すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1871号 歌書よりも軍書に哀し賀名生の里

2023-07-29 08:43:33 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】関西人なら、梅林で有名なこの地名を難なく「あのう」と読むかもしれないけれど、アヅマエビスの私には実に難しい。奥吉野へ分け入る「喉口」とでも言うあたりの、五條市西吉野町賀名生である。私は天辻峠を南から越えてやって来たので、いささか空は広くなったけれど、依然として山に囲まれた小さな里である。しかしもし650年ほど遡ったとすれば、ほんの一時とはいえ、ここがわが国の「帝都」であったと言えなくもない土地なのである。



「歌書よりも軍書に哀し芳野山」である。後醍醐天皇亡き後の南北朝の時代、吉野に籠る南朝方は、行宮をここ穴生(あなう)に移す。そして14世紀半ばの「正平一統」によって、つかの間とはいえここは天皇の居所、つまりこの国の首都になったのである。穴生は加名生(かなう)と改められ、後村上、長慶、後亀山の約20年間、南朝の拠点だった。地元の資料館は「一統が叶った際は、京から貴族たちが続々とやって来た」と誇らしげに解説している。



「皇居」の一部は資料館の奥に現存している。簡素な門と大きな茅葺きの母屋の豪農の館といった趣だ。北朝方の威圧から逃れる亡命政権のような南朝3代がここに逼塞したのは、京からは吉野川で遮られる山中であり、土地の有力者の南朝への篤い支援があったからだ。しかし労役に駆り出される村人たちは「なんでこんなところに皇居なんだ」とぼやいたことだろう。覇権争いのしわ寄せは常に民衆が被る。そして土地の名は賀名生に落ち着いた。



私は太平記の世界に浸りたくてここまでやってきたわけではない。「皇居」の脇を流れる丹生川を眺めたかったのだ。大和路彷徨に無上の愉しさを覚える変人(私)にとって、「丹生(にう)」はいつも謎めいた響きを伴って現れたり消えたりする。朱=水銀のことだとされる丹生は、古代の貴重な資源であり、扱う技術者集団は富んでいただろう。奥吉野には丹生川上の各社、高野山天野には丹生都比賣神社、そして賀名生の里には丹生神社が鎮座する。



丹生族(丹生都比賣)は空海の支援者だったらしいが、かつて読んだ梅原猛『海人と天皇』には「文武天皇の妃で聖武天皇を産んだ宮子は海人(あま)の娘で、丹生の一族が絡んで藤原不比等の養子になり、宮中に入った」と、不比等が野望を遂げるため丹生族に接近したとの大胆な分析があった。丹生川は紀ノ川に合流して海に繋がる。丹生とは何か。今回の旅で心残りは、暑さに負けて丹生神社参観を断念したことだ。「私の丹生」はまた消えてしまった。



直木賞の直木三十五は作家になる前、この地の小学校で代用教員をしている。大正初期のことだ。自叙伝に「汽車を見たことがない生徒が多いし、飛行機の話をしたら『先生嘘つきよる』と、てんで本当にしない」と書いている。そんな村に鉄道が通じることになった。奈良県の五條と和歌山県の新宮を結ぶ五新線である。昭和34年発行の『賀名生村史』に、村長は「新しい文化の流入で、村の生活形態は変化の度を加えようとしている」と寄せた。



しかし汽車はやって来なかった。戦中の中断を経て延々と続いた工事で、西吉野の城戸まで路盤が完成したというのに、経済情勢がすでに鉄道を求めなくなっていた。賀名生の「皇居」のほとりを流れる丹生川の上に、五新線の橋梁が架かったままになっている。資料館前の国道に学童バスが到着した。子供たちが降りてきて、停車していた別のバスに乗り換えている。2台のバスは別々の山道を登って行く。山の暮らしが垣間見える。(2023.7.19)

























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