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<↑宮澤賢治の原稿訂正(『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』(入沢康夫著、長肆山田)より)>
このブログの先頭に載せた写真は、前回”「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説”の先頭に掲げた賢治の原稿を拡大したものである。
1.「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」の実証
この宮澤賢治手ずからの訂正原稿<*1>を基にして、入沢康夫氏は『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』中で次のように実証を踏まえた論考しているので、それを引用させていただく。
…これは「毘沙門天の宝庫」という詩の原稿の一部の拡大です。初めから三行目に「旱魃のとき……」とあります。旱魃の「旱」という字は読みとれると思います。その次の「魃」という字は薄れていますが、そこに丸い印が付けてあるのは、賢治が後で推敲して抹消したものです。その隣を見てください。「旱」のところに賢治自身が「ひでり」とルビを付けているのですが、その「ひでり」というルビを付けるときに、まず「ひど」と書いて、あ、しまった間違えたとばかり、「ど」を消して「ひでり」と書き直しています。それがこのプリントでも充分お分かりになると思います。
賢治はここでも「ひでり」をうっかり「ひどり」と書きかけたわけです。もちろん先に旱魃と書いているわけで、ルビは後で付けます。明らかに旱魃という字を書いてから、それに「ひでり」とルビを振ろうとして「ひど」まで書いてしまったのです。
こういうものを見ますと、賢治は旱魃の意味で「ひでり」という言葉をよく使い<*2>、しかもそれを時にはですが「ひどり」と書き誤ることもあったようだと言えます。
<『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』(入沢康夫著、長肆山田)より>
この「旱魃」に対しての賢治自身のルビの振り方に基づいた入沢氏の論考を知って、私は「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説は限りなく正しいだろうと納得させられた。そしてそこには圧倒的説得力を感じた、それは実証に基づいたものだからなのであろう。
2.「日照りに不作なし」は場所と場合によりけり
私としては、今まで述べてきたこととこの入沢氏の論考から「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説を支持するのだが、この説を否定しようとする場合にしばしば持ち出される言い伝え「日照りに不作なし」があるので、この言い伝えに関しても少しく述べたい。
(1) 山折氏の発言
山折氏は次のように語っている。
…やっぱり、「日照りに不作なし」と、これは普通に言われていることですね。日照りを嘆く農民なんていない。むしろ寒さの夏こそ日取り労働をしなければならなかった。こういう事情を知らないから、勝手に直したんだと、ものすごい説得力のある話なんです。
<『遠野物語と21世紀東北日本の古層へ』(石井正己・遠野物語研究所編、三弥井書店)より>
たしかに山折氏の言うとおり「日照りに不作なし」という言い伝えがあり、稲の特性を考えればこの言い伝えは当然あり得ることでる。そして、このことを理由にして「ヒドリ=ヒデリの誤記」説を否定する人も少なくないようだ。だがしかし、この言い伝えには大前提がある、灌漑用水が確保できるのであればという。
(2) 宮澤賢治の「ひでり」<*2の註でもあります>
一方、賢治が振り仮名を「ひでり」と振って使っている用語の例を次に挙げてみると、
(a) 「善鬼呪禁」において
どうせみんなの穫れない歳を
ひでり
逆に旱魃でみのった稲だ
もういゝ加減区劃りをつけてはねおりて
鳥が渡りをはじめるまで
ぐっすり睡るとしたらどうだ
<「春と修羅 第二集」(『校本 宮澤賢治全集 第三巻』(筑摩書房))より>
(b) 「毘沙門天の宝庫」(下書稿)において
トランスヒマラヤ高原の
住民たちが考へる
ひでり
旱魃のときにあいつが崩れて
いちめんの雨になれば
<「春と修羅 詩稿補遺」(『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房))より>
(c) 「毘沙門天の宝庫」において
トランスヒマラヤ高原の
住民たちが考へる
