《「花巻農退職時一時恩給請求」(H11/11/1付『岩手日報』より)》
下根子桜時代、賢治は大金520円を懐にした
賢治の下根子桜時代の経済的基礎に関しては菊池忠二氏が『私の賢治散歩(下巻)』で詳しく考察しており、私がいまさら考察すべきことでもないとは思いつつ、一部分に関して私なりに少しく考察してみたい。
さて、下根子桜時代の賢治は定収入はなく、臨時収入さえも如何ほどあったというのであろうか。どのようにしてその時代の経済的基盤を維持したのだろうか不思議でならなかった。いくら清貧・粗食で過ごしたとはいえ、その時代にそのような状況下で2回の上京・滞京
大正15年12月2日~同月29日頃
昭和3年6月6日~同月23日頃
さえもある。もちろん前者の時には父に200円の仕送りを依頼しているにせよ、下根子桜時代2年4ヶ月の営為を続けるためにはこれ以上の相当の金額を要したと思う。
それゆえ、私はそのためのお金の捻出の一手段として例えば〝高橋光一の証言〟において述べたように、高橋光一が「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ」と証言していることからなどから、仮説
賢治は滞京費用捻出のために、この時期(大正15年11月29日)に持寄競売を開いた。
を立ててみたりしたのだった。
さてそれがこの度、『新校本年譜』(筑摩書房)を見ていたならば
六月三日(木) 本日付で、県知事あての「一時恩給請求書」が提出される。
その実際の記事がこのブログの先頭のに掲げた紙面である。見出し以外については次のようなことなどがそこに書かれていた。
宮沢賢治が大正十五年に三十歳で県立花巻農学校を退職する際、得能佳吉県知事(当時)に提出した「一時恩給請求書」一通と、添付した履歴書二通が見つかった。…(略)…
賢治の申請書は県総務学事の職員が学校職員の恩給関係の書類を整理中に確認した。知事あての申請書は毛筆で書かれた現物。履歴書は、当時一般的だったカーボン紙を使って複写した同じものが二通保管されている。
文書提出の日付は大正十五年六月三日で、同年三月三十一日をもって稗貫郡花巻農学校教諭を退職したため一時恩給の支給を願い出ている内容。履歴書は大正七年四月十日稗貫郡の嘱託として無報酬で水田の土壌調査に従事したことから始まって花巻農学校教諭兼舎監を退職するまでの職歴、退職理由として「農民藝芸研究ノ為メ」と記す。
賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給五十二十円五百二十円を支給する手続きをとった。これを裏付ける県内部の決裁書類も合わせてとじ、保管している。
県総務学事課の千葉英寛文書公開監は「恩給は今で言う退職金であろう。…」(略)…
まさか
賢治は下根子桜時代に520円もの大金を有していたであろう時がある。
などということいままで予想だにしていなかったことであったが、一方でそうだったのかこれが賢治の清貧・粗食とは相容れないその頃の吃驚するような行動(長期の滞京など)に結びついたのではなかろうかと推論した。
そしてこの記事はその「一時恩給」がいつ実際に支給されたかは明らかにしていないが、いつ頃賢治はそれを貰ったのだろうか。
一方、大正15年12月2日の上京に際しては、直前に行った持ち寄り競売での幾ばくかの売上金、千葉恭に頼んで売った蓄音機の結構な代金(350円、あるいは2台分の90+350=440円)は持っていたと考えられるが、もっと多額のお金を持っていたのではなかろうかとも私は推測していた。なぜなら、その12月2日澤里武治に一人見送られながら花巻駅から旅立ったのだが、その際賢治は
沢里君、セロを持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そう言ってセロを持ち単身上京なさいました。
ところがこの上京の前にはこの「一時恩給」を請求しているし、〝賢治の上京は10回あったか?〟で述べたように、ボーナスが出るその日に上京を計画しているという前例があることが解ったから、おそらくこの賢治の行動パターンから逆に類推して「一時恩給」520円もその頃(大正15年11月末頃)懐に入ったのでなかろうか。賢治が農学校を辞める頃の月給は百円ちょっとだと思うから、おおよそその5ヶ月分の退職金をも合わせたかなりの額の大金を懐に、賢治はセロを持って勇躍長期間の東京遊学を目指したのではなかろうか。
そして、天才のこれも性向だと思うが、可能となったならば先の見通しはさておき即それを実行に移した賢治だったということなのではなかろうか。
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下根子桜時代、賢治は大金520円を懐にした
賢治の下根子桜時代の経済的基礎に関しては菊池忠二氏が『私の賢治散歩(下巻)』で詳しく考察しており、私がいまさら考察すべきことでもないとは思いつつ、一部分に関して私なりに少しく考察してみたい。
さて、下根子桜時代の賢治は定収入はなく、臨時収入さえも如何ほどあったというのであろうか。どのようにしてその時代の経済的基盤を維持したのだろうか不思議でならなかった。いくら清貧・粗食で過ごしたとはいえ、その時代にそのような状況下で2回の上京・滞京
