜収容所の診療所で傷の手当てを受けた後、軍病院に一週間ほど入院させられ右肩の脱臼や眼の治療などを受け養父母との再会も果たすことになる。

その後大城氏が視力を失い歩行困難になる経緯が大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』((株)クリエイティブ21 2007年)では、次のように記されている。

<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが、視力は二度と戻りませんでした。養父が二世の通訳兵を通して米軍の医者に訊いたところ、もはや眼は完治できないとの返事だったようです。しばらくして後頭部の傷もいくらか良くなったけれども、不自由になった右足の傷は完治せずに足を引きずって歩く始末でした。>

この記述が正しいとするならば、大城氏が右目の視力を失い、歩行障害を自覚したのは、戦後になってからではなく日本兵の暴行を受けたほぼ一か月直後のことになる。

これは、記録フィルム「戦場の童」で「うつろな目の少女」は自分だと名乗り出たた玉那覇春子さんの証言で判明したことだが、大田昌秀氏の著書はでたらめを書いた事になる。 その時、米軍治療班が少女に施した治療は重症であった右腕上膊部の切断手術であり、記録フィルムで証言する玉那覇さん確かに右腕の半分は喪失しているが右目も足も不自由はしていない。

ことほど左様に大田昌秀氏の沖縄戦記には裏づけのないデタラメ記事のオンパレードなのである。

さて、戦後の大城氏の居住地はめまぐるしく変わる。 

1951年、大城氏は大阪にいた実父に呼び寄せられ大阪での生活を始めるのだが、1970年に、米軍の爆撃で戦死と聞かされていた実母が、実はスパイ容疑で日本軍に斬殺されていたと聞かされる。

沖縄が返還された3年後の1975年、大城氏は沖縄に戻り与那原町でクリーニング業を始める。更に1991年、大城氏は沖縄の家を引き払って大阪の大正区に移転する。 ところが1995年の阪神大震災で自宅が全壊する災難に遭い、以後兵庫県伊丹市に転居する。


その間、沖縄に戻った二年後の1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知る。  だが大城氏は「援護法」の存在を知って直ちにその適用を申請したわけではない。 

大城氏はそれから14年も経った1991年になって初めて自分が受けた障害の「援護法」適用を申請するが、その時は「右眼の失明が沖縄戦で被った障害であることを誰か証明する人がいなければ受け付けることは出来ない」と門前払いを受けている。

大城氏が沖縄戦の講演会を始めたのは「援護法」適用を却下されたことが動機だというが、これが事実だとしたらこの頃から講演を始めたことになる。

<それ(却下)以後、大城さんは年金受給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。(『沖縄戦を生きた子どもたち』)>「

申請を却下された直後の1991年から講演を始めたとしても、2007年の琉球新報の取材を受けた時点では講演は16年間続けたことになる。

新報記事の「(講演は)23年で1120回を数える」という記述と矛盾が生じる。 さらに『沖縄戦を生きた子どもたち』の別の記述によると、1988年に「まず最初に小中学校の生徒たちに語り始めた」とあり、講演は新報取材の時まで20年間続けたことになる。 大城氏の証言はこのように取材メディアによってまちまちで、同じ本の記述でも齟齬が多い。

<こうして、「沖縄の語り部」として大城さんの新しい人生が始まることになります。それ以後、大城さんは年金支給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。>(『沖縄戦を生きた子どもたち』)

■39年ぶりの自分の写真に遭遇■

1984年、大城氏は腎臓病で那覇の病院に入院中、偶然に大田昌秀著『これが沖縄だ』の表紙に掲載されているオカッパ頭の自分の写真に遭遇する。 『沖縄戦を生きた子どもたち』の記述によると、その4年後の1988年に「まず最初に小中学校の生徒たちに語り始めた」とある。従って大城氏の講演活動は沖縄でスタートしたことになる。

沖縄出身の筆者がこの「少女」が実はオカッパ頭の少年であったという事実を初めて知った2007年8月当時の沖縄は、「9・29教科書検定意見撤回を求める県民大会」(「11万人」集会)を目前にし、地元紙が沖縄戦の証言者を連日のように紹介し、「悪逆非道の日本兵」を喧伝するキャンペーンが真っ盛りの時期であった。

沖縄中が反日本軍キャンペーンに熱気を帯びている最中に、大城氏は地元紙の取材を受けるため伊丹市からわざわざ沖縄を訪れ驚愕すべき証言をしたのだ。

にもかかわらず、「悪逆非道の日本兵」を印象操作に必死の沖縄地元紙が、その時大城氏に一回の講演もさせずに伊丹市に戻しているのはいかにも不自然だった。

60数年前に米軍によって撮影された有名な「少女」の写真が撮られた経緯を、そのときの琉球新報は次のように報道している。


教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。……表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。……

 5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。≫


大城氏は1983年、喉頭がんで声帯を失ったが、人工声帯で沖縄戦の実相を全国各地で語り続け、講演は「23年で1120回を数える」と記事は結んでいる。

■疑惑の「少女」■

記事を見て「少女」の正体がオカッパをした少年であったことに驚いたが、驚愕と同時に幾つかの疑念が暗雲のように胸中に湧くのを抑えられず、素朴な疑問をブログに書いた。

その時の疑問を整理すると次のようになる。

①日本軍の残虐性を象徴するような、「少女」に暴行を加え失明までさせるという沖縄紙にとってオイシイ事件を、地元紙は何ゆえこれまで報じてこなかったのか。

②琉球新報は、このような悲劇の主人公とインタビューをしておきながら、何故大城氏に一回も沖縄で講演をさせず返しているのか。 

大城氏が講演経験のない人ならともかく、彼は沖縄以外の本土各県ではそれまで23年間に1120回の講演会をこなしており、鹿児島と北海道以外はすべての地域で講演したという。単純計算をしても1週間に1、2回の割で講演会を続けたことになり、大城氏はまさに、講演のプロである。日本軍の残虐性を訴えるのに「うつろな目の少女」の主人公の講演会ほど好適な企画はなかったはずだ。

ちなみに2007年8月25日付琉球新報の記事では「(取材時まで)23年間講演をしてきた」となっているが、大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』によると大城氏が講演を開始したのは1988年からであり、新報の取材時には20年間講演を続けてきたことになる。

(大城氏は他にも多くのメディアの取材を受けているが、「オカッパ頭にした理由」など重要な部分の多くの証言に矛盾が見られる。)

③このドラマチックな記事が、何故この種の報道では常に先頭をきって大騒ぎする沖縄タイムスにはスルーされ、琉球新報の特ダネのように報じられたのか。(沖縄タイムスは新報より4日も遅れた8月29日になって初めて報道している。)

■沖縄タイムスが「特ダネ」をスルーした理由は?■

更に不可解なのは、沖縄タイムスは琉球新報のスクープ記事の二年前に、大城盛俊氏にインタビューしていることだ。

そしてその時は後で新報に抜かれることになる「オカッパの少年」のスクープ記事を書いていないことだ。

2005年のその記事には日本兵の暴行を避ける為オカッパの少女の姿をした大城少年のいたいけない女装については一行も触れていない。

記事はもっぱら残虐非道な日本兵の暴行により、右目失明や肩の脱臼の被害を受けたと言う記事と、それが援護法の対象にならなかった憤懣を記しているが、二年後に琉球新報のスクープとなる「オカッパの少年」については一言も触れていない。

長くなるが、二回にわたる2005年のタイムス記事を全文引用しておく。

◆沖縄タイムス<2005年3月13日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](11)
適用拡大
日本兵が暴行 右目失明
43年目に障害年金申請

 

 大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、沖縄戦の最中、日本兵による暴行で右目を失明した。母親もまた日本兵にスパイ容疑をかけられ、惨殺されている。

 戦争当時、十二歳。玉城国民学校に通う元気な少年の人生が、そのけがで一変した。

 右目が見えないため、米軍基地のハウスボーイや、土建業のお茶くみ、穴掘りといった単純な仕事しか就くことができなかった。

 敗戦六年目の一九五一年、大阪へ働きに出た。「いつか、日本兵を見つけて、敵討ちしたい」という憎しみを抱いて旅立った。

 大城さんが去った沖縄では、五三年に援護法適用、五九年には一般住民も「戦闘参加者」として、適用拡大。遺族年金や障害年金が支払われていった。

 四五年三月。十二歳の大城さんは、玉城村に養父母と住んでいた。三月二十三日に港川沖の水平線をびっしりと米艦隊が埋めた。翌日から激しい艦砲射撃が始まり、一家は同村親慶原にあるワチバル壕へ避難した。

 昼は攻撃を避け壕で過ごし、攻撃がやんだ夜に壕を出て、畑を耕した。

 そんな状態が二カ月続いた五月下旬。首里から撤退してきた石部隊の日本兵が、壕に来て「民間人はここを立ち退くように」と命令した。大城さんらは、家財道具や食糧を抱えて、玉城城跡にある壕に移らざるを得なかった。移った先で惨劇が起きた。

