みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

資料三 あまり世に知られていない証言等

2023-12-27 16:00:00 | 本統の賢治と本当の露
《『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ社)














 続きへ
前へ 
〝『本統の賢治と本当の露』の目次(改訂版)〟へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
  資料三 あまり世に知られていない証言等
・賢治が花巻農学校を辞めた際に、退任式等が行われたことを裏付ける資料や証言は何一つ見つからない。
・賢治は大正15年6月7日頃、五百二十円もの退職金を支給された。〈平成11年11月1日付『岩手日報』〉
・賢治、宮澤安太郎(賢治の従兄弟)、佐伯慎一(郁郎)、深沢省三、石川準十郎は皆「(東京)啄木会」の会員であった。〈『新校本全集第十六巻(下)補遺・伝記資料篇』〉
・佐伯郁郎は宮澤安太郎を介して賢治から『春と修羅』を贈られた。〈昭和7年6月24日付『岩手毎日新聞』〉なお同書は現在『人首文庫』に所蔵されている。
・石川準十郎は、賢治さんは「私が夏休みで帰盛するとときどきヒョッコリと私を油町のきたない家にたずねてくれた」とか「牧民会に出入りしていた」と証言している。〈昭和44年8月21日付『岩手日報』〉
・千葉恭は下根子桜での寄寓解消後、真城村折居の実家に戻って帰農し、地元の青年32名を誘って「研郷會」を組織した。甚次郎の「最上共働村塾」と似たようものであり、農村の隆盛と農業技術の向上により理想の農村を創ろうとした。甚次郎同様、「賢治精神」を実践しようと腐心したといえる。〈「宮澤先生を追つて㈡」〉
・あの「ライスカレー事件」が起こった時期は昭和2年の「雪消えた五月初めのころ」のことだという。〈『賢治研究6号』(宮沢賢治研究会)27pの高橋慶舟の証言)〉
・伊藤ちゑは大正13年から、スラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動をしていた『二葉保育園』に勤めていた。〈『二葉保育園八十五年史』〉
・ちゑは賢治との見合いについて、「私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ」と深沢紅子等に漏らしていたという。
・ある年の10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡が存在していて、そこには賢治と結びつけられることを拒絶するちゑの懇願も書かれている。
・『イーハトーヴォ第四號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)に載ってる、「賢治先生の靈に捧ぐ」と題した、
*君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
*ポラーノの廣場に咲けるつめくさの早池の峯に吾は求めむ
*粉々のこの日雪を身に浴びつ君が德の香によひて居り
等を含む五首の作者「露草」は高瀬露であると判断できる。
・『校本全集第十四巻』は「新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので」と断定的に、しかもさらりと述べている。ところが、それは「新発見」ということではなく、露の帰天を待ってしたことだというようなことを、堀尾青史や天沢退二郎氏が後に話している(本文132p参照)。
・菊池忠二著『私の賢治散歩 下巻』によれば次の通り。
 私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤(忠一)さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
 同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という。
 これと似たようなことは千葉恭も追想していて、「自分も徹底的にいじめられた」「松田甚次郎も大きな声でどやされた」〈『イーハトーヴォ』復刊2号〉ということだから、賢治は怒りっぽい面もあったと言えそうだ。
・賢治の教え子小原忠は、昭和2年の6月頃賢治の許を訪れた際に、「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない」と賢治が語ったと言っている。〈『賢治研究』39号〉
・昭和7年6月1日付〔森佐一宛〕書簡下書によれば、「羅須地人協会時代」の賢治は「玄米食」ではなかったことが判る。
・中舘武左エ門は佐藤金治(賢治小学校時代の担任八木英三のクラスの三人の秀才「三治」のうちの一人で、その中で一番成績のよかった級長)ととても親しかったと言っている。〈大正15年8月22日付『岩手日報』〉
・昭和3年夏に賢治が実家に戻った時になって、政次郎は賢治がチェロを持っていることを初めて知った。〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽の友社)〉
・賢治歿後に遺稿浄書、「宮沢賢治蔵書目録」作成、『歌と随筆』(賢治の『圖書館幻想』掲載)を発行した飛田三郎は、かつて高瀬露が勤務した寶閑小学校の教頭を勤めたことがある。〈『寶閑小学校創立九十一年』〉
‡‡‡‡‡‡‡ 
『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作鳥山敏子等)によれば以下の通り。
《朝倉六朗》(大正12年入学)の証言
 教科書以外の授業を10分間ぐらい時たまやる先生だった。あれ、余ってるんじゃなかったと思うんですよ。計画的に先生がそういうことをやったと思うんですよ。必ず本を読み出すと、その本の感想なんかを始終、こういう本の中にこういうことがあったということを、よく言われる人だったんですよ。
 これに対して鳥山が「覚えているのがありますか」と訊くと朝倉は、
 はっきり覚えてはいないけど、よくレーニンの話をしたんです。レーニンはこう言った。本当のレーニンの思想は今スターリンに引き継いでいないと。レーニンを尊敬したようなことを言って、本当はスターリンというのはレーニンの思想を本当に引き継いでいないというようなことを、あとちょっと聞いた気がしますね。だからあの頃の私にとっては、ずいぶん過激な話をするものだなと。
と答えていた。