もしあの雲が
ひでり
旱のときに、
人の祈りでたちまち崩れ
いちめんの烈しい雨にもならば
<「春と修羅 詩稿補遺」(『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房))より>
などがある。
よって、「ヒドリ=ヒデリの誤記」説の「ヒデリ」とはこの「ひでり」と賢治が振り仮名を振っているような意味での「ヒデリ」 であり、「日照」というよりは「旱魃」のイメージが強い、つまり「農業に水の必要な夏季のひでり」<*3>のことを言っているはずである。
(3) 「日照りに不作なし」は成り立たないこともある
そして、もしこのような「ヒデリ(旱魃)=農業に水の必要な夏季のひでり」が続いたとき、灌漑用水が確保できない場合や、確保出来ない地域の水田はどうなるか。もちろん旱害に直結する。それが確保できない期間が続けば続くほど、確保できない地域であればあるほどその被害は甚大なものとなってゆく。その典型が大正15年の、稗貫・紫波地方(特に紫波郡赤石村・不動村等)の大旱害である。
よって、「日照りに不作なし」という言い伝えは一般的・広域的には当て嵌まるが、局所的には当て嵌まらないこともある。まさしく、灌漑施設の整っていなかった当時の大正13年~15年の夏の引き続く「日照り」に対して、灌漑用水を確保できなかった稗貫・紫波の農家の惨状がそれに当たる。とりわけ大正15年の赤石村や不動村の悲惨の極みに鑑みれば、「日照りに不作なし」がこの場合にも当て嵌まるなどとはとても言えない。この言い伝えは場所と場合によりけりである、と言わざるを得ない。成り立たないこともあるのだ。
(4) 言い伝え「日照りに不作なし」は役者不足
したがって、この言い伝え「日照りに不作なし」は「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説を退けるための根拠としてはあまりにも非力である。実際日照りなのに不作、いやそれどころか大不作(凶作)が起こっていたのだから、実態は真逆の「日照りに不作あり」だったのである。日照りが引き続いたが故に田圃がひからびてしまい、水稲は立ち枯れてしまって凶作となったのだった。言い伝えの逆が実際起こってしまうのでは役者不足の言い伝えと言わざるを得ない。
まして、「ヒデリにケガチ(飢饉)なし」という言い伝えすらあるが、これでさえも役者不足である。というのは、大正15年の赤石村や不動村は日照りだったのにまさしくケガチ状態に近かったからであり、殆ど「ヒデリにケガチ(飢饉)あり」という有り様にあったからである。言い伝え「ヒデリにケガチ(飢饉)なし」さえも場合によっては当て嵌まらない場合があり、「ヒデリ」だからといって飢饉が起こらないのではなく、実質的にはこの当時でさえも起こり得たのである。
それが何故飢饉にまで至らなかったかといえば江戸時代などと違って全国からの義捐があったからにすぎない。例えば東京の小学生からさえも義捐金が届くくらいであった。だから、この年は『日照りを嘆く農民なんていない』どころか、稗貫・紫波一帯の農民のみならず全国の多くの農民はこの惨状を知り皆『この日照りを嘆き悲しんでいた』のである…はずである。
(5) 「ヒドリ=ヒデリの誤記」説は定説
よって、「日照りに不作なし」という言い伝えによって「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説を否定することはほぼ不可能であり、「ヒドリ」は「ヒデリ(旱魃)」の誤記であると言わざるを得ない。すなわち、「ヒドリ=ヒデリの誤記」説は定説のままでよいのだと私は確信したのである。
「ヒドリ=ヒデリの誤記」説はやはり定説なのである。
そう確信した。
3.所感
ここで所感を少し述べておきたい。
ここまで多少「ヒデリ」に関して調べてきた私がいま危惧していることは、「雨ニモマケズ」の「ヒドリ」を花巻周辺の方言から捜すことも、方言ではない南部藩の公用語だと推理して古文書などからそれを見つけようとすることも結局徒労に終わるのではなかろうかということである。〔雨ニモマケズ〕が「ヒドリ」以外は全て標準語で書かれているのだから、標準語以外の「公用語ヒドリ」が仮にあったとしても定説否定の任をそれに負わせようとするのは、とてもとても荷が重すぎるだろうからである。それが方言ならばなおさらであろう。
また、賢治が書いてあるとおりにせよという論理も賢治には気の毒な話である。この論理に基づくならば件の”赤い文字「行ッテ」”も「雨ニモマケズ」の中に組み入れねばならず、もしそうされたならば賢治はぼやかざるを得ないだろうからである。
