みちのくの山野草

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『校本全集第十四巻』にはこんな「杜撰」もあった

2023-11-09 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
吉田 その「ライスカレー事件」に関しては、「校本全集」にはこんなとんでもない「杜撰」なことも載っているので僕は唖然としたね。荒木は知っとるか。
荒木 知らん。それはどんな事件なんだ?
吉田 いわゆる「旧校本年譜」では、森荘已池が一九二七年の秋の日に下根子を訪ね、その際道で高瀬露とすれ違ったということになっている(『校本全集第十四巻』622p)のだが、それは、
 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。國道から田圃路に入つて行くと稻田のつきるところから …… 〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)74p〉
と森は書いているものの、
   「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
という強引で心もとない論理で、「旧校本年譜」はこの訪問を一九二七年のことであると一方的に決めつけているのだ。あの天下の筑摩がこんな脆弱な論理で森荘已池の記述を書き変えているんだ。失礼なことに。
荒木 えっ、そんな短絡的なことを筑摩はやっているのかよ、俺にだってそれはあまりにも無茶なことだっていうことが分かる。これまたここでも杜撰なことをやってるのか。賢治が下根子の宮澤家別宅に住んでいたの年は一九二六年もあるわけで、そうとは言い切れないだろうに。
鈴木 そうなんだよ、しかも、そもそもこの「下根子訪問」自体がなかったかも知れないのにだぞ。もちろん、「旧校本年譜」はその訪問があったということを確認したということも言い添えていない。そしてその懸念どおり、私が検証したところ、森のこの「下根子訪問」は捏造であったことが明らかになったから(詳しくは、拙著『本統の賢治と本当の露』の第二章の〝5.捏造だった森の「下根子桜訪問」〟をご覧いただきたい)、 何をか言わんやだ。
吉田 よって、
   ・「下敷」そのものもかなり不確かである。
ことが分かった。となれば、これと先ほどの、
   ・露が〈悪女〉であるとは常識的には考えにくい。
とを併せて判断しただけでも、
   〈悪女・高瀬露〉は濡れ衣の可能性がきわめて大である。
ということが導かれるってわけだ。
荒木 どうやら杜撰であったが故に招いた結果とも言えそうだな。

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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