すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1718号 環日本海文化圏を秋田城跡で考える

2021-07-09 10:25:55 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】秋田を初めて訪れたのは、50歳を過ぎていたと思う。それほど縁の薄い土地だった。青森での会議の後、知らない秋田を回って帰りたいという私を、車で案内してくれたのは同僚のW君だった。秋田育ちだから、当然、秋田には詳しい。八森で白神山地を少し分け入り、能代で一泊したのち南下、そろそろ秋田市街になるというあたりで、W君は「ここが秋田城です」と崖上の緑を指差した。私は佐竹氏の居城跡だと勝手に思い込み、うなづいた。



以後、そのことを思い出すたびに「あの秋田城は何だったのだろう」と、落ち着けないことになる。というのも佐竹家の久保田城跡は、秋田駅近くに大きな公園として残っていることを、次の訪問で確認したからだ。どう思い出してもW君が指し示した「秋田城」とは場所が違う。あれは何だったのだろうかと確認しないまま、思い出すたびに落ち着かない気分に襲われていた。W君が「ここが出羽柵です」と言ってくれたら済んだ話だったのである。



私の故郷・新潟に、古代大和朝廷の出先として渟足柵と磐舟柵が築かれたことは、日本書紀の記述と現在の地名「沼垂」「岩舟」に残っている。支配地を北進させて出羽国を置いた大和朝廷は、出羽柵(いではのき)を「秋田村高清水」に遷す。渟足柵から100年ほど後である。私の知識はここでストップしたままで、760年ころに出羽柵は「秋田城」と改称されたことは知らないまま生きてきたのだ。W君の説明には、何の矛盾もなかったのである。



太平洋側に「多賀城」があるのだから、古代の「柵」と「城」の関係には気づいても良さそうなものだが、古希を過ぎてようやくこの疑問を解消させた頼りない古代史研究家(自称)は、この日の天気のように晴れ晴れと秋田城を目指す。前日、秋田港のセリオンから眺めた、市街地と港を隔てる緑の丘が「高清水」だった。W君が指し示した崖地を登って政庁跡に立ち、城内東大路を通って東門に至る。調査が進んだのだろう、一部は復元されている。



日本という国が、ヨチヨチと歩き始めたころの、最北端の役所である。多くの役人が戸籍の作成や税の徴収にあたり、渤海との外交窓口も果たした。878年には蜂起した蝦夷の軍勢に襲われ(元慶の乱)もし、10世紀中頃に役割を終えて土に還った。江戸時代にはすでに所在がわからなくなっていたらしいが、かの菅江真澄は「高清水の丘にあったに違いない」と見抜いていたというから素晴らしい。今は野の花に埋もれ、野鳥が飛び交っている。



城跡に隣接する歴史資料館で勉強する。掲げられた年表に、上野や越後の百姓数百戸が、設置直後の出羽柵に配置されたとある。もしその中に私の先祖が含まれていたら、私は秋田県人になっていたかもしれない。城跡は実に広大だ。発掘調査で話題を呼んだのは水洗トイレの発見だろう。高台の小屋で用を足し、済んだら甕の水を流すと、汚物は木製の樋を伝って下の沼地に溜まる。渤海の外交使節ら用の特殊な施設だと思われるが、よくできている。



秋田城は、大和からの征服者の出城である。その時、蝦夷と呼ばれていた本来の土地の人々はどうしていたのか。資料館の年表には「777年、蝦夷反逆し官軍苦戦」などの記述もある。私はどちらかというと、被征服者側にシンパシーを抱く癖があるので、蝦夷の生活痕を知る遺跡の発掘を期待するが、もはやそれは歴史の中に消えてしまったのだろう。だが秋田城跡が考えさせる環日本海文化圏は、現代に甦らせたい新しさがある。(2021.6.26-27)





















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