みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1054 『土に叫ぶ』(その3)

2009-07-25 08:30:42 | Weblog
 本ブログの”『土に叫ぶ』(その2)”で松田甚次郎が『何回か下根子桜の賢治宅を訪れていたことになると私は考えている』と言ってはみたものの、その確かな裏付けが出来ないかなと思って他の書物を漁っていたならば、『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版)の”追想”の中に次のような松田甚次郎の文章があった。
    宮澤先生と私
                                松田甚次郎
 盛岡高等農林学校在学中、農村に関する書籍を随分と読破したのであるが、なかなか合点が行かなかった。が、或日岩手日報で先生の羅須地人協会の事が出て居つたのを読むで訪れることになったのである。花巻町を離れたある松林の二階建ての御宅、門をたゝいたら直に先生は見えられて親しい弟子を迎ふる様ななつかしい面持ちで早速二階に通された。
 明るい日射の二階、床の間にぎつしり並むでる書籍、そこに立てられて居るセロ等がたまらない波を立てゝ私共の心に打ち寄せて来る。東の窓からは遠く流れてる北上川が光って見えてる。ガラスを透して射し込む陽光はオゾンが見える様に透徹して明るいのである。
     (中略)
 かくして私共は、慈父に久し振りで会ふた様な、恩師と相語る様にして下さつたあの抱擁力のありなさる初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。
 それから度々お訪ねする機を得たのであるが、先生はいつも笑つてにこにこして居られ、文化はありがたいものだ、此処に居てロシアの世界的なピアノの名曲を聴かれるとてロシアの名曲を聴かしてくだされたり、セロを御自ら奏して下さつたものである。また階下に降つては、灰色の高いカーテンの側で農民劇の実演を説明なされたものであった、農民芸術概論の裡にある詞の「あの灰色の労働を燃やせ」の如くに、灰色のカーテンの前に、炬火として先生は燃えて説明されて居られたのである、火の玉となられて居つた、そして、しづかな笑顔で色々と事細かく語られる御姿が今も眼に浮かぶのである。
     (以下略)

 この文章を見て、『やはりな』とつい嬉しくなってしまった。
 まず、”或日岩手日報で先生の羅須地人協会の事が出て居つた”の『或日岩手日報』とは”『土に叫ぶ』(その2)”で触れたように大正15年4月1日付けの岩手日報の朝刊のことであろう。そして、この朝刊を読んで下根子桜の賢治宅を訪れたのが賢治との最初の出会いであることがこれで判る。
 そして、”それから度々お訪ねする機を得た”とあることから、その後甚次郎は何度かこの賢治宅(羅須地人協会)を訪れていたことがこれで確信できた。
 さらには、”『土に叫ぶ』(その2)”で半ば当て推量に『意識の高い松田のことだから』と言い切ってしまったのであれでよかったのかなと多少不安な気持ちでいたが、”盛岡高等農林学校在学中、農村に関する書籍を随分と読破したのであるが、なかなか合点が行かなかった”というこの文章の出だしを見てそれはでたらめではなかったということが解ったので安堵しているところである。

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