<出雲市武志町>
もし仮に、斐伊川下流の多芸志の小浜で
「国譲りの交渉」が行われていたとするなら、
荒神谷遺跡から加茂岩倉遺跡にかけての一帯は、
「出雲族」が大挙して集まり、事の成り行きを
見守っていた場所だったのかもしれません。
そして、イザというときの決戦に備えて、
二つの遺跡に「武器」や「祭祀具」などを
保管していた可能性もあるのでしょう。
となると、青銅器に刻まれた「×」印とは、
「出雲族」の人々によって刻まれた記号
ということになりますが、果たして事の真相は
どのようなものだったのでしょうか……。
ちなみに、荒神谷遺跡から青銅器が出土した際、
344本もの銅剣に「×」の刻印が記されていた一方で、
同時に見つかった16本の銅矛には、
「×」の刻印がまったく記されていませんでした。
もし仮に、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡を
「同一部族が管理していた」のであれば、
何らかの理由で銅矛にだけ「×」印を
刻印しなかったという捉え方もできますね。