すずめ通信

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第1778号 「きびだんご」をぶら下げて吉備路を行く

2022-04-13 19:08:57 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】 私には歴史妄想癖がある。なかでも魏志倭人伝に記述された3世紀の倭国のクニグニが、次第にヤマト王権に収斂されていった4、5世紀のこの国の姿を妄想しがちである。近畿にヤマト、山陰にイズモ、九州にツクシ、そして山陽にキビ。東国にはケヌという地域王権もあった。ただ私はこれまで、キビを歩いたことがないものだから、妄想するための材料がない。そこで「キビ探索」へ、岡山市の西、総社市との境近くの「吉備の中山」を目指す。



標高は175メートルの小丘で、麓まで住宅地が侵食しているものの緑の独立丘は維持されている。いくつもの古墳が築かれていて、丘頂近くにある中山茶臼山古墳は全長105メートルの大型前方後円墳で、大吉備津彦命の墓として宮内庁が管理している。東の山麓には備前一宮の吉備津彦神社が、西には備中一宮の吉備津神社が鎮座している。両社はともに大吉備津日子命を主祭神としている。つまり丘陵全体が吉備津彦を祀っているのである。



記紀によると、吉備津彦は第7代・孝霊天皇の皇子で、「西道」平定のため将軍として大和から派遣された。戦勝後は吉備を治め、281歳で没したという。ただ「欠史八代」の一人、孝霊天皇の実在性は謎のままだ。とはいえ3世紀ころ、大和王権が各地を平定しようと軍を派遣したことは事実らしく、吉備を含む「西道」も対象だった。とすれば吉備津彦の281歳という年齢は、大和が吉備を完全に組み入れるまでの「時」を物語っているのではないか。



私の妄想は、吉備津彦にまつわる「温羅(うら)」の伝承に向かう。温羅は異国(百済が有力)からの渡来者で、古代吉備地方を統治した一族の長らしい。大和側によれば、温羅は土地の人々を苦しめる「鬼」で、大和王権にまつろわぬ勢力だと描かれる。しかし地元には「鉄の技術者集団で、豊かな国を造った」という言い伝えも残っている。私の妄想は後者を正しいとする。古今集にある「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」である。



伝承では、吉備津彦(五十狭芹彦)は現在の吉備津神社に陣を張り、温羅は北西10余キロの鬼城山に立て籠もったとする。この戦いが「桃太郎の鬼退治伝説」を生んだらしい。敗れた温羅は首をさらされても唸り続けたため、吉備津宮の竃の地中深くに骨を埋めた。今も釜を炊くと唸りが聞こえ、その大小長短で吉凶を占う鳴釜神事が続いている。そうやって温羅は、いまだに吉備の民に尽くしているのだ。祀るなら、征服者ではなく「鬼」をこそだ。



製鉄という先端技術を持ち、黍のよく獲れる大地と、穴海と呼ばれた内海の幸で、吉備は豊かで平和な日々が続いていたのだろう。中山の一角にある岡山県の古代吉備文化財センターに立ち寄り、鍛治の技術は弥生時代後期にもたらされ、古墳時代にはこの地で製鉄が始まったことが発掘調査で確認されたと教えてもらった。際立って吉備での出土が多い「陶棺」は、穏やかなフォルムをして、陽光の地・吉備にふさわしい眠りの器である。



吉備津神社の本殿は「比翼入母屋造」という、ここだけに見られる建築で、現在の社殿は15世紀に再建されたものだという。初めて見る、驚きの様式だ。長い回廊に導かれる境内は、お宮参りの家族連れで賑わっている。真新しいランドセルを背にした子供たちは新1年生だろうか。吉備津彦は現代の吉備の人々の暮らしにすっかり溶け込んでいる。この日は神事はないようで、御釜殿はひっそりしている。私たちは温羅を訪ねて鬼城山に向かう。(2022.4.3)












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