 六月上旬、球部隊の日本兵六人が壕にやってきて、食べ物があるか聞いた。大城さんが「ない」と否定しても持っていたリュックサックを奪い取ろうとした。

 リュックの中には、家族のための食糧が入っていた。日本兵は、「これは渡せない」と再び拒んだ大城さんの襟首をつかみ、近くの畑に引きずっていって、投げ飛ばした。意識がもうろうとする中を無理やり立たされ、顔を殴られた。倒れこむと今度は軍靴でけり飛ばされた。

 「こんな子どもに何をするのか」。追いかけて抗議した父親にも、兵隊は暴力を振るおうとした。だが、リュックをあさっていた兵隊が食糧を見つけると、暴行を加えた兵隊は用が済んだとばかりに、立ち去って行った。

 大城さんの右目は充血し腫れあがり、右肩は脱臼。体中に傷や打撲傷を負う瀕死の重傷だった。

 その後、捕虜になり、米軍の診療所で手当てを受け、傷は癒えた。しかし、その時、既に右目の視力回復は難しいといわれた。戦後に治療を受けたが回復しなかった。

 五一年、大阪に渡り、工場勤めをした。「日本兵に殴られんかったら、目も見えて、仕事もできた」。心の中では怒りを持ち続けた。沖縄を差別する同僚を懲らしめようとしたこともあった。

 七五年に転職で沖縄に帰郷。援護法の障害年金が一般住民にも支給されることを知った。

 大城さんが援護法適用を申請したのは八八年。戦後四十三年もたっていた。

                   ◇

<2005年3月17日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](12)
審判
日本兵暴行は「規定外」
裁判できず泣き寝入り

 

 一九七五年、大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、新しい仕事を得て二十四年ぶりに、沖縄へ帰郷した。その時初めて、沖縄戦で「戦闘参加者」と認定されれば、一般住民にも遺族年金や障害年金が支給されることを知った。

 県が実施した援護法の巡回相談を訪れた時のこと。大城さんは担当職員に、日本兵に暴行を受け失明した状況を説明した。

 「あなたを殴った兵隊はいるのか」。担当職員は、事務的に質問をした。

 いや応なしに沖縄戦に巻き込まれて、味方の日本兵に暴行された。十二歳だった大城さんが何一つ自分で選んだことではない。なのに、それを証明するのは自己の責任でと言われる。

 あまりに理不尽な問いに、大城さんは激怒した。「戦闘中だから、その日本兵が誰かは分からない。じゃあ、艦砲射撃でけがをした人は、撃った米兵を特定しないといけないのか」

 相談に訪れていた戦争体験者のお年寄りたちも「やんどー、やんどー(そうだ、そうだ)」と加勢してくれた。

 沖縄で援護法が適用されてから、すでに三十年たっていた。「できるだけ多くの人を救う」。初期の援護担当職員によって、そうやって運用されてきた援護法は、時の流れとともに、住民の戦争体験を審判するものに変わっていた。

 それでも、大城さんは、友人らの助けを借りながら当時の証言を集め、八八年に、申立書を申請した。

 しかし、厚生省は九二年、日本兵の暴行による障害は「援護法の規定外」として、申請を却下した。

 沖縄の一般住民が、援護法の「戦闘参加者」として認定されるためには、「日本軍への協力」が前提だ。住民が、戦争で受けた被害を補償するものではなかった。

 大城さんは、支援者らとともに、三万人余の署名を集め、厚生省に援護法適用を認めるよう要請した。却下に対して不服申し立てをしたが、九四年に再び却下された。

 後は裁判しか道は残されていなかった。「何年かかるかと弁護士に聞いたら、十年から十五年という。年も取るし、費用もかかる。結局やめてしまった」。大城さんは悔しそうに振り返った。

 九一年に娘らが育った本土へ移り、現在は伊丹市に住む。「沖縄のことをみんなが考えてくれたらありがたい」。そう思い、ボランティアで沖縄戦の語り部として、講演活動で訴える。「沖縄の戦後は終わっていない。私のように、泣き寝入りをさせられている人はたくさんいるはずだ。日本の国は、沖縄への戦後補償をしていない」

 「軍への協力」が前提となる援護法では、一般住民が沖縄戦で受けた被害は救えない。

 「住民を守る軍隊が、沖縄では、沖縄人に銃を向けた。沖縄の人一人ひとりが、沖縄戦が何だったのかもっと考えてほしい」

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続・オカッパの少年の謎を追って、

2011-10-12 06:40:16 | オカッパの少年

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沖縄戦を書いた本は数多く出版されているが、少しでも真剣に検証した読者ならあまりにも事実の歪曲、捏造が多いことに気がつくはず。

調査不足等による意図せぬ間違いならともかく、著者のイデオロギーに組み込むため事実を意図的に歪曲、捏造した例を太田昌秀元県知事の膨大の沖縄戦記から拾い出すと、それだけでも一冊の本が出来ると噂されるくらいだ。