《長坂俊雄》(大正11年入学)の証言
 ざまあみろ、というのは日本で一番悪いところ。人の不幸を喜ぶという。それを賢治は、社会主義者賢治がストップしてるもの。
というように、長坂はわざわざ「社会主義者賢治が」と言い直して、賢治が「社会主義者」と唐突に言っていた。
 したがって、教え子二人が似たような事を言っているし、しかも早坂の仕事は警察畑または検察畑だったから、この時強調した「社会主義者賢治が」については重く受け止めねばならないだろうし、信憑性が高いと推断できる。賢治本人がどうだったかはさて措き、賢治は周りの一部から、熱心で過激な「社会主義思想の持ち主」だと見られていたと言える。
《高橋謙一》(寶閑小学校、昭和3年3月卒)の証言
 1時から農事講演会をやるかって、この人が先に立ってやっても、田舎のことだからほれ、1時だってぱっとみんな集まらなかったんだもの。
 そこで小学校の教師だった高瀬露さんが時間がもったいないからと、宮澤先生にお願いして子どもたちにお話しを語ってもらうことにしました。
 花巻から来て、したらね、高瀬露先生、ほれ宮澤賢治先生と同じ豊沢町で、若い時から知っていたでしょう。露先生がもったいないって、ほれ学校で先生たちで話して。1時からだって、1時半から2時にならなければ農家の人たちは集まらなかったんだもの。それで宮澤先生は童話やってるからみんな集まる前に30分ぐらい子どもたちさ童話聞かせてもらったものな。
 私は、1年生から5年生か6年生まで、毎年農事講話で頼んだもんだから、それで宮澤先生のことを尋常小学校終わるまで、ほれ農事講演で来た時に、みんな集まるまで30分かそこら、1年生から6年生まで講堂に150~160人集まって。1年に3回~4回も来たっけ。
 まずみんな講堂に集まれば、右から左までニコッと笑って、子どもたちの顔を見て、今日は何の話をしようかなって、右から左まで子どもたちの顔を見て、ニッコリ笑って、自分が寶閑小学校へ行ったとか、この何月に行ったとか、こげな話したとか手帳さ書いてあったんだものな。
 高橋謙一は昭和3年卒だから、賢治と露はその5~6年前から既に直接話し合える間柄にあったということになりそうだ。高橋慶吾が露を羅須地人協会に連れて行った時がその始まりだという説もあるが、そうとも限らないということか。
《梅野健造》の証言
 この梅野とはどんな人かというと、大正15年18歳の時羅須地人協会を訪ね、主宰していた雑誌「聖燈」「無名作家」に寄稿してもらい、それ以降賢治とは深い交流が続いたという人だ。
 鳥山敏子の「昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取り調べを受けたのか」という問いに対して、梅野は「2回ほど花巻の警察にね」と答え、続けて以下の如く答えていた。
 私(梅野)は花巻警察署留置所に40何日間程入った。私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は。警察からいえばな。それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らしたわけだ留置所で。
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
 労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
 羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。 
 私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にね労りの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
 さて、この45日間にも及ぶ拘留は昭和3年に為されたものと、またそこを出たのは12月だったと判断できるから、この長期間の拘留理由はこの年10月に行われた陸軍大演習に関わるものであり、その夏に行われた凄まじい「アカ狩り」によってでったあったと判断できる。そしてこの梅野の証言によって、賢治はその際に警察に呼ばれたということもほぼ確かな事となった。
《照井保志(昭和3年3月卒)》の証言によれば、
 向こうの方から来たね、今お嫁さんに来て、今もう77~78ですよね、その人が言ってましたよ、 来た頃の賢治先生はさっぱり評判もなにも良くないんだって。立派な宮澤家にとついで来たのに、宮澤先生は気の毒だな、あれでは 宮澤家ダメになるダメになると、こう言われたんですよ。
 いや私は、ここのところから来た私は嫁なんですが、よそから来た私たちに、本当に宮澤家というあんな立派なところから、宝息子だね、本当にバカ息子が生まれて、まったく気の毒だ気の毒だとみんなが言っとたというけど、本当に言ってましたよ。
ということだが、第一五八回直木賞を受賞した門井慶喜氏は、受賞作品『銀河鉄道の父』について、
 誰もが知る賢治を扱うのは「固定観念との闘い」だった。世間の〝聖人伝説〟に「通俗的な人間だ」と異議申し立てをした。〈平成30年1月7日付『岩手日報』の「時の人」欄〉
と述べていたし、この『銀河鉄道の父』(講談社)の帯には「賢治はダメ息子!」とでかでかと印刷されていた。これでやっと、照井保志の語っていた「宝息子だね、本当にバカ息子が生まれて」というようなことが、世に憚ることなく言える時代になったと言えそうだ。 〈以上〉
******************************************************* 以上 *********************************************************
 続きへ
前へ 
〝『本統の賢治と本当の露』の目次(改訂版)〟
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
 
***********************************************************************************************************
《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イギリス海岸(12/25、前編) | トップ | 『本統の賢治と本当の露』《... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本統の賢治と本当の露」カテゴリの最新記事