連・断・続の部屋  

捨てる過去など何もなく、日々の社会との繫がり、自己の活性化、整理のためにつぶやく。

川崎協同病院2審判決後

2007-03-03 23:50:18 | 健康・病気

2007年3月2日のNHKのニュースで裁判されている被告のコメントより私の注意を引いたのは、難病の家族の方で『安楽死・尊厳死法制化を阻止する会』の立場からの発現でした。

”ぎりぎりまで立ち向かう医療の意志がなければ、医療の進歩は望めない”というように理解しました。

死にたいといった患者も、実は死にたいのではなく、苦痛から解放されたいだけだと実感する機会は沢山ありました。これは、死にたいといった患者が、何とか生還し元気になってから、”あの時死にたいといったけれど、本当に死にたかったの?”と、患者との談笑がてらの会話できいてみると、やっぱり生きていたかったけれどくるしいいのはいやだったからといいます。

死にたくなんか無いのではないかと思うのです。安楽死、尊厳死と議論を戦わす元気な方々の気持ちが、弱って目前に死が迫ってきているときも同じような気持ちなのでしょうか?疑問を感じます。人の気持ちは変わりやすいものです。

両親の死の時間をまじかですごして、息を引き取る間際まで交流があるのだと思いました。力が徐々に衰えるので、力強く生にあふれている私にわかる声、身振りはありませんでしたが、父は、通常とは違うのどがぜろぜろしてきたときに、わたくしがたんを切ってほしいと、えっえっと声を出すと、父も応えてくれのと、母は日が昇り始明るくなり始めたときに、目は閉じていたのですが眼球が活発に動き出したのを察知した私が”おはよう”と声をかけたら明瞭ではなかったのですが”おはよー”とモゴモゴした声をだしてくれたのです。でもその後は、また深い眠りに入り目を覚ますことはなく息を引き取っていきました。まじかに死への旅路を見守った経験から、次の世界に入りきるまで脳はこの世との決別をし続けているのだと思いました。

生の断絶を、神仏以外の手による介入が許されるべきとは思えません。

挿管の決断は慎重を期すべきで、挿管時の気持ちを大事にするしかないのではないでしょうか?辛いとか苦しいとかは誰の問題でしょう?挿管されている患者の表明でしょうか?

死を迎えるときを国民一人一人が、健康の如何にかかわらず考えてほしいです。

老人医療の環境は、長患いは許さないぞという3ヶ月期限付きの老人医療保険制度がひかれているのです。この現実を尊厳死とか安楽死とかに”国の権威”で結び付けられたときを想像すると恐ろしい気がします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする