みちのくの山野草

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1711 「雨ニモマケズ」に関する細やかな仮説

2010-09-15 09:00:31 | 賢治関連
     《1 ↑『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店)上下巻表紙》

 以前”『宮澤賢治名作選』出来”で
 既に巷間知れ渡っていたはずの詩『雨ニモマケズ』のタイトルがこの『宮澤賢治名作選下』の目次では”手帖より”と言い換えられて、顕わに書かれていないことが不思議であり、気になるのである。
と述べたことがある。

 具体的に言えば、両者の目次を比べてみるとすぐ判る。それぞれ
《2 『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店、単行本タイプ)の目次の一部》

       ……
  老農
  北守将軍と三人兄弟の医者
  グスコーブドリの伝記
  農民芸術概論綱要
   (写真)筆跡
  雨ニモマケズ
  手紙一
  手紙二
  宮澤賢治略歴
  後記

《3 『宮澤賢治名作選 下』(松田甚次郎編、羽田書店、3分冊タイプ)の目次》

  詩八篇
  北守将軍と三人兄弟の医者
  グスコーブドリの伝記
  農民芸術概論綱要
  手帖より
  手紙一
  手紙二
  宮澤賢治略歴
  後記
となっていて、前者の「雨ニモマケズ」が後者になると「手帖より」と変更されている。もちろんこれらの本文の中身はまったく同じ、振り付けてあるページ数さえ同じであるのに…である。ちょっと不思議だ、何故なんだろうと訝しかった。

 それが、この度”松田甚次郎の貢献”を投稿するために『宮澤賢治名作選 上及び下』を見返していてあることに気がついた。
 それは、それぞれの奥付を比べてみてのことであった。
 まずはそのそれぞれの奥付きは以下のとおりである。
《4 『宮澤賢治名作選上』(3分冊タイプ)の奥付き》

《5 『宮澤賢治名作選下』(3分冊タイプ)の奥付き》

各々の発行等は
  上巻:昭和廿一年五月廿日 第十一刷發行  定価拾圓  紙の質は藁半紙程度
  下巻:昭和廿一年八月十日 第十一刷發行  定価九圓    〃
となっている。うっかりしていた『宮澤賢治名作選』は少なくとも終戦直後も発行されていたのだ !

 一方、目次が「雨ニモマケズ」となっている『宮澤賢治名作選』(単行本タイプ)の奥付きを確認してみよう。
《6 『宮澤賢治名作選』(単行本タイプ)の奥付き》

の発行等は
  昭和十七年十一月二十日 第十一刷發行 定価三圓  紙の質=上質紙程度 
となっている。もちろん第二次世界大戦中の発行日である。

 これらのことを確認していて2つのことに気が付き、それらに関する憶測が頭の中で駆け巡った。
 その一つ目は、大戦中の昭和17年には定価が3円であったものが、終戦直後の21年にはおそらく28円(上巻10円+中巻おそらく9円前後+下巻9円)に高騰したのにもかかわらず(終戦直後はかなりのインフレであったのではあろうが)、戦争中と同様に売れたのであろうということ。あるいは、大戦中以上に賢治の作品を人々は飢えた様に読みたかったのに違いないと。そのことは、《4 『宮澤賢治名作選上』》を見て貰えればお判りのように、本の裁断はとても杜撰で台形状であることからも窺える。見かけよりは中身が大切と、人々は先を争って『宮澤賢治名作選』を入手したかったのだろう。

 その二つ目は
   大戦中:「雨ニモマケズ」
   終戦直後:「手帖より」
という図式になるから、次の細(ささ)やかな仮説
 大戦中には広く知られていた「雨ニモマケズ」は、終戦直後はその使用がそのままでは憚られた。
を立ててもいいのではなかろうかということである。

 そういえば「雨ニモマケズ」は戦時中「国策」協力に利用されたことがあるとも聞いていたが、そのことがおそらく原因していたに違いない、そう思った。

 というわけで、次回はその検証を試みたい。

 続きの
 ”戦中戦後の「雨ニモマケズ」の扱われ方”へ移る。
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