たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

木に宿る息吹

2016-12-16 10:21:53 | 熊野の神社

<曽根・飛鳥神社 あすかじんじゃ>

 

今から考えてみますと、 6月の旅の途中で、

偶然飛鳥神社に立ち寄ったことが、

今回「無社殿神社の旅」へとつながったような気がします。

もちろん飛鳥神社には、立派なご社殿があるのですが、

神社の境内を歩きながら感じていたのは、

鎮守の杜が放つ圧倒的なエネルギーでして、

いかに建物などの人工物が「脇役」であるかを、

短い参拝時間の中ではっきりと理解しました。

 

片側には海が迫り、もう一方には住宅街が立ち並ぶという、

非常に限られた面積にも関わらず、

飛鳥神社には樹齢何百年以上の巨木が、

一本だけではなく何本も現存しています。

古代よりこの神社が大切に守られてきたのも、

神域の「木」に神様の息吹が宿り、

森に立ち入る開発の手や不敬な輩を、

ことごとく阻止したからなのでしょう。


神社の「主」

2016-12-15 10:19:15 | 熊野の神社

<曽根・飛鳥神社 あすかじんじゃ>

 

飛鳥神社の境内に入り、まず気になったのは、

社殿を取り巻く「丸い石」を使った石垣でした。

この地方の神社には、石垣がよく使われているのですが、

飛鳥神社の石垣は丸みを帯びた石を使用しているのが特色。

ところどころ緑色の苔を纏った丸石の石垣は、

この土地の持つ南方の色合いをより強調しているかのようです。

 

ちなみに、ご由緒によりますとこの飛鳥神社は、

新宮の阿須賀神社から勧請されたとのこと。

ただし、阿須賀神社の宮司さんに伺ったところ、

「あすかという名前の神社はたくさんあるので、

詳しい経緯はよくわからない」とおっしゃっていました。

 

きっとこちらの場所も、熊野地方の神社と同様に、

自然信仰の聖地であり、古代の祭祀場だったのでしょう。

境内の石垣は、ご神木を避けるかのように積み上げられ、

この神社の「主」が、社殿や石垣などの人工物ではなく、

「樹」そのものであることを教えています。


神域の見張り番

2016-12-14 10:12:57 | 熊野の神社

<曽根・飛鳥神社 あすかじんじゃ>

 

飛鳥神社の鳥居をくぐりますと、

真っ先に出迎えてくれたのが、

巨大なスギやクスノキのご神木です。

参道をふさぐかのように屹立するその姿は、

あたかも侵入者や不審者の立ち入りを拒み、

神域の見張り番を努めるかのような雰囲気でした。

 

参道を進むごとにあらわれる、

樹木の佇まいに圧倒されながら、

ご社殿の入り口にたどり着いたとき、

突然私の視界を斜めに覆い隠したのは、

まるで生き物ののごとく「うねる巨樹」です。

 

地面を這うように伸びた木の根は、

石畳の道を当たり前のように浸食し、

その近くにあった別の巨樹も、

背後の石垣に容赦なくめり込んでいます。

 

ちなみに巨大な樹木は、境内の中だけでなく、

神社を取り囲むように点在しているのだそう。

一般的な神社であれば、間違いなくそのすべてが、

「ご神木」として成立するであろう大きさの巨木が、

飛鳥神社の神域のあちこちで共存していました。


原始の森

2016-12-13 10:00:38 | 熊野の神社

<曽根・飛鳥神社 あすかじんじゃ>

 

飛鳥神社を最初に目にしたとき感じたのは、

「なぜこんなところにこんなすごい森が?」

という、少々風変わりな感覚でした。

海岸に沿って続く平坦な土地に、

突如としてあらわれた鎮守の杜は、

まるで海に浮かぶ小島のような印象で、

ひと目で見ただけでそこが

「特別な場所だ」ということを知らせています。

 

