みちのくの山野草

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2 当時の賢治の心境上から

2024-08-18 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

2 当時の賢治の心境上から
 さて、当て嵌めることができないという点で言えば何も時間軸上のみならず、賢治の心境上から考えても当て嵌めることができないのではなかろうか、と私は推測している。

 当時の賢治の心境を忖度
 先に、大正15年12月2日の「現定説❎」の典拠は澤里の証言、すなわちあの『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」であることが明らかになったのだから、「現定説❎」は次のように修正されたものでなければならない。
 大正一五年一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
 つまりこのように、「少なくとも三か月は滞在する」が削除されていない形に修正されねばならない。なんとなれば、澤里は「澤里武治氏聞書」の一次情報で、
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滯京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花卷驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…筆者略…滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
          〈『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~〉
と言っている訳だし、この文言は極めて重要なことを語っているからである。

 (ア) 〔集会案内〕
 そこで、まずは当時の賢治の心境を探ってみよう。
 さて、大正15年の旧盆16日(8月23日)に賢治は羅須地人協会を発足させたと一般に言われてはいるようだが、実際にはその日に特別のことを協会員と共に行ったということはなさそうである(『私の賢治散歩(下巻)』(菊池忠二著)167pより)。
 その具体的な最初の賢治の動きは、それからしばらく経った同年11月22日にあの〔集会案内〕を下根子桜の宮澤家別宅の隣人、伊藤忠一のところに持参した上で配布を依頼したことであろう。それは謄写版刷りのものでその内容は次のようになっているという。
一、今年は作も悪く、お互ひ思ふやうに仕事も進みませんでしたが、いづれ、明暗は交替し、新らしいいゝ歳も來ませうから、農業全体に巨きな希望を載せて、次の仕度にかかりませう。
二、就て、定期の集りを、十二月一日の午后一時から四時まで、協会で開きます。日も短しどなたもまだ忙しいのですから、お出でならば必ず一時までにねがひます。辨当をもってきて、こっちでたべるもいいでせう。
三、その節次のことをやります。豫めご準備ください。
    冬間製作品分擔担の協議
    製作品、種苗等交換賣買の豫約
    新入会員に就ての協議
    持寄競売…本、絵葉書、楽器、レコード、農具、不要のもの何でも出してください。安かったら引っ込ませるだけでせう、…
四、今年は設備が何もなくて、学校らしいことはできません。けれども希望の方もありますので、まづ次のことをやってみます。
    十一月廿九日午前九時から
    われわれはどんな方法でわれわれに必要な科(◎)学をわれわれのものにできるか   一時間
    われわれに必須な化(◎)学の骨組み   二時間
  働いてゐる人ならば、誰でも教へてよこしてください。
五、それではご健闘を祈ります。       宮沢賢治

     <『宮沢賢治の世界展』(原子郎総監修、朝日新聞社)86pより>

 前述したように、一般には旧盆に立ち上げたと言われている羅須地人協会ではあるが、その後は農繁期で忙しかったためなのであろうか特別に羅須地人協会としての活動はなかったようだ。が、やっとのことで(いよいよ農閑期が近づいてきたからだろうか?)具体的な活動を始めようとしてこの〔集会案内〕の配布を依頼したのであろう。
 ところで今まで私は、この案内状は配布を依頼された伊藤忠一が近隣の人に配っただけであろうと認識していたが、賢治はもっと手広く案内していたということを新たに知った。それは、たまたま見ていた『宮沢賢治学会 イーハトーブセンター会報 第16号●黄水晶』によってである。
 そこには栗原敦氏の「宮沢賢治資料24/書簡(四通)」が載っていて、次のようなことが述べられていたからである。
Ⅰ〔大正十五年十一月〕佐々木実あて封書〔集会案内〕
二重封筒…消印は「岩〔?〕・〔花〕巻 15・11・〔?〕后0-〔?〕」。…従来、羅須地人協会関係稿中の〔集会案内〕として知られてきたものと同じ謄写印刷物であり、掲出は省略するが、この年十二月の上京の直前、それも十一月中に作られたことも明らかで…本書簡で実際に投函されていたことも確かめられたわけである。