はたまた、『賢治がそんな間違いを起こすと思うのは大間違いである』という無誤謬性を語る人もいるようだが、それも賢治にとってはあまりにも酷だと思う。賢治は神様ではないのだから。また、そもそも無誤謬性からは実りあることは何一つ生まれないはずである。
つまるところ、何のことはない『 賢治だって人の子、私達と同じように間違うこともある 』という当たり前のことを認めればそれで全ては済む、ただそれだけのことだと私は思う。そして、そう思ったからといって賢治がそれを不満に思うことはなかろう。それどころか却ってほっとするのではなかろうか。賢治は自分が神格化されることは全く望んではいないはずだから。
******************************************************************************************
<*1の註>
<訂正とお詫び>
前回、この訂正原稿は『入沢康夫氏が見出したものだと思う』として投稿していましたが、入沢氏から『平澤信一氏が見出したものである』と以下のようにご指摘をいただきました。
『「毘沙門天の宝庫」自筆草稿における「ヒド→ヒデ」の訂正、および「グスコーブドリの伝記」発表形に一カ所ある「ヒドリ」のことを最初に論文として発表したのは私ではなく平澤信一氏で(1990年)、それはのちに同氏の著書『宮澤賢治《遷移》の詩学』(2008年6月 蒼丘書林)に収録されました。』
つきましては、前回の投稿の
『入沢康夫氏が見出したものだと思う』の部分は『平澤信一氏が見出したものである』
と訂正させていただきました。
入沢康夫様並びに平澤信一氏に対しましては大変失礼なことをいたしました。お詫びいたします。
<*3の註>
(1) ひ・でり【日照り・旱】
①日が照ること。長いあいだ雨が降らず水が涸れること。かんばつ。
②転じて、あるべき物が不足すること。また、金銭のないこと。
<『広辞苑』より>
(2) かんばつ【旱魃】
長い間雨が降らず水が涸れる。ひでり。特に、農業に水の必要な夏季のひでりにいう。
<『広辞苑』より>
(3) 旱
①ひでり。雨が長い間降らないこと。「旱害」
②かわく。水のないこと。
③かわいていること。水に対して陸地などをいう。旱路
<『漢語林』より>
続きの
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このブログの先頭に載せた写真は、前回”「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説”の先頭に掲げた賢治の原稿を拡大したものである。
1.「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」の実証
この宮澤賢治手ずからの訂正原稿<*1>を基にして、入沢康夫氏は『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』中で次のように実証を踏まえた論考しているので、それを引用させていただく。
…これは「毘沙門天の宝庫」という詩の原稿の一部の拡大です。初めから三行目に「旱魃のとき……」とあります。旱魃の「旱」という字は読みとれると思います。その次の「魃」という字は薄れていますが、そこに丸い印が付けてあるのは、賢治が後で推敲して抹消したものです。その隣を見てください。「旱」のところに賢治自身が「ひでり」とルビを付けているのですが、その「ひでり」というルビを付けるときに、まず「ひど」と書いて、あ、しまった間違えたとばかり、「ど」を消して「ひでり」と書き直しています。それがこのプリントでも充分お分かりになると思います。
賢治はここでも「ひでり」をうっかり「ひどり」と書きかけたわけです。もちろん先に旱魃と書いているわけで、ルビは後で付けます。明らかに旱魃という字を書いてから、それに「ひでり」とルビを振ろうとして「ひど」まで書いてしまったのです。
こういうものを見ますと、賢治は旱魃の意味で「ひでり」という言葉をよく使い<*2>、しかもそれを時にはですが「ひどり」と書き誤ることもあったようだと言えます。
<『「ヒドリ」か、「ヒデリ」か』(入沢康夫著、長肆山田)より>
この「旱魃」に対しての賢治自身のルビの振り方に基づいた入沢氏の論考を知って、私は「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説は限りなく正しいだろうと納得させられた。そしてそこには圧倒的説得力を感じた、それは実証に基づいたものだからなのであろう。
2.「日照りに不作なし」は場所と場合によりけり
