みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

資料二 賢治に関連して新たにわかったこと

2023-12-27 08:00:00 | 本統の賢治と本当の露
《『本統の賢治と本当の露』(鈴木 守著、ツーワンライフ社)
















********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
  資料二 賢治に関連して新たにわかったこと
 今まで「賢治研究」という観点からは公になっていなかったことで、多分私が初めて公に指摘したり、明らかにしたりしたと思われる主な項目は以下のとおり。
‡‡‡‡‡‡‡ 
・賢治の甥であり、私の恩師でもある岩田純蔵教授が、「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった」という意味のことを述べていた。
・賢治と一緒に暮らしたことのある千葉恭の出身地は真城村折居(現奥州市水沢区真城折居)である。
・恭は大正15年6月22日付で穀物検査所花巻出張所を辞職、昭和7年3月31日に同宮守派出所に正式に復職。
・『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和26)には松田甚次郎が大正15年12月25日に「下根子桜」を訪れたとあるが、甚次郎の日記によればそれは誤りで、当日は旱魃罹災した赤石村を慰問している。
・同日記によれば、甚次郎が「下根子桜」の賢治の許を訪れたのは昭和2年3月8日と同年8月8日の計二回だけである。
・大正15年紫波郡内の赤石村・不動村・志和村・古館村等は大旱魃罹災によって飢饉寸前の惨状にあること、この惨状を知って全国から陸続と救援の手が差し伸べられているということなどが連日のように新聞報道されていた。
・「日照りに不作なし」という言い伝えがあるが、大正15年の紫波郡内の大干魃による惨憺たるこの凶作から、「日照りでも不作あり」という事実を容易に知ることができる。
・和田文雄氏は、「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていて、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていたと主張しているが、その典拠としている肝心の森嘉兵衛著『南部藩百姓一揆の研究』にはそのようなことは書かれていない。
・菊池忠二氏は柳原昌悦本人から、「一般には澤里一人ということになっているが、あの時(大正15年12月の上京の折のこと)は俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども」という証言を直接得ている。
・石川博久氏所蔵の、賢治が直接甚次郎に贈ったであろう『春と修羅』の外箱には、
       草刈
 寝(ママ)いのに刈れと云ふのか/冷いのに刈れと云ふのか
という短い詩が手書きされている(甚次郎によればこれは賢治が詠んだ詩だという)。
・千葉恭は甚次郎を下根子桜の別宅で直に見たと言っているが、それが事実ならば昭和2年3月8日のことである。
・千葉恭は賢治から実家の田圃の〔施肥表A〕〔一一〕等を設計してもらった。
・千葉恭の三男滿夫氏は次のことを証言している。
*穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと父は言っていた。
*父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
*賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかったとも父は言っていた。
*昭和8年当時父は宮守で勤めていて、賢治が亡くなった時に電報をもらったのだが弔問に行けなかったとも言っていた。
*父はマンドリンを持っていた。
*父(千葉恭)の出身地は水沢の真城折居である。
*賢治から父恭に宛てた書簡等もあったそうだが昭和20年の久慈大火の際に焼失してしまったと父は言っていた。
・千葉恭の長男益夫氏は次のことを証言している。
*父は上司との折り合いが悪くて穀物検査所を辞めた。
*父はマンドリンを持っていた。
*父はトマトがとても嫌いだった。
*真城の実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました。その広さ(8反)から言っても実家の田圃に間違いない。
・千葉恭の長男益夫氏の夫人が次のようなことを証言している。
*美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出してもどういうわけかお義父さん(恭)は全然食べなかった。その理由が後で分かった。お義父さんが宮澤賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがない時に朝から晩までトマトだけを食わされたことがあったからだった、ということでした。
*お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
・阿部弥之氏が直接平來作本人に取材した際に、千葉恭も一緒にあの楽団でたまにマンドリンを弾いていた、と平は証言した。
・阿部晁の『家政日誌』からは「羅須地人協会時代」等の花巻の天気や気温等を知ることができる。例えば、
*昭和3年7月5日:本日ヨリ暫ク天気快晴
*同年9月18日:七月十八日以来六十日有二日間殆ント雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ 今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ 稲作モ畑作モ大弱リ
・高瀬露の生家のあった場所は〔同心町の夜あけがた〕に詠まれている「向ふの坂の下り口」(向小路の北端)だった。
・露が当時勤務していた旧寶閑小学校は、現「山居公民館」の東側にあった。
・寶閑小学校勤務当時の露は、交通事情が悪かったので現『鍋倉ふれあい交流センター』の近くに下宿。それも、賄いがつかなかったので自炊の下宿だった。
・当時の鉛電鉄の時刻表等によれば、露の下宿から下根子桜の宮澤家別宅まで行くための往復所要時間は最短でも約4時間だった。
・森荘已池が「下根子桜」を訪ねた際に露とすれ違ったのは「通説では昭和2年の秋」となっているが、森本人はそんなことは言ってはおらず、『宮澤賢治追悼』『宮澤賢治研究』『宮澤賢治と三人の女性』『宮沢賢治の肖像』『宮沢賢治 ふれあいの人々』のいずれにおいても昭和2年以外の年としている。