大正15年12月2日~同月29日頃
昭和3年6月6日~同月23日頃
さえもある。もちろん前者の時には父に200円の仕送りを依頼しているにせよ、下根子桜時代2年4ヶ月の営為を続けるためにはこれ以上の相当の金額を要したと思う。
それゆえ、私はそのためのお金の捻出の一手段として例えば〝高橋光一の証言〟において述べたように、高橋光一が「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ」と証言していることからなどから、仮説
賢治は滞京費用捻出のために、この時期(大正15年11月29日)に持寄競売を開いた。
を立ててみたりしたのだった。
さてそれがこの度、『新校本年譜』(筑摩書房)を見ていたならば
六月三日(木) 本日付で、県知事あての「一時恩給請求書」が提出される。
<『『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
とあり、その注釈からこれは平成11年11月1日付岩手日報の記事に依るものだということを知った。その実際の記事がこのブログの先頭のに掲げた紙面である。見出し以外については次のようなことなどがそこに書かれていた。
宮沢賢治が大正十五年に三十歳で県立花巻農学校を退職する際、得能佳吉県知事(当時)に提出した「一時恩給請求書」一通と、添付した履歴書二通が見つかった。…(略)…
賢治の申請書は県総務学事の職員が学校職員の恩給関係の書類を整理中に確認した。知事あての申請書は毛筆で書かれた現物。履歴書は、当時一般的だったカーボン紙を使って複写した同じものが二通保管されている。
文書提出の日付は大正十五年六月三日で、同年三月三十一日をもって稗貫郡花巻農学校教諭を退職したため一時恩給の支給を願い出ている内容。履歴書は大正七年四月十日稗貫郡の嘱託として無報酬で水田の土壌調査に従事したことから始まって花巻農学校教諭兼舎監を退職するまでの職歴、退職理由として「農民藝芸研究ノ為メ」と記す。
賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給
県総務学事課の千葉英寛文書公開監は「恩給は今で言う退職金であろう。…」(略)…
<『岩手日報』平成11年11月1日付岩手日報23面より>
というものであった。まさか
賢治は下根子桜時代に520円もの大金を有していたであろう時がある。
などということいままで予想だにしていなかったことであったが、一方でそうだったのかこれが賢治の清貧・粗食とは相容れないその頃の吃驚するような行動(長期の滞京など)に結びついたのではなかろうかと推論した。
そしてこの記事はその「一時恩給」がいつ実際に支給されたかは明らかにしていないが、いつ頃賢治はそれを貰ったのだろうか。
一方、大正15年12月2日の上京に際しては、直前に行った持ち寄り競売での幾ばくかの売上金、千葉恭に頼んで売った蓄音機の結構な代金(350円、あるいは2台分の90+350=440円)は持っていたと考えられるが、もっと多額のお金を持っていたのではなかろうかとも私は推測していた。なぜなら、その12月2日澤里武治に一人見送られながら花巻駅から旅立ったのだが、その際賢治は
沢里君、セロを持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そう言ってセロを持ち単身上京なさいました。
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)より>
と言ったという証言があるからである。この〝三か月〟間の滞京費は相当な額(実際それでも足りなくて、賢治はその際父政次郎に200円の無心しているのだから)となるはずで、その金銭的裏付けがなければいくら賢治といえども強行はしなかったのではなかろうか。ところがこの上京の前にはこの「一時恩給」を請求しているし、〝賢治の上京は10回あったか?〟で述べたように、ボーナスが出るその日に上京を計画しているという前例があることが解ったから、おそらくこの賢治の行動パターンから逆に類推して「一時恩給」520円もその頃(大正15年11月末頃)懐に入ったのでなかろうか。賢治が農学校を辞める頃の月給は百円ちょっとだと思うから、おおよそその5ヶ月分の退職金をも合わせたかなりの額の大金を懐に、賢治はセロを持って勇躍長期間の東京遊学を目指したのではなかろうか。
そして、天才のこれも性向だと思うが、可能となったならば先の見通しはさておき即それを実行に移した賢治だったということなのではなかろうか。
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いつも興味深い視点から掘り下げて、感動しています。
緑色の文字野ところ、一時恩給五十二十円となっています。
誤植だと思います。訂正されたし。
こちらこそご無沙汰しております。
また、ご指摘ありがとうございました。
この退職金のことに関しては今まで無知だったので、驚くと共にそうだったのかと変に納得してしまいました。
なお、私の方は相変わらずまだ千葉恭のことに拘ってうろちょろしております。これが一段落したならば、次は下根子桜時代の2年4ヶ月という〝森〟に探検に入りたいとは思っておりますが。