みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1999 賢治と甚次郎最後の別れ(続き)

2011-02-10 09:00:00 | 賢治関連
         《↑「農村劇上演中の八幡神社土舞台」》
             <『「賢治精神」の実践』(安藤玉治、農文協)より>

 〝その後に賢治が詠んだ詩にそのような心境が読みとれるものがないかと思って調べてみたのだが〟で終わった、〝前回〟の続きである。

4.直後に詠んだ賢治の詩
 では、まずは松田甚次郎が来花した8月8日直後に宮澤賢治が詠んだ詩を『校本』の年譜からリストアップしてみる。
8/15(月)<増水> (ただし前年の可能性が強いとのこと)
8/16(火)<ダリア品評会席上>
8月中旬〔推定〕<野の師父>
8/20(土)<和風は河谷いぱいに吹く><ぢしばりの蔓→〔もうはたくな〕><祈り><路を問ふ→〔二時がこんなに暗いのは〕><〔何をやっても間に合わない〕>
となっている。

 な~んだ、直後は殆ど詩そのものが作られていないじゃないか。せいぜい8月20日にいきなり沢山の詩を詠んでいることが目立つくらいで、そこに心の揺れが激しかったのかなということがわずかに憶測出来る程度である。…いやそれとも、暫く作れずにいて突然沢山詠んだということが、やはり賢治は気持ちがしばらく動揺していて懊悩していたのかもしれないということの証左かな…。

 それではその辺りを確かめたいので、この20日の日付の詩の中味そのものを見てみよう。
一〇二一
     和風は河谷いっぱいに吹く
                  一九二七、八、二〇、
   たうたう稲は起きた
   まったくのいきもの
   まったくの精巧な機械
   稲がそろって起きてゐる
   雨のあひだまってゐた穎は
   いま小さな白い花をひらめかし
   しづかな飴いろの日だまりの上を
   赤いとんぼもすうすう飛ぶ
   あゝ
   南からまた西南から
   和風は河谷いっぱいに吹いて
   汗にまみれたシャツも乾けば
   熱した額やまぶたも冷える
    …(略)…
   百に一つなからうと思った
   あんな恐ろしい開花期の雨は
   もうまっかうからやって来て
   力を入れたほどのものを
   みんなばたばた倒してしまった
   その代りには
   十に一つも起きれまいと思ってゐたものが
   わづかの苗のつくり方のちがひや
   燐酸のやり方のために
   今日はそろってみな起きてゐる
    …(略)…
   あゝわれわれは曠野のなかに
   芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに
   素朴なむかしの神々のやうに
   べんぶしてもべんぶしても足りない

    <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>   
この詩からは、賢治が駆けずり回って稲作指導した近隣の村々の稲は皆倒れてしまったのに、賢治が指導した稲田だけは稲作指導が上手かったせいで、肥料設計が良かったせいで奇跡的に稲は立ち上がったのでそれが嬉しくてたまらず自画自賛、賢治は手を叩き小躍りしながら抃舞している様が目に浮かんでくる。

 ところが、同日日付の
一〇八八
     〔もうはたらくな〕
                  一九二七、八、二〇、
   もうはたらくな
   レーキを投げろ
   この半月の曇天と
   今朝のはげしい雷雨のために
   おれが肥料を設計し
   責任のあるみんなの稲が
   次から次と倒れたのだ
   稲が次々倒れたのだ
   働くことの卑怯なときが
   工場ばかりにあるのでない
   ことにむちゃくちゃはたらいて
   不安をまぎらかさうとする、
   卑しいことだ
    …(略)…
   さあ一ぺん帰って
   測候所へ電話をかけ
   すっかりぬれる支度をし
   頭を堅く縄って出て
   青ざめてこわばったたくさんの顔に
   一人づつぶっつかって
   火のついたやうにはげまして行け
   どんな手段を用ひても
   辨償すると答へてあるけ

    <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
からは、前の詩とは全く逆の心理状態の賢治が想像される。折角東奔西走して稲作指導したのにそれらの水田の稲は倒れてしまい、何もかも放り出したい自暴自棄の状態に賢治はあるようだ。しかしこれではいけないと気を取り直してその対策を講じようとしている賢治がいる。それも、追い込まれてしまって〝どんな手段を用ひても/辨償すると答へてあるけ〟とさえ考えているようだ。したがって、この頃の近隣の水稲の被害状況はかなりのもののようだ。