神社の案内板によりますと、境内の樹叢は

三重県の天然記念物にも指定されており、

ご神木であるスギの木やクスノキだけでなく、

様々な種類の樹木が混在しているそうです。

神域の面積はそれほど広くはないのですが、

ひとたび参道の奥へと足を進めれば、

そこには縄文時代と見紛うような、

「原始の森」が広がっていたのです。


飛鳥神社

2016-12-12 10:00:03 | 熊野の神社

<曽根・飛鳥神社 あすかじんじゃ>

 

熊野市大泊あたりで国道42号を逸れ、

海岸にそってくねくねと曲がる国道311号を、

尾鷲方面に向かって車を走らせていますと、

小さな漁船が係留する入り江の向こうに、

飛鳥神社(あすかじんじゃ)の

見事な社叢が見えてまいります。

 

実はこの神社は、6月に巡った「神武東征」

をたどる旅の途中で偶然見つけたのですが、

こんもりと生い茂る社叢が目に入った瞬間、

思わず「ここに来たかったのだよ」 と、

心の中でつぶやいてしまったほど、

強烈な存在感を発している場所でした。

 

神武東征がらみの場所ではないため、

そのときは保留しようかどうか迷ったものの、

鎮守の杜が発する強力な磁力には逆らえず、

気づけば神社の脇に車を停めて、

神前へと引き寄せられるかのように、

カメラを片手に歩き出していました。


あの世の観念

2016-12-11 10:12:29 | 熊野の神社

<七里御浜 しちりみはま>

 

実は花の窟を訪れたのは、6月の旅の道中です。

今回は花の窟にお参りすることができませんでした。

ただ、その近辺の神社を巡る途中に、

幾度となく駐車場に立ち寄ったり、

そばのお茶屋さんで休憩をしたりして、

すっかりなじみのスポットとなった次第。

個人的な印象では、花の窟の周りに、

「墓所」という暗いイメージはありません。

 

花の窟だけではなく熊野灘の海沿いには、

補陀洛渡海で知られる補陀洛山寺をはじめ

「死」にまつわる場所が点在します。

「海の向こうには常世がある」という思想は、

もしかすると南方からやってきた渡来人が、

白石の風習などと共にこの地に持ち込み、

この地に根づいていた「あの世」の観念を、

南方風のエッセンスで色づけしたのでしょう。


有馬の地

2016-12-10 10:09:40 | 熊野の神社

<花の窟 はなのいわや>

 

一説によりますと、熊野三山の発祥には、

花の窟や産田神社などが残る「有馬の地」が、

大きく関係しているといわれています。

熊野本宮大社のご由緒には、

本宮のご祭神である家津御子の大神が、

「私を祀るなら母イザナミも祀れ」と告げたため、

有馬に祀られていたイザナミのご神霊を、

本宮にお迎えしたという記述があり、

また、熊野速玉大社・熊野那智大社も同様に、

有馬や花の窟との関連をうかがわせる

古い資料が残っているそうです。

 

実は花の窟が「イザナミの墓所」

と呼ばれるようになったのは、

ごく最近のことだという話があります。

もともと土着神を祀っていた場所に、

南方由来の地母神信仰が入り込み、

イザナミ伝承と融合していったのでしょう。

古くから熊野周辺には「南方の息吹」が吹き込み、

「花」や「稲作」の文化が根を下ろしました。

名草戸畔とも関わりが深いとされる

ハイヌヴァレ型神話のような物語が、

この地に広まっていたのかもしれません。

 

【参考書籍】

イザナミの大国~熊野 桐村栄一郎

聖地をたどる旅~熊野 原水音


イザナミの墓所

2016-12-09 10:07:23 | 熊野の神社

<花の窟 はなのいわや>

 

世界遺産にも登録されている花の窟(はなのいわや)は、

イザナギの妻であるイザナミの命をお祀りした場所で、

日本書紀にもその名を残す古社で、

日本最古の神社のひとつといわれています。

毎年2月2日と10月2日に行われる

お綱掛け神事というお祭りで知られており、

その内容は古代の様相をそのまま伝えているそうです。

近年では、神社の前に休憩所が作られ、

参拝者や観光客の憩いの場となっております。

 

