みちのくの山野草

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澤里武治の「証言」の初出

2017-12-23 09:00:00 | 賢治の目を見れますか
《賢治詩碑》(平成20年11月23日撮影)
 典拠であるという『随聞』を少し調べただけであやかしだということが直ぐ判るのに、なぜ賢治研究家は沈黙し続けているのだろうか? だから私は問いたい、「あなたは賢治の目を真っ直ぐに見れますか」と。

澤里武治晩年の自筆の資料
 私は先に〝典拠に素直に従えば何ら問題はない〟において、
 自分の証言を恣意的に使われたことに澤里武治が気付かぬはずもなく、彼の心境と無念さは如何ばかりであったであろうか。
と、澤里武治の気持ちを忖度したがそれはなぜだったのかというと、約一年前の平成28年10月17日に、武治のご子息裕氏から武治自筆(74歳頃に書いたという)の三枚、
(その一)「略歴」
(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」
(その三)「附記」
を私は見せていただいたからだ。
 もう少し具体的に言うとまず第一に、そのうちの〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟には、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
という記載があり、その年は大正15年としているが、あくまでもその月は「十一月」であり、武治は定説になっている「12月」とは書いていなかったからだ。
 そして第二に、〝(その三)「附記」〟には、
 先生の歿後その名声彌々高く 歌人関徳弥氏(歌集寒峡の著者)の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが 昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載され その中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
ということも書かれていて、実は「大正15年12月12日付澤里武治宛賢治書簡」があったのだがこれが行方不明になっているという。しかも、この書簡内容も、その存在自体すらも公には知られていないはずだからだ。
 そこで、武治には無念な思いがあったはずに違いないと私は直感したので、同時代の上京に関して再検証をせねばならないと思ったのだった。

 さて、『新校本年譜』では、
 (大正15年)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。
とし、その典拠は「『随聞』二一五頁」であるかの如くに註釈をしていて、それは以下のようなもので、
 沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
             〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
となっている。そして、『新校本年譜』の〝(大正15年)一二月二日(木)〟の典拠はこの「沢里武治氏聞書」であると註記されている。
 しかし、この『賢治随聞』の著者名は関登久也となってはいるものの出版年が昭和45年の出版だから、この本は関自身が出版したものではない。関は疾うの昔の昭和32年に既に亡くなっているからだ。ではなぜこんなことが行われたのかというと、森荘已池が書いた同書の「あとがき」が教えてくれていて、
 森荘已池が関の既刊の著作を、宮澤清六と懇談の上で改稿して出版したのが〝関登久也著『賢治随聞』〟である。
というのである。しかもこれに続けて森は、
 多くの賢治研究者諸氏は、前二著によって引例することを避けて本書によっていただきたい。
という懇願まで述べているのだが、なんとも奇妙なことだ。関登久也に対してあまりにも失礼であり不遜な謂(いい)だ。なぜならば、後述するが、「沢里武治氏聞書」の初出は『賢治随聞』ではないからだ。一方で、先の懇願を受けたかの如くに、『新校本年譜』はまさに本書によっていることがその註釈から判る。しかも初出でもないというのにである。

 ではその初出といえば、それは昭和23年2月発行の『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」であり、そこには、
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴァイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。そのとき花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。驛の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが、先生は「風邪を引くといけないからもう歸つてくれ、俺はもう一人でいゝのだ。」と折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此處で見捨てて歸ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつた。また先生と音樂について樣々の話をし合ふ事は私としては大変樂しい事でありました。滯京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことにだけ日々を過されたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸鄕なさいました。
 セロに就いての思ひ出のうちに特に思い出さるることは、先生は絶對に私以外の何人にもセロに手をつけさせなかつたことです。何か尊貴なものに對する如く、セロにだけは手を觸れさすことはありませんでした。
            <『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)60p~より>
となっている。

