すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1872号 五條新町で江戸の風情に浸る

2023-07-30 09:57:05 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】紀伊半島は広大で、列島の「半島」では突出している。標高1500メートル前後の峰々が連なる紀伊山地が中央に居座る大山塊で、古来、山びとが行き交う杣道を除けば、熊野詣の「辺路」や吉野修験の「奥駈道」が尾根を縫う程度の道路事情の地だった。縦走する自動車道が通じたのは昭和30年代になってからで、新宮から北上して五條に至る国道168号線である。私はその道を二日を掛けてバスに乗り継ぎ、ついに吉野川を渡る。五條だ。



うとうとしていたのか、突然、広々とした空が現れ、自分がどこにいるのかわからなくなった。それほど山襞を眺め続ける二日間だった。「次は戎神社前」のアナウンスに、慌てて降車ボタンを押す。五條の新町通りを再訪しようというのである。五條は奈良・京都から紀伊・熊野に向かう古くからの交通の要地で、吉野川が紀ノ川となって海を目指す、木材搬出の中継地として栄えた。その市街地に重要伝統的建造物群保存地区の「五條新町」がある。



狭い通りを挟んで2階建ての町家が続いている。瓦が夏の日差しを受けて銀色に輝き、黒く沈んだ格子戸と白壁が続く。意匠はそれぞれ異なるものの、通り全体がこうした民家で埋まっている。江戸草創期に入部した松倉重政が、近郷の商家を集め整備した「新町」なのだという。佇まいが落ち着いているのは、今も生活が続いている家並みだからだろう。「薬局」の看板の脇に、さりげなく「享保元年創業」と書かれている。江戸時代が生きている。



その様相について「町家百数十軒のうち約八十軒が江戸時代の建物だという。あまり喧伝されていないが、最近観光客誘致を目的に売り出している各地の民家群や町並みに比べて、決して遜色ないばかりか、はるかに上を行くのではないかと思われる町並みである」と書いているのは青山茂『奈良の街道筋』である。こう書かれて30年を過ぎるが、街の様子は今も変わりなく、「各地の町並みのはるか上を行く」というのもその通りではないか。



重要伝統的建造物群保存地区は文化財保護法に基づき国が選定するもので、手元の資料では全国に126地区ある。私が歩いた地区を数えると51になる。確かにその中でも五條新町は特別に迫ってくるものがある。「まちや館」のおばさんは「店が少ないから観光客も少なくて」と残念がったが、いやいや、このままがよろしい。通りの入口の橋に立って、「ここに来たのは30年前になる」と思い出した。時間がなくてゆっくり歩けなかったのだ。



通りの外れで、国鉄五新線の高架橋が大きくカーブを描いて吉野川を渡ろうとしている。交通網が発達していたら、この街はどうなっていただろう。川向こうの吉野郡の村々と合併して五條市の人口は37000人を超えたが、その後の60年で1万人減った。紀伊半島縦断道路の両端の新宮と五條は、人口規模と減少カーブが実によく似ている。十津川村のご老体が「街がどんどん減っているのに、村が減らないわけがない」と宣うたのはこのことか。



商家からそのまま吉野川の船に行ける階段がいくつも残っているが、現在の堤防は家並みより高い。その堤防上に「伊勢湾台風時の水位はここまで上昇した」とある。恐ろしい水害を体験した街なのだ。今日は東京隅田川の花火大会で、テレビ中継をチラチラ見ながら書いているのだが、「鍵屋」は大塔村出身の弥兵衛が、新町にあった幕府の火薬製造所で技術を身につけ、江戸に出て幕府御用達の花火師になったのだと、この旅で知った。(2023.7.19)



































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