・『宮澤賢治と三人の女性』の中で、森が露とすれ違ったのは「一九二八年の秋の日、私は下根子…」となっているが、同書で西暦が使われているのはこの個所だけで、その他の38個所は皆和暦である。
・最近、伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が独り歩きし始めているがそれはほぼ間違いで、正しくは昭和2年の秋10月であることが、ある著名な賢治研究家が直接訊いた清六の証言及び藤原嘉藤治宛ちゑ書簡から判断できる。奇しくもそれは、ちょうど露が「下根子桜」訪問を遠慮し出したという昭和2年夏の直後のことになる。
・二葉保育園の責任者の一人が、「基本的には当時の本園の保母はクリスチャンでしたから、伊藤ちゑもそうだったと思います」と証言(平成28年10月22日筆者聞き取り)。
・昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡(243)中の、「演習が終るころはまた根子へ戻って…」の「演習」とは同年10月に岩手県で行われた「陸軍大演習」のことである。
・昭和3年10月4日付『岩手日報』によれば、同年10月に花巻でも行われたこの「陸軍大演習」の際に、第三旅団長が賢治の母の実家「宮善」に泊まっていた。
・「ある時、「下ノ畑」の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった」という証言があり、この「鍛冶町のけんじ」とは八重樫賢師のことであると判断できる。
・賢師に関してはその他に、
*昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館に奔った。
*函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなった。
*花巻農学校の傍で生徒みたいなこともしていた。
*頭も良くて、人間的にも立派だった。
*賢治の使い走りのようなことをさせられていた。
*昭和3年当時、賢師の家の周りを特務機関の方がウロウロしていたということを賢師の隣人が言っていた。
などという縁者の証言がある(なお、賢師はあの『岩手国民高等学校』の聴講生でもあったという)。
・『岩手日報』に連載された関登久也の「宮澤賢治物語(49)セロ(一)」における澤里の証言が、それが単行本化された(昭和32年、つまり関登久也及び父政次郎が亡くなった頃)際に著者以外の何者かによってある改竄がなされた。
・同じ昭和32年頃を境にして、かつての「宮澤賢治年譜」におしなべてあった、
*昭和2年:九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
*昭和3年:一月 この頃より、過勞と自炊に依る榮養不足にて漸次身體衰弱す。
という記述が年譜からなぜか突如消え去ってしまった。
・高瀬露が次女に対して「〔昭和7年に〕賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある」と言っていたと、その次女が露の教え子の妹に話している。
・高瀬露の上郷小学校の勤務形態は
  昭和7年3月31日 上郷高等尋常高等小学校訓導
  昭和8年3月31日 休職
  昭和9年3月31日 復職
  昭和9年3月31日 達曽部尋常高等小学校訓導
であり、露の上郷小学校勤務は昭和8年~9年の2年間だが、昭和8年度は休職しているし、昭和9年度には復職しているが同日に達曽部小学校に異動しているから、実質的な勤務は一年間だけだった。おのずからこの頃に分校勤務をしたこともないと判断できる。
・平成15年に発見されたという関徳弥の『昭和五年 短歌日記』には露に関する記述があるが、その当該日付欄の「曜日」が何者かによって消されている。
 なお、この『短歌日記』の所蔵者(静岡県沼津在住)から私はその閲覧許可をもらって当地に向かっていたならば、本日は都合が悪いという電話が入ってドタキャンされた。
 四ヶ月後再度沼津を訪ねたならば、今度は、同日記は何処にしまったか現在不明で見つからないということだった(因みにこの『短歌日記』は三桁以上の値段で売られたものである)。
・関登久也の「澤里武治氏聞書」や「女人」の生原稿等が日本現代詩歌文学館に所蔵されている。
・平成27年10月11日、私は盛岡でのとある会合で賢治血縁の方と同席できたので、「賢治の出した手紙はお父さん(政次郎)宛を含め、下書まで公になっているのに、賢治に来た書簡は一切公になっていない。賢治研究の発展のために、しかも来年は賢治生誕百二十年でもあり、そろそろ公にしていただきい」とお願いしたところ、
 来簡は焼けてしまったが、全くないわけではない。例えば、最後の手紙となった柳原昌悦宛書簡に対応する柳原からの書簡はございます。
という返事だった。やはり、賢治宛来簡はないわけではなかった。
・澤里武治が74歳頃に書いた自筆の資料の中の〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟には、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり。
ということなどが、〝(その三)「附記」〟には、
 関徳弥氏の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載されその中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
ということなどが書かれている。   〈以上〉
******************************************************* 以上 *********************************************************
 続きへ
前へ 
〝『本統の賢治と本当の露』の目次(改訂版)〟へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
 
***********************************************************************************************************
《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イギリス海岸(12/22、植物) | トップ | イギリス海岸(12/25、前編) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本統の賢治と本当の露」カテゴリの最新記事