境内に入るとまず目に飛び込んでくるのが、

思わず立ち止まって見上げてしまうほど

巨大な一枚岩のご神体でしょう。

その圧倒的な姿だけを見ただけで、この場所が

いかに「特別な場所」であったかがわかります。

「イザナミの墓所」という伝説があるためか、

神域の中に大きい社殿や人工的な装飾は少なく、

ご神体の前には、白石の敷き詰められた敷地と、

小さな奉納箱が置かれているだけでした。


古い祭祀場

2016-12-08 18:04:33 | 熊野の神社

<産田神社 うぶたじんじゃ>

 

産田神社の裏手のほうに回りこむと、

心地よい水の音が聞こえてまいります。

音のほうへと近づいて行くととそこには、

産田川という小さな川が流れていました。

現在では立派なお社が建つこの神社も、

もともとは清らかな川のそばに、

神籬を作って神様をお招きした、

古代の祭祀場だったのでしょう。

 

一説によれば、こちらに祀られていた神様を、

本宮近くの中州に移したことが、

熊野本宮大社のはじまりなのだとか。

大斎原の近くには「産田社」という、

熊野本宮大社の末社があり、

本宮と同様大切に扱われてきたのだそうです。

もしかするとこの場所は、熊野の神社の中でも、

特に古い歴史を残すエリアのひとつなのかもしれません。


古代の神籬

2016-12-07 10:02:43 | 熊野の神社

<産田神社 うぶたじんじゃ>

 

三重県熊野市の観光名所である花の窟から、

産田川を少々遡った住宅地の中に、

産田神社(うぶたじんじゃ)という古社があります。

一説では、花の窟の前身といわれるほど、

古い歴史を伝える場所でして、

花の窟のご祭神であるイザナミの命が、

この地でカグツチの神を産んだため、

「産田」と名づけられたという伝承があります。

 

産田神社の本殿の両脇には、

直径一尺・高さ五寸の丸石が並べられ、

その中に神籬(ひもろぎ)の跡が残されているのだとか。

神籬とは、古代の「神降ろし」の場所を示す言葉で、

石で囲んだ祭祀場にしめ縄を張って結界を作りました。

神籬の痕跡がこのような形で残っている場所は、

全国的にも珍しく、産田神社の周辺からは、

弥生時代の遺跡も発掘されているそうです。


南方系の風習

2016-12-06 10:00:11 | 熊野の神社

<産田神社 うぶたじんじゃ>

 

神武天皇が熊野に上陸するはるか以前から、

「渡来人」と呼ばれる人々が、

すでにこの地に住みついていました。

渡来人は主に、南方の海を経由したきた人々と、

ユーラシア大陸を横断してきた人々に分けられ、

紀伊半島では、特に「南方経由」の人々が、

黒潮に乗って船で移住して来たと思われます。

 

神社でよく見かける「白石」を置く習慣は、

南方系の渡来人がもたらしたものとも言われ、

紀伊半島の中でも、より海岸に近い神社では、

今もこの名残があちこちに見られます。

花の窟の元宮ともいわれる産田神社のご神前にも、

形の揃った小さな白い石が一面に敷き詰められおり、

境内の明るく清浄な雰囲気をさらに際立たせていました。


黒潮の香り

2016-12-05 17:57:07 | 熊野の神社

<神倉神社 かみくらじんじゃ>

 

神倉神社という場所は、

もともと「古代の祭祀場」だったといわれています。

近隣の花の窟(はなのいわや)神社などと同様に、

巨石を依り代として神事を行っていたのでしょう。

神倉神社、そして花の窟に共通しているのは、

依り代である巨石の近くに たくさんの

「白石」が敷き詰められていることで、

花の窟の元宮ともされる産田神社などでも、

このような白石の庭を見ることができます。

 

