《ルリソウ》(平成31年5月25日撮影)
〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
先に、〈子どもたちに嘘の賢治はもう教えたくない〉
〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェロを猛勉強していたが病気となり、三ヶ月後の昭和3年1月頃に帰花した。
は、今後この反例が見つからない限りはという限定付きの「真実」となった、ということを論証した。 つまり、 賢治には昭和2年11月頃からの約三ヶ月間に亘るチェロ猛勉強のための長期滞京があった。…………☆
という、新たな真実を明らかにできた。なお今後、この〝☆〟のことを「賢治昭和二年上京説」と呼ぶことにする。一方で、この「賢治昭和二年上京説」に従えば、あの「三か月間の滞京」期間もこれで問題なく現年譜にすんなりと当て嵌まるので、先の致命的欠陥もこれで解消できた。よって、この〈仮説2〉の妥当性はほぼ揺るがないだろう。
では、なぜこの「賢治昭和二年上京説」が主張できるのかということを再度振り返ってみれば、このことの典拠となる一次情報が『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』であり、先に引例したように、このノートの冒頭に書かれていた件の武治の証言は次のようになっていたことを知ったからだ。
確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます。当時先生は農学校の教職を退き、猫村に於て、農民の指導は勿論の事、御自身としても凡ゆる学問の道に非常に精勵されて居られました。其の十一月のビショみぞれの降る寒い日でした。「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞険(ママ)だ少くとも三ヶ月は滞京する 俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。
……そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
〈関登久也の『原稿ノート』(日本現代詩歌文学館所蔵)〉……そして先生は三ヶ月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国なさいました。
これは同時に、『現 宮澤賢治年譜』の「大正15年12月2日」の定説、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る
が危ういということでもある。もはや前掲の「一次情報」はこの定説の典拠とはなり得ないことは明らかだらである。なぜならば、「確か昭和二年十一月の頃だつたと思ひます」とは言っているが、その時期は「確か大正15年12月のころだったと思います」とは言っていないからだ。しかも、この定説を裏付ける典拠(要は、この時に賢治が「セロを持ち」ということを裏付ける証言や資料)も、それらしいものさえも他には何一つ存在していないからである。にもかかわらず、『現 宮澤賢治年譜』の「大正15年12月2日」の「セロを持ち上京するため花巻駅へゆく」の典拠が、この「一次情報」の中のこの「セロを持ち單身上京なさいました」であるとすもしるならば、その中にある「三か月間の滞京」は『現 宮澤賢治年譜』には当て嵌められないことは既に〝『新校本年譜』大正15年12月2日に反例あり〟で示したとおりだ。要するに、「関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている」という処理の仕方はもともと無理筋なのである。
念のために確認しておくと 先に、〝〈仮説2〉の妥当性を裏付けているもの〟で明らかにしたように、
賢治に関する論考等において使える件の武治の証言としては、『賢治随聞』や〝(1)『宮沢賢治物語』〟に所収されているものは著者である関以外の人物の手が加わっている蓋然性が高いということが判ったから除外されるべきだ。逆に、最もふさわしいのはもちろん一次情報とも言える〝(3)〟であり、次にふさわしいのが初出の〝(2)〟に所収されているものである。
のである。畢竟、この〈仮説2〉に対する反例が今後提示されない限り、
・大正15年12月2日:〔柳原、〕澤里に見送られながら上京(この時に「セロを持ち」という保証はない)。
・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三か月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
が真相であったということになる。・昭和2年11月頃:霙の降る寒い夜、「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」と賢治は言い残し、澤里一人に見送られながらチェロを持って上京。
・昭和3年1月頃:約三か月間滞京しながらチェロを猛勉強したがそれがたたって病気となり、帰花。漸次身軆衰弱。
おのずから、『現 宮澤賢治年譜』、
は下表のような、
修訂の必要性があるということを迫られるのではなかろうか。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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