沖縄戦記の表紙やグラビアを飾る沖縄戦の写真のほとんどが、ドキュメンタリー作家上原正稔氏が米公文書館から発掘した「一フィート運動の」の記録フィルムによるものだが、左翼学者達は中立的立場で戦争の真実を伝えようとする上原正稔氏を「一フィート運動」から追い出して、上原氏が発掘した記録フィルムを都合のいいように切り貼りし、それに事実を歪曲したナレーションをつけて一般公開したりしている。

琉球新報のスクープを朝日新聞が一面トップで飾った「うつろな目の少女」の写真も「一フィート運動」の成果として上原氏が米国から持ち込んだ記録フィルムに写っている少女の写真を太田昌秀氏が著書の表紙に使用したことから県民の間でも知れ渡るようになる。

この少女の写真には三つつの大きな衝撃がある。

先ずこの少女は、大城少年が日本兵に「やられないように」オカッパあたまで女装した写真であると報道されたこと。

次に大城少年は壕にいたところ日本兵に食料を強奪され、暴行を受けた後壕を放りだされ、その時の傷が元で右目が失明し、歩行障害者になる。 さらに実母は日本兵にスパイ容疑で虐殺されたというから、「残虐非道の日本兵」の悪行を一身に受けたような少年である。

最後に衝撃的なのは、戦後66年も経過して大城盛俊氏が自分だと名乗った「少女」は、実は「玉那覇春子さんという正真正銘の女性だったことである。 だが、これについて報道するメディアが一つもないのも驚きである。

沖縄メディア、左翼学者が共謀して捏造した数多くの沖縄戦記の中でも、これほど県民を愚弄した歴史の捏造は前代未聞であり、沖縄戦史研究の一大汚点として歴史に刻まれることになるであろう。

■地元では知られていない「女装の少年」■

朝日新聞の一面トップを飾った「少女」の記事を読みながら、その一年前に同じ「少女」を報じた琉球新報のスクープ記事を思いだした。

大城氏は、2007825日付琉球新報記事の取材に応じるため帰郷している。

だが、その時も取材のみで沖縄での講演は一度もせずに神戸に戻っている。

朝日新聞の二枚の写真付記事を見、さらに一年前の琉球新報記事を見なおして、滓のように胸中に残っていた疑惑が再び活性化してきた。                     

 

沖縄戦で米軍が撮影した膨大なフィルムが公開されてきたが、その中でも見る人の胸を打つ有名な二枚の写真がある。二枚の写真はそれぞれ大田昌秀著『写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版』(琉球新報刊)の中に収録されているが、その一枚が「白旗の少女」として知られる一枚で、他の一枚が今回朝日が紹介した「うつろ目の少女」の写真である。

「うつろな目の少女」は同書の表紙に使用されているだけでなく、冒頭第1頁でも「傷つき血みどろになった少女」とキャプション付きで掲載。一冊の本で二度も大きく紹介されているので、同書を手にした者の目に必ず飛び込んでくる構成になっている。

同書は40万部を売るという戦記ものとしては大ベストセラーになったせいか、この「少女」の写真は沖縄では良く知られた写真である。

だが、この少女が実は男の子であったということを、地元沖縄でも、知る人は少ない。

実際、筆者の知人友人ら二十数人に尋ねてみたが、「少女」の写真は見たことはあっても「少女」の正体が少年であると知る者は一人もいなかった。 

沖縄戦の資料展示では、「反軍姿勢」で知られる二つの歴史資料館を調べてみた。

激戦地のあった本島南部にある「具志頭村立歴史民俗資料館」の沖縄戦の資料展示コーナーは、ご多分にもれず「日本軍の残忍さ」と「アメリカ軍の人間性溢れる行為」を強調した展示構成になっている。 

同コーナーの「村内の仮収容所(米軍指定)に集められた人たち」と題した写真展示の中に「うつろな目の少女」の写真が展示されている。

だが説明文は「傷の手当てを待つ少女」の記述だけで、「少女」の数奇な体験については一言も触れていない。「反日本軍」を訴えるには絶好のテーマのはずの「少女」の正体も記されていなければ、「日本軍の暴行を避ける為のオカッパ頭の少年」とも記されていないのだ。   

