《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)
4 三カ月間の滞京
では、あの澤里の証言の中の、
滞京中の先生は、私達の想像することも出来ないくらい勉強をされたようです。父上にあてた書簡を見ても、それがよくわかります。…(中略)…
手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
<昭和31年2月22日、同23日付『岩手日報』より>手紙の中にはセロのことは出ておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちはほとんど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指を直角に持っていく練習をされたそうです。
そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
について次に少しく考えてみたい。
やはり約三カ月間滞京
この証言からは、昭和2年の11月頃から「少なくとも三カ月は滞京する」予定だったチェロの勉強だったが、それは想像を絶するものだったということが分かる。
昭和2年の年頭にあたって賢治が立てた一年の計「本年中セロ一週一頁」だったが、計画どおり取り組んではみたもののその腕前は一向に上がらない。これではならじと思い立って昭和2年の11月頃、少なくとも三カ月間滞京しながらチェロの先生について本格的にチェロを習おうと決意して上京したと考えられる。
だが、滞京中毎日やっていたその学習は、最初はボーイングだけ、「右手」の勉強だけだった。そして次がやっと糸をはじくことであったということをこの証言は示唆している。とてもではないが「左手」の学習であるポジションの学習には達していなかったであろう。おそらく、澤里武治の証言「そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いて、ゾッとするような思いをしたものです」どおりだったのであろう。
なんとなれば以前にも触れたように、チェリストの西内荘一氏(元新日本日本フィルハーモニー交響楽団主席チェリスト)でさえも、
遅く始めているからできないのは僕だけですし、指の骨が固くなってますから思ったようには弾けないし、いやになってレッスンに行かないことがあったり、食事も喉を通らず、体重が三十キロぐらいになってしまって、部屋にこもってただチェロばかり弾いているというような精神的にもおかしい時期もあったと思います。
<『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』 (中丸美繪著、新潮文庫)156pより>と述懐しているからであ。賢治の場合はなおさら推して知るべしである。
となれば、澤里の証言、
先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
は否定できなかろうし、かつての『賢治年譜』はおしなべて、昭和3年1月 …栄養不足にて漸次身體衰弱す。
とあったことはこの澤里の証言「お疲れのためか病気もされた」をまさしく裏付けていることになりそうだ。
つまり、賢治は昭和2年の11月頃に上京して、「予定の三ヵ月」より少し早めに帰郷したと澤里は証言している訳だから、その帰郷はほぼ昭和3年1月頃となろうし、その頃の賢治はかつての「賢治年譜」で「漸次身體衰弱」となっていたのだから時期的にも見事に符合しているし、その身体症状も似ているからであるからである。
◇やはり賢治は昭和2年の11月頃に上京、その後約三カ月間滞京していた。
となるのではなかろうか。
「現定説❎」の自家撞着
ここまでの考察により、『岩手日報』連載された『宮澤賢治物語(49)、(50)』もまた「仮説♣」を裏付けているということを私は確信した。また、この『宮澤賢治物語(49)、(50)』をそのまま素直に用いれば多くのことを全く合理的に説明できるということも分かった。
例えば、だから賢治は少なくとも「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃の間の約三カ月間」の賢治は詩を全く詠んでいなかったのだ。その約三カ月間、賢治はチェロを猛勉強をしていたがために多忙であり、詩を詠む余裕などはなかったからだ、というようにだ。
一方で、『宮澤賢治物語(49)、(50)』は「現定説❎」の反例となっているのではなかろうかということにも気付かされる。「現定説❎」は『宮澤賢治物語(49)、(50)』の一部を使って構成されているが、「不都合な部分」には頬被りしているという指摘をされかねない。なぜならば、そのような部分、
・少なくとも三カ月は滞京する。
や
・先生は三カ月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
の部分については「新校本年譜」では一切の言及がなく、「現定説❎」では無視されているからである。
ところがこれを無視しないとなると「現定説❎」は矛盾を来し、自家撞着現象を起こす。『宮澤賢治物語(49)、(50)』に基づきながら、それによって「現定説❎」自身の辻褄が合わなくなってしまう、つまり、典拠自体が反例になっているのである。
言い換えれば、この『宮澤賢治物語(49)、(50)』等を素直に生かして合理的に推論すれば、
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、三カ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。 ………………♣