       <『宮沢賢治学会 イーハトーブセンター会報第16号 ●黄水晶』19pより>

 という訳で、この〔集会案内〕は郵送もされていたのだった。この宛先の八重畑村の佐々木実とは、同会報によれば大正十四年三月卒業の花巻農学校四回生であるという。また「八重畑村」とは現在の石鳥谷八重畑のことだろうから、下根子桜から遠隔の地にいた佐々木のような教え子のような場合には郵送で案内したということなのであろう。
 よって、以上のことから当時の賢治の心境を忖度すれば、いよいよこれで念願の「定期の集り」を開催し、農民講座の講義ができる時機が到来したということで賢治は相当意気込んでいたと言えるのではなかろうか。それはこの〔集会案内〕の中身からだけでなく、近隣の教え子や篤農家に広くその〔集会案内〕を配布しようとしたのみならず、遠くの教え子にはそれを郵送していたという事実からも窺える。

 (イ) 講義予定表
 さらには、『イーハトーヴォ第六號』の中に伊藤忠一の回想「地人協會の思出(一)」があり、その後半部分にに次のようなことが記されていてる。
 又講義に對する豫告表は靑インクで厚い用紙の裏面に印刷されたものでした。此の中に書かれた日割や時間は全く忘却して記憶にありませんでしたが、高橋慶吾様が、大切に現存さしてゐるので拝借して次に掲載しました。
 一月十日(新暦)農業ニ必須ナ化學ノ基礎
 一月廿日(同上)土壌學要綱
 一月丗日(同上)植物生理要綱上部
 二月十日(同上)同上
 二月廿日(同上)肥料學要綱上部
 二月廿八日(同上)同上 下部
 三月中 エスペラント地人學藝術概論
 午前十時ヨリ午後三時マデ参觀も歡迎昼食持參

    <『イーハトーヴォ第一期』(菊池暁輝著、国書刊行会) 37pより>
 このような綿密な講義プランを立てていたということからしても、賢治はこの当時は相当熱い想いで協会員等に対して農民講座を計画的に開こうとしていたと考えられる。

 (ウ) いくらなんでも
 かつて私は次のように解釈していたこともある。
 大正15年12月2日に賢治は澤里武治に「澤里君、セロを持って上京してくる…少なくとも三か月は滞在する」と言って上京したのではあったが、賢治は天才であるから「熱しやすく冷めやすい」性向があるのでそんなことはけろっと忘れてしまって、1ヶ月も経たずに帰花した。
と。こうとでも考えなければ澤里武治の例の証言と「現定説❎」との間にはあまりにも大きな矛盾が存在することになるからである。
 実際、他ならぬ関登久也が次のように述懐していることからも、賢治のこの言動はあり得たと私は認識していた。
 賢治の物の考え方や生き方や作品に対しては、反対の人もあろうし、気に食わない人もあろうし、それはどうしようもないことではあるが、生きている間は誰に対してもいいことばかりしてきたのだから、いまさら悪い人だったとは、どうしても言えないのである。
 もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日するとすっかり忘れてしまったように、また別な新しい計画をたてたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあった。
<『新装版 宮沢賢治物語』(関登久也著、学研)13p~より>

 しかし私が以前このように認識していたのは、あくまでも賢治の昭和2年11月頃の上京はないものと決めつけていたがゆえにである。でも今はもう違う、この時期の上京もあり得るのだと悟った。
 それゆえ、前掲のような佐々木実宛書簡の存在を新たに知ったことと当時の賢治の羅須地人協会の活動に掛ける熱い想いに鑑みれば、いくらなんでも次のような、
・11月29日に念願の羅須地人協会講義を行い、
・12月1日には羅須地人協会定期集会と持寄競売を開催し、
・併せて明けて1月~3月までの講義予定を立てて告知した。
であろう賢治が、舌の根も乾かぬ12月2日にすっかり心変わりしてしまって、「澤里君、セロ持って上京してくる、今度はおれもしんけんだ。少なくとも三か月は滞在する」と言って上京してしまった、というようなことはいくらなんでもあり得ないだろう。
 したがって、賢治の当時の心境上から言っても、大正15年12月の上京の際に賢治がこのような言動をする訳がないと言えるだろう。言い方を換えれば、もしこの「少なくとも三か月は滞在する」ということをこの上京の際に賢治が澤里に言っていたとすれば、そのことによって「現定説❎」は自家撞着を来たしている、と私は思うのである。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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