たまたま隣で見ていた地元出身の青年に「この少女は実は少年だよ」と話したが、信じてもらえなかった。 

「もしそうなら、何故事実を掲示してないのか」と反論され、返答に窮した。

「具志頭村立歴史民俗資料館」からそう遠くない場所にある「沖縄県立平和祈念資料館」といえば徹底した反日思想の展示で有名だ。

赤ん坊を抱く母親に銃剣を向ける人形まで展示して反軍思想を煽っているが、不思議なことに、ここには「うつろな目の少女」の写真展示はない。 

見落としたかと思い、念のため受付の係員に尋ねたが、そもそも「うつろな目の少女」を知らなかった。

学芸員と称する専門家に聞いても、最初は「うつろな目の少女」が理解できず、大田元知事の著書の表紙に使われている写真だと説明してやっと理解してくれた。

だが、「少女」の正体が少年だったと話してもよく飲み込めない様子だった。

このように沖縄戦の資料を専門的に展示してある沖縄の代表的資料館でも「うつろな目の少女」の正体は少年だったという話は認識されていない。

筆者の友人、知人達が「少女」の写真は知ってはいるが、その正体をごく最近まで知らなくても無理はない。 

続く

  

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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2007年8月25日琉球新報

 <「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。>

 

コメント (2)

オカッパの少年の謎を追って!

2011-10-11 17:45:00 | オカッパの少年

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「白旗の少女」については過去に何度かエントリーし、現在でも一日に100件前後のアプローチがある。

昨日も200件を越えた。

古い過去エントリーで閲覧者が200件を越すのは当日記のような地味な政治ブログでは珍しいこと。 

沖縄戦で戦火に翻弄される住民の姿は、米国側の記録写真で数多く紹介されているが、見るたびに心を痛めるものは無抵抗な子どもたちの姿である。 

数多く出版されている沖縄戦記中でも、特に戦場の過酷さを表した2枚の「少女」の写真は沖縄人なら誰でも一度は目にするといわれるほど有名である。

「白旗の少女」と「うつろな目の少女」とそれぞれクレジットが付いた写真のことである。

「白旗の少女」が残虐かつ卑劣な日本兵を喧伝するため歪曲された絵本が出版され、主人公の比嘉富子さんが、偶然自分の後ろを歩いていた名も知れぬ兵隊さんの汚名を晴らすため名乗り出た話は有名だが、もう一枚の「うつろな目の少女」が実は「オカッパの少年」だったという事実を知る者は沖縄県民でさえほとんどいない。

沖縄タイムス平和ウェブ 過去の「慰霊の日」特集

当日記でも過去に数回エントリーしたが、一部の読者には反響があったが「白旗の少女」に比べて、アプローチも少ない。

「うつろな目の少女」の体験は、メディアが喧伝する「残虐非道の日本軍」という沖縄紙の見出しそのままを具現したようなものである。

日本兵に食料を強奪され、壕を追い出され、その際打つ蹴るの暴行を受け右目を失明し、歩行に障害の後遺症を持つ。 

「少女」が日本軍に受けた惨い仕打ちはそれだけではない。

実母はスパイ容疑で日本兵に虐殺され、戦後は右目の失明と歩行障害により仕事にも困難を伴ったという。

「少女」の受けた災難はそれだけでは止まらず、戦後「援護法」の受給申請をしたがそれさえも非情にも却下された。

「うつろな目の少女」こそ、沖縄二紙が糾弾する「悪逆非道の日本兵」の被害者として、これほど絶好のネタはないはずなのに、これを報ずる沖縄紙は極めて少ない。 

2007年、初めてこれをスクープした琉球新報と、数日遅れでフォロー記事を掲載した沖縄タイムスの二回しか筆者は知らない。(同年最後の講演会をするため大城氏が石垣市に行ったとき、八重山」毎日がこれを報じた。)

「少女」の体験が余りにも数奇なため、読者の理解を得るのが困難だと思うので、再度「少女」について検証し再度エントリーしてみたい。

昨年(2008年)の慰霊の日(6月23日)の朝日新聞夕刊のトップに「少女」についての大きき記事が掲載された。

朝日はウェブ記事には載せなかったが、大城氏の数奇な運命を中央日報がフォロー記事で掲載したので、読者の理解の一助として先ずそれを紹介する。

険を避けて少女になった大城さん、最後の講演/沖縄 

 

 

 

 太平洋戦争当時、日本軍が沖縄で行ってきたことを日本人に伝えてきた大城盛俊さん(75)が21日、沖縄県石垣島で最後の講演をしたと朝日新聞が伝えた。63年目を迎えた沖縄被害者「慰霊の日」の2日前だった。彼が25年間、全国を回りながら行った講演は約1230回。毎週1回のペースだった。しかし妻の病気の看護をしているうち、自分の足首の関節も弱くなって公式講演は今回で終えることにした。彼はこの日「初めて講演するときは『沖縄ってアメリカにあるんですか』と質問する子供もいた」と回顧した。それほど過去の沖縄の悲しい歴史を知らない日本人が多かったという意味だった。

