<鳥屋神社 とやじんじゃ>
考えてみますと、縄文後期から弥生時代
にかけての九州北部や近畿地方は、
常に「渡来の波」にさらされてきたエリアでした。
神武天皇が奈良に向けて東征した際、
日向から北九州、瀬戸内海の各都市を通り、
難波の碕に到着したわけですが、
長髄彦軍と生駒山あたりで対戦するにあたり、
各地の「神武側」に付いた土着豪族が、
神武一行に加勢し手筈を整えていたとも聞きます。
これを古代の出雲に当てはめれば、
九州北部の「出雲族」はもちろん、
近畿地方の「出雲族」、さらには
出雲国内の一部の「出雲族」までもが、
イザという段階になって「天津神側」
もしくは「出雲と敵対する側」に
帰順・混交した可能性も否定できません。
もしかすると、タケミナカタの一族は、
出雲内でのイザコザ(国譲りなど)の結果、
すでに出雲を去って諏訪に引き籠っていたため、
結果的に天津神側と一定の距離を
置く結果となったのでしょうか……。
そして、諸々の争いが終わったのち、
タケミナカタの子孫は再度出雲に戻り、
出雲族の痕跡であった荒神谷遺跡と
加茂岩倉遺跡の青銅器を管理する「塞ノ神」として、
「御射山」を奉斎したと想像すると、
個人的にはしっくりくるような気がするのです。