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みちのくの山野草

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3676 「種蒔く人」とその運動(#1)

2013-12-08 08:30:00 | 賢治関連
《創られた賢治から愛すべき賢治に》

 さて、平井直衛が盛岡中学の英語教師の職を追われたのは、弟の荒木田家寿によれば、『種蒔く人』を初めて盛岡に持ち込んだためらしい。そこで先ずは過日、その『種蒔く人』が発行されたという秋田土崎を訪れ、秋田市立土崎図書館にお邪魔し、その2階にある『種蒔く人資料室』の展示を拝見。関連する資料等を閲覧させていただいた。
 残念ながら、平井直衛が雑誌『種蒔く人』の発行に携わった今野賢三や金子洋文そして小牧近江等とは直接的な接触があったのかなかったのかは掴めなかった。とはいえ、同館からは貴重な資料『「種蒔く人」とその運動』(今野賢三篇著、「種蒔く人」顕彰会発行)を譲っていただいたこと等もあり、この度の土崎訪問は私にとっては大変意義のあるものとなった。
 まず今回は、その際にいただいた〝『種蒔く人』創刊90周年記念資料展〟の際の冊子から少し紹介させていただく。
 その冊子の表紙には
 雑誌『種蒔く人』は、大正10年に、ここ土崎で生まれました。
 この雑誌は、プロレタリア文学の先駆けといわれるだけではなく、思想文化の総合雑誌ともいわれています。
 雑誌『種蒔く人』がまいた種は、「反戦・平和・平等」の思想として広い世界に広く育っていきました。
とあった。
小牧近江
 そして、この資料には例の
《土崎尋常小学校の同級生の三人(今野賢三、金子洋文、小牧近江)》

        <『「種蒔く人」とその運動-解説書-』(「種蒔く人」顕彰会)より>
が簡単に紹介されている。
 まずは小牧近江について。
 小牧近江
 明治27年5月11日~昭和53年10月29日
 南秋田郡土崎港町(現秋田市)永覚町に、近江谷栄次とサノの次男として生まれる。本名はこまき(投稿者註:すなわち〝近江谷こまき〟が本名である。なお、〝こまき〟は本来は漢字であり、それは駒に似ているが、つくりは〝同〟の字の〝-〟がないというものであり、その漢字は私の辞書からは見つからない)。土崎小学校卒業後、東京の暁星中学校に入学、4年で中退。明治43年16歳の時にブリュッセルで開催された第1回列国同盟会議に出席する父栄次に伴われて渡欧、パリに一人残り、国立アンリ四世校に入学。
 大正8年まで世界大戦時下のパリに住み、その間クラルテ運動のヒューマニズム、反戦、平和主義にふれる。帰国し、外務省勤務後、土崎小学校で同級生だった金子洋文と再会し、雑誌発行の計画を立てる。土崎版、東京版『種蒔く人』発行推進の中心となって活躍する。
ということや、次のようなエピソードもその資料には載っている。
 アンリ四世校に入学した小牧はフランス語習得のため8、9歳のクラスに編入。
 アンリ四世校に入学したが、1年半後送金がとだえ、放校され、公園のベンチで寝たり、皿洗い、大使館ボーイとなって苦学しながら、パリ大学法学部に入学する。そこで「バリュビュスの反戦思想」と出会う。
 1919年 パリ講和会議開催
 フランス語が達者だった小牧は日本全権団の事務嘱託となり、首席全権の西園寺公望、吉田茂、松岡洋右、近衛文麿らと知り合う。

 なお、小牧近江の伝記等に関しては北条常久氏の『種蒔く人 小牧近江の青春』(筑摩書房)等に詳しく述べられている。 

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『賢治が一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』   


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