常識について思うこと

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ツンデレに見る世界

2008年11月02日 | 人生

そもそも、ツンデレとは何かという説明が必要かもしれません。

ツンデレとは、いわゆる「萌え」のひとつの代表的な構成要素であると言えます。例えば、あるアニメの女の子キャラクターが、好きな人に対して「ツンツン」とした冷たい態度をとってみたり、「デレデレ」と甘えてみたりということを指して、「ツンデレ」と表現するわけです。そうしたツンデレなキャラクターがウケタこともあり、秋葉原のような場所を中心に、メイドカフェと組み合わさったツンデレカフェなるものがあると言います。私は行ったことがありませんし、詳しくもないので、この説明はいたしませんが、いずれにせよツンデレとは、愛情の表現として、大きく矛盾した態度をとることを指していると言えるでしょう。

ところで、このツンデレは、ごく自然のことであると思います。それは、人間という存在が矛盾した行動をとる(「大きな矛盾を抱えるべし」参照)ことを宿命づけられており、「好き」とか、「愛している」という表現自体が、矛盾したかたちで表出するということは、極めて当然であると言えるからです。とくに深く大きな愛情を持てば持つほど、ツンデレは激しくなるはずです。

アニメキャラクターが、そうしたツンデレを通じて見せてくれるのは、その世界における純粋な愛です。ある女の子が、男の子にとるツンデレは、真にその男の子を愛しているからこそ成立するのであり、また信じているからこそ成せる態度なのだろうと思います。現実世界に希望を失いかけている男子は、こうしたツンデレを通じて、「あんな純粋な女の子がいたら、かわいいはずだ」と思ったり、「自分もあのように愛されたい」と願うのでしょう。この心境は、十分理解し得ますし、またそれが、ツンデレがウケル理由だとも思います。もちろん「愛されたい」と思うなら、その前に自分自身が愛されるに値する人間になるように、日頃から努力するということの重要性は言うに及びません。したがって、自分自身が一所懸命生きている、頑張って自己を高めているという努力をしているのであれば、そうした人々が、ツンデレキャラクターに憧れるくらいは、きちんと認められるべきだとは思います。

ところで、このツンデレは、何もアニメの世界だけではありません。具体的な表出形態や程度の差はあれ、現実世界の愛情表現についても、その多くがツンデレによって成り立っていると言えると思います。単純に言えば「深く包み込む愛」、「厳しく突き放す愛」のどちらも愛であることに変わりなく、その奥にあるものは、等しく相手を思う心から発するものなのです。その二つの間にあるものは、状況や立場の違いであり、それによって愛情の表現が変わるということです。

とくにツンデレのうち、「デレ」は分かりやすいでしょう。「デレ」のときというのは、その人に甘えたり、その人を甘えさせたりしているのであり、「愛している」とか「信じている」とかいう感情を表層意識のレベルで、分かりやすいかたちに表現していると言えます。

一方の「ツン」は、なかなか分かりにくいものです。そもそも「ツン」というのは、その人が「愛している」、「信じている」、あるいはその人に「愛されている」、「信じてもらえている」ということを認識することが難しい状態です。場合によっては「嫌っている」、「嫌われている」と受け取られるような態度になってしまうのが、「ツン」であるわけです。

この「ツン」を愛情の一表現であると感じるためには、「ツン」をしている側にも、されている側にも、人間として一定の成熟度が必要になります。それは、互いが「ツン」にならざるを得ない状況があることを認め、そのなかで双方において「ツン」を受け入れるという度量、あるいは勇気が必要であるとも言えます。

宗教を例に挙げて、説明したいと思います。

宗教というものは、困窮した人々を救済するという意味から、「デレ」の側面を強く有します。前述のとおり、「デレ」から愛を連想することは、容易いと言えます。しかし一方で、救済が完了し、もはやそれがなくても生きている人々に対してまで、「デレ」であり続けるということは、その人を甘やかせてしまい、結果として、その人を堕落させてしまうことに繋がります。こうした局面においては、突き放す愛たる「ツン」が必要なのです(「外れない補助輪と外す努力」参照)。しかし、突き放すには勇気が必要になりますし、それを受け止める側にも、それが愛であると理解する度量が求められるということです。これを換言すれば、「ツン」を愛と認めるためには、人間として成熟していることが必要だということなのです。

このことを、もう少し踏み込んだかたちで捉えると、「嫌い」も愛情の一形態であることを理解できるかもしれません。もし「嫌い」を愛情ではなく、単なる「嫌い」という感情でしか受け止められていないとしたら、それは「嫌い」と感じている人が、自分自身の人間としての成熟度を疑う必要性があるということにも繋がります(「他人は自分の鏡」参照)。

「好き」も「嫌い」も、愛情と捉えられるかどうかは、その感情を抱く本人次第です。そして、そうした感情を乗り越えることこそが、成熟した人間への道のりであり、生きていく意味になるのではないかと思います(「感情の主人たれ」参照)。

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