という結論に達せざるを得ないし、こう結論すれば他の証言や資料とも何ら矛盾を来さなくなる。これが現時点での私の最終的結論である。自説を修正したのか
ところで、横田庄一郎氏は、
花巻駅まで賢治のチェロをかついで見送った澤里武治の記憶は「どう考えても昭和二年十一月頃」であった。…(中略)…だが、晩年の澤里は自説を修正して自ら講演会やラジオの番組でも「大正十五年」というようになっている。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)68pより>ということを理由にして、霙の降る日にチェロを持って上京する賢治を澤里が一人見送ったのは「大正十五年十二月」のことであると判断している。
ここで私は不安におそわれる。はたして澤里が晩年「大正十五年」と言っていたのは、自分の証言「どう考えても昭和二年十一月頃」が記憶違いであったことを晩年になって認めて修正したからなのだろうか、という不安にである。
一方で、横田氏の前掲書には次のようなことも記されている。
澤里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた。あれほど目をかけてくれた賢治に都合の悪いことはいわない方がいい、と思っていたのかもしれない。しかし、澤里はその晩年に賢治の弟清六さんの許しを得てから、ありのままの賢治を話すことにしたという心境の変化があった。いたずらに美化し、祭り上げていくほうが、よほど問題だ。そういう賢治は敬遠されるようになるだけだし、裸の賢治は十分過ぎるほど人を魅きつけてやまない。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)116pより>このことに従えば、澤里はある時点から晩年のある時点までは賢治に関する発言を封印していたということになる。そういえば以前にも触れたことだが、澤里武治の長男裕氏が、
父は一般的には公の場で賢治のことをあれこれ喋るようなことは控えていた。
と私に教えてくれたことがあった。また同様に、板谷栄城氏が『賢治小景』が述べていた『「私にとって賢治先生は神様です!不肖の弟子の私に、神様を語る資格はありません!」と言ったきり口をつぐんでしまいます。』という澤里のエピソードを思い出してみれば、澤里が一時期緘黙していたのも宜なるかなと思う。
それが再び賢治のことを澤里が語り出したのは宮澤清六の許しを得てからだということになる。ということは、単に「澤里は賢治を尊敬するあまり、…思い詰めていた」のではなくて、それ以外にも賢治のことを澤里が語ることを躊躇わせるものがあったということであろう。だから、澤里が後に語り出したということは、澤里の矜恃と気骨であったかもしれない。
あまりにも理不尽
さて、昭和31年に『岩手日報』紙上に連載された『宮澤賢治物語』において公に紹介された『宮澤賢治物語(49)、(50)』であったが、それが昭和32年に単行本として出版された段階ではこの証言は意味が全く逆になるように改竄されたということは以前に詳述したところである。
心の底では、「どう考えても昭和二年十一月ころ」のことであったと確信していたと思われる澤里武治にしてみれば重ね重ねの衝撃であり、さぞかし忸怩たる思いであったであろう。 そもそも、昭和2年11月頃ならば澤里は花巻農学校3年生の時であり、大正15年12月ならば同2年生の時である。多くの人の場合にそうだと私は思うのだが、ひと月やふた月のずれならいざ知らず、印象に強く残っている高校時代などのエピソードが何年生の時だったかということは峻別し易いものである。それゆえにこそ、澤里は「どう考えても昭和二年十一月頃」と言ったのであろう。つまり、「どう考えても」というこの表現こそが澤里のその確信をいみじくも物語っていると私には見える。
ところが、その挙げ句、澤里は当時通説となっていなかった「宮澤賢治年譜」を基にして証言することを迫られた節がある。さらには澤里のその証言が後に彼のあずかり知らぬところで改竄されたりしていることを知ったならば、まさしく横田氏や板谷氏が伝えているように「澤里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた」のも宜なるかなと私には思える。そしてそれからというもの澤里は賢治に関しては緘黙するようになったと私は推理する。
したがって、なにも澤里は晩年になって自説を修正したという訳ではなくて、その頃には既に宮澤賢治の「現定説❎」が定着して、霙の降る日にチェロを持って上京する賢治を一人澤里が見送ったという「事実」は大正15年12月2日のことであるとなってしまったので、万やむを得ずそうするしかなかっただけのことではなかろうか。まして、「先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました」という極めて重要な証言は、「現宮澤賢治年譜」にはどこにも書かれていないし、そのことはだれも問題にしなくなったからであろう。
これほどまでに、自分の証言がある部分だけ使われてその他の一部は無視されたり、改竄されたりしたとなれば、いかな賢治の愛弟子の澤里でさえも不本意ながら緘黙せざるを得なかっただけのことではなかろうか。もちろんこれはあまりにも理不尽な話であり、私は澤里に同情を禁じ得ない。一方で、晩年になってからは、それが決して賢治のためではないと思って「ありのままの賢治を話すことにした」という彼の心境の変化は私にもよく理解できる、それは澤里のせめてもの賢治に対する敬意と自身のプライドであったと私は思うからである。