一説によりますと、神倉神社のご神体である

ゴトビキ(ヒキガエル)岩の形状は女性器を象徴し、

敷かれた白石は「産卵」をあらわしているのだとか。

また熊野では、浜の白石を神社に奉納する習しがあり、

その習慣が伊勢のお白石行事などにも、

影響を与えているという話もあります。

ちなみに「白石を置く」という風習は、

南方(ポリネシア)から伝えられたものだそう。

 

熊野地方の神社には、「南の海の匂い」

「黒潮の香り」がそこかしこに漂っているのです。


つづら折り

2016-12-04 10:10:44 | 熊野の神社

<神倉神社 かみくらじんじゃ>

 

神倉神社に参拝するためには、

麓から続く長い石段を登らなければなりません。

しかもそれはただの石段ではなく、

最大傾斜が90度にもなろうかという危険な代物。

まさしく「よじ登る」という形容詞がぴったりで、

その昔一度だけチャレンジしてからは、

「もう二度と登るまい」と固く決心したほど、

気合と筋力が必要な「修行の道」なのです。

 

ただ、久々に神倉山の入り口に立ちますと、

どうしても「お参りしなくては」という

義務感にも似た気持ちが湧いてくるのが、

神社マニアの悪い癖でありまして、

今回もお約束通り、目の前に迫る岩壁に、

果敢に食らいついていった次第。

 

一番の難所である最初の断崖絶壁を越え、

つづら折りの坂道をひたすら前進すると、

額の汗と息切れが程よく収まったころ、

山頂にある朱色の鳥居が見えてまいります。

「山」とはいってもそれほど標高は高くなく、

市街地の風景とその向こうに横たわる熊野灘が、

ミニチュアのセットのように広がっていました。


ゴトビキ岩

2016-12-03 10:44:21 | 熊野の神社

<神倉神社 かみくらじんじゃ>

 

今回の旅のテーマに「無社殿神社」を選んだとはいえ、

日本有数の聖地が点在する熊野には、

たくさんの「メジャーな神社」が鎮座しており、

それらを無視するのもまた不自然な話です。

ゆえに、無社殿神社を巡る途中で、

いくつかの有名な神社にも参拝したのですが、

改めて振り返ってみるとそのどれもが、

もとは「巨石」や「大滝」や「大樹」など、

大きな自然物を信仰としている場所だと気づき、

熊野の地の原風景を垣間見たような思いがしました。

 

例えば、御燈祭(おとうまつり)で知られる神倉神社は、

神武天皇が紀伊半島に上陸した際に

立ち寄ったともいわれる場所ですが、

山の上の社殿の横には大きな磐座があり、

岩と岩の間に白石がぎっしりと敷き詰められています。

色鮮やかな朱色の社殿は、どちらかというと添え物で、

お社に収まりきらないほどの巨大な磐座は、

眼下に広がる新宮の市内からも見ることができます。

ちなみにこの巨石は「ゴトビキ岩」と呼ばれ、

現地の方言で「ヒキガエル」を意味するそうです。


神さん

2016-12-02 17:41:08 | 無社殿神社1

<入谷・地主神社 いりたにじのしじんじゃ>

 

熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社が、

もともとは自然崇拝の聖地だったといわれるように、

熊野地方には今なおその姿を古代のままにとどめる、

「自然信仰の痕跡」があちこちに見られます。

もしかすると、様々な歴史的経緯の中で、

すでに全国各地から姿を消してしまった

「神社の原型」をかろうじて伝えているのが、

この熊野地方の無社殿神社群なのかもしれません。

 

ちなみに、熊野地方における無社殿神社は、

「高倉神社」「矢倉神社」「地主神社」

などと名づけられていることが多く、

場所によっては「●●さん」と、

地元の人しかわからないような

愛称で呼ばれているところもあります。

ただ、それらの対外的な名称がつくまでは、

すべてがただの「岩」「滝」「木」などであり、

名もなき「神さん」だったのでしょう。