<荒神谷遺跡>
荒神谷遺跡が発見されるまで、
考古学者の間では「銅鐸と銅矛は
一緒に出土しない」という説が一般的でした。
何でも、青銅器の出土量が少なかった時代は、
銅矛は主に北九州周辺、
銅鐸は近畿から東海地方の地域……と、
それぞれ単独で出土する傾向が見られたため、
銅矛・銅剣文化圏と銅鐸文化圏という二つの文化圏は、
決して重ならないと考えられていたのだとか……。
しかし、荒神谷遺跡の一件などにより、
これらの説は否定され、銅矛・銅剣祭祀と
銅鐸祭祀の両方を行う地域の存在が
明らかになったと聞きます。
そんな、考古学界の常識に一石を
投じた出雲の荒神谷遺跡ですが、
出土した青銅器はそれぞれ、銅剣が出雲製、
銅矛が北部九州製、銅鐸のほとんどが
近畿製(加茂岩倉遺跡も同様)でした。
このことから、出雲国が西日本の各地と
強い結びつきを持っていたことはもちろん、
西日本の各地から青銅器を管理する
「一族の長」レベルの人々が、
この地に集まって来た可能性が伺えるのです。