【『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)昭和52年】
ところで、筑摩書房から刊行された問題作
【1『事故のてんまつ』(臼井吉見著)奥付】
は一九七七年(昭和52年)の発行だ。そして同年に同じく筑摩書房から出たものの一つがこの『校本宮澤賢治全集第十四巻』である。
【2『校本宮澤賢治全集第十四巻』の奥付】
さてこの『第十四巻』の目次には、私は以前からかなり違和感があった。
【3『校本宮澤賢治全集第十四巻』の目次】
それはもちろん、同巻のメインは「宮澤賢治年譜」であるはずなのに、「補遺」の方が巻頭にあるからだ。そしてこの度、この頃既に筑摩書房は経営が傾いてきていたということを知ってしまったならば、このような構成は、筑摩書房としてはこの「補遺」によって世間の注目を浴び、経営危機に陥っていた同社を建て直そうと思っていたからだということが論理的には十分あり得るなと、つい勝手な想像をしてしまった。
次にこの「本文補遺」を一部抜き出してみるとそれはこんなものだ。
【4 本文補遺(抜粋)】
〈『校本宮澤賢治全集第十四巻』34p〉
そしてよく見てみると、極めて興味深い書き方が為されている。それは賢治の書簡に関してであり、その中でも特に大きく扱われているのが、
【5 書簡(下書)252c】
〈同31p〉
だ。さて、何故「書簡(下書)252c」が興味を引くのかというと、
【6 「新発見の書簡(下書)252c」の備考】
〈同28p〉
【7 同一部拡大】
〈同28p〉
にはこのように、「新発見の書簡(下書)252c」というセンセーショナルな表現が用いられているからだ。まるで、「補遺」を巻頭においたわけを、このセンセーショナルな表現「新発見の」が暗示したがっているように私には見える。
その上に、この「新発見の書簡(下書)252c」に関しては問題となることが他にもある。それは、
【8 「判然としている」】
〈同34p〉
というように、「本文(前掲【5 書簡(下書)252c】のこと)としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」と書いているが、「内容的に」の「内容」が具体的にどのようなものかも明示せず、しかも、「高瀬あてであることが判然としている」の根拠も示さぬままにあっさりと「断定」しているものにすぎない。それこそ、読者にとっては 判然としていないことが「判然としている」だけだからだ。
それにしても、あの筑摩書房が当時、「新発見の」とセンセーショナルな表現を用いたり、読者にとっては判然としていないのに「判然としている」と強弁しているのは何故だったのだろうか。多くの文学全集を出し続け、個人全集を出し続け、多くの読者からの支持も厚かった、硬派とも言える、そうそう筑摩の教科書で私は習ったこともあるというのに、筑摩書房らしさはどこへ行ってしまったのか、と私はがっかりしてしまう。しかも、天沢氏や堀尾氏の証言によれば、「新発見」は捏ちあげだったと判断せざるを得ない。
そこへもってきて、その頃の筑摩書房が経営危機に陥っていたことを私はこの度知り、その頃に問題作『事故のてんまつ』を出し、それに伴う「絶版回収事件」があったことも知ってしまうと、「筑摩書房さん一体全体どうしたんですか」と、まことにやるせなく、残念な気持ちになってしまう。
そして否が応でも、この『事故のてんまつ』出版と〝「新発見の」&「判然としている」〟とはますます同じ構図をしていそうだということに気付かされる。どうも、「絶版回収事件」と「露の濡れ衣」とは、同根に見えてきた。
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