 それから、この『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』が日本現代詩歌文学館に所蔵されていて、その当該個所は以下のとおりである。
    三月八日
 確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村<*1>に於て農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居りましたからられました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三ヶ月は滞京する俺のこの命懸けの修業が、花を結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
其の時花巻駅迄セロをもつてお見送りしたのは、私一人でた。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待つて居りましたが先生は「風邪を引くといけないからもう帰つてくれ、俺はもう一人でいゝのだ。」折角さう申されましたが、こんな寒い日、先生を此処で見捨てて帰ると云ふ事は私としてはどうしても偲びなかつたし、又、先生と音楽について様々の話をし合ふ事は私としては大変楽しい事でありました。滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。
 最初の中は、ほとんど弓を彈くこと、一本の糸を弾くに、二本の糸にかゝからぬやう、指は直角にもつていく練習、さういふ事にだけ、日々を過ごされたといふ事であります。そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。セロに就いての思ひ出は、先生は絶対に、私にもセロに手を着けさせなかった事です。何かしら尊貴なものに対する如く、私以外の何人にもセロには手を着けさせるやうな事はありませんでした<*2>
             <『續 宮澤賢治素描』所収の「澤里武治氏聞書」の『原稿ノート』、日本現代詩歌文学館所蔵>
 そして、このノートの表紙には、
    〝1.續 宮澤賢治素描/昭和十九年三月八日
と書かれていてこの「昭和19年」と、前掲の澤里武治の記憶「歌人関徳弥氏(歌集寒峡の著者)の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが」の「昭和十八年」とがほぼ符合するから、その時に澤里武治が語ったことがこの『原稿ノート』に書かれたものであると判断しても間違いなさそうだ。 

深い闇がそこにある
 というわけで、
 澤里武治は始めから「確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます」と言っているのだから、かなりの確信を持って、「みぞれの降る寒い日」にチェロをもって上京する賢治をひとり見送った日は「昭和二年十一月の頃だつたと思ひます」と言っていていたことがわかる。しかも、「其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした」とその月は「十一月」だったと再度言っている。
のである。にもかかわらず、
(1) 『新校本年譜』は初出を持ち出すこともせず、まして、一次情報である『原稿ノート』を使うこともなく(見つけることもせず)、
(2) そのあげく、
 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。……①
と他人事のような扱い方をしている。
(3) さらに同年譜は、やはりその理由も示さずにその月までも「12月」に変えているのである。
(4) しかも、『随聞』の著者名は関登久也になっているが、実は関登久也が亡くなってから13年後に出版されたものである。
(5) なお、関登久也が存命中にこの「澤里武治氏聞書」はもう一度(『岩手日報』連載「宮澤賢治物語(49)」)、さらに亡くなった直後にも一度(『宮澤賢治物語』(岩手日報社版))の計2度既に活字になっているというのにもかかわらず、そのことにも『新校本年譜』は全く触れもせずに、上掲の〝①〟のようなことをしれっとして活字にしているという、摩訶不思議なことが起こっている。
(6) それだけではなく、後者の『宮澤賢治物語』(岩手日報社版)において、澤里武治の証言は著者である関登久也以外の何者かにの手によって改竄されてるということを私は明らかにできた(このことは後述する。もちろんそのことにも武治が気付かぬはずもない)。
 もはやこうなったしまうと、このことに関する深い闇をそこに感じてしまう。だから私は問いたい、「あなたは賢治の目を真っ直ぐに見れますか」と。

 それにしても、武治は自分の証言が恣意的に使われたり、あげく改竄までされたりしていることに当然気付いていたはず(『岩手日報』の連載「宮澤賢治物語」を貼り続けていた武治のスクラップブックを私は見せてもらっているからなおさらにそう思われる)で、彼の心境と無念さは如何ばかりであったであろうかと私はますます同情を禁じ得ない。察するに余りある。だから私は、先に
 自分の証言を恣意的に使われたことに澤里武治が気付かぬはずもなく、彼の心境と無念さは如何ばかりであったであろうか。
と忖度したのだった。

<*1:註> この「猫村」については、〝「三月八日」の原稿は誰が書いたか〟をご覧いただきたい。
<*2:註> 『賢治随聞』等には、
 セロについての思い出されることは、先生は絶対に私以外の何人にもセロに手をつけさせなかったことです。何か尊貴なもののように、セロだけは手をふれさすことはありませんでした。
              <『賢治随聞』(角川選書)216p>
となっているので、多くの方はこちらの方を「通説」と思っているはずだが、『原稿ノート』とはほぼ逆の意味になっている。

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