  彼が沖縄戦争の証言するようになったきっかけは、1984年に現われた1枚の写真だった。沖縄琉球大学教授だった大田昌秀元沖縄知事が沖縄の悲劇を告発する『これが沖縄戦だ』という本を出し「うつろな目の少女」というタイトルで本表紙に載せた大城さんの幼いころの写真だった。この本が出ると大城さんは「写真の中の人物は僕です」と明らかにし、世間の注目を集めた。彼の証言の人生は少年が少女に化けた事情から始まる。

  日本が太平洋戦争で敗戦の色が濃くなった1945年5月。大城さんは12歳の少年だった。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」として彼の父親は大城さんを女の子に変装させた。彼の頭をおかっぱ頭にして女の子の服を着せた。その後、洞くつに隠れて過ごす中、日本軍が訪ねてきた。日本軍は大城さんが黒砂糖を入れておいた袋に何が入っているかを尋ねた後「生意気だ。反抗するのか」と大城さんの顔を軍靴で蹴った。翌日、沖縄に上陸した米軍は血だらけになったまま倒れている大城さんを治療し、このとき撮った写真が「うつろな目の少女」という名で本の表紙に使われたのだ。

  この本が出版された後、大城さんは全国を回りながら行った講演の核心は「反戦」だ。彼は「私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではなく、彼らをそこまで追いやった戦争の狂気」だとし「ベトナム戦争もイラク戦争も同じだ」と強調した。

  太平洋戦争当時、日本軍も初めは沖縄住民に「私たちが皆さんを守ってあげる」と言ったという。それで住民たちは素直に日本軍に寝る場所や食糧を提供して協力した。しかし、米軍上陸が切迫すると日本軍は恐怖に震え、狂気を見せ始めた。道路と陣地構築に住民を動員すると壕に抑留させた。そのせいで米軍の砲弾が落ちても民間人は逃げだせなかった上、日本軍が壕外に出るときには住民を前に立てて盾にしたというのが大城さんの証言だ。

  日本軍に暴行されて失明した彼は母親が死亡した経緯についても話した。「母はほかの洞くつから私(大城)がいた洞くつに戻る途中、日本軍につかまり、米軍スパイと疑われた。日本軍は母を洞くつに閉じこめて手榴弾を投げた」

  彼は喉頭がんの手術を受けたことから人工発声器を使って講演をしてきた。電気装置で声を伝達するので聞き取りにくいのだが、彼の講演にはいつも人があふれた。彼は「沖縄の空は青いが、痛い過去があったという点を覚えていてほしい」とし、最後の講演を終えた。   中央日報 2008年6月26日

 

                     ◆

「オカッパの少女」の謎を追って

うつろな目の少女」は、本当に沖縄戦の語り部・大城氏か

毎年6月23日、沖縄では戦没者を追悼する「慰霊の日」を迎える。その日は沖縄県限定の公休日であるため、国の出先機関や国立大学(琉球大学)以外の役所・学校等は休日になる。その日は、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄県主催の沖縄全戦没者慰霊祭が行われる。

 

■「うつろな目の少女」の衝撃■

2008年のその日623日、朝日新聞夕刊は、沖縄戦の語り部として講演活動をしてきた大城盛俊氏(75)が講演会活動を来年で引退すると一面トップで報じた。その記事には「うつろな目の少女」として有名な「少女」の写真と、講演をする大城氏の現在の写真を並べて掲載してある。

63年前に米兵によって撮影された「少女」の写真の説明を、朝日記事は次のように説明している。

<大城さん沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。>

さらに同記事は、大城氏が「23日に沖縄県石垣島では最後となる講演を行い、戦争の残酷さを訴えた」と報じているが、事情を知らない読者は、記事が報じるように過去に1230回を超える講演をこなしてきた大城さんなら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると想像するだろう。 

だが、沖縄出身で長く沖縄に在住する筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、後にも先にも朝日が報じる20086月の一回しか知らない。しかも23年もの長期にわたる講演活動の最後の沖縄講演が、沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だという。 

何ゆえ大城氏は、沖縄での最後の講演を自分の故郷がある沖縄本島で飾らなかったのか。筆者には、知人縁者の多く住むはずの故郷での講演を避けているように感じられた。

「平和教育」のメッカともいえる那覇や本島南部地域こそ大城氏のユニークな講演の最後を飾る場として相応しくはなかったのか。大城氏は一体何を避けているのか。

さらにもう一つの疑問は、少女が米兵の毒牙を避けるため髪を切って男の扮装をする話は、戦時中も終戦直後の沖縄では良く聞く話だが、逆に少年がオカッパ頭の少女に変装したという話は、筆者は始めて聞いた。 大城氏は何故しょうじょに

「うつろな目の少女」に筆者が異常な関心を持ち始めたのは、この素朴な疑問がすべての出発点であった。

琉球新報のインタビューに応じる大城盛俊氏

続く

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コメント

衝撃の新事実、オカッパの少女は女性だった!