 次の詩もこれとそれほど違わない。
一〇八九
     〔二時がこんなに暗いのは〕
                  一九二七、八、二〇、
   二時がこんなに暗いのは
   時計も雨でいっぱいなのか
   本街道をはなれてからは
   みちは烈しく倒れた稲や
   陰気なひばの木立の影を
   めぐってめぐってこゝまで来たが
   里程にしてはまだそんなにもあるいてゐない
   そしていったいおれのたづねて行くさきは
   地べたについた北のけはしい雨雲だ、
   こゝの野原の土から生えて
   こゝの野原の光と風と土とにまぶれ
   老いて盲いた大先達は
   なかばは苔に埋もれて
   そこでしづかにこの雨を聴く
    …(略)…
   青い柳が一本立つ

    <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
水稲の状態が心配であちこち見て廻ってみるが何処も稲が倒れているし、激しい雷雨は一向に止みそうにない。前の詩と似たようなモチーフの詩だ。似たような詩を二つも詠むということは、そのような状態が余程賢治には堪えたということだろう。

 さらに次の詩
一〇九〇
     〔何をやっても間に合はない〕
                  一九二七、八、二〇、
   何をやっても間に合はない
   そのありふれた仲間のひとり
   雑誌を読んで兎を飼って
   巣箱もみんなじぶんでこさえ
   木小屋ののきに二十ちかくもならべれば
   その眼がみんなうるんで赤く
   こっちの手からさゝげも喰へば
   めじろみたいに啼きもする
   さうしてそれも間に合はない
   何をやっても間に合はない
    …(略)…
   納屋をすっかり片付けて
   小麦の藁で堆肥もつくり
   寒暖計もぶらさげて
   毎日水をそゝいでゐれば
   まもなく白いシャムピニオンは
   次から次と顔を出す
   さうしてそれも間に合はない
   何をやっても間に合はない
   その(約五字空白)仲間のひとり
   べっかうゴムの長靴もはき
   オリーヴいろの縮みのシャツも買って着る
   頬もあかるく髪もちゞれてうつくしく
   そのかはりには
   何をやっても間に合はない
   何をやっても間に合はない
   その(約五字空白)仲間のひとり
   その(約五字空白)仲間のひとり

    <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
からは、八方塞がりの状態にある賢治の絶望や諦念が垣間見えてくる。小作だけでは暮らしていけない零細農家では、他に現金を得るために副業に手を出すがなかなか思い通りにいかない。このことを哀れんで詠った詩であろうが、それは他人事ではない。何をやっても上手くいかないのは賢治自身、自分自身じゃないかと自問自答している…?。

5.これらの詩からの推測
 以上いずれも同日付の詩なのに、「和風は河谷いっぱいに吹く」からは賢治がすこぶる喜んでいるであろうことが手に取るように判るが、それ以外の詩からはそのような賢治の姿は目に浮かんで来ず、浮かぶのは逆にすっかり打ちひしがれ「レーキを投げろ」と自棄にさえなっている賢治である。

 「和風は河谷いっぱいに吹く」からは、賢治の指導した水田だけは倒れた稲が立ち上がっているように思えるが、〔もうはたらくな〕では〝どんな手段を用ひても/辨償すると答へてあるけ〟と詠んでいるのだから、実は賢治が指導した水田の稲さえも皆倒れて了ったとも考えられる。
 これらの詩は皆8月20日付にはなっているが、これらの詩の全てが同日の稲田の実態を目の当たりにして詠ったものとはとても思えない。
 日照が続いてほしいこの時期なのに、現実は引き続く曇天や降雨のために稲が開花しても結実してくれるのだろうかと賢治は懼れ、あげく、滅多にないような強い雷雨のために倒れてしまった稲田が賢治の目の前に拡がっていたというのが8月20日の現実ではなかったのだろうか。

 そういえば思い出した。〝一〇二一「和風は河谷いっぱいに吹く」〟は以前に読まれた詩を推敲したものであったはず。そこでそれを確認してみたならば、「和風は河谷いっぱいに吹く」(下書稿)が最初に詠まれたのは昭和2年7月14日だった。

