すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1779号 鬼城山から吉備平野を見晴らす

2022-04-15 09:40:04 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】本州西端部の中国地方は、「陰陽地方」とも呼ばれるのだそうだ。山陰と山陽のことなのだろう。その陰と陽を分ける脊梁が中国山地で、そこから陽側に広がる高原地帯は吉備高原と呼ばれる。兵庫県西部から広島県東部にかけての広大な地域で、古代の吉備国と重なる。岡山平野やそれに続く総社平野はこの高原の南端に縁取られ、標高400メートル前後の丘陵が緑の生垣のように続く。だから平野部の風景は広々として明るく、圧迫感がない。



その丘陵の、小高い峰を形成する一角で、古い土塁の遺構が発見されたのは1971年だった。そして7年後からの数次にわたる学術調査により、それは古代の城郭跡であることが確認された。そこは標高397メートルの、地元で「鬼城山」と呼ばれている山頂部付近で、山頂部分を鉢巻状に、2.8キロにわたって城壁が巡らされていた。城壁は石を並べた上に土を搗き固める版築土塁で、排水溝も整備されている。城壁内部は30ヘクタールもある。



「吉備の高地で古代の砦跡発見」の報は、若い私を興奮させた。それは「魏志倭人伝に云う倭国大乱の、高地性集落を守る砦ではないか」と、自分の乏しい知識を総動員して妄想したのである。ひょっとしたら卑弥呼の世界に近づけるのではないかと、私の歴史妄想が爆発したのだった。しかし調査の結果、それは663年に白村江の戦いで敗れた大和政権が、急ぎ築いた瀬戸内交通の監視と防御の山城だと判明し、私の妄想はもろくも崩れたのだった。



妄想は崩れたとはいえ、史書にも記述のない古代の山城が、良好な保存状態のまま発掘されたことは私の興奮を十分に維持し、いつか行こうと思い続けてきた。この日は妻の運転を頼りにレンタカーによる吉備路走破を計画、急峻な山道も楽々と登った。鬼城山のビジターセンター駐車場は結構な賑わいで、私たちはそこから復元された西門までを歩いた。南は眼下に平野が広がり、遠くに海が光っている。北はコブシの白い花叢が点在する高原だ。



妻が杖をついたご老体と話し込んでいる。土地の方らしく、ここへは頻繁に訪れているという。「向こうの光っているところは瀬戸内海ですか?」「児島湾じゃな」「風土記の丘は見えていますか」「ほら、あの丘一帯で、国分寺の五重塔が見える」「造山古墳は見えないかもしれないが、作山古墳は見えているはずじゃ」「すると右手の流れは高梁川ですか」「そうじゃ、その向こうが真備じゃ」「真備ってあの?」「そう、見えているあたりが一面、水没した」



鬼城山は難波津までの瀬戸内航路のほぼ中間点にあり、海上交通を監視する絶好の地だと分かる。城内には狼煙場も確認されている。築城技術から、この地の渡来人が動員されたとの見方がある。その事実が素になっているのだろうか、「温羅伝説」はここを吉備津彦と対立した温羅が築いた「鬼ノ城」であるとする。現在も「きのじょう」と呼ばれる山城は、そのころの命名が現在に至っているわけか。そしてこの記憶が桃太郎の鬼退治物語になる。



鬼城山の登り口には広い公園があって、桜満開の日曜日だからか多くの市民で賑わっている。公園奥はテントサイトなのだろう、バーベキューの煙があちこちで立ち上っている。吉備の末裔たちは、なんと恵まれた暮らしを送っていることかと、私はその礎を築いた温羅の気分になって共に喜んだのである。早春の陽光が惜しげもなく降り注いでいるのに、植生の違いだろうか関東ほど花粉が酷くない。吉備路は実にうららかである。(2022.4.3)


















コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第1778号 「きびだんご」を... | トップ | 第1780号 吉備路の平和な風... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Tokyo-k Report」カテゴリの最新記事