<熊野灘の朝日>
2016年という年は、これまであまり縁のなかった
「和歌山」や「熊野」を訪れる機会を得たのですが、
もともと熊野自体を目指していたわけではなく、
名草戸畔をはじめとする、「神武天皇の軌跡」を
たどってみたいという動機が発端となり、
必然的にそれらの地域を探訪する流れになりました。
ただ、直接自分の目で見て、自分の足で歩いて、
熊野という土地に接したことで、
「熊野の奥深さ」を知ったのも事実です。
「神武が立ち寄った」という表向きの歴史では図れない、
「何かもっと果てしないもの」がこの地に眠っていると、
実際に自分の身を置いてはじめて気づくことができました。
熊野という土地は「そこに行かなければ」
何もつかめない場所であり、
「そこに行ってはじめて」何かを感じるのでしょう。
熊野好きを自認する多くの人たちが、
理由もなく熊野に通い続けてしまうのも、
そんな熊野の持つ磁力に抗えないからなのかもしれません。