私としては、今まで述べてきたこととこの入沢氏の論考から「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説を支持するのだが、この説を否定しようとする場合にしばしば持ち出される言い伝え「日照りに不作なし」があるので、この言い伝えに関しても少しく述べたい。
(1) 山折氏の発言
山折氏は次のように語っている。
…やっぱり、「日照りに不作なし」と、これは普通に言われていることですね。日照りを嘆く農民なんていない。むしろ寒さの夏こそ日取り労働をしなければならなかった。こういう事情を知らないから、勝手に直したんだと、ものすごい説得力のある話なんです。
<『遠野物語と21世紀東北日本の古層へ』(石井正己・遠野物語研究所編、三弥井書店)より>
たしかに山折氏の言うとおり「日照りに不作なし」という言い伝えがあり、稲の特性を考えればこの言い伝えは当然あり得ることでる。そして、このことを理由にして「ヒドリ=ヒデリの誤記」説を否定する人も少なくないようだ。だがしかし、この言い伝えには大前提がある、灌漑用水が確保できるのであればという。
(2) 宮澤賢治の「ひでり」<*2の註でもあります>
一方、賢治が振り仮名を「ひでり」と振って使っている用語の例を次に挙げてみると、
(a) 「善鬼呪禁」において
どうせみんなの穫れない歳を
ひでり
逆に旱魃でみのった稲だ
もういゝ加減区劃りをつけてはねおりて
鳥が渡りをはじめるまで
ぐっすり睡るとしたらどうだ
<「春と修羅 第二集」(『校本 宮澤賢治全集 第三巻』(筑摩書房))より>
(b) 「毘沙門天の宝庫」(下書稿)において
トランスヒマラヤ高原の
住民たちが考へる
ひでり
旱魃のときにあいつが崩れて
いちめんの雨になれば
<「春と修羅 詩稿補遺」(『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房))より>
(c) 「毘沙門天の宝庫」において
トランスヒマラヤ高原の
住民たちが考へる
もしあの雲が
ひでり
旱のときに、
人の祈りでたちまち崩れ
いちめんの烈しい雨にもならば
<「春と修羅 詩稿補遺」(『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房))より>
などがある。
よって、「ヒドリ=ヒデリの誤記」説の「ヒデリ」とはこの「ひでり」と賢治が振り仮名を振っているような意味での「ヒデリ」 であり、「日照」というよりは「旱魃」のイメージが強い、つまり「農業に水の必要な夏季のひでり」<*3>のことを言っているはずである。
(3) 「日照りに不作なし」は成り立たないこともある
そして、もしこのような「ヒデリ(旱魃)=農業に水の必要な夏季のひでり」が続いたとき、灌漑用水が確保できない場合や、確保出来ない地域の水田はどうなるか。もちろん旱害に直結する。それが確保できない期間が続けば続くほど、確保できない地域であればあるほどその被害は甚大なものとなってゆく。その典型が大正15年の、稗貫・紫波地方(特に紫波郡赤石村・不動村等)の大旱害である。
よって、「日照りに不作なし」という言い伝えは一般的・広域的には当て嵌まるが、局所的には当て嵌まらないこともある。まさしく、灌漑施設の整っていなかった当時の大正13年~15年の夏の引き続く「日照り」に対して、灌漑用水を確保できなかった稗貫・紫波の農家の惨状がそれに当たる。とりわけ大正15年の赤石村や不動村の悲惨の極みに鑑みれば、「日照りに不作なし」がこの場合にも当て嵌まるなどとはとても言えない。この言い伝えは場所と場合によりけりである、と言わざるを得ない。成り立たないこともあるのだ。
(4) 言い伝え「日照りに不作なし」は役者不足
したがって、この言い伝え「日照りに不作なし」は「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説を退けるための根拠としてはあまりにも非力である。実際日照りなのに不作、いやそれどころか大不作(凶作)が起こっていたのだから、実態は真逆の「日照りに不作あり」だったのである。日照りが引き続いたが故に田圃がひからびてしまい、水稲は立ち枯れてしまって凶作となったのだった。言い伝えの逆が実際起こってしまうのでは役者不足の言い伝えと言わざるを得ない。
まして、「ヒデリにケガチ(飢饉)なし」という言い伝えすらあるが、これでさえも役者不足である。というのは、大正15年の赤石村や不動村は日照りだったのにまさしくケガチ状態に近かったからであり、殆ど「ヒデリにケガチ(飢饉)あり」という有り様にあったからである。言い伝え「ヒデリにケガチ(飢饉)なし」さえも場合によっては当て嵌まらない場合があり、「ヒデリ」だからといって飢饉が起こらないのではなく、実質的にはこの当時でさえも起こり得たのである。