 したがって、「和風は河谷いっぱいに吹く」の詩に詠まれているような水田の稲が皆立ち上がっている状態は少なくとも8月20日時点では事実ではなく、願望であり、祈りの詩だったのではなかろうか。引き続く曇天と長雨のために出穂期の稲、その開花と結実が心配される上に、賢治が稲作指導した田でさえも稲が倒れてしまっていたというのが現実ではなかったのではなかろうか。

 「何をやっても間に合はない」というぼやきは、副業に手を出して上手くゆかない農民のことだけではなくて、実は賢治自身に向けたものである、そう私は感じ取った。一方それに引き替え、甚次郎の方は全てが順調に進捗している。
 この二人が置かれた状況の間の落差に、賢治はもしかすると甚次郎の訪問を受けてかなり気が滅入ったいたのかも知れない。あるいは、甚次郎に対して恥じ入っていたのかもしれない。 

6.賢治と甚次郎の違い
 さて翻って、なぜ私塾「羅須地人協会」はあっけなく頓挫し、「鳥越倶楽部(最上共働村塾)」は順調に活動できたのだったのだろうか。

 ここまで探ってきてみて、その大きな理由は前者が賢治の私物であったのに、後者は仲間のものだったからではなかろうかと思うようになってきた。

 前者については、次のようなことが挙げられると思う。
(1) 協会の会員は殆どが賢治より10歳くらい若い教え子
(2) 愛弟子菊池信一に対してさえ、聞かれても「羅須」の意味をはっきりと教えない
 同様、後者については
(1) 同年配の仲間で発足
(2) 倶楽部では綱領を、村塾では会則をつくったし、皆で話し合って物事を進めた

 したがって自ずから、前者は賢治を頂点とするピラミッド型となる。さらに賢治は年下の者の意見には耳を貸さないという性向があるようだから、「羅須地人協会」は上下関係の、一方通行となりがちな脆い組織にならざるを得ない。
 一方後者の方は、上下関係が乏しく水平関係にある仲間意識の強い組織となる。さらに、甚次郎の場合は他人の意見を聞き入れるという性向があるから、信頼の絆で結ばれた強い組織となりやすい。

 他にも両者の間には著しい差があると思うが、そこまで挙げなくても上に挙げた事柄だけからでも充分に次のことが容易に想像できる気がする。
 もしこの二つの組織に外部からその存続の危機が及ぼされるような圧力が加わった場合にどうなるかを。
 前者はトップが意気阻喪すればその組織は一気に消滅し、後者は逆に団結が高まりそれを持ち堪えようとするだろうことを。

 凡人の私がそう考えるくらいだから、天才賢治がこのことに気が付かないはずはない訳で、賢治はそのことを認識しつつもそれが出来ない自分に歯軋りしていたかも知れない。純真で一途な甚次郎に対して賢治は嫉妬していたかもしれない…な~んてことはないか。
 
7.賢治と甚次郎最後の別れ
 話は8月8日に戻る。
 このとき、賢治は私塾「羅須地人協会」の活動から実質的に撤退してしまっていたのに、甚次郎の方は小作人となり、農民劇の脚本もほぼ出来上がって賢治の〝訓へ〟に基づく実践は着実に且つ順調に進捗している。
 論理的には賢治は甚次郎と〝同志〟であることになるはず。ところがこの水平関係がいともたやすく崩れてしまって、結果的には賢治は甚次郎を裏切ってしまったと言えないこともない。あれだけ熱っぽく
 黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ。
と甚次郎に迫った本人がこの体たらくでは情けないと、賢治は忸怩たる想いであったとは考えられないだろうか。私が賢治の立場にあれば、甚次郎に会わせる顔はない、そう思うからである。

 したがって、8月8日に賢治は甚次郎にその当時の下根子桜での活動の実態を正直に伝えはしていなかったと思う。また甚次郎もまさかそのような実態であろうとは想像だにしなかったはずである。
 甚次郎はその実態を知り得なかったからこそこの訪問時の賢治からのアドバイスをこの上ない喜びとして感謝し、その後もひたすら賢治を師と仰いでいると受け止められるからである。
 賢治はその後も甚次郎の精神的な心の支えであり、賢治の精神は甚次郎の活動の指針や基盤となって支えてくれたのだから、甚次郎にとってはそれで良かったのだろう。

 いずれ、この訪問が賢治と甚次郎との最後の別れになってしまったことになる。

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