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《↑「農村劇の台本読み」(奥中央やや左寄りが松田甚次郎)》
<『「賢治精神」の実践』(安藤玉治、農文協)より>
前回で、賢治の下根子桜農耕自炊時代の年譜に関しては昭和2年7月までが済んだ。
では引き続いて昭和2年の8月を調べてみる。
1.甚次郎の下根子桜訪問
意外なことに、そこにある主だったことははたった一つ次のことだけであった。
8月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。
佐藤成が『宮沢賢治―地人への道―』の中で「昭和二年は彼が農業指導に打込んだ最高潮の年」と述べているが、そのことを端的に示す農業指導はいつ頃年譜に現れてくるのだろうか。8月までの時点ではまだそれが見つけられない。
さてこの8月8日の松田甚次郎の下根子桜への訪問に関しては、『校本』の年譜には
「松田甚次郎日記」にはよれば前夜盛岡に到着一泊の後、賢治を訪問。同日記は次の如くである。
花巻宮沢先生行、
AM レコード
PM 水涸ノ組立
4.25 花巻 for
先生ハ快クお会シ〔数字不明」れ与ヘラレタ 実ニ、我師、我友人知己之ハ余リニ馬鹿者ヨ
横黒線ノ夕ノ山川ノ夏ハ清シ―
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)より>
とある。午前中はレコード鑑賞しているから、前年上京の費用のために蓄音機を売り払っていた賢治だったが、千葉恭の言うとおり蓄音機は買い戻していたということがこれで確認できる。それにつけても、その費用は相当高額だったはずだから賢治はどこからその費用を捻出していたのだろうか。
2.下根子桜訪問の訳
さてそれはさておき、この日記の中の午後の〝水涸ノ組立〟とは一体何のことであろう。
このことに関して、甚次郎自身がベストセラー『土に叫ぶ』の中で次のように語っている。
水涸れ 私は六反歩の小作農になり、粗衣粗食で家の仕事に従事しながら、自分の家の田を耕し、やがて田植えも終らうとして、寄手苗餅も明日にひかえた頃から水が不足しだした。それからといふものは、毎日毎晩休む日も眠る時もなく、人目を避け忍んで、二里餘りある石ばかりの道を真夜中に往復。それでもわが田に水が引かれず、もう早苗は枯れんばかりになつた。雨は降るがそれこそ焼石に水だ。かうした日が三週間もぶつ続いたからには、本当に稲を愛す魂もすりきれさうになつた。「百姓は欲ではやれぬ」と教へられはしたが、この辛苦を舐めてはじめて「本当のことだ」とつくづく頷いた。村の人々はこの並大抵ならぬ苦行を、何年も体験して居る。闘つて居る。その偉さに心から敬虔の気持ちに打たれた。
かうなると本当に身装も、食物も考へて居られない。温かい、柔らかい寝床さへ得られず、毎晩露おく、田圃の芝生、河原の石ころの上に、蓑を敷いて寝ることが関の山ではない。百姓は、働かねばならぬと知りつゝも、かくまで働くのかとは、小作農となつてはじめて理解出来る一大事実である。そして水掛も終わりとなり、わが田も八分作位に止まりさうになつて、村には楽しいお盆が近づいたのだ。それで或る日の倶楽部の例会で、「今年のお盆かお祭に、お互いで作つた劇でお互いでやつて見みようではないか」とすゝめたら、幸なるかな、一同快く賛成してくれた。それから一ヶ月間余暇をぬすんで、初体験の水掛と村の夜の事を脚本として書いて見た。そして倶楽部員の訂正を仰いで、ほゞ筋が出来たが、何だか脚本として物足りなくて仕様がないので困つてしまつた。「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許に走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて下さつた。この時こそ、私と先生の最後の別離の一日であつたのだ。余りに有り難い一日であつた。やがて『水涸れ』の脚本が出来上がり、毎夜練習の日々が続いた。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
甚次郎は賢治の〝訓へ〟どおりに古里新庄(稲船村鳥越)に戻って小作人となり、なりふり構わぬ〝土百姓〟となって農業に勤しんだ。
そして一方では、小作人になることによって初めて知った水引の苦労をテーマとした農村劇『水掛と村の夜』の脚本を書き上げた。