それが何故飢饉にまで至らなかったかといえば江戸時代などと違って全国からの義捐があったからにすぎない。例えば東京の小学生からさえも義捐金が届くくらいであった。だから、この年は『日照りを嘆く農民なんていない』どころか、稗貫・紫波一帯の農民のみならず全国の多くの農民はこの惨状を知り皆『この日照りを嘆き悲しんでいた』のである…はずである。
(5) 「ヒドリ=ヒデリの誤記」説は定説
よって、「日照りに不作なし」という言い伝えによって「ヒドリ=ヒデリ(旱魃)の誤記」説を否定することはほぼ不可能であり、「ヒドリ」は「ヒデリ(旱魃)」の誤記であると言わざるを得ない。すなわち、「ヒドリ=ヒデリの誤記」説は定説のままでよいのだと私は確信したのである。
「ヒドリ=ヒデリの誤記」説はやはり定説なのである。
そう確信した。
3.所感
ここで所感を少し述べておきたい。
ここまで多少「ヒデリ」に関して調べてきた私がいま危惧していることは、「雨ニモマケズ」の「ヒドリ」を花巻周辺の方言から捜すことも、方言ではない南部藩の公用語だと推理して古文書などからそれを見つけようとすることも結局徒労に終わるのではなかろうかということである。〔雨ニモマケズ〕が「ヒドリ」以外は全て標準語で書かれているのだから、標準語以外の「公用語ヒドリ」が仮にあったとしても定説否定の任をそれに負わせようとするのは、とてもとても荷が重すぎるだろうからである。それが方言ならばなおさらであろう。
また、賢治が書いてあるとおりにせよという論理も賢治には気の毒な話である。この論理に基づくならば件の”赤い文字「行ッテ」”も「雨ニモマケズ」の中に組み入れねばならず、もしそうされたならば賢治はぼやかざるを得ないだろうからである。
はたまた、『賢治がそんな間違いを起こすと思うのは大間違いである』という無誤謬性を語る人もいるようだが、それも賢治にとってはあまりにも酷だと思う。賢治は神様ではないのだから。また、そもそも無誤謬性からは実りあることは何一つ生まれないはずである。
つまるところ、何のことはない『 賢治だって人の子、私達と同じように間違うこともある 』という当たり前のことを認めればそれで全ては済む、ただそれだけのことだと私は思う。そして、そう思ったからといって賢治がそれを不満に思うことはなかろう。それどころか却ってほっとするのではなかろうか。賢治は自分が神格化されることは全く望んではいないはずだから。
******************************************************************************************
<*1の註>
<訂正とお詫び>
前回、この訂正原稿は『入沢康夫氏が見出したものだと思う』として投稿していましたが、入沢氏から『平澤信一氏が見出したものである』と以下のようにご指摘をいただきました。
『「毘沙門天の宝庫」自筆草稿における「ヒド→ヒデ」の訂正、および「グスコーブドリの伝記」発表形に一カ所ある「ヒドリ」のことを最初に論文として発表したのは私ではなく平澤信一氏で(1990年)、それはのちに同氏の著書『宮澤賢治《遷移》の詩学』(2008年6月 蒼丘書林)に収録されました。』
つきましては、前回の投稿の
『入沢康夫氏が見出したものだと思う』の部分は『平澤信一氏が見出したものである』
と訂正させていただきました。
入沢康夫様並びに平澤信一氏に対しましては大変失礼なことをいたしました。お詫びいたします。
<*3の註>
(1) ひ・でり【日照り・旱】
①日が照ること。長いあいだ雨が降らず水が涸れること。かんばつ。
②転じて、あるべき物が不足すること。また、金銭のないこと。
<『広辞苑』より>
(2) かんばつ【旱魃】
長い間雨が降らず水が涸れる。ひでり。特に、農業に水の必要な夏季のひでりにいう。
<『広辞苑』より>
(3) 旱
①ひでり。雨が長い間降らないこと。「旱害」
②かわく。水のないこと。
③かわいていること。水に対して陸地などをいう。旱路
<『漢語林』より>
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「毘沙門天の宝庫」自筆草稿における「ヒド→ヒデ」の訂正、および「グスコーブドリの伝記」発表形に一カ所ある「ヒドリ」のことを最初に論文として発表したのは私ではなく平澤信一氏で(1990年)、それはのちに同氏の著書『宮澤賢治《遷移》の詩学』(2008年6月 蒼丘書林)に収録されました。
お早うございます。
大変失礼いたしました。
早速関連部分を訂正いたします。
今後ともよろしくお願いいたします。
suzukishuhoku