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「運も実力のうち」の真意

2008年11月27日 | 人生

「運も実力のうち」などと言ったりしますが、その通りだと思います。

ただ、「運」という言葉の使い方には、少々気をつけなければいけません。この表現だと「運が良い」ことが、あくまでも「偶然の産物」のような印象を与えてしまい、必ずしも適当でない可能性もあります。

「運任せ」という言葉があったりもします。もはや、自分ではどうにもならず、どうなるかも分からないから、あとは成り行きに任せるということですが、その「運任せ」と「運も実力のうち」とを掛け合わせると、「運」で成功した実力者は、何もせずに偶然成功してしまったということになり兼ねません。もちろん、そういう側面もあるかと思います。あるいは、そのように見えて当然と言える部分もあるでしょう。

しかし、世界で起こっていることの偶然は、全て必然であるという考え方もあります。そのように考えた場合、一見偶然のように思われる必然の事象に命運を託すということが、極めて高度なテクニックであるということにもなるのです。こうした高度なテクニックを使いこなすためには、物事における必然とは何かを見抜き、それにしたがって行動する力が求められます。この力こそが、「運」で成功する実力者の力の源泉であるとも言えるわけです。

こうなると、「運」は単なる「運」ではなくなります。一般的に偶然と解され兼ねない「運」は、実力者から見たときには明白なる必然なのです。こうした視点で捉えたとき、「運任せ」という意味の解釈は、「運」に身を任せるという消極的な側面だけではなく、「運」を積極的に使っていくというような意味合いをも含まなければなりません。

また、まずもって「運」とは何かということについて考えることも、非常に重要なことでしょう。一言で「運」と片付けてしまっていた偶然に見える事象に対して、必然性があると考えるとしたら、その正体を突き詰めて考察することは、極めて大切です。ひとつ明らかなことは、「運」の正体を表層意識のレベルで、感じ取るということは、なかなか難しいことだということでしょう。しかし、答えに結びつくヒントは、たくさんあると思います。言葉とは、非常に便利なもので、何かひとつの表現をすることで、伝えたい概念をある程度明確にすることはできますが、一方でそれに囚われた概念に繋ぎ止めてしまう効果を生んでしまいます。「運」という言葉が表す概念には、いわゆる一般的に言われる「運」ということ以外に、もっと深いところで別の顔を持つということに気付けるかどうかということかもしれません(「既にある結論」、「集合的無意識の力」、「宗教が説く真理」等参照)。

いずれにせよ、「運」という言葉について、私自身の感覚を述べるならば、私にとっての「運」とは頼るべき対象ではないということです。それは即ち、「運」とは自分が制御すべき対象であり、あくまでも目的を果たすための道具であるということです。

若干、異なる事例になるかもしれませんが、ある人物の紹介をするナレーションで「○○さんは時代の波に乗り・・・」云々という言葉を聞いたことがあります。言葉の使い方として、こうした表現を否定するつもりはありませんが、私にとって「時代の波」というのは、けっして乗るものではありません。時代と自分とは、既に一体化しているものであり、むしろ自分自身が「時代の波」そのものであるという感覚です。こういう感覚にある状態において、「運」を掴むとか、「運」に委ねるという言葉は、少々私の感覚とズレているように思うのです。あらゆる「時代の波」は、私にとっての必然であり、それを大きく動かしている「運」は、見えないながらも、自ずと手の中に納まっている感覚です。

「運も実力のうち」という言葉について、いろいろと考えてみると、実力とは何か、実力を行使した結果の成功とは何か、その成功ための秘訣とは何か等、いろいろと見えてくるものがあるかもしれません。

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