2011-10-06 06:50:52 | オカッパの少年

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 驚くべきことに「うつろな目の少女」は、やはり女性だった!

「うつろな目の少女」の意味を知らない読者は、意味がよく飲み込めず不審に思うだろう。

少女が女性なのは当たり前。 狼魔人も教科書問題の「発狂新聞」に取り憑かれ、ついに頭がイカレテシマッタと考えるかもしれない。

一方、「うつろな目の少女」が「オカッパの少年」であることを知っている古くからの読者なら、ストレートに衝撃を受けるか、沖縄戦を伝える沖縄2紙のデタラメ報道に「やっぱり」と改めて呆れ返るだろう。

古いエントリー記事「続・沖縄戦の女装の少年、地元紙も知らなかった女装の謎」のコメント欄に次のような読者のコメントがあった。

絶対!おかしい! (Unknown)

2011-09-09 17:43:37
 この写真の少女?は、大城盛俊氏じゃないですよ!
那覇春子というれっきとした女性です!
1985年に製作された短編記録映画「戦場ぬ童」という映画で、この写真の女性、玉那覇さんが出演・証言していますよ!
このときに右手首を負傷されていて、映画では右手を切断されてのインタビュー出演でした。
この映画を撮った、橘 祐典(たちばな ゆうてん)という監督も共産党員の左翼主義者ですが、どっちがホントなんですかね!!??
 ただひとつ真実なのは、どちらかが、ウソをいってることです。

コメントがあった9月9日といえば八重山教科書問題で多忙を極めていたので、上記記録映画の検証を昨日まで放置していたが、本日この少女は大城盛俊氏ではなく玉那覇春子さんであることが確認できた。

先ず「うつろな目の少女」とは太田昌秀著『これが沖縄戦だ』の表紙に使用され有名になった「少女」の写真のクレジットである。

 
■うつろな目の少女 1945.6月

 

ところが、驚くべきことに「このオカッパの少女は私だ」と名乗る75歳の老人(男性)が現れたのだ。

   

 写真を見るとどう見ても戦渦にほんろうされるいたいけない少女の姿だが、実は日本全国で沖縄戦の講演行脚をする大城盛俊氏の女装姿だというのだ。

この衝撃的ニュースは、「11万人集会」があった2007年8月、琉球新報によって沖縄メディアとしては(筆者の知る限り)、初めて報じられた。

それがこれ。

教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

2007年8月25日琉球新報

「沖縄がいつまでもバカにされたままでいいのか。沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴える大城盛俊さん=那覇市天久の琉球新報社

 「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。24日、琉球新報社を訪れた大城さんは、史実を歪める教科書検定の動きに「教科書が嘘(うそ)をついて、その嘘を教えられた子どもたちが大きくなったらどうなるのか」と懸念し、憤りで声を震わせた。
 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。
 大城さんは、1945年4月1日の米軍の沖縄本島上陸後に家族と玉城村のガマ(壕)に避難したときのことを鮮明に記憶している。そこには200―300人の住民がいた。5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。
 数日後、大城さんは米兵に助けられた。同写真は診療所の前で撮影された。(略)
 (深沢友紀)

                   ◇

この記事を見て驚いた素直な感想を、当時のブログに書いたのがこれ。⇒「うつろな目の少女」の秘密!

このニュースは直ちに沖縄タイムスがフォロー記事を掲載し同じような衝撃が全国を走った。

2007年の夏といえば沖縄戦の教科書記述をめぐって、「沖縄の抗議」が全国の注目を浴びていた時期である。

こんな美味しい記事を全国紙が見過ごすはずはない。

翌2008年2月には朝日新聞がこれを大きく報じた。

それがこれ。↓

ニッポン人脈記/沖縄の「少女」 これは僕

朝日新聞 2008年02月01日

 1枚の写真が大田昌秀(82)の目をくぎ付けにした。

 おかっぱ頭の少女が血まみれで座りこみ、うつろな目をカメラに向けている。あの沖縄戦のなかを逃げまどったのだろう。

 大田は学生時代、鉄血勤皇隊として沖縄戦に動員され、大勢の友を失った。戦後、琉球大学で教壇に立ち、米国の公文書館などで沖縄戦の資料を集める。

 そこでみつけた写真を「うつろな目の少女」と名づけ、本の表紙に使った。琉球新報に書いた連載をまとめ、77年に出した記録写真集『これが沖縄戦だ』である。

 与那原町でクリーニング店を営んでいた大城盛俊(75)は、この写真を84年に見る。内臓病で入院中、隣のベッドの患者が広げた地元紙にのっていた。

 その新聞をもらい、タクシーで新聞社に駆けつけ、大田の自宅を聞く。けげんな顔で玄関にあらわれた大田に紙面をつきつけた。

 「これは僕です」

 「でもあんた、男じゃないか」

   *

 大城は沖縄戦当時、12歳。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」と案じた父のいいつけで、女の子のように髪を伸ばしていた。

