すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第253号 裸婦像と景観

2005-08-24 11:09:17 | Tokyo-k Report
【Tokyo】富山について、続ける。町を歩いていて、気になったことがあった。「裸婦像」である。富山市には、その中心部をほぼ東西に流れる「松川」という川がある。両岸からせり出した桜の巨木が、枝を触れ合わんばかりに流れの上にアーチを作り、花の季節はさぞやすばらしい景観になると思われる。その流れに沿って、遊歩道が整備されているのだが、ところどころに彫像が据えられ、その多くが「裸婦像」なのだ。

歩道や公園、公共施設などに裸婦像が飾られるようになったのはいつのころからなのだろう。有名なものには十和田湖畔の高村光太郎作(だったと思うが)の3人の裸婦像、最高裁判所前の群像などがある。東京のどこかの区役所のロビーには、中央にドンと巨大な裸婦像が据えてあるところもあった。最近、新設される例はむしろ少なくなったように感じるが、一度建てられた像は風雪に耐え、いつまでも立ち続けている。

人間の裸体を写し取った像を、公衆の面前にさらすというのはいかなる発想なのだろう。私は男であるから、女体の美しさには大いに惹き付けられる。男だからなどという以前に、女体特有の柔らかな曲線や優美な質感は、地球上の造形物の中で最も美しいもののひとつだといっていいだろう。しかしだからといって遊歩道などで裸婦像をまじまじと見上げるのは気が引けるし、そうはいっても否応なく目が行ってしまうのだから困る。

裸体像というのは、芸術として存在するとは理解できる。しかし公共の場に、周囲の景観とは関係なく突然登場させ、全身を曝して鑑賞を強要するものではないと思うのだ。それが富山市の松川河畔には、さまざまなポーズを取った裸婦像が実にたくさん並んでいる。そうしたモニュメントを並べることが、近代的な都市づくりなのだと勘違いされた時代があったのではないか。富山の女性たちは、どんな思いでこの遊歩道を歩いているのだろう。一度アンケートを実施してみたらいい。

「町」という空間を彫刻で飾るというのは、実は難しいことだ。ローマやドイツ・ロマンチック街道の城塞都市などに並ぶ像たちは、長い時間を経て、石造りの町のなかで景観に溶け込んでいる。シカゴのような、摩天楼の中のオアシスとなっているモニュメント群も成功例のひとつだろう。同じイリノイ湖畔のミルウォーキーはシカゴとは異なり、カラフルな子供の遊具のような抽象造形物が石造りのビル群に点在し、不思議な景観を作っている。

世界の町では、そんな具合に多くの成功例はある。しかし東京・三鷹の中央通りのように、くすんだ色の意味不明な像が、周囲の商店街とは全くつながりなく、ただ並んでいるだけという惨憺たる失敗例も少なくない。国内では山口県宇部市のような、自ら「現代彫刻展」を主催し、全国から公募した作品の中から選んで街づくりのため購入し続けているという天晴れな町もあるのだから、もっと参考にしたらいい。

初めての富山の町を歩き、松川の桜並木に感心しながらそんなことを考えた。裸婦像などではなく、八尾「風の盆」の男踊り・女踊りの列が続いている、などというのもいいかもしれない、などと勝手な空想も楽しんだ。風雪の中を耐え続けてくれた裸婦像は美術館に移し、「ご苦労様」とねぎらって後、美術作品としての鑑賞に応じるようにしてはどうだろう。
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