一方、「現定説❎」に対する柳原の心中も正直穏やかならざるものがあったであろうこともほぼ明らかであろう。しかし、同級生や恩師のことを思って、思慮深い柳原は「○柳」を胸に秘めたままであったということではなかろうか。
H氏の単独担当
ところで、『修羅はよみがえった』には次のようなことが述べられていた。
そもそも旧校本全集第十四巻所収の年譜は、H氏(筆者による仮名化)の単独担当で、氏の多年にわたる努力、資料収集のつみかさね、「評伝」の刊行などの達成にもとづくもので…(中略)…
新校本全集でも、基本的に<H年譜>が土台となっている。
…(中略)…新校本全集は、H氏の記述を出来うる限り尊重しながら、出来るかぎりその出所出典を客観的に再調査・再検討し、さらに多くの新資料を博捜・校合してさまざまな矛盾点を解決し、解決しきれない事項は、本文から下段註へ移したり、場合によってはあえて削除して、出来る限り客観的に、信頼しうる年譜作成をめざした。
<『修羅はよみがえった』((財)宮沢賢治記念会、ブッキング)389p~より>新校本全集でも、基本的に<H年譜>が土台となっている。
…(中略)…新校本全集は、H氏の記述を出来うる限り尊重しながら、出来るかぎりその出所出典を客観的に再調査・再検討し、さらに多くの新資料を博捜・校合してさまざまな矛盾点を解決し、解決しきれない事項は、本文から下段註へ移したり、場合によってはあえて削除して、出来る限り客観的に、信頼しうる年譜作成をめざした。
これを見た時、「そうか、やはりそういうことだったんだ」と私は膝を叩いた。仄聞していたことではあったが、これで「旧校本年譜」はH氏の単独編纂だったことが確認できたからだ。そしてなおかつ、H氏は「新校本年譜」の編纂については直接タッチしていないということもこれでわかった。
だから、「新校本年譜」では
ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を大正一五年のことと改めることになっている。
<「新校本年譜」(筑摩書房)326p~より>
という奥歯に物が挟まったような表現がなされ、奇妙な処理がなされていたのだということに私は合点がいった。あの澤里武治の証言を「旧校本年譜」であのように扱ってしまった責めの多くはH氏にあったのだ。最初はそう思った。
そこで以前見たことがある「賢治年譜の問題点―H氏に聞く」を読み直してみた。するとそこには次のような「大正15年の年末の上京」に関するH氏自身の発言があった。
あのとき、セロの猛勉強をしていますが、その詳しいことをこの年譜には入れていない。そのことも気になっています。
<『國文學 53年2月号』(學燈社)176pより>
ということは、H氏自身も澤里の証言の使い方については気に掛けていたということだろう。おそらくH氏の言うところの「セロの猛勉強」とは澤里が証言するところの「三カ月間のそういうはげしい、はげしい勉強」のことであり、あの三日間の特訓でないことは明らかだ(三日間では猛勉強とはとても言えない)。
そしてH氏の「気になっています」の意味はおそらく、「澤里の証言の一部は使い他の一部は無視していることに呵責を感じている」という意味なのであろう。あるいは澤里に対してH氏は気が咎めていたということを正直に吐露していたということなのかもしれない。なぜならば、H氏には申し述べにくいことであるが、大正15年12月2日の「現定説❎」にはもともと澤里武治の証言を当て嵌めることはできないからであり、そのことに気付かぬH氏であるはずがないからである。
ところがここまで推論してきて私はふと立ち止まらざるを得なかった。H氏一人だけを論うわけにはいかぬのだ、ということに思い至ったからだ。なぜならば、『岩手日報』紙上に載ったあの『宮澤賢治物語(49)、(50)』のその後の改竄にH氏が直接関与などできる訳などないからである。
たしかに、次の二つ、
・「新校本年譜」の中の、澤里の言っている「どう考えても昭和2年の11月の頃」を大正15年とすること。
・『宮澤賢治物語』の中の、「昭和二年には先生は上京しておりません」を改竄して「昭和二年には上京して花巻にはおりません」とすること。
はその狙いが似ているとは思うが、それぞれに携わっている立場が違うからである。・『宮澤賢治物語』の中の、「昭和二年には先生は上京しておりません」を改竄して「昭和二年には上京して花巻にはおりません」とすること。
とまれ、この改竄をした、あるいはその指示をしたX氏が誰なのかが私には現時点ではわからぬから、その人のことがある程度わからぬうちは少なくともH氏を論うわけにはいかない。
せいぜい現時点で私が言えることは、仮説
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、三カ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♣
は検証に耐えることができたのでこれは歴史的事実だと確信しているということである。そして言いたいことは、X氏はこの「歴史的事実」は賢治のイメージとしては「不都合な真実」であると思い込んでいたのであろうということである。続きへ。
前へ 。
〝「菲才だからこそ出来た私の賢治研究」の目次〟へ。
〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
であり、その目次は下掲のとおりである。
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