 だが、なりすましてもムダだった。島がまるごと戦場になった45年6月、家族の食料を奪おうとした日本兵にとりすがる。「生意気だ。反抗するのか」。ひそんでいた壕からひき出された。こっぴどく殴られ、けられ、気を失う。右腕は脱臼、右目は失明。右足にいまも障害が残る。

 大田がみつけた写真は、米軍につかまった大城が治療されている時に撮られたものだった。「あんた、生きていたのか……」。大田は泣きだした。大城も涙する。ふたりはかたく抱きあった。

 大城は、沖縄戦の悲惨を語りつぐ「語り部」になった。全国の学校や平和団体を訪ね、1200回を超す。喉頭がんの手術をして22年前から人工発声器をつかう。低く聞きとりにくい声。生徒たちは息をころして聴き入る。

 「日本軍は『お前ら、アメリカにつかまるとスパイになるんだろう』と住民に手投げ弾を渡した。壕から出るときも、子どもを先頭に立たせて盾にした。沖縄の住民の敵は日本軍だったんです。そういう戦争を知らない人が歴史の教科書を書いている。情けない」(略)

                   

戦争に翻弄される少女の写真と思ったのが、名乗り出た人物が75歳の老人だったという衝撃もさることながら、「残虐非道な日本軍」というオイシイ話を喧伝するには絶好の大城氏の証言を、沖縄マスコミが戦後60数年も放置していたのは何故か。
 
大城氏が太田氏を訪ねて名乗り出たのは20数年も前の1984年ではないか。
 
しかも大城氏は沖縄戦の語り部として千数百回にも及ぶ講演会で全国行脚をする講演会のプロである。
 
2007年の琉球新報の特ダネと思われる記事の後も、沖縄紙は「うつろな目の少女」のエピソードには何故か及び腰であり、講演のプロである大城氏は、その後もなぜか沖縄本島での講演会は一度も行っていない。
 

2008年6月、大城氏は沖縄での最後の講演会を石垣市で行い、長年の講演会活動を、翌2009年の3月で終了するとした。

何ゆえ大城氏は長年の講演会活動を沖縄本島で行わなかったのか。

激戦地のある沖縄本島南部地域は大城氏の故郷ではなかったか。
 

日本兵が暴行、右目失明 表紙の「少女」大城さん、沖縄戦を語る 2008年6月22日

日本軍の暴行や虐殺を静かな怒りで語る大城盛俊さん=21日、石垣市民会館中ホール

 

             ★

この大城氏の衝撃的告白に最初から疑念を持った筆者は大城氏の戦後を追跡調査し、エントリーした回数が実に18回にも及んだ。

だが調べれば調べるほど大城氏の告白に対する疑念は深まるばかりであった。

詳細を知りたい方は⇒オカッパの少年(18)

今回大城盛俊氏の告白が記録フイルムによって真っ赤のうそであると判明した。

いくら子どもの頃の写真とは言え、大城氏の顔は「うつろな目の少女」の顔に面影さえ見出すことは出来ない。

記録フィルムで証言する玉那覇春子さんは7歳の写真とは同一人物であることは面影からもはっきり読み取れる。

玉那覇さんは右腕の半分がなく、負傷している写真の少女の右手は、その後気を失って目が覚めたときは米軍医療班ににより既に切断されていたという。

沖縄戦の報道をする沖縄メディアは、自分の都合の良い証言・告白等は何の検証もなく大々的に報道するが、「不都合な真実」は一切報道することはない。

大城盛俊氏は千数百回にも及ぶ講演会で、自分のデタラメな告白とそれを記事にした沖縄2紙をネタに聴衆を騙したことになる。

仮に講演料で収入でも得ていたら詐欺の疑いも浮上する。 またこれを裏づけも取らずに報道し講演会を支援したメディアは詐欺を共謀したといわれても仕方はない。

これまでにも沖縄メディアが沖縄戦に関してデタラメな証言(例えば毒おにぎり)は数多くあるが、大城氏のデタラメ告白は、それをネタに講演会をしていただけに、前代未聞の醜聞である。(怒)

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