岡潔さんの本には情操とか情緒という言葉がよく出てくるのですが、その情緒の中心は「懐かしさ」だと言い、その「懐かしさ」についてこんなふうに書いています。
○理想とか、その内容である真善美は、わたしには理性の世界のものではなく、ただ実在感としてこの世界と交渉を持つもののように思われる。芥川龍之介はそれを「悠久なものの影」という言葉で言い表している。
○理想は恐ろしくひきつける力を持っており、見たことがないのに知っているような気持になる。それは、見たこともない母を探している子が、他の人を見てもこれは違うとすぐ気がつくのに似ている。だから基調になっているのはこの「なつかしい」という情操だといえよう。これは違うとすぐ気がつくのは理想の目によって見るからよく見えるのである。
岡潔さんは「よいものはよい(悪さも同じ)」とはっきりわかるのは、こういう情緒が分らせてくれるのだといいます。また数学は真善美のうちの「真」の調和であり、芸術は「美」の調和であるといい、どちらも、基本になるのは情操教育だといっています。
さて、別のところでは岡潔さんが小学生の時に読んだという「魔法の森」という物語があらすじで紹介されているのですが、それがとてもよく懐かしさの感じが出ているので、ここにも書かせててもらいます。
○森のこなたに小さな村があって、姉と弟が住んでいた。父はすでになく、たった一人の母もいま息を引きとった。おとむらいがすむと、だれもかまってくれない。姉弟は仕方なく、森を超えると別のよい村があるかもしれないと思ってどんどん入っていった。これこそ人も恐れる魔法の森であることも知らないで。
ところが、行けども行けどもはてしがない。そのうち木がまばらになって、ヤマイチゴの一面に実をつけている所へ出た。もうだいぶおなかがすいていた姉弟は喜んでそれをつんだ。ところが天然のイチゴの畑に一本の細い木があって、その枝にきれいな鳥がとまっていた。姉弟がイチゴを食べようとするのを見て「一つイチゴは一年わーすれる、一つイチゴは一年わーすれる」とよく澄んだ声で鳴いた。姉はそれを聞いてイチゴを捨て、食べようとしている弟を急いで引きとめた。しかし弟はどうしても聞かないで、大きな実を十三も食べてしまった。それで元気になった弟は、森ももうすぐ終わりになるだろう、僕が一走り行って見てくるから姉さんはここで待っていて欲しいというや否や走りだして、そのまま姿が見えなくなってしまった。
いくら待っても帰って来ない。そのうちに日はだんだん暮れてくる。この森の中で一晩明かすと魔法にかけられて木にされてしまうので、小鳥は心配して、さっきからしきりに「こっちいこい、こっちいこい、こっち、こっち」と泣き続けているのだが、姉は「いいえ、ここにいないと、弟が帰って来たとき、私がわからないから」といって、どうしてもその親切な澄んだ声の忠告に従わない。
一方、弟の方は、間もなく森を抜ける。出たところは豊かな村で、そこの名主にちょうど子がなく、さっそく引きとられて大切に育てられた。ところがそれから八年過ぎ、九年過ぎだんだん十三という年の数に近づくにつれて、なんだか心が落ち着かなくなっていった。何か大切なものを忘れているような気がして、どうしてもじっとしていられず、とうとう十一年目に意を決して養父母にわけを話し、しばらく暇を乞うて旅に出た。
それからどこをどう旅しただろう。ある日ふと森を見つけ、何だか来たことのあるような所だと思ってしばらく行くと、イチゴ畑に出た。この時がちょうど十三年目に当たっていたため、いっぺんにすべてを思い出し、姉が待っていたはずだと気がついて急いで探す。すると、あの時姉の立っていたところに一本の弱々しい木が生えている。弟は、これが姉の変わり果てた姿だと悟って、その木にすがって思わずはらはらと涙を落した。
ところがそうするとふしぎに魔法がとけた。姉は元の姿に戻り、姉弟は手を取り合ってうれし泣きに泣く。小鳥がまた飛んで来て「こっち、こっち」と澄んだ声で嬉しそうに鳴く。こんどは二人ともいそいそとその後についていって森を出る。養父母も夢かと喜び、その家で姉弟幸福に暮らす。
そして、岡潔さんは次のように言っている。
○この物語全体が一種の雰囲気に包まれていると感じられないだろうか。私には、十三年に近づくに従って大切なものを忘れている気がして・・・という心の状態、その情操というものがひどく印象深く、いつまでもきれいに覚えている。これは慈悲心に目覚めるというだけでなく、心の故郷が懐かしいといった気持ではないだろうか。こうしてこの気持ちがなければ、人の人たるゆえんのもの、つまり理想を描くこともできないのだ。
以上、『春宵十話』からの引用でした。
≪追記≫『春宵十話』を、私は今の今まで「はるよいじゅうわ」と読んでいましたが、ただしくは「しゅんしょうじゅうわ」であるらしい。挟んであっパンフレットにふり仮名があって、はじめて知りました。前回の『春風夏雨』は「しゅんぷうかう」でした。
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