すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1870号 空青く緑に埋もれ遠つ河

2023-07-27 09:14:41 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】「遠つ河」なのだろう。「つ」は津か都か、何れにしても湊にも街にも遠い「十津川」である。紀伊山中を縦走するバスは本宮から北上を続け、ずっと並走していた熊野川がいつの間にか目もくらむ谷底となっている。紀伊・大和の国境、果無山脈を越えているのだ。かつては里の物資を求めて村人が歩き、高野山から熊野霊場を目指す参詣者が1000メートルを超す峠をいくつも越えた小辺路である。私はバスを独占して隧道を通過、大和に入る。



道路は国道168号線で、概ね整備が行き届いている。しかしバスは旧道に分け入り、山襞に隠れた集落を訪ねながら行く。乗客が待っていることはまずないようで、通過して行くだけなのだが、車内には「この路線は行政の支援を受けて維持されています。皆さんのご利用をお願いします」とテープが流れる。私は25年前、友人の運転でこの道を行き、十津川温泉を通過して玉置神社に駆け上った。今回は神社に上る手段はなく、温泉で一泊する。



十津川村は紀伊半島のほぼ中央にあって、全てが深い山の中の672平方キロに広がる。人口は2800人ほどで、先日私が訪れた「関東で一番小さな村」を自認する山梨県丹波山村の6倍の人が暮らす。しかし人口密度は十津川の方が低い。何しろ琵琶湖より広い国内最大の面積の村域に、50を超す小集落が点在しているのだ。温泉で一緒になった土地のご老体は「50年前は1万人を超えていたんだ。林業だよ、林業が衰えたんじゃ」と宣うた。



十津川村の歴史や考察は25年前に書いているから省く。今回の旅で、十津川村教育委員会が昭和60年に編纂した『十津川郷の昔話』を読んだことを書きたい。「笠捨山の化け物」という昔話は「明治の初めごろ、郵便物を運ぶ人を逓送人と呼んだ。逓送人は風屋、折立、玉置山を越えて、夜中の1、2時ころ笠捨山を通って下北山村の浦向まで運んだ」と始まる。地名はすべて今も残る。集落を回り、深夜の山を越えて隣村まで届ける逓送人の根性!



「笠捨山は《千年斧入らず》と言われるほどの原始林で、西行法師があまりの寂しさに笠を捨てて逃げたことから名がついた」「ある晩、逓送人の茶器某はいつものように笠捨山に差し掛かったが様子がおかしい。さては化け物だなと感づいた途端、ランプの灯がふっと消された」「翌日、浦向の郵便局ではいくら待っても茶器逓送人が来ないので大騒ぎになった。彼が来る道をたどっていくと、山小屋で柱にしがみついて震えている茶器が発見された」



明治初期といえば、官営の郵便事業がスタートして間もないのに、十津川の山中でも日々の集配システムが成立していたことに驚かされる。山人ならではの、茶器某のような豪胆で超人的脚力の持ち主がいて成り立つ仕組みだろう。実は私、宿泊した民宿にカメラの充電ケーブルを忘れてしまった。電話すると「すぐに送ります」と手馴れた様子で、翌日には着払いの宅配便が東京の自宅に届いた。これこそ文明の進化だ。何と感謝したらいいだろう。



平地の乏しい村で精一杯グランドを確保し、県立十津川高校が建つ。奈良県最古の県立高校だ。幕末、京で御所の警備に当たる十津川の郷士たちは、若者の教育の必要性を痛感し、願い出て「文武館」開設の勅許を得る。「遠つ河」の地は激しい気風を育てる。新政府が神仏分離令を発し、廃仏毀釈の機運が高まると、村民は全ての寺を廃棄した。以来この村に寺はない。小学校の校門に転用された山門が1棟、保存されているだけである。(2023.7.18-19)































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