たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

敵と味方

2020-09-25 09:34:31 | 古代の出雲

<鳥屋神社 とやじんじゃ>

 

考えてみますと、縄文後期から弥生時代

にかけての九州北部や近畿地方は、

常に「渡来の波」にさらされてきたエリアでした。

神武天皇が奈良に向けて東征した際、

日向から北九州、瀬戸内海の各都市を通り、

難波の碕に到着したわけですが、

長髄彦軍と生駒山あたりで対戦するにあたり、

各地の「神武側」に付いた土着豪族が、

神武一行に加勢し手筈を整えていたとも聞きます。

 

これを古代の出雲に当てはめれば、

九州北部の「出雲族」はもちろん、

近畿地方の「出雲族」、さらには

出雲国内の一部の「出雲族」までもが、

イザという段階になって「天津神側」

もしくは「出雲と敵対する側」に

帰順・混交した可能性も否定できません。

 

もしかすると、タケミナカタの一族は、

出雲内でのイザコザ(国譲りなど)の結果、

すでに出雲を去って諏訪に引き籠っていたため、

結果的に天津神側と一定の距離を

置く結果となったのでしょうか……。

そして、諸々の争いが終わったのち、

タケミナカタの子孫は再度出雲に戻り、

出雲族の痕跡であった荒神谷遺跡と

加茂岩倉遺跡の青銅器を管理する「塞ノ神」として、

「御射山」を奉斎したと想像すると、

個人的にはしっくりくるような気がするのです。