《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)
四 『校本全集第十四巻』も『事故のてんまつ』と同じ
そう考えていたのだが、あることが切っ掛けで私はその考え方を変えた。俟っていてばかりではいけないのだ、とである。
それは、筑摩書房の社史に、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」と書いてあったことを知ったことによってだ。それも、「腐っていました」ではなくて、「腐りきっていました)」と書いてあったからである。
そんなある日のこと、私はこのことに関して高橋征穂(露草協会会長、古書店「イーハトーブ本の森」代表)先輩と話し合った。
鈴木 ところで、筑摩書房は一度倒産したということですが。
高橋 そうだったな。あれはいつ頃だったかな。
鈴木 実はこの度このような本、筑摩の社史『筑摩書房 それからの四十年』を手に入れました。これによるとここに、
一九七八(昭和五三)年に筑摩書房が「倒産」
と書いてあります。
高橋 昭和53年のことだったか。そうそう、その頃の筑摩はどうかしていた。臼井吉見が、川端康成の自殺を題材にした小説『事故のてんまつ』を筑摩から出版したのだが、それが問題作で、筑摩と川端家との間ですったもんだがあったりしたからな。
鈴木 その出版は昭和52年ということでした。しかも同社史には、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」と、はっきりと書いてありましたので、まさに「腐りきって」いた昭和52年の出版だったのだと知り、私は愕然としました。
高橋 おぉ、「筑摩書房は腐りきっていました」と書いてあったか。自社の社史によくぞそこまで書けたな。ある意味、感嘆する。となれば、筑摩は昭和53年に倒産したのだし、昭和52年は倒産直前となる。しかもあの『事故のてんまつ』は臼井吉見らしからぬちょっとお粗末な作品だったから、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきって」いたことの一つの現れだったとなりそうだ。
なお、この件については川端家側からクレームがついて、筑摩は同書を絶版回収にし、謝罪するということで川端家側と和解したはずだったが。
鈴木 はい、私はそんな「絶版回収事件」があったということは今まで全然知らなかったのですが、そうなったようです。
ところで、『事故のてんまつ』が出版された52年に、同じく筑摩から出版された賢治関連の本がありますが、さてそれは何でしょうか。
高橋 その頃といえば、旧校本全集が出版されていた頃だから、その第何巻かだろう。
鈴木 はいそのラスト、第十四巻です。
どうも「新発見」とは言い難く、そうではなくて、高瀬露が亡くなるのを待って公表したとつい思いたくなってしまうんですが、「新発見の書簡252c」とセンセーショナルに表現して、関連する賢治の書簡下書群を公にした第十四巻です。
のみならず、一般人である女性「高瀬露」の実名を顕わに用いて、「252cは内容的に高瀬あてであることが判然としている」と、その客観的な典拠も明示せずに、一方的に決めつけた第十四巻です。
そのあげく、「推定は困難であるが、この頃の高瀬との書簡の往復をたどると、次のようにでもなろうか」と前置きして、「困難」なはずのものにも拘わらず、想像力豊かに推定し、スキャンダラスな表現も用いながら、人権侵害等の虞がある推定を延々と繰り返した推定群⑴~⑺を公開した同巻です。
つまり、第十四巻はとんでもない横車を押していたのです。
高橋 おっ、かなり怒り心頭だな。
鈴木 だって、この「新発見の書簡 252c」等の公開と、「絶版回収事件」はともに倒産直前の昭和52年に起こっていることを始めとして、ほぼ同じ構図にあります。だから、『事故のてんまつ』の出版と同様に、「新発見の書簡 252c」等の公開も「腐りきって」いたことの一つの現れだと私は言いたいのです。
高橋 はたしてそこまで言えるかな。
鈴木 はい。その他にも次のようなことが言えるからです。
・両者とも、当事者である川端康成(昭和47年没)、高瀬露(昭和45年没)が亡くなってから、程なくしてなされました。
・その基になったのは、ともに事実ではないです。前者の場合は「伝聞の伝聞そのまた伝聞」で、後者の場合は賢治の書簡下書を元にして、推定困難なと言いながらも、それを繰り返した推定群⑴~⑺だからです。
・ともに、故人のプライバシーの侵害・名誉毀損と差別問題があります。
・ともに、スキャンダラスな書き方もなされています。
よって、この二つはほぼ同じ構図にあります。・その基になったのは、ともに事実ではないです。前者の場合は「伝聞の伝聞そのまた伝聞」で、後者の場合は賢治の書簡下書を元にして、推定困難なと言いながらも、それを繰り返した推定群⑴~⑺だからです。
・ともに、故人のプライバシーの侵害・名誉毀損と差別問題があります。
・ともに、スキャンダラスな書き方もなされています。
高橋 分かった分かった。ということであれば、たしかにそう言えるだろう。しかし、『事故のてんまつ』の出版は「腐りきって」いたことの一つの現れだとしても、『校本全集第十四巻』の出版までもがそうだったとは言い切れんだろう。
鈴木 そこなんです。実は、「新発見の書簡 252c」等の公開と似たような問題点が第十四巻には他にもあります。
例えば、『新校本年譜』の大正15年12月2日について、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。……高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
〈『新校本年譜』325p~〉*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
という記載があります。
高橋高橋 なになに、「……要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という、なんとまあ奇妙な理屈でもってして、他人の記述内容を一方的に書き変えていることよ。ここでもまた、無茶な横車を筑摩は押していたのか。
しかし、これは『新校本年譜』においてであって、『校本全集第十四巻』においてではないんだろう。
鈴木 そうなんですが、その第十四巻の大正15年12月2日の記載もこのとおりで、
セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。……沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)600p>となっており、実質的に全く同じ内容です。
しかも、よくよく調べてみましたならば、この内容の記載が「賢治年譜」に初めて現れたのは第十四巻でです。
高橋 ということは、昭和52年発行の第十四巻は、「大正一五年のことと改めることになっている」という横車を押して、「昭和二年十一月ころ」という証言を一方的に書き変えたということか。これじゃ、これも「倒産直前の筑摩書房は腐りきって」いたことの一つの現れだと言われても致し方がなかろう。
この調子では後から後から似たようなことが出て来そうな虞があるから、「腐りきって」の「きって」の意味するところはそういうことかもしれんな。
鈴木 なるほど、そういうことなのですね。
高橋 とまれ、第十四巻では、先の「新発見の書簡 252c」等の安易な公開のみならず、他人の証言内容を勝手に書き変えていたということもあったのだから、こうなってしまうと、第十四巻の出版も「腐りきって」いたことの一つの現れだと言われても致し方がなかろう。言ってみれば、
『事故のてんまつ』の出版も、『校本全集第十四巻』の出版も、ともに「倒産直前の筑摩書房は腐りきって」いたということをはしなくも証明している。
ということ。要は、『校本全集第十四巻』も『事故のてんまつ』と根っこは同じ。
だということだ。
鈴木 たしかにそうなりますよね。となれば、『事故のてんまつ』については絶版回収をして、「総括見解」も公にして詫びたわけですから、それと同様に、第十四巻についての「総括見解」も是非公にしてもらいたい、と私は筑摩にお願いしたいのですが。
高橋 たしかに、そうでなければ不公平だ。
しかしこの社史を見ると、『事故のてんまつ』の担当編集者原田奈翁雄は、
今回の経験を通じて、私どもは言論・表現・出版の自由を守ることの意味の深さをあらためて痛感すると同時に、その自由を守るためには、強い自恃と厳しい自戒の一層深く求められることを学び得たと考えております。
とか、 原稿を目の前にしてそのような編集者の作業こそ、実は作家にとってもなくてはならぬ協力なのである。私の原稿の読み方は、その点において大いに欠けるものであり、いたらぬものであったというほかない。
〈『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩選書)112p~〉と述べており、己と自社を厳しく総括し、公的にも詫びているではないか。
となれば、第十四巻の担当編集者等もその後同様に厳しく総括していたのではないのか。
鈴木 残念ながらそういうことはなさそうです。というのは、大正15年12月2日の「賢治年譜」の記載が、先に引用しましたように、昭和52年出版の第十四巻でも、平成13年出版の『新校本年譜』でも実質的には全く同じ内容ですから、総括などはしておらず、横車を押したことについては素知らぬふりをしているということになるのではないでしょうか。
それは、「「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」と書いておきながら、本来は書かれるべきはずの「少なくとも三か月は滞在する」という証言部分を両者とも書いていないことからも明らかだと思います。
高橋 そっかそっか。ということは、『新校本年譜』が、「……改めることになっている」というまるで他人事かの如き表現を用いていたのは、『新校本年譜』の担当者が、『旧校本全集第十四巻』の年譜担当者の記載に対して遠慮があって、おかしいとは言えなかったということの裏返しか。
鈴木 なるほど、その可能性大ですね。
高橋 もしかすると確信犯かもしれんぞ。
鈴木 あっ、そう言われて気付いたのですが、このことに関連している、『校本全集第十三巻』の次のような「注釈*5」があります。
*5 ……さらに沢里武治が大正十五年十二月の上京時に一人で賢治を見送った記憶をもつのに対し、柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている。これらのことから、チェロを習いに上京したことが、昭和二年にもう一度あったとも考えられるが、断定できない。
<『校本宮澤賢治全集 第十三巻』(筑摩書房)569p>これは、宮澤政次郎宛書簡221の中の注釈なのですが、「柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている」というのです。この注釈に従えば、柳原は上京する賢治を送ったことがあるということになります。ということであれば、第十三巻が「昭和二年にもう一度あったとも考えられるが」と問題提起をして、なおかつ「断定できない」と断り書きをしているわけですから、関係者はそのことを次回への大きな課題だと認識していなかった訳がないはずです。
しかし、その課題に筑摩書房が真剣に取り組んだことを裏付けてくれる客観的な資料等は見つかりません。ちなみに、
『旧校本全集第十三巻』(書簡篇)の発行は昭和49年
『新校本全集第十五巻書簡校異篇』の発行は平成7年
柳原昌悦(平成元年2月12日没)
沢里武治(平成2年8月14日没)
ですから、『旧校本全集』発行~『新校本全集』発行の間には時間的にかなり余裕がありました。『新校本全集第十五巻書簡校異篇』の発行は平成7年
柳原昌悦(平成元年2月12日没)
沢里武治(平成2年8月14日没)
一方で、「羅須地人協会時代」の賢治の上京について、柳原昌悦が、
〈『本統の賢治と本当の露』147p〉
ということを、柳原と職場の同僚であった菊池忠二さんに教えてくれたそうです。
よって、筑摩が本気で調べようとすればかなりの程度のことを沢里や柳原本人からも直接訊くことだってできたはずです。ところが現実は、この『新校本全集 第十五巻書簡校異篇』の「注釈*5」は、『校本全集第十三巻』の注釈と番号まで含めてまったく同じものであり、一言一句変わっていません。よって、これは、為すべきことが為されていないことの証左です。となれば、やはり確信犯ということか……。
高橋 やはり、筑摩には結構杜撰な点が残念ながらあるっていうことだ。
続きへ。
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〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
であり、その目次は下掲のとおりである。
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