《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈〈高瀬露悪女伝説〉は重大な人権問題だ〉
〈〈高瀬露悪女伝説〉は重大な人権問題だ〉
ところで、当の賢治は昭和6年頃自身の結婚についてどのように考えていたのだろうか。森荘已池は、昭和6年7月7日の出来事として、
どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三円(ママ)の本を出す。和とぢの本だ。
「あなたは清濁あわせのむ人だからお目にかけましよう。」
と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だつた。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
…(投稿者略)…そして次のようにいつた。
「ハバロツク・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちつとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になつて、伏字にしなければならなくなりますね」
こんな風にいつてから、またつづけた。
「禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです。」
自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻轉ではない。天と地とが、ひつくりかえると同じことぢやないか。
「何か大きないいことがあるという。功利的な考へからやつたのですが、まるつきりムダでした。」
そういつてから、しばらくして又いつた。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといつたそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな僞善に過ぎませんよ。」
私はそのはげしい言い方に少し呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしようね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。
〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭和24)107p~〉「あなたは清濁あわせのむ人だからお目にかけましよう。」
と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だつた。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
…(投稿者略)…そして次のようにいつた。
「ハバロツク・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちつとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になつて、伏字にしなければならなくなりますね」
こんな風にいつてから、またつづけた。
「禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです。」
自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻轉ではない。天と地とが、ひつくりかえると同じことぢやないか。
「何か大きないいことがあるという。功利的な考へからやつたのですが、まるつきりムダでした。」
そういつてから、しばらくして又いつた。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといつたそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな僞善に過ぎませんよ。」
私はそのはげしい言い方に少し呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしようね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。
というやりとりを紹介しているから、もしこの内容が事実であったとすれば、どうやらこの頃の賢治はかつてとはすっかり様変わりしてしまっていたようだ。
そして前掲書によれば、その7月7日に森荘已池を前にして賢治は、
私は(伊藤ちゑと)結婚するかもしれません――
〈同104p〉とほのめかし<*1>、
(ちゑが)自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね
〈同106p〉とも言っていたという。そしてその一方で、前掲したように、
禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです
と賢治は悔いていたということだから、この頃の賢治は独身主義を棄て、ちゑと結婚しよう思っていたという蓋然性が高い。よって、賢治は独身主義だったと巷間言われているようだがこの当時の賢治はどうもそうとは言い切れなさそうだ。そしてそれは、佐藤隆房も昭和6年のこととして『宮澤賢治』の中で同様なことを、
賢治さんは、突然今まで話したこともないやうなことを申します。
「實は結婚問題がまた起きましてね、相手といふのは、僕が病氣になる前、大島に行つた時、その嶋で肺を病んでゐる兄を看病してゐた、今年は二七、八になる人なんですよ。」
釣り込まれて三木君はきゝました。
「どういふ生活をして來た人なんですか。」
「何でも女學校を出てから幼稚園の保姆か何かやつてゐたといふことです。遺産が一萬圓とか何千圓とかあるといつてゐますが、僕もいくら落ぶれても、金持ちは少し迷惑ですね。」
「いくら落ぶれてもは一寸をかしいですが、貴方の金持嫌ひはよく判つてゐます。やうやくこれまで落ちぶれたんだから、といふ方が當るんぢやないんですか。」
「ですが、ずうつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐたといはれると、心を打たれますよ。」
「なかなかの貞女ですね。」
「俺の所へくるのなら心中の覺悟で來なければね。俺といふ身體がいつ亡びるか判らないし、その女(ひと)にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないですよ。ハヽヽ。」
〈『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)213p~〉「實は結婚問題がまた起きましてね、相手といふのは、僕が病氣になる前、大島に行つた時、その嶋で肺を病んでゐる兄を看病してゐた、今年は二七、八になる人なんですよ。」
釣り込まれて三木君はきゝました。
「どういふ生活をして來た人なんですか。」
「何でも女學校を出てから幼稚園の保姆か何かやつてゐたといふことです。遺産が一萬圓とか何千圓とかあるといつてゐますが、僕もいくら落ぶれても、金持ちは少し迷惑ですね。」
「いくら落ぶれてもは一寸をかしいですが、貴方の金持嫌ひはよく判つてゐます。やうやくこれまで落ちぶれたんだから、といふ方が當るんぢやないんですか。」
「ですが、ずうつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐたといはれると、心を打たれますよ。」
「なかなかの貞女ですね。」
「俺の所へくるのなら心中の覺悟で來なければね。俺といふ身體がいつ亡びるか判らないし、その女(ひと)にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないですよ。ハヽヽ。」
と記述していることからも裏付けられる(もちろんこの「三木」とは森荘已池のことであり、ちなみに昭和26年の同改訂版では「森」になっている)。
というわけで、少なくとも当時の賢治は、独身主義をもう捨てていたと言えるだろう。
<*1:註> 森荘已池によれば、
「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北碎石工場の技師となり、その製造を直接に指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。さいごの健康な時代であつた。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)104p>ということである。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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