しかし出来上がった脚本が甚次郎としてはいまいち物足りなかったので、僅かの金しかなかったのだが遠路はるばる新庄から花巻の賢治の許に指導を乞いに訪れたのだ。
そして、〝師〟賢治からクライマックスに篝火を加えるのが良いとアドバイスを受け、併せて題も『水涸れ』と題名を付け直してもらった。それが、〝水涸ノ組立〟の意味であったのだ。
3.訪問を受けた賢治の心境
そこで私は、このときの賢治の心境を推し量ってみたくなった。
なぜなら、遡ることちょうど5ヶ月前の3月8日に賢治は
そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
小作人たれ
農村劇をやれ
…(略)…小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ。
と甚次郎に〝訓へ〟たはずだ。
そう〝訓へ〟たにもかかわらず、甚次郎の〝同志〟にも当然なるはずの賢治なのにもかかわらず、その直後に敢えなく私塾の活動から賢治は撤退していった。もちろん、それ以降あの農民劇『ポランの廣場』の上演の準備をしている節も見つからない。まして、小作人となろうとした節もない。賢治の実家は当時10㌶ほどの水田を有す大地主でもあり、何人かの小作人を抱えていたはずだから、なろうとすれば賢治は容易に小作人に成れたはずであるのにである。
したがって私がもし賢治のような立場にあって甚次郎と相まみえたとすれば、言ったことと実際の行動との乖離に恥じ入ってかなり落ち込んでしまうはずである。甚次郎は小作人になって農村劇を上演すべく脚本もほぼ完成しているのに、同じ様なことを公言した当の賢治があっけなくそれを諦めてしまっているからである。
天才賢治のことだからそうでもなかったかもしれないが、一般にはもしそのような心理状態であったならば、遠路はるばる教えを乞いに来た甚次郎に対して賢治は複雑な気持ちを抱いたに違いない、おそらく賢治は相当葛藤し苦悩していたに違いない、そう憶測してしまった。
そこで、その後に賢治が詠んだ詩にそのような心境が読みとれるものがないかと思って調べてみたのだが、長くなるのでそれは次回へ。
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<『「賢治精神」の実践』(安藤玉治、農文協)より>
前回で、賢治の下根子桜農耕自炊時代の年譜に関しては昭和2年7月までが済んだ。
では引き続いて昭和2年の8月を調べてみる。
1.甚次郎の下根子桜訪問
意外なことに、そこにある主だったことははたった一つ次のことだけであった。
8月 8日 松田甚次郎の訪問を受ける。
佐藤成が『宮沢賢治―地人への道―』の中で「昭和二年は彼が農業指導に打込んだ最高潮の年」と述べているが、そのことを端的に示す農業指導はいつ頃年譜に現れてくるのだろうか。8月までの時点ではまだそれが見つけられない。
さてこの8月8日の松田甚次郎の下根子桜への訪問に関しては、『校本』の年譜には
「松田甚次郎日記」にはよれば前夜盛岡に到着一泊の後、賢治を訪問。同日記は次の如くである。
花巻宮沢先生行、
AM レコード
PM 水涸ノ組立
4.25 花巻 for
先生ハ快クお会シ〔数字不明」れ与ヘラレタ 実ニ、我師、我友人知己之ハ余リニ馬鹿者ヨ
横黒線ノ夕ノ山川ノ夏ハ清シ―
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)より>
とある。午前中はレコード鑑賞しているから、前年上京の費用のために蓄音機を売り払っていた賢治だったが、千葉恭の言うとおり蓄音機は買い戻していたということがこれで確認できる。それにつけても、その費用は相当高額だったはずだから賢治はどこからその費用を捻出していたのだろうか。
2.下根子桜訪問の訳
さてそれはさておき、この日記の中の午後の〝水涸ノ組立〟とは一体何のことであろう。
このことに関して、甚次郎自身がベストセラー『土に叫ぶ』の中で次のように語っている。
水涸れ 私は六反歩の小作農になり、粗衣粗食で家の仕事に従事しながら、自分の家の田を耕し、やがて田植えも終らうとして、寄手苗餅も明日にひかえた頃から水が不足しだした。それからといふものは、毎日毎晩休む日も眠る時もなく、人目を避け忍んで、二里餘りある石ばかりの道を真夜中に往復。それでもわが田に水が引かれず、もう早苗は枯れんばかりになつた。雨は降るがそれこそ焼石に水だ。かうした日が三週間もぶつ続いたからには、本当に稲を愛す魂もすりきれさうになつた。「百姓は欲ではやれぬ」と教へられはしたが、この辛苦を舐めてはじめて「本当のことだ」とつくづく頷いた。村の人々はこの並大抵ならぬ苦行を、何年も体験して居る。闘つて居る。その偉さに心から敬虔の気持ちに打たれた。
かうなると本当に身装も、食物も考へて居られない。温かい、柔らかい寝床さへ得られず、毎晩露おく、田圃の芝生、河原の石ころの上に、蓑を敷いて寝ることが関の山ではない。百姓は、働かねばならぬと知りつゝも、かくまで働くのかとは、小作農となつてはじめて理解出来る一大事実である。そして水掛も終わりとなり、わが田も八分作位に止まりさうになつて、村には楽しいお盆が近づいたのだ。それで或る日の倶楽部の例会で、「今年のお盆かお祭に、お互いで作つた劇でお互いでやつて見みようではないか」とすゝめたら、幸なるかな、一同快く賛成してくれた。それから一ヶ月間余暇をぬすんで、初体験の水掛と村の夜の事を脚本として書いて見た。そして倶楽部員の訂正を仰いで、ほゞ筋が出来たが、何だか脚本として物足りなくて仕様がないので困つてしまつた。「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許に走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて下さつた。この時こそ、私と先生の最後の別離の一日であつたのだ。余りに有り難い一日であつた。やがて『水涸れ』の脚本が出来上がり、毎夜練習の日々が続いた。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
甚次郎は賢治の〝訓へ〟どおりに古里新庄(稲船村鳥越)に戻って小作人となり、なりふり構わぬ〝土百姓〟となって農業に勤しんだ。
そして一方では、小作人になることによって初めて知った水引の苦労をテーマとした農村劇『水掛と村の夜』の脚本を書き上げた。
しかし出来上がった脚本が甚次郎としてはいまいち物足りなかったので、僅かの金しかなかったのだが遠路はるばる新庄から花巻の賢治の許に指導を乞いに訪れたのだ。
そして、〝師〟賢治からクライマックスに篝火を加えるのが良いとアドバイスを受け、併せて題も『水涸れ』と題名を付け直してもらった。それが、〝水涸ノ組立〟の意味であったのだ。
3.訪問を受けた賢治の心境
そこで私は、このときの賢治の心境を推し量ってみたくなった。
なぜなら、遡ることちょうど5ヶ月前の3月8日に賢治は
そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
小作人たれ
農村劇をやれ
…(略)…小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ。
と甚次郎に〝訓へ〟たはずだ。
そう〝訓へ〟たにもかかわらず、甚次郎の〝同志〟にも当然なるはずの賢治なのにもかかわらず、その直後に敢えなく私塾の活動から賢治は撤退していった。もちろん、それ以降あの農民劇『ポランの廣場』の上演の準備をしている節も見つからない。まして、小作人となろうとした節もない。賢治の実家は当時10㌶ほどの水田を有す大地主でもあり、何人かの小作人を抱えていたはずだから、なろうとすれば賢治は容易に小作人に成れたはずであるのにである。
したがって私がもし賢治のような立場にあって甚次郎と相まみえたとすれば、言ったことと実際の行動との乖離に恥じ入ってかなり落ち込んでしまうはずである。甚次郎は小作人になって農村劇を上演すべく脚本もほぼ完成しているのに、同じ様なことを公言した当の賢治があっけなくそれを諦めてしまっているからである。
天才賢治のことだからそうでもなかったかもしれないが、一般にはもしそのような心理状態であったならば、遠路はるばる教えを乞いに来た甚次郎に対して賢治は複雑な気持ちを抱いたに違いない、おそらく賢治は相当葛藤し苦悩していたに違いない、そう憶測してしまった。
そこで、その後に賢治が詠んだ詩にそのような心境が読みとれるものがないかと思って調べてみたのだが、長くなるのでそれは次回へ。
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