《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「令弟他人君を通じて」より我妻 栄が「令弟他人君を通じて」において、金田一他人について次のようなことなどを述べていた。
第一高等学校の一部丙類(ドイツ語クラス)に入学したときに、四〇人の同級生の中に京助さんの令弟「他人君」がいた。同じ東北人であることなどが理由になって、親しい間柄になった。…(略)…「金田一」とは奇妙な姓だと思った。その上、他人(おさと)という名も珍しかった。誰も正確に読む者はなかった。…(略)…
その他人君が、大学に入ってから、病気で一年遅れて、民法は穂積重遠先生の受持ちとなり、鳩山秀夫先生の民法の講義を聴いていたわれわれと、しょっちゅう議論をし、その結果をもって穂積先生に質問して、穂積先生にも注目される学生となった。
そんな間柄の他人君が、大学の二年生のときに、寄寓していた家の許嫁のお嬢さんとの間に破綻を生じて不幸に見舞われた。そこで、もっとも親しかった友人四人――そのうちの一人が後の岸信介総理――が共同して、他人君の遺して和歌を集め、「身も魂も」と題する一書を作った。
<『金田一京助先生の思い出の記』(金田一京助博士記念会、三省堂)19p~より>その他人君が、大学に入ってから、病気で一年遅れて、民法は穂積重遠先生の受持ちとなり、鳩山秀夫先生の民法の講義を聴いていたわれわれと、しょっちゅう議論をし、その結果をもって穂積先生に質問して、穂積先生にも注目される学生となった。
そんな間柄の他人君が、大学の二年生のときに、寄寓していた家の許嫁のお嬢さんとの間に破綻を生じて不幸に見舞われた。そこで、もっとも親しかった友人四人――そのうちの一人が後の岸信介総理――が共同して、他人君の遺して和歌を集め、「身も魂も」と題する一書を作った。
また、佐藤 好文は、
他人さんは兄弟中の大秀才で、我妻栄、岸信介と並んで鳩山門下の三羽烏といわれていたが惜しくも自殺して若死。
<『金田一京助先生の思い出の記』(金田一京助博士記念会、三省堂)30p~より>ということを前掲書所収の「お兄さん」の中に記していた。
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『賢治が一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』
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おはようございます。
そうだったんですね。「大秀才自死で夭折」、と。もしかすると、『雨ニモマケズ』のすぐ後認められている〈藤村操エピソード〉や、大正12年作の『宗谷挽歌』の詩句との因縁も、……。
「私を自殺者と思っているのか。私が自殺者でないことは,次の点からすぐわかる。第一自殺をするものが,霧の降るのをいやがって,青い巾などを被っているか。第二に自殺をするものが,二本も注意,深く鉛筆を削り,、そんなあやしんで近寄るものを,霧の中でしらしら笑っているか.」、と。小生は、ここでの〈青い巾〉と〈鉛筆を二本〉という比喩表現を。〈二〉を数と読むか〈差異性(相反性)〉と読むか。「青と赤」に埋め込まれた意味の両極性も賢治文彩の要だと考えてきたのですが。日本国憲法を巡る、我妻栄と岸信介との間の確執は、……。〈他人〉は〈たびと〉と読んで来たんですが、〈おさと〉だったんですか。〈達人〉の〈たつんど〉と〈卓苗〉の〈たくみょう〉も未だ確定できていないのですが。佐藤好文さん、『白堊校百年史』編纂のころはまだかくしゃくとしておられてよく叱られたものです。