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【Tokyo-k】緑に埋まる大山塊の、伊南川(檜枝岐川)の谷をわずかに引っ掻いたような平地に営まれる檜枝岐村。集落の中程に架かる前川橋に「オコジョの母子像」が置かれている。オコジョはイタチ科の哺乳類で、尾瀬にも生息しているものの準絶滅危惧種に指定され、尾瀬ビジターセンターは目撃者に発見証明書を発行している。檜枝岐村はロゴマークにこの山の人気者を採用し、大自然と共に生きる暮らしの意気込みを示している。今日も山は快晴である。
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集落を貫く国道の北側は、奥只見から続く会津駒ヶ岳が迫るものの、川が流れる南側はやや空が広く、日光・那須連山へと続く稜線が遠望される。茅葺き屋根と、壁土が採れないため井籠造りという板の蔵しかない集落を、明治半ばと昭和初期に2度の大火が襲い、壊滅させた。それを機に村人は茅葺き屋根をトタンに張り替え、赤錆色に統一して美観を保った。村内の至る所に見られる消火栓は、火災に対する村人の警戒心の強さを示している。
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村民にとって「開村の歴史」はアイデンティティそのものなのだろう。資料館はもちろん、役場玄関にも詳しく掲げられている。縄文時代以来の人の暮らしがあるこの地は、単に掘立て小屋が点在する「原村」と呼ばれていたらしい。都が平安京に遷都された794年、紀州牟漏郡から藤原金晴なる一族が移住、「星」姓を名乗る。844年には越後から藤原・大友・熊谷の3家が来て住み着き、さらに1180年、三重県から「橘」を名乗る一族がやって来た。
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村人の7割以上が現在も「星」「平野」「橘」姓である。「平野」は越後からの3氏かもしれず、家紋が平氏の「揚羽蝶」であることや、檜枝岐訛りは会津訛りと異なり、京言葉に通じていることなどから平家の落人説が有力視されている。柳田國男は『山の人生』で「我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い」と書いている。檜枝岐は何らかの事情で本貫の地を離れた一統が、密やかに定住する余地がある谷だったのだろう。
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定住はできたけれど、食糧の確保は至難であった。土は痩せ、稲作は不能で、凶作は村人を餓死に追い込んだ。それでも人々は、270年も続く農民芸能・檜枝岐歌舞伎を守り育てるなど共同体を維持し、奥山の暮らしを生き抜いてきた。明治期には当時の生活必需品である杓子(シャクシ)作りの腕を磨き、「日本一の杓子村」と呼ばれるまでになったのだという。資料館でこうした村の歩みを辿っていると、人間の持つ不屈の生命力が伝わってくる。
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平成の大合併時、檜枝岐村は田島町を中心とした南会津町の合併協議に参画したものの、独自で生きる道を選んだ。明治22年に「村」となって以来、一度も合併していない稀有な自治体である。今回も孤立した立地がそう判断させたようだ。住民のほとんどが肩寄せ合って暮らす最近流行りのコンパクトシティの先駆けのような形態が、小規模な村政を効率よく運営させているのかもしれない。豊富に湧く温泉は、全戸に供給されているという。
「魚沼91km」と標識は示すけれど、奥只見を越えて行くこのルートは「酷道」と揶揄されるほどで新潟は遠く、尾瀬を群馬に抜ける車道もない。つまり檜枝岐は、奥会津の事実上の行き止まりなのだ。車の往来は少なく、夜、熊汁・鹿肉の山人料理をいただいた民宿に響いて来るのは、谷の瀬音だけである。この国にもはや「秘境」は存在しないのかもしれない。ただ檜枝岐のように、その記憶に濃密な「秘境」を堆積する土地は確かにある。(2024.6.11-12)
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集落を貫く国道の北側は、奥只見から続く会津駒ヶ岳が迫るものの、川が流れる南側はやや空が広く、日光・那須連山へと続く稜線が遠望される。茅葺き屋根と、壁土が採れないため井籠造りという板の蔵しかない集落を、明治半ばと昭和初期に2度の大火が襲い、壊滅させた。それを機に村人は茅葺き屋根をトタンに張り替え、赤錆色に統一して美観を保った。村内の至る所に見られる消火栓は、火災に対する村人の警戒心の強さを示している。
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村民にとって「開村の歴史」はアイデンティティそのものなのだろう。資料館はもちろん、役場玄関にも詳しく掲げられている。縄文時代以来の人の暮らしがあるこの地は、単に掘立て小屋が点在する「原村」と呼ばれていたらしい。都が平安京に遷都された794年、紀州牟漏郡から藤原金晴なる一族が移住、「星」姓を名乗る。844年には越後から藤原・大友・熊谷の3家が来て住み着き、さらに1180年、三重県から「橘」を名乗る一族がやって来た。
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村人の7割以上が現在も「星」「平野」「橘」姓である。「平野」は越後からの3氏かもしれず、家紋が平氏の「揚羽蝶」であることや、檜枝岐訛りは会津訛りと異なり、京言葉に通じていることなどから平家の落人説が有力視されている。柳田國男は『山の人生』で「我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い」と書いている。檜枝岐は何らかの事情で本貫の地を離れた一統が、密やかに定住する余地がある谷だったのだろう。
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定住はできたけれど、食糧の確保は至難であった。土は痩せ、稲作は不能で、凶作は村人を餓死に追い込んだ。それでも人々は、270年も続く農民芸能・檜枝岐歌舞伎を守り育てるなど共同体を維持し、奥山の暮らしを生き抜いてきた。明治期には当時の生活必需品である杓子(シャクシ)作りの腕を磨き、「日本一の杓子村」と呼ばれるまでになったのだという。資料館でこうした村の歩みを辿っていると、人間の持つ不屈の生命力が伝わってくる。
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平成の大合併時、檜枝岐村は田島町を中心とした南会津町の合併協議に参画したものの、独自で生きる道を選んだ。明治22年に「村」となって以来、一度も合併していない稀有な自治体である。今回も孤立した立地がそう判断させたようだ。住民のほとんどが肩寄せ合って暮らす最近流行りのコンパクトシティの先駆けのような形態が、小規模な村政を効率よく運営させているのかもしれない。豊富に湧く温泉は、全戸に供給されているという。
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「魚沼91km」と標識は示すけれど、奥只見を越えて行くこのルートは「酷道」と揶揄されるほどで新潟は遠く、尾瀬を群馬に抜ける車道もない。つまり檜枝岐は、奥会津の事実上の行き止まりなのだ。車の往来は少なく、夜、熊汁・鹿肉の山人料理をいただいた民宿に響いて来るのは、谷の瀬音だけである。この国にもはや「秘境」は存在しないのかもしれない。ただ檜枝岐のように、その記憶に濃密な「秘境」を堆積する土地は確かにある